1話「空に落ちた旅人」
目を開けると、空があった。
どこまでも、どこまでも果てしなく広がる蒼穹。薄く刷いたような雲が遥か頭上を流れていき、その隙間から差し込む陽光が、視界の端で金色に煌めいた。自分の髪だ、と気づくまでに数秒かかった。
仰向けに寝転がっている。背中に触れているのは冷たい石と、わずかに湿った苔の感触。風が吹くたびに、身体を包むマントの裾がはためいて、頬を草の匂いが撫でていく。
知らない匂いだ。
知らない風だ。
知らない空だ。
──ああ、新しい世界だ。
その認識が、胸の奥からじんわりと沸き上がってきた瞬間、アウレーリエ・リュコーリアスは小さく笑った。
「……えへへ」
理由もなく笑みがこぼれる。嬉しいのだ。何がどう嬉しいのかを正確に説明することは難しいけれど、知らないものに囲まれているという状況そのものが、胸の奥にある何かを心地よく振るわせる。
ゆっくりと上体を起こす。小柄な身体が、よっこらしょ、という呟きとともに持ち上がる。身長百四十七センチ。自分の背丈を覚えているのは、それが身体に刻まれた情報だからだ。名前もそう。アウレーリエ・リュコーリアス。愛称はアウリィ。種族はハイエルフ。寿命は──ない。
それ以外のことは、ほとんどわからない。
記憶を封印しているからだ。自分で、自分の意志で、そうしている。理由は──そうすると決めた過去の自分が判断したことだから、今の自分にはわからない。けれど、そうするべきだと決めたのだという確信だけは残っている。まるで寝覚めの枕元に置かれた書き置きのように、「記憶は封印してあります」という事実だけが、ぽつんと意識の中に浮かんでいる。
不安はない。不思議と、ない。これが初めてではないのだろうということが、感覚的に理解できるからかもしれない。
「さてさて……」
周囲を見渡す。苔むした岩場の上に座っていた。岩場は緩やかな斜面になっていて、少し下ったところに青々とした草地が広がっている。その先には低木の林があり、白い花をつけた蔓草が木々の幹を這い上っている。
そして──その林の向こう側に、地面がなかった。
「……おお?」
アウリィは立ち上がり、トトト、と小走りで斜面を駆け下りた。赤みがかった茶色のブーツが草を踏む音が軽やかに響く。林の縁まで来て、木々の間から向こう側を覗き込む。
断崖だった。岩肌がそこで唐突に途切れ、その先には虚空がある。下を覗けば、はるか眼下に白い雲海が広がっている。雲の切れ間から覗くのは、さらに下方に浮かぶいくつもの──島。
島が、空に浮かんでいた。
大小さまざまな陸塊が、まるで海面に散らばった花弁のように、白い雲の間に点在している。島の底面からは巨大な岩の根が樹木の根のように垂れ下がり、その隙間から淡い青白い光が脈動するように明滅していた。近くの島には緑が生い茂り、遠くの島は霞んで輪郭だけがうっすらと見える。
空に、浮かぶ、島。
「わぁ──!」
アウリィは両手を口元にあてて、目を見開いた。黄色い瞳に、空中に散らばる群島の景色が映り込む。風が吹き上げて、セミロングの黄金の髪と、耳の横で結んだ三つ編みのおさげをふわりと持ち上げた。赤い彼岸花の髪飾りが、風に揺れる。
「すごい、すごいすごい! 島が浮いてる! 空に浮いてるよ!」
誰に語りかけるでもなく、声が弾む。知らない景色。見たことのない世界の形。それだけで胸がいっぱいになる。記憶がないのだから「見たことがない」は当然なのだけれど、それでも──いや、だからこそ、この感動は混じりけがない。まっさらな驚きだ。
ひとしきり景色に見惚れてから、アウリィは踵を返して岩場に戻った。目覚めた場所の周囲に、自分の荷物が散らばっている。内部拡張の魔法がかかった革のトランクが一つ。腰につけるポーチが二つ。そして──銀白色に輝く、美しい槍。
「ミスリルの聖槍……ボクの、だよね」
手に取ると、掌に馴染む感覚があった。身体が覚えている。振り方も、構え方も。持ち方を変えれば無意識に重心が移動して、戦闘の型が組み上がる。記憶がなくとも、身体に刻まれた技術は消えない。何千、何万と繰り返した動作の痕跡が、筋肉と神経の奥深くに染みついている。
槍を背中の留め具に固定し、トランクを持ち上げる。見た目の大きさの割に──いや、内部拡張されているのだから中身は相当あるはずだが──不思議と重くない。ポーチを腰のベルトに取り付け、マントの前を合わせる。
マントの下には、生成り色のワンピースと、その上に赤い鱗の──竜の皮でできたベストを着ている。指先で触れると、鱗の一枚一枚が滑らかで温かい。赤龍の皮。上質な防具だ。なぜこれを持っているのかは覚えていないけれど、きっと何かしらの経緯があったのだろう。
ポーチの一つを開けて中を探ると、指先に革表紙の感触があった。引っ張り出す。手帳ほどの大きさの、使い込まれた日記帳。表紙には「旅の記録」と、丁寧だがどこか丸みのある文字で書かれている。自分の筆跡だという確信がある。
開いてみる。
びっしりと文字で埋められたページが何枚も続く。途中にはスケッチや押し花が挟まれている。しかし、書かれている内容を読んでも、記憶は何も蘇らない。文字としては理解できる。「今日は美しい湖を見た」「市場で珍しい果物を買った」「親切な鍛冶師に出会った」──けれど、それらは他人の日記を読んでいるようにしか感じられない。
最後に書き込まれたページを見つけた。
『新しい世界へ行く。記憶は封印する。いつものことだ。大丈夫。ボクは何度だって、新しい景色に感動できる。それがボクの選んだ旅の形。──楽しんでおいで、次のボク』
「……ふふ」
過去の自分から、今の自分への伝言。なんだか不思議な気分だ。記憶のない自分に宛てた手紙のようで、くすぐったくて、少しだけ心強い。
「うん。楽しむよ、前のボク」
日記帳をポーチに戻し、アウリィは深呼吸した。未知の世界の空気が、肺を満たす。冷たくて、澄んでいて、どこか甘い花の香りが混じっている。
まずは、この世界を知ることだ。
──精霊はいるだろうか。
ふと、そう思った。思った、というよりも、身体がそう問いかけた。精霊術。自分がそれを使えるということは理解している。索敵、支援、気配の感知。攻撃的な力ではなく、世界を感じ取り、身を守るための術。世界ごとに精霊との相性は違うらしい──それも、身体が知っている知識だ。
意識を研ぎ澄ませ、周囲に感覚を広げる。
すぐに、応えがあった。
風だ。風の精霊の気配が、濃い。まるで空気そのものが意志を持っているかのように、アウリィの周囲をくるくると巡っている。好奇心旺盛で、人懐こい気配。試しに意識で触れてみると、精霊たちがきゃらきゃらと笑うような波動を返してきた。
「わ、元気な子たちだね! よろしくね」
声に出して語りかけると、風がひときわ強く吹いて、髪飾りの彼岸花の花弁を揺らした。歓迎されているようだ。風の精霊との相性は、かなり良いらしい。
続いて、光の精霊にも触れてみる。こちらは穏やかだが、確かにいる。日差しの中に溶け込むようにして、静かに存在している。火の精霊は──薄い。空の上の世界だからだろうか、地に根差した火の気配は希薄だった。水の精霊は雲の中に感じるが、距離がある。土の精霊はさらに弱い。
「風と光が強くて、火と土が弱い……空の世界だからかな。面白いなぁ」
精霊の分布だけでも、その世界の成り立ちが透けて見える。浮遊する島々。風が支配する空。この世界では風の精霊術が核になるだろう。索敵も支援も、風に頼ることになる。
アウリィは小さく頷いて、歩き始めた。
この島はそれほど大きくないようだった。岩場から林を抜けると、なだらかな草原が広がっていて、その向こうに──人工物が見えた。
石を積み上げた小さな建物。壁面には蔦が絡まり、屋根の一部が崩れている。廃屋だろうか。しかしその隣に、真新しいテントが張られていて、焚き火の跡がある。煙はもう出ていないが、炭はまだ温かそうだ。
人がいる。あるいは、最近までいた。
風の精霊に意識を向ける。島の上に生命の気配は──ある。一つ。動いている。建物の裏手、少し離れた場所。敵意は感じない。
アウリィは構えず、ただ歩みを進めた。
建物の角を曲がると、その人物が目に入った。
背の高い少女だった。アウリィよりも頭二つぶんは大きい。日に焼けた小麦色の肌に、短く切り揃えた栗色の髪。袖をまくった作業着を着て、地面に膝をついている。何かの機械──歯車と金属管が組み合わさった装置を分解して、油まみれの手で部品を一つ一つ点検していた。
その足元には、開いた工具箱。スパナ、ペンチ、用途のわからない特殊な器具が整然と並んでいる。
「あのー」
アウリィが声をかけると、少女は驚いたように顔を上げた。灰色がかった青い瞳がこちらを見る。一瞬の警戒。それから、困惑。
「……え? 人? なんでこんなところに人が?」
少女は立ち上がった。長身だ。百七十センチ近くあるだろう。油で汚れた手を作業着の裾で拭きながら、アウリィを見下ろす──物理的に見下ろしているだけで、目線に威圧感はない。むしろ、驚きと好奇心が入り混じった顔をしている。
「こんにちは!」
アウリィは笑顔で手を振った。
「えっ……こ、こんにちは? いや、こんにちはじゃなくて。あんた、どっから来たの? この島には定期便なんか通ってないし、あたし以外に誰もいないはずなんだけど」
「うーん、どこから来たかって聞かれると難しいんだけど……気づいたらここにいたんだ」
「気づいたらって……」
少女は眉をひそめた。それからアウリィの装備を上から下まで眺める。銀白色の聖槍。赤龍の皮のベスト。魔法のマント。内部拡張のトランク。どう見ても普通の旅人の装備ではない。
「漂流者、ってわけ? 嵐に巻き込まれた?」
「嵐……かもしれない。正直、ボクにもよくわからないんだ。記憶がなくて」
「記憶がない!?」
少女の声が裏返った。
「うん。でも心配しないで、自分でそうしたの。理由があって、記憶を封印してるんだ。だから名前とか、自分のこととかは覚えてるよ。ボクはアウレーリエ・リュコーリアス。アウリィって呼んで!」
「い、いや、待って待って。情報量が多い。記憶を封印って何? 自分でって何?」
少女は混乱した顔で後頭部を掻いた。だが、目の前の小柄な少女──エルフの長い耳と黄金の髪を持つ不思議な存在──が危険でないことは、直感的に理解したのだろう。警戒の色が薄れ、代わりにため息をついた。
「……ルーシェ。ルーシェ・カルヴァーティ。飛空艇の整備士をやってる」
「ルーシェ! いい名前だね!」
「そう? まあ、ありがと……」
ルーシェは目を逸らした。褒められ慣れていないのかもしれない。アウリィはそんな反応が微笑ましくて、にこにこと笑った。
「ねえルーシェ、教えてほしいんだけど、ここってどういう世界なの? 島が空に浮いてるのは見たんだけど、すごいよね! あんなの初めて見た!」
「初めてって……あんた、本当に何も知らないの?」
「うん! まっさらだよ!」
胸を張って言い切るアウリィに、ルーシェは呆れたような、それでいてどこか面白がるような顔をした。地面に腰を下ろし、工具箱を脇にどけて、アウリィにも座るよう促す。
「ここは蒼穹群島。あたしたちは空に浮かぶ島で暮らしてる。地上なんてものは誰も見たことがない──雲の下には何があるかわからない。落ちたら終わり。島と島の間は飛空艇で移動する。それがこの世界の常識」
「地上がない!? 全部空なの!?」
「正確には、地上があるかどうかもわからない。雲の下に降りていった奴は何人もいるけど、誰も戻ってこなかった。だから、あたしたちにとって世界は空の上だけだ」
「へえぇ……」
アウリィは感嘆の息を漏らした。日記帳を取り出し、早速書き始める。「蒼穹群島。地上のない空の世界。島々が空に浮かんでいる。雲の下は未知」。ペンを走らせる手が弾んでいる。
「何書いてるの?」
「旅の記録! ボク、行った先のことを全部日記に書くの。じゃないと忘れちゃうから」
「忘れるって、記憶の封印がどうとかって話?」
「そう。旅が終わったら記憶は戻るんだけどね。でも日記に書いておくと、その時の気持ちも残るでしょ。記憶と記録は違うから」
ルーシェは不思議そうな顔でアウリィを見つめていたが、やがて小さく肩をすくめた。
「変わった子だね、あんた」
「よく言われる気がする!」
「気がするって……まあいいか」
ルーシェは立ち上がり、分解していた機械のほうを指さした。
「あたしがこんな辺境の島にいるのは、乗ってた飛空艇が壊れたからだ。風導器──島と島の間を飛ぶための装置なんだけど、核になる風精石が割れちまった。予備はない。だから今、別の方法で修理できないか試してる」
「風精石?」
「風の精霊力を蓄えた鉱石だよ。これがないと飛空艇は飛べない。島の外には出られないってこと」
アウリィは首を傾げた。風の精霊。さっき触れた、あの人懐こい存在たち。
「ねえルーシェ、風の精霊ってさ、この世界だとどんな感じなの?」
「どんな感じって……精霊使いでもなきゃ直接触れることはないけど。風精石を介して精霊の力を借りるのが一般的だね。精霊と直接対話できるのは、一部の術者だけだ。それも、最近はどんどん少なくなってる」
「ふうん……」
アウリィは目を閉じた。意識を広げる。風の精霊たちが、すぐに応えてくれた。くるくると周囲を巡り、髪を遊ばせ、マントの裾を引っ張る。その気配を感じ取りながら、意識の中で語りかける。
──力を貸してほしいの。あの機械を動かすための、風の力を。
精霊たちがざわめいた。戸惑いと興味が入り混じった波動。しばらく相談するように気配が揺らいで──やがて、一つの精霊がアウリィの掌の上にふわりと降りた。
掌の上に、淡い翠色の光が灯った。
「うわっ!?」
ルーシェが目を見開いた。
「え、何それ。精霊術? あんた術者なの!?」
「えっと、多分そうだと思う。身体が覚えてるみたいで」
「多分って……いや、それ、風の精霊を直接顕現させてるじゃん。嘘でしょ?」
ルーシェの声には純粋な驚きがあった。彼女はアウリィの掌の上の光を食い入るように見つめ、それから分解した機械──風導器を振り返った。
「……ねえ、あんた。もしかして、風導器に精霊の力を直接流し込むことってできる?」
「やってみないとわからないけど……精霊さんたちがよければ」
掌の上の光がちかちかと明滅した。了承の合図だと、直感的にわかった。
「やれるって」
「マジか……」
ルーシェは一瞬呆然とし、それから、初めて本当の笑顔を見せた。口角が上がり、灰青の瞳に光が宿る。
「やってくれるなら、ここから出られる。ハルシュタット──この近海域で一番大きな交易島まで行ける。そこまで行けば、あんたも情報が集められるだろうし、風精石も手に入る」
「ハルシュタット! 交易島! 行きたい行きたい!」
アウリィは跳ねるように立ち上がった。新しい場所。新しい人々。未知の文化。それを想像するだけで、心臓がとくとくと早鳴りする。
「その代わり」ルーシェは人差し指を立てた。「あたしの飛空艇に乗ってもらう。ハルシュタットまでは風の状態が良ければ半日。悪けりゃ一日かかる。その間、風導器に精霊の力を安定供給し続けられる?」
「うーん、やったことあるかどうかは覚えてないけど、多分大丈夫。精霊さんたちもやる気みたいだし」
風がアウリィの周囲をぐるりと一周した。精霊たちが張り切っている。
「……本当に不思議な子だね。まあ、助かるよ。正直あたしも、ここで立ち往生してどうしようかと思ってたところだ」
ルーシェは風導器の部品を手早く組み直し始めた。油まみれの指が、迷いなく歯車を嵌め、金属管を繋いでいく。整備士としての腕は確かなようで、その手つきは流麗ですらあった。
アウリィはその作業を隣に座って眺めながら、日記にペンを走らせた。
『ルーシェという名前の整備士の女の子と出会った。背が高くて、手が大きくて、機械を触っているときの目がとてもきれいだ。この世界は島が空に浮いていて、地上がない。飛空艇という乗り物で島の間を移動するらしい。明日、ハルシュタットという交易島に向かう。楽しみだな。風の精霊がとても元気で、仲良くなれそう。ボクはまた新しい世界にいる。何も覚えていないけど、それでいいんだと思う。だってこんなに胸が躍る。知らないことばかりだ。全部知りたい』
ペンを置いて、空を見上げた。
西の空が橙色に染まり始めている。夕暮れだ。浮遊する島々のシルエットが、茜色の空に黒い影絵のように浮かび上がる。遠くの島の灯りがぽつぽつと点り始め、まるで空に散りばめられた地上の星のようだった。
「きれい……」
「ん? ああ、夕焼け? まあ、このあたりは遮るものがないからな。見晴らしだけは一等地だよ」
「ルーシェはこの景色、毎日見てるの?」
「仕事で空を飛んでりゃ嫌でも見るよ」
「いいなあ。毎日見ても飽きない?」
ルーシェは手を止めて、夕焼けを見た。少しの間、黙って。
「……飽きないよ」
静かに、でも確かな声でそう言った。
「空はいつだって違う顔を見せるからね。同じ夕焼けなんて一つもない。風の流れが違えば雲の形も変わるし、季節が変われば色も変わる。あたしが飛空艇乗りになった理由の半分くらいは、それだ」
「もう半分は?」
「機械が好きだから。歯車が噛み合って、エンジンが唸って、船体が空気を切る。あの瞬間がたまらない」
ルーシェの目が輝いていた。好きなものを語るときの人間の目は、どんな宝石よりも美しい。アウリィはそう思った──記憶がなくてもわかることだ。
「ルーシェ、ボクね、この世界のこと何も知らないんだ。だから色々教えてほしいな」
「色々って?」
「全部!」
「全部!?」
「この世界の歴史とか、文化とか、ご飯とか、生き物とか、精霊のこととか、飛空艇のこととか──全部知りたい!」
ルーシェは面食らったように目を瞬かせ、それから、ふっと笑った。
「全部は無理だよ。あたしだって知らないことだらけだ。でもまあ、知ってることは教えてやれる。ハルシュタットに着くまでの間、暇つぶしにはなるだろ」
「やった!」
アウリィは小さなガッツポーズをした。ルーシェが苦笑する。
日が沈んでいく。
二人は焚き火を起こした。ルーシェが持っていた携帯食料──干し肉と固いパン、それに甘い木の実のスープ──を分け合って食べた。アウリィのトランクからは、どこの世界で手に入れたのか覚えていない茶葉が出てきて、湯を沸かして淹れてみると、不思議な花の香りがする美味しいお茶になった。
「何これ、美味しい」
「でしょ! ボクのトランクに入ってたんだ。前のボクはいい趣味してるね」
「前のボク、って言い方もすごいけど……」
焚き火の明かりの中で、ルーシェが語ってくれたこの世界のこと。
蒼穹群島は、大小合わせて数百の浮遊島から成り立っている。人々は島ごとに集落や都市を築き、飛空艇で交易や交流を行っている。政治的には大きな島ごとに自治が行われていて、統一国家のようなものはない。共通の取り決めとして「空路協定」があり、飛空艇の航路や交易のルールが定められている。
精霊の力は生活の基盤だ。風精石を動力源とする飛空艇、光精石を使った照明、水の精霊の力で雲から水を集める集水装置。精霊なくしてこの世界の文明は成り立たない。
そして──最近、異変が起きている。
「深淵嵐──あたしたちは『ヴォルテクス』って呼んでるんだけど」
ルーシェの声が低くなった。焚き火の炎が、風に煽られて揺れる。
「雲の下から吹き上がってくる、真っ黒い嵐。それに呑まれた島は、二度と戻ってこない。ここ数年で、辺境の小島がいくつか消えた」
「消えた……?」
「跡形もなく。島ごと、そこに住んでた人ごと。嵐が去った後には、何もない空間だけが残る」
アウリィは焚き火の炎を見つめた。揺れる炎の向こうに、暗い空が広がっている。昼間はあんなに美しかった蒼穹が、夜には深い深い闇になる。その闇の底から、島を呑む嵐が──。
「怖くないの?」ルーシェが聞いた。
「怖い?」
「こんな世界にいきなり放り出されて。記憶もなくて。深淵嵐なんて話を聞かされて。怖くないの?」
アウリィは少し考えた。
怖い。怖くないと言えば嘘になる。知らないことは怖い。底の見えない空は怖い。島を呑む嵐は怖い。記憶がないことだって、本当は少しだけ怖い。
でも。
「怖いよ。でも、怖いのと楽しいのは一緒にあってもいいでしょ?」
「……は?」
「知らないことが怖いなら、知ればいい。知るために旅をするんだ。怖いから立ち止まるんじゃなくて、怖いから進むの。だってその先に、まだ見たことないものがあるんだよ? それってすごくわくわくしない?」
ルーシェは黙ってアウリィを見つめた。焚き火の光が、小柄なエルフの横顔を照らしている。黄金の髪。黄色い瞳。そこに映る炎の揺らめき。笑っている。本当に、心の底から笑っている。
「……変なの」
ルーシェがぽつりと呟いた。
「変かな?」
「変だよ。でも──」
ルーシェは火を見た。
「嫌いじゃないかな、その考え方」
夜風が吹いた。風の精霊たちが、二人の周りをぐるぐると巡る。焚き火の火の粉が舞い上がり、満天の星空に溶けていく。
浮遊する島々の灯りと、空の星と、舞い上がる火の粉。三つの光が混ざり合って、アウリィには空全体が一つの大きな宝石箱のように見えた。
「明日、出発だね」
「ああ。夜明けに風を読んで、状態が良ければ飛ぶ。あんたの精霊術が頼りだからね」
「任せて! ……多分!」
「多分は不安なんだけど」
「あはは!」
笑い声が夜の空に溶けていく。
アウリィは毛布にくるまりながら、最後にもう一度日記を開いた。今日一日のことを、もう少しだけ書き足す。
『この世界には、深淵嵐という怖いものがあるらしい。島を呑む黒い嵐。でもそれがあるからこそ、この空の美しさが際立つのかもしれない。ルーシェは強い子だ。空を愛して、機械を愛して、一人でもちゃんと立っている。明日からハルシュタットを目指す。ボクの最初の旅が始まる。──ああ、なんて楽しいんだろう。この気持ちに名前をつけるなら、きっと「生きている」ということそのものだ』
ペンを置いて、目を閉じる。
風の精霊が、子守唄のように頬を撫でていった。
明日が来る。知らない空を飛ぶ。知らない島に降り立つ。知らない人に出会う。
それだけで、胸がいっぱいだった。
数万年の記憶を封じた少女は、新しい世界の最初の夜を、穏やかな風に守られながら眠りについた。
彼岸花の髪飾りが、星明かりの下で静かに揺れていた。




