3話「深淵の歌」
出発の朝は、曇りだった。
灰色の雲が空を低く覆い、ハルシュタットの街を薄暗い翳りの中に沈めている。風灯はまだ消えておらず、朝だというのに通りには夜の残照のような淡い光が漂っていた。
港でリンデ号の最終点検をしているルーシェの横で、アウリィは手すりに腰かけて足をぶらぶらさせながら、フェンから受け取った地図を広げていた。
「ここが最後に深淵嵐が発生した場所──カラン礁域。ハルシュタットから北東に半日。今は無人の岩礁群だけど、三ヶ月前までは小さな集落があった。住民は嵐の前兆を感じて避難したから死者は出なかったけど、島自体は消えた」
「前兆?」
「精霊の様子がおかしくなるらしい。風精石の光が消えて、風灯が点かなくなって。動物たちが一斉に逃げ出す。それが起きたら三日以内に嵐が来るって、経験則で知られてる」
「精霊が先に異変を感じるんだ……」
アウリィは地図に視線を落としたまま、意識の一部を風の精霊に向けた。周囲の精霊たちの気配を探る。ハルシュタットの精霊たちは平穏だが、北東の方角に意識を伸ばすと──微かに、ざわめきがあった。不安の残響。嵐が過ぎ去った後にも消えない、かすかな恐怖の余韻。
「精霊さんたちが言ってる。あの方角には、まだ何か残ってるって」
「残ってる?」
「嵐の……傷跡みたいなもの。精霊の世界にも、傷は残るんだね」
ルーシェは手を止めて、北東の空を見上げた。曇天の灰色の向こうに、何が待っているのか。その目に一瞬だけ揺れた感情を、アウリィは見逃さなかった。
「ルーシェ、怖い?」
「……少しな」
正直な答えだった。ルーシェは視線を落とし、レンチを握り直した。
「あたしの親が消えたのも、カラン礁域に近い島だった。当時はもっと南だったけど、同じ深淵嵐だ。あたしが六つの時。ばあちゃんと一緒に港にいて、空が真っ黒になって──」
言葉が途切れた。ルーシェは唇を引き結び、レンチでボルトを締めた。ぎりぎりと金属がきしむ音が響く。
「ルーシェ」
「大丈夫。行くって決めたのはあたしだ。覚悟はできてる」
「うん。でもね、怖いときは怖いって言っていいんだよ。ボクに言ってくれたら、ボクが一緒に怖がるから」
「一緒に怖がってどうすんだよ」
「一人で怖いより、二人で怖いほうがマシでしょ?」
ルーシェが顔を上げた。呆れたような、それでいてどこか救われたような顔。
「……ほんと、あんたって変な子」
「えへへ」
出発前に、フェンが港まで見送りに来てくれた。杖をつきながらゆっくりと歩いてくる老精霊学者の姿は、朝靄の中ではずいぶん小さく見えた。
「これを持っていけ」
フェンが差し出したのは、掌に収まるほどの水晶球だった。内部に淡い緑色の光が揺らめいている。
「精霊共鳴器だ。わしが作った。精霊の力の流れを可視化できる。不均衡が生じている場所では、光の色が変わる。赤くなったら近づくな──嵐の前兆だ」
「わぁ、きれい……! ありがとう、フェン!」
「礼はいらん。その代わり──」
フェンの深緑の目が、真剣な光を帯びた。
「無理はするな。お前さんの精霊術は桁違いだが、深淵嵐の力もまた桁違いだ。危険を感じたら引け。お前さんたちが無事に戻ることが、何よりの成果だ」
「約束するよ」
「あたしも気をつけます」ルーシェが敬礼のような仕草をした。「爺さんの弟子みたいなもんですからね、一応」
「弟子だったことはない。勝手に研究室に入り浸ってただけだろう」
「同じことですよ」
フェンが鼻を鳴らした。しかしその口元には、わずかな笑みがあった。
ナディアも駆けつけてきて、大きな包みを渡してくれた。
「食料よ。空魚の燻製と、空麦のパンと、保存の利く果物。足りなくなったら戻ってきなさい」
「ありがとう、ナディアさん!」
「気をつけてね、二人とも。特にルーシェ、あんたは無茶しがちなんだから」
「わかってるよ」
係留索が解かれ、リンデ号はハルシュタットの港を離れた。アウリィが風導器に精霊の力を送り込み、船はゆっくりと上昇していく。眼下で手を振るフェンとナディアの姿がどんどん小さくなっていく。
「行ってきまーす!」
アウリィが甲板から身を乗り出して叫ぶと、風が声を運んでいった。風の精霊たちが、まるで出発を祝うように船の周囲をくるくると舞っている。
曇り空の下、リンデ号は北東へ舵を切った。
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飛行が二時間ほど経った頃、雲の色が変わり始めた。
それまでは均一な灰色だった雲が、北東に進むにつれて暗さを増していく。灰色から鉛色へ。鉛色から墨色へ。まるで空に墨汁を垂らしたような、不吉な暗がりが前方に広がっている。
「雲行きが怪しいな」
ルーシェが風向計を確認しながら呟いた。計器の針が不安定に揺れている。
「気流が乱れてる。ここから先は慎重に行くよ。精霊の状態はどうだ?」
アウリィは精霊共鳴器を取り出した。水晶球の中の光は、まだ緑色だ。しかし──揺れている。穏やかだった光が、小刻みに明滅して不安定になっている。
「まだ大丈夫。でも、精霊さんたちが緊張してきてる」
風の精霊たちの気配が変わっていた。さっきまでの陽気さが薄れ、身を寄せ合うような、怯えた犬が主人の足元に集まるような気配になっている。アウリィの周囲に集まる精霊の密度が上がっていた。
「ボクの近くにいると安心するみたい。あのね、ルーシェ。精霊さんたちが言ってるんだけど、この先の空域には──『声』があるんだって」
「声?」
「雲の下から聞こえてくる声。精霊たちにしか聞こえない声。それが精霊を怖がらせてるの」
ルーシェは眉をひそめた。
「深淵嵐に関係してるのか?」
「わからない。でも、その声が強くなると精霊が逃げ出して、島の浮遊力が失われる──フェンの仮説と一致するよ」
「厄介だな……」
さらに一時間。
前方に、カラン礁域が見えてきた。
──否。「見えた」というのは正確ではない。そこには、何もなかった。
島があったはずの空間に、ぽっかりと虚が口を開けていた。周囲には砕けた岩の欠片がいくつか浮遊していて、かつてそこに陸地があったことを示している。欠片の表面には焼け焦げたような黒い痕跡があり、精霊鉱脈の青白い光は完全に消えていた。死んだ岩だ。精霊の力を失い、浮遊する力すら残っていない欠片が、惰性のように漂っている。
そして──その空間の中心に、何かがあった。
「あれは……」
アウリィは目を凝らした。暗い空気の中に、さらに暗い何かが揺らめいている。靄のような、霧のような、しかし普通の霧とは明らかに異質な──黒い渦。ゆっくりと回転しながら、空間の一点に留まっている。大きさは人の背丈ほど。嵐ではなく、嵐の残した傷痕のようなもの。
精霊共鳴器の光が、緑から黄色に変わった。
「近い。不均衡の発生源に近づいてる」
「止めるか?」
「もう少しだけ。あの黒い渦が何なのか、確かめたい」
ルーシェは逡巡した。しかし、アウリィの表情を見て──好奇心だけでなく、真剣な決意があることを読み取って──小さく頷いた。
「あたしが操船を維持する。何かあったらすぐに離脱するぞ」
「うん」
リンデ号は速度を落とし、黒い渦に慎重に近づいていった。
距離が縮まるにつれて、アウリィの意識の中に異変が生じた。風の精霊たちの怯えが増している。それだけではない。アウリィ自身の感覚にも、何かが触れ始めていた。
声だ。
精霊たちが言っていた声。低く、深く、底なしの井戸の奥から響いてくるような声。言語ではない。感情でもない。それはもっと根源的な何か──世界の裂け目から漏れ出す、存在そのものの軋みのような音。
「……聞こえる」
「え?」
「声が。雲の下から。精霊さんたちが怖がってるのはこれだ──世界が、軋んでる」
アウリィは風導器に触れたまま、精霊共鳴器を掲げた。水晶球の光が黄色から橙色に変わりつつある。まだ赤ではない。だが近い。
「あの渦は、深淵嵐の傷跡なんかじゃない。傷口だ。まだ開いてる。ここから何かが──下の世界から何かが、漏れ出してる」
「下の世界? 雲の下ってこと?」
「うん。雲の下に何があるかは誰も知らないんだよね? でも精霊さんたちは知ってる。下には──」
アウリィは精霊の波動に耳を澄ませた。風の精霊たちが伝えてくる感覚を、言葉に変換しようとする。
「──『虚ろ』がある。空っぽの場所。何もない場所。そこから、何もなさが這い上がってくるの。島を呑むのは嵐じゃない。虚ろそのものが膨張してるんだ」
「何を言って……」
ルーシェの声が途切れた。
黒い渦が、脈動した。
ぐん、と空気が引っ張られる感覚。アウリィの身体が一瞬、渦に向かって吸い寄せられた。手すりを掴んで踏みとどまる。リンデ号の船体が嫌な軋みを上げ、甲板の上の荷物がずるりと滑った。
「吸引力がある──離れるぞ!」
ルーシェが操舵輪を切った。リンデ号が急旋回する。しかし、渦の引力に逆らうように船体が重くなる。風導器が悲鳴のような音を立てた。
「アウリィ! 出力を!」
「わかった──!」
アウリィは両手を風導器の接続口に押し当てた。精霊たちに呼びかける。怖いのはわかる。でも今、力を貸して。ボクたちを安全な場所まで運んで。お願い──。
風の精霊たちが応えた。怯えながらも、アウリィの声に応えて力を集めた。翠色の光が爆発的に膨れ上がり、風導器を通じて船体全体に行き渡る。プロペラが唸りを上げ、リンデ号は渦の引力を振り切って加速した。
渦から距離を取ると、吸引力は急速に弱まった。百メートルほど離れたところでルーシェが船を止め、二人は荒い呼吸を整えた。
「……危なかった」
「うん……」
アウリィの手が小さく震えていた。恐怖ではない。精霊たちの怯えが、自分の身体に伝染したのだ。精霊と深く繋がれば繋がるほど、彼らの感情も流れ込んでくる。
「大丈夫か?」
「大丈夫。精霊さんたちも落ち着いてきた。──ごめんね、怖かったよね」
最後の言葉は精霊たちに向けたものだった。アウリィの周囲を巡る風の流れが、少しずつ穏やかさを取り戻していく。
「ルーシェ、精霊共鳴器」
水晶球を確認する。光は橙色のまま。赤にはなっていない。つまり、あの渦は深淵嵐そのものではなく、その前段階──あるいは残響。
「今のでわかったことがある」
「何が」
「あの渦は一方通行じゃない。下から何かが漏れ出してるけど、上からも何かが──精霊の力が、下に流れ落ちてる。島の精霊鉱脈の力を吸い取ってたんだ。だから島の浮遊力が失われて、最終的に島ごと落ちる」
「……精霊の力を、下の虚ろが吸い上げてるってこと?」
「吸い上げてるっていうか……穴が開いてて、そこから流れ出していってるんだと思う。栓が抜けた浴槽みたいに」
ルーシェは操舵輪を握ったまま、暗い空を見つめた。
「穴を塞ぐ方法は?」
「……わからない。でも、穴がどうやってできるのかがわかれば、手がかりにはなるかも」
「どうやって調べる」
「もう一箇所、見てみたい。フェンの地図に、もう一つ嵐の発生点が記されてた。ここから南西の──」
「ヴェーラの涙、か」
ルーシェが低く呟いた。
「知ってるの?」
「ああ。半年前に消えた島だ。あそこは──あたしの両親が最後にいた島の近くだ」
沈黙が落ちた。風だけが二人の間を通り抜ける。
「行ける?」
「……行く」
ルーシェの声は静かだった。震えてはいなかった。十年以上抱え続けてきた痛みの上に築かれた、静かな覚悟。
リンデ号は方向を転じ、南西へ向かった。
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ヴェーラの涙に到着したのは、日が傾き始めた頃だった。
カラン礁域と似た光景だった。島が消えた空間。浮遊する岩の欠片。黒い渦。しかし、ここの渦はカラン礁域のものより大きかった。人の背丈の三倍はあり、回転する速度も速い。渦の周囲の空気が歪んで見え、その向こう側の景色が陽炎のように揺らめいている。
精霊共鳴器の光が、到着と同時に橙色から赤みを帯び始めた。
「近づけないな、こっちは」
「うん。でも……」
アウリィは目を閉じて、精霊の波動に耳を澄ませた。ここの風の精霊は──ほとんどいない。怯えて逃げ出したのだ。残っているのは、逃げられなかった精霊たちの微かな気配だけ。弱々しく、消えかけの蝋燭の炎のように揺らめいている。
「……助けなきゃ」
「何?」
「逃げ遅れた精霊さんたちがいる。渦に近すぎて逃げられないの。力が吸われ続けて、消えかけてる」
アウリィは甲板の縁に立った。渦との距離は二百メートルほど。これ以上船を近づけるのは危険だ。しかし、精霊術の範囲を最大まで広げれば──。
「ルーシェ、ここで船を保持してて。ボク、精霊さんたちに手を伸ばす」
「おい、さっきの吸引力を忘れたのか?」
「身体は動かさないよ。意識だけ」
アウリィは甲板に正座し、背筋を伸ばした。目を閉じ、両手を膝の上に置く。呼吸を整え、意識を極限まで研ぎ澄ませる。
感覚が拡がった。
自分の身体という殻を超えて、意識が風になる。空気の流れに溶け込み、精霊たちの波動の網の目をたどって、渦の縁へ。
──いた。
三つの気配。弱く、消え入りそうな、風の精霊たち。渦の引力に捕らわれて、力を吸われ続けている。あと少しで消えてしまう。精霊が消えるということは、死ぬということではない。ただ、力を失って散逸し、二度と元の個に戻れなくなる──風そのものに溶けて、意識を失うこと。
──大丈夫。ボクが引っ張るから、ボクの声について来て。
意識を精霊たちに向けて投げかける。温かさを。安心を。この世界に来てから感じた全ての喜び──空の美しさ、焼きたてのパンの温かさ、ルーシェの笑顔、フェンの優しい目、ナディアの威勢のいい声──その全てを、精霊たちに送る。
精霊たちが反応した。微かに、しかし確かに、アウリィの意識に向かって動き始めた。
渦が抵抗した。引力が増す。精霊たちを引き戻そうとする暗い力。アウリィは歯を食いしばり、意識を手放さなかった。
──離さない。ボクは離さないよ。
ぐん、と。
三つの微かな光が、渦の縁を超えた。弱々しい風の精霊たちが、アウリィの意識の導きに従って、渦の引力圏から脱出した。
アウリィの身体に、三つの温かな気配が飛び込んできた。
「……っ、はぁ……はぁ……」
目を開けると、視界がぐらぐらと揺れていた。精霊力を大量に消費した反動で、身体中から力が抜けている。倒れそうになった身体を、ルーシェの腕が支えた。
「おい、大丈夫か!?」
「だいじょぶ……精霊さんたち、助けられた……」
アウリィの周囲で、救出された三つの精霊が弱々しくも確かな光を灯していた。他の精霊たちが寄り集まって、傷ついた仲間を包み込むように温めている。
「無茶しやがって……」
「でも、助けられてよかった。それに──」
アウリィは息を整えながら、目を見開いた。
「わかった。渦の正体が」
「何?」
「あの渦の中を覗いたの。精霊さんたちを引っ張り出すとき、一瞬だけ、渦の奥が見えた。あの向こうにあるのは──虚無じゃない」
アウリィはゆっくりと身体を起こした。ルーシェの腕に支えられたまま、暗い空に浮かぶ黒い渦を見つめる。
「あの向こうには、もう一つの空がある」
「もう一つの空?」
「ここと反転した空。島が下を向いて浮かんでる、鏡の中みたいな世界。そこの精霊たちが苦しんでる。力が足りなくて、自分たちの世界を支えられなくて、だから上の世界──ここから力を引っ張ってるんだ」
ルーシェは呆然としていた。
「じゃあ深淵嵐は……」
「下の世界が崩壊しかけてて、上の世界から力を吸い上げてる現象。穴が開くのは、下の世界の島が落ちた場所。下で島が落ちると、その衝撃で世界の境界に穴が開いて、上の世界の精霊力が流れ落ちる。そうすると上の世界でも島が──」
「連鎖する。下が崩れれば上も崩れる」
「うん」
重い沈黙が落ちた。
風の精霊たちが、アウリィの周囲で震えている。この世界の根幹に関わる問題。一人の旅人と一人の整備士にどうにかできるような規模の話ではない。
でも。
「帰ろう、ルーシェ。フェンに伝えなきゃ」
「ああ……」
ルーシェは操舵輪を握り直し、リンデ号を反転させた。ヴェーラの涙が背後に遠ざかっていく。
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帰路は重い空気の中だった。
アウリィは船室の狭いベッドに横になっていた。精霊力の消耗が激しく、身体がまだ言うことを聞かない。助けた三つの精霊が、アウリィの枕元で微かな光を灯しながら寄り添っている。
操舵はルーシェが一人でやっていた。風導器への精霊力の供給は、アウリィが細い意識の糸で維持しているが、出力は最低限だ。リンデ号はゆっくりと、夕暮れの空を南西に進んでいた。
「ねえ」
船室の入り口に、ルーシェの影が立った。自動航行に切り替えて、様子を見に来たのだろう。
「調子どう」
「だいぶ良くなってきた。もう少し休めば平気だよ」
「……なら、いいけど」
ルーシェは船室に入ってきて、ベッドの端に腰を下ろした。狭い空間に二人分の体温が満ちる。
「さっきの話。下の世界のこと」
「うん」
「あたしの親を呑んだ嵐も、下の世界の崩壊が原因だったってことだよな」
「多分、そう」
「なら──下の世界の人たちは、わざとやってるわけじゃない。自分たちの世界が壊れそうだから、必死に足掻いてるだけだ。悪意はない」
アウリィはルーシェを見上げた。ルーシェの横顔は、夕日に照らされて橙色に染まっている。その目には怒りも恨みもなく、ただ静かな悲しみがあった。
「憎めないんだよ。あたしの親を殺した原因が、ただの自然現象とか、悪い奴の仕業とかだったら、まだ憎める対象があった。でも、自分の世界を守ろうとしてる人たちのせいだって言われたら──憎めないだろ」
「……うん」
「じゃあ、この悲しみはどこに持っていけばいいんだろうな」
その問いに、アウリィは答えられなかった。
記憶がない。数万年の経験がない。似たような状況に遭遇したかもしれない。答えを持っていたかもしれない。けれど今の自分には何もない。空っぽの引き出しの中に、ルーシェの痛みを受け止めるための言葉が見つからない。
だから、言葉ではなく、手を伸ばした。
ルーシェの手に、自分の小さな手を重ねた。
「わかんないよ、ボクには。答えは持ってない。でも──」
「でも?」
「一緒に探すことはできるよ。答えがどこにあるのか、一緒に」
ルーシェの手が、ぴくりと動いた。アウリィの手を握り返すでも、振り払うでもなく、ただそこにあった。数秒。十秒。三十秒。
やがて、ルーシェの指がゆっくりとアウリィの手を包んだ。大きくて、硬くて、あたたかい手。整備士の手。機械と空と、風の匂いがする手。
「……あんたは、この世界の旅が終わったらいなくなるんだろ」
不意に放たれた言葉に、アウリィの胸が小さく軋んだ。
「……うん。多分」
「次の世界に行って、また記憶を封印して、ボクたちのことも忘れる」
「旅が終われば記憶は戻るよ。忘れるわけじゃない。封印するだけ」
「でも、次の世界のあんたにとっては、あたしは存在しないのと同じだ」
その言葉は正しかった。残酷なほどに正しかった。
次の世界のアウリィにとって、ルーシェは存在しない。フェンも、ナディアも、ハルシュタットの風灯も、リンデ号の操舵輪も、空魚のグリルの味も。全ては封印の向こう側に消える。記憶は保存される。でも、それは本棚の奥にしまい込まれた本と同じだ。読み返される日は──次の旅が終わるまで来ない。
「そうだね。次のボクにとっては、ルーシェは知らない人だ」
正直に、言った。嘘をつくことはできなかった。ルーシェは正直な人だから、自分も正直でいたかった。
「でもね」
アウリィはルーシェの手をぎゅっと握った。
「今のボクにとっては、ルーシェはとても大切な人だよ。この世界で最初に出会った人。一緒に空を飛んでくれた人。怖い場所に一緒に来てくれた人。ボクの短い記憶の中の、一番大きな存在」
「……」
「それは変わらない。記憶を封印しても、統合した時にちゃんと思い出す。数万年の記憶の中に、ルーシェとの時間が加わるの。消えないよ。絶対に」
ルーシェは下を向いていた。その肩が微かに震えていることに、アウリィは気づいた。
「……泣いてる?」
「泣いてない」
「泣いてもいいんだよ」
「泣いてないっつってんだろ」
声が掠れていた。アウリィは何も言わず、ルーシェの手を握り続けた。船室の小さな窓から、夕日の最後の光が差し込んでいる。二つの影が、壁に重なって映っていた。
やがて、ルーシェが顔を上げた。目が少し赤いが、涙の跡はない。意地で拭ったのだろう。
「あたしの話もしていいか」
「うん」
「あたしの親──父さんと母さんは、二人とも飛空艇乗りだった。あたしは船の上で生まれた。空の子だって、ばあちゃんはよく言ってた。父さんは操舵士で、母さんは機関士。二人で一隻の船を動かしてた」
「素敵だね」
「ああ。──あの日、二人は辺境の島に荷物を届けに行ってた。あたしはばあちゃんとハルシュタットに残ってた。そしたら空が真っ黒になって、嵐が来て──」
ルーシェは一度言葉を切った。深呼吸をして、続けた。
「二人の船は見つからなかった。島ごと消えたから。何も残らなかった。あたしの手元に残ったのは、母さんが使ってたレンチ一本だけだ。出発前に港に置き忘れてたやつ。今でも工具箱に入ってる」
「……ルーシェ」
「だからあたしは飛空艇の整備士になった。二人が愛した船を、空を、守りたかった。それが──あたしなりの、弔いだったんだと思う」
ルーシェは窓の外を見た。夕焼けの空。もう何度も見た景色。でも、一つとして同じ夕焼けはない。
「深淵嵐の原因がわかったところで、二人は戻ってこない。でも──」
「でも?」
「同じことが繰り返されるのは、嫌だ。他の誰かの親が、子供が、大切な人が、嵐に呑まれるのは嫌だ。だから──」
ルーシェがアウリィを見た。まっすぐに、強い目で。
「あたしも一緒に探す。答えを。この世界を救う方法を。あんたが次の世界に行くまでの間、一緒に」
アウリィは笑った。泣きそうな笑顔だったかもしれない。でも、笑った。
「うん。一緒に」
リンデ号が、夜の空を進んでいく。前方の闇の中に、ハルシュタットの風灯が小さく見え始めていた。帰る場所がある。待ってくれている人がいる。それだけで、闇は怖くなかった。
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ハルシュタットに戻ったのは深夜だった。
港は静まり返っていたが、風見鶏亭だけは灯りが点いていた。ナディアが起きて待っていてくれたのだ。疲弊した二人に温かいスープとパンを出してくれて、「話は明日聞くから今日は寝なさい」と有無を言わせぬ笑顔で言った。
食堂の隅に用意された簡易ベッドに横になりながら、アウリィは日記帳を開いた。疲れた身体で、それでもペンを取る。
『カラン礁域とヴェーラの涙に行った。深淵嵐の正体がわかった。この世界の下に、もう一つの世界がある。そこが崩壊しかけていて、この世界の力を吸い上げている。穴を塞ぐ方法はまだわからない。でも、原因がわかったのは大きい。ルーシェと色々な話をした。ボクがいなくなることについて。記憶を封印することについて。ルーシェのお父さんとお母さんのことについて。──書いていて思う。ボクはこの世界で、大切なものを見つけてしまった。それがいつか封印の向こうに消えることが、少しだけ怖い。でも、怖いからこそ、一秒も無駄にしたくない。明日からのことを考えよう。この世界のために、ボクにできることを』
ペンを置いて、目を閉じた。
隣のベッドから、ルーシェの寝息が聞こえてきた。もう眠ったのだ。疲れていたのだろう。操船は重労働だ。それを一日中、ほぼ一人でやってくれた。
「ありがとう、ルーシェ」
聞こえないとわかっていて、呟いた。
風の精霊が一つ、アウリィの額にそっと触れた。温かくて、優しい風。おやすみ、と言われた気がして、アウリィは微笑みながら眠りに落ちていった。
彼岸花の髪飾りが、風灯の微かな光を受けて、静かに赤く燃えていた。




