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4話「風庭の骨」

夜明け前の村は、寝起きの顔をしたまま忙しかった。


クェルの井の空気はまだ冷えているのに、井戸の周りだけは人の熱で少しぬるい。昨夜戻った細い水を、誰かが何度も確かめに行っては、また戻ってくる。そのたびに、小さな安堵が村じゅうをめぐる。


ほんの少しの水で、人はこんな顔をするんだな、とボクは思った。


知っていた気もするし、初めて見る気もする。


古い記憶はそういうふうに曖昧だ。


「ぼんやりするな。持てるか」


ナシムが、荷紐を束ねた包みを投げてよこす。


ボクは受け取って、ひょいと肩に乗せた。


「持てるよ」

「見た目より力あるな」

「褒めた?」

「事実を言っただけだ」

「昨日より言い方がやさしい」

「気のせいだ」


気のせいではないと思う。


でも、そう言ったらたぶん否定するだろうから、言わない。


村の外れでは、ザハルが荷蜥の腹帯を締めていた。今日連れていくのは一頭だけだ。背の高い、灰褐色の個体で、目の上に薄い硝子のひさしみたいな鱗が張っている。


「こいつは気が荒いぞ」とザハル。

「誰に似たの」とボク。

「さあな、ナシムじゃないか」

「やめろ」


ナシムが本気で嫌そうな顔をしたので、ちょっと笑う。


ミルファは井戸のそばに立っていた。今日は地下へ下りる気配はない。代わりに、塔の根元に小さな道具をいくつも並べている。青い石の欠片、細い金属の針、布に包んだ何か。


「行く前にこれを持っていきな」


彼女が差し出したのは、親指の先ほどの青い歌石だった。昨日見たランプの石に似ているけれど、もっと薄い。


ボクが受け取ると、ひやりと冷たい。


「何に使うの?」

「風庭は風に話しかける場所だ。これを割ると、一度だけ向こうの歌に割りこめる」

「便利だね」

「便利なものは壊れやすい。無駄に使うな」


ボクは石を光にかざした。内部に細い線が入っていて、まるで小さな氷みたいだ。


「ミルファは来ないの?」

「行きたい顔してる?」

「してない」

「なら、その通りだよ」


あっさりしている。


でも、塔の脇に置かれた道具の数を見ると、こっちにもこっちの戦場があるのだとわかる。


ミルファはナシムへ向き直った。


「節二を持ち帰れ。できれば壊すな」

「できれば、って何だ」

「壊しても持ち帰れ」

「雑だな」

「優先順位ははっきりしてる」


次に、ボクを見る。


「アウレーリエ」

「うん」

「聞こえたもの全部を抱えこむな」

「……難しいこと言うね」

「難しいから言う」


その言い方が、妙に静かだった。


ボクは一瞬だけ返事に詰まって、それから頷く。


「わかった」

「嘘っぽい」

「がんばる」

「もっと嘘っぽい」


ナシムが横で吹き出しかけて、慌てて咳払いした。


村を出る直前、小さな影が走ってきた。昨夜、ボクを妖精と間違えた女の子だ。手には布包みを持っている。


「これ!」


押しつけるように渡された包みを開くと、干した果実が三つ入っていた。薄く切って、琥珀色になっている。


「道で食べて」

「いいの?」

「母ちゃんが、客に礼はするもんだって」

「ありがとう」


嬉しくなって笑うと、女の子は急に恥ずかしくなったのか、母親の後ろへ隠れた。


「妖精じゃなくて旅人なんだよね」

「うん」

「じゃあ、また来る?」

「……どうだろ」


その問いには、いつも少しだけ困る。


来るよ、と軽く言いたくない。来ないよ、と先に切ってしまうのも、なんだか違う。


だから少し考えてから、こう言った。


「覚えてたら、また」


女の子はよくわからなさそうにしたけれど、母親は何も言わなかった。


---


朝の砂海は、まだ金色になりきっていない。


薄い青と灰のあいだを歩くような色の中、荷蜥が静かに進む。風は弱い。西の空だけが、少し白く濁っていた。


鏡鳴りは、まだ遠い。


「半日以上って言ってたけど、どのくらい?」


荷蜥の背で揺られながら、ボクが聞く。


ナシムは先を見たまま答えた。


「寄り道しなければ昼前。砂が流れてたらもう少しかかる」

「寄り道する?」

「するな」

「聞いただけ」

「聞く前から目がしてる」

「そんな目ってどんな目」

「余計なもの見つけて嬉しそうな目」

「ひどい」

「当たってるだろ」

「……ちょっとだけ」


自分で認めると、ナシムは呆れた顔をした。


でも、そこで会話は切れなかった。


少ししてから、彼女がぽつりと言う。


「お前、ほんとにひとりで旅してるんだな」

「だいたいね」

「だいたい、って何だ」

「たまに途中で誰かと一緒になる。今回みたいに」

「ずっとじゃないのか」

「ずっとじゃない」


風が吹く。砂がしゃら、と鳴る。


ボクは干し果実をひとつ口に入れた。酸っぱくて甘い。噛むほど味が出る。


「ナシムは?」

「何が」

「村の外、出たことある?」

「あるよ。何度も」

「旅って感じで?」

「仕事だ」


言い切る声だった。


けれど、そのあと、少しだけ間が空く。


「……でも、昔は、もっと遠くまで行ってみたいと思ってた」


珍しいな、と思った。ナシムのほうから、こういう話をするのは。


ボクは急かさずに待つ。


「行けると思ってたんだ。水さえあれば、どこへでも」

「うん」

「でも、水が足りなくなると、人は遠くを見なくなる。近いとこだけで手一杯になる」

「そうだね」

「気づいたら、残る理由のほうが増えてた」


その言葉は、軽く言ったみたいで、軽くなかった。


ボクは荷蜥の首筋を撫でる。温かい。


「残る理由があるの、悪いことじゃないよ」

「慰めてるのか」

「違うよ。ほんとに」


ボクは少しだけ笑った。


「ボクは、行く理由ばかり増えちゃうほうだから」

「それはそれで面倒そうだな」

「面倒だよ」

「自覚あるんだな」

「便利だからね」


またそれだ、とナシムがため息をつく。


でも今度は、少しだけやわらかかった。


---


風庭の跡は、遠くからでもわかった。


最初に見えたのは、地平線から突き出した銀色の線だった。何本も、何十本も。近づくほど、それがただの線ではなく、巨大な骨組みだとわかる。


砂海の真ん中に、枯れた花が咲いているみたいだった。


細く高い柱が円を描いて立ち、そのあいだに斜めの板が何層も張られている。板の多くは割れ、欠け、半分は砂に埋もれていた。残った面だけが陽を返して、鈍い光を撒き散らしている。


風が吹くたび、そこから音がした。


きぃん、と高く。

うぅん、と低く。

無数の鏡が、別々の喉で鳴いている。


「……あれが鏡鳴りの元?」


ボクが見上げると、ナシムが頷く。


「近くを通ると、もっと嫌な音がする」

「でも、きれい」

「趣味が悪いな」

「そうかなあ」


本当にきれいだった。


壊れていて、古くて、もう役目の半分以上を失っていて、それでもまだ風を受けて歌うもの。


そういうものに、ボクはどうしても目を奪われる。


風庭の外縁まで来ると、荷蜥が急に歩みを遅くした。嫌がっているらしい。鏡の歌が耳に障るのだろう。


「ここからは歩く」


ナシムが綱を結び、荷蜥を低い残骸の陰へ繋ぐ。


「逃げない?」

「こいつより先に逃げるものがいるなら見てみたい」


それもそうか、と思う。


ミルファの歌石を確かめ、槍を呼べるよう意識を整える。それからボクは風庭の中心へ目を細めた。


精霊たちはここでも落ち着かない。でも、怖がっているというより、ざわざわしている感じだ。大きな音に興奮した群れみたいに。


「入口、埋もれてる?」

「たぶんな」

「また“たぶん”だ」

「お前に言われたくない」


それはそう。


ボクは少し歩き、砂の上にしゃがみこんだ。手のひらを当てて、薄く意識を広げる。


地下に空洞がある。


ひとつじゃない。何本かの管と、広い部屋。中心に丸い空間。そこから、ごく細い歌が漏れてくる。


「あっち」


立ち上がって指さすと、ナシムは一瞬もためらわずそちらへ向かった。


「信じるんだ」

「今さら疑っても遅い」

「それ、信頼?」

「消去法だ」

「ひどい」

「効くからいいだろ」

「……うん、まあ」


否定しづらい。


砂に半分埋もれた円形の板を見つけたとき、ナシムが低く唸った。


「本当にあった」

「疑ってたの?」

「半分くらい」

「ひどいなあ」

「だから半分は信じてた」


そう言いながら、彼女は砂を払い始める。


ボクも手伝う。精霊に呼びかけて風をひと巻き起こすと、砂がさらさらと退いて、円板の縁が露わになった。中央に刻まれた模様は、呼水塔の台座の溝とよく似ている。


ナシムが指で押すが、動かない。


「鍵?」

「歌かも」


ボクは膝をついて耳を寄せた。


下から、細い音がする。呼水塔より若い声。けれど同じ系統の、古い機械の歌。


なんとなく、喉の奥で形を真似してみる。


「……アー……イ……」


自分でも驚くくらい、自然に音が出た。


意味はわからない。ただ、そう鳴らせばいいとわかる。


円板の縁が、かちりと鳴った。


ナシムが目を見開く。


「今の、わざとか」

「半分くらい」

「お前の半分、信用ならんな」

「でも開いたよ」

「それはそうだ」


円板がずれて、冷たい空気が上がってくる。


下へ続く斜路は、井戸の螺旋階段よりずっと広かった。壁一面に薄い鏡が貼られていて、ボクたちの姿が何枚にも割れて映る。


「やだな、これ」

「ボクは好き」

「聞いてない」


---


風庭の中は、風の通り道そのものだった。


上の骨組みを抜けてきた風が、細い管を通り、鏡板のあいだで増幅され、地下へ落ちてくる。その全部が音に変わって、壁じゅうで共鳴している。


足元の床は網目状で、その下を空気が流れていた。


「水の匂いが薄い」


思わずつぶやくと、ナシムが振り返る。


「井戸の下より?」

「うん。ここは風が主役みたい」

「名前の通りだな」


やがて、斜路の先に広い円形の部屋が現れた。


中央に立っていたのは、一本の柱だった。


柱というより、節の多い骨。白銀の金属でできた幹に、左右へ薄い板が幾重にも伸びている。板はどれも細長く、風を受けるとわずかに震えた。


その幹の真ん中に、青灰色の筒がひとつ、はめこまれている。


「節二」


ボクが言うと、ナシムも小さく頷いた。


あれだ。


でも、近づく前に、部屋の空気が変わった。


鏡が一斉にこちらを向いた気がした。


もちろん、本当に向いたわけじゃない。なのに、見られている感じだけがはっきりある。


柱のどこかで、低い音が鳴る。


――応答。

――外音、再来。

――節二、保持中。

――搬出前、返歌要求。


「何て?」


ナシムが短く問う。


「取る前に、歌を返せって」

「また歌か」

「この世界、歌で動くもの多いね」

「嬉しそうだな」

「ちょっと」


隠しきれない。


ナシムは頭を抱えたい顔をして、それでも柱を睨んだ。


「返歌って、歌えばいいのか」

「たぶん」

「またそれだ」

「でも、さっき入口は開いたでしょ」

「その成功体験で押し切るな」


もっともだ。


ボクは柱の前へ進み、床に刻まれた細い円へ足を踏み入れた。そこだけ温度が少し違う。冷たいというより、張りつめている。


喉の奥が勝手に震えた。


柱から、短い音が三つ落ちてくる。


高い音。低い音。少し掠れた音。


試しに真似してみる。


「イー……ラ……」


最後のひとつがうまくいかない。掠れたところで、鏡がざわりと鳴った。


嫌な音。


ナシムがすぐ曲刀を抜く。


「外した?」

「ちょっと怒らせたかも」

「軽く言うな!」


次の瞬間、壁の鏡板の何枚かが割れた。


破片が飛んだわけじゃない。割れた面の奥から、何かが抜け出してきた。


鳥だった。


鴉ほどの大きさの、薄い硝子でできた鳥。羽のかわりに細い板が幾重にも並び、飛ぶたびに甲高い音を引く。目にあたるところだけが青く光っていた。


「うわ、きれい」

「感想それか!」

「でも危ない!」


一羽が急降下してくる。


ボクは屈んで避ける。羽先が頬を掠めて、細い熱が走った。切れたらしい。痛みは浅い。


ナシムがすぐ横へ出て、鳥を斬り払う。硝子の体が半分砕け、甲高い悲鳴みたいな音を立てて床へ落ちた。


でも、一羽じゃない。


五羽。七羽。もっと。


鏡の奥から次々と抜けてくる。


「歌ってる暇あるか、これ!」

「あるようにしないと節二が取れない!」

「最悪だな!」

「うん!」


言いながら、ボクは後ろへ跳ぶ。槍を呼ぶ光が掌に集まり、ミスリルの穂先が音もなく現れる。


一羽が真正面から来た。


突き。砕く。返す柄で横の一羽を払う。破片が散る。床の網目の下で風が唸る。


でも、数が多い。


柱の歌も止まらない。


返歌を失敗したままだと、ずっと湧いてくる気がした。


「ナシム!」

「何!」

「少しだけ時間ちょうだい!」

「どれくらい!」

「十数えるくらい!」

「多い!」

「じゃあ八!」

「減っただけだろ!」


文句を言いながらも、ナシムは前へ出た。


曲刀の軌跡が鋭い。鳥は速いけれど、直線的だ。彼女はそれを見切って、最短で切り落としていく。足運びが綺麗だな、と一瞬見惚れそうになって、慌てて意識を柱へ戻した。


音を拾う。


高い。低い。掠れ。


最初のふたつは簡単だ。でも最後の掠れた音だけ、喉じゃなくて、胸の奥から出す必要があるらしい。


柱がまた三音、落としてくる。


ボクは目を閉じた。


風が通る。鏡が鳴る。遠い昔、誰かの指が髪を編む感触が、一瞬だけよぎった。


細い三つ編みを作る指。

笑う声。

「歌は持っていきなさい」と言ったような、言わなかったような。


顔はない。

でも、温度だけが残っている。


ボクはその感触に導かれるみたいに、最後の音を返した。


「……ルゥ」


低く掠れて、それでいて折れない音。


部屋じゅうの鏡がぴたりと止まる。


鳥たちの動きが一瞬だけ鈍った。


「今だ!」


ナシムの声。


ボクは目を開け、柱へ槍の石突きを打ちこんだ。床の円が青く光り、節二を固定していた爪が外れる。


同時に、ナシムが最後に残った鳥を斬り裂いた。


硝子の身体が砕け、雨みたいに床へ散る。


静寂。


いや、完全じゃない。風はまだ流れている。でも、さっきまでの攻撃的な鳴り方は消えていた。


柱が、今度は穏やかな音を返す。


――照合完了。

――外音、返歌受理。

――節二、搬出許可。


ボクは思わず笑ってしまった。


「受理された!」

「そうだろうな! でないと困る!」


ナシムは息を切らせながら、額の汗を乱暴に拭った。


「お前、歌えるなら最初から全部ちゃんとやれ」

「今思い出したんだよ」

「何を」

「うまく言えない」

「ほんとに便利な言葉ばっかりだな」


文句を言う声が、少しだけ安堵していた。


ボクは柱から節二を引き抜く。井戸の下のと同じ青灰色の筒だけれど、こっちは少し細くて長い。持ち上げると、中で風が回るみたいな音がした。


その瞬間、床が揺れた。


「……あ」


天井のどこかで、鏡板が悲鳴みたいに軋む。


外から、轟、と重い音。


ボクとナシムは同時に顔を上げた。


「鏡鳴り」

「早いな!」


風が変わった。


さっきまで部屋を通り抜けていた流れが、一気に逆巻く。鏡板どうしが打ち合い、耳を刺すような高音が降ってくる。


「出るよ!」

「言われなくても!」


節二を抱え、ボクたちは斜路へ駆けだした。


風が背中を押すんじゃない。引っ張る。外へ、というより、どこか一点へ集めるような風だった。


「変だ!」


ボクが叫ぶ。


「何が!」

「嵐の向き!」


地上へ向かう風の筋が、村の方角とぴたり重なっている。


まるで、クェルの呼水塔が、こっちを呼んでいるみたいだった。


斜路の途中で、壁の鏡が何枚も剥がれ落ちる。ナシムが前で一枚を避けきれず、肩で受けた。


鈍い音。


「っ!」

「ナシム!」

「止まるな、行け!」


でも、彼女の左腕が一瞬だけ下がる。


ボクは節二を脇に抱え直し、右手で彼女の手首を掴んだ。精霊へ短く呼びかけ、風の流れを少しだけずらす。落ちてくる鏡板の軌道が変わり、壁に突き刺さった。


「借りひとつ!」

「増やすな!」


怒鳴る声にまだ力があって、少し安心する。


地上の円板から這い出ると、世界はもう朝ではなかった。


昼でもない。


空の半分が、銀に擦れていた。


西から来るはずの鏡鳴りが、巨大な弧を描いて砂海を渡っている。白銀の砂と硝子片が空高く舞い、その中心に細い青い光が見えた。


クェルの呼水塔だ。


村の塔が、遠くでまっすぐ光を上げている。


それに応えるように、嵐が曲がっている。


「うそだろ……」


ナシムの声が、風に千切れそうになる。


「村へ行ってる」

「うん」


答えた瞬間、胸の奥がひやりとした。


節二を抱えた腕の内側で、筒が震える。呼水塔の歌に引かれているのがわかる。帰りたがっている。


そして、それとは別に、もっと個人的な感覚があった。


世界の手触りが、ほんの少しだけ薄い。


長く旅をしているとわかる。世界がボクを受け入れているあいだの、あの柔らかな“留まり”が、わずかに緩んでいた。


まだ大丈夫。

でも、ずっとではない。


その感覚に気づいて、ボクは無意識に髪飾りへ触れた。


赤い彼岸花の冷たい感触が、指先にある。


「アウリィ!」


ナシムが強く呼ぶ。


顔を上げると、彼女はもう荷蜥の綱を引いていた。肩を痛めているはずなのに、そんなことを気にしている暇もない顔だ。


「乗れ!」

「うん!」


ボクが背にまたがったそのとき、ポーチの中で青い歌石が熱を持った。


ミルファの石だ。


次の瞬間、ぱき、とひび割れる音。


青い光が耳元で弾け、しわがれた声が風に混じった。


『聞こえるか』


「ミルファ!」


『短く言う。塔が節二を呼んでる。戻れ。今すぐ』


向こうのざわめきがひどい。風の音だけじゃない。金属の軋み、誰かの叫び、塔の歌。


ミルファの声はそれでもはっきりしていた。


『戻る前に、もし風庭が歌い出したら耳を塞げ。あれは引っ張る』


「もう引っ張られてる!」

『なら急げ。井戸の水位が上がりすぎてる』


ナシムの顔色が変わる。


「上がりすぎる?」

『溢れる前に塔を繋ぎ直さないと、井戸ごと裂ける』


それだけ言って、歌石は砕けた。


青い欠片が指の間から砂へ落ちる。


ほんの一瞬、言葉が出なかった。


井戸が裂ける。


クェルの井という村の名前そのものが、壊れるということだ。


ナシムが低く吐き捨てる。


「最悪だ」

「うん」

「でも、やるしかない」

「うん」


ボクは節二を抱きしめるように持ち直した。


嵐は村へ向かう。

塔は歌っている。

井戸は満ちすぎている。

そしてボクは、たぶん長くは留まれない。


条件はあんまりよくない。


でも、だからって、ここで笑えなくなるほど悪くはない。


「ナシム」

「何」

「競争しよう」

「は?」

「クェルまで。先についたほうが、今日の晩ごはん一品追加」

「そんな場合か!?」

「こういう場合だからだよ!」


ナシムは一瞬だけ呆れ、それから、ほんの少し口元を上げた。


「……負けたら二品だ」

「乗った!」


荷蜥が砂を蹴る。


壊れた花の中心から、ボクたちはクェルへ駆けだした。


背後では風庭の骨が、嵐に鳴らされて狂ったように歌いはじめていた。

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