5話「朝を鳴らす」
夜明け前の街は、妙に軽かった。
空気が薄いわけじゃない。霧はむしろ重く、配管の表面には冷たい水滴がびっしりついている。けれど、世界そのものが、ほんの少しだけボクを掴む手を緩めた気がした。
知っている感覚だ。
もうすぐだ、と思う。
たぶんこの街は、ボクを必要とする時間の終わりへ向かっている。あるいは、ボクのほうが、この街から離れる時間に近づいている。いつも境目は曖昧で、どちらとも言えない。だからこそ、毎回少しだけ困る。
「アウリィ、持ってる?」
シアの声で我に返る。
「持ってる」
今、ボクの両腕には、布で巻かれた仮の響子の端が乗っていた。見た目よりずっと重い。鐘青銅に圧銀、だったっけ。名前からして重い。
反対側はテオが歯を食いしばって持っている。その後ろでヴァレナが固定具を押さえ、狭い路地の曲がり角ごとに「そこで少し上げて」「待って」と指示を飛ばしていた。
「これほんとに必要かよ……っ」
テオが呻く。
「必要じゃなかったら運ばせてない」
シアが即答する。
「もっと優しく言えないのかよ」
「言えるけど、今は時間がない」
「ある意味優しいね」
ボクが言うと、シアがじろりと睨んできた。
「アウリィは余裕ありすぎ」
「楽しいから」
「重いよ!?」
テオが信じられないものを見る顔をした。
重いのは本当だ。でも、新しい仕組みの中心を運ぶのはちょっと楽しい。これが上手く鳴れば、街は息をつき直せる。そう思うと、ただの荷物じゃなくなる。
霧の向こうで、止まっていた昇降機の一台から、誰かの苛立った声が聞こえた。遠くの屋台では、湯を分ける人の影が見える。クラーヴェルはまだ静かだ。でも、それは眠っている静けさじゃない。息を潜めて、朝を待っている静けさだ。
西口へ着くころには、ボクのブーツの先まで霧で濡れていた。
中央鐘塔の西口は、昨日見た時よりさらに厳重だった。黒い鉄柵、消えかけた灯具、眠っていない顔の見張り。けれどその前に立っていたのは、封鎖局じゃなかった。
「遅い」
第一声がそれだった。
ロアンだ。灰色の外套の襟を立て、腕を組み、すこぶる不機嫌そうに立っている。その横には、詰所の制服を着た男女が二人いた。見覚えはないけれど、どちらも口数の少なそうな顔をしている。たぶん、ロアンが言っていた“使えるやつ”なのだろう。
「おはよう、ロアン」
「まだ夜だ」
「じゃあこんばんは?」
「そういう問題じゃない」
でも、その声音には昨日までより少しだけ余裕があった。徹夜に慣れた人の諦めも混ざっている。
さらにその奥、鉄柵の脇にはセヴランがいた。黒い上着の上に厚手の外套を羽織り、手には大きな鍵束と書類筒。昨日よりずっと顔色が悪い。たぶんこの人も寝ていない。
「監督官、逃げてなかった」
ボクが言うと、セヴランは薄く息を吐いた。
「逃げる暇がありませんでした」
「言い方が仕事できる人っぽい」
「今さら褒めても何も出ませんよ」
「出してほしくて言ったわけじゃないよ」
「でしょうね」
その返しは少しだけ人間味があった。
そしてもう一人、鐘塔の壁際にもたれていた大きな影が、ゆっくり体を起こした。
ローレだった。
昨日の作業着の上に厚い外套をひっかけ、片手には真鍮の大きな輪と、いくつかの古い金具を抱えている。眠っていない目なのに、不思議と少しだけしゃんとして見えた。
ヴァレナが足を止める。
ローレはしばらく何も言わず、布に巻かれた響子を見て、それからヴァレナを見た。
「やっぱり作ったか」
「理論だけ置いてったの、そっちでしょう」
「使う前に一言くらい寄越せ」
「寄越したら止める」
「止めるに決まってる」
「ほらね」
たったそれだけなのに、ふたりが長いこと同じ場所を見てきた人間なんだとわかる会話だった。怒っている。呆れている。でも、完全に切れているわけじゃない。
シアが両腕の響子を下ろしながら言う。
「感動の再会は後でやって。これ、どう付けるの」
ローレは抱えていた真鍮の輪を持ち上げる。
「懸架枠だ。鐘冠の内側へ渡して、仮響子を吊るす。昔の規格とは少し違うから、現場合わせになる」
「現場合わせ」
シアが嫌そうに繰り返す。
「嫌な言葉」
「整備士が嫌うな」
「寝てない時の現場合わせは事故の香りしかしないの」
「もっともだ」
ローレはそこで、響子の根元を指で叩いた。低く澄んだ音が返る。彼の真鍮の補助指が、その音を確かめるみたいに少しだけ揺れた。
「……悪くねえ」
ヴァレナが目を細める。
「褒めてる?」
「半分」
「意地悪」
「そっくり返す」
そのやり取りを見て、シアが小さく息を吐いた。安心したのか、呆れたのかは半々くらいだと思う。
テオは周囲をきょろきょろ見回していたが、不意にボクの袖を引いた。
「なあ」
「なに」
「母さん、避難所で湯もらえたって」
「よかった」
「咳、ちょっとだけましだって」
その言い方が、嬉しいのを隠しきれていなかった。
ボクは笑う。
「じゃあ、鳴らさないとね」
テオは小さく頷いて、今度は真面目な顔で響子を持ち直した。
セヴランが鍵束からひとつを選び、鉄柵の奥の小さな扉へ差しこんだ。
「鐘冠保守路は、正式には閉鎖中です」
「今ここでそれ言う?」
シアが半眼になる。
「手続きの最後の確認です」
「じゃあ私も確認。落ちたら責任取ってよ」
「取れる範囲で」
「全然安心できない」
けれど扉は開いた。中から流れてきた空気は、夜の外よりさらに冷たかった。
「行こう」
ロアンが言う。
「夜明けまで、思ったより短いぞ」
***
鐘冠保守路は、中央鐘塔の喉の中みたいな場所だった。
狭い螺旋階段を何度も折れ、細い足場を渡り、古い梯子を上る。場所によっては壁が内側へ湾曲していて、自分たちが巨大な鐘の内部を這っているのがわかる。あちこちに小窓があり、その向こうではまだ眠ったままの街灯が霧の中に浮かんでいた。
途中で、テオが響子の重みへ文句を言う元気もなくなった頃、ローレが前も見ずに聞いた。
「坊主」
「……なんだよ」
「終わったら、整備区で働く気あるか」
テオが足を止めかける。
「は?」
「走るのと潜るのは才能だ。あと度胸が無駄にある」
「褒めてんのそれ」
「半分」
また半分だ。
シアが後ろから言う。
「親方、それ勧誘?」
「足りねえんだよ人手が」
「そういう言い方すると断られるって」
「断るのか?」
ローレが振り返ると、テオは目を丸くしたまま、しばらく口をぱくぱくさせていた。
「……考える」
「そうか」
「今決めろとか言わねえの?」
「今は鳴らすほうが先だ」
ローレはそれだけ言って、また階段を上り始めた。
テオは数段ぶん遅れてから、やっと足を動かす。耳まで赤い。ボクと目が合ったので、にっと笑うと、ものすごく嫌そうな顔をされた。
「なに笑ってんだよ」
「未来っぽい話っていいなって」
「気が早い!」
「でもちょっと嬉しいでしょ」
「……うるせえ」
小声がだいぶ正直だった。
上へ行くほど、塔の振動がはっきりしてくる。足場の金属が細かく鳴り、壁の向こうの大鐘が、まだ沈黙したままうっすらと呼吸している。完全に死んではいない。眠っているだけだ。
精霊たちも落ち着かない。
――もうすぐ。
――さむい。
――まってる。
――ならす?
「たぶんね」
ボクが囁くと、ヴァレナが振り返る。
「聞こえた?」
「うん。みんな待ってるって」
「そう」
その返事は短かったけれど、少しだけ嬉しそうに聞こえた。
最後の梯子を上ると、鐘冠の保守室へ出た。
円形の狭い部屋。中央に、大鐘の内側へ続く開口部。周囲には古い制御盤と錆びた手輪、煤をかぶった記録棚。小窓からは、東の空がほんのわずかに白み始めているのが見えた。
時間は、もうほとんどない。
部屋の中央には、予想していたより大きな“空白”があった。
大鐘の内部。巨大な空洞。そこに、本来あるはずの響子がない。
あるべき重さだけが、長いこと抜かれたまま残っているような空間だった。
「……ほんとに何もない」
シアが呟く。
ヴァレナが静かに頷く。
「止めた時に外されたのね」
ローレは鐘の内側の支柱を見上げ、それから手元の懸架枠を持ち上げた。
「付けるぞ」
そこからは、文字通り息つく暇もなかった。
ローレとヴァレナが支点を測り、シアが工具を渡し、ロアンが足場を押さえ、テオが細い場所へ潜って補助具を通す。セヴランは保守記録棚から古い図面を引っぱり出し、閉鎖された制御の位置を確認していた。
ボクはというと、最初は邪魔にならないよう灯りを押さえたり、工具を受け渡したりしていたのだけれど、途中でシアに呼ばれた。
「アウリィ!」
「はい」
「そこ、手が入る?」
指されたのは、鐘の内壁と支柱のあいだの狭い隙間だった。大人の手では届きにくい。
「入ると思う」
「固定爪を受けて。落としたら終わる」
「了解」
こういう時だけ小柄なのは便利だ。膝をついて上半身を潜りこませる。金属の匂い。古い煤。鐘の腹の内側は、思ったより少し温かい。
固定爪を受け取った瞬間、指先のすぐ近くに、小さな刻印があるのに気づいた。
花弁。
細く重なった、彼岸花に似た意匠。
見つけた途端、胸の奥がひやりとした。
まただ。昨日から何度もある、この「思い出せそうで思い出せない」感じ。霧の向こうに何かが立っているのに、顔だけがどうしても見えないみたいな。
「アウリィ、今!」
シアの声で我に返る。
「あ、ごめん!」
固定爪を受け止め、奥の溝へ差しこむ。ローレが外から重さをかけ、ヴァレナが反対側を締める。噛み合う音。
「よし!」
シアが短く言う。
テオが鐘の内側の細い肋を這いながら、固定ピンを持ってこちらへ近づいてきた。その顔は緊張で真っ青だけれど、目だけは逸らしていない。
「テオ、ゆっくり!」
シアが言う。
「わかってる!」
「走るな!」
「こんなとこで走れるか!」
その返しに、ロアンが吹き出しかけて咳払いした。
テオは響子の根元の留め穴へ辿りつき、固定ピンを差しこもうとする。けれど、あと少しで位置が合わない。
「親方、もっと左!」
シアが叫ぶ。
「やってる!」
「ヴァレナ、下げすぎ!」
「見えてる!」
「セヴラン、その制御板、邪魔!」
「外せばいいんですか」
「今すぐ!」
「命令口調が増えましたね」
「増やしてるんだよ!」
朝の鐘を鳴らす前だというのに、保守室は怒鳴り声でいっぱいだった。なのに不思議と、少しだけ生きている感じがした。誰も黙って諦めていない音だ。
その時だった。
セヴランが制御板の裏側を開けたまま、動きを止める。
「……これは」
「なに」
ヴァレナが聞く。
セヴランは板の裏に打ちつけられていた金属片を見つめ、低く言った。
「消音鉤です」
ローレが顔をしかめる。
「まだ入ってたのか」
「知ってるの?」
シアが振り向く。
ローレは舌打ちした。
「大鐘を沈黙させるための抑えだ。非常時に一時的に響きを殺す」
セヴランがその横の刻印を指でなぞる。古い監督局の印。その下に細い文字。
「“臨時運用”。発令者、第二監督長……二十年前」
「臨時が好きな街だね」
ボクが言うと、誰も笑わなかった。
ヴァレナの声が冷える。
「抜いて」
セヴランは一瞬だけ迷った。その迷いは、道具のせいじゃない。記録と命令の重みへの癖だ。
シアが低く言う。
「今ここで、また“後で”にするの?」
その言葉で、セヴランの指が動いた。
彼は鍵束の中から細い鍵を一本選び、消音鉤の封印へ差しこむ。錠が古く軋み、なかなか回らない。セヴランの額に汗が浮く。
「硬いですね」
「長年見ないふりされてたからね」
ボクが言うと、セヴランは苦い顔をした。
「耳が痛い」
「ほんとだね」
最後に、かちり、と音がした。
消音鉤が外れる。金属片が落ちて、床を転がった。
その瞬間。
大鐘の内側を、目に見えない何かが走った。
空洞の奥から、長い長い息が漏れるみたいな音。
――あいた。
――やっと。
――いたかった。
ボクは思わず鐘の内壁へ手を当てる。
「うん。お待たせ」
ヴァレナがこちらを見る。
「何て?」
「やっと開いたって」
ローレがぼそっと言う。
「……そりゃそうだろうな」
その声は、機械に向けたのか、街に向けたのか、自分に向けたのか、よくわからなかった。
テオがそこでようやく固定ピンを押しこむ。
かちん。
響子が、吊られた。
仮のもの。それでも、空っぽだった鐘の腹に、ようやく“中身”が戻る。
全員がほんの一瞬だけ、動きを止めた。
綺麗だった。
青銅と銀の混ざった涙滴形の響子が、煤けた巨大な鐘の中で、夜明け前のわずかな光を受けて揺れている。まるで、長いこと息を止めていた場所へ、小さな心臓が戻ったみたいだった。
「……付いた」
シアが呟く。
「付いた」
ヴァレナが確認する。
ローレが短く息を吐いた。
「じゃあここからが本番だ」
そう。付けるだけでは足りない。
鳴らして、返して、下へ落として、街全体へ巡らせる。それを一回でやらなければならない。
ロアンが保守室の外を見た。
「東が白んできた」
小窓の向こうの霧が、ほんの少しだけ青みを帯び始めている。朝は来る。待ってはくれない。
ヴァレナが制御盤へ立つ。
「私は鳴りを合わせる。ローレ、外輪の振れを見て。シア、留めの緩みと返りの計器」
「了解」
「ロアン、下の詰所へ信号。第一打のあと、各区画に配管へ触るなと回して」
「もう回してる」
「さすが」
「褒めても忙しいぞ」
「セヴラン」
「はい」
「均圧核との連絡弁、全部開けて。途中で怖くなって閉じないで」
「怖くはありますが、閉じません」
「それならいい」
ヴァレナの指示は速い。迷いがない。こういう時、この人は本当に頼りになる。
そして最後に、全員の視線がボクへ向いた。
「アウリィ」
シアが言う。
「呼び鳴らし、お願い」
「うん」
本当は、ちょっとだけ不安だった。
この世界の精霊たちは、よく喋るけれど気まぐれだ。相性は悪くない。でも、すごく良いとも言えない。しかも相手は街ひとつぶんの鐘だ。できる保証なんてどこにもない。
それでも、やってみたいと思った。
巨大な鐘の腹。仮の響子。白み始めた東。下で待っている均圧核。霧下の寒さ。全部がひとつの音になる瞬間なんて、そう何度も見られるものじゃない。
ボクは鐘の内側へ歩みこんだ。
響子のすぐ脇。吊り具の下。そこへ立つと、自分がどれだけ小さいかがよくわかる。大鐘の内壁は、空に手を伸ばすより遠い。見上げるたび、飲みこまれそうになる。
でも、不思議と怖くはなかった。
ミスリルの聖槍を呼び出す。
銀白の穂先が、夜明け前の薄い光を拾う。鐘の中でそれはやけに澄んで見えた。
槍の石突きを床へ、穂先を響子へ向ける。直接打つんじゃない。触れて、伝える。鳴りは力任せより、合うかどうかだ。
目を閉じる。
熱の子。風の子。鉄の匂いをまとったこの街の子たち。均圧核で苦しそうだった子。煤鐘炉でせかせかしていた子。昇降機の脇でくしゃみをしていた子。みんなを思い出す。
――なる?
――なるの?
――いっしょ?
――こんどは、みんな?
「うん。できれば、みんな」
沈黙。
それから、ざらざらした、でもどこか優しい気配が鐘の内側へ集まり始めた。
霧の粒みたいな熱。煤けた風。配管を走ってきた圧の癖。街のあちこちに散っていたものが、すこしずつ、ここへ寄る。
背後でヴァレナが静かに言う。
「今」
シアが呼吸を止める気配。ローレが外輪へ手をかける気配。セヴランが弁を開く金属音。ロアンが外で誰かに合図する声。テオが「頼む」と小さく呟いたのも聞こえた。
全部が、ひとつの瞬間へ集まる。
ボクは槍の穂先を、響子へ触れさせた。
澄んだ音が、生まれる。
最初は、小さかった。
でもすぐに、大鐘の腹がそれを拾った。空洞が震え、内壁の花弁の意匠が金色の線になって走る。響子が揺れる。二打目はいらなかった。大鐘そのものが、自分で呼吸を思い出し始めたから。
ごん――
鐘の音が、鳴った。
鳴ったというより、落ちて、広がって、街全体へ染みこんだ。
足元から頭のてっぺんまで、振動が貫く。空気が震え、霧が揺れ、小窓の向こうの景色まで波打った。均圧核から立ち上がった脈が、その音へ吸われるみたいに上り、そこからまた下へ返っていくのがわかる。
熱の流れが変わる。
止まっていた配管が息を吸う。
細くなっていた路が広がる。
上へ偏っていたものが、下へ、横へ、均されていく。
――あったかい。
――ながれる。
――いき、できる。
――もっと!
「一回で調子乗らないで」
思わず笑って言うと、鐘の音の中に、誰かの笑い声が混ざった気がした。
優しい声。
あたたかな手。
髪に挿される花。
黄色い花弁。
赤い花弁。
『忘れても、なくならないものがあるのよ』
そんな言葉だった気がする。
でも、顔は見えない。どうしても。霧の向こうにいるままだ。
それでもいいか、と、その瞬間だけ思えた。
全部を思い出せなくても、今ここにある音は確かだ。
鐘が二度、三度と余韻を返す。仮の響子が割れる気配はない。ローレが外で「持った!」と吠え、シアが計器を見て歓声とも悲鳴ともつかない声を上げる。
「下が戻ってる!」
ヴァレナの声は震えていた。
「均圧核、返った……!」
セヴランが保守室の小窓へ駆け、外の街を見下ろす。
「……昇降機灯が」
ロアンが身を乗り出す。
「ついたか?」
「ええ。西も、中も」
テオが息を呑む。
「母さんのとこも、あったかくなるかな」
「なるよ」
ボクはまだ鐘の余韻を掌で感じながら言った。
「たぶん、ちゃんと」
その時、急に膝から力が抜けた。
「あ」
視界がぐらりと揺れる。鐘の中の金色が少し遠くなる。
シアが真っ先に飛んできた。
「アウリィ!」
倒れる前に肩を掴まれる。槍を消し損ねそうになって、慌てて霧のように還した。
「だいじょうぶ?」
自分で言って、自分で少し笑いそうになる。訊かれる側なのに。
「今それ聞く!?」
「聞きたかったから」
シアの顔は本気で怒っていて、本気で心配していた。
「……ちょっと、ふらっとしただけ」
「ちょっとの顔じゃない!」
「でも、立てるよ」
そう言ってみたけれど、シアは全然納得していない。代わりに、ヴァレナがこちらへ来て、短くボクの額へ手を当てた。
「熱はない。抜けただけね」
「抜けた?」
「大きい鳴りを受けた後は、調律師でもふらつく」
「ボク、調律師じゃないよ」
「今日は似たようなものよ」
その言い方は、少しだけ誇らしかった。
ローレが鐘の内側を見回し、最後に仮響子の揺れを確かめる。
「朝ぶんは持つ。いや、もっといけるな」
「楽観的」
ヴァレナが言う。
「経験則だ」
「根拠が雑」
「当たる時は当たる」
「信用しにくいわね」
でも、言い合う声にはもう昨日までの切迫した棘がなかった。
セヴランが小窓から離れ、静かに言う。
「街中で暖気の戻りが確認されました。……下層も」
テオがその一言で、ようやく肩の力を抜いた。
椅子もない保守室の床へ、ぺたりと座りこむ。
「終わった?」
ロアンが鼻を鳴らす。
「始まりだろ」
「そういうの今いらねえ!」
「悪い」
でも、ロアンも少し笑っていた。
大鐘の余韻は、まだ街のあちこちを回っている。霧の向こうで、別の鐘が呼応するみたいに鳴った。昇降機の鎖が再び動きだす音もする。クラーヴェルが、深く、長く息を吸いなおした。
その呼吸に合わせるみたいに、ボクの皮膚の上を撫でる世界の感触が、また少し変わる。
薄くなる。
今度は、はっきりわかった。
「ああ」
小さく声が漏れた。
「どうした」
ロアンが聞く。
ボクは首を振る。
「なんでもない」
やっぱり、嘘だった。
***
朝が来ると、街はあからさまに表情を変えた。
霧下の配管からは、昨夜よりはっきりした湯気が上がっていた。中層の広場では止まっていた昇降機がぎこちなく動き始め、駅前の高い鉄骨にも朝の光が引っかかる。完璧に元通り、というわけではない。あちこちでまだ咳きこむ機械みたいな音がするし、古い配管はきっとこれから大仕事だ。
それでも、息は戻った。
人の顔が違う。完全な安心じゃない。でも、「今すぐ駄目になるかもしれない」という色は少し薄れた。
ベッタおばさんの屋台にはまた揚げ油の匂いが戻っていて、広場の端では誰かが「湯が熱い!」と笑っていた。
シアの工房へ戻ると、ローレはそこへ当然のように腰を下ろし、ヴァレナは当然のように机の図面を奪い取っていた。ふたりとも寝ていない顔なのに、話している内容だけは妙に速い。
「だからこの補助路を活かすなら、下の乾燥熱は単独にせず」
「わかってる。そこに逃がすなら第三弁を固定更新しないと歪む」
「更新なんて予算出ると思うか?」
「出させる。出ないなら止める」
「脅す気満々ね」
「お前が言うな」
シアはその横で記録簿に何かを書きつけながら、半ば呆れた顔をしている。
「親方たち、寝る気ある?」
「ねえ」
「ないわね」
「即答」
ロアンは工房の扉にもたれて、詰所から持ってきたらしい書類束を見ていた。セヴランはその向かいで、さらに分厚い封筒へ印を押している。
「それ、何」
ボクが聞くと、セヴランは手を止めずに答えた。
「監督局への報告書です。臨時転用記録、消音鉤の継続使用、下層配分の隠蔽、全部」
シアがちらりと顔を上げる。
「潰されるよ」
「でしょうね」
「それでも出すの」
「出さなければ、また“臨時”が増える」
セヴランはようやく印を置いて、少しだけ肩を回した。
「私は、あの言葉がだいぶ嫌いになりました」
「遅いけど、まあ、よかったね」
ボクが言うと、彼は苦笑した。
「あなたに慰められる日が来るとは思いませんでした」
「ボクも」
テオは朝いちで避難所へ行っていたらしく、戻ってきた時にはパンの包みと、ものすごく落ち着かない顔を抱えていた。
「母さん、ちょっと寝たって」
よかったね、と言う前に、彼は続ける。
「それで……その、整備区の話」
ローレが図面から顔を上げる。
「嫌ならいい」
「嫌ってわけじゃ」
「じゃあ考えろ」
「だから考えてる!」
ヴァレナが横から言う。
「働くなら、まず借りた薬代返しなさい」
「うっ」
「当然でしょ」
シアがにやっとする。
「利子つける?」
「つけんな!」
工房に笑いが広がる。昨夜までの緊張が、やっと少しだけほどけた音だった。
その輪の外で、ボクは静かに日記帳を開いた。
――旅の記録。朝、クラーヴェルはちゃんと鳴った。街の息が戻る音を聞いた。大鐘の腹の中は、煤けていて、とても綺麗だった。
ペン先を止める。
もう一行。
――別れは近い。
書いた瞬間、妙にあっさりしすぎている気がして、少しだけ笑う。たぶん本当の気持ちは、こんな一行では足りない。でも、長く書くと、まだそこにいたくなるから。
日記帳を閉じる。
さて、と心の中で言って、立ち上がる。
「シア」
「なに」
「ボク、そろそろ行くね」
工房の空気が、ぴたりと止まった。
シアが瞬きをする。ロアンも、テオも、ローレも、ヴァレナも、セヴランまで手を止めた。
「……行くって」
シアがゆっくり言う。
「どこに」
「次」
「次?」
「うん。次の場所」
「何それ」
「そういう旅だから」
我ながら説明になっていない。いつものことだけど。
シアは椅子を引いて立ち上がる。
「今?」
「うん。たぶん、あんまり長くない」
「長くないって、今日来てまだ……」
途中で言葉が止まる。日数を数えてみて、思っていたより短いことに気づいた顔だ。実際短い。だからこそ、ちょっと困る。
テオが包みのパンを握ったまま言う。
「また急だな」
「急じゃない時って、こういうのあんまりないんだよね」
「ずるい」
それは、彼が前にも言った言葉だった。
ロアンが腕を組む。
「お前、本当に何なんだ」
「旅人」
「最後までそれか」
「最後までそれだよ」
ローレは何か言いかけて、やめた。代わりに、工房の隅に立ててあったボクの大きなトランクを見た。いつのまにか、誰かが物置部屋から下ろしてきてくれていたらしい。
「荷物、持ってけよ」
「うん」
「置いてくな。面倒だから」
「置かないよ」
そう言うと、ローレは小さく頷いた。
ヴァレナが、少し考えるみたいにボクを見た。
「戻ってくるの」
「わからない」
「正直ね」
「ボクにもわからないことは正直に言う」
「それがいちばん厄介なのよね」
でも、その声は柔らかかった。
シアはまだ納得していない顔で立ち尽くしていた。たぶん怒りたい。でも、怒ってどうにかなる話じゃないと気づいている。
「……少しくらい、休んでからでも」
「休んだら、たぶん出にくくなる」
「それはそうだけど!」
「シア」
名前を呼ぶ。
彼女はまっすぐこっちを見た。少しだけ目が赤い。寝不足のせいだけじゃない気がして、胸のあたりがくすぐったく痛くなる。
「ボク、この街好きだよ」
それだけ言うと、シアは一度だけ、ぎゅっと唇を結んだ。
「……それ、ずるい」
「うん。知ってる」
「ほんとにずるい」
「でも本当」
シアは大きく息を吐いて、それからやっと笑った。泣く一歩手前の時みたいな、不器用な笑い方だった。
「じゃあ、駅まで送る」
「仕事は?」
「サボる」
「親方」
「許す」
ローレが即答し、ヴァレナが肩をすくめる。
「私も行くわ。朝の点検は逃げないもの」
「逃げるのはあんただろ、昔から」
「今その話する?」
「する」
ロアンも書類束を閉じる。
「見回りついでだ」
「ついで多いね」
「便利な言葉だからな」
セヴランは少し迷っていたが、やがて言った。
「……私は外まで」
「監督官が暇そう」
「暇ではないんです。たぶん一番暇ではない」
「でも来るんだ」
「ええ」
「やさしいね」
「その評価は不本意です」
でも否定はしなかった。
テオはパンの包みをごそごそ漁って、一番ましな形のものをひとつ取り出した。
「これ、持ってけ」
「いいの?」
「いい。途中で腹減るだろ」
「どこへ行くかもわからないのに」
「じゃあ今のうちに食え」
「それは賢い」
受け取ると、まだ少し温かかった。朝の焼きたてだ。こういうものを渡されると、ほんとうに困る。困るけど、嬉しい。
「ありがとう」
「……ん」
耳が赤いので、それ以上は言わないでおいた。
***
駅までの道は、来た時より短く感じた。
人は朝の仕事へ出始め、昇降機の周りでは整備士たちが忙しく動いている。霧下から上がってきたらしい人が、熱い湯の入ったカップを両手で包んで笑っていた。配管の漏れを覗きこむシアの同僚たちも、昨夜より表情がましだ。
中央停車場の大屋根が見える頃には、空の色は完全に灰青から淡い金へ変わっていた。鉄骨のあいだに朝日が差し、煤けたガラスを通って駅舎の床へ黄色い模様を落とす。
いい色だ、と思う。
黄色い光は好きだ。新しい朝の色みたいで。
ホームの端。ボクが最初にこの世界へ来た、あの少し外れた場所は、今朝も人が少なかった。静かで、風が抜ける。
そこへ辿り着いて、ボクはトランクを置いた。
みんなも自然と立ち止まる。
別れの前の沈黙は、いつも少しだけ変だ。何を言っても足りないし、何も言わなくても足りない。
なので、最初に口を開いたのはボクだった。
「クラーヴェル、いい街だった」
ロアンが鼻を鳴らす。
「最初に油臭いって顔してたくせに」
「それも込みでだよ」
「変なやつ」
「四回目くらい?」
「もっと言ってる気がする」
シアが言って、それから少し真面目な顔になる。
「アウリィ」
「なに」
「……助かった。いっぱい」
それはたぶん、昨日の昇降機のことだけじゃない。霧下の送気室も、鐘底の均圧核も、今朝の大鐘も、ぜんぶまとめての言葉だ。
ボクは少し照れて、肩をすくめた。
「ボクも楽しかったよ」
「そこ、楽しかったで返すんだ」
「本当だから」
「知ってる」
シアは笑った。今度の笑い方は、さっきより少しだけちゃんとしていた。
テオがポケットを探って、小さな真鍮の部品を取り出した。磨かれた歯車の欠片みたいなもの。穴が開いていて、紐を通せそうだ。
「これ」
「くれるの?」
「拾い物じゃないぞ。ちゃんと親方に要らねえって言われたやつ」
ローレが「言った」と短く補足する。
テオはボクへそれを押しつけるように渡した。
「クラーヴェルの、たぶん部品。いや、部品だったやつ」
「ざっくりしてる」
「いいだろ別に!」
「うん。嬉しい」
本当に嬉しかったので、そう言うと、テオは少しだけ安心した顔をした。
ローレは顎をしゃくる。
「次どこへ行っても、無茶な鐘は鳴らすなよ」
「無茶じゃない鐘ってあるの」
「ある」
ヴァレナが即答した。
「静かな鐘よ」
「それはそれで気になる」
「やめておきなさい。静かなものほど厄介だから」
言いながら、彼女はボクの髪飾りへ一瞬だけ目をやった。赤い彼岸花。その視線の意味は聞かなかった。聞かなくてもいい気がした。
「あなたがこの街で聞いたこと、忘れないで」
ヴァレナが言う。
「忘れるのは得意じゃないんだけど、下手でもある」
「面倒な言い方ね」
「そう?」
「ええ。でも、そういうの嫌いじゃない」
その言い回しは、この人なりの最大限に近い気がした。
ロアンは帽子のつばを押し上げる。
「もし次に来ることがあったら、まず詰所へ来い。保守用ホームじゃなくて正面からな」
「考えとく」
「考えるじゃなくて来い」
「世界と相談する」
「またわけのわからんことを」
でも、ロアンの目はやわらかかった。
セヴランは少し離れた位置から、短く頭を下げた。
「あなたがいなければ、今朝の鐘は鳴りませんでした」
「みんながいたからだよ」
「それでも、です」
一拍置いて、彼は続ける。
「記録は残します。消えないように」
その言葉に、ボクはほんの少しだけ驚いた。
「いいね」
「ええ。今度は、“臨時”のままにしないように」
それはきっと、この人なりの誓いだった。
ホームに、朝の列車の汽笛が遠く響く。
でも列車は来ない。そもそも、ボクが次の世界へ行くのに列車は必要ない。必要なのは、もっと曖昧な、世界の継ぎ目みたいな何かだ。
それが、今、すぐそばにある。
空気が、水面みたいに揺れる。
鉄骨の影が少しだけ歪む。朝日の輪郭が滲む。
「……ほんとに今なんだ」
シアが小さく言う。
ボクは頷いた。
「うん。たぶん」
「なんでわかるの」
「わかるんだよね、こういうの」
「何それ……」
シアは困ったように笑って、それから一歩近づいた。
「じゃあさ」
「うん」
「次の街でも、ちゃんと面白がってよ」
その言葉が、妙にシアらしくて、胸の奥があたたかくなった。
「任せて」
「で、できたら、たまにクラーヴェルのこと思い出して」
それには、少しだけ時間がかかった。
ボクは髪飾りへ触れる。赤い彼岸花の硬い花弁。その下にある、摩耗していく古い記憶たち。全部いつか薄れるかもしれない。それが怖いから、日記を書く。
でも、薄れるからといって、なかったことになるわけじゃない。
「思い出すよ」
今度は、ちゃんと答えられた。
「日記にも書くし」
「じゃあいい」
シアはそう言って、泣きそうな顔で笑った。
テオが急に言う。
「またな!」
勢いがよすぎて、少し声が裏返る。
「うん。またね」
「どこかわかんなくても、またでいいだろ」
「いいよ」
ローレは「おう」とだけ言い、ヴァレナは軽く手を振った。ロアンは帽子へ手をやり、セヴランは静かに目礼する。
それだけで十分な気がした。
ボクはトランクの取っ手を握り直し、一歩下がる。世界の継ぎ目は、朝日のなかで淡く開いていた。向こうに何があるかは、もちろんわからない。毎回そうだ。
少しだけ惜しい。
少しだけ楽しみ。
たぶん、その両方。
「じゃあね、クラーヴェル」
誰にともなくそう言って、ボクは光の揺らぎへ踏みこんだ。
最後に聞こえたのは、中央鐘塔から届いた、朝の鐘だった。
今度はちゃんと、街の奥まで響く音だった。
***
新しい世界は、雨の匂いがした。
冷たくて、青くて、石じゃなく土を叩く雨の匂い。足元はやわらかい。遠くで何か大きな獣が鳴いている。見上げる空は低く、雲は速い。
「わぁ」
声が出る。
まだ視界が定まらないうちに、後ろでどすんとトランクが落ちた。うん、来てる。
大丈夫。ちゃんといる。
ボクはベルトポーチから日記帳を取り出し、濡れないようマントを少しだけ傾ける。ページを開き、前の世界の最後に、短く書き足した。
――旅の記録。クラーヴェルは、最後にちゃんと朝を鳴らした。あの街は温かさを配るのが下手だったけど、少しは上手くなれる気がする。シアは相変わらず口が悪い。テオはたぶん走る仕事から始める。ロアンはきっとまた寝不足。ヴァレナとローレは、たぶんこれからも喧嘩しながら直す。セヴランは“臨時”を嫌いになった。
そこで一度、ペンを止める。
少しだけ笑って、最後に書く。
――ボクは、思い出すよ。
ページを閉じる。
雨がマントを叩く音の向こうで、知らない世界が広がっている。惜しさはまだ少し胸に残っていたけれど、それでも足は前へ出た。
新しいものは、だいたい楽しい。
だからたぶん、まだ旅を続けられる。




