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5話「別れの返歌」

クェルへの帰り道は、行きよりずっと短くて、ずっと長かった。


荷蜥は砂を蹴り、喉の奥で低く唸りながら走る。ボクはその背で節二を抱えこんで、何度も体勢を立て直した。風が横から殴ってくるたび、青灰色の筒の中で、細い歌が震える。


西からくるはずの鏡鳴りは、もう西だけのものじゃなかった。


村の呼水塔へ向かって、大きく弧を描いている。


空の半分が銀に削られ、砂海の色が消えていた。昼の金色も、朝の青もない。あるのは、擦り硝子みたいな白い光と、細かい破片の音だけ。


しゃあああ、と。


いつもの砂の歌じゃない。もっと硬く、耳障りな音だ。


「耳、塞げるか!」


前を走るナシムが怒鳴る。


「片手なら!」

「十分だ、右だけでも押さえろ!」


言われた通り、片手で耳を覆う。左腕には節二。荷蜥の背で身体を低くする。


風庭の歌が、まだ追ってきていた。


高く、低く、長く、絡みつくみたいな音。聞いていると、まっすぐ走っているはずなのに、足元の砂が斜めになる気がする。遠近感がずれて、空と地面の境目が曖昧になる。


引っ張られる、というミルファの言葉は、つまりこういうことだ。


「アウリィ! 道、見えるか!」

「ちょっと待って!」


ボクは耳を押さえたまま、精霊へ薄く触れる。


砂の精霊たちは怯えていた。風の流れが乱され、鏡の破片が混ざって、いつものきしきしした手触りが尖りすぎている。


でも、その中に一本だけ、まっすぐな道がある。


呼水塔の歌へ向かう、乾いた流れ。


「あっち!」


右前方を指さすと、ナシムは振り返りもせず荷蜥の向きを変えた。


「ほんとか!」

「今はたぶんじゃない!」

「それを先に言え!」


その返しに少しだけ安心する。


余裕がなくなりきった人は、文句の言い方が雑になる。ナシムはまだちゃんと噛みついてくる。なら大丈夫だ。


鏡鳴りの縁をかすめるたび、空から細い硝子片が降った。刃というほどじゃない。でも、肌に当たれば切れるし、目に入ればまずい。


ボクは右手を耳から離し、槍を呼ぶ。


銀白の穂先が掌に戻る。石突きを荷蜥の背の脇へ打ちおろし、短く精霊へ命じる。


「風、伏せて」


砂の上すれすれに、薄い膜みたいな風が走った。落ちてくる硝子片がそこに当たり、いくつかが弾かれて散る。


「便利だなほんとに!」

「褒められた!」

「今は褒めてない!」

「知ってる!」


ナシムの声が、風に千切れながら届く。


その背中が、一瞬だけ傾いた。


肩だ。


風庭からの帰り際に鏡板を受けた左肩が、たぶん思った以上に痛んでいる。


「ナシム、代わる?」

「何を」

「先頭」

「荷蜥を走らせたことあるのか」

「ない!」

「じゃあ黙って掴まってろ!」


正論だった。


ボクはおとなしく掴まる。だけど、黙っているつもりはあまりなかった。


「ねえ!」

「今度は何だ!」

「競争、まだ有効?」

「こんな時に気にするな!」

「大事だよ!」

「……っ、お前が無事なら有効だ!」

「じゃあ勝つ!」

「生きてから言え!」


ほんの少しだけ、ナシムが笑った気がした。


そのとき、抱えていた節二が、ふる、と大きく震える。


同時に、胸の奥がぞわりとした。


世界の縁が、少し薄い。


砂を蹴る音も、風の冷たさも、ひと膜越しになったみたいに遠くなる一瞬がある。すぐ戻る。戻るけれど、その間隔がさっきより短い。


……そろそろだ。


まだ動ける。まだ、間に合う。


けれど、この世界がボクを留める力は、確実に弱くなっていた。


ボクは息を吸って、その感覚を押しやる。


今は後回しだ。


クェルが先。


---


村が見えたとき、ボクは息を呑んだ。


呼水塔は、歌っているというより叫んでいた。


村の中心で立つ青白い塔から、真っ直ぐな光が空へ伸びている。その根元から、いくつもの細い裂け目が開き、青い蒸気みたいなものが噴いていた。


井戸の周りは水浸しだった。


しかも、ただの水じゃない。薄く青い光を含んだ水が石畳代わりの地面を流れ、家のあいだを細い川みたいに走っている。村の人たちが桶や布や板を持ち出して、流れをせき止めようとしていた。


「うわ……」

「間に合えよ……!」


ナシムが荷蜥を飛び降りる。


ボクもすぐに続いた。節二を抱えたまま砂を蹴る。足元で水が冷たく跳ねた。


「戻ったかい!」


塔の根元から、ミルファの声が飛ぶ。


髪はほどけかけ、顔には寝不足の皺がいつもより深く刻まれている。でも目だけは少しも揺れていなかった。


「遅い!」

「井戸の下にも言われた!」とボク。

「そっちにうつったかね」

「うつったっぽい!」


こんな状況なのに、少しだけ会話が噛み合ってしまうのがおかしかった。


サフが水の向こうから駆けてくる。ずぶ濡れだ。


「アウリィ! ナシム姉! 井戸、すごい!」

「見ればわかる!」


ナシムが怒鳴ってから、すぐミルファへ向き直る。


「状況!」

「塔が節一だけで目を覚ましすぎた。井守が水を押し上げてる。節二を入れて均さないと、そのうち下が割れる」

「井戸の下は?」

「もう半分水だ。階段も途中まで飲まれてる」

「……最悪だな」

「知ってる」


ザハルが後ろから来て、節二を持つボクの腕を見る。


「重いか」

「大丈夫」

「ほんとか?」

「ほんと。ザハルは?」

「こっちは歳だよ」

「じゃあ無理しないで」

「お前に言われると複雑だな」


その言い方には、いつもの笑いが少しだけ戻っていた。


ミルファが手早く指示を飛ばす。


「ザハル、塔の外輪を押さえる。サフは石を運べ。井戸から子どもを遠ざけるんだよ」

「おれ、子どもじゃ――」

「お前もだ」

「うっ」


即座に潰されて、サフがしょんぼりする。


ボクは節二を抱え直した。


「ボクとナシムが下?」

「そうだ」


ミルファは青い歌石をいくつか掌に乗せて見せる。


「私は上で塔の喉を持つ。だが、下で返歌する耳はお前しかいない」

「できるかな」

「やるしかないね」

「それはそう」


ナシムが井戸を見る。


水位は昨夜よりずっと高い。縁のすぐ下で、青い光を帯びた水が渦を巻いている。


「アウリィ」

「うん」

「落ちるなよ」

「ナシムもね」

「私は落ちても這い上がる」

「強気だなあ」

「お前が弱気になるよりましだ」


その返しが妙に頼もしくて、ボクは笑った。


「じゃあ、行こう」


---


井戸の階段は、途中から水の中だった。


最初は脛。次に膝。すぐに腿。ボクは背が低いから、ナシムよりずっと早く水位が上がる。


「……これ、歩きにくい」

「言うと思った」


ナシムは振り返り、ほんの一瞬だけためらってから、手を差し出した。


「掴まれ」

「子ども扱い?」

「違う」

「じゃあ掴まる」


手を取る。


硬くて、熱い手だった。肩を傷めていても、握る力はしっかりしている。


ボクは少しだけ意外に思った。


ナシムは、助けるときの手が思ったよりやさしい。


何人も引っ張り上げてきた人の手だ。


「何だ」

「ううん。いい手だなって」

「急に何言うんだお前」

「褒めてる」

「今いらない」

「あとで言う」

「忘れろ」

「たぶん忘れない」


階段の下から、井守の歌が響いてくる。


昨夜よりずっと早い。息が上がっているみたいな、短く急いた歌だ。


部屋へ降りると、景色は変わっていた。


中央の盆はほとんど水に沈み、周囲の床まで薄く浸かっている。壁の管の半分が青く光り、天井近くまで脈動が走っていた。台座の上の球体――井守は、昨夜より低い位置で浮いている。まるで水の重みで沈みかけているみたいだ。


光が、ボクを見つける。


――外音、帰還。

――遅い。


「やっぱり言うんだ」


思わず返すと、ナシムが横目で見る。


「また怒られたのか」

「うん」

「慣れてるな」

「ちょっと好きになってきた」

「物好きだなほんとに」


井守の台座には、昨夜入れた節一が光っている。その隣の空き口から、青い水が糸みたいに吹き出していた。


「あそこだね」

「見ればわかる」


ナシムが節二へ手を伸ばす。


「私が入れる」

「届く?」

「届く」

「ボクの槍で支えようか」

「そのほうが早いならそうしろ」


水流は強い。台座の前の床も揺れている。真正面から近づけば、足を持っていかれそうだった。


ボクは槍を広げて、石突きを床へ打ちこむ。ミスリルの軸に沿って精霊を走らせると、水の流れが少しだけ割れた。完全じゃない。でも、人ひとり通る隙間くらいなら作れる。


「今!」


ナシムが節二を抱え、槍の陰へ飛びこむ。


その瞬間、水の中で何かが光った。


透明な針みたいな生き物たちだ。昨夜の根線の虫より数が多い。青い流れに乗って、節二へ、そしてナシムの腕へ群がる。


「邪魔!」


ボクは槍を払う。ミスリルの穂先が水を裂き、透明の影をまとめて砕いた。けれど全部じゃない。何匹かがナシムの肩に食いつき、肌を裂く。


ナシムが顔をしかめる。


「っ、平気!」

「平気じゃない顔してる!」

「今はそれでいい!」


節二が空き口の前まで来る。


けれど、はまらない。


「え」

「何でだ!」


角度だ。節二はそのまま真っ直ぐじゃなく、少しひねって入れる必要がある。


でも、水流が強すぎて細かい位置が合わない。


そのとき、井守の声が落ちる。


――返歌先行。

――照合不足。

――外音、補綴。


「先に歌えって!」


「何!」

「先にボクがやる!」


ナシムが節二を抱えたまま怒鳴り返す。


「早くしろ! 腕がきつい!」

「わかってる!」


わかってるけど、わからない。


昨夜の風庭では、向こうが三音を落としてくれた。真似ができた。でも今の井守は、もっと大きい。水も風も塔もまとめて抱えていて、欠けている部分も多い。何を返せばいいのか、すぐには掴めない。


井守がまた歌う。


――節一、帰還。

――節二、帰還待機。

――塔、過呼吸。

――井、飽和。

――外音、記録、摩耗。

――それでも。


それでも。


その一語だけが、妙にやさしかった。


ボクは目を閉じる。


音を拾う。水の流れ。塔の歌。風庭の遠い高音。井戸を囲む村人たちの足音。ミルファが上で叩く歌石の拍子。


それらのあいだに、もうひとつ、かすかな記憶が混じる。


黄色い花。

陽だまりみたいな髪。

赤い彼岸花の髪飾りを差しこむ手。

歌とも鼻歌ともつかない、小さな旋律。


顔は見えない。


でも、その人はたぶん笑っていた。


「……そういう、歌か」


誰に言うでもなく、つぶやく。


知らないものを前にして嬉しくなる心。

忘れてしまうことを、少しだけ惜しむ心。

それでも進む足。


たぶん、ボクの旅は、そういう細い音の積み重ねだ。


なら、返せる。


全部じゃなくていい。欠けたぶんは、今のボクの音で埋めればいい。


ボクは槍を両手で握り、石突きを深く床へ押しこんだ。ミスリルが水と床と歌を繋ぎ、全身に細い震えが走る。


「ナシム!」

「何!」

「合図したら、右に半回し!」

「半回し!?」

「そう!」

「ざっくりしてるな!」

「大丈夫、今はたぶんじゃない!」


言いきると、ナシムが一瞬だけ笑った。


「それなら信じる!」


ボクは息を吸い、歌った。


言葉じゃない。


音だけの、短い旋律。


高く始まり、陽にあたる花みたいにひらいて、最後は低く、でも折れずに落ちる音。


どこか懐かしくて、どこか今この場のものでもある歌。


井守が震える。

盆の水面が円を描く。

壁の管の光が、ボクの歌に合わせて脈を揃える。


上で、呼水塔が応えた。


遠くて、でもはっきりと。


低く、長く、今度は叫びじゃない声で。


「今!」


ナシムが節二をひねる。


かちり。


ぴたりと嵌まる。


その瞬間、部屋全体の音がひとつになった。


壁の光が一斉に走る。

盆の水が真上へ持ち上がる。

井守が高く澄んだ音を鳴らす。


けれど、終わらない。


むしろここからだった。


台座の真下で、重いものが動く音がする。長く塞がれていた管の奥で、水と風が一気に行き場を変えたのだ。


渦が強くなる。


ボクの足が滑る。


「アウリィ!」


ナシムの声と同時に、水が腰まで跳ね上がった。


槍を掴んだまま身体が前へ持っていかれる。井守の真下へ落ちたら、たぶんただでは済まない。


でも、その直前で、手首に熱い力が食いこんだ。


ナシムだ。


左肩が傷んでいるはずなのに、右手だけでボクを引き止めている。歯を食いしばる顔が近い。


「勝手に死ぬなって言っただろ!」

「善処してる!」

「足りない!」

「ごめん!」


素直に謝ると、彼女は怒鳴り返す余裕もなかったらしい。ただ、ものすごく嫌そうな顔で、力いっぱい引っ張り上げる。


ボクも槍を支点にして跳ね、なんとか床へ這い戻った。


次の瞬間、台座の下で何かが開く。


ごうっ、と轟音。


水が落ちた。


さっきまで溢れそうだった水位が、一気に盆の下へ吸われていく。井戸の奥、村の下、そしてたぶん、砂海のどこか深い場所へ。


同時に、上からの圧も抜けたのだろう。呼水塔の歌が、やっと呼吸を整えるみたいに落ち着いていく。


井守が、最後にひときわ明るく光る。


そして、ボクにだけ聞こえる声で言った。


――外音、返歌受理。

――補綴完了。

――クェル、継続。

――滞在縁、減衰。


胸の奥で、何かが静かに沈んだ。


やっぱり、そうだ。


もう長くはいられない。


わかっていたことだ。驚きはない。ない、はずなのに、少しだけ息が詰まる。


ナシムが顔を覗きこむ。


「おい、アウリィ」

「……うん」

「まだ聞こえてるのか」

「うん。大丈夫」

「大丈夫って顔じゃない」

「そうかな」

「そうだ」


ボクは少しだけ笑ってみせた。


「でも、クェルは大丈夫だって」

「ほんとか」

「今はたぶんじゃないよ」


それを聞いて、ナシムの肩からほんの少しだけ力が抜けた。


「なら、いい」


その言い方が、思っていたよりずっと優しかった。


---


地上へ戻ると、村の空気は別のものになっていた。


塔の光は、まだ青い。でも、もう叫んでいない。細い呼吸みたいに静かに脈打ち、空の銀を少しずつほどいている。


鏡鳴りは、村の真上で形を変えていた。


襲いかかる嵐じゃない。高いところで渦を巻きながら、細かな硝子粒と湿り気を撒いていく、奇妙な雲みたいになっている。


やがて、その一部がぱらぱらと降りてきた。


冷たい。


水だ。


ほんの少しだけ硝子の匂いがする、砂海の雨。


村じゅうから、声が上がった。


歓声というには静かで、でも、息を呑んだあとに漏れる笑い声や泣き声が混じっている。


サフが両手を空へ伸ばしていた。


「降ってる!」

「大袈裟だな」とザハルが言う。けれど、自分も顔を上げていた。

「だって降ってるだろ!」

「降ってるな」

「だろ!」


ザハルの頬にも水滴がついて、それが髭にひっかかって光る。


ミルファは塔の根元で腕を組んでいた。ずぶ濡れなのに、相変わらず背筋がまっすぐだ。


ボクたちが井戸から出ると、彼女は一度だけボクを見て、それからナシムを見る。


「生きてるね」

「不本意だが」

「十分だ」


それが、この人なりの最大級のねぎらいなんだろう。


ボクは井戸の縁に手をつく。水位は落ち着いていた。青い光を帯びた水面が、ちゃんと底のほうに見える。


割れていない。

溢れていない。

生きている。


「よかった……」


自分でも気づかないうちに、声が漏れていた。


その横顔を見たミルファが、小さく鼻を鳴らす。


「情がない顔じゃないね」

「そんな顔してた?」

「してるよ」とナシム。

「ひどい」

「褒めてるつもりだ」


褒められたらしい。


少しだけくすぐったくて、ボクは笑った。


村の人たちの視線も、昨夜とは違っていた。


警戒が消えたわけじゃない。でも、そこにもうひとつ、はっきりとした色がある。ありがとう、の色だ。


昨夜ボクを妖精と間違えた女の子が、母親の後ろから顔を出す。


「旅人!」

「うん」

「すごい」

「そう?」

「うん。ちょっとだけ妖精だった」

「じゃあ、ちょっとだけね」


そう言うと、女の子は満足そうに笑った。


---


その日の夕方、クェルでは小さな祝いが開かれた。


大宴会というほどじゃない。村にそんな余裕はまだない。でも、煮込みの鍋はいつもより大きく、干し肉の塩気も少し甘く感じる。水を惜しみながらも、今日は杯がひとつ多く回る。


「で、勝負はどうする」


鍋の前で、ナシムが腕を組む。


「何の?」

「何の、じゃないだろ。帰り道の競争だ」

「同着じゃない?」

「お前、途中で落ちかけた」

「引っ張り上げてもらった」

「だから私の勝ちだ」

「でもボク、節二守ったよ」

「……それはそうだな」


ザハルが吹き出す。


「どっちも勝ちでいいだろ」

「じゃあ、一品追加ずつ?」

とボク。

「結局増やすのか」とナシム。

「大事だって言ったでしょ」

「しつこいな」


でも、最後にはちゃんと、いつもより一皿多く、薄い蜜をかけた焼き菓子が回ってきた。


サフがそれを見て抗議する。


「おれも頑張ったのに!」

「お前は石運んだだろ」とザハル。

「運んだ!」

「じゃあ食え」

「やった!」


単純でよろしい。


祝いの輪の中心にいるのは、ボクじゃない。ミルファであり、ナシムであり、村のみんなだ。それがいいと思った。


旅人は、火のそばに少し座れれば十分だ。


ずっと中心にいる必要なんてない。


……ない、はずだ。


なのに、鍋の湯気の向こうで笑う顔を見ていると、胸の奥に小さな棘みたいなものが触れる。


ここにもう少しいたら、たぶん、この村の匂いを好きになる。

この人たちの言い合いの間合いを覚える。

サフが転ぶ回数も、ザハルの笑い方の癖も、ナシムが本気で怒る前に目がどう細くなるかも、もっと知ってしまう。


そうなる前に行くのが、たぶん、正しい。


ボクはそっとポーチから日記帳を出した。


火の明かりで頁をひらく。


> 節二は帰った。

> 塔は呼吸を整え、井戸は生き残った。

> 雨が降った。硝子みたいな匂いのする雨。

> ナシムは本当にいい手をしていた。

> ミルファは最後まで鋭い。

> サフは相変わらずうるさい。

> ザハルは笑うのが上手い。


そこで、少し迷う。


ペン先を止めて、火の向こうを見る。


ナシムが村の子どもに肩を引っ張られて、面倒そうな顔で何か答えている。その横顔を見てから、ボクは一行足した。


> ここは、長居したらきっと困る場所だ。


書いてから、すぐに頁を閉じた。


「何書いた」


案の定、近くに来ていたナシムに見つかる。


「秘密」

「毎回それだな」

「毎回効くから」

「むかつく」

「便利でしょ」

「便利って言えば許されると思うなよ」


ボクは笑って、日記帳をしまった。


それから、少しだけ躊躇って言う。


「ナシム」

「何だ」

「ボク、たぶん明日には行く」

「……早いな」


たったそれだけ。


咎めるでも、驚くでもなく、ただ少し低くなった声。


ボクは頷く。


「もともと長くはいないんだ」

「そういう旅か」

「うん」

「どこへ」

「わからない」

「次もか」

「毎回だよ」


ナシムはしばらく黙っていた。


周りでは鍋の蓋が鳴り、サフが笑い、誰かが塔のほうを見て安堵の息をつく。その全部の音が、少し遠い。


やがてナシムが言う。


「ずるいな」

「何が?」

「行き先も帰り先も決めてないくせに、迷ってる顔をしない」

「してるよ、たまに」

「今はしてない」

「……今は、決めてるからかな」


長居しない。

情を移しすぎない。

それは、自分に言い聞かせてきたことだ。


でも、その理由はもう、昔ほどくっきりしていない。


痛かったからか。

そうしないと続けられなかったからか。

あるいは、誰かにそうしろと言われたからか。


思い出せない。


ナシムは火を見つめたまま言う。


「また来るか」

「覚えてたら、って前に言った」

「それ、卑怯だ」

「そうかな」

「忘れるって逃げ道がある言い方だ」


その指摘は、思ったより鋭かった。


ボクは少しだけ笑って、認める。


「うん。卑怯かも」


「でも」と続ける。


「全部忘れるわけじゃないよ。変な形で残ることはある」


「変な形?」

「匂いとか、音とか、手の感じとか」

「手の感じ?」

「いい手だなって思ったこととか」

「……まだ言うのかそれ」

「気に入ったから」


ナシムは本当に嫌そうな顔をした。


でも、耳の先が少しだけ赤い。


それに気づいて、ボクはわざとそれ以上言わなかった。


---


翌朝、クェルの空は穏やかだった。


呼水塔は静かな青を保ち、井戸の水面は昨日より少し高い位置で落ち着いている。鏡鳴りの名残の硝子片が、砂の上で朝日にきらきら光っていた。


ボクは誰にも見つからないうちに出るつもりだった。


そのほうが、たぶん簡単だから。


でも、村の外れの砂丘を越えたところで、先回りされていた。


「やっぱりな」


ナシムが、腕を組んで立っている。


「なんでいるの」

「お前がそういうやつだから」

「便利な理解だ」

「便利だろ」


たしかに。


ボクはトランクを砂に下ろした。朝の空気は冷たくて、少しだけ寂しい匂いがする。


「見送り?」

「半分」

「もう半分は?」

「黙って行かせると腹が立つから」


そう言うと思った。


ボクは笑って、それから少しだけ真面目になる。


「ありがと」

「礼を言われることはしてない」

「いっぱいしたよ」

「二回助けられて、一回引っ張り上げただけだ」

「十分だよ」


ナシムは視線をそらし、かわりに小さな包みを投げてよこした。


受け取る。中には細い革紐と、小さな青い硝子片がひとつ入っていた。昨日の鏡鳴りの名残だろう。角が削られて、首飾りにできそうなくらい滑らかだ。


「それ」

「うん?」

「鏡鳴りのあと、井戸の縁で拾った。厄除けになるかは知らん」

「なるよ、たぶん」

「またその言い方か」

「こういうのは、たぶんでいいんだよ」


ボクは髪飾りに触れてから、その青い欠片をポーチへしまった。


思い出の品がまた増える。


トランクの中は散らかってるし、きっとあとで見失いかける。でも、そういうのも嫌いじゃない。


ナシムがボクを見る。


「アウリィ」

「うん」

「忘れてもいい」


意外な言葉に、ボクは瞬いた。


「え」

「いや、全部じゃなくて、なんていうか……無理に覚えとこうとしなくていいってことだ」


彼女はひどく言いにくそうに、でも言葉を選びながら続ける。


「昨日のお前、井戸の下で、聞こえるもの全部抱える顔してたから」


ミルファと同じことを言う。


それが、少しおかしくて、少しだけ胸にくる。


ボクはしばらく返事ができなかった。


やがて、ゆっくり頷く。


「……うん」

「その代わり、またどっかで思い出したら、それでいい」

「変な形で?」

「そうだ。変な形で」


ボクは笑った。


「ナシム、そういうこと言うんだ」

「私だって言う」

「知ってる。いい手だし」

「まだ言うのか!」

「うん」


怒った顔が、少しだけ困った顔に変わる。


その変化をちゃんと見ておきたくて、ボクは目を逸らさなかった。


風が吹く。


クェルのほうから、呼水塔の低い歌が届く。穏やかで、もう急いていない音。


それを聞いた瞬間、世界の縁が、またひとつ薄くなった。


足元の砂が、少し遠い。

空の青が、一枚向こうへずれる。


時間だ。


ボクはそれを知る。


「そろそろ行く」

「……そうか」


ナシムはたぶん、何かには気づいた。


でも、細かくは聞かなかった。


そういうところが好きだと思ってしまう前に、ボクはトランクを持ち上げる。


「クェル、いい村だった」

「短い感想だな」

「長くすると困る」

「やっぱりそういう理由か」

「うん」


ナシムが少し笑う。


「じゃあ、短く返す。助かった」

「うん」

「ありがとう」

「どういたしまして」


それで十分だった。


ボクは一歩、砂丘の向こうへ踏み出す。


二歩、三歩。


風が背を押す。


振り返ると、ナシムはまだそこに立っていた。朝日の中で、赤褐色の布が揺れている。塔の歌が彼女の背後で細く伸びて、まるで見えない糸みたいにクェルと空を結んでいた。


「アウリィ!」


最後に一度だけ、彼女が呼ぶ。


ボクは振り返る。


「次の世界でも、勝手に死ぬな!」


思わず、吹き出してしまった。


「善処する!」

「それじゃ足りない!」

「がんばる!」

「最初からそう言え!」


そのやり取りが、最後までボクたちらしくて、少しだけ嬉しい。


ボクは大きく手を振った。


それから、砂丘を越える。


向こう側には誰もいない。


空だけが広くて、砂海がどこまでも続いている。


ボクはそこで立ち止まり、日記帳をひらいた。


最後の頁に、今日の分を書く。


> クェルの井は継続。

> 塔は歌い、水は戻った。

> 鏡鳴りは雨になった。

> ボクはまた行く。

> 忘れてもいいと、言われた。

> たぶん、少し救われた。


少し考えて、最後に一行足す。


> いい世界だった。


頁を閉じる。


その瞬間、足元の光景が、水面みたいに揺れた。


砂の音が遠ざかる。

空の匂いがほどける。

クェルの塔の歌だけが、最後まで細く耳に残る。


ボクはトランクを握り直し、髪飾りに触れた。


赤い彼岸花は、いつも通り冷たくて、確かだ。


「じゃあ、またね」


誰にともなく、そう言って笑う。


世界が、そっとボクを手放した。


光がほどける。


次にどこへ行くのか、ボクにはわからない。


それが少しだけ寂しくて、やっぱりとても嬉しかった。

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