1話「霧の駅で」
新しい世界は、たいてい匂いでわかる。
甘い花の香りがする世界もあれば、血と土の湿り気が先に鼻を打つ世界もある。今回、ボクの肺に最初に入りこんできたのは、熱い鉄と油、それから少し焦げた水みたいな匂いだった。
「わぁ」
思わず声が漏れた。
視界が定まる。高い高い天井。鉄骨が肋骨みたいに空へ伸びて、そのあいだを薄い蒸気がゆっくり漂っている。色ガラスのはまった丸天井は煤けていて、朝なのか昼なのかもわかりにくい。それでも、どこかから差しこむ鈍い光が、空気の中の塵を金色に見せていた。
足もとの石床は黒ずんでいて、つるりと硬い。靴底に伝わる感触で、ああ、と思う。
この世界は、今のところボクを弾いていない。
合わない世界は、立った瞬間にわかる。空気が喉を刺したり、足場が妙に遠かったり、身体の輪郭が曖昧になったりする。けれどここは違う。少し重たくて、少し煤っぽいけれど、ちゃんと立てる。ちゃんと息ができる。
それだけで十分、いい始まりだ。
背後では、いつのまにか現れていたボクのトランクが、どすんと床に沈んでいた。古びた革張りの大きなそれは、ボクの背丈に近い。取っ手を握り直しながら、ボクはくるりと周囲を見回した。
線路。ホーム。頭上を走る鋼鉄の橋。遠くのほうで、甲高い汽笛がひとつ鳴る。
生きてるみたいな街だ、と思った。深く、ゆっくり、蒸気で呼吸をしている。
「好きかも」
誰にともなくそう言ってから、ベルトポーチを開け、癖みたいに日記帳を取り出した。表紙の角は何度もめくられて丸くなっている。ページを開いて、立ったまま短く書く。
――旅の記録。新しい世界は、油と熱い鉄の匂いがした。駅は大きくて、空のかわりに汽笛が鳴っている。
そこまで書いたところで、背後から低い声が落ちてきた。
「おい。そこの」
振り返ると、制服姿の男がいた。灰色の外套、真鍮のボタン、肩には煤の跡。三十代半ばくらいだろうか、ひげの剃り跡が青い。腰に短い警棒を下げていて、顔には「面倒ごとは勘弁してくれ」と書いてある。
その顔を見て、ボクはちょっとだけ警戒して、それからちょっとだけ安心した。こういう顔をする人はだいたい悪人じゃない。眠れていないだけだ。
男はボクとトランクを交互に見て、眉をひそめた。
「こんな保守用ホームに子どもがいたら心臓に悪い。立入禁止だぞ」
「子どもじゃない」
間髪入れずに返す。
男は一拍置いて、「はいはい」と言いかける口をつぐんだ。少しだけ、面白そうな顔になった。
「じゃあ、小さい旅人さん」
「うーん。ちょっと負けた気がするけど、さっきよりはいいや」
「それは光栄だ」
からかわれているのはわかる。でも嫌な感じじゃなかったので、ボクは日記帳を閉じた。
男は一歩近づき、視線だけで怪我がないか確かめるみたいにボクを見た。
「親は?」
「いない」
「……迷子か?」
「迷ってはいるけど、迷子ではないかな」
「意味がわからん」
「ボクもたまにそう思う」
本当だ。
男は深いため息をついて、帽子のつばを指で押し上げた。
「名前は?」
「アウレーリエ・リュコーリアス。アウリィでいいよ」
「長いな。俺はロアン。中央停車場の見回りだ」
「よろしく、ロアン」
「よろしくされたくない場面なんだがな、これは」
口ではそう言いながら、ロアンは少し肩の力を抜いた。たぶん、泣くでも怯えるでもなく普通に話すボクを見て、対応を変えたのだろう。
ボクはその隙を逃さず聞いた。
「ここ、なんて街?」
「……旅人なら知らずに来たのか?」
「うん」
「本当に変なのを拾ったな」
拾ってないよ、と言いかける前に、ロアンは答えた。
「煤鐘街クラーヴェル。ここはその中央停車場だ」
クラーヴェル。
舌の上で転がしてみる。硬くて、少しだけ丸い響きだ。歯車の噛み合う音に似ている。
「いい名前」
「そうか?」
「うん。鳴りそう」
ロアンはとうとう苦笑した。
「腹は減ってるか」
「減ってる」
「正直でよろしい。駅前の広場に屋台が出てる。だが、あんまり裏路地に入るなよ。最近は部品泥棒が多い。昇降機まで止まりかけてる」
「部品泥棒?」
「配管の弁やら圧針やら、使い道のわかってるやつだけ抜いてく。質が悪い」
使い道のわかってるやつだけ、という言い方が引っかかった。盗みでも、腹を満たすだけの雑なそれとは違う。誰かが選んでいる。
でも、それより先に気になったのは別のことだった。
「昇降機?」
「この街は上下に長いんだよ。見りゃわかる」
そう言われてホームの端へ目を向けると、確かに、駅舎の向こうの街並みは段々畑みたいに重なっていた。高い石壁のあいだを、籠状の大きな昇降機が縦に行き来している。その脇には無数の管が這い、あちこちから白い蒸気が吹き上がっていた。
わぁ、とまた声が漏れる。
「……お前、いちいち楽しそうだな」
「新しいものはだいたい楽しいよ」
それは本心だった。古い記憶はあちこち擦り切れて、うまく思い出せないことが増えたけれど、新しい景色だけはいつだって鮮やかだ。その鮮やかさのために旅をしているのかもしれないし、違うのかもしれない。最近はそれも、少し曖昧だ。
無意識に、髪飾りに触れる。赤い彼岸花の形。指先だけが確かにそれを覚えている。くれた人の顔は、もうひどくぼやけているのに。
「おい」
ロアンの声で我に返る。
「立ったまま寝るな。とにかく、広場へ行け。宿がないなら救護所を紹介する」
「ありがと。でも、たぶん何とかなる」
「その台詞は何とかならないやつが言うんだが」
「なんとかしてきたから大丈夫」
ロアンは納得していない顔をしたが、これ以上追及しても無駄だと思ったのか、肩をすくめた。
「日が暮れる前に戻ってこい。クラーヴェルは夜の霧が重い」
「覚えとく」
「それと――」
「子ども扱いしないで、でしょ」
先回りして言うと、ロアンは吹き出した。
「そこだけ妙に面倒くさいな、お前」
「大事なことだから」
そう言って、ボクはトランクを引きずり、駅を出た。
***
駅前広場は、期待した通り、ものすごく良かった。
丸い圧力計のついた屋台、金属脚で歩く広告看板、真鍮の羽をぱたぱたさせる機械仕掛けの鳥。パンを焼く匂い、焦げ砂糖の匂い、温められた石の匂い。上を見れば無数の橋と配管が交差していて、下を見れば石畳の隙間から細い蒸気が漏れている。
「すごい……」
誰に聞かせるでもなくつぶやきながら、ボクはゆっくり歩いた。
この世界の精霊は少し変だ。風の子らは煤で輪郭が曇っていて、火の気配は油の匂いをまとっている。話しかければ返事はするけれど、みんな忙しなくて、くしゃみでもしそうにちかちかしていた。
――あつい。
――まわる。
――きゅうくつ。
そんな断片が、指先や耳の奥に触れて消える。相性は、まあまあ。すごく良いわけじゃない。でも嫌われてはいない。
広場の端で、揚げパンみたいなものを売っている屋台を見つけて、ボクは迷わず近づいた。
「これ、ひとつください」
「銅貨三枚だよ」
恰幅のいい女将が、粉まみれの手でそう言った。
ボクは一瞬だけ固まる。銅貨。つまりこの世界のお金だ。ないことはない。ないことはないけれど、いきなり馴染みのない貨幣を持っているほうが怪しい。
なので、ベルトポーチの別の区画から、小さな透明石をひとつ取り出した。換金用の石だ。
女将の眉がぴくりと上がる。
「お嬢ちゃん、これどこで」
「拾ってないし盗んでもないよ。ちゃんとボクの」
「その言い方、余計に怪しいんだけどね」
「本当なのに」
困っていると、横から別の声が飛んできた。
「ベッタおばさん、それガラスじゃない。薄いけど本物の水晶だ」
振り向くと、煤で汚れた作業帽をかぶった女の人が、工具袋を肩に提げて立っていた。年は二十前後。跳ねた黒髪を無造作に後ろで束ねていて、頬に油汚れが一本ついている。目つきはきつめだけど、その分、笑ったらたぶん柔らかい顔になる。
彼女はボクを見て、少し首をかしげた。
「旅人?」
「たぶん」
「たぶんって何さ」
「来たばっかりで、まだ断言しきれなくて」
「変なの」
さっきからみんなそればっかりだ。
結局、彼女が相場を教えてくれて、水晶は銅貨何十枚かに変わった。揚げパンは外がかりっとしていて中がふわふわで、砂糖じゃなくて少し塩気のある香草がまぶしてあった。ひとくち食べて、ボクは目を見開く。
「おいしい!」
「よかったねえ」
ベッタおばさんが笑う。
そのときだった。
「待て、こらっ!」
広場の反対側で、甲高い声が弾けた。さっきの作業帽の女の人が、肩の工具袋を押さえながら走り出す。その前を、小柄な少年が人混みを縫うように駆け抜けていった。手には、布巻きの細長い何かが握られている。
「あっ」
と声を上げるより先に、ボクの足は動いていた。
知らない街の初日に追いかけっこ。うん、悪くない。
揚げパンをひと口で残りまで食べきって、ボクは人のあいだをすり抜けた。少年は速い。でも、慣れているだけの走りだ。逃げ道を知っていて、足音を殺すのがうまい。こういうのは追っていてちょっと楽しい。
「そこの角、右だよね?」
風の子に問いかけると、煤けた気配がくすぐるように右頬を撫でた。
右だ。
ボクは角を曲がり、干してあった布の下をくぐり、蒸気の噴き出す細路地に飛びこむ。少年は振り返って舌打ちすると、低い柵を越えた。ボクも飛ぶ。身軽さだけなら自信がある。
「しつこいぞ!」
「走るの速いね!」
「褒めんな!」
怒鳴り返されて、ちょっと楽しくなった。いい返しだ。
でも、このまま長く追うと路地が複雑になる。そう思ったところで、少年の足元の石畳が油で少しだけ滑った。ほんの半歩、体勢が崩れる。その瞬間に間を詰める。
槍はいらない。こういうのは手で十分。
足首を軽く払って、前へ倒れこむ肩を支え、そのまま肘をひねって地面へ誘導する。怪我はさせない。痛い思いだけ少し。
「わっ、いだだっ!」
「はい、つかまえた」
少年の背中に片膝をついて、手首を押さえる。彼は十歳そこそこだろうか。痩せていて、服の肘が擦り切れている。大きな灰色の目が、怒りと悔しさでぎらついていた。
「放せよ!」
「暴れないなら」
「信用するか!」
「しなくていいけど、暴れるともっと痛いよ」
にっこり言うと、少年はぐっと唇を噛んだ。判断は速い。動きを止める。
そこへ、さっきの女の人が息を切らして飛びこんできた。
「っ、は……やっと……っ、え?」
彼女は、地面に押さえられた少年と、その上に乗っているボクを見て、ぱちぱち瞬いた。
「……捕まえたの、あんた?」
「うん。たぶんこの子で合ってる?」
「合ってるけど」
彼女はそれでもまだ信じられない顔をしていた。まあ、そうだろう。小柄な子どもにしか見えない相手が、年の近い――いや、少し下くらいの男の子を綺麗に取り押さえていたら、たぶん誰だって一度は瞬く。
「返せ、テオ」
彼女が手を出すと、少年――テオは歯をむいた。
「やだ」
「やだじゃない。そいつ、うちの仕事道具だぞ」
「仕事道具の一個くらいで死なねえだろ!」
「死ぬときは死ぬんだよ、こういうのは!」
女の人の声が鋭くなる。ボクは二人のあいだを見比べた。
テオの手には、青いガラスのはまった金属の棒が握られていた。拳ほどの大きさ。部品、なのだろう。ボクには用途はわからない。でも、彼女の目つきで、それが大事なものだということだけはわかった。
「それ、何に使うの?」
ボクが聞くと、女の人は一瞬だけ視線を寄越した。
「昇降機の圧針。圧力を読むやつ。今日の点検で要る」
「売れば薬になる」
テオが吐き捨てるみたいに言った。
女の人の顔が、ぴたりと止まる。
「……誰の」
「母さん。咳が止まんねえんだよ。暖気札も足りない」
その言葉に、路地の空気が少しだけ変わった気がした。怒りが、すぐには続かなくなる。困る。そういうのは、みんな困る。
女の人は深く息を吸って、乱暴に前髪をかき上げた。
「だからって、整備区の部品を盗るな。お前んとこの昇降機まで止まったら、誰が困ると思ってる」
「もう止まりかけてんじゃんか。下のほうなんて昨日から湯もぬるいし」
返ってきた声は、子どもの反抗というより、疲れた大人のそれに近かった。
ボクは膝の力を少し抜いた。テオは逃げなかった。逃げる元気がないのか、逃げても仕方ないと思っているのか、その両方か。
女の人はしばらく黙っていたが、やがてしゃがみこんで、テオと目線を合わせた。
「名前、覚えてる。次やったら、今度は本当に詰所に突き出す」
「……」
「今日は返せ。それで、ベッタおばさんの屋台の裏に来い。薬代、全部じゃないけど貸す」
テオの目が見開かれる。
「なんで」
「貸すって言った。あげるとは言ってない」
「返せるわけ」
「働け。走るの速いなら伝令でもやれ」
ぶっきらぼうな口調だったけれど、声の底が少しだけ柔らかい。テオはその柔らかさに戸惑ったみたいに目をそらし、しばらくしてから、握っていた圧針をゆっくり差し出した。
女の人はそれを受け取ってから、ようやくボクに向き直った。
「ありがとう。助かった」
「どういたしまして。走るの、楽しかった」
「そっちかあ」
呆れたように笑われる。やっぱり、笑うと柔らかい顔だった。
「ボクはアウリィ」
「シア」
「シア。いい名前だね」
「そう? あんたの名前も変わってるけど綺麗だよ」
名前を交換すると、少し距離が縮まる。毎回不思議に思う。名前ひとつで、人は急にその人になる。
テオがじり、と身体を動かしたので、ボクは完全に手を離した。彼はすぐには立ち上がらず、地面に座ったままシアを見上げる。
「本当に、貸すのか」
「借りる気があるなら」
「……」
「ほら、行った行った」
テオはふらふら立ち上がって、二、三歩進んでから足を止めた。振り返りもせず、ぼそっと言う。
「下の風抜き路で、最近、部品をまとめて買うやつがいる」
シアの表情が変わる。
「どんなやつ」
「顔は見てない。灰色のコート。大人。声、女だった」
「風抜き路のどこ」
「閉鎖区画の手前」
それだけ言って、テオは走り去った。今度は逃げるためじゃなくて、本当に急いでいる足だった。
しばらく沈黙が落ちる。
「……困ったね」
ボクが言うと、シアは圧針を見つめたまま頷いた。
「うん。かなり」
「部品泥棒って、あの子だけじゃないんだ」
「もっと厄介。最近、必要なもんばっかり抜かれる。使えない金属ならまだわかるけど、あれは街の仕組みを知ってるやつのやり方だ」
ロアンの言葉が頭をよぎる。使い道のわかってるやつだけ。
シアはボクを見て、それからボクの大きなトランクを見た。
「……アウリィ、行くあてある?」
「今のところはないかな」
「じゃあ、昼飯おごる代わりに少し付き合わない?」
「何に?」
「話。ついでに、さっきみたいに人を追うのが得意なら、相談したい」
ボクはすぐに頷いた。
「未知の昼飯と未知の相談。最高だね」
「ほんと楽しそうだな、あんた」
そう言って、シアはようやく肩の力を抜いた。
***
シアの仕事場は、西昇降機の整備塔の脇にあった。
街の中層。石壁に張りつくように建てられた細長い建物で、窓ガラスは半分曇り、半分煤けている。中に入ると、工具の匂いとお茶の匂いがした。壁一面にスパナやらレンチやら見たことのない器具やらが掛けられ、机の上には開いた図面と分解途中の圧力計が並んでいる。
「散らかってるけど座って」
「うちよりは片づいてるよ」
「それはだいぶひどい家だね」
ボクは返事の代わりに笑った。実際ひどい。トランクの中は大抵いつもひどい。
シアは薬缶を火にかけながら、ちらりとトランクを見た。
「その荷物、重くないの」
「見た目ほどじゃないよ」
「へえ」
少し嘘。本当は見た目より入っている。でも、こういう説明はたいてい長くなるので省く。
出されたお茶は濃くて苦かった。けれど温かくて、喉を通ると身体の芯に火が灯る感じがする。
「それで、相談って?」
シアは椅子に腰かけ、指で机をとんとん叩いた。
「部品泥棒のこと。ここ一週間くらいで、熱配管の弁、昇降機の圧針、圧調整のガラス……そういうのばっかりなくなってる。市場で売りさばく気配もない」
「集めてる」
「そう。誰かが」
「なんのために?」
「わかったら苦労しない」
シアは眉間を押さえた。
「詰所は下の連中の小遣い稼ぎだろって本気にしないし、上の区画は自分とこの暖気が来てるうちは知らん顔。で、止まりかけるのはいつも西か下だ」
言葉の端に、ずっと溜めていた苛立ちが滲む。たぶん何度も同じことを訴えて、聞き流されてきたんだろう。
「シアは、昇降機を直す人?」
「整備士見習い。見習いだけど、今日は親方が中央塔に呼ばれてていない。だから実質ここの責任者」
「大変だ」
「ほんとにね」
でも、その「大変だ」は嫌そうなだけではなかった。彼女はこの仕事を憎んではいない。むしろ、手をかければ機械が応えてくれることを好きなんだと思う。
ボクは机の上の圧針に目を向けた。青いガラスの中で、ごく小さな気泡が揺れている。きれいだ。
試しに指先を近づけてみると、煤っぽい熱の精霊がひとつ、ちり、と弾けるみたいに寄ってきた。
――つめたい。
――ぬかれた。
――した。
「……うん?」
「何」
「ちょっと聞いてただけ」
「何に」
シアが真顔で聞き返してくる。
ボクは部品を指さした。
「このへんの子たちに」
「このへんの……子?」
「火とか熱とか、そういう」
シアは三秒くらい黙ってから、目を細めた。
「魔術師?」
「たぶん、それに近い」
「たぶん多いな、あんた」
「断言すると外れた時に恥ずかしいから」
「変なところで慎重」
でも、それ以上は追及しなかった。ありがたい。良い人だ。
ボクは目を閉じ、部屋の隅々に散っている熱の気配へ意識を伸ばす。この世界の精霊たちは少しせっかちで、長話には向かない。それでも、こういう「どちらに行ったか」くらいなら聞ける。
――した。
――くらい。
――ぬれたかべ。
――かなしい。
かなしい、という感触が混じったのが少し気になった。
目を開けると、シアが食い入るように見ていた。
「どうだった」
「下。湿った壁。暗いところ。たぶん街の低い方」
「風抜き路か……」
シアは舌打ちした。
「やっぱり閉鎖区画の近く」
「閉鎖区画?」
「昔の坑道跡。今は配管と霧が溜まって危ないから封鎖されてる。勝手に入るなって子どもの頃から言われる場所」
また子ども、という単語が出たので、ボクはちょっとだけ眉を寄せた。シアは気づかなかったみたいだ。
「行くの?」
「できれば今日にでも見に行きたい。でも、その前に西昇降機の点検を済ませないと――」
けたたましい警報音が、言葉を切り裂いた。
甲高く、短く、三回。
シアが椅子を蹴るように立ち上がる。
「うそでしょ」
二回目の警報。今度は長い。外で人のざわめきが膨らむ。
シアは壁の圧力計を見て、顔色を変えた。
「西昇降機!」
ボクも立ち上がる。
「何が起きたの?」
「圧が落ちてる。止まったか、最悪なら――」
最後まで言わず、シアは工具袋をひったくった。ボクもトランクをその場に置き、後を追う。
外に飛び出すと、塔の下に人だかりができていた。見上げれば、巨大な籠状の昇降機が中腹で止まっている。石壁に沿って伸びる二本のワイヤーのうち、片方が嫌な音を立てながら撚れていた。
中に十人以上は乗っている。誰かが扉を叩き、誰かが子どもを抱きしめている。下は霧の溜まった深い縦穴だ。落ちたら、たぶん助からない。
「退いて! 整備区!」
シアが叫ぶと、群衆が少し割れた。その前列に、見覚えのある小さな影がいた。
テオだ。
「シア!」
彼は半泣きの顔で柵にしがみついていた。
「母さんが、中に!」
シアが唇を噛む。操作盤に飛びついて蓋を開け、中を見て、低く呪った。
「やられてる。調整ピンが抜かれてる」
「また部品泥棒?」
「泥棒で済むか、こんなの!」
群衆のざわめきが一段大きくなる。昇降機が、ぎし、と沈んだ。悲鳴。
シアは操作盤の中に手を突っ込みながら叫んだ。
「上の制御輪に予備ピンを入れれば止められる! でも外から登らないと届かない……」
言いながら、彼女自身が登ろうと一歩踏み出す。けれど塔の外壁は蒸気で濡れていて、足場は細い。整備用の梯子は途中で途切れている。
「シア」
ボクが呼ぶ。
「ボクが行く」
「だめ」
反射みたいに返ってくる。
「落ちる!」
「シアもでしょ」
「私は整備士だ!」
「ボクは落ちないのが得意」
「そういう問題じゃ――」
そこでボクは、ほんの少しだけむっとした。
「子ども扱いしないで」
シアが息を呑む。
「落ちる時は大人も落ちる。だったら、登れるほうが行くべきだよ」
ボクの声は、自分で思っていたより静かだった。怒鳴るより、こういう声のほうがよく通る。
シアは数瞬、ボクの目を見た。黄色い瞳の奥を覗きこもうとするみたいに。何かを測って、それから、ぎりぎりのところで頷く。
「……これを持ってけ」
彼女は工具袋から細い真鍮のピンを一本抜き出し、ボクに渡した。
「制御輪の左側、赤い弁の奥。差しこんだら、合図して。私が下から圧を戻す」
「了解」
「無理なら戻れ。絶対に」
「うん」
本当は、無理なら戻る、という約束を守ったことはあまりない。でも、今は頷く。
ボクは塔の外壁へ駆け出した。
石の縁に指をかけ、濡れた鉄の足場に靴底を乗せる。高い。だけど怖くはない。怖いより先に、風が面白い。蒸気を含んだ熱い風が、上へ上へと吹き抜けていく。下から人の声。上から軋み。
途中で蒸気が横から吹きつけ、視界が白く染まった。足を滑らせかける。けれど、手は離さない。
――みぎ。
――いそげ。
煤っぽい風の子が、耳元でざらりと囁く。ありがとう、と心の中だけで返して、次の足場へ飛ぶ。
制御輪は、昇降機の少し上にあった。大きな歯車の箱の中で、真鍮の輪が狂ったみたいに震えている。そこに開いた穴がひとつ。たしかにピンが抜かれていた。
けれど、差しこもうとした瞬間、輪が思ったより強く跳ねた。危ない。指を挟めば終わりだ。
「ちょっと、待って」
独り言を落として、ボクは片手を空へ向けた。
空気が、水面みたいにゆらぐ。
そこから銀白の穂先が滑り出た。見慣れた重みが掌に収まる。ミスリルの聖槍。長い旅路で、何度も握ってきた、いちばん信頼している相棒。
下から息を呑む気配がいくつも上がった。まあ、そうなるよね。
「少しだけ、借りるよ」
槍の石突きを歯車の脇へ差しこみ、跳ねる制御輪を押さえつける。金属が甲高く鳴いた。今だ。
真鍮のピンを穴へ叩きこむ。
「シア!」
「下がれ!」
返事は即座だった。
次の瞬間、塔全体が腹の底で唸った。下の操作盤から蒸気が噴き、圧が戻る。制御輪が回転を変え、昇降機の揺れが、少しずつ、小さくなる。
ぎし、ぎし、ぎ、と嫌な音を立てながら、籠はゆっくりと下がった。
あと少し。
そのときだった。
視界の端、塔のさらに下。整備用通路の暗がりに、灰色のコートがひるがえるのが見えた。
人影。細身。顔は見えない。けれど肩に何か長い袋を担いでいる。こちらを一瞬だけ見上げて、霧の濃い下層への扉に滑りこむみたいに消えた。
――した。
――ぬすんだ。
――かなしい。
精霊たちのざらついた囁きが重なる。
でも、今は追えない。
ボクは視線を戻す。昇降機は地上に着いた。扉が開き、人が雪崩れるように出てくる。泣き声、怒鳴り声、安堵のため息。テオが母親らしい痩せた女の人にしがみついているのが見えた。シアはその場にへたりこみそうになるのを堪えて、操作盤に手をついたまま肩で息をしていた。
ボクは槍を消し、外壁を降りた。
地面に足をつけた途端、テオが駆け寄ってくる。
「すげえ……」
第一声がそれだった。泣きはらした顔で、それでも目を丸くしている。
「母さん、無事?」
ボクが聞くと、彼はぶんぶん頷いた。
「うん。うん……ありがと」
言われると少し照れる。ありがとうはいつだって少し照れる。
シアがこちらへ歩いてきた。顔は煤だらけで、額には汗。けれど目だけは妙に冴えていた。
「アウリィ」
「なに」
「……あんた、本当に何者」
「旅人」
「旅人があんなところで槍出す?」
「上手な旅人なんだよ」
シアは一瞬ぽかんとして、それから盛大に息を吐いた。
「ふざけてる場合じゃないんだけど」
「ふざけてないよ。わりと真面目」
「余計たちが悪いな」
でも、その声にはもうさっきまでの拒絶はなかった。困惑と警戒は残っている。けれど、それ以上に、今は助かったことへの安堵が勝っている。
シアは操作盤から抜かれた金具を見せた。先端がわざと削られている。
「見て。自然に外れたんじゃない。最初から壊すつもりで加工されてる」
「街の呼吸を盗んでるんじゃなくて、止めようとしてる」
ボクが言うと、シアはゆっくり頷いた。
「そう」
その一言が重い。
テオが母親の肩を支えながら、低い声で言った。
「さっき、下の通路に灰色のコートのやつがいた。女だ。俺、前にも見た」
シアが顔を上げる。
「どこで」
「霧下の風抜き路」
やっぱり、そこだ。
群衆の向こうでは、遅れて駆けつけた詰所の人間たちがロープを張りはじめている。けれど彼らが本気で下まで追うかといえば、たぶん微妙だろう。現場を片づけて、報告書を書いて、危険だから近づくなと言って終わる気がする。
シアはしばらく唇を結んだまま考えていたが、やがてまっすぐボクを見る。
「アウリィ。頼みがある」
だろうね、と思った。
「明日、霧下に付き合ってほしい」
「明日」
「一人じゃ無理。親方に言っても止められる。詰所は当てにならない。あんたなら、さっきみたいに痕跡を追えるかもしれない」
ボクは答えず、少しだけ空を見上げた。空というより、煤けた配管と橋の重なりだけれど、その向こうに曇った光がある。
本当なら、こういう時は離れるべきだ。
ボクは長居をしない。ひとつの世界に情を移しすぎる前に、少し名残惜しいくらいで次へ行く。それがいちばんいい。何度もそうしてきた。たぶん。きっと。
でも、クラーヴェルの空気は、さっきからずっと苦しそうだ。誰かが首元を締めているみたいに、この街は呼吸が浅い。
それに――知らないものが、まだたくさんある。
昇降機の仕組みも、霧下の風抜き路も、灰色のコートの女も。知らないものは、見たい。
ボクはシアへ向き直った。
「朝になっても、この街がボクを追い出してなかったら」
「……何、それ」
「うん、ちょっと変な言い方だった。でも、そういうこと」
シアは首をかしげたまま、それでも小さく笑った。
「じゃあ、追い出されてなかったら、朝いちで来て」
「わかった」
「寝床は?」
「まだない」
「やっぱりか。工房の上、物置でよければ使いなよ」
「いいの?」
「今日の働きに比べたら安い」
「やった」
本心からそう言うと、シアは呆れた顔をした。
「ほんと、変なやつ」
「さっきからそれ、三回目くらい」
「じゃあ訂正。変で、助かるやつ」
その言い方は少しだけ嬉しかった。
***
その夜、工房の上の狭い物置部屋で、ボクはランプの灯りを頼りに日記を開いた。
窓の外では、まだどこかで蒸気が鳴っている。遠くで鐘も聞こえた。でも、そのリズムは微妙にずれていた。街中の時計が、それぞれ勝手に少しだけ違う時を刻んでいるみたいだった。
ペン先を紙に置く。
――旅の記録。クラーヴェルは、上下に長い街だった。油の匂いがして、昇降機が空を往復する。揚げパンはおいしい。整備士見習いのシアは口が悪いけどやさしい。テオは走るのが速い。
そこで一度、手が止まる。
書き足す。
――この街は、息をしている。でも少し苦しそうだ。
ランプの火が揺れた。窓から入る夜の霧は冷たい。でも、マントの裏地に触れるとすぐに体温が戻る。ありがたい。
古い記憶は、どんどん薄くなる。もう思い出せない顔がたくさんある。名前だけ残っている人もいるし、声だけ残っている人もいる。だからボクは、あまり長く留まらない。置いていくのも、置いていかれるのも、数が増えるほど上手くなるわけじゃないから。
それでも今日は、ほんの少しだけ思った。
明日くらいは、いてもいいかもしれない。
髪飾りに触れながら目を閉じる。花弁のかたちだけは、まだ指が覚えている。
ペンを取って、最後に一行だけ書き加えた。
――明日、霧の下へ行く。たぶん、少しだけ。
そこでページを閉じた。
窓の外で、クラーヴェルの夜が、苦しそうに、深く一度だけ息をした。




