表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
62/80

3話「第三共鳴弁」

「アウリィ! ちょっと来て!」


階下から呼ばれた声は、急いでいる時のシアの声だった。


ボクは閉じたばかりの日記帳をポーチへ戻し、物置部屋の床を軽く蹴って立ち上がる。窓の外の霧は、夕方が近いせいか朝より重たく見えた。鐘の時間まで、たぶんそんなに余裕はない。


階段を降りると、工房の空気は朝よりさらに張っていた。


机の上にはヴァレナの残したノートが開かれ、周りに工具や図面が散らばっている。シアのほかにロアン、それから見知らぬ男が一人いた。


大きい。


まずそう思った。


背が高いというより、肩幅が広い。灰色がかった作業着の袖をまくった腕は太く、左手の指先には真鍮の補助具がついている。煤けた髭、深い皺、いかにも整備塔の奥から出てきたみたいな匂い。目は細いのに、寝不足のせいか妙にぎらついていた。


男はボクを見るなり、眉を持ち上げた。


「……そのちっこいのが昨日の槍だってやつか」


「ちっこいのって言わないで」


反射的に返すと、男は一拍遅れて鼻を鳴らした。


「元気だな」


「そっちこそ」


「口も達者だ」


「褒めてる?」


「半分」


シアが呆れた顔で言う。


「親方、そこで意地悪しないで」


「してねえよ。確認だ」


親方。ということは、この人が。


「ローレ?」


ボクがそう言うと、男は少しだけ顎を引いた。


「整備区のローレだ。お前がアウリィか」


「うん。旅人」


「そこ、昨日から聞いてるが全然説明になってねえ」


「そういうものなんだよ」


ローレは「厄介だな」とでも言いたげな顔をしたが、それ以上は食いついてこなかった。ありがたい。こういう時、説明を始めると大抵長くなるし、長くなったところでたいてい納得はされない。


ロアンが机を指先で叩く。


「雑談はあとだ。親方がノートを見て、気になることがあると言い出した」


ローレはノートのページを一枚めくり、端に書かれた小さな記号を真鍮の指で叩いた。


「これだ。ヴァレナの癖字でわかりにくいが、“第三共鳴弁”って書いてある」


「うん。送気室で見た」


ボクが答えると、ローレは頷いた。


「だが問題は場所だ。シア、お前は最初、あの旧炉のどこかだと思ったろ」


「思った。違うの?」


「違う。少なくとも、それだけじゃ足りん」


ローレは工房の隅に立てかけてあった古い街図を引っ張り出し、机の上へ広げた。煤鐘街クラーヴェルの断面図。上層、中層、下層。それを繋ぐ昇降機。何本もの熱管と送気路。その中心に、鐘楼みたいな高い塔が描かれている。


中央鐘塔。


たぶん、駅から遠くに見えた、あのいちばん高い建物だ。


ローレの真鍮の指先が、街図の中心を叩く。


「煤鐘炉は単体で熱を吐く設備じゃねえ。昔は街全体の圧を“鳴り”で揃えてた。上と下で熱が偏らないように、いくつかの共鳴弁を通して流れを調律する」


「調律って、楽器みたいな?」


ボクが聞くと、ローレは少しだけ意外そうな顔をした。


「まあ、近い。圧は音に似る。歪めりゃ暴れるし、合えば素直に流れる」


シアが腕を組む。


「じゃあ第三共鳴弁って、街の調律弁のひとつ」


「そうだ。しかも厄介な位置にある。中央鐘塔の真下、均圧廊の奥だ」


ロアンが嫌そうに顔をしかめた。


「一番入りたくない場所じゃねえか」


「入れないの?」


「今は閉鎖区域だ。上の連中は事故のあと、あそこに封鎖局を回してる」


封鎖局。名前からして感じがよくない。


シアが街図を覗きこみながら言う。


「ヴァレナが今夜三つ鐘で鳴らすつもりなら、旧炉だけじゃなくて中央の弁も触る必要がある……」


「そういうことだ」


ローレはそう言ってから、ノートの別のページを開いた。細い数字がびっしり並んでいる。ボクにはほとんどわからない。でもシアの顔色は、見る見るうちに悪くなっていった。


「これ……圧の落ち方、おかしい」


「おかしいんじゃなくて、ずっと無理してる」


ローレの声は低い。


「西と下の配管は何年も前から均衡ぎりぎりだ。上に足すたび、下を細くしてきたからな」


ロアンが眉を寄せる。


「そんな話、聞いてないぞ」


「聞かせるわけねえだろ。詰所に配管の真実なんざ流さねえ」


「配管の真実って言い方、嫌だな……」


ボクがぽつりと言うと、ロアンが苦い顔で同意した。


シアはノートから顔を上げる。


「親方。ヴァレナは、街が止まるって本気で思ってる?」


「本気だろうな」


「当たってる?」


ローレはすぐには答えなかった。真鍮の指で無意識に机をこつこつ叩き、やがて短く言う。


「半分は」


工房の中が静かになる。


半分。それは、一番嫌な答え方だ。全部嘘なら簡単だし、全部正しいならもっと厄介だけれど、まだ筋は通る。半分だけ正しい時が、いちばん人を迷わせる。


ボクはローレを見る。


「ヴァレナって、どんな人だったの」


ローレはボクへ視線を向け、少しだけ目を細めた。


「質問の仕方が妙だな」


「だって、壊す人の顔じゃなかった」


「そうだな」


ローレはノートへ目を落とした。


「あいつは腕のいい調律師だった。音で圧を読む。本来なら見えない偏りまで拾う。上が見たがらないもんまでな」


「嫌われそう」


「嫌われたよ」


あまりにも迷いのない言い方で、少しだけ胸がちくりとした。


ロアンが壁にもたれて腕を組む。


「で、どうする。中央に報告は入れたが、返事は鈍い。封鎖を強めるばかりだ。俺ひとりで鐘塔に入れる気もしねえ」


「俺だって正面からは無理だ」


ローレは棚の奥から細長い金属筒を取り出した。銀色の叉みたいな形をした道具。持ち手に歯車の紋が刻まれている。


「ただし、古い整備路ならまだ生きてる可能性がある。これは鐘底の保守鍵だ。音叉鍵。第三共鳴弁の手前まで行ければ、扉くらいは開く」


シアが息を呑む。


「そんなもの、まだ持ってたの」


「捨ててねえだけだ」


「それ、違法じゃ」


「今さらだな」


ロアンがぼそっと言い、シアが少しだけ笑った。たぶん緊張の逃がし方として笑ったのだと思う。


ローレは音叉鍵をシアに渡したあと、ちらりとボクを見る。


「お前、精霊だか何だかに道を聞けるんだってな」


「ちょっとだけ」


「均圧廊の奥は蒸気が乱れる。目より鼻と感覚が頼りだ。役に立つかもしれん」


「任せて」


ローレは頷きかけて、すぐに眉をひそめた。


「……頼もしいのか不安なのかわからん返事だ」


「よく言われる」


「便利な言葉だな、それ」


その時、工房の隅でごとりと音がした。


全員がそちらを見る。


積んであった木箱の陰から、テオがのそっと顔を出した。しまった、という顔をしていない。最初から聞くつもりだった顔だ。


「やっぱりな」


シアが額を押さえる。


テオは胸を張った。


「均圧廊の近道、俺が知ってる」


「帰れ」


シアとロアンがほぼ同時に言った。


「最後まで聞けよ!」


「聞いた上で帰れって言ってる」


「上の封鎖局の巡回、あいつら重たい靴だから音でわかる。下の抜け道は知らない。俺なら避けられる」


「それでも帰れ」


「シア!」


「だめなもんはだめ!」


テオの顔が真っ赤になる。ロアンはまだ冷静そうだったが、シアはもう半分怒っていた。たぶん怖いのだ。昨日の昇降機の件があるから、なおさら。


ボクはしばらく二人のやり取りを見ていたけれど、やがて口を挟んだ。


「テオ」


「なんだよ」


「案内だけなら?」


テオがぱちりと瞬く。シアが振り返る。


「アウリィ」


「最後まで連れていくんじゃなくて、入り口のもっと前まで。封鎖局を避ける道が本当にあるなら、そこまでは助かる」


ロアンが低く唸った。


「……それなら」


シアはすぐに頷かなかった。苛立ちと迷いが顔に出る。でも、役に立つのも事実だとわかっているのだろう。


テオは追い打ちをかけるみたいに言った。


「母さんのこと、あいつに聞いた。昔、薬草もらったことあるって。だったら俺も聞かなきゃだめだろ。なんでそんなことしたのか」


シアの表情が少し揺れる。


ボクはそこで、何も言わなかった。言えることはたぶんいくつかあったけれど、ここは本人たちの場所だと思ったから。


しばらくして、シアは長く息を吐いた。


「案内だけ」


テオの顔が明るくなる。


「ただし、均圧廊の手前で止まる。そこから先は絶対だめ」


「わかった」


「ほんとに?」


「わかったって!」


「あと勝手に消えるな」


「はいはい」


「返事が軽い」


「はい!」


ロアンが小さく笑う。


「こりねえな、お前ら」


ローレはそのやり取りを見ていたが、やがて工房の裏扉を顎で示した。


「行くなら日が完全に落ちる前だ。鐘塔の下は夜の巡回が増える」


シアが工具袋を肩にかける。ロアンは警棒の位置を確かめ、ボクは真紅のマントを羽織り直した。テオはいつのまにか、昨日よりしっかりした靴を履いている。


出る直前、ローレがボクを呼び止めた。


「アウリィ」


「なに?」


「昨日の西昇降機、助かった」


ぶっきらぼうで、視線も少し逸れている。でも、ちゃんと礼だ。


ボクは少し笑った。


「どういたしまして」


ローレはそれ以上何も言わなかった。ただ、ノートの上に置かれた真鍮の調律棒を見つめる目だけが、ひどく古いものを見る目をしていた。


***


クラーヴェルの夕暮れは、空より先に音が暗くなる。


石橋を渡る足音。蒸気弁の吹く息。遠くを走る昇降機の鎖鳴り。どれも昼間より低く、重くなっていく。その上を薄い霧が流れて、街は誰かが布をかけたみたいに輪郭をぼかした。


テオの案内は確かだった。


正面の階段や大通りは使わず、建物と建物のあいだの細い連絡橋や、配管の影になった足場を渡っていく。ときどきボクでも「そこ通るの?」と思うような狭い縁を迷いなく進むので、見ていると少しひやひやする。


「落ちないでね」


ボクが言うと、テオは振り返りもせず答えた。


「そっちこそ」


「ボクは落ちるの得意じゃないから」


「得意って何だよ」


「落ちないのが、って意味」


「紛らわしい!」


前を歩くシアが肩越しに言う。


「二人とも静かに」


「はーい」


「はい」


返事の質が違うのが面白くて、ちょっと笑いそうになる。


中央鐘塔へ近づくにつれ、街並みは少しずつ変わっていった。上層ほど華やかではないけれど、中層の整備区よりは石の造りが重厚で、壁面には古い装飾が残っている。煤で黒ずんではいるものの、よく見れば鐘や歯車の浮彫りがあちこちにある。


そのひとつに目が止まった。


花弁みたいな模様が、鐘の縁に彫られている。


立ち止まりかけて、やめる。今はまだ見るだけ。


「どうした」


ロアンが小声で聞く。


「なんでもない。模様がきれいだなって」


「そんな余裕があるのはお前だけかもしれん」


「いいことだよ、たぶん」


そう返すと、ロアンは呆れたような、でも少しだけ救われたみたいな顔をした。


細い横路地を抜けたところで、シアが足を止める。前方の石段の上を、封鎖局らしい黒い外套の集団が横切っていった。顔の下半分を布で覆い、手には長い提灯型の灯具。動きが硬い。巡回というより、探している歩き方だ。


ロアンが眉をひそめる。


「思ったより多いな」


テオがしゃがみこんで、路地の端の鉄格子を持ち上げた。


「こっち」


「待て、それどこに」


「洗浄路」


シアが嫌そうな顔をする。


「汚い」


「文句言うなよ、近いんだから」


結局、文句を言いながらもシアは先に入った。ボクも続く。格子の先は、半ば使われなくなった排水用の細道だった。天井が低く、足元に薄い水が流れている。匂いは……うん、あんまり良くない。


「これはたしかに汚いね」


「ほら見ろ」


「でも楽しい」


「楽しいの!?」


シアが信じられないものを見る顔をした。


「だって、こういう道って世界ごとに全然違うよ。ここは石が丸い。あと配管の組み方が面白い」


「比較対象がわからない」


「雨が鉄みたいに降る街の排水路は、もっと嫌な匂いだったよ」


テオが振り返る。


「何それ」


「鉄みたいに降る雨」


「だから何だよそれ!」


説明しようとして、少しだけ口を閉じる。古い世界の話は、時々、どこまでが本当にあったことだったか曖昧になる。赤い砂の街だった気もするし、空がずっと灰色だった気もする。細部は薄れているのに、服の裾が錆びた感覚だけが残っている。


「……まあ、そんなところもあったってこと」


そう濁すと、テオはまだ納得していない顔をしたが、先を急いだ。


狭い洗浄路を抜けると、小さな空隙みたいな場所に出た。石壁の内側に作られた保守用の棚足場で、そこから街の中心部の裏側が見えた。真正面には、中央鐘塔の下層外壁。黒く高く、灯りの点が縦に並んでいる。近くで見ると、思っていた以上に巨大だ。


「わぁ……」


思わず声が漏れる。


「静かにって言ったばっかり!」


シアがひそひそ叱る。


「ごめん。でも大きい」


「それはそうだけど」


テオが足場の端を指さした。


「あそこ。あの錆びた梯子の先に、均圧廊へ繋がる保守扉がある」


ロアンが目を細める。


「封鎖局は?」


「上の巡回は表だけ。裏は滅多に来ない。来ても一回りするだけ」


「滅多には来るのか」


「だから急ぐんだよ」


テオはそこでシアを見る。


「ここから先、ほんとに俺は待つから」


「……約束ね」


「するって」


「絶対」


テオは少し不満そうに唇を尖らせたが、やがて頷いた。


「わかった」


ロアンは懐から真鍮の笛と似た小さな信号灯を取り出し、テオへ渡した。


「何かあったらこれを振れ。音を立てるな」


「使い方わかる」


「知ってる顔だな」


「前に……見たことある」


“前に”がたぶん碌でもない前だろうな、と思ったけれど、ロアンも同じことを思ったらしく、あえて聞かなかった。


ボクはテオの前にしゃがみこんだ。


「無茶しないでね」


「そっちこそ」


「それ、さっきも言われた」


「何回でも言う」


灰色の目がまっすぐこっちを見る。強がってはいるけど、心配もしている目だ。出会った時は盗んで逃げていたのに、人って数日でこんな顔をする。数日だから、かもしれないけれど。


「ちゃんと戻ってくる?」


テオが小さく聞いた。


問いの形は単純なのに、少し答えに困る。戻るつもりはある。でも、“ちゃんと”の意味は、人によって違うから。


それでも、今はこれでいい気がした。


「できるだけ」


ボクがそう言うと、テオは一瞬だけ嫌そうな顔をしたあと、諦めたみたいに肩をすくめた。


「ずるい答え」


「うん」


そこは否定しなかった。


***


錆びた梯子は見た目より丈夫だった。


一段ごとにきしむ音がして、下を見れば足場の隙間から霧が覗く。高いところは嫌いじゃない。でも、濡れた金属は少しだけ気を遣う。


梯子の先には、小さな半円扉があった。煤と錆でほとんど壁の一部みたいになっている。シアがローレから預かった音叉鍵を差しこむと、内部で二度、澄んだ金属音が鳴った。


かち、ちん。


扉がゆっくり開く。


「ほんとに音で開くんだ」


ボクが言うと、シアはうなずいた。


「古い調律設備は、鍵穴より共鳴で認証するほうが多かったらしい」


「面白い」


「でしょ」


言ったあと、シアは少し驚いたみたいに瞬く。自分がボクと同じ調子で「面白い」と言ったことに気づいたのだろう。


ボクは少し嬉しくなる。


均圧廊は、思っていたより静かな場所だった。


広いわけではない。むしろ狭い。円筒形の通路が緩やかに下り、両側の壁に無数の細い管が沿っている。その一本一本に、小さな鐘みたいな金属片が吊るされていた。風が通るたび、かすかに鳴る。


ちん。

ちりん。

ちん。


ネッサが夜中に聞いたという鐘の音は、たぶんこれのどこかから漏れていたんだろう。


「……きれい」


思わずそう言うと、ロアンが肩越しに振り返った。


「こんなところでその感想が出るの、やっぱり変だな」


「いい音だよ」


「不気味だろ普通」


「不気味ときれいは両立するよ」


シアが横から言う。


「それはちょっとわかる」


「シアまで」


ロアンが本気で嫌そうな顔をしたので、少し笑ってしまった。


でも、笑いは長く続かなかった。


通路を進むほど、空気の歪みがはっきりしてきたからだ。熱の流れが一定じゃない。右の壁はぬるいのに、左は冷たい。送気の音も揃っていない。どこか無理やり抑えこんでいる感じがする。


ボクは壁へ指先を添える。


――いたい。

――つまる。

――ひっぱる。

――うえ、うえ、した、うえ。


「上ばっかり引いてる」


気づけば口に出ていた。


シアが足を止める。


「何が」


「熱。流れ。上に持っていかれてる」


ロアンが壁の圧計を見る。針は細かく震えていた。


「……俺でもわかるくらい偏ってるな」


「こんな状態で回してたの?」


シアの声は、怒る前の低さだった。


前方が少し開けて、円形の小部屋に出る。そこでボクたちは、一度揃って息を止めた。


壁一面に計器が並んでいた。


大きな圧力計、細い温度管、流量を示すガラス筒。どれも古い。でも、死んではいない。針は動いている。ただし、まともな動き方じゃなかった。何本もの針が赤い線ぎりぎりで耐え、いくつかは完全に振り切れている。しかも、その上から新しい銘板が乱暴に打ちつけられていた。


**臨時転用**

**増設優先路**

**中央製造区補助配分**


シアが近づき、そのうちの一枚を指でなぞる。指先に煤がついた。


「臨時、って……何年放置してるの」


ロアンが別の銘板を読んだ。


「十七周期前」


「臨時の意味知ってる?」


「知ってたらこんなことにはなってねえだろうな」


シアの顔が完全に怒っている。あの、昇降機の前で必死だった時とも違う怒りだ。整備士として見てはいけないものを見た人の顔。


ボクは反対側の壁を見る。


そこには、古い設計図がガラス板の裏に挟まれていた。煤で読みにくいけれど、元の配分ではもっと均等に熱が流れていたのがわかる。上へ太い線。下へ細い線。途中で何本も分岐が切られ、別の継ぎ足しがされている。


「この街、温かさの通り道を変えられてる」


ボクがそう言うと、シアが小さく頷いた。


「わざとね」


「上のためにか」


ロアンの声は重かった。


返事の代わりに、通路のさらに奥から靴音が響いた。


硬く、よく揃った足音。


封鎖局だ。


シアがすぐにランプを絞る。ロアンが警棒へ手をかける。


足音はまっすぐこちらへ来る。隠れ場所は少ない。円形の計器室は開けすぎていて、逃げるなら奥の扉しかない。でも、その扉には重い錠がついていた。


「まずいな」


ロアンが低く言った、その直後。


「まずいですね」


別の声が、足音の主から返ってきた。


通路の入口に現れたのは、黒い封鎖局の外套を着た三人と、その後ろに立つ細身の男だった。年は四十前後。髪はきっちり撫でつけられ、襟の高い上着に銀の留め具。手袋まで汚れていない。ここまで降りてくるには場違いなくらい整った人だった。


目だけが冷たい。


「見回りのロアン。整備区見習いシア。許可なく閉鎖設備へ侵入とは感心しませんね」


ロアンが舌打ちする。


「監督官セヴラン」


なるほど。上の人だ。


セヴランは視線を滑らせ、ボクのところでわずかに眉を動かした。


「それに子どもまで連れこんだんですか」


「子どもじゃない」


ぴしゃりと返すと、セヴランはほんの少しだけ口元を歪めた。笑ったわけではない。ああ、この手の人は苦手だな、と思う。人を見る前に分類する顔だ。


シアが一歩前へ出る。


「監督官こそ、何しに来たんですか」


「後始末です。ヴァレナの暴走を止め、これ以上の混乱を防ぐために」


「混乱?」


シアの声が刺さる。


「この配分、見ました。ずっと下を削ってたんですね」


セヴランの表情はほとんど変わらない。


「優先順位の問題です。全域を完璧に維持する資源はない」


「だから下を切る?」


「そういう言い方は好みません」


「事実でしょ!」


計器室にシアの声が響いた。小さな鐘片が細かく鳴る。セヴランは一度だけ目を伏せ、それから静かに言う。


「感情で管は持ちません」


ロアンが低く吐き捨てる。


「感情がなきゃ、下で咳いてるやつの数も数えないだろ」


「数えてはいます」


「数えるだけで終わってる」


「終わらせないために、局所的な損失で済ませるんです」


その“局所的”という言葉に、ボクは少しだけ首を傾げた。


「局所って、人のこと?」


セヴランが視線を向ける。


「街全体を守るには、そういう判断も必要です」


「ふうん」


うまく言えないけれど、その答えは冷たかった。冷たいのに、本人は冷たいと思っていない答え方だ。


シアがノートを抱え直す。


「ヴァレナの計画を知ってるなら、なんで今まで放っておいたんです」


「泳がせました。部品の流れと接触先を洗うために」


「西昇降機の事故も?」


「想定外でした」


「人が乗ってたんですよ!」


セヴランの目が、ほんの一瞬だけ揺れた。罪悪感とまではいかない。けれど、“予定と違った”ことへの不快はあった。


「だからこそ、ここで終わらせる」


彼が軽く手を上げる。封鎖局の三人が前へ出た。


「ノートを渡してください。あとは局が処理します」


ロアンが立ち塞がる。


「処理ってのは、壊して塞いで見なかったことにするって意味か」


「言葉が汚いですね」


「現場は大体汚いんだよ」


「ロアン」


「何だ」


「好き、その言い方」


「褒めても通さねえぞ」


ボクがそういう意味で言ったわけじゃないとわかっているのか、ロアンの声は少しだけ柔らかかった。


セヴランはため息をつく。


「時間がない。今夜三つ鐘までにヴァレナを確保しなければならない。あなた方の個人的な怒りや同情に付き合っている暇はないんです」


「個人的?」


シアが笑った。乾いた、怒った笑いだった。


「配管の悲鳴を見て、個人的で片づけるんだ」


「見習いが全体判断を語るには早い」


「見習いでも、漏れてる場所くらいわかる!」


空気が張り詰める。


その時、不意に足元の床が小さく振動した。


かん、と、遠くで鐘が鳴るような音。


ボクは咄嗟に壁へ触れる。


――ひらく。

――した。

――ひとり。

――こっち。


「え?」


ボクが振り向いたのと同時に、計器室の天井近くの点検蓋が跳ね上がった。


「うわっ!」


テオが頭から落ちてくる。いや、自分で飛び降りてきた。


「お前!?」


シアが絶句する。


「待ってろって言われたけど待てるかよ!」


「待てよ!」


「だってそっち絶対捕まる流れだったろ!」


その通りすぎて誰も即座に否定できない。


テオは着地と同時に壁際のレバーへ飛びついた。何をする気かと思った次の瞬間、彼が全体重をかけて引き下ろす。


ごごん、と重い音。


計器室の片隅にあった古い圧抜き管が開き、白い蒸気が横殴りに噴き出した。


「下がれ!」


ロアンが怒鳴る。封鎖局の男たちが視界を失ってよろめく。セヴランが咳きこんだ。


シアが反射的にノートを胸へ抱え、ボクの腕を掴む。


「走るよ!」


「うん!」


こういう時の返事は速い。


ボクたちは奥の重い扉へ駆ける。ローレの音叉鍵を差しこむ暇すら惜しい。なので、少しだけずるをする。


右手を空へ向ける。


銀白の穂先が滑り出る。ミスリルの聖槍。


シアが見慣れたとはいえ、まだ少しだけ目を丸くする横で、ボクは石突きを錠へ叩きこんだ。古い共鳴錠は、力任せより正しい振動のほうがよく効く。


甲高い音。錠が割れる。


「開いた!」


「開け方が乱暴!」


「急いでるから!」


ロアンが後ろからテオを襟首ごと引っつかみ、扉の中へ押しこむ。封鎖局の一人が蒸気の向こうから棒を振りかぶるのが見えたので、ボクは槍の柄でそれを受け流した。手首を軽く返すだけで、棒は床へ転がる。


「行け!」


ロアンが叫ぶ。ボクたちは扉の向こうへ滑りこみ、彼が最後に内側の手輪を回す。重い金属扉が閉じる寸前、セヴランの冷たい声が響いた。


「ロアン。今のは職務放棄ですよ」


ロアンは扉を閉めきってから、低く返した。


「今さら好かれようと思ってねえよ」


扉の向こうで、封鎖局が何か叫んでいる。けれどすぐには破れない。古い設備の重みは、こういう時に頼もしい。


息を整える間もなく、シアがテオへ振り返った。


「待てって言ったよね!?」


「助かっただろ!」


「それはそうだけど!」


「じゃあいいだろ!」


「よくない!」


ロアンが肩で息をしながら苦笑する。


「二人とも後にしろ。あいつら迂回してくる」


ボクはまだ槍を手にしたまま、通路の奥を見た。


新しい空間だった。均圧廊よりさらに古く、広い。両脇に太い支柱が並び、そのあいだを縦長の空洞がずっと上まで貫いている。中央鐘塔の内部だ。見上げると、遥か頭上の暗闇の向こうで、巨大な何かが吊るされている気配があった。


「……すごい」


「感想はあと!」


シアに言われたので、仕方なく頷く。


テオが周囲を見回し、少しだけ得意そうに言う。


「ここ、鐘肋路。昔、掃除屋が使ってた」


「掃除屋って、そんなとこまで登るの?」


「昔は鐘の煤を落としてたらしい」


「大変だね」


「他人事だな」


他人事ではある。


ロアンがシアに手を出した。


「ノート」


「はい」


「必要なページだけ抜け」


シアはすぐに理解した。ノートをめくり、第三共鳴弁と均圧図のあるページを二枚だけ破る。残りをロアンへ渡した。


「囮にする」


「悪い顔してるね、ロアン」


「今褒められてるのか?」


「半分」


「お前、親方の変なとこだけ覚えてんな」


ロアンはそう言いながらも、扉の近くの排圧口へノートを突っこんだ。もし封鎖局が扉を破っても、そこに目がいくようにする気なのだろう。


シアは破ったページを畳み、工具袋の内ポケットへしまいこんだ。その手が少し震えているのを、ボクは見た。怒りか、焦りか、その両方か。


「シア」


「なに」


「大丈夫?」


すぐには返事がない。


数歩進んでから、彼女はようやく言った。


「大丈夫じゃない。けど進ける」


“進める”じゃなくて、“進ける”と少し噛んだ。疲れている時のシアの癖なのかもしれない。


「そっか」


「それだけ?」


「うん。今はそれで十分」


横顔で少しだけ睨まれたけれど、たぶん本気じゃない。


鐘肋路は細く入り組んでいた。鉄の桟橋、石壁に打ちこまれた古い足場、縦に走る鎖。上へ向かう道もあれば、塔の芯を回りこむように横へ伸びる道もある。テオが来てよかった、と思う。知らなければ、同じところをぐるぐる回るだけで終わりそうだ。


途中、少し開けた張り出しで息を整えた時、上の暗闇から遠い振動が降ってきた。


ごん。


空気が揺れる。


「今の」


ボクが顔を上げると、ロアンが顔をしかめた。


「時鐘だ。第一鐘」


シアが低く呟く。


「もうそんな時間……」


今夜三つ鐘まで。つまり、あと二つ。


それほど遠くない未来が、音として落ちてきた。


テオが手すりにしがみつきながら、小声で言う。


「なあ」


「なに?」


「さっきの監督官、ほんとに下のこと知ってたのかな」


シアが答える前に、ロアンが口を開いた。


「知ってるだろうよ」


「なのにあんな……」


「知ってることと、痛いと思うことは別だ」


ロアンの声は疲れていた。怒りを通り越して、諦めに近い色も少し混ざっている。


ボクは手すりの冷たさを指でなぞる。


知ってることと、痛いと思うことは別。


たしかにそうだ。長く生きていると、知っているだけのことは増える。けれど痛みのほうは、逆にぼやけるものもある。昔はもっと、誰かの涙ひとつに大きく揺れた気がする。気のせいかもしれない。思い出せないだけかもしれない。


忘れたくないから日記を書くのに、書いたところで失われない保証はどこにもない。


「アウリィ?」


シアの声で顔を上げる。


「ぼーっとしてた」


「たまに急に遠く見るよね、あんた」


「遠いものが多いからかな」


「何それ」


「ボクもよくわからない」


テオが怪訝な顔をしたが、追及はしなかった。助かる。


少し進んだところで、鐘肋路は二手に分かれていた。上へ向かう細い螺旋足場と、塔の中心へ伸びる梁道。シアがページを開いて確認する。


「第三共鳴弁は鐘底の下、均圧核の隣。なら中心側」


ロアンが頷く。


「上じゃなくて内側か」


テオがぼそっと言う。


「ヴァレナ、上で鐘鳴らすわけじゃないんだ」


「鐘そのものより、その下の流れを揃えるんだろうな」


シアの声は仕事の時のそれだった。怒りや不安を押し込めて、必要なものだけ考えている声。


梁道へ足を踏み入れたところで、ボクはふと壁の一角に目を留めた。


煤に半分埋もれた、小さな銘板。


**煤鐘堂 調律士控所**


指で煤を払うと、その下に細い文字が見えた。


**ヴァレナ・エスカリオ**

**ローレ・バルドヴィン**


「……へえ」


思わず漏らす。


「何」


シアが近づき、銘板を見て目を見開いた。


「親方と……ヴァレナ」


「同じ控所」


ロアンが低く言う。


「同僚だったのか」


シアは何か言いかけて、やめた。たぶん、ローレの顔を思い出したのだろう。あの、ぶっきらぼうな礼の前に見せた古い目。


ふいに、背後で金属音がした。


扉が破られた音だ。


ロアンが振り返る。


「来たか」


「早い!」


テオが青ざめる。


「封鎖局ってそんなに脚速いの?」


「脚じゃない。あいつら人数がいる」


ロアンは警棒を引き抜いた。


「ここからは本気で急げ。一本道に誘いこまれたら終わる」


「テオ」


シアがきつい声で言う。


「今度こそ、後ろに下がって」


「でも」


「いいから!」


テオは反論しかけて、ロアンの顔も見て、渋々頷いた。今回はさすがに空気を読んだらしい。


梁道は、中央の大空洞を横切るように伸びていた。


下は見えないほど深い。上も暗い。左右の支柱だけが頼りで、足元の鉄格子からは冷たい風が吹き上がる。足音がやけに響く。こういう場所は嫌いじゃないけれど、封鎖局に追われながらとなると、さすがにのんびり感心はしていられない。


それでも、途中で一度だけ立ち止まりそうになった。


塔の中心、暗闇のなかに、巨大な鐘の腹が見えたからだ。


煤に黒く染まった大鐘。表面に幾重もの紋様。歯車、風、火、そして花弁に似た意匠。古びているのに、美しい。重たいのに、今にも鳴りそうだ。


胸の奥が、奇妙にひやりとする。


どこかで見たことがある気がした。


もっと明るい、別の場所。鈴のような音。細い指が、金属ではない何かの花を髪に挿して――


「アウリィ!」


シアに呼ばれて、像が砕けた。


「あ、ごめん」


「ほんとに変なとこで立ち止まるね!」


「大きい鐘って、ちょっと見ちゃうでしょ」


「見ちゃうけど今じゃない!」


その通りだった。


梁道の先で、ようやく目的の部屋らしい場所が見えてくる。半球状の鉄扉。周囲に複雑な弁と計器。扉の上に、第三共鳴弁の刻印。


けれど、そこへ辿り着く寸前で、前方の闇から声がした。


「そこまで」


灰色のコートだった。


ヴァレナが、扉の前に立っていた。


その背後では、扉の脇の弁に細い管が何本も繋がれている。彼女はすでに作業を始めていた。間に合ってしまった、という顔ではない。来ることも折り込み済みの落ち着いた顔。


ロアンが舌打ちする。


「先回りか」


「音でわかったわ」


ヴァレナは静かに言う。


「封鎖局の足は重い。あなたたちの足は、少し急いてた」


シアが一歩前へ出る。


「ここを開ける気?」


「開けるために来たのよ」


「今開けたら、封鎖局も一緒に来る!」


「知ってる」


「なら――」


「だから急いでる」


ヴァレナはそう言ってから、テオを見た。


「来ちゃったのね」


「勝手に知ってる顔すんな」


テオの声は震えていた。怖いのか、怒っているのか、まだ整理がついていないのだろう。


ヴァレナは何も言い返さず、代わりにシアへ視線を戻す。


「ノート、読んだ?」


「少しは」


「ならわかるでしょ。ここが閉じたまま三つ鐘を迎えたら、今夜の冷え込みで下の湿気が押し返す。西の補助路も持たない」


ロアンが吐き捨てる。


「それで、開けば全部上手くいくって?」


「そんな都合のいい話はしてない」


「じゃあ何だ」


「賭けよ」


その言葉に、シアの顔がこわばる。


ヴァレナは続けた。


「閉じたまま朽ちるのを待つより、調律して流れを戻すほうに賭ける」


「人の命で?」


「もう既に賭けられてる」


その返しが速すぎて、痛かった。


シアもロアンも、言葉を継ぐまでに一拍かかった。ヴァレナはその隙に、音叉みたいな調律棒を弁へ差しこむ。


「やめて!」


シアが駆け出す。


その瞬間、横の影が動いた。封鎖局だ。迂回して別路から来ていたらしい。黒い外套が梁道の両端を塞ぎ、セヴランがその後ろから現れる。


「間に合いましたね」


ほんとうに、感じの悪い人だ。


ヴァレナがわずかに眉を上げる。


「遅いと思っていたけど」


「あなたが早いんですよ」


セヴランは穏やかな声で言い、手を上げた。


「ヴァレナ・エスカリオ。これ以上の破壊行為を禁じます。調律棒を置きなさい」


ヴァレナは笑わなかった。ただ、小さく首を傾げる。


「今ここでそれを言うの」


「ええ」


「この配分を見て、まだ」


「だからこそです。今さら流れをいじれば、制御不能になる」


「もう制御できているつもりでいるのが問題だと言ってるのよ」


「理想で街は回りません」


「保身でも回らない」


二人の声は大きくないのに、鐘肋路の空気が震える。


シアが低く言う。


「……どっちも下がって」


誰に向けた言葉か、一瞬わからない。でも、たぶん両方だ。


セヴランは視線を動かさずに答える。


「シア、だったね。見習いは下がりなさい」


「見習いでもわかる。今の街は歪んでる」


「わかることと、直せることは違う」


「直そうともしないくせに」


「直すには切り捨てが要る」


その一言が、テオの顔を変えた。


「ふざけんな!」


梁道に怒声が響く。


「切り捨てって何だよ! そこにいるの、人だぞ!」


封鎖局の一人が「黙れ」と前へ出る。ロアンが即座に間へ立った。


「それ以上子どもに触るな」


「子ども扱いは嫌う相手もいるからね」


ボクが言うと、場違いなほど一瞬だけ静かになった。シアが「今それ言う!?」という顔をしたけれど、言いたかったので仕方ない。


ヴァレナが、その沈黙を使った。


調律棒をひねる。


甲高い音が走る。


第三共鳴弁の周囲の小鐘が、一斉に鳴った。


ちん、ちりん、かん、と、不揃いな音が重なり、次の瞬間、梁道全体が大きく揺れた。


「うわっ!」


テオがしゃがみこむ。封鎖局の一人が足を滑らせ、鉄格子に膝をつく。頭上の巨大な鐘が、まだ鳴ってもいないのに腹の底でうなった。


ヴァレナの顔が初めて変わった。


「違う……!」


「何が」


シアが叫ぶ。


「第三弁が固着してる。誰かが途中で噛ませ物を入れてる!」


セヴランの目が細まる。


「そんな報告は受けていない」


「受けてないんじゃなくて、見てないのよ!」


ヴァレナが怒鳴る。さっきまでの静けさが嘘みたいだった。


共鳴弁の計器が赤を超える。歯車が嫌な音を立てる。今ここで争っている場合じゃないことだけは、全員にわかった。


シアがすぐに駆け寄る。


「どこが噛んでる!」


ヴァレナは一瞬だけ躊躇った。でも次の瞬間には指を差していた。


「下段の噛み車。奥から二列目」


「見えない!」


「だから細い手が要るの!」


その言葉に、シアとヴァレナの目が、同時にボクへ向いた。


「えぇ」


嫌そうな声を出しつつ、体はもう動いていた。


梁道を蹴って弁の脇へ滑りこむ。小さな整備口に腕を突っこむと、内部の歯車が信じられない速さで震えている。熱い。けれどマントの加護があるぶん、まだ耐えられる。


――いたい。

――はさまる。

――とって。

――はやく。


「はいはい」


歯車の奥、たしかに異物があった。新しい金属片。わざと噛ませたような細い楔だ。


「誰か、こういうの入れたの?」


セヴランが言う。


「知らない」


「その顔は知らない顔じゃない」


「証拠もなく決めつけるな!」


「今それ言う?」


シアが怒鳴り返す。


楔は固い。指だけでは抜けない。なので、もう少しだけ槍に頼る。


穂先ではなく、石突きのごく細い補助端を呼び出す。見えない位置で金属を引っかけ、てこの要領でひねる。


がちん。


異物が弾け飛ぶ。次の瞬間、弁の震え方が変わった。暴れるだけだった音が、少しだけまとまる。


ヴァレナが息を呑む。


「今よ、シア!」


「わかってる!」


シアが工具袋からレンチを抜き、ヴァレナと並んで弁の外輪を回す。二人の動きは、初めて合わせるはずなのに妙に噛み合っていた。ローレの弟子だからか、同じ仕事の呼吸なのか。


ロアンが封鎖局を睨む。


「誰も余計なことするなよ」


封鎖局の男たちは戸惑っていた。命令を待っている。セヴランも、さすがに今は止められないと理解したのか、唇を結んでいる。


けれど、上手くいきかけたその時。


遠くで、二つ目の鐘が鳴った。


ごん。


さっきより近く、大きく。


ヴァレナの顔色が変わる。


「遅い……第二鐘でここまでしか進んでないなら、均圧核が先に逆流する」


「何それ!」


テオが叫ぶ。


シアが歯を食いしばったまま言う。


「第三弁だけじゃ足りない。下の均圧核も同時に調整しないと、上と下の圧が喧嘩する!」


ロアンが梁道の奥を見る。


「均圧核はどこだ!」


ヴァレナが下を指さした。


「この真下。鐘底の内側」


「行けるの?」


「保守籠が死んでる。降りるなら鎖路を使うしかない」


全員が頭上から床下まで伸びる太い鎖を見た。人が乗るためのものじゃない。古い吊り下げ機構の一部だ。


「いやでしょ、それ」


ボクが言うと、シアが半分泣きそうな顔で頷く。


「私もいや!」


「じゃあ別案」


「ない!」


「即答」


ヴァレナが短く言う。


「私が降りる」


「一人で?」


「慣れてる」


「慣れたらよくない場所だよ」


「この街にはそういう場所が多いの」


その返しに、少しだけ何も言えなくなる。


でも、ヴァレナひとりで行かせるのは危ない。危ないし、もし落ちたらそこで終わる。


ボクは鎖を見上げて、それからシアを見る。


「ボクが一緒に行く」


「だめ」


これも即答だった。


「シア」


「だめ! あそこ落ちたら本当に――」


「シアも行く気でしょ」


言うと、彼女が口をつぐむ。


図星だ。


「なら二人か三人。ひとりよりマシ」


「でも」


「子ども扱いしないで」


二回目なので、今度は前より少しだけ効いたらしい。シアが歯噛みする。


ロアンが低く言った。


「俺が残る。封鎖局を押さえる」


セヴランが険しい顔をする。


「押さえる、とは」


「足を引っ張らせねえって意味だ」


「職務妨害ですよ」


「今日は耳が痛い言葉ばっかりだな」


テオが前に出ようとしたので、今度はボクがその肩を押さえた。


「テオはここ」


「でも!」


「ここで見てて。必要なら、上からロープか何か落として」


「……」


「お願い」


頼まれるのに弱い顔をしたので、たぶん勝ちだと思った。テオは唇を噛んで、悔しそうに頷いた。


ヴァレナが鎖の固定具へ手をかける。


「第二鐘から第三鐘までは短い。迷ったら終わる」


「迷わないようにするよ」


そう答えて、ボクは鎖へ手を伸ばした。


冷たい鉄。煤。遠く下の闇。巨大な鐘の腹のすぐ脇を、人間が滑り降りるなんて、普通はやらない。だから少し楽しい。少しだけ。


でも、その楽しさの裏に、妙なざらつきがある。


この街に情を移しすぎないようにしてきたのに、気づけばボクは、街の心臓みたいな場所に手をかけている。数日しかいない世界のために。


たぶん、よくない。


でも、だからといって今さら手を離す気にもなれない。


「アウリィ」


シアが呼ぶ。


「なに」


「落ちるな」


「うん」


少し笑って答えると、シアもほんの少しだけ笑った。緊張で引きつっていたけれど、それでも笑おうとしてくれた。


ヴァレナが先に鎖へ体重を預ける。動きが無駄なく、見ていて怖いほど慣れていた。ボクも続く。下からは、冷たくて湿った風が吹き上がってくる。


その瞬間、上でセヴランの声が響いた。


「封鎖局、確保を――」


ロアンの怒鳴り声が重なる。


「動くなっつってんだろ!」


金属のぶつかる音。テオの声。シアの短い息。


それらを背中に受けながら、ボクは鎖を滑り降りた。


頭上で、巨大な煤鐘が、まだ鳴ってもいないのに深く唸る。


三つ目の鐘まで、あと少し。


下の闇の奥で、均圧核らしい青白い灯りが、かすかに脈を打っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ