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3話「井底の返歌」

青い光は、井戸の底で瞬いていた。


ひとつ、またひとつ。


まるで暗闇の中で誰かが目を開けていくみたいに、階段の下の闇に点が増える。


ボクは三段目で足を止めたまま、じっとその光を見た。


さっきの声――**遅い**――は、もう一度は聞こえない。けれど、気配はそこにある。待ちくたびれて、少し機嫌を損ねた何かが、暗い底でこちらを見上げている感じ。


「どうした」


すぐ下から、ナシムが見上げてくる。


ランプの青い灯りが彼女の頬に薄く影を落としていて、昼間よりずっと険しく見えた。


「さっきの、まだいる」

「いるだろうな」

「怒ってる」

「それも、なんとなくわかる」


ミルファが先へ進みながら言う。


「怒ってるなら起きてる。眠ったまま壊れてるよりはましだよ」


その理屈は、少し乱暴で、でも嫌いじゃない。


ボクは頷いて、階段を下りはじめた。


---


螺旋階段は思ったより長かった。


石にも金属にも見える灰色の壁に沿って、細い段がぐるぐる続いている。靴音は乾いた音じゃなかった。こつ、こつ、と硬いのに、どこかしっとりしている。


空気が違う。


砂海の夜は冷えても乾いていた。でも、ここは冷たくて、少し湿っている。ほんのかすかに、水の匂いがした。


それだけで、胸の奥がふっと軽くなる。


「ああ、いい匂い」


思わず言うと、前を下っていたナシムが振り返った。


「ここで最初に出る感想がそれか」

「水の匂いだよ?」

「わかるけど」

「好きなんだ、こういうの」

「知ってる。お前は知らないものと珍しいものを見ると、だいたい顔が緩む」

「そんなに?」

「ひどく」


ちょっと不本意だった。


でもたぶん、本当だ。


湿った空気の中には、地上より柔らかい精霊が混じっていた。数は多くない。けれど、砂の精霊よりずっと触れやすい。細い水の気配が、壁の中をそっと走っている。


この世界にも、ちゃんと水はある。


地表からは見えにくいだけで。


そう思うと、少しだけ安心した。


ミルファが前を向いたまま言う。


「滑るよ。足元を見な」

「はーい」

「返事だけはいいな」

「便利だからね」

「何が」

「いい返事」


ナシムが小さく息を吐いた。呆れてるのか、笑いをこらえてるのか、その中間みたいな音だった。


階段の途中、壁にいくつも筋が走っているのが見えた。ひびではない。細い溝だ。溝の奥に、ごく淡い青い光が流れている。


ボクは指先でそっと触れた。


ぴり、と微かな震え。


それと一緒に、言葉とも音ともつかないものが頭の奥をかすめる。


――節一、帰還。

――節二、未帰還。

――地上、渇き。

――応答、遅延。


「……ほんとに怒ってる」


「何が聞こえた」


ミルファが聞く。


「半分くらいしかわからないけど、たぶん、“ひとつ戻った、ひとつ戻ってない、遅い”って」

「短気だねえ」

「ボク、ちょっと好きかも」

「物好きだな」とナシム。

「怒ってるものって、理由があることが多いでしょ」

「全部が全部じゃない」

「ナシムは?」

「何が」

「怒るとき、理由ある?」

「……ある」

「じゃあ、同じ」


ナシムは何か返そうとして、やめた。


その沈黙のまま、さらに下る。


やがて螺旋が終わって、広い踊り場に出た。


ボクは、思わず立ち止まった。


「うわぁ……」


そこは、井戸の底というより、井戸の**中**だった。


丸い空間の壁いっぱいに、肋骨みたいな梁が走っている。何十本もの細い管が束になって、天井から床へ、床から壁へと伸びていた。中央には大きな浅い盆のようなものがあって、底にほんの薄く水が張っている。水面は静かで、青い光だけを映していた。


その盆の向こう、台座の上に、声の主がいた。


球体。


子どもの頭ふたつ分くらいの大きさの、青灰色の球。表面にいくつもの継ぎ目があり、その隙間から淡い青い光が漏れている。球体は台座から少し浮いていて、呼吸するみたいに明滅していた。


音はそこから出ている。


低く、長く、少し不機嫌な歌。


「……井守」


ミルファが小さく言った。


ナシムが眉を寄せる。


「これが?」

「昔の書付にあった。塔の喉なら、こっちは肺と耳だそうだ」

「よくわからん例えだな」

「昔の人に言いな」


ボクは半歩、また半歩と近づいた。


球体の周りの空気だけ、音で震えている。精霊とも魔力とも違う。もっと人工的で、でも死んでいない流れ。


好きだ。


こういう、古くて、役目だけがまだ残ってるもの。


ボクが手を伸ばしかけると、ナシムがすぐ袖を掴んだ。


「待て」

「触らないよ、まだ」

「その“まだ”が怖いんだ」

「信用ないなあ」

「当然だ」


即答だった。


そのとき、球体の光が一段強くなる。


空気が鳴った。


今度はボクだけじゃなく、ナシムもぴくりと肩を動かしたらしい。彼女の目が細くなる。


音が、はっきり言葉のかたちになる。


――地上個体、三。

――保守個体、一。

――外音、一。

――遅い。


ボクは瞬きをした。


外音。


その言い方に、少しだけ胸がひやりとする。


よそ者、ではなく、音。


この世界の外から混じった、異質な響きみたいに聞こえた。


「何て?」


ナシムが聞く。


ボクは一瞬だけ迷った。


でも、全部をそのまま言う必要はない気がした。


「ええと……“三人と一人が来た。遅い”って」

「四人じゃないか」

「うん、そうだね」


嘘ではない。少し省いただけだ。


ミルファはボクを一度だけ見た。気づいたのかもしれないし、気づかないふりをしたのかもしれない。どちらでもよかった。


彼女はザハルたちが持ち帰った青灰色の筒を、ゆっくり持ち上げる。


「これを拾ってきた。合うなら、合わせるよ」


球体は返事の代わりに、短く高い音をひとつ鳴らした。


「許可だと思う?」とボク。

「文句がないならそうだろう」とミルファ。


ずいぶん大雑把だけど、嫌いじゃない判断だ。


台座の前には、筒が収まりそうな溝がふたつ並んでいた。ひとつは空。もうひとつも空。けれど片方の内側だけ、形が少し違う。


「こっち」


ボクが指さすと、ミルファはためらいなくそこへ筒を差しこんだ。


かちり、と静かな音。


ぴたりと嵌まる。


その瞬間、球体の光が大きく脈打った。


部屋じゅうの細い溝に青い光が走る。中央の盆の底で、止まっていたような水面が細かく震え、壁の管のいくつかに淡い明かりが灯った。


ナシムが目を見開く。


「動いた」

「少しだけね」とミルファ。


球体が、今度はさっきより落ち着いた音を鳴らす。


――節一、接続。

――節二、欠損。

――根線、閉塞。

――呼水、半量以下。


「半分以下だって」


ボクが言うと、ナシムの顔が険しくなる。


「水が?」

「たぶん」

「たぶんじゃ困る」

「古い言い回しが多いんだよ。たぶん、って訳したほうが近いときがあるの」

「便利な言葉だな」

「この村の人たちもよく使う」

「そこは否定しないのか」


否定しにくい。


ミルファが球体に向かって、低く言った。


「節二はどこだ」


球体はすぐには答えず、かわりに壁のひとつを照らした。


そこに刻まれていた線が、光を受けて浮かび上がる。地図だった。いや、地図に似たもの。丸い点と、それを繋ぐ何本かの細い線。ひとつは今いる場所だろう。そこだけが明るい。もうひとつ、ずっと西側に、消えかけた点がある。


球体が音を重ねる。


――西肺。

――埋没。

――節二、未帰還。


「西の……肺?」


ボクが首をかしげると、ミルファが壁へ近づいた。


「風庭の跡か」


「知ってるの?」

「昔の採り場だよ。風を集める骨組みがあったはずだ。今はもう砂の下だが」


ナシムが壁の点を睨む。


「遠いのか」

「歩けば半日以上」とミルファ。

「荷蜥なら少し縮む」

「でも西は鏡鳴りの通り道だよ」とボク。

「わかるのか」

「風が嫌がってる」


ボクは口にしてから、ちょっと変な言い方だったかなと思った。


でも本当にそうなのだ。地上の乾いた精霊たちが、西の方角だけざわついている。尖って、擦れて、落ち着かない。


ミルファはそれにも特に驚かず、球体へ向き直った。


「根線の閉塞は?」

「それも聞ける?」

「お前がいるならね」


そう言われると、ちょっとだけこそばゆい。


球体は今度、中央の盆の底へ細い光を落とした。薄く張った水の下、盆の中央に丸い蓋のようなものがあるのが見える。その隙間に、透明な何かが絡みついていた。


根っこに似ていた。


ただし植物の根よりもっと硬く、硝子みたいに半透明で、内側に青白い筋が走っている。


「うわ、あれか」

「根線って」

「たぶん、そう」


ボクは盆の縁にしゃがみこんだ。


水は浅い。飛び込むほどじゃない。けれど、ただの水でもなさそうだ。指を入れると、ひんやりして、そのあと遅れてぴりっとくる。音が溶けているみたいな水。


「待て、入る気か」とナシム。

「入る」

「即答するな」

「浅いし」

「浅いから安全とは限らん」

「だからナシムも来て」

「なんでそうなる」

「一人より二人のほうが安全でしょ」

「理屈だけは正しいな……」


嫌そうに言いながらも、彼女は曲刀を抜いた。


ミルファがランプを高く掲げる。


「気をつけな。根線は生きてないが、生きてるものを呼ぶことがある」

「もっと早く言って」

「今言った」

「今言われた」


ナシムがぼそっと呟く。


「この年寄り、時々わざとだろ」

「聞こえてるよ」


返事も速かった。


ボクは靴を履いたまま盆へ降りた。水が足首を濡らす。冷たい。気持ちいい。地上で火照った身体の奥まで、すっと冷えていく。


「ほんとに水だ……」

「感動するとこそこか」

「砂の下で会う水って、特別だよ」


ナシムは言葉を返さず、代わりに周囲を警戒していた。


ボクは蓋のところまで進む。


透明な根は、近くで見るともっと気味が悪かった。絡まり合って、蓋の継ぎ目を塞いでいる。表面に細かな棘。しかも根の奥で何かが動いた気がした。


「これ、切るとたぶん嫌なこと起きる」

「切らないのか?」

「切るけど」

「じゃあ同じだ」


ナシムの返しが早くて、少しだけ嬉しい。


ボクは槍を呼ぼうとして、やめた。ここで長物は扱いにくい。かわりに腰の小さなナイフを抜く。


「右側、任せていい?」

「最初からそのつもりだ」


ナシムが一歩前へ出る。


息を合わせるまでもない。彼女が左から、ボクが右から、同時に根へ刃を入れた。


硬い。


でも切れないほどじゃない。


ぱきん、と嫌な音がした。


次の瞬間、根の断面から青い光が噴き出した。


「うわ」

「下がれ!」


ナシムがボクの肩を掴んで引く。同時に、水の下から細い影がいくつも飛び出した。


魚でも虫でもない。針みたいに細い、透明な生き物。長い身体をくねらせて、まっすぐ顔を狙ってくる。


「なにこれ!」

「知らん!」


ナシムが曲刀で一匹を叩き落とす。落ちた影は水面でびちびち跳ね、すぐに硝子片みたいに砕けた。


「生きてるものを呼ぶって、これ!?」

「たぶんね!」とミルファ。

「先に詳しく!」


叫びながら、ボクは身を沈める。一匹が耳の横をかすめた。髪が少し切られて、水面へ落ちる。


速い。でも脆い。


ボクはナイフの刃を裏返し、横薙ぎに払った。二匹まとめて砕ける。水しぶきと一緒に、青い光が散った。


ナシムが低く言う。


「数が多い」

「根の中に巣みたいなのあるかも」

「最悪だな」

「でも、切れば減ると思う」

「根をか?」

「たぶん!」

「その言い方で信じろってか!」

「今は信じて!」


自分で言って、無茶ぶりだなと思った。


でもナシムは舌打ちひとつで応じた。


「外したら怒るぞ」

「あとでならね!」


彼女が前へ出る。ボクは横へ回りこんで、再び根へ刃を立てた。


今度はただ切るんじゃなく、精霊に触れる。水に溶けた小さな流れを指先で束ね、根の内側へ押しこむ。柔らかい精霊は砂の精霊より素直だ。くすぐるように誘うと、隙間へ入りこみ、絡まりを少しだけ緩めてくれる。


そこへ、ナシムの刃。


ぱきん、ぱきん、と連続でひびが走る。


透明な根が大きく裂け、断面から今度は濁った黒い塊がどっと流れ出した。砂。細かい砂と、壊れた殻の欠片。長く詰まっていたものが、根の奥に溜まっていたらしい。


「今!」


ボクが叫ぶ。


ナシムが両手で刀を握り、最後の束を断ち切った。


根が弾ける。


同時に、水の底の蓋がごとりと鳴った。


ひゅう、と低い吸いこみ音。


盆の水が渦を巻きはじめる。


「下がれ!」とミルファ。

「言われなくても!」


ボクとナシムは同時に縁へ飛び退いた。背後で水が渦になり、盆の中央へ吸われていく。砕けた透明の虫たちも、切れた根の欠片も、全部まとめて底の蓋の隙間へ引き込まれた。


部屋じゅうの管が一斉に震える。


それから、どこか遠い場所で、水が走る音がした。


長い長い管の向こうを、目に見えない流れが駆けていく。


ボクは息を止めたまま、その音を聞いた。


砂の上の村まで続いていく、はじめての呼吸みたいな音だった。


ナシムも同じだったのか、しばらく何も言わずに立ち尽くしていた。


やがて彼女が、ぽつりと漏らす。


「……動いた」


「うん」


「本当に」


「うん」


それだけの会話なのに、妙にあたたかかった。


ミルファが盆の底を覗きこみ、低く頷く。


「下の詰まりは抜けた。けど、これで全部じゃないね」


球体がそれに応えるように、澄んだ音を鳴らした。


――根線、回復。

――節二、なお欠損。

――呼水、持続せず。


ボクは水を払って、縁へ上がる。


「今ので少しは動くけど、半分だけ。長くはもたないって」

「どれくらい」

「それは……」


球体の音に耳を澄ます。


数字のような響きが混ざっていた。けれど、この世界の時間の数え方ときれいには重ならない。ボクの中でうまく訳せない。


「明日、か、明後日、くらい。たぶんそのへん」

「たぶんばっかりだな」とナシム。

「ごめん」

「責めてない」

「責めてる顔だけど」

「元からこういう顔だ」


ちょっとだけ笑ってしまう。


そのとき、球体の光がふいに細くなった。


さっきまで部屋いっぱいに広がっていた青が、すっと一点へ寄る。まっすぐ、ボクへ。


ぞくり、とする。


音が、今度は他の二人には聞こえないくらい低いところで響いた。


――外音。

――記録、摩耗。

――それでも、まだ歌うか。


ボクの喉が、わずかに詰まった。


記録、摩耗。


その言い方は、あまりに正確だった。


忘れていく。古い記憶から、少しずつ。顔も、声も、約束も。断片だけが残る。言葉にならない匂いとか、色とか、手の温度みたいなものだけ。


それでも、まだ歌うか。


歌う、というのが何を指しているのか、ボクにはわからない。旅のことかもしれないし、ただ生きて進むことかもしれない。


でも、返事はすぐ出た。


心の中でだけ。


**うん。たぶん。まだ。**


「アウリィ?」


ナシムの声に、はっとする。


「……何?」

「ぼんやりするな。顔色が変だ」

「そう?」

「そうだ」


ミルファもこちらを見ていたが、追及はしなかった。


助かった、と少しだけ思う。


ボクは濡れた指先をマントの裏で拭って、深呼吸した。


「大丈夫。ちょっと、古い声って耳に残るから」

「変な言い方だな」

「そうかな」

「そうだよ」とミルファ。「だが、今はそれでいい」


彼女は壁の地図を見上げた。


「要るものはわかった。西肺……風庭の跡。あそこに節二がある」

「埋もれてるって言ってたね」とボク。

「ああ」

「取りに行くの?」

「行くしかないだろう」


ナシムが先に答えた。


迷いのない声だった。


でも、その顔には迷いが少しあった。怖がっていないわけじゃない。行くと決めるのと、怖くないのとは別だ。


その顔を見て、ボクは少しだけ好きだなと思ってしまう。


強い人が、怖さを消さずに前へ出るところ。


「お前も来るんだろ」


ナシムに言われて、ボクは瞬く。


「いいの?」

「駄目って言って止まるか?」

「止まらない」

「知ってる」


嫌そうな言い方なのに、ちゃんと含まれていた。


頼ってる、を、まだ照れて言えない感じ。


そういうのも嫌いじゃない。


ミルファがランプを持ち直す。


「上へ戻る。夜明け前に決めることが増えた」


「村の人に話す?」

「全部は話さない」

「なんで」

「全部話すと余計な想像をするからだよ」


そのあたりの判断は、さすが年長者だと思った。


---


地上へ戻る頃には、空の色が少し薄くなっていた。


まだ夜の端だけれど、東の低いところに灰青が混じっている。


井戸の周りには、案の定、人が集まっていた。


眠れなかった顔。心配そうな顔。苛立った顔。祈るみたいに黙っている顔。


ボクたちが出てくると、ざわめきが一気に揺れた。


「どうだった」

「何かいたのか」

「水は?」

「塔は?」


言葉がいくつも飛んでくる。


ミルファが一歩前へ出て、それだけで場が少し静かになった。


「井戸の下はまだ生きてた。詰まりをひとつ抜いた。少しは持ち直す」


その言葉に、いくつか安堵の息が混じる。


でもすぐに、別の声が上がった。


「少し、ってどれだけだ」

「塔の歌は止まってないぞ」

「その子が来てからだ」


最後の一言に、空気が少し固くなった。


誰が言ったのかはわからなかった。わからないくらいの位置から、ぽんと投げられた石みたいな声だった。


ボクは別に慣れている。


旅人っていうのは、たまにそういうふうに扱われる。異変の前に来たら前触れ、異変のあとに来たら怪しい目撃者。どっちにしても、中心ではない場所に置かれる。


慣れてる。


慣れてるけど。


少しだけ、喉の奥が冷える感じはある。


ナシムがすぐ口を開いた。


「関係ない」

「でも――」

「関係ないって言ってる」


声は高くないのに、ぴしゃりと切れた。


村人たちが少し黙る。


ミルファがそれを引き取るように言う。


「外から来た子に二度助けられて、今も下で手を借りた。文句があるなら私に言いな。聞くだけは聞く」


“聞くだけ”なのが、なんともミルファらしい。


ざわめきは残ったけれど、それ以上強い言葉は出なかった。


代わりに、井戸の底から、ぐう、と低い音が響く。


次の瞬間、井戸の口の奥で水面が光を返した。


ほんの少し。


ほんの細い帯みたいな水だけれど、確かに、そこにあった。


誰かが息を呑む。


今度の静けさは、さっきまでと違った。


希望に近い静けさ。


「……戻った」

「少しな」とミルファ。

「でも、ある」


サフの声だった。いつの間にか人垣の前に出てきている。寝癖のついた頭のまま、井戸を覗きこんで目を丸くしていた。


ザハルも後ろにいる。眠そうな顔で、でもちゃんと笑っていた。


「だから言ったろ、生きて帰れば文句は後だ」

「今言うことじゃないよ、ザハル」

「今だから言うんだ」


少しだけ場が緩む。


その隙に、ミルファは必要なことだけを告げた。


「まだ足りない。西の風庭に残りがある。取ってくる」


「誰が?」

「ナシム」とミルファは即答した。

「私だけ?」

「まさか。案内と耳が要る」


そのまま、彼女はボクを見る。


「アウレーリエも行く」


村のざわめきがもう一度揺れた。


けれど今度は、さっきほど冷たくなかった。少なくとも、井戸に戻った細い水が、言葉の棘を少し鈍らせてくれている。


ナシムが片眉を上げる。


「決定済みか」

「違うのかい」

「……違わない」


ボクはつい笑ってしまった。


「ちゃんと連れてってくれるんだ」

「置いてったら勝手について来るだろ」

「たぶん」

「だから最初から視界に入れておく」

「ひどい」

「お互い様だ」


サフがぱっと手を挙げた。


「おれも行く!」

「駄目だ」とナシム。

「なんで!」

「お前はまだ走ると転ぶ」

「転ばない!」

「昨日も転んだ」

「砂が悪い」

「全部砂のせいにするな」


ザハルが笑いながらサフの頭を押さえた。


「今回は村番だ、若いの」

「えー……」

「井戸に水が戻ったら、汲む手も要る」


それは正論で、サフはものすごく不満そうな顔をしながらも引き下がった。


ボクはそのやり取りを眺めながら、こっそり安堵していた。


こうして言い合えるくらいには、村にいつもの呼吸が戻っている。


ほんの少しだけど。


ほんの少しあれば、次へ進める。


ミルファが最後に西の空を見た。


それにつられて、ボクもそちらを見る。


夜の名残の向こう、地平線の西端が、鈍い銀色に曇っていた。


雲じゃない。


砂だ。


遠くの空を擦り上げるみたいに、細い光の壁がゆっくり立ち上がっている。見ているだけで歯の奥がきしむような、嫌な気配。


鏡鳴り。


まだ遠い。でも、近づいてくる。


ナシムもそれを見て、低く言う。


「……急がないとまずいな」

「どれくらい?」とボク。

「昼を過ぎると西は歩きにくくなる。鏡鳴りが本気になる前に着きたい」

「じゃあ、朝ごはんは?」

「食べる」

「よかった」

「そこは譲れないのか」

「空腹で遺跡に入るの、効率悪いよ」

「遺跡って言い切ったな」

「遺跡でしょ?」

「まあ、そうだが」


ボクがわくわくしてるのを見て、ナシムはまた呆れた顔をした。


でももう、その顔は最初ほど刺々しくなかった。


井戸の縁から離れたところで、ボクはポーチを探る。指先に日記帳の角が触れた。


少しだけ迷ってから、取り出す。


村の人の視線はまだある。けれど、今はさっきほど痛くない。


頁を開き、短く書く。


> 井戸の下には耳があった。

> 怒っていたけど、壊れてはいなかった。

> ボクを“外の音”と呼んだ。

> ちょっと嫌で、ちょっと正しい。

> 水がほんの少し戻った。

> 西に、もう半分がある。


そこでペン先が止まる。


少し考えて、もう一行。


> ナシムは思ったより、ちゃんとボクを庇う。


書いてから、なんだかくすぐったくなって、慌てて頁を閉じた。


「何書いた」


隣に来たナシムが、すぐ覗きこもうとする。


「秘密」

「今、私の名前書いた顔してた」

「顔でわかるの?」

「少しは」

「やだなあ」

「やなんだ」

「恥ずかしいでしょ」

「何を書いたんだよ」

「いいこと」

「なおさら怪しい」


ボクはにっと笑って、日記帳をしまう。


ミルファが向こうで、干し肉と水袋、それから歌石の小さな欠片を布に包んでいた。準備が速い。たぶん、こういう“出ると決まったあとの動き”が体に染みついてる人なんだろう。


ザハルが荷蜥を連れてくる。


「一番足のいいのを出す」

「助かる」とナシム。

「助かるなら、無事に帰れよ」

「縁起でもないこと言うな」

「言わないと無茶するだろ、お前ら」


その言葉に、ナシムは否定しなかった。


ボクも、ちょっとだけ目をそらした。


無茶をしない、とは言えない。


だって、行く先に知らないものがある。


古い歌の、もう半分。


砂に埋もれた、西の肺。


それを思うだけで、胸の奥がきゅっと跳ねる。


嬉しいのか、不安なのか、その両方なのか、自分でもよくわからない。


ただひとつはっきりしているのは、たぶんこれが、この世界の大事なところへ触れる道だということだ。


そして、そういう道は、だいたい最後まで歩きたくなる。


長居しすぎない。


情を移しすぎない。


頭のどこかで、いつもの声がそう言う。


でも今はまだ、聞こえないふりをした。


ナシムが荷蜥の綱を放り投げてよこす。


「持てるか」

「持てるよ」

「小さいからって侮ってるわけじゃないからな」

「今ちょっと配慮した?」

「した」

「えらい」

「うるさい」


そのやり取りの向こうで、東の空が少しずつ明るくなっていく。


西の空では、銀の砂嵐が育っていく。


朝と嵐のあいだに、ボクたちは出る。


風庭の跡へ。


砂の下で眠る、歌の残りを探しに。


そして出発の支度が整うころ、井戸の底から、もう一度だけ低い返歌が響いた。


今度の音は怒っていなかった。


急かしてはいたけれど。


まるで、待っていることを諦めていない声だった。

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