3話「第三共鳴弁」
「アウリィ! ちょっと来て!」
階下から呼ばれた声は、急いでいる時のシアの声だった。
ボクは閉じたばかりの日記帳をポーチへ戻し、物置部屋の床を軽く蹴って立ち上がる。窓の外の霧は、夕方が近いせいか朝より重たく見えた。鐘の時間まで、たぶんそんなに余裕はない。
階段を降りると、工房の空気は朝よりさらに張っていた。
机の上にはヴァレナの残したノートが開かれ、周りに工具や図面が散らばっている。シアのほかにロアン、それから見知らぬ男が一人いた。
大きい。
まずそう思った。
背が高いというより、肩幅が広い。灰色がかった作業着の袖をまくった腕は太く、左手の指先には真鍮の補助具がついている。煤けた髭、深い皺、いかにも整備塔の奥から出てきたみたいな匂い。目は細いのに、寝不足のせいか妙にぎらついていた。
男はボクを見るなり、眉を持ち上げた。
「……そのちっこいのが昨日の槍だってやつか」
「ちっこいのって言わないで」
反射的に返すと、男は一拍遅れて鼻を鳴らした。
「元気だな」
「そっちこそ」
「口も達者だ」
「褒めてる?」
「半分」
シアが呆れた顔で言う。
「親方、そこで意地悪しないで」
「してねえよ。確認だ」
親方。ということは、この人が。
「ローレ?」
ボクがそう言うと、男は少しだけ顎を引いた。
「整備区のローレだ。お前がアウリィか」
「うん。旅人」
「そこ、昨日から聞いてるが全然説明になってねえ」
「そういうものなんだよ」
ローレは「厄介だな」とでも言いたげな顔をしたが、それ以上は食いついてこなかった。ありがたい。こういう時、説明を始めると大抵長くなるし、長くなったところでたいてい納得はされない。
ロアンが机を指先で叩く。
「雑談はあとだ。親方がノートを見て、気になることがあると言い出した」
ローレはノートのページを一枚めくり、端に書かれた小さな記号を真鍮の指で叩いた。
「これだ。ヴァレナの癖字でわかりにくいが、“第三共鳴弁”って書いてある」
「うん。送気室で見た」
ボクが答えると、ローレは頷いた。
「だが問題は場所だ。シア、お前は最初、あの旧炉のどこかだと思ったろ」
「思った。違うの?」
「違う。少なくとも、それだけじゃ足りん」
ローレは工房の隅に立てかけてあった古い街図を引っ張り出し、机の上へ広げた。煤鐘街クラーヴェルの断面図。上層、中層、下層。それを繋ぐ昇降機。何本もの熱管と送気路。その中心に、鐘楼みたいな高い塔が描かれている。
中央鐘塔。
たぶん、駅から遠くに見えた、あのいちばん高い建物だ。
ローレの真鍮の指先が、街図の中心を叩く。
「煤鐘炉は単体で熱を吐く設備じゃねえ。昔は街全体の圧を“鳴り”で揃えてた。上と下で熱が偏らないように、いくつかの共鳴弁を通して流れを調律する」
「調律って、楽器みたいな?」
ボクが聞くと、ローレは少しだけ意外そうな顔をした。
「まあ、近い。圧は音に似る。歪めりゃ暴れるし、合えば素直に流れる」
シアが腕を組む。
「じゃあ第三共鳴弁って、街の調律弁のひとつ」
「そうだ。しかも厄介な位置にある。中央鐘塔の真下、均圧廊の奥だ」
ロアンが嫌そうに顔をしかめた。
「一番入りたくない場所じゃねえか」
「入れないの?」
「今は閉鎖区域だ。上の連中は事故のあと、あそこに封鎖局を回してる」
封鎖局。名前からして感じがよくない。
シアが街図を覗きこみながら言う。
「ヴァレナが今夜三つ鐘で鳴らすつもりなら、旧炉だけじゃなくて中央の弁も触る必要がある……」
「そういうことだ」
ローレはそう言ってから、ノートの別のページを開いた。細い数字がびっしり並んでいる。ボクにはほとんどわからない。でもシアの顔色は、見る見るうちに悪くなっていった。
「これ……圧の落ち方、おかしい」
「おかしいんじゃなくて、ずっと無理してる」
ローレの声は低い。
「西と下の配管は何年も前から均衡ぎりぎりだ。上に足すたび、下を細くしてきたからな」
ロアンが眉を寄せる。
「そんな話、聞いてないぞ」
「聞かせるわけねえだろ。詰所に配管の真実なんざ流さねえ」
「配管の真実って言い方、嫌だな……」
ボクがぽつりと言うと、ロアンが苦い顔で同意した。
シアはノートから顔を上げる。
「親方。ヴァレナは、街が止まるって本気で思ってる?」
「本気だろうな」
「当たってる?」
ローレはすぐには答えなかった。真鍮の指で無意識に机をこつこつ叩き、やがて短く言う。
「半分は」
工房の中が静かになる。
半分。それは、一番嫌な答え方だ。全部嘘なら簡単だし、全部正しいならもっと厄介だけれど、まだ筋は通る。半分だけ正しい時が、いちばん人を迷わせる。
ボクはローレを見る。
「ヴァレナって、どんな人だったの」
ローレはボクへ視線を向け、少しだけ目を細めた。
「質問の仕方が妙だな」
「だって、壊す人の顔じゃなかった」
「そうだな」
ローレはノートへ目を落とした。
「あいつは腕のいい調律師だった。音で圧を読む。本来なら見えない偏りまで拾う。上が見たがらないもんまでな」
「嫌われそう」
「嫌われたよ」
あまりにも迷いのない言い方で、少しだけ胸がちくりとした。
ロアンが壁にもたれて腕を組む。
「で、どうする。中央に報告は入れたが、返事は鈍い。封鎖を強めるばかりだ。俺ひとりで鐘塔に入れる気もしねえ」
「俺だって正面からは無理だ」
ローレは棚の奥から細長い金属筒を取り出した。銀色の叉みたいな形をした道具。持ち手に歯車の紋が刻まれている。
「ただし、古い整備路ならまだ生きてる可能性がある。これは鐘底の保守鍵だ。音叉鍵。第三共鳴弁の手前まで行ければ、扉くらいは開く」
シアが息を呑む。
「そんなもの、まだ持ってたの」
「捨ててねえだけだ」
「それ、違法じゃ」
「今さらだな」
ロアンがぼそっと言い、シアが少しだけ笑った。たぶん緊張の逃がし方として笑ったのだと思う。
ローレは音叉鍵をシアに渡したあと、ちらりとボクを見る。
「お前、精霊だか何だかに道を聞けるんだってな」
「ちょっとだけ」
「均圧廊の奥は蒸気が乱れる。目より鼻と感覚が頼りだ。役に立つかもしれん」
「任せて」
ローレは頷きかけて、すぐに眉をひそめた。
「……頼もしいのか不安なのかわからん返事だ」
「よく言われる」
「便利な言葉だな、それ」
その時、工房の隅でごとりと音がした。
全員がそちらを見る。
積んであった木箱の陰から、テオがのそっと顔を出した。しまった、という顔をしていない。最初から聞くつもりだった顔だ。
「やっぱりな」
シアが額を押さえる。
テオは胸を張った。
「均圧廊の近道、俺が知ってる」
「帰れ」
シアとロアンがほぼ同時に言った。
「最後まで聞けよ!」
「聞いた上で帰れって言ってる」
「上の封鎖局の巡回、あいつら重たい靴だから音でわかる。下の抜け道は知らない。俺なら避けられる」
「それでも帰れ」
「シア!」
「だめなもんはだめ!」
テオの顔が真っ赤になる。ロアンはまだ冷静そうだったが、シアはもう半分怒っていた。たぶん怖いのだ。昨日の昇降機の件があるから、なおさら。
ボクはしばらく二人のやり取りを見ていたけれど、やがて口を挟んだ。
「テオ」
「なんだよ」
「案内だけなら?」
テオがぱちりと瞬く。シアが振り返る。
「アウリィ」
「最後まで連れていくんじゃなくて、入り口のもっと前まで。封鎖局を避ける道が本当にあるなら、そこまでは助かる」
ロアンが低く唸った。
「……それなら」
シアはすぐに頷かなかった。苛立ちと迷いが顔に出る。でも、役に立つのも事実だとわかっているのだろう。
テオは追い打ちをかけるみたいに言った。
「母さんのこと、あいつに聞いた。昔、薬草もらったことあるって。だったら俺も聞かなきゃだめだろ。なんでそんなことしたのか」
シアの表情が少し揺れる。
ボクはそこで、何も言わなかった。言えることはたぶんいくつかあったけれど、ここは本人たちの場所だと思ったから。
しばらくして、シアは長く息を吐いた。
「案内だけ」
テオの顔が明るくなる。
「ただし、均圧廊の手前で止まる。そこから先は絶対だめ」
「わかった」
「ほんとに?」
「わかったって!」
「あと勝手に消えるな」
「はいはい」
「返事が軽い」
「はい!」
ロアンが小さく笑う。
「こりねえな、お前ら」
ローレはそのやり取りを見ていたが、やがて工房の裏扉を顎で示した。
「行くなら日が完全に落ちる前だ。鐘塔の下は夜の巡回が増える」
シアが工具袋を肩にかける。ロアンは警棒の位置を確かめ、ボクは真紅のマントを羽織り直した。テオはいつのまにか、昨日よりしっかりした靴を履いている。
出る直前、ローレがボクを呼び止めた。
「アウリィ」
「なに?」
「昨日の西昇降機、助かった」
ぶっきらぼうで、視線も少し逸れている。でも、ちゃんと礼だ。
ボクは少し笑った。
「どういたしまして」
ローレはそれ以上何も言わなかった。ただ、ノートの上に置かれた真鍮の調律棒を見つめる目だけが、ひどく古いものを見る目をしていた。
***
クラーヴェルの夕暮れは、空より先に音が暗くなる。
石橋を渡る足音。蒸気弁の吹く息。遠くを走る昇降機の鎖鳴り。どれも昼間より低く、重くなっていく。その上を薄い霧が流れて、街は誰かが布をかけたみたいに輪郭をぼかした。
テオの案内は確かだった。
正面の階段や大通りは使わず、建物と建物のあいだの細い連絡橋や、配管の影になった足場を渡っていく。ときどきボクでも「そこ通るの?」と思うような狭い縁を迷いなく進むので、見ていると少しひやひやする。
「落ちないでね」
ボクが言うと、テオは振り返りもせず答えた。
「そっちこそ」
「ボクは落ちるの得意じゃないから」
「得意って何だよ」
「落ちないのが、って意味」
「紛らわしい!」
前を歩くシアが肩越しに言う。
「二人とも静かに」
「はーい」
「はい」
返事の質が違うのが面白くて、ちょっと笑いそうになる。
中央鐘塔へ近づくにつれ、街並みは少しずつ変わっていった。上層ほど華やかではないけれど、中層の整備区よりは石の造りが重厚で、壁面には古い装飾が残っている。煤で黒ずんではいるものの、よく見れば鐘や歯車の浮彫りがあちこちにある。
そのひとつに目が止まった。
花弁みたいな模様が、鐘の縁に彫られている。
立ち止まりかけて、やめる。今はまだ見るだけ。
「どうした」
ロアンが小声で聞く。
「なんでもない。模様がきれいだなって」
「そんな余裕があるのはお前だけかもしれん」
「いいことだよ、たぶん」
そう返すと、ロアンは呆れたような、でも少しだけ救われたみたいな顔をした。
細い横路地を抜けたところで、シアが足を止める。前方の石段の上を、封鎖局らしい黒い外套の集団が横切っていった。顔の下半分を布で覆い、手には長い提灯型の灯具。動きが硬い。巡回というより、探している歩き方だ。
ロアンが眉をひそめる。
「思ったより多いな」
テオがしゃがみこんで、路地の端の鉄格子を持ち上げた。
「こっち」
「待て、それどこに」
「洗浄路」
シアが嫌そうな顔をする。
「汚い」
「文句言うなよ、近いんだから」
結局、文句を言いながらもシアは先に入った。ボクも続く。格子の先は、半ば使われなくなった排水用の細道だった。天井が低く、足元に薄い水が流れている。匂いは……うん、あんまり良くない。
「これはたしかに汚いね」
「ほら見ろ」
「でも楽しい」
「楽しいの!?」
シアが信じられないものを見る顔をした。
「だって、こういう道って世界ごとに全然違うよ。ここは石が丸い。あと配管の組み方が面白い」
「比較対象がわからない」
「雨が鉄みたいに降る街の排水路は、もっと嫌な匂いだったよ」
テオが振り返る。
「何それ」
「鉄みたいに降る雨」
「だから何だよそれ!」
説明しようとして、少しだけ口を閉じる。古い世界の話は、時々、どこまでが本当にあったことだったか曖昧になる。赤い砂の街だった気もするし、空がずっと灰色だった気もする。細部は薄れているのに、服の裾が錆びた感覚だけが残っている。
「……まあ、そんなところもあったってこと」
そう濁すと、テオはまだ納得していない顔をしたが、先を急いだ。
狭い洗浄路を抜けると、小さな空隙みたいな場所に出た。石壁の内側に作られた保守用の棚足場で、そこから街の中心部の裏側が見えた。真正面には、中央鐘塔の下層外壁。黒く高く、灯りの点が縦に並んでいる。近くで見ると、思っていた以上に巨大だ。
「わぁ……」
思わず声が漏れる。
「静かにって言ったばっかり!」
シアがひそひそ叱る。
「ごめん。でも大きい」
「それはそうだけど」
テオが足場の端を指さした。
「あそこ。あの錆びた梯子の先に、均圧廊へ繋がる保守扉がある」
ロアンが目を細める。
「封鎖局は?」
「上の巡回は表だけ。裏は滅多に来ない。来ても一回りするだけ」
「滅多には来るのか」
「だから急ぐんだよ」
テオはそこでシアを見る。
「ここから先、ほんとに俺は待つから」
「……約束ね」
「するって」
「絶対」
テオは少し不満そうに唇を尖らせたが、やがて頷いた。
「わかった」
ロアンは懐から真鍮の笛と似た小さな信号灯を取り出し、テオへ渡した。
「何かあったらこれを振れ。音を立てるな」
「使い方わかる」
「知ってる顔だな」
「前に……見たことある」
“前に”がたぶん碌でもない前だろうな、と思ったけれど、ロアンも同じことを思ったらしく、あえて聞かなかった。
ボクはテオの前にしゃがみこんだ。
「無茶しないでね」
「そっちこそ」
「それ、さっきも言われた」
「何回でも言う」
灰色の目がまっすぐこっちを見る。強がってはいるけど、心配もしている目だ。出会った時は盗んで逃げていたのに、人って数日でこんな顔をする。数日だから、かもしれないけれど。
「ちゃんと戻ってくる?」
テオが小さく聞いた。
問いの形は単純なのに、少し答えに困る。戻るつもりはある。でも、“ちゃんと”の意味は、人によって違うから。
それでも、今はこれでいい気がした。
「できるだけ」
ボクがそう言うと、テオは一瞬だけ嫌そうな顔をしたあと、諦めたみたいに肩をすくめた。
「ずるい答え」
「うん」
そこは否定しなかった。
***
錆びた梯子は見た目より丈夫だった。
一段ごとにきしむ音がして、下を見れば足場の隙間から霧が覗く。高いところは嫌いじゃない。でも、濡れた金属は少しだけ気を遣う。
梯子の先には、小さな半円扉があった。煤と錆でほとんど壁の一部みたいになっている。シアがローレから預かった音叉鍵を差しこむと、内部で二度、澄んだ金属音が鳴った。
かち、ちん。
扉がゆっくり開く。
「ほんとに音で開くんだ」
ボクが言うと、シアはうなずいた。
「古い調律設備は、鍵穴より共鳴で認証するほうが多かったらしい」
「面白い」
「でしょ」
言ったあと、シアは少し驚いたみたいに瞬く。自分がボクと同じ調子で「面白い」と言ったことに気づいたのだろう。
ボクは少し嬉しくなる。
均圧廊は、思っていたより静かな場所だった。
広いわけではない。むしろ狭い。円筒形の通路が緩やかに下り、両側の壁に無数の細い管が沿っている。その一本一本に、小さな鐘みたいな金属片が吊るされていた。風が通るたび、かすかに鳴る。
ちん。
ちりん。
ちん。
ネッサが夜中に聞いたという鐘の音は、たぶんこれのどこかから漏れていたんだろう。
「……きれい」
思わずそう言うと、ロアンが肩越しに振り返った。
「こんなところでその感想が出るの、やっぱり変だな」
「いい音だよ」
「不気味だろ普通」
「不気味ときれいは両立するよ」
シアが横から言う。
「それはちょっとわかる」
「シアまで」
ロアンが本気で嫌そうな顔をしたので、少し笑ってしまった。
でも、笑いは長く続かなかった。
通路を進むほど、空気の歪みがはっきりしてきたからだ。熱の流れが一定じゃない。右の壁はぬるいのに、左は冷たい。送気の音も揃っていない。どこか無理やり抑えこんでいる感じがする。
ボクは壁へ指先を添える。
――いたい。
――つまる。
――ひっぱる。
――うえ、うえ、した、うえ。
「上ばっかり引いてる」
気づけば口に出ていた。
シアが足を止める。
「何が」
「熱。流れ。上に持っていかれてる」
ロアンが壁の圧計を見る。針は細かく震えていた。
「……俺でもわかるくらい偏ってるな」
「こんな状態で回してたの?」
シアの声は、怒る前の低さだった。
前方が少し開けて、円形の小部屋に出る。そこでボクたちは、一度揃って息を止めた。
壁一面に計器が並んでいた。
大きな圧力計、細い温度管、流量を示すガラス筒。どれも古い。でも、死んではいない。針は動いている。ただし、まともな動き方じゃなかった。何本もの針が赤い線ぎりぎりで耐え、いくつかは完全に振り切れている。しかも、その上から新しい銘板が乱暴に打ちつけられていた。
**臨時転用**
**増設優先路**
**中央製造区補助配分**
シアが近づき、そのうちの一枚を指でなぞる。指先に煤がついた。
「臨時、って……何年放置してるの」
ロアンが別の銘板を読んだ。
「十七周期前」
「臨時の意味知ってる?」
「知ってたらこんなことにはなってねえだろうな」
シアの顔が完全に怒っている。あの、昇降機の前で必死だった時とも違う怒りだ。整備士として見てはいけないものを見た人の顔。
ボクは反対側の壁を見る。
そこには、古い設計図がガラス板の裏に挟まれていた。煤で読みにくいけれど、元の配分ではもっと均等に熱が流れていたのがわかる。上へ太い線。下へ細い線。途中で何本も分岐が切られ、別の継ぎ足しがされている。
「この街、温かさの通り道を変えられてる」
ボクがそう言うと、シアが小さく頷いた。
「わざとね」
「上のためにか」
ロアンの声は重かった。
返事の代わりに、通路のさらに奥から靴音が響いた。
硬く、よく揃った足音。
封鎖局だ。
シアがすぐにランプを絞る。ロアンが警棒へ手をかける。
足音はまっすぐこちらへ来る。隠れ場所は少ない。円形の計器室は開けすぎていて、逃げるなら奥の扉しかない。でも、その扉には重い錠がついていた。
「まずいな」
ロアンが低く言った、その直後。
「まずいですね」
別の声が、足音の主から返ってきた。
通路の入口に現れたのは、黒い封鎖局の外套を着た三人と、その後ろに立つ細身の男だった。年は四十前後。髪はきっちり撫でつけられ、襟の高い上着に銀の留め具。手袋まで汚れていない。ここまで降りてくるには場違いなくらい整った人だった。
目だけが冷たい。
「見回りのロアン。整備区見習いシア。許可なく閉鎖設備へ侵入とは感心しませんね」
ロアンが舌打ちする。
「監督官セヴラン」
なるほど。上の人だ。
セヴランは視線を滑らせ、ボクのところでわずかに眉を動かした。
「それに子どもまで連れこんだんですか」
「子どもじゃない」
ぴしゃりと返すと、セヴランはほんの少しだけ口元を歪めた。笑ったわけではない。ああ、この手の人は苦手だな、と思う。人を見る前に分類する顔だ。
シアが一歩前へ出る。
「監督官こそ、何しに来たんですか」
「後始末です。ヴァレナの暴走を止め、これ以上の混乱を防ぐために」
「混乱?」
シアの声が刺さる。
「この配分、見ました。ずっと下を削ってたんですね」
セヴランの表情はほとんど変わらない。
「優先順位の問題です。全域を完璧に維持する資源はない」
「だから下を切る?」
「そういう言い方は好みません」
「事実でしょ!」
計器室にシアの声が響いた。小さな鐘片が細かく鳴る。セヴランは一度だけ目を伏せ、それから静かに言う。
「感情で管は持ちません」
ロアンが低く吐き捨てる。
「感情がなきゃ、下で咳いてるやつの数も数えないだろ」
「数えてはいます」
「数えるだけで終わってる」
「終わらせないために、局所的な損失で済ませるんです」
その“局所的”という言葉に、ボクは少しだけ首を傾げた。
「局所って、人のこと?」
セヴランが視線を向ける。
「街全体を守るには、そういう判断も必要です」
「ふうん」
うまく言えないけれど、その答えは冷たかった。冷たいのに、本人は冷たいと思っていない答え方だ。
シアがノートを抱え直す。
「ヴァレナの計画を知ってるなら、なんで今まで放っておいたんです」
「泳がせました。部品の流れと接触先を洗うために」
「西昇降機の事故も?」
「想定外でした」
「人が乗ってたんですよ!」
セヴランの目が、ほんの一瞬だけ揺れた。罪悪感とまではいかない。けれど、“予定と違った”ことへの不快はあった。
「だからこそ、ここで終わらせる」
彼が軽く手を上げる。封鎖局の三人が前へ出た。
「ノートを渡してください。あとは局が処理します」
ロアンが立ち塞がる。
「処理ってのは、壊して塞いで見なかったことにするって意味か」
「言葉が汚いですね」
「現場は大体汚いんだよ」
「ロアン」
「何だ」
「好き、その言い方」
「褒めても通さねえぞ」
ボクがそういう意味で言ったわけじゃないとわかっているのか、ロアンの声は少しだけ柔らかかった。
セヴランはため息をつく。
「時間がない。今夜三つ鐘までにヴァレナを確保しなければならない。あなた方の個人的な怒りや同情に付き合っている暇はないんです」
「個人的?」
シアが笑った。乾いた、怒った笑いだった。
「配管の悲鳴を見て、個人的で片づけるんだ」
「見習いが全体判断を語るには早い」
「見習いでも、漏れてる場所くらいわかる!」
空気が張り詰める。
その時、不意に足元の床が小さく振動した。
かん、と、遠くで鐘が鳴るような音。
ボクは咄嗟に壁へ触れる。
――ひらく。
――した。
――ひとり。
――こっち。
「え?」
ボクが振り向いたのと同時に、計器室の天井近くの点検蓋が跳ね上がった。
「うわっ!」
テオが頭から落ちてくる。いや、自分で飛び降りてきた。
「お前!?」
シアが絶句する。
「待ってろって言われたけど待てるかよ!」
「待てよ!」
「だってそっち絶対捕まる流れだったろ!」
その通りすぎて誰も即座に否定できない。
テオは着地と同時に壁際のレバーへ飛びついた。何をする気かと思った次の瞬間、彼が全体重をかけて引き下ろす。
ごごん、と重い音。
計器室の片隅にあった古い圧抜き管が開き、白い蒸気が横殴りに噴き出した。
「下がれ!」
ロアンが怒鳴る。封鎖局の男たちが視界を失ってよろめく。セヴランが咳きこんだ。
シアが反射的にノートを胸へ抱え、ボクの腕を掴む。
「走るよ!」
「うん!」
こういう時の返事は速い。
ボクたちは奥の重い扉へ駆ける。ローレの音叉鍵を差しこむ暇すら惜しい。なので、少しだけずるをする。
右手を空へ向ける。
銀白の穂先が滑り出る。ミスリルの聖槍。
シアが見慣れたとはいえ、まだ少しだけ目を丸くする横で、ボクは石突きを錠へ叩きこんだ。古い共鳴錠は、力任せより正しい振動のほうがよく効く。
甲高い音。錠が割れる。
「開いた!」
「開け方が乱暴!」
「急いでるから!」
ロアンが後ろからテオを襟首ごと引っつかみ、扉の中へ押しこむ。封鎖局の一人が蒸気の向こうから棒を振りかぶるのが見えたので、ボクは槍の柄でそれを受け流した。手首を軽く返すだけで、棒は床へ転がる。
「行け!」
ロアンが叫ぶ。ボクたちは扉の向こうへ滑りこみ、彼が最後に内側の手輪を回す。重い金属扉が閉じる寸前、セヴランの冷たい声が響いた。
「ロアン。今のは職務放棄ですよ」
ロアンは扉を閉めきってから、低く返した。
「今さら好かれようと思ってねえよ」
扉の向こうで、封鎖局が何か叫んでいる。けれどすぐには破れない。古い設備の重みは、こういう時に頼もしい。
息を整える間もなく、シアがテオへ振り返った。
「待てって言ったよね!?」
「助かっただろ!」
「それはそうだけど!」
「じゃあいいだろ!」
「よくない!」
ロアンが肩で息をしながら苦笑する。
「二人とも後にしろ。あいつら迂回してくる」
ボクはまだ槍を手にしたまま、通路の奥を見た。
新しい空間だった。均圧廊よりさらに古く、広い。両脇に太い支柱が並び、そのあいだを縦長の空洞がずっと上まで貫いている。中央鐘塔の内部だ。見上げると、遥か頭上の暗闇の向こうで、巨大な何かが吊るされている気配があった。
「……すごい」
「感想はあと!」
シアに言われたので、仕方なく頷く。
テオが周囲を見回し、少しだけ得意そうに言う。
「ここ、鐘肋路。昔、掃除屋が使ってた」
「掃除屋って、そんなとこまで登るの?」
「昔は鐘の煤を落としてたらしい」
「大変だね」
「他人事だな」
他人事ではある。
ロアンがシアに手を出した。
「ノート」
「はい」
「必要なページだけ抜け」
シアはすぐに理解した。ノートをめくり、第三共鳴弁と均圧図のあるページを二枚だけ破る。残りをロアンへ渡した。
「囮にする」
「悪い顔してるね、ロアン」
「今褒められてるのか?」
「半分」
「お前、親方の変なとこだけ覚えてんな」
ロアンはそう言いながらも、扉の近くの排圧口へノートを突っこんだ。もし封鎖局が扉を破っても、そこに目がいくようにする気なのだろう。
シアは破ったページを畳み、工具袋の内ポケットへしまいこんだ。その手が少し震えているのを、ボクは見た。怒りか、焦りか、その両方か。
「シア」
「なに」
「大丈夫?」
すぐには返事がない。
数歩進んでから、彼女はようやく言った。
「大丈夫じゃない。けど進ける」
“進める”じゃなくて、“進ける”と少し噛んだ。疲れている時のシアの癖なのかもしれない。
「そっか」
「それだけ?」
「うん。今はそれで十分」
横顔で少しだけ睨まれたけれど、たぶん本気じゃない。
鐘肋路は細く入り組んでいた。鉄の桟橋、石壁に打ちこまれた古い足場、縦に走る鎖。上へ向かう道もあれば、塔の芯を回りこむように横へ伸びる道もある。テオが来てよかった、と思う。知らなければ、同じところをぐるぐる回るだけで終わりそうだ。
途中、少し開けた張り出しで息を整えた時、上の暗闇から遠い振動が降ってきた。
ごん。
空気が揺れる。
「今の」
ボクが顔を上げると、ロアンが顔をしかめた。
「時鐘だ。第一鐘」
シアが低く呟く。
「もうそんな時間……」
今夜三つ鐘まで。つまり、あと二つ。
それほど遠くない未来が、音として落ちてきた。
テオが手すりにしがみつきながら、小声で言う。
「なあ」
「なに?」
「さっきの監督官、ほんとに下のこと知ってたのかな」
シアが答える前に、ロアンが口を開いた。
「知ってるだろうよ」
「なのにあんな……」
「知ってることと、痛いと思うことは別だ」
ロアンの声は疲れていた。怒りを通り越して、諦めに近い色も少し混ざっている。
ボクは手すりの冷たさを指でなぞる。
知ってることと、痛いと思うことは別。
たしかにそうだ。長く生きていると、知っているだけのことは増える。けれど痛みのほうは、逆にぼやけるものもある。昔はもっと、誰かの涙ひとつに大きく揺れた気がする。気のせいかもしれない。思い出せないだけかもしれない。
忘れたくないから日記を書くのに、書いたところで失われない保証はどこにもない。
「アウリィ?」
シアの声で顔を上げる。
「ぼーっとしてた」
「たまに急に遠く見るよね、あんた」
「遠いものが多いからかな」
「何それ」
「ボクもよくわからない」
テオが怪訝な顔をしたが、追及はしなかった。助かる。
少し進んだところで、鐘肋路は二手に分かれていた。上へ向かう細い螺旋足場と、塔の中心へ伸びる梁道。シアがページを開いて確認する。
「第三共鳴弁は鐘底の下、均圧核の隣。なら中心側」
ロアンが頷く。
「上じゃなくて内側か」
テオがぼそっと言う。
「ヴァレナ、上で鐘鳴らすわけじゃないんだ」
「鐘そのものより、その下の流れを揃えるんだろうな」
シアの声は仕事の時のそれだった。怒りや不安を押し込めて、必要なものだけ考えている声。
梁道へ足を踏み入れたところで、ボクはふと壁の一角に目を留めた。
煤に半分埋もれた、小さな銘板。
**煤鐘堂 調律士控所**
指で煤を払うと、その下に細い文字が見えた。
**ヴァレナ・エスカリオ**
**ローレ・バルドヴィン**
「……へえ」
思わず漏らす。
「何」
シアが近づき、銘板を見て目を見開いた。
「親方と……ヴァレナ」
「同じ控所」
ロアンが低く言う。
「同僚だったのか」
シアは何か言いかけて、やめた。たぶん、ローレの顔を思い出したのだろう。あの、ぶっきらぼうな礼の前に見せた古い目。
ふいに、背後で金属音がした。
扉が破られた音だ。
ロアンが振り返る。
「来たか」
「早い!」
テオが青ざめる。
「封鎖局ってそんなに脚速いの?」
「脚じゃない。あいつら人数がいる」
ロアンは警棒を引き抜いた。
「ここからは本気で急げ。一本道に誘いこまれたら終わる」
「テオ」
シアがきつい声で言う。
「今度こそ、後ろに下がって」
「でも」
「いいから!」
テオは反論しかけて、ロアンの顔も見て、渋々頷いた。今回はさすがに空気を読んだらしい。
梁道は、中央の大空洞を横切るように伸びていた。
下は見えないほど深い。上も暗い。左右の支柱だけが頼りで、足元の鉄格子からは冷たい風が吹き上がる。足音がやけに響く。こういう場所は嫌いじゃないけれど、封鎖局に追われながらとなると、さすがにのんびり感心はしていられない。
それでも、途中で一度だけ立ち止まりそうになった。
塔の中心、暗闇のなかに、巨大な鐘の腹が見えたからだ。
煤に黒く染まった大鐘。表面に幾重もの紋様。歯車、風、火、そして花弁に似た意匠。古びているのに、美しい。重たいのに、今にも鳴りそうだ。
胸の奥が、奇妙にひやりとする。
どこかで見たことがある気がした。
もっと明るい、別の場所。鈴のような音。細い指が、金属ではない何かの花を髪に挿して――
「アウリィ!」
シアに呼ばれて、像が砕けた。
「あ、ごめん」
「ほんとに変なとこで立ち止まるね!」
「大きい鐘って、ちょっと見ちゃうでしょ」
「見ちゃうけど今じゃない!」
その通りだった。
梁道の先で、ようやく目的の部屋らしい場所が見えてくる。半球状の鉄扉。周囲に複雑な弁と計器。扉の上に、第三共鳴弁の刻印。
けれど、そこへ辿り着く寸前で、前方の闇から声がした。
「そこまで」
灰色のコートだった。
ヴァレナが、扉の前に立っていた。
その背後では、扉の脇の弁に細い管が何本も繋がれている。彼女はすでに作業を始めていた。間に合ってしまった、という顔ではない。来ることも折り込み済みの落ち着いた顔。
ロアンが舌打ちする。
「先回りか」
「音でわかったわ」
ヴァレナは静かに言う。
「封鎖局の足は重い。あなたたちの足は、少し急いてた」
シアが一歩前へ出る。
「ここを開ける気?」
「開けるために来たのよ」
「今開けたら、封鎖局も一緒に来る!」
「知ってる」
「なら――」
「だから急いでる」
ヴァレナはそう言ってから、テオを見た。
「来ちゃったのね」
「勝手に知ってる顔すんな」
テオの声は震えていた。怖いのか、怒っているのか、まだ整理がついていないのだろう。
ヴァレナは何も言い返さず、代わりにシアへ視線を戻す。
「ノート、読んだ?」
「少しは」
「ならわかるでしょ。ここが閉じたまま三つ鐘を迎えたら、今夜の冷え込みで下の湿気が押し返す。西の補助路も持たない」
ロアンが吐き捨てる。
「それで、開けば全部上手くいくって?」
「そんな都合のいい話はしてない」
「じゃあ何だ」
「賭けよ」
その言葉に、シアの顔がこわばる。
ヴァレナは続けた。
「閉じたまま朽ちるのを待つより、調律して流れを戻すほうに賭ける」
「人の命で?」
「もう既に賭けられてる」
その返しが速すぎて、痛かった。
シアもロアンも、言葉を継ぐまでに一拍かかった。ヴァレナはその隙に、音叉みたいな調律棒を弁へ差しこむ。
「やめて!」
シアが駆け出す。
その瞬間、横の影が動いた。封鎖局だ。迂回して別路から来ていたらしい。黒い外套が梁道の両端を塞ぎ、セヴランがその後ろから現れる。
「間に合いましたね」
ほんとうに、感じの悪い人だ。
ヴァレナがわずかに眉を上げる。
「遅いと思っていたけど」
「あなたが早いんですよ」
セヴランは穏やかな声で言い、手を上げた。
「ヴァレナ・エスカリオ。これ以上の破壊行為を禁じます。調律棒を置きなさい」
ヴァレナは笑わなかった。ただ、小さく首を傾げる。
「今ここでそれを言うの」
「ええ」
「この配分を見て、まだ」
「だからこそです。今さら流れをいじれば、制御不能になる」
「もう制御できているつもりでいるのが問題だと言ってるのよ」
「理想で街は回りません」
「保身でも回らない」
二人の声は大きくないのに、鐘肋路の空気が震える。
シアが低く言う。
「……どっちも下がって」
誰に向けた言葉か、一瞬わからない。でも、たぶん両方だ。
セヴランは視線を動かさずに答える。
「シア、だったね。見習いは下がりなさい」
「見習いでもわかる。今の街は歪んでる」
「わかることと、直せることは違う」
「直そうともしないくせに」
「直すには切り捨てが要る」
その一言が、テオの顔を変えた。
「ふざけんな!」
梁道に怒声が響く。
「切り捨てって何だよ! そこにいるの、人だぞ!」
封鎖局の一人が「黙れ」と前へ出る。ロアンが即座に間へ立った。
「それ以上子どもに触るな」
「子ども扱いは嫌う相手もいるからね」
ボクが言うと、場違いなほど一瞬だけ静かになった。シアが「今それ言う!?」という顔をしたけれど、言いたかったので仕方ない。
ヴァレナが、その沈黙を使った。
調律棒をひねる。
甲高い音が走る。
第三共鳴弁の周囲の小鐘が、一斉に鳴った。
ちん、ちりん、かん、と、不揃いな音が重なり、次の瞬間、梁道全体が大きく揺れた。
「うわっ!」
テオがしゃがみこむ。封鎖局の一人が足を滑らせ、鉄格子に膝をつく。頭上の巨大な鐘が、まだ鳴ってもいないのに腹の底でうなった。
ヴァレナの顔が初めて変わった。
「違う……!」
「何が」
シアが叫ぶ。
「第三弁が固着してる。誰かが途中で噛ませ物を入れてる!」
セヴランの目が細まる。
「そんな報告は受けていない」
「受けてないんじゃなくて、見てないのよ!」
ヴァレナが怒鳴る。さっきまでの静けさが嘘みたいだった。
共鳴弁の計器が赤を超える。歯車が嫌な音を立てる。今ここで争っている場合じゃないことだけは、全員にわかった。
シアがすぐに駆け寄る。
「どこが噛んでる!」
ヴァレナは一瞬だけ躊躇った。でも次の瞬間には指を差していた。
「下段の噛み車。奥から二列目」
「見えない!」
「だから細い手が要るの!」
その言葉に、シアとヴァレナの目が、同時にボクへ向いた。
「えぇ」
嫌そうな声を出しつつ、体はもう動いていた。
梁道を蹴って弁の脇へ滑りこむ。小さな整備口に腕を突っこむと、内部の歯車が信じられない速さで震えている。熱い。けれどマントの加護があるぶん、まだ耐えられる。
――いたい。
――はさまる。
――とって。
――はやく。
「はいはい」
歯車の奥、たしかに異物があった。新しい金属片。わざと噛ませたような細い楔だ。
「誰か、こういうの入れたの?」
セヴランが言う。
「知らない」
「その顔は知らない顔じゃない」
「証拠もなく決めつけるな!」
「今それ言う?」
シアが怒鳴り返す。
楔は固い。指だけでは抜けない。なので、もう少しだけ槍に頼る。
穂先ではなく、石突きのごく細い補助端を呼び出す。見えない位置で金属を引っかけ、てこの要領でひねる。
がちん。
異物が弾け飛ぶ。次の瞬間、弁の震え方が変わった。暴れるだけだった音が、少しだけまとまる。
ヴァレナが息を呑む。
「今よ、シア!」
「わかってる!」
シアが工具袋からレンチを抜き、ヴァレナと並んで弁の外輪を回す。二人の動きは、初めて合わせるはずなのに妙に噛み合っていた。ローレの弟子だからか、同じ仕事の呼吸なのか。
ロアンが封鎖局を睨む。
「誰も余計なことするなよ」
封鎖局の男たちは戸惑っていた。命令を待っている。セヴランも、さすがに今は止められないと理解したのか、唇を結んでいる。
けれど、上手くいきかけたその時。
遠くで、二つ目の鐘が鳴った。
ごん。
さっきより近く、大きく。
ヴァレナの顔色が変わる。
「遅い……第二鐘でここまでしか進んでないなら、均圧核が先に逆流する」
「何それ!」
テオが叫ぶ。
シアが歯を食いしばったまま言う。
「第三弁だけじゃ足りない。下の均圧核も同時に調整しないと、上と下の圧が喧嘩する!」
ロアンが梁道の奥を見る。
「均圧核はどこだ!」
ヴァレナが下を指さした。
「この真下。鐘底の内側」
「行けるの?」
「保守籠が死んでる。降りるなら鎖路を使うしかない」
全員が頭上から床下まで伸びる太い鎖を見た。人が乗るためのものじゃない。古い吊り下げ機構の一部だ。
「いやでしょ、それ」
ボクが言うと、シアが半分泣きそうな顔で頷く。
「私もいや!」
「じゃあ別案」
「ない!」
「即答」
ヴァレナが短く言う。
「私が降りる」
「一人で?」
「慣れてる」
「慣れたらよくない場所だよ」
「この街にはそういう場所が多いの」
その返しに、少しだけ何も言えなくなる。
でも、ヴァレナひとりで行かせるのは危ない。危ないし、もし落ちたらそこで終わる。
ボクは鎖を見上げて、それからシアを見る。
「ボクが一緒に行く」
「だめ」
これも即答だった。
「シア」
「だめ! あそこ落ちたら本当に――」
「シアも行く気でしょ」
言うと、彼女が口をつぐむ。
図星だ。
「なら二人か三人。ひとりよりマシ」
「でも」
「子ども扱いしないで」
二回目なので、今度は前より少しだけ効いたらしい。シアが歯噛みする。
ロアンが低く言った。
「俺が残る。封鎖局を押さえる」
セヴランが険しい顔をする。
「押さえる、とは」
「足を引っ張らせねえって意味だ」
「職務妨害ですよ」
「今日は耳が痛い言葉ばっかりだな」
テオが前に出ようとしたので、今度はボクがその肩を押さえた。
「テオはここ」
「でも!」
「ここで見てて。必要なら、上からロープか何か落として」
「……」
「お願い」
頼まれるのに弱い顔をしたので、たぶん勝ちだと思った。テオは唇を噛んで、悔しそうに頷いた。
ヴァレナが鎖の固定具へ手をかける。
「第二鐘から第三鐘までは短い。迷ったら終わる」
「迷わないようにするよ」
そう答えて、ボクは鎖へ手を伸ばした。
冷たい鉄。煤。遠く下の闇。巨大な鐘の腹のすぐ脇を、人間が滑り降りるなんて、普通はやらない。だから少し楽しい。少しだけ。
でも、その楽しさの裏に、妙なざらつきがある。
この街に情を移しすぎないようにしてきたのに、気づけばボクは、街の心臓みたいな場所に手をかけている。数日しかいない世界のために。
たぶん、よくない。
でも、だからといって今さら手を離す気にもなれない。
「アウリィ」
シアが呼ぶ。
「なに」
「落ちるな」
「うん」
少し笑って答えると、シアもほんの少しだけ笑った。緊張で引きつっていたけれど、それでも笑おうとしてくれた。
ヴァレナが先に鎖へ体重を預ける。動きが無駄なく、見ていて怖いほど慣れていた。ボクも続く。下からは、冷たくて湿った風が吹き上がってくる。
その瞬間、上でセヴランの声が響いた。
「封鎖局、確保を――」
ロアンの怒鳴り声が重なる。
「動くなっつってんだろ!」
金属のぶつかる音。テオの声。シアの短い息。
それらを背中に受けながら、ボクは鎖を滑り降りた。
頭上で、巨大な煤鐘が、まだ鳴ってもいないのに深く唸る。
三つ目の鐘まで、あと少し。
下の闇の奥で、均圧核らしい青白い灯りが、かすかに脈を打っていた。




