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4話「鐘底の心臓」

鎖は、見た目より冷たかった。


煤と油で黒く光る太い鉄の輪が、掌の中で鈍く軋む。上を見れば、さっきまでいた梁道の灯りがもう小さい。下を見れば、青白いものが闇の底で脈を打っている。高いところは嫌いじゃない。でも、鐘の腹のすぐ脇を鎖一本で降りるのは、さすがにちょっとだけ楽しいを通り越している。


「笑う場面じゃないわよ」


先を行くヴァレナが言った。


「笑ってた?」


「口元」


「ああ、ほんとだ」


自分でも気づかなかった。


ヴァレナは呆れたように短く息を吐いた。灰色のコートの裾が鎖のあいだで揺れる。こういう場所に慣れた人の動きだ。足の置き場も、手の入れ替えも、迷いがない。


「あなた、怖がらないのね」


「怖いよ」


「そうは見えない」


「面白いが先に来るだけ」


「最悪の部類の性質だわ」


それにはちょっと同意した。


頭上では、まだ金属のぶつかる音が響いている。ロアンの怒鳴り声、シアの鋭い声、封鎖局の靴音。遠くなっていくのに、塔の中ではよく響くから、まだすぐ上で揉めているみたいに聞こえる。


巨大な煤鐘の横を通り過ぎる時、思わず視線が吸われた。


黒い鐘肌。煤でほとんど見えなくなっているけれど、近くで見ると細い模様が幾重にも刻まれている。歯車の列、風の渦、細い花弁。花弁。


指でなぞってみたい、と思う。


「落ちるわよ」


ヴァレナの声で我に返る。


「ごめん」


「その鐘、後でいくらでも見る時間があればいいけどね」


「ない感じ?」


「かなり」


短い会話なのに、切迫がにじむ。


少し降りたところで、鎖がわずかに揺れた。下から吹き上がる風のせいだ。湿っていて冷たい。霧下の匂いと、鉄の内側にこもった熱の匂いが混ざっている。


「ヴァレナ」


「なに」


「下で何を見るの?」


先を行く背中が一瞬だけ止まる。


「心臓みたいなものよ」


「街の?」


「ええ」


「楽しみ」


「ほんとうに変ね、あなた」


「よく言われる」


ヴァレナは少し黙って、それから言った。


「ローレも、最初はそう言ってた」


「へえ」


「『厄介なのを拾った』って顔、あの人よくするの」


ちょっとだけ笑ってしまう。たしかに想像できた。


「仲よかったんだね」


言ってから、踏み込みすぎたかなと思った。


けれどヴァレナは怒らなかった。鎖を握り直しながら、下を見たまま答える。


「良すぎた時期もあったわ」


「今は?」


「会えば喧嘩」


「わかりやすい」


「昔から意地っ張りだったもの、お互いに」


その言い方には、棘だけじゃなく古い親しみが残っていた。完全に終わった相手への声じゃない。終わりきれなかった相手への声だ。


鎖の途中に、小さな保守用の足場があった。ふたり分ぎりぎりの鉄板。そこでいったん足を止める。


下の青白い灯りは、さっきよりはっきり見えた。


丸い。いや、丸いものがいくつも重なっている。球体の外に輪があり、そのまわりを細い管が巻いている。水晶みたいな透明なものも見える。遠目なのに、脈を打っているのがわかる。


「きれい」


また口に出た。


「壊れかけてるけどね」


ヴァレナは手袋の先で額の汗を拭った。こんなに冷たいのに汗をかいているのは、緊張のせいだけじゃないだろう。塔の内側の熱流が乱れているのが、ここまで上がってきている。


ボクは横目で彼女を見る。頬の古い火傷は、近くで見るともっと複雑だった。一度で負った傷じゃない。小さな火傷が何度も重なった跡だ。


「前にも、ここへ来たことある?」


ヴァレナは少しだけ笑った。


「そんな顔?」


「慣れすぎてる」


「……あるわ。何度も」


「一人で?」


「最初はローレと。途中からは一人で」


足場の外、闇の向こうで、どこかの弁が苦しそうに鳴いた。


ヴァレナはそれを聞きながら、ぽつりと続ける。


「上へ訴えていた頃は、記録を取りに来てた。温度差、湿度、咳病の発生数、死者の数。全部数字にして持っていけば聞くと思ってた」


「聞かなかった」


「ええ。数字は読んだ。でも、人は見なかった」


言葉が、静かに沈む。


ボクはどう返すべきかわからなくて、鎖の煤を親指でこすった。黒が指に移る。


「それで、下へ降りるようになった?」


「そう。見に行けば、数字じゃなくなるから」


ヴァレナは肩をすくめる。


「賢くないでしょう」


「ボクは好きだよ、そういうの」


「旅人が?」


「旅人でも」


ヴァレナが、そこで初めてちゃんとこっちを見た。灰色の目。疲れているのに、妙に醒めている。


「あなた、長くいない顔をしてる」


どきり、とした。


「そうかな」


「ええ。駅みたいな顔」


「駅?」


「人と別れるのに慣れてる顔」


その言い方はずるい、と思った。そんなふうに言われると、否定しにくい。


ボクは少しだけ目を逸らす。


「慣れてるわけじゃないよ」


「そう」


「慣れないから、長居しないだけ」


ヴァレナは何も言わなかった。ただ、短く頷いて、また鎖へ身体を預けた。


「行くわよ。心臓は待ってくれない」


***


均圧核は、本当に心臓みたいだった。


塔の底の大空洞、その中央に吊るされた球形の機構。青白い蒸気を内側へ抱えこんだ透明殻のまわりを、三重の金属輪がゆっくり回っている。輪には無数の細い鐘片が吊るされ、わずかな振動のたびに小さく鳴った。


ちり、ちん、りん。


脈拍みたいだ、と思う。


均圧核を囲うように、狭い環状足場がぐるりと回っていた。足場の外側には計器、弁、古い整備盤。内側には、透明殻の向こうで揺れる青白い熱の塊。火とも霧ともつかないそれが、苦しそうに縮んだり広がったりしている。


「……わぁ」


今回はヴァレナも何も言わなかった。言う余裕がないのだろう。


彼女は足場へ降り立つなり、まっすぐ整備盤へ向かった。ボクも続く。近くで見る均圧核は、さっき以上にひどい。輪の回転がばらばらだし、計器の針は全部が全部おかしい方向を向いている。赤線を越えたまま固まったもの、逆に死んだように動かないもの。まともなのがどれかわからない。


ボクはそっと透明殻へ触れる。


冷たい。なのに、その奥には熱がいる。


――くるしい。

――しめる。

――うえへ、うえへ。

――した、さむい。


小さな声が一斉にざわついた。


「うん、知ってる」


返したら、ヴァレナがこちらを見る。


「また聞いてるの」


「聞こえるほう」


「便利ね」


「くしゃみされやすいけど」


「何その欠点」


「この世界の子たち、ちょっとせっかちだから」


言いながら、足場の奥を指さす。


「輪の下、何か挟まってる」


ヴァレナがしゃがみこむ。細い作業灯を向けた先で、下段の輪の歯に暗い金属片が噛んでいた。第三共鳴弁に入っていた楔より大きい。しかも、ただの故障じゃない。わざと嵌めた形だ。


ヴァレナの顔が険しくなる。


「抑制爪……」


「名前があるんだ」


「ある。本来は試験運転の時だけ使うものよ。こんな常設の仕方はしない」


彼女はその金属の端を撫で、眉をひそめた。


「新しい」


「ヴァレナが入れたんじゃない」


「入れるなら、もっとましにやるわ」


それはそうだろうと思う。


刻印が見えた。小さな印。封鎖局の紋じゃない。監督局の古い紋に似ているけれど、少し違う。命令書みたいな記号も薄く残っている。


ボクはそれを見て、なんとなく嫌な気持ちになった。壊れているのを放置していたんじゃなく、壊れたままにするための部品だ。


誰かがずっと、この喉元を締めていた。


ヴァレナは立ち上がり、整備盤へ走るように戻った。


「時間がない。第三弁を半開で保ちながら、下の抑制爪を外す。そうしないと均圧核が息を戻せない」


「上に伝える?」


「伝えないと無理。上が閉じたらこっちは裂ける」


彼女は足場の端にある細い共鳴管へ手をかけた。金属の管が、塔の上部へまっすぐ伸びている。


「これ、まだ生きてるかな」


「試せばわかる」


ヴァレナは調律棒を取り出し、管の縁を短く叩いた。


りん、り、ん。


乾いた三音。


でも、それだけでは弱い。塔のどこまで届くかわからない。


「ちょっと貸して」


ボクは共鳴管のまわりへ手をかざし、風の子に声をかける。煤っぽくてせわしない子たちが、ぶつぶつ文句を言いながら集まってくる。


――いそがしい。

――なに。

――おと、はこぶ?


「そう。上まで」


――みじかく。

――みじかくなら。


ありがたい。


ボクが管のまわりへ風を巻き、ヴァレナがもう一度叩く。今度は音が細く伸びて、塔の内側へ吸いこまれていった。


りん、りん、ちん、り。


「何の合図?」


「古い整備符よ。ローレの弟子なら少しはわかる」


「ローレも覚えてるかな」


「忘れてたら殴る」


言い方が物騒だ。


しばらく待つ。均圧核の脈は不揃いなまま、青白く縮こまっている。


やがて、上から返ってきた。


ちん、りん、ちん。


ヴァレナの口元がわずかに動く。


「よかった。シアがいる」


「何て?」


「開けるな、閉めるな、待て、だと思う」


「だいぶ雑な会話だね」


「今は十分」


ボクは笑って、足場の内側を見る。


「で、ボクは何をすればいい?」


ヴァレナは均圧核の下段輪を指さした。


「あの輪が暴れ始めたら、こっちの作業は終わる。だから終わるまで押さえて」


「力任せ?」


「振動合わせ。できる?」


「たぶん」


「その“たぶん”やめたいわね」


「よく言われる」


返しながら、少しだけ深呼吸する。


輪は大きい。下段の回転がもっとも乱れていて、しかも抑制爪が噛んでいるせいで不自然に跳ねている。素手ではたぶん無理。なので、慣れた相棒に出てもらう。


銀白の穂先が空気を裂いて現れる。


ヴァレナが横目でそれを見る。


「やっぱりそれ、見慣れないわ」


「ボクも世界が変わるたび少しだけ見え方が違うから、毎回新鮮だよ」


「意味がわからない」


「ボクも全部はわかってない」


槍の柄を輪の支柱へ押し当てる。金属同士が触れて、澄んだ音がした。


その瞬間、均圧核の奥で青白い熱が、ぴくりと震えた。


――きた。

――へんなの。

――でも、つめたくない。


「へんなのってひどいなあ」


ヴァレナが怪訝そうな顔をする。


「誰に文句言われたの」


「この子たち」


「ほんとに便利なのかしら、それ」


「すごく便利な時と、そうでもない時があるよ」


「人付き合いみたいね」


「精霊付き合いだよ」


ヴァレナは小さく息を吐いて、整備盤へ両手をかけた。


「始めるわ」


「うん」


「手を挟まれたら切れるから」


「それは嫌だね」


「嫌で済めばいいけど」


そう言って、彼女はレバーを一気に引いた。


均圧核が、うなった。


青白い光が強くなる。三重の輪が一斉に回転を変え、足場全体が震える。ボクは槍を押しこんで、下段輪の跳ねを受ける。重い。思ったよりずっと。街ひとつ分の呼吸を、金属で押さえている感じだ。


「っ、これ、かなり元気!」


「嬉しそうに言わない!」


ヴァレナが叫び返す。彼女の額に汗がにじむ。整備盤の目盛りを見ながら、細かく弁を回していく。その指は速くて正確だ。壊すためじゃない手つきだと思う。


少しだけ、聞いてみたくなった。


「ヴァレナ」


「今!?」


「今」


「何!」


「見捨てるのが嫌いって言ってたけど、それだけでここまで来る?」


ヴァレナは、一瞬だけ手を止めかけて、でも止めなかった。


「……嫌いなのよ」


「なにが」


「見なかったふりが、上手い顔」


その声は、怒鳴りじゃなかった。疲れていて、でも擦り減りきってはいない声だった。


「私は昔、数字を整えてれば通ると思ってた。正しい設計を出せば、正しいほうが選ばれると思ってた。でも違った。正しいものより、静かなものが選ばれることがある」


下段輪が大きく跳ねる。槍の柄を押しこみながら、ボクは頷いた。


「静かなものは、たしかに扱いやすい」


「ええ。死にかけていても、まだ喋れない人たちは特にね」


ヴァレナがもうひとつ弁を回す。計器の針が少しだけ戻る。


「それが嫌で、私は騒ぐほうに回った。ローレは残って直すほうに回った。どっちも中途半端だったけど」


「ローレのこと、嫌い?」


「好きよ」


あまりにもあっさりだったので、少しだけ目を見開いた。ヴァレナは気づいて、口の端だけで笑う。


「だから喧嘩するの」


「そっか」


「あなたは」


「ん?」


「好きになった街から、いつもそうやって離れるの」


ぐ、と胸の奥が引っかかった。


下段輪の震えが強くなる。槍を持つ手へ衝撃が走る。痛みはまだ許容範囲。でも質問のほうが、少しだけ痛い。


「……好きになりすぎる前に、かな」


「賢いわね」


「さっきも言われた」


「褒めてない」


「だと思った」


ボクは少し笑う。でも、槍を握る手の内側が汗ばむ。


好きになりすぎる前に離れる。


たぶん本当に、それがいちばんいい。そう思ってきた。思ってきたはずだ。でも、何度繰り返しても上手にはならない。慣れないから、距離を取る。距離を取っても、結局何かしら残る。


古い記憶がぼやけていくたび、それだけは変わらないのが少し嫌だ。


上から、また音が来た。


ちん、ち、りん、りん。


ヴァレナが即座に応じる。


「開いた。黄副路が通った」


「黄?」


「色で覚えるの、楽でしょう」


「いいね。ボク黄色好き」


「今は知らない」


返されて、ちょっと楽しくなる。


でも、その直後、足場の反対側の管が激しく震えた。別の圧が流れこんできたのだ。均圧核の透明殻の内側で、青白い熱が一気に広がる。


――いたい!

――でも、あたたかい!

――まだ、まだ!


「来るよ!」


「抑制爪を抜く!」


ヴァレナが工具を掴み、輪の下へ身を潜りこませる。危ない。今いちばん振れている場所だ。


「ボクがやる!」


「私のほうが構造を知ってる!」


「でも今そこ、顔の位置が嫌!」


「何その理由!」


言い合っている場合ではないのに、少しだけ言ってしまう。ヴァレナは歯噛みしながらも、抑制爪へレンチをかけた。ボクは槍で下段輪を押さえつつ、もう片手を空へ向ける。


火の子たち。熱の子たち。ここにいる子は、煤で輪郭のぼやけた、せっかちな子たち。


――おさえて。

――すこしだけ。

――すこしだけで、いいから。


返事は、文句ばかりだった。


――むり。

――あつい。

――いたい。

――でも。


その“でも”のあと、小さな熱がいくつも輪の周りへ集まった。歯のあいだ、軸のきしみ、ぶつかる金属の縁。そこにだけ、ごく短く熱が走る。膨張して、引っかかりが緩む。


ヴァレナが目を見開いた。


「今!」


「うん!」


レンチが回る。抑制爪が悲鳴みたいな音を立てて外れた。


次の瞬間、均圧核が大きく脈打った。


ぼん、と空気が膨らむ。


透明殻の内側の青白い熱が、一気に中央へ集まり、そこから放射状に伸びる。三重の輪が、今までで初めて同じ速さで回った。


「……!」


ヴァレナが整備盤へ飛びつき、最後の弁を絞る。計器の針が赤線の手前へ戻る。戻る、けれど――


「返りが来ない」


彼女の声が、低く沈んだ。


「何の?」


「鐘よ」


均圧核の脈は整いかけている。下から熱が立ち上がり、上へ上へと流れようとしている。でも、その上で受けるはずの大きな響きが返ってこない。呼びかけだけが行って、返事がない。


ボクも耳を澄ます。


透明殻へ触れる。


――あがる。

――でも、からっぽ。

――うえ、からっぽ。


「上が空っぽだって」


ヴァレナの顔から血の気が引いた。


「まさか……」


「何?」


「大鐘の響子」


「きょうし?」


「鐘心子、でもいい。叩いて鳴らす中身よ」


「鐘の中の、ぶつかるやつ?」


「そう。あれがないと、鐘は自分じゃ鳴れない」


ボクは頭の中で、さっき見上げた巨大な煤鐘を思い出した。あれだけ大きいのに、内側には何も見えなかった気がする。


「取られてるの?」


「昔、止めた時に抜かれたはず……でも、ここまで完全に沈黙するなら」


ヴァレナは唇を噛む。


「やっぱり足りない。煤鐘炉だけじゃなく、あれが必要だった」


「煤鐘炉って、それのため?」


ヴァレナが一瞬だけこちらを見る。


「ええ。古い響子の代わりを、鐘青銅で仮組みするため。熱と圧を合わせた代用品。だから部品を集めてた」


「最初から鐘を鳴らすために」


「そうよ」


その答えが来た瞬間、上から、ひどく大きな音が落ちてきた。


ごん。


第三の鐘だった。


時間切れだ。


均圧核がその音を拾って、一度だけ大きく脈を返そうとする。けれど、上の大鐘は沈黙したまま。返事のない呼吸は途中で折れ、流れは行き場を失って周囲の管へ散った。


足場の灯りが、一斉に落ちる。


「うわ」


青白い均圧核だけが、暗闇の中で浮かび上がる。


その光も、さっきより弱い。


「まずい」


ヴァレナが整備盤へ手をついた。


「均圧核が眠る」


「眠るって」


「次に起きる時には、もっと深く沈む。夜のあいだに街の熱路が痩せる」


「霧下が冷える」


「それだけじゃない。上も止まる」


そこで初めて、ボクは背筋に冷たいものが走った。下だけの問題じゃなくなると、上はやっと慌てる。そういうことが多い。多かった気がする。どこの世界でも。


上から、ばたばたと足音が近づいてくる。


「アウリィ! ヴァレナ!」


シアの声だ。


ボクは鎖へ駆け寄った。暗い上のほうから、作業灯の光が揺れている。シアが鎖を半分滑り降りるみたいにしてこちらへ来て、その後ろからロアン、さらに意外な顔が見えた。


セヴランだった。


黒い外套の裾を煤で汚しながら、ものすごく不機嫌そうに降りてくる。似合っていない。ここまで来るのに、かなり腹を括った顔だ。


シアが足場へ飛び降りるなり、ボクの肩を掴んだ。


「無事!?」


「うん」


「ほんとに!?」


「ほんとに」


「よかった……」


言い終わってから、シアははっとした顔をした。たぶん、思っていたより強く掴んでいたことに気づいたんだろう。すぐに手を離して、咳払いする。


「で、状況は」


ヴァレナが短く言う。


「第三弁と均圧核は繋がった。でも大鐘が死んでる。響子がない」


ロアンが眉をひそめる。


「響子?」


「鐘の腹を叩いて鳴らす中身だよ」


ボクが言うと、ロアンは「ああ」と頷いた。


「要するに鐘の舌か」


「そんな感じ」


シアの顔色がまた悪くなる。


「じゃあ今の脈、全部無駄に?」


「無駄じゃない」


ヴァレナが即座に言った。


「均圧核は起きた。完全に死んではいない。でも、街全体へ返す鳴りが足りない」


セヴランがここで初めて口を開いた。


「……代わりは」


ヴァレナが灰色の目で彼を見る。


「あるわ」


「あるのか」


「作った。まだ完全じゃないけど」


シアが息を呑む。


「どこに」


「旧送気室。煤鐘炉の脇」


テオの顔が頭をよぎる。旧送気室。患者たちのいた場所。あのとき残されていた炉の周り。


ロアンが即座に計算する顔になる。


「取りに行って、大鐘に入れて、鳴らす?」


「ええ」


「どこから?」


セヴランが低く言った。


「鐘冠の保守路だ」


全員の視線が彼へ向く。


彼は少しだけ嫌そうな顔をした。見られるのに慣れていない人の顔だ。


「監督局の閉鎖記録にある。今は封鎖されているが、上の鍵は私が持っている」


シアが目を細める。


「それ、最初に言って」


「最初はあなた方を止めるつもりでした」


「今は?」


セヴランは答える前に、暗くなった足場の向こうを見た。均圧核の弱い脈、沈んだ計器、塔の内側を這う冷たい風。上からは、街の一部がざわつき始めた音がする。突然熱が落ちれば、誰だって気づく。


「今は、止めても止まらない段階だと理解しました」


ロアンが鼻を鳴らす。


「理解が遅い」


「否定しません」


この人が素直に否定しないのは、少し意外だった。


シアは唇を噛んでから、ヴァレナに向き直る。


「その代わりの響子、どれくらい持つの」


「一度鳴らして、うまく共鳴すればしばらく。失敗すれば、割れる」


「しばらくってどれくらい」


「数日か、数ヶ月か、それ以上か。わからない」


「雑!」


「古い設備で即席よ、これ以上に何を求めるの」


「最低限の安心!」


「それは私だって欲しい!」


ふたりの声がぶつかって、すぐに少しだけ静かになる。


怒鳴りたいわけじゃない。焦っているだけだ。わかる。


ロアンが足場の端へ歩き、上を見た。


「夜のうちに運ぶか」


「夜明け前がいい」


ヴァレナが言う。


「今は熱路がまだ暴れてる。大鐘へ響きを返すなら、夜気が底へ落ちきる前、朝の立ち上がりに合わせたほうがいい」


「つまり休めない」


シアが死んだ目をする。


「最悪」


「寝てないもんね」


「他人事みたいに言わないで」


「ボクは寝たよ」


「それが腹立つ!」


ちょっとだけ元気が戻ったので、少し安心する。


そのとき、鎖の上から信号灯が振られた。小さな明滅。ロアンが顔を上げる。


「テオだ」


「待ってろって言ったのに」


シアが眉をひそめる。


「今度こそ待ってるだけ偉いよ」


ボクが言うと、シアは複雑そうな顔をした。


ロアンは短く合図を返してから、こっちへ向き直る。


「上はもう騒ぎ始めてる。封鎖局も完全には抑えきれねえ。今夜のうちに一度散って、夜明け前に合流するしかない」


「旧送気室で?」


ヴァレナが頷く。


「私が響子を持ち出す。シア、必要な固定具を選んで。ロアン、保守路の表を押さえて」


「セヴランは?」


ボクが聞く。


セヴランは少しだけ間を置いてから答えた。


「鐘冠の鍵を持って案内します。……それが、今できることだ」


シアが彼を見る目は、まだ全然やさしくない。でも、完全に拒絶もしなかった。


「案内だけじゃ済まないかも」


「承知しています」


「汚れるよ」


「もう汚れてます」


そう言って、セヴランは袖口の煤を見た。たしかにだいぶ汚れていた。少しだけ可笑しい。


ヴァレナが足場の縁に手をつき、息を整える。さっきまでの強い声の裏で、かなり無理をしていたらしい。火傷の古い手を握りこみ、じっと均圧核を見た。


ボクはなんとなく、彼女の隣に立った。


「惜しかったね」


ヴァレナは苦く笑う。


「ええ。すごく」


「でも、まだ終わってない」


「旅人の慰めって、いつもそんなに軽いの?」


「軽いよ。重いと動けないから」


ヴァレナは少しだけ黙って、それから小さく肩を揺らした。


「……嫌いじゃないわ」


それは、たぶんかなり珍しい褒め方だった。


***


上へ戻る鎖は、降りる時より長く感じた。


疲れのせいかもしれない。塔の内側の音がさっきと変わったせいかもしれない。第三鐘のあと、街は明らかに呼吸を乱していた。どこかの配管が熱を失い、どこかの昇降機が停止し、どこかで人が不安そうに空を見上げている。見えないのに、そういう気配が塔の中へ流れこんでくる。


梁道へ戻ると、テオが本当にそこで待っていた。


待っていた、というより、ほとんど縁まで身を乗り出していた。


「おっそい!」


第一声がそれだった。


「帰ってきたんだからいいでしょ」


ボクが言うと、テオは安堵と怒りの混ざった顔をした。


「よくねえよ、馬鹿!」


「心配ありがと」


「してねえ!」


「してたよ」


「……してたけど!」


素直だなあ。


シアが呆れながらも、テオの頭を軽く小突く。


「待ってたのは偉い」


「一回だけな」


「次も待って」


「それは内容による」


「返事がほんと可愛くない」


ボクが言うと、テオは「可愛くねえ!」と全力で否定した。うん、元気だ。


でも、梁道の向こう側では、封鎖局の空気は重かった。


さっきの押し問答で何人かは引いたらしいが、完全に解散したわけではない。遠巻きに見張る気配がある。セヴランが前へ出ると、そのうちの一人が駆け寄ってきた。


「監督官、ご無事で――」


「現時点より、中央鐘塔の保守権限は私が一時掌握します」


セヴランは冷たく言った。


「封鎖局は外周警備へ下がりなさい。内部は整備区と詰所が引き継ぐ」


男は戸惑う。


「ですが、閉鎖命令は――」


「私が上書きします」


「責任は」


「私が持つ」


短い言葉なのに、梁道の空気が変わる。さっきまで人を数字で切っていた人だ。でも、責任を持つと言う時の声は、逃げている声ではなかった。


ロアンが横でぼそっと言う。


「ようやくらしいこと言ったな」


セヴランは聞こえていたはずだが、何も返さなかった。


梁道を戻りながら、シアがヴァレナへ低く言う。


「……なんで言わなかったの」


「何を」


「煤鐘炉の本命が響子だったってこと」


ヴァレナは少しだけ目を伏せる。


「言えば、止められると思ったから」


「止めたよ」


「でしょうね」


「でも、言わなかったから余計こじれた」


「それもわかってる」


シアの唇が尖る。怒りたい。でも、今ここで責めても意味がないとわかっている顔だ。


ヴァレナは続ける。


「私、誰かと一緒にやるの下手なの」


「知ってる」


「ひどいわね」


「ほんとだよ」


でもその返事に、前みたいな棘はなかった。


ふたりの間にあるのは、まだ不信だし、まだ怒りだ。けれど、同じ機械を前にした人同士の諦めない距離でもある。ボクはそういうの、少し好きだ。


梁道の途中、さっき立ち止まりそうになった大鐘の下で、また目が引かれた。


今度は灯りが少ないぶん、彫り込まれた模様が逆によく見えた。鐘肌の縁。細い花弁が放射状に刻まれている。その中央に、小さな文字。


煤で汚れていて読みにくい。けれど、指先でなぞるみたいに目で追う。


**追想の花を忘るるな**


「……」


意味を拾った瞬間、どこか遠くで、誰かの笑い声がした気がした。


優しい声。髪に何かを挿してくれる指。黄色い花。赤い花。柔らかな布。日差し。


そこまでで、像は崩れる。


思い出せそうで、思い出せない。


「アウリィ?」


シアに呼ばれて、瞬きをする。


「またぼーっとしてた」


「この塔、そういうの多いね」


「うん。たまに、古いものはそうなる」


「懐かしい感じ?」


「……たぶん」


それ以上うまく言えなかった。


髪飾りに触れる。赤い彼岸花の硬い輪郭。これをくれた人の顔も、もうよく思い出せないのに。指先だけが覚えているものがある。


長く生きるというのは、たぶん、こういう取りこぼしが増えることだ。


それでも、今この瞬間に見たものは、まだ新しいから、ちゃんと覚えていられる。そう思うと少しだけ救われる。


***


中央鐘塔を抜けて外へ出ると、クラーヴェルの夜は妙に静かだった。


音がないわけじゃない。人の声もあるし、遠くで何かを叩く音もする。けれど、街の底にいつも流れていた蒸気の低い唸りが、一段薄い。大きな生き物が息を潜めているみたいだ。


広場の先で、昇降機のひとつが止まったままになっているのが見えた。駅のほうも灯りが少ない。屋台の火もまばらだ。


「うわ……」


テオが呟く。


「ほんとに落ちてる」


ロアンが低く返す。


「まだ全部じゃねえ。けど広がる」


道行く人たちが、みんな落ち着かない顔をしている。上を見たり、配管へ手を当てたり、知らない人同士で短く何かを言い合ったり。噂はもう回り始めているのだろう。街が冷えた時、人はすぐそれに気づく。


ベッタおばさんの屋台の前を通ると、火はついていたけれど揚げ物は止めていた。代わりに大鍋で湯を沸かしていて、並んだ人たちに紙カップを配っている。


「シア!」


おばさんが呼ぶ。


「何が起きてるんだい。西も中もぬるくなってるよ」


シアは立ち止まって、一瞬だけ答えに迷った。でもすぐに言う。


「まだ直せる。だから、今夜はできるだけ火を節約して。朝まで配管を触らないで」


「朝まで?」


「お願い」


ベッタおばさんはシアの顔を見て、何かを察したらしい。余計なことは聞かなかった。


「わかったよ。無茶すんじゃないよ」


「もうしてる」


「知ってる」


そのやり取りに、少しだけ笑ってしまう。


旧送気室へ向かう前、ロアンが皆を止めた。


「一度ここで分ける」


「分ける?」


テオが不安そうに聞く。


ロアンは指を折る。


「ヴァレナとシアは響子の回収。俺は詰所に顔を出して、使えるやつを選別する。封鎖局より口が軽くなくて、逃げないやつだけな」


「だいぶ条件きついね」


ボクが言うと、ロアンは疲れた顔で笑った。


「世の中、使えるやつは貴重なんだよ」


「ボクも?」


「お前は分類不能だ」


「ひどい」


「褒めてる」


「半分でしょ」


「親方の悪い癖がうつってるな」


ロアンはそこでセヴランを見る。


「監督官は?」


セヴランは少し考えてから答えた。


「鐘冠の鍵と、封鎖記録を取りに戻る。夜明け前に鐘塔西口で合流を」


「逃げない?」


シアがきつく言う。


セヴランは真正面からその視線を受けた。


「逃げるなら、さっきの時点でとっくにしています」


「それもそうか」


「信用はされてないでしょうが」


「されてない」


即答だ。シアらしい。


でもセヴランは怒らなかった。ほんの少しだけ口元を下げただけで、頷いた。


「妥当です」


その返しに、ボクは少しだけ感心した。


ヴァレナが旧送気室の方角を見る。


「時間が惜しい。行きましょう」


テオがすぐに言う。


「俺も」


シアが言い返す前に、ボクが先に口を開いた。


「いると助かる気がする」


「またそれ!」


シアが頭を抱える。


「だって、道知ってるし」


「知ってるけど!」


「あと、走るの速い」


「そんな評価のされ方ある?」


テオが複雑そうな顔をした。


ヴァレナは少しだけ考えてから、テオを見る。


「来るなら運び手よ。響子は重い」


「重いのかよ……」


「鐘の中身だもの」


「たしかに」


テオは嫌そうな顔をしたけれど、断りはしなかった。


結局、ボクとシアとヴァレナとテオで旧送気室へ向かうことになった。ロアンとセヴランは別れる前に、それぞれ短く言う。


「夜明け前、西口」


「遅れるなよ」


「そっちもね」


「できるだけ」


ロアンに返すと、彼は少しだけ嫌そうな顔をした。テオと同じ顔だったので、ちょっとおかしい。


セヴランは去り際、ヴァレナへ低く言った。


「……当時の記録、私も全部見ていたわけではない」


ヴァレナは足を止めないまま返す。


「今さら弁明?」


「違う。自分でも、どこから自分の判断で、どこから引き継いだ判断だったのか、曖昧だという話です」


「便利ね。曖昧は」


「ええ。だから嫌いです」


それだけ言って、セヴランは霧の中へ消えた。


ヴァレナは振り返らなかったけれど、手袋の指先だけが少し強く握られていた。


***


旧送気室は、昼よりずっと静かだった。


患者たちは詰所の手で別の避難所へ移されたらしい。簡易寝台は片づけられ、薬瓶も減っている。代わりに、部屋の中央で煤鐘炉が赤く低く脈を打っていた。完全に火は落ちていない。仮の運転を続けていたのだろう。


その炉の脇に、布でくるまれた長い塊が置かれていた。


ヴァレナが布を剥ぐ。


出てきたのは、鐘の舌というには少し細い、涙滴みたいな形の金属塊だった。青銅に似た色だけれど、ところどころ銀が混ざっている。表面には細かな刻線がびっしりと入り、根元には固定具がついていた。


見た瞬間、わかった。


これは鳴るための形をしている。


「わあ」


ボクが思わず言うと、シアも少しだけ息を呑んだ。


「……きれい」


ヴァレナはその響子を見つめたまま、ぽつりと答える。


「ローレが昔、理論だけ出したの」


「え」


「“仮ならこの配合でいける”って。私は腹が立ってたから、使わないつもりだった」


「なんで」


「一人でやりたかったから」


「子どもっぽい」


「ええ。知ってる」


ヴァレナは苦く笑う。


その笑いに、今までより少しだけ人間らしい温度があった。完全に正しい人でも、完全に間違った人でもなく、意地っ張りで、下手で、それでも諦めていない人の顔だ。


テオがそっと近づく。


「これで、母さんのとこもあったかくなる?」


ヴァレナはすぐには答えなかった。


響子の縁を指で撫で、それからテオを見る。


「うまく鳴れば」


「失敗したら」


「冷える」


「……そっか」


テオは唇を噛む。聞かなきゃよかったと思っている顔じゃない。ちゃんと聞いて、ちゃんと怖がっている顔だ。


ボクはその横顔を見て、少しだけ胸がざわついた。子どもがそういう顔をするのは、いつだって見ていてつらい。けれど、隠すほうがもっとよくないこともある。


シアが響子を持ち上げようとして、顔をしかめた。


「重……っ」


「だから言ったでしょ」


「なんでこんなに」


「鐘青銅に圧銀を混ぜてるから」


「名前がもう重い」


テオも反対側を持つ。ふたりがかりでようやく持ち上がるくらいだ。


「アウリィは?」


シアが聞く。


「ボク、別のほうがいいかも」


「何」


ボクは煤鐘炉の赤い脈を見た。


「この子、まだ起きてる」


炉の表面に触れる。


――いくの?

――ならすの?

――もうすぐ?


「うん。借りたもの、返しに行く」


ヴァレナが目を細める。


「何をする気」


「ちょっとだけ、鳴りを整える」


「できるの」


「わからない。でも、やってみたい」


それは本心だった。


煤鐘炉と均圧核と大鐘。ばらばらだった街の呼吸を、最後につなぐものが今、ここにある。知らないものだ。面白い。怖くて、面倒で、でも見たい。


ボクは聖槍を呼び出し、煤鐘炉の縁へ石突きを当てた。


銀の金属と、煤けた青銅。違う音がするはずなのに、不思議と喧嘩しなかった。むしろ、ちり、と小さな火の子たちが喜んだ。


――なる。

――いける。

――でも、はやく。


「急ぐって」


少しだけ力を流す。大規模なことをするには、この世界の精霊たちは素直すぎるわけじゃない。でも、短い助走くらいなら作れる。


炉の内側の赤が、少しだけ澄んだ。


ヴァレナが目を見開く。


「……十分よ」


「よかった」


槍を消すと、炉は今までより安定した赤を保った。響子の表面の刻線にも、細い熱が通っていく。


シアがそれを見て、ふっと息を吐く。


「ほんと、何なのあんた」


「上手な旅人」


「それ、便利な答えだね」


「でしょ」


今度はシアも少し笑った。


でも、笑いはすぐに霧へ溶ける。時間がない。みんなそれを知っている。


ヴァレナが布を巻き直し、響子の固定具を確かめる。


「行きましょう」


「うん」


「アウリィ」


「なに」


「ありがとう」


まっすぐ言われて、少しだけ照れる。


「どういたしまして」


本当にそう言うしかなかった。


送気室を出る前、ボクは日記帳を取り出した。ほんの数行だけ書く。


――旅の記録。街の心臓は、青白く脈を打っていた。古い鐘には中身がなく、その代わりを今から運ぶ。間に合うかはまだわからない。でも、たぶん、わくわくしている。


そこで少し止まってから、書き足す。


――離れるための旅をしているのに、たまにこうして手を伸ばしてしまう。


ペンを止める。


それ以上は、今は書けなかった。


日記帳を閉じてポーチへ戻し、送気室の扉を押す。


外の霧は深かった。朝まではまだ遠い。でも、遠いだけで、来ないわけじゃない。


その時、不意に空気が少しだけ変わった。


皮膚の上を撫でる世界の重みが、ほんのわずかに軽くなる。


「あ」


小さく声が漏れる。


シアが振り返る。


「どうしたの」


「……なんでもない」


たぶん嘘だ。


でも、今それを説明する時間も言葉もない。クラーヴェルがボクを受け入れている感触が、ほんの少しだけ薄くなった気がした。この街の呼吸が整えば、あるいは終わりに近づけば、ボクがここにいられる時間もまた決まってくる。


知っていたことだ。


知っていたのに、今は少しだけ、惜しいと思った。


真紅のマントを引き寄せる。裏地の黄色が一瞬だけ視界をよぎった。


「行こう、アウリィ」


シアの声。


「うん」


ボクは頷いて、霧の中へ踏み出す。


腕の中には、街を鳴らすための代わりの舌。

向かう先には、まだ沈黙している大鐘。


そしてその先には、たぶん、別れに似た朝が待っている。

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