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2話「風を纏う翼」

 夜明け前の空は、深い藍色をしていた。


 東の空がほんのわずかに白み始めた頃、アウリィは風の精霊たちに頬を撫でられて目を覚ました。毛布を剥ごうとする悪戯っぽい微風。くすぐったくて、思わず笑いながら身体を起こす。


「んん……おはよう、精霊さんたち。もうちょっと寝かせてよぅ」


 だめだめ、と言わんばかりに風が耳元でくるくると渦を巻く。見ると、少し離れた場所でルーシェがすでに動いていた。焚き火の残り火を蹴り消し、テントを手際よく畳んでいる。


「起きたか。風の状態がいい。今のうちに出るよ」


「うん!」


 眠気が一瞬で吹き飛んだ。今日はハルシュタットへ向かう日だ。空を飛ぶのだ。アウリィは跳ね起きて毛布を丸め、手早くトランクに押し込んだ。


 ルーシェに案内されて島の反対側へ回ると、そこに飛空艇が係留されていた。


「わあ……!」


 思わず声が漏れる。


 全長十メートルほどの小型の船だった。木と金属の複合船体。流線形の胴体の両舷から短い翼が張り出し、翼の先端には回転翼のプロペラが据えられている。船首は鋭く尖り、船尾には舵板とともに複雑な配管が走る推進装置が見えた。船底からは、昨日ルーシェが分解していた風導器に繋がる導管が蔦のように這い回っている。


 船体の塗装はところどころ剥げ、翼の端には補修の跡があり、甲板の手すりには油が染みて黒くなっている。お世辞にも新品とは言えない。だがその佇まいには、使い込まれたものだけが持つ風格があった。


「名前は『リンデ号』。あたしの相棒だよ」


 ルーシェの声に、誇りがにじんでいた。


「リンデ号……いい名前。リンデって何?」


「菩提樹の古い呼び方。ばあちゃんが昔乗ってた船から取った」


「おばあちゃんも飛空艇乗りだったの?」


「ああ。腕のいい操舵士だったよ。あたしに機械いじりを教えてくれたのもばあちゃんだ」


 ルーシェは船体の側面にある梯子を引き下ろし、ひらりと甲板に飛び乗った。続いてアウリィも登ろうとして──梯子の段の間隔が自分の足には少し広いことに気づいた。


「よい、しょ、っと……」


「手ぇ貸そうか?」


「だ、大丈夫──わっ」


 足を滑らせかけたアウリィの手を、ルーシェが掴んで引き上げた。小柄な身体が宙に浮いて、あっさりと甲板に着地する。


「軽いな、あんた」


「ボク小さいからね!」


「自分で言うか……」


 甲板は狭いが整頓されていた。操舵輪のある操縦席、計器類が並ぶ制御盤、小さな船室への入り口。そして甲板の中央に据えられた、ガラスと金属の筐体に収められた風導器。昨日ルーシェが組み直したものだ。


「ここに精霊の力を流し込んでほしい」


 ルーシェが風導器の上部にある水晶の接続口を指差した。本来なら風精石がはめ込まれる場所だ。


「風精石の代わりにあんたが直接繋がるわけだから、負荷はあると思う。辛くなったら言ってくれ」


「わかった」


 アウリィは風導器の前に立ち、目を閉じた。意識を広げる。風の精霊たちが集まってくる。島の精霊だけでなく、空を漂う精霊たちもアウリィの呼びかけに応じて寄ってきた。


 ──お願い。この船に、風の力を。


 掌を接続口にかざすと、翠色の光が指先から流れ出した。光は水晶を伝って風導器の内部に浸透し、配管を通じて船体全体に行き渡っていく。リンデ号が、微かに震えた。


「動いた……! 圧力安定、回転翼起動──嘘だろ、出力が風精石の時より高いぞ」


 ルーシェが計器を見て目を丸くした。操舵輪を握り、レバーを引く。プロペラが回転を始め、低い唸りが空気を震わせた。


「係留索、切るよ!」


 ルーシェが叫び、ロープを切り離す金属音が響いた。


 ──浮いた。


 ゆっくりと、しかし確実に、リンデ号が岩場を離れていく。船底と地面の間に空間が生まれ、それが見る間に広がっていく。島の縁を越え、虚空へ。


「うわぁ……!」


 アウリィは甲板の手すりに駆け寄った。風導器から手を離しても大丈夫なのか一瞬迷ったが、精霊との接続は意識で維持できると直感的にわかった。身体が覚えている。


 眼下に、目覚めた場所の島が遠ざかっていく。苔むした岩場。白い花の蔓草が巻いた林。小さな草原。空から見ると、島はちょうど人の拳くらいの大きさで、底面から垂れ下がる岩の根が朝の光の中で青白く脈動していた。


 そして、前方に──空が、開けた。


 朝焼けの空だった。東の地平線──いや、この世界に地平線はない。東の空が、橙と紅と金の絵の具を溶かしたように燃えていた。雲海の表面が朝日に照らされて、白金色に輝いている。その光の海の上に、浮遊島たちのシルエットが点々と散らばっている。


「きれい……きれいだよ、ルーシェ!」


「そうだろ」


 振り返ると、ルーシェが操舵輪を握りながら、少しだけ得意そうに口元を緩めていた。


「空から見る朝焼けは格別だ。これがあるから飛空艇乗りはやめられない」


 風が強くなった。上昇気流に乗って、リンデ号はぐんぐんと高度を上げていく。アウリィの髪が激しくなびき、マントがばさばさとはためく。寒い。高度が上がると気温が下がるのは、空の世界でも同じらしい。マントの魔法が反応して、薄い膜のように温かさを身体の周りに保ってくれた。


「航路に乗った。ここからは南南西にまっすぐ。風が安定してれば、昼過ぎにはハルシュタットが見えてくるはずだ」


 ルーシェは操舵輪のロックをかけ、自動航行に切り替えた。計器を確認し、風向計を読み、何度か微調整をしてから、ようやく操縦席の背もたれに身体を預けた。


「さて」


 ルーシェはアウリィのほうを見た。


「昨日、全部教えてくれって言ってたよね。暇だし、何が聞きたい?」


「全部!」


「だから全部は無理だって。もう少し絞ってくれ」


「じゃあ──ハルシュタットってどんなところ?」


 ルーシェは顎に手を当てて、少し考えてから話し始めた。


「近海域で一番大きい交易島だ。人口は二千人くらい。飛空艇の港があって、周辺の島々から物資が集まる。あたしも普段はあそこを拠点にしてる。修理の仕事は港でもらえるし、部品も手に入るし」


「ルーシェ、一人で暮らしてるの?」


「ああ。親は小さい頃に深淵嵐で──まあ、うん。ばあちゃんに育ててもらって、ばあちゃんも三年前に亡くなった。それからは一人だ」


 あっけらかんとした口調だった。けれどアウリィは、その「あっけらかんとした」声の奥に、薄い膜のように張られた何かを感じた。触れればすぐに破れてしまいそうな、繊細な境界線。


「……そっか。ルーシェは強いね」


「強くないよ。一人でいるのに慣れただけ」


「それは強いっていうんだよ」


 ルーシェが少し驚いたようにこちらを見た。アウリィは笑って、手すりに腰かけた。短い足がぷらぷらと宙に揺れる。


「ボクもね、多分ずっと一人で旅をしてるんだと思う。記憶はないけど、そういう感覚がある。一人に慣れてる感覚。でも、慣れてるのと平気なのは違うよね」


「……そうかもね」


 ルーシェは前を向いた。操舵輪の向こうに広がる蒼穹を、眩しそうに見つめて。


 しばらく静かな時間が流れた。風の精霊たちがリンデ号の周りを楽しそうに飛び回り、時折アウリィの三つ編みを引っ張って遊んでいる。風導器への精霊力の供給は安定していて、負荷は思ったより軽かった。この世界の風の精霊はよほど活発で、力の循環が自然に行われるらしい。


「ねえルーシェ、一つ聞いてもいい?」


「なに」


「深淵嵐って、いつ頃から起きてるの?」


 ルーシェの表情が僅かに硬くなった。


「……あたしが知ってる限りでは、十年くらい前からだ。最初は年に一度あるかないか、辺境の無人島が消えるくらいだった。でもここ三年で頻度が上がってる。去年は五つの島が呑まれた。うち二つは人が住んでた」


「何か原因はわかってるの?」


「わからない。精霊学者たちが調べてるけど、はっきりしたことは──あ、そうだ」


 ルーシェが何かを思い出したように指を鳴らした。


「ハルシュタットに、精霊の研究者がいる。フェン・ヴァッサーマンって爺さんだ。変わり者だけど、精霊については群島一の物知りだよ。あんたの精霊術を見たら腰抜かすかもな」


「精霊の研究者! 会いたい!」


「だろうと思った」


 ルーシェが小さく笑った。


 会話が途切れると、アウリィは日記帳を取り出して空からの景色をスケッチした。雲の形。島の配置。朝の光の色。時折飛んでいく鳥の群れ──白い体に青い翼の美しい鳥で、ルーシェに聞くと「風燕かぜつばめ」という名前だと教えてくれた。風燕は風の精霊に好かれる鳥で、上昇気流を見つける能力に長けているらしい。


「昔の飛空艇乗りは、風燕の群れを追って航路を見つけたんだってさ」


「へえぇ……じゃあ風燕はこの世界のパイオニアだね」


「パイオニア?」


「先駆者、って意味。ボクの……えっと、多分ボクの知ってる言葉だと思うんだけど、出所は覚えてない」


「あんたの記憶、本当にどうなってるの……」


「言語とか知識とか技術は残ってるんだよ。なくなってるのは経験の記憶。どこで何をしたか、誰と出会ったか、何を感じたか。そういう、ボク自身の物語の部分」


 言いながら、アウリィは自分の言葉に少しだけ胸が痛むのを感じた。物語の部分。数万年分の物語が、今の自分には何も残っていない。嬉しかったこと、悲しかったこと、誰かと交わした約束、誰かと別れた日の涙──それらは全て封印の向こう側にある。


 でも、それでいいのだと思う。思おうとしている。


 だって、そうしなければ新しい景色に、まっさらな気持ちで感動することはできないから。


「……あんたさ」


 ルーシェが不意に言った。


「何?」


「その記憶封印って、自分で解けるの?」


「旅が終わったら自動的に統合されるみたい。でも旅の途中では解けない。解こうと思ったこともないけど」


「解きたいとは思わない?」


「うーん……」


 アウリィは空を見上げた。青い空に白い雲が流れていく。


「思わないかな。だって、記憶があったらこの空を見ても『前にも似たようなのを見たことがある』って思っちゃうかもしれないでしょ? ボクはそれが嫌なんだと思う。いつでも、どんな景色でも、初めて見たみたいに感動したい。そのために記憶を封印してるんだと思うよ」


「……贅沢な話だね。忘れたくても忘れられないことがある人間からすると」


 その言葉には棘があった。けれど、アウリィに向けられた棘ではないとわかった。ルーシェ自身に突き刺さっている棘だ。深淵嵐に消えた両親。一人で生きてきた年月。忘れたくても身体の奥に染みついている記憶。


「ごめんね」


「謝んなよ。あんたが悪いわけじゃない」


「うん。でも、ごめんね」


 アウリィは手すりから降りて、ルーシェの隣に立った。背丈が全然違うから、隣に並ぶとルーシェの肘のあたりまでしか届かない。


「ボクは忘れることを選んだ人で、ルーシェは忘れられないことを抱えてる人だ。同じ『記憶』の話なのに、全然違うね」


「……ああ、全然違う」


「でもさ、今ここで一緒に空を飛んでるのは同じだよ」


 ルーシェが見下ろしてきた。アウリィは見上げた。目が合って、アウリィがにっこりと笑うと、ルーシェはふっと力を抜いたように息を吐いた。


「……あんた、ずるいな」


「えへへ」


 その時だった。


 風向計が急に回転した。計器盤の気圧計の針が揺れる。風の精霊たちの気配が一斉に緊張した。


 アウリィは反射的に意識を広げた。風の精霊たちが警告を発している。前方、やや右側。距離は──近い。


「ルーシェ、前方に何かいる」


「何か?」


「生き物──大きい。すごく大きい。こっちに向かってきてる」


 ルーシェの顔が引き締まった。操舵輪のロックを外し、両手で握り直す。


「方角と距離は」


「右前方、雲の中。もうすぐ──」


 雲を突き破って、それは現れた。


 巨大な影。翼を広げれば二十メートルはあろうかという巨鳥──いや、鳥ではない。羽毛ではなく鱗に覆われた蛇のように長い胴体。蝙蝠を思わせる革の翼。そして頭部には、鹿のように枝分かれした四本の角。


「蒼角竜──!」


 ルーシェが叫んだ。


「竜!?」


「この空域の主だ。普段は雲の上にいて降りてこないはずなのに──」


 蒼角竜が咆哮した。空気そのものが震えるような重低音が、骨の芯まで響く。竜の鱗は暗い青色で、翼の縁に沿って白い模様が走っている。目は金色に輝き、知性を感じさせる光を湛えていた。


 ──怒っているわけではない。


 アウリィは風の精霊を通じて、蒼角竜の気配を読み取った。怒りではない。これは、警戒だ。縄張りに入った侵入者を威嚇している。


「ルーシェ、この子は怒ってるんじゃない。怖がってるんだ」


「怖がってる? あのデカブツが?」


「ボクたちが縄張りに入ったから警戒してるの。戦う気はないよ。ただ追い払いたいだけ」


「それはありがたいけど、追い払われる側としてはたまったもんじゃ──うわっ!」


 蒼角竜が急降下してきた。巨大な翼が空気を叩き、衝撃波のような突風がリンデ号を直撃する。船体が大きく横に傾いた。アウリィは手すりにしがみつき、ルーシェは操舵輪にぶら下がるようにして体勢を保つ。


「迂回する! 左に──」


「待って!」


 アウリィは手すりから手を離し、甲板の中央に立った。風の精霊に意識を集中する。


 ──お願い。あの子に伝えて。ボクたちは通り過ぎるだけ。縄張りは荒らさない。


 風の精霊たちが応えた。翠色の光がアウリィの身体から立ち昇り、リボンのように空中を泳いでいく。光の帯は蒼角竜に向かって伸び、その巨体の周囲をゆっくりと巡った。


 蒼角竜が動きを止めた。


 空中で翼をゆっくりと羽ばたかせ、滞空しながら、金色の目でアウリィを見つめている。アウリィも見つめ返した。小さなエルフと巨大な竜が、空の上で視線を交わす。


 数秒が、永遠のように感じられた。


 やがて、蒼角竜がゆっくりと首を巡らせた。低い唸り声を一つ上げて、翼を大きく広げ、上昇していく。雲の中に、その巨体が溶けるように消えていった。


「…………」


 ルーシェが呆然としていた。


「……今の、何?」


「精霊さんたちに通訳してもらったの。ボクたちに敵意がないこと、すぐに通り過ぎること。竜って賢いんだね。ちゃんとわかってくれた」


「いや……いやいやいや」


 ルーシェは操舵輪から手を離し、額に手を当てた。


「蒼角竜と対話した? 精霊を介して? あの、群島最強の空の支配者と?」


「対話っていうか、気持ちを伝えただけだよ。ボクは攻撃とかできないから、こうやって話し合うしかないの」


「話し合うって……そういう次元の話じゃないと思うんだけど……」


 ルーシェは深くため息をついた。それから、不意に笑い出した。


「あはは……もう何が常識かわかんないな。あんたといると」


「常識ってなあに?」


「冗談で言ってる?」


「半分くらい本気!」


 ルーシェが額を手で覆いながら笑い続ける。アウリィもつられて笑った。空の上で、二人の笑い声が風に溶けていく。


 蒼角竜が去った空域を抜けると、風は穏やかになった。遠方に、雲の切れ間から大きな影が見え始めた。


「見えてきた。あれがハルシュタットだ」


 アウリィは手すりに飛びついて身を乗り出した。


 大きかった。今まで見てきたどの島よりも圧倒的に大きい。幅は数キロメートルはあるだろうか。島の上には建物が密集して立ち並び、中央には尖塔を持つ大きな建造物が聳えている。島の縁に沿って港が設けられていて、何十もの飛空艇が係留されているのが見えた。大小さまざまな船が出入りし、空の道が目に見えない航路のように形作られている。


 島の底面からは例の岩の根が垂れ下がっていたが、ハルシュタットのそれは他の島と比べて格段に太く、青白い光も強い。まるで巨大な樹の根のようだ。


「すごい……! あんなに大きい島があるんだ!」


「群島のなかじゃ中規模くらいだけどな。中心部にはもっとデカい島がある。ここは辺境の交易拠点ってところだ」


「これで中規模!?」


 近づくにつれて、街の細部が見えてきた。石造りの建物の間に金属のパイプが走り、蒸気の白煙が所々から立ち上っている。風車が回り、風の力で動く機械がカタカタと音を立てている。人々が歩き、荷車が行き交い、飛空艇の汽笛が遠くから聞こえる。


 空気の匂いが変わった。潮の匂い──ではない。金属と油と、料理の匂い。人が暮らしている匂い。


「あ、いい匂い! 何か焼いてるにおいがする!」


「港の屋台だろ。ハルシュタットの焼き魚は名物だからな。空魚──雲海を泳ぐ魚を炭火で焼くんだ」


「雲を泳ぐ魚!? 魚って水の中を泳ぐものじゃないの!?」


「この世界にまとまった水場はないからな。空魚は雲の中の水分を取り込んで生きてる。透明な鱗をしてて、光に当てると虹色に光るんだ」


「食べたい! 絶対食べたい!」


 アウリィの目が輝いている。ルーシェは苦笑しながら操舵輪を切り、港への進入路に船首を向けた。


「入港する。精霊の力、少し出力上げられるか? 港の近くは気流が乱れるから、安定させたい」


「了解!」


 アウリィは意識を集中させた。風の精霊たちに呼びかけ、リンデ号を包む風の流れを整える。船体を取り巻く気流が安定し、乱気流の中でも揺れが最小限に抑えられる。


「……すげえ。港の整備士連中が見たら目を剥くぞ、この安定性」


 リンデ号は滑るように港に入った。石造りの桟橋に横付けし、ルーシェがロープを投げて係留柱に結ぶ。エンジンが止まり、プロペラの回転が緩やかになって、やがて静止した。


「着いた。ようこそハルシュタットへ、迷子のエルフさん」


「やったぁ!」


 アウリィは甲板から桟橋に飛び降りた。ブーツが石畳を叩く小気味よい音。港は活気に満ちていた。荷物を運ぶ労働者、積荷を検分する商人、飛空艇の整備をする技術者。様々な人種──人間だけでなく、獣の耳を持つ者や、肌の色が青みがかった者もいる──が行き交い、声を上げ、笑い、怒鳴り、生きている。


「人がいっぱい! ねえルーシェ、あの人たち耳がもふもふしてる!」


「獣人族だよ。犬耳、猫耳、兎耳、色々いる。群島には色んな種族が住んでるからな」


「あっちの青い肌の人は?」


「風渡りの民。遊牧民みたいなもんで、一つの島に定住せずに飛空艇の船団で移動しながら暮らしてる」


「すごい……!」


 アウリィはきょろきょろと辺りを見回しながら、目に入るもの全てに反応していた。石畳の模様。軒先にぶら下がった風鈴。透明な鱗の空魚が串に刺されて炭火で焼かれている屋台。蒸気で動く荷物運搬車。


 そして──人々の目がアウリィに向けられていることにも気づいた。好奇の視線。長い耳、黄金の髪、黄色い瞳。この世界では珍しい種族なのかもしれない。


「ルーシェ、ボクって目立つ?」


「エルフはこの辺りじゃ珍しいからな。中央域には少しいるって聞くけど、辺境では見かけない」


「そっかぁ。でも誰も怖がってる感じはしないね」


「珍しいだけで、別に嫌われてはないよ。ハルシュタットは交易の島だ。色んな人が来る。多様性には寛容なところだ」


 港から少し歩くと、街の中心部に出た。石造りの建物が両側に立ち並ぶ通りを、人々が行き交っている。通りの真ん中には風力で動く路面車が走っていて、その上に荷物や人を乗せて移動していた。


「お腹空いたぁ……」


「ま、まずは飯か。ちょうどいい店がある」


 ルーシェが案内してくれたのは、港から三筋ほど入ったところにある食堂だった。『風見鶏亭』と書かれた看板がぶら下がり、入り口の横には本物の風見鶏が回っている。扉を開けると、料理の匂いと喧騒が一気に溢れ出してきた。


「あら、ルーシェ! 生きてたのね!」


 カウンターの向こうから、威勢のいい声が飛んできた。豊かな赤毛を一つにまとめた、がっしりとした体格の女性。白いエプロンを腰に巻き、片手にフライパン、片手にお玉を持っている。


「死んでないよ、ナディア。辺境で風精石が壊れて足止め食ってただけだ」


「だけって言えるあたりがあんたらしいわ。連絡の一つもよこさないんだから。心配したのよ?」


 ナディアと呼ばれた女性は、ルーシェの背後にいるアウリィに気づいて目を丸くした。


「あら、あら。可愛い子を連れてるじゃない。エルフ? 珍しいわね」


「アウレーリエ・リュコーリアスです! アウリィって呼んで!」


「まあ、礼儀正しい子。あたしはナディア・フェルマン。この食堂の主人よ。好きなところに座って。すぐに何か出すから」


 ルーシェとアウリィは窓際の席に座った。すぐにナディアが水と焼きたてのパンを持ってきてくれる。パンはまだ温かくて、ちぎると湯気が立ち上った。


「美味しい……! あったかくて、ふわふわで、ちょっと甘い!」


「空麦のパンよ。空の上でしか育たない麦で焼いてるの。気に入った?」


「うん! すっごく美味しい!」


 アウリィの満面の笑みに、ナディアが目を細めた。


「いい食べっぷりね。ルーシェ、どこでこの子を拾ってきたの?」


「拾ったんじゃない、拾われたんだ」ルーシェは空魚のグリルを頬張りながら言った。「漂流者みたいなもんだよ。辺境の無人島に一人で倒れてた」


「あら大変。身寄りは?」


「ないよ。記憶もない」


「記憶が!?」


 ナディアが目を見開いた。アウリィはもぐもぐとパンを咀嚼しながら、笑顔で手を振った。


「大丈夫大丈夫。自分でそうしてるだけだから。心配しないで」


「自分で? どういうこと?」


「説明すると長くなるんだけど……」


 アウリィが事情を説明すると、ナディアは腕を組んで唸った。


「世界を渡り歩く旅人、ね。おとぎ話みたいだわ」


「おとぎ話なの? この世界にもそういうお話があるの?」


「あるわよ。『渡り人』の伝承。遠い昔、空の外から来た旅人が群島に知恵をもたらしたっていう古い言い伝え。まさか本物にお目にかかれるとは思わなかったけど」


「渡り人……ボクがそうなのかはわからないけど、似たような話はあるんだね。面白いなぁ」


 アウリィは早速日記帳を取り出して、渡り人の伝承について書き留めた。ナディアが不思議そうな顔でそれを眺めている。


 食事を終えて──アウリィは空魚のグリル、雲海スープ、空麦のパン、そしてデザートに風蜜のかかった果物を平らげた──ルーシェが席を立った。


「風精石を仕入れに行ってくる。ついでにリンデ号の整備もしなきゃならないし。あんたはどうする?」


「ボク、フェンさんに会いに行きたい! 精霊の研究者の人」


「ああ、フェン爺さんか。研究室は中央塔の三階だ。大時計のすぐ下。行けばわかる──わからなかったら誰かに聞けば教えてくれるよ。有名人だから」


「うん! 行ってくる!」


 アウリィは食堂を出て、ハルシュタットの通りを歩き始めた。一人で歩くのは少しだけ不安だったが、風の精霊たちが周囲に寄り添ってくれている。索敵の意識を薄く広げておけば、危険な気配があればすぐに察知できる。


 中央塔はすぐに見つかった。島の中心にそびえる尖塔で、高さは三十メートルほど。頂上には巨大な時計がはめ込まれていて、振り子の代わりに風車が回っている。風力で動く時計だ。


 塔の入り口をくぐり、螺旋階段を上る。三階のドアには『精霊研究室 フェン・ヴァッサーマン』と書かれた木の板がかけられていた。その下に、『用がない者もある者もノックすること』という追記がある。


 コンコン、とノックした。


「……入れ」


 しわがれた声。ドアを開けると、本の山に埋もれた部屋が現れた。


 棚という棚に本が詰め込まれ、それでも収まりきらない本が床に積み上げられている。机の上には展開された図面、水晶の破片、金属の計測器具、そして何種類もの鉱石のサンプル。窓から差し込む光の中を、埃が舞っている。


 その奥に、老人が座っていた。


 白い髪と白い髭。深い皺が刻まれた顔。しかし目だけは若い──鋭く、好奇心に満ちた深緑の目。痩せた身体を椅子に沈め、分厚い本を開いていた。


「何の用だ──おや」


 老人──フェン・ヴァッサーマンは、アウリィを見て目を細めた。


「エルフか。珍しい。しかも……ほう」


 フェンの目が、アウリィの周囲を見た。正確には、アウリィの周りに集まっている風の精霊たちを見ていた。


「精霊が見えるんですか?」


「見えるとも。四十年この道をやっとるからな。──しかし驚いた。それだけの精霊を従えているのか。いや、従えているという表現は正しくないな。共にいる、というべきか」


「うん、精霊さんたちは友達だよ。従えるなんてことはしない」


「友達、か。いい表現だ」


 フェンは本を閉じて、椅子から立ち上がった。背は高いが猫背で、杖を突いている。アウリィの前まで来て、しげしげと観察した。


「名前は?」


「アウレーリエ・リュコーリアス。アウリィって呼んでね、フェンさん」


「フェンでいい。敬称は好かん。──アウリィ、お前さんは精霊術師か?」


「多分そう。記憶がなくて、自分のことはあんまりわからないんだけど」


「記憶がない?」


「自分で封印したの。長くなるけど、聞いてくれる?」


「構わん。座れ。茶を淹れよう」


 フェンが淹れてくれたのは、風花茶という名前の透明な青いお茶だった。風の精霊に好かれる花から作られた茶葉で、飲むと身体の中を清風が通り抜けるような爽やかさがあった。


 アウリィが自分の事情を説明すると、フェンは長い間黙って聞いていた。途中で何度か質問を挟み、一つ一つの答えを丁寧に聞き取った。


「──世界を渡る旅人。記憶の自主封印。精霊との直接対話。なるほど」


「信じてくれるの?」


「嘘をつく理由がないし、お前さんの目は嘘をついていない。それに──」


 フェンはアウリィの周囲を渦巻く精霊の気配に目を向けた。


「これだけの風の精霊が自発的に集まってくる術者を、わしは見たことがない。この世界の者ではないと言われたほうが、むしろ納得がいく」


「ボクの精霊術って、そんなに珍しいの?」


「珍しいなどという次元ではない。この世界の精霊術は、風精石を媒介にして行うのが基本だ。直接精霊と対話し、力を借りる──それは、千年前の古代術者でさえ一握りしかできなかったとされている」


 フェンは棚から一冊の古い本を引き出した。革表紙が擦り切れ、ページの端が黄ばんでいる。開いて見せてくれたのは、古代の術者たちが描いたとされる精霊の図解だった。


「しかも、お前さんの精霊術は索敵と支援に特化していると言ったな。攻撃力は低いと」


「うん。ボク、人を傷つけるような術は使えないみたい。身体が覚えてないの」


「それは意図的なものだろう。数万年の歳月を生きて、攻撃の術を持たないということは──持たないことを選んだということだ」


 その言葉が、胸の奥に静かに響いた。


 選んだ。攻撃力を持たないことを。数万年の間に、その選択をした過去の自分がいる。なぜそうしたのか、今の自分にはわからない。でも──。


「……なんとなくわかる気がする。ボクは多分、壊すことよりも、守ることのほうが好きなんだと思う」


「ほう」


「戦って勝つより、戦わずに済む方法を探すほうが好き。さっきも空で蒼角竜に会ったんだけど、精霊さんたちに通訳してもらって、穏便に通してもらったんだ」


「蒼角竜と対話した?」


 フェンの目が大きく見開かれた。


「……お前さん、自分がどれほど規格外かわかっておらんな」


「そうなの?」


「蒼角竜は群島の最上位捕食者だ。知性はあるが、気性が荒い。あれと対話できた記録は古文書にも数例しかない」


「でも、あの子はいい子だったよ。怖がってただけで、ちゃんと話を聞いてくれた」


 フェンは首を振って、深いため息をついた。そして──笑った。皺だらけの顔がくしゃりと崩れて、穏やかな笑みが浮かんだ。


「お前さんは面白い子だ。──いや、面白いなどという言葉では足りんな。希望だ」


「希望?」


「深淵嵐のことは聞いたか?」


「ルーシェから少しだけ」


「あの嵐は、精霊の力の不均衡から生じていると、わしは考えておる」


 フェンは机の上の図面を広げた。群島の地図だった。島々の位置が描かれ、そのいくつかに赤い印がつけられている。消えた島だ。


「群島の浮遊力は、島の底面にある精霊鉱脈が生み出しておる。風の精霊の力が、島を空に保っている。だが近年、精霊の力が弱まっている場所がある。不均衡が生じ、それが嵐を呼ぶ」


「精霊の力が弱まってる……?」


 アウリィは意識を集中させた。この島の、この街の、精霊の気配。確かに──風の精霊は元気だが、その奥に、微かな不安の波動がある。何かを怖がっている。何か、深い場所にあるものを。


「わかる……? 精霊さんたち、何かを怖がってる」


「それが感じ取れるか。やはりお前さんの感覚は桁違いだ」


 フェンはアウリィをまっすぐに見た。


「アウリィ。お前さんに頼みがある」


「なあに?」


「この世界の旅をするのなら──深淵嵐の原因を、探ってはくれまいか。わしのような老いぼれでは、もう空を飛ぶこともかなわん。だが、お前さんの精霊術があれば、精霊たちが何を恐れているのか、その根源に触れられるかもしれん」


 アウリィは少し考えた。


 頼まれたから行く、というのは少し違う。でも──精霊たちが怖がっている。この世界の空を支えている存在たちが、何かに怯えている。その理由を知りたい。純粋に、知りたいと思った。


「うん、いいよ。ボクもその謎、知りたい」


「……ありがたい」


 フェンの声が、わずかに震えていた。


 研究室を出ると、夕暮れが近づいていた。西の空がまた橙色に染まり始めている。ハルシュタットの街は夕方になると風灯──風の精霊の力で光る灯りが自動的に点灯する仕組みらしく、通りのあちこちでぽっぽっと柔らかな光が灯り始めていた。


「きれい……」


 蒼い夕闘の中に浮かぶ、無数の風灯の光。まるで街全体が星空になったようだ。


 風見鶏亭に戻ると、ルーシェがカウンターで飲み物を手に待っていた。


「おかえり。フェン爺さん、どうだった?」


「すごい人だったよ! 精霊のこと、たくさん教えてもらった」


 アウリィは隣の席に座り、今日聞いたことを早口で話した。精霊の不均衡。深淵嵐の原因についてのフェンの仮説。そして、原因を探る旅に出ること。


 ルーシェは黙って聞いていた。その表情が、少しずつ複雑なものに変わっていくのを、アウリィは見逃さなかった。


「……あたしの親を呑んだ嵐の原因が、わかるかもしれないってこと?」


「わからない。でも、調べてみたい。ルーシェが嫌じゃなければ、一緒に来てほしいな。ボク、飛空艇は操縦できないから」


「…………」


 ルーシェはグラスの中身を一口飲んで、静かにカウンターに置いた。


「嫌なわけないだろ」


 短い言葉だった。でも、そこに込められた感情の密度は、アウリィにもはっきりとわかった。


「じゃあ、二人で行こう!」


「ああ。二人で行こう」


 ルーシェが手を差し出した。アウリィがその手を握った。大きくて、硬くて、油と機械の匂いがする手。小さくて、柔らかくて、風の匂いがする手。二つの手が重なった。


 窓の外で、ハルシュタットの風灯が一斉に輝きを増した。夜が来る。けれど、暗闇の中にこそ光は映える。


 アウリィは日記帳を開いた。


『ハルシュタットに着いた。空魚のグリルが美味しかった。フェンという精霊の研究者に会って、深淵嵐の原因を探る旅に出ることにした。ルーシェも一緒に来てくれる。ボクは一人で旅をしてきたらしいけど、誰かと一緒に歩けるのは嬉しい。この嬉しさは、記憶がなくてもわかる。人の温かさは、身体で感じるものだから。明日からまた新しい場所へ。怖いことも、きっとある。でも大丈夫。だってボクは一人じゃない』


 ペンを置いて、窓の外の風灯を見つめる。


 精霊たちが怖がっているもの。雲の下から這い上がってくる闇。消えた島々。──この世界に、何が起きているのだろう。


 答えはまだ、風の彼方にある。


 でもそこに辿り着くまでの道のりこそが、旅だ。


 アウリィは笑った。黄色い瞳に、風灯の光を映して。彼岸花の髪飾りが、窓からの風にそっと揺れた。

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