2話「霧下の風抜き路」
朝は、鐘の音で目が覚めた。
澄んだ鐘じゃない。金属の喉に煤が詰まったみたいな、少しくぐもった音だった。ひとつ、ふたつ、間を置いて、みっつ。どこか遠くで蒸気が吐き出される音と混ざって、街全体が寝返りを打ったみたいに床がかすかに震える。
物置部屋の天井を見上げたまま、ボクはゆっくり瞬きをした。
まだ、ここにいられる。
そういうのは説明しにくい。けれど、わかる。朝になった時、世界に身体がちゃんと引っかかっているかどうか。空気が皮膚の上を素通りしないかどうか。今日は問題ない。クラーヴェルは、少なくとももう一日ぶんくらいは、ボクを追い出すつもりはないらしい。
「よかった」
小さくつぶやいて、起き上がる。
窓の外は白かった。霧というより、蒸気と朝靄が混ざった薄い膜みたいなものが街の壁面を這っている。その向こうを、籠型の昇降機がゆっくり上下していた。昨日あんなことがあったのに、街はもう動いている。止まらないんだな、と思う。止まれないのかもしれないけど。
膝の上に日記帳を開いて、短く書く。
――旅の記録。朝の鐘は少し掠れていた。ボクはまだこの街にいる。たぶん、街のほうもまだそうしたいらしい。
書き終えてから、髪を指で整える。三つ編みをほどいていないか確かめて、赤い彼岸花の髪飾りの位置を直した。トランクは部屋の隅で大人しくしている。中はたぶん大人しくない。
下から、何かが落ちる音がした。
がしゃん。
一拍おいて、低い声。
「……っ、痛……」
シアだ。
ボクは笑って日記帳を閉じ、階段を降りた。
***
工房の机に突っ伏していたシアは、ボクが顔を出した時にはもう起きていた。起きていたというより、目だけ開いている状態だった。髪はいつも以上に跳ねているし、頬には図面の端の跡がついている。
「おはよう」
「あぁ……おはよ……」
「寝た?」
「たぶん、少し」
「それは寝てないやつだね」
「うるさい」
言い返す元気だけはあるらしい。
薬缶の蓋がかたかた鳴っていたので、火を少し弱める。工房の空気は昨日より慌ただしかった。机の上には分解した部品、開きっぱなしの記録簿、急いで書きつけたらしいメモ。西昇降機の事故のあと、いろいろあったんだろう。
シアは椅子に座り直し、目をこすった。
「親方、まだ戻ってない。中央塔に詰められたまま。詰所は事故報告でごちゃごちゃ。だから、行くなら今のうち」
「霧下?」
「うん」
短く答えてから、彼女はボクを見る。
「……本当に来るの」
「来るって言ったよ」
「言ったけどさ」
「シアが頼んだんでしょ」
「それはそうなんだけど」
たぶん、夜のあいだに少し冷静になって、昨日勢いで巻き込んだ相手が想像以上に得体の知れない旅人だったことを思い出したんだろう。気持ちはわかる。
でも、引き返す気はあんまりなかった。昨日見た灰色のコートの影が、まだ頭に残っている。ああいう逃げ方をする人は、たいてい一度会って終わりじゃない。
シアが立ち上がって棚をあさり始めた時、工房の扉が勢いよく開いた。
「シア!」
飛び込んできたのはテオだった。昨日より顔色はいい。でも、眠れていない目をしている。手には紙包みがふたつ。ひとつをシアに、もうひとつをボクに突き出した。
「パン。朝のやつ」
「わぁ、ありがとう」
受け取ると、まだ温かい。包みを開ける前から香ばしい匂いがした。シアも受け取ったが、すぐに眉を上げる。
「金、どうした」
「稼いだ」
「昨日の今日で、また変なことしてないだろうね」
「してねえよ。荷運び。真面目なやつ」
「その言い方が信用できないんだって」
テオはむっとしたが、言い返す前にボクのほうを見た。
「アウリィ」
「なに?」
「俺も行く」
シアが即座に首を振る。
「だめ」
「先に言うなよ!」
「言うに決まってんでしょ。危ない場所だってわかってる?」
「だからこそだよ。風抜き路、俺のほうが詳しい。下の抜け道も知ってる。あんたより知ってる」
「胸張ることじゃないからね、それ」
「でも事実だろ」
シアのこめかみがぴくりと動く。テオも一歩も引かない。昨日は盗人と整備士の追いかけっこだったけど、今日はそれとは違う尖り方だ。どっちも本気だし、どっちも少し怖い。
ボクはパンをひとくち齧った。外は固めで中はしっとりしている。うん、おいしい。
「アウリィ!」
「はいはい」
テオに呼ばれて、咀嚼してから答える。
「ボクは、テオがいたほうが助かるかもって思う」
シアが振り返った。
「えぇ?」
「だって、詳しいんでしょ」
「そうだけど、子どもを――」
「シア」
言い方を止めるように名前だけ呼ぶ。
彼女はしまった、みたいな顔をした。昨日の会話を思い出したんだろう。
「……ごめん、いや、テオのこと」
「うん、それはわかってる」
「でも危ないのは本当」
「危ないのは、ボクたち全員だよ」
そう言うと、テオが少しだけ胸を張った。単純だな、と思う。でも、そういう単純さは嫌いじゃない。
シアはしばらく迷ってから、深く息を吐いた。
「条件」
「なんだよ」
「勝手に走るな。勝手に先に行くな。何か見つけても一人で近づくな。あと盗むな」
「最後は関係ないだろ」
「ある。信用の話」
テオは悔しそうに唇を曲げたが、やがて小さく頷いた。
「……わかった」
「返事が小さい」
「わかったって!」
「よし」
シアはそこでようやく納得した顔になった。
ボクはパンを食べ終えながら、二人を見比べる。喧嘩みたいな調子なのに、完全には突き放さない距離だ。きょうだいっぽい、と一瞬思ったけれど、たぶんそう言うとシアは全力で否定する。
「先にテオの家、寄っていい?」
シアが工具袋を閉じながら言った。
「薬、持っていく約束してた」
テオの顔が固まる。
「……買ったのか」
「貸すって言ったでしょ」
「でも」
「でもじゃない。後で働いて返しな」
言い方は雑なのに、やっていることはきちんと優しい。そういう人は好きだ。
***
テオの家は、工房のある中層からさらに二段ほど下がったところにあった。
階段を下りるたび、街の匂いが少しずつ変わる。上のほうでは焼いたパンと機械油だったのが、中ほどでは濡れた石と湯気になり、下へ行くと金属の錆びと湿った布の匂いが増える。霧も濃い。壁際の配管に触れるとぬるかったり冷たかったりして、熱の流れが安定していないのがわかる。
テオが立ち止まった扉は、細い路地の奥にあった。木の色はもうよくわからないくらい煤けていて、取っ手の金具だけが磨り減って明るい。
中は思っていたより狭かった。
狭くて、きれいだった。
床は掃かれているし、窓際には小さな鉢まで置かれている。葉は少し元気がないけれど、それでも生きていた。奥の寝台に寄りかかっていた女の人が、ボクたちを見ると少し目を丸くして、それから笑った。
テオに似た灰色の目。頬はこけているけれど、表情はやわらかい。
「まあ。こんな朝からにぎやか」
「母さん、寝てろって」
「寝てばっかりも飽きるのよ」
彼女はそう言ってから、ボクとシアに視線を向けた。
「昨日の……」
「うん。アウリィ」
「整備区のシアです」
「ネッサです。息子が迷惑をかけたでしょう」
「かけた」
シアが即答して、テオが「おい!」と抗議する。ネッサはくすくす笑って、咳きこんだ。すぐ横の湯飲みをボクが手に取ると、中身はもう冷めている。
「ちょっと温めてもいい?」
「え?」
ネッサが首をかしげる間に、ボクは指先を湯飲みの縁に添えた。近くの熱の気配をそっと集める。ここの子たちは素直じゃないけれど、小さな頼みなら聞いてくれる。
――すこし。
――あたためる。
――やさしく。
湯気が、ふっと立った。
テオの目が丸くなる。シアはもう驚き方に慣れ始めているのか、「便利だね」とだけ言った。
ネッサは温まったお茶を両手で包みこみ、少しだけ目を細めた。
「ありがとう。いい手だね」
その言い方が、なぜか少し胸に残る。
シアは紙包みを差し出した。
「咳止め。強いのじゃないけど、まずはこれで」
「そんな、悪いわ」
「貸しです。テオが返します」
「勝手に決めんなよ……」
「働くって言ったでしょ」
「言ったけど」
ネッサは息子とシアを見て、困ったように、でも嬉しそうに笑った。人に助けられる時の顔だ。申し訳なさとありがたさが半分ずつある。あれを見てしまうと、ボクはいつも少しだけ居心地が悪い。助けるのは好きだけど、深く感謝されると、置いていく時のことを先に考えてしまうから。
ネッサは薬を受け取り、ぽつりと言った。
「夜中、また聞こえたの。下から、鐘みたいな音」
シアが顔を上げる。
「鐘?」
「ええ。昔、もっと小さかった頃に聞いたのに似てる。煤鐘炉が動いてた頃の……って、私もよく覚えてないけど」
テオが眉をひそめた。
「またその話。母さん、熱あると変な音聞こえるじゃん」
「失礼ね。あんたのいびきと区別くらいつくわ」
ボクは黙ってネッサを見た。彼女は本当に聞いたのだろう。病人の耳は時々、元気な人よりずっと正確だ。必要な音だけ拾うことがある。
シアも同じことを思ったのか、真面目な顔で頷いた。
「ありがとう。覚えとく」
テオはまだ半信半疑らしかったけれど、母親が咳きこむたび背中に手を当てていた。その手つきは思ったより慣れていて、少しだけ胸が痛む。慣れなくていい慣れだ。
家を出る時、ネッサがボクを呼び止めた。
「アウリィちゃん」
ぴたりと足が止まる。
「……ちゃんはいらない」
「あら」
ネッサが目を瞬かせ、それからふっと笑う。
「じゃあ、アウリィ。息子をよろしくね」
その言い直しがきちんとしていて、ちょっとだけ機嫌が直る。単純だな、と自分でも思う。
「任せて」
そう答えると、ネッサは今度こそ深く頷いた。
***
霧下へ降りる通路の手前には、簡単な検問ができていた。
木柵と縄、立て札、そして見覚えのある灰色の外套。
「やっぱり来たか」
ロアンだった。腕を組んで立っている。目の下の隈は昨日より濃い。夜通し働いた顔だ。こっちも人のことは言えないけど。
「おはよう、ロアン」
「おはようで済めば楽なんだがな」
「済まない?」
「済まない」
きっぱり言われた。
ロアンはシアとテオ、それからボクを順に見た。最後にボクのところで目が止まる。
「で、これは何の集まりだ」
「遠足」
ボクが言うと、シアが「違う」と即座に否定した。
「仕事。というか、調査」
「許可は」
「ない」
「だろうな」
ロアンは額を押さえた。もう怒るのも面倒になっている顔だ。
「閉鎖区画の封鎖が強まった。昨夜の昇降機事故でな。見張りもひとり戻ってない。上は事故と失踪を別件扱いしたがってるが、俺は嫌な感じがしてる」
「見張りが戻ってない?」
シアが眉をひそめる。
ロアンは小さく頷いた。
「最後に見たやつの話だと、風抜き路のほうで変な蒸気の匂いがしたらしい。薬品っぽい匂いだと」
薬品。昨日、灰色のコート。下から聞こえた鐘。
頭の中で点と点が、まだ細い線だけれど繋がっていく。
ロアンは木柵を軽く叩いた。
「だから本来なら通したくない。特にそこの二人は」
「その言い方だと一人足りないよ」
「わかってる。全員だ」
「よし」
「よくない」
テオが小声で笑い、シアが呆れた息を吐く。
ロアンは少しだけ迷うような顔をしてから、懐から薄い金属札を取り出した。歯車の刻印入り。端が曲がっていて古そうだ。
「整備区の旧札だ。閉鎖前の点検扉くらいなら、まだこれで開く場所がある」
シアが目を見開く。
「なんでそれを」
「戻ってこない見張りの机に置いてあった。俺ひとりで潜るより、お前のほうが機械はわかるだろ」
「通してくれるの?」
「見逃すだけだ。許可はしてない」
ロアンはそう言ってから、ボクのほうへ視線をずらした。
「お前にはこれ」
渡されたのは、小さな真鍮の笛だった。細い鎖つき。
「危なくなったら吹け。近くにいれば駆けつける」
「近くにいなかったら?」
「その時は運が悪い」
「正直だ」
「綺麗事を言う気力がないだけだ」
でも、その笛を渡してくれた手つきは不器用なくらい真面目だった。
「ありがとう、ロアン」
「礼より先に生きて帰れ」
「頑張る」
「頑張るで済ませるな」
ぼやきながらも、彼は柵の脇を少し開けた。
すれ違いざま、ロアンが低い声で言う。
「灰色のコートの女を見たら、正面からやり合うな。昔の記録に似た手口がある。中央炉の技師くずれだ」
シアの肩がぴくりと揺れた。
「……名前は?」
ロアンは一瞬だけ躊躇ってから答える。
「ヴァレナ」
その名を、シアは知っていたらしい。返事はなかった。でも口元が固くなった。
木柵を越えた先は、空気が一段冷たかった。
***
霧下の市場は、上の広場よりずっと低い声で鳴っていた。
怒鳴り声は少なくて、代わりに囁きや値踏みの目線が多い。屋台も豪快なものじゃなく、小さな台に部品や薬草や古布を並べただけの店がほとんどだ。配管から漏れる湯気を囲うように人が集まり、手を温めている。子どもは多いのに、笑い声はあまりしない。
テオが肩をすくめた。
「こっち、上みたいに堂々と聞き込みしないでくれよ」
「なんで?」
「よそ者は目立つから」
「目立つのは今さらでしょ」
シアが言う。まあ、そうなんだけど。
ボクは自分のマントを見下ろした。真紅。たしかに霧下にはちょっと派手だ。知らない土地で目立つ色を着るのは別に嫌いじゃない。嫌いじゃないけど、隠れたい時には向いていない。
「じゃあ、ボクはなるべく静かにする」
「できんの?」
「ひどい」
「昨日から見てると自信ない」
「シアまで」
口を尖らせると、テオがちょっと笑った。
市場の端、古い弁や錆びた器具ばかりを積み上げた店の前で、テオが足を止める。店番は片目に曇ったレンズをつけた痩せた男だった。指先が黒い。細かい部品をよく触る人の手だ。
「バルド」
テオが呼ぶと、男は顔を上げ、露骨に嫌そうな顔をした。
「なんだ、泥棒坊主。今日は払う方か?」
「ちげえよ。聞きたいことがある」
「聞くだけなら銅貨一枚」
「せこ」
「慈善事業じゃないんでね」
シアが一歩前に出る。
「最近、圧針とか弁とか買ってるやつがいるでしょ」
バルドの表情はほとんど動かなかった。でも、目だけが一瞬だけシアの工具袋に落ちた。整備区の刻印が見えたのだろう。
「知らんな」
「知らない顔じゃない」
「顔に詳しいね、お嬢さん」
「お嬢さんじゃない」
それはボクの台詞では、と思ったけれど黙っておく。
バルドは肩をすくめ、部品を磨く布を持ち直した。明らかに誤魔化している。でも、こういう人は真正面から押しても簡単には吐かない。
どうしようかな、と周囲を見回す。
店先の金属片の上を、細い熱の気配がちりちり這っていた。古い部品には、よく小さな残り香みたいなものがつく。指先で棚の端に触れる。
――きた。
――おんな。
――つめたい手。
――かね。
「鐘、って何?」
思わず口にすると、バルドがぴくりと反応した。
シアも気づいたらしい。目が鋭くなる。
「今、顔が動いた」
「動いてない」
「動いたよ」
「お前は黙ってろ、坊主」
「図星じゃん」
テオがにやりとする。煽るのがうまい。
バルドは舌打ちした。
「……あの灰色コートの女なら、何度か来た」
シアの目が細まる。
「ヴァレナ?」
「名乗られちゃいない。だが、中央炉の人間くさい話し方をする。部品を見ても値札より先に用途を見る。ああいう客は忘れん」
「何を買ったの」
「圧針、古い弁、共鳴管、鐘青銅の欠片」
「鐘青銅?」
ボクが聞くと、バルドがちらりとこっちを見る。
「お前、旅人にしちゃ耳がいいな。鐘の鋳造に使う合金だよ。熱を入れるとよく響く」
響く、か。
ネッサの言った、夜の鐘。昨日精霊たちが囁いた、かなしい、という感触。全部がそこでまた寄る。
シアが低い声で言った。
「どこへ行った」
「言ったら後が面倒だ」
「言わなくても今面倒になりそうだけど」
「整備区の見習いが脅す気か?」
「脅しじゃない。西昇降機が落ちかけた。次は人が死ぬ」
バルドの手が止まる。
その沈黙のあいだ、ボクは彼の店の奥を見た。壁に掛かった古い札。煤で見えにくいけど、歯車と鐘を組み合わせた印。どこかで見た気がする。昨日、駅の天井だったかな。いや、違う。もっと古い場所。うまく思い出せない。こういう時、記憶はいつも指のあいだから零れるみたいに逃げていく。
バルドは長く息を吐いた。
「風抜き路四番の先。閉鎖区画手前の旧送気室だ」
テオがシアを見る。シアは頷いた。
「なんでそんな場所に」
「さあな。ただ、ひとつ言えるのは――」
バルドは布を置いて、真面目な顔になった。
「あいつは単なる泥棒じゃない。組み上げてる。あの手つきは、壊すための盗みじゃなく、動かすための盗みだ」
それは昨日から感じていたことと同じだった。
ボクは聞く。
「何を動かすの?」
バルドは曇ったレンズ越しにこちらを見た。
「古い鐘は、鳴る前に必ず熱を欲しがる」
答えになっていないようで、たぶん彼なりには答えている。
店を離れる時、バルドがぼそりと言った。
「……ヴァレナは昔、いい技師だったよ」
シアの足が止まる。
「知ってるの?」
「誰だって名前くらいは。中央炉の調律師。音で圧を見る変人だ」
バルドは苦く笑った。
「変人はたいてい、使えるうちは重宝されて、壊れると急に厄介者になる」
シアは何も言わなかった。
その横顔が少し固くて、ボクは声をかけるのをやめた。
***
風抜き路は、街の腹の中みたいな場所だった。
石と鉄でできた長い通路。天井を何本もの管が走り、ときどき白い蒸気を吹く。壁際には排水溝があって、黒い水が細く流れていた。霧は地上より濃いのに、風が通るから完全には淀まない。そのせいで、見通しが悪いくせに音だけは遠くまで届く。
足音、滴る水、管の軋み。
それから、ときどき、かすかな金属音。
ちん、と。
「今の聞いた?」
ボクが言うと、テオが肩をすくめた。
「配管だろ」
「違う。もう少し丸い音」
シアが旧札を扉に差しこんで、錠の様子を見ながら言う。
「ネッサさんが言ってた鐘?」
「かも」
ロアンから受け取った旧札は、本当に役に立った。四番路の脇にあった整備扉へ差しこむと、錠前が渋い音を立てて回る。長いこと使われていなかったらしく、開けた瞬間、湿った古い空気が流れ出てきた。
中はさらに狭く、暗かった。
「待って」
シアが小型のランプに火を入れる。青白い炎が灯り、三人分の影が壁へ伸びた。
テオがぼそっと言う。
「なあ」
「なに?」
「アウリィってさ」
嫌な前振りだ。
「ほんとにいくつなんだ」
やっぱりだ。
シアが吹き出しかける。
「今それ聞く?」
「気になってたんだよ。子どもみたいなのに、喋り方変だし、たまに年寄りみたいな顔するし」
「失礼だなあ」
「否定しろよ」
どうしようかな、と少し考える。
本当のことを言ってもたいてい困らせる。かといって、嘘をつくとあとで面倒になることが多い。なので、いつもの答えを使う。
「長いよ」
「長いって何だよ」
「長いは長い」
「余計わかんねえ!」
テオが小声で叫ぶ。シアが肩を揺らして笑った。
「まあ、アウリィはそういうやつ」
「シアまで雑」
「だって説明されてもわかんない気がするし」
「それは、そうかも」
自分で言って、自分で少し変な気持ちになる。わからなくなっているのは、本当はボク自身も同じだ。長い時間を持っているはずなのに、そこに何が積もっていたのか、ところどころ霧みたいに抜けている。
でも今は、それで困っていない。たぶん。
通路の奥で、何かが動いた音がした。
三人とも足を止める。
シアがランプを少し上げる。光の外縁で、古い掃除機械みたいな小型の自動機がかたかたと震えていた。丸い胴体に刷毛がついていて、片方の車輪が曲がっている。こっちを敵と見なしたのか、ぎち、と不穏な音を立てた。
「うわ、まだ生きてるのかよ、こいつ」
テオが一歩下がる。
「動くの?」
ボクが聞く。
「下手に刺激すると体当たりしてくる」
「それは生きがいいね」
「感心してる場合じゃ――」
言い終わる前に、自動機が突っ込んできた。
速くはない。でも狭い通路では十分危ない。テオが悲鳴を飲みこみ、シアがランプを庇う。ボクは一歩踏み出して、機械の進路に足を置いた。つま先で車輪の軸を軽く蹴る。重心がぶれて、機械が斜めに傾く。そのまま横の壁へ誘導して、空いた手で上蓋を押さえた。
「おとなしくね」
蓋の隙間に指を差しこみ、内側のばねを外す。かちん、と音がして、自動機は力を失った。
沈黙。
テオが目を剥く。
「何それ」
「昔よくあった」
「昔ってどのくらいの昔だよ!」
「長いよ」
「またそれ!」
シアがとうとう声を殺して笑い出した。狭い通路に笑いが反響して、少しだけ緊張がほぐれる。
でも、その笑いは長くは続かなかった。
さらに奥へ進むにつれ、空気の中に別の匂いが混じり始めたからだ。薬品。油。焼いた金属。人の気配もある。ひとりやふたりじゃない。
シアがランプの火を絞る。
「近い」
ボクも頷いた。精霊たちがざわついている。
――ひと。
――ねつ。
――いたい。
――もうすぐ。
その「いたい」が、昨日より近い。
通路の先が少し開けたところで、声が聞こえた。女の声。落ち着いた、低い声。
「管の継ぎ目をもう一度見て。そこが鳴りを邪魔する」
もうひとつ、男の咳。さらに子どもの寝息みたいなもの。
シアと目を合わせる。
そっと角を覗く。
旧送気室は、思っていたより広かった。
天井の高い円形の部屋。その中央に、巨大な鐘みたいな形の炉が沈んでいる。黒く煤けた胴に、いくつもの真鍮管が絡みつき、底からはまだ火の入っていない冷たい炉床が覗いていた。周囲には作業台、ばらした部品、図面。それだけじゃない。壁際には簡易寝台が四つ並んでいて、そのうち二つには痩せた人影が横たわっている。薬瓶。湯を沸かす器具。包帯。
隠し工房であり、隠し診療所だった。
灰色のコートの女は、炉の脇に立っていた。
髪は煤と白髪が混ざったような色で、後ろで雑に束ねている。片方の頬に古い火傷の跡。背は高くないが、細く強張った姿勢のせいか大きく見えた。指先には黒い手袋。こちらに背を向けていたのに、ボクたちが息を止めたその瞬間、彼女はゆっくり振り返った。
「そこにいる三人。隠れるなら、もう少し息を揃えなさい」
見つかっていた。
テオが思わず「うわ」と声を漏らし、シアが前へ出る。
「ヴァレナ」
女の目が細まった。
「その声。ローレの弟子か」
「知ってるの」
「何度か工具箱を運ばせた。人の三倍睨む子だった」
「褒めてないよね、それ」
「半分は褒めてる」
ヴァレナは、妙に自然な口調で言った。追い詰められた人の顔じゃない。むしろ、想定のうちに全部ある顔だ。
シアは周囲を一瞥し、寝台を見て、さらに炉を見た。
「何してるの」
「見てわからない? 治療と修理よ」
「そのために昇降機を落としかけた?」
空気がぴんと張る。
ヴァレナは答える前に、テオを見た。
「お母さん、まだ咳いてる?」
テオの顔がこわばる。
「なんで知ってる」
「薬草を届けたことがあるもの。寝床の端に割れた青い湯飲みがある家でしょう」
テオが一歩引いた。怒りと戸惑いがごちゃ混ぜになった顔だ。
「おまえ……」
「感謝はいらない。勝手にしただけ」
「勝手に、人を使ってただろ!」
テオの声が裏返る。ヴァレナは否定しなかった。
シアがきつい声で言う。
「答えて。昨日の西昇降機、あれもあんた?」
「そうよ」
あまりにもあっさりで、逆に少し息が詰まった。
シアの指が震える。
「人が乗ってた」
「本来あの時刻は空の整備籠のはずだった。時刻表が変更されていた」
「だから仕方ないって?」
「仕方ないとは言ってない」
ヴァレナの声は静かだった。
「でも、止める必要があった。西の圧を一時的に抜かなければ、ここは起動できない」
彼女が軽く炉へ手を置く。そのしぐさに、愛着と執念の両方が見えた。
ボクはその炉を見上げた。冷えているのに、どこかまだ生き物みたいだ。大きな鐘の形。外殻の表面には、煤の下に古い刻印が並んでいる。歯車と鐘。それから、細い花弁みたいな紋も混ざっていた気がしたけれど、煤でよく見えない。
「これが、煤鐘炉?」
ヴァレナの視線が初めてボクにしっかり向いた。
「あなた、旅人にしては耳も目もいいのね」
「そうでもないよ。見たいものを見てるだけ」
「それがいちばん厄介」
彼女はそう言って、少しだけ口元を緩めた。笑ったわけじゃない。でも、興味を持たれたのはわかった。
シアが言う。
「旧炉なんて、もう廃止されたはず」
「廃止されたのは、上の都合でしょ」
ヴァレナの声に、初めて熱が乗った。
「下層の湿気を抜くための乾燥熱を、製造区の増設に回した。その結果、霧下は年ごとに冷えて、咳病が増えた。中央は記録を薄めた。整備計画も、配分表も、なかったことみたいにね」
「だからって」
「だからよ」
ヴァレナはシアをまっすぐ見た。
「待っていれば上が助ける? 部品を申請して、順番が来るのを待つ? その間に何人咳きこんで、何人が朝を越えないと思うの」
言葉が部屋に落ちる。
寝台のほうで、誰かが小さく咳をした。
ボクは少しだけ目を伏せた。こういう声を、前にも聞いたことがある気がする。寒い石の部屋。湯気の薄い椀。指先が冷たくなる冬。どこの世界だったかは思い出せない。でも、選ばれない側の空気だけは、たぶん何度も吸ってきた。
シアはそれでも食い下がる。
「それで人を巻きこんでいい理由にはならない」
「ならないでしょうね」
「じゃあやめて」
「やめたら、ここは明日も濡れたままよ」
「それでも別のやり方が――」
「あるなら教えて」
短い問いだった。
強くも大きくもないのに、シアが言葉を失うには十分だった。
ヴァレナは続ける。
「私は中央に出した。申請も、設計も、代替案も。全部却下された。危険だから、採算が合わないから、前例がないから。人が死ぬことだけは、なぜかいつも計算に入らない」
テオが低く言う。
「母さんの薬、あんたが買ってたのか」
「ええ」
「なんで」
「この炉を動かすまでのつなぎよ。根本にはならない」
「質問の答えになってねえ」
ヴァレナは少し黙って、それから言った。
「見捨てるのが嫌いだから」
その一言だけは、飾りも理屈もなかった。
だからこそ厄介だった。
正しい人の顔をしているわけじゃない。善人ぶってもいない。でも、本当に誰かを救いたい気持ちが混ざっているのが見えてしまうと、単純に怒りきれない。
ボクは聞いた。
「この炉、動かしたらどうなるの」
ヴァレナの目がまたこちらへ向く。
「霧下全体に乾燥熱が回る。最低限の暖気と、湿り気を散らす風が戻る。咳はすぐ消えないけど、悪化は抑えられる」
「失敗したら?」
「旧管が耐えきれずに破裂する。西と下層の一部は吹き飛ぶかもしれない」
テオが息を呑む。シアが「最悪じゃない」と吐き捨てた。
ヴァレナは頷いた。
「最悪よ。でも、何もしなくてもじわじわ同じことが起こる。違うのは、見て見ぬふりができるかどうかだけ」
沈黙が落ちた。
ボクは炉を見る。巨大で、古くて、でもまだどこか鳴りたそうだ。近づくと、熱の精霊たちが炉殻の裏に薄く溜まっているのがわかる。眠っているというより、待っている感じ。
――まだ。
――まだ。
――ならすの?
その囁きが子どもっぽくて、少し嫌な予感がした。
シアが絞り出すように言う。
「親方は、あんたのこと知ってるの」
ヴァレナは目を細めた。
「ローレは知ってる。止めるでしょうね」
「そりゃそうでしょ」
「だから私は、見つかる前に鳴らす」
「今日?」
「今夜、三つ鐘で」
テオが声を上げる。
「そんなすぐ!?」
「圧はもう集まり始めてる。途中で止めるほうが危険」
シアが険しい顔で炉の配管を見る。整備士の目だ。嘘かどうかを測っている。数秒後、彼女は舌打ちした。
「……ほんとだ。中途半端に戻したら逆に管が裂ける」
「でしょ」
「誇るな」
「誇ってない」
その時だった。
遠くから、笛の音がした。
短く鋭い音。ロアンがくれた真鍮の笛と同じ響き。ひとつ、ふたつ。近い。
シアが目を見開く。
「誰か来た」
テオが青ざめる。
「やばい」
ヴァレナは一瞬だけ天井を見上げ、それから寝台の患者たちへ振り返った。
「後ろの通路から出て。薬箱だけ持って」
そこに迷いはなかった。怒鳴るでもなく、全員が従う声だ。
シアが言う。
「待って、逃がさない」
「逃げるのは患者よ。私は残ってもいいけど、詰所はこの場所を潰す」
「潰すような場所にしたのはあんたでしょ!」
「そうね」
ヴァレナはあっさり認める。
その落ち着きが、逆にシアの怒りを煽った。彼女が一歩前へ出る。ボクはその肩に手を置いた。
「今は人から」
シアが振り向く。目が熱い。
「でも」
「順番」
たぶん、ここで言い争っている時間はない。
通路の向こうから足音が増える。複数。ロアンだけじゃない。詰所の人間もいる。
ヴァレナがボクを見る。
「あんた、変な旅人ね」
「よく言われる」
「ここで誰を優先するか、ちゃんと選ぶ顔をしてる」
それは褒め言葉ではない気がした。
「ボクは選ぶの下手だよ」
「そういう人ほど選ばされる」
その言葉に、少しだけ胸の奥がざらついた。
ヴァレナはコートの内側から細い金属の道具を取り出し、炉の脇の弁へ差しこんだ。甲高い音がひとつ鳴る。次の瞬間、送気室の上部管から白い蒸気が一斉に噴き出した。
視界が真っ白になる。
「うわっ」
テオの声。患者の咳。シアが「低く!」と叫ぶ。
蒸気は熱いけど、火傷するほどじゃない。目くらましだ。ボクは咄嗟にマントを広げてテオと寝台のひとつを覆い、片手で近くの人を引っ張る。熱の流れを少しだけ逸らす。視界の向こうで、灰色の影が動いた。
「ヴァレナ!」
シアの声が響く。
でも、返事はない。
蒸気が薄れた時には、灰色のコートはもういなかった。奥の整備通路の格子が開いている。
代わりに床へ落ちていたのは、一冊の薄いノートと、真鍮の細い調律棒だった。
「ちっ……!」
シアが追おうとする。けれどその前で、寝台の男が苦しそうに喉を押さえた。蒸気を吸いこんだのだ。
シアの足が止まる。
その一瞬が、答えだった。
「テオ、水!」
「お、おう!」
「アウリィ、こっち支えて!」
「了解」
そこからは慌ただしかった。
詰所の人間がなだれこんできて、狭い送気室は一気に騒がしくなる。ロアンが先頭だった。蒸気の向こうからボクたちを見つけるなり顔をしかめる。
「やっぱりお前らか!」
「第一声がそれ?」
「他に何がある!」
でも、視線が寝台と薬箱、それから患者たちに移った瞬間、彼の顔から怒鳴るための勢いが半分消えた。
「……なんだ、ここ」
「見りゃわかるでしょ」
シアが男を支えながら吐き捨てる。
「診療所。たぶん、違法の」
ロアンの後ろにいた若い詰所員が「封鎖対象です」と口走りかけたので、ロアンが肘で黙らせた。
「今は患者を先だ。担架!」
「でも規則では――」
「規則が運ぶのか、人が運ぶのか、どっちだ!」
怒鳴られて、若い詰所員は慌てて動き出す。
ロアンはその隙にボクのほうへ寄った。
「灰色コートは」
「逃げた。奥の通路」
「追えるか」
「追えるけど、今はたぶん違う」
ボクが患者たちを見やると、ロアンは短く舌打ちして頷いた。
「……わかった」
その切り替えの速さは好きだ。
テオは薬箱を抱えながら、まだヴァレナが消えた格子を見ていた。怒っているのか、揺れているのか、自分でもわからない顔だ。シアは落ちていたノートを拾い上げ、ぱらぱらと中を見る。
「何かある?」
ボクが聞くと、彼女は険しい顔でノートを開いたまま差し出した。
図面だった。
旧炉から伸びる配管の見取り図。その上に赤い印がいくつも書きこまれている。西昇降機。下層配管。中央圧路。そして一番下に、大きく丸で囲まれた箇所。
**第三共鳴弁**
その横に、走り書きの文字。
――三つ鐘までに調律完了。遅れれば街が先に止まる。
ロアンが覗きこみ、顔をしかめる。
「三つ鐘って、今夜か」
「うん」
シアの声は低かった。
「ヴァレナは今夜、煤鐘炉を起こす」
「起こすって何を――」
「古い乾燥炉。霧下全域へ熱を戻す設備。でも、廃止されてる。今の配管じゃ持つかわからない」
ロアンがノートの図面を睨む。
「止めればいいだろ」
シアは即答しなかった。代わりに、炉の脇の弁を見た。抜かれた部品、仮留めの継ぎ目、変則的に繋がれた配管。整備士の目が、あり得る壊れ方を次々計算しているのがわかる。
「止め方を間違えると、破裂する」
「……最悪だな」
「最悪だよ」
テオがぽつりと口を開く。
「でも、母さんみたいなのがたくさんいるのは本当だ」
誰もすぐには返せなかった。
ロアンでさえ、否定しなかった。
送気室の奥では、担架に移された患者が運ばれていく。咳の音。湯を求める声。霧下の人たちは、こういうふうにぎりぎりで生きているのだろう。上の広場で揚げパンを売っていた朝と、地続きの街とは思えないくらい、温度が違う。
ヴァレナのやっていることは危ない。たぶん間違っている。でも、それだけで片づけるには、部屋にあった寝台の数が具体的すぎた。
ロアンがノートを閉じる。
「上に報告する」
シアがすぐに言う。
「上が聞くと思う?」
「聞かせる」
「どうやって」
「……それは今から考える」
「考えてる間に三つ鐘になる」
ふたりの会話は険しい。でも、どっちも焦っているだけで、相手を打ち負かしたいわけではないのがわかる。
ボクは送気室の中央、煤鐘炉の前に立った。
冷たい外殻へそっと触れる。
鉄でも真鍮でもない、少し鈍い響きの金属。古い。とても古い。街の心臓のひとつだったものの冷たさだ。
目を閉じる。
――くる?
――よる。
――ならす?
――いたい。
――でも、さむい。
ひどく子どもっぽい声が、あちこちから返ってくる。
胸が少し痛くなる。
街が苦しそうだと思った。昨日も。今日も。たぶん本当に、苦しいんだろう。誰かが悪いとか、誰かだけが正しいとか、そういう単純さではなく、もうずっと前から、歯車がきしみ続けている。
「アウリィ」
シアに呼ばれて目を開ける。
彼女はノートを抱えたまま、真っ直ぐボクを見ていた。
「今夜、また潜ることになる」
「うん」
「もっと危ない場所に。たぶん昨日よりずっと」
「うん」
「それでも――」
そこまで言って、シアは少しだけ言葉を探した。
「……それでも、付き合ってくれる?」
頼む、というより確認に近い声だった。巻きこむことへのためらいと、それでも一人では無理だという認識が混ざっている。
ボクは少し笑った。
「シアは律儀だね」
「は?」
「昨日助けた時もそうだけど、ちゃんと聞く」
「聞くでしょ普通」
「聞かない人も多いよ」
シアは眉を寄せた。たぶんその「多い」に含まれている時間の長さを、なんとなく感じ取ったのだろう。でも深入りはしない。
「で、どうなの」
ボクは答える前に、送気室をもう一度見回した。
灰色の蒸気。簡易寝台。煤鐘炉。怒っているシア。唇を噛んでいるテオ。疲れているのに目を逸らさないロアン。全部が、まだ始まったばかりの顔をしている。
本当なら、深く関わる前に少し引くべきだ。
そういう距離感を、ボクはたぶん長いこと大事にしてきた。世界はいつか終わる。旅はいつか続く。置いていくものが増えすぎると、あとで少し困る。困るだけじゃ済まないこともある。
でも――
「今夜までは、たぶん」
そう言うと、シアが目を瞬かせる。
「たぶん?」
「ボクもいつまでいられるか、あんまりわかってないから」
ロアンが怪訝そうな顔をしたが、今は突っこまないでくれた。助かる。
シアは小さく笑って、頷く。
「じゃあ、今夜まででいい」
「うん」
「その代わり、絶対勝手に突っこまないで」
「ボクに言う?」
「自覚あったんだ」
「ちょっとだけ」
テオが不満そうに言う。
「俺も行くからな」
「だめ」
シアとロアンが同時に言った。
ボクはちょっと笑ってしまう。テオが「なんで二人して!」と抗議し、送気室の重い空気がほんの少しだけ揺れた。
その揺れを見て、少しだけ安心する。
完全に沈みきった場は、持ち直しにくい。怒って、喚いて、笑えるうちは、まだたぶん大丈夫だ。
***
夕方、工房へ戻ったあとで、ボクは短い時間だけ物置部屋に一人になった。
窓の外は灰色だった。朝より霧が濃い。遠くの昇降機の灯りが、ぼんやり滲んでいる。
日記帳を開く。
ペン先を紙に置く前に、少しだけ迷った。
今日見たものを、どう書けばいいのかわからなかったからだ。
悪い人、で片づけられない顔。正しい人、でも済まない手つき。助けたいと壊したいが同じ場所にある時、物語は急に難しくなる。ボクは難しいものも嫌いじゃない。でも、好きだと言うには、送気室の咳の音が生々しすぎた。
結局、こう書いた。
――旅の記録。霧下の風抜き路は、街の腹の中みたいだった。そこに古い炉と、寝台と、灰色のコートの女がいた。彼女は間違っていて、でもたぶん、間違いだけではない。
少し考えて、もう一行足す。
――この街は、温かさを配るのが下手だ。
それを書いたところで、階下からシアの声がした。
「アウリィ! ちょっと来て!」
「はーい」
返事をして立ち上がる。
窓の外、どこか遠くで鐘がひとつ鳴った。まだ三つには遠い。でも、近づいている。
ボクは日記帳を閉じて、そっと髪飾りに触れた。
花弁のかたちだけが、いつも変わらず指に馴染む。
今夜、街のもっと深いところへ行くことになる。
たぶん、そこにあるのは古い炉だけじゃない。もっと古くて、もっと面倒なものだ。街が抱えこんで、誰も上手く名前をつけられなかった何か。
少しだけ、胸が鳴る。
怖さじゃない。たぶんこれは、未知への期待だ。ボクは昔からそれに弱い。
階段へ向かう前に、最後に一度だけ外を見る。
霧の向こうで、クラーヴェルが息をしていた。
浅く、掠れて、それでも止まらずに。




