2話「井戸の底で眠る歌」
夜の砂海は、昼より静かなはずなのに、音はむしろ増えていた。
砂の擦れる、しゃらしゃらという細い歌。荷蜥の爪が硬い地肌を弾く、乾いた拍子。遠くで鳴る呼水塔の、長く低い響き。
その全部が重なって、まるで世界そのものが眠らずに耳を澄ませているみたいだった。
「あれがクェルだ」
先頭を歩くナシムが顎で示す。
砂丘をひとつ越えた先、窪地の底に灯りが散っていた。橙色の小さな火がいくつも寄り添い、その中心で、一本の塔だけが青白く立っている。村は円形に近かった。外縁を囲むのは土壁ではなく、巨大な何かの残骸だ。湾曲した金属板、骨みたいに露出した梁、半分だけ砂に沈んだ丸い窓。
「ほんとに空船の頭っぽいね」
「だから言ったろ」とサフが少し得意げに言う。
ボクは荷蜥の背から身を乗り出した。
風の匂いが変わる。乾ききった砂だけじゃない。人の住む場所の匂いだ。火、煮た豆、汗、油、それから水。ほんのわずかだけど、水の匂いがする。
それだけで、村が本当に生きている場所なんだとわかった。
呼水塔の歌は、近づくほど強くなっていった。
耳で聞く音だけじゃない。胸骨の裏に薄く震えが触れる。精霊たちも落ち着かない。乾いた硝子の精霊が、塔のほうへ向かって細い列をつくっている。呼ばれているみたいに。
「ねえ、ナシム」
「なんだ」
「いつもこんなふうに鳴るの?」
「いや」
短い返事だった。
けれど、その一言だけで十分だった。
いつもじゃないのだ。
だから、村の灯りの集まり方も、門のところに立つ人影の多さも、みんな少しだけ緊張している顔も、きっとそのせいだ。
窪地へ下る坂の途中で、ザハルが荷蜥の綱を軽く引いた。
「顔をしかめるなよ、ナシム。帰れたんだ、まずは上出来だ」
「しかめてない」
「してる」
「してない」
「してるよ、姉ちゃん」とサフ。
「お前は黙ってろ」
そのやり取りに、少しだけ肩の力が抜ける。
村の入口には、錆びた金属板を組み合わせた門があった。片側だけが開いていて、その前に何人も立っている。みんな塔の光を背にしていたから、最初は影絵みたいに見えた。
「帰ったぞ!」
ザハルが声を張ると、影がざわめいた。
「ザハル!」
「ナシム!」
「遅いぞ!」
声が重なる。その中に、ひとつだけ、よく通る低い声が混じった。
「生きていれば文句は後で言える。まず荷を下ろせ」
前へ出てきたのは、背の低い老女だった。
背は低いのに、姿勢は妙にまっすぐで、杖もついていない。灰色がかった髪をきっちりと結い、額に細い青い石のついた帯を巻いている。頬は深く刻まれていたけれど、目だけは夜の塔みたいに鋭かった。
ナシムがわずかに頭を下げる。
「ミルファ」
「遅い」
それだけ言ってから、ミルファと呼ばれた老女は荷台へ目をやった。青灰色の筒を確認し、次に砂鯨もどきの死骸を見て、最後にボクで止まる。
「……拾いものまでしてきたのか」
「拾われてないよ」
反射で返したら、老女の眉が少しだけ上がった。
「口は回るらしい」
「足も回るよ」
「見たところ、そのようだね」
ナシムが横から小さく息を吐く。
「こいつ、アウリィっていう旅人だ。道中で二度助けられた」
「二度?」
ミルファが今度はナシムを見る。
ナシムは不本意そうな顔のまま頷いた。
「硝狼と、砂鯨もどき」
「なるほど」
それで納得するのもどうかと思うけれど、ミルファはそれ以上驚かなかった。代わりに、ボクを頭から足先までひと通り見たあと、言う。
「名は」
「アウリィ」
「それは呼び名だろう」
「……アウレーリエ・リュコーリアス」
フルネームを言うのは少し久しぶりだった。
口に出すと、自分のものなのに、どこか借りた音みたいに感じることがある。長く使いすぎたせいか、長く忘れかけていたせいか、自分でもよくわからない。
ミルファは一度だけ頷いた。
「では、アウレーリエ。今夜は客だ。だが、ただの客で済むかは、塔次第だ」
「塔次第?」
答えは、すぐに来た。
呼水塔の歌が、ひときわ大きくなったのだ。
村の真ん中で立つ青白い塔が、まるでボクたちの帰還に気づいたみたいに明滅する。村人たちが息を呑むのがわかった。誰かが小さく祈りの言葉をつぶやく。
サフがごくりと唾を飲んだ。
「……ほんとに今日、変だ」
「変じゃない日が先にあったのかい」とミルファ。
「あるよ!」
「そうかい」
ミルファの返しは淡々としていたけれど、目は塔から離れなかった。
「荷を運ぶ。ザハル、筒は塔の脇へ。ナシム、お前は蜥を見ろ。サフは騒ぐ前に手を動かす」
「おれ、もう騒いでる?」
「うるさい」
即答され、サフがしゅんとする。
ボクは少し笑ってから、荷蜥の背から飛び降りた。着地の砂がしゃり、と鳴る。その途端、近くにいた村の女の子と目が合った。サフより少し下くらい。大きな目で、ボクの耳を見て、それから髪飾りを見て、最後にまっすぐ聞いてくる。
「妖精?」
「違うよ」
「じゃあ、子ども?」
「それも違う」
「じゃあ何?」
「旅人」
「旅人って何?」
「知らない場所へ行く人」
「……それ、うちの父ちゃんも時々する」
「じゃあ、旅人仲間だね」
「父ちゃん、魚干してるだけだよ」
「立派な旅だ」
女の子は首をかしげたけれど、少しだけ笑った。
その頭を、後ろから母親らしい女が軽く引く。
「こら、邪魔するんじゃない」
「でも」
「でもじゃない。すみませんね、えっと……」
「アウリィでいいよ」
「じゃあ、アウリィさん」
“さん”だったので、ちょっと嬉しかった。
---
クェルの井は、思っていたよりずっと古い村だった。
建物の半分は石や土でできていて、残り半分は何かの残骸を使って継ぎ足したみたいだった。丸窓のついた家、扉だけ妙に分厚い家、壁の内側に細い管が走っている家。道は砂を踏み固めただけなのに、ところどころに金属の縁が埋まっていて、月明かりに鈍く光る。
村の中心には、呼水塔。
近くで見ると、それは塔というより、細く引き伸ばされた巨大な楽器に見えた。表面は青灰色の金属で、縦に何本もの細い裂け目が入っている。裂け目の奥で、光がゆっくり上へ流れていた。
根元には円形の台座があって、そこだけは砂ではなく、磨り減った黒い石のような素材になっている。
「触るなよ」とナシムが言った。
「触りたい」
「知ってる。でも今はやめろ」
「……はい」
返事をすると、ナシムが少しだけ意外そうな顔をした。
「今日は素直だな」
「初めて来た場所では、知ってる人の言うことは聞くって言ったでしょ」
「都合よく忘れてるかと思った」
「ボク、便利なことはよく覚えてるよ」
「それ以外は?」
「けっこう忘れる」
「威張るな」
荷を下ろしている間、村の人たちの視線が何度もこちらに向いた。
珍しいのだろう。旅人自体が少ないのかもしれないし、単にボクが場違いなのかもしれない。どちらでも、だいたい同じことだ。
ただ、その視線の中に、好奇心だけじゃないものも混じっていた。
塔が鳴いた夜に来たよそ者。
そういうのは、だいたい歓迎と警戒の両方を連れてくる。
ボクがぼんやり村を眺めていると、ザハルが荷台の青灰色の筒を抱えて塔の脇へ運ぶところだった。ミルファが待っている。
「アウレーリエ」と、彼女が振り返らずに言う。
「うん?」
「来な」
ナシムが「なんでだ」と顔をしかめたけれど、ミルファは意に介さない。
「来いと言った」
「行ってくる」
「勝手に返事するな」
言われつつも、ナシムもついてきた。サフまで来る。結局、全員だ。
塔の根元には、半円形の浅い窪みがあり、その中に細い溝がいくつも刻まれていた。近づくだけで、音が変わる。胸に触れていた振動が、今度は喉の奥にひっかかるようになった。
ミルファが筒を窪みの縁へ置く。
「これを取りに行かせた」
「歌石?」
とボクが聞くと、ミルファは首を横に振った。
「歌石ほど素直じゃない。ただの筒でもない。呼水塔に使う部材だと、昔の書付にはある」
「部材って、どこに?」
「そこまでは書いていない」
ボクは窪みの縁にしゃがみこんだ。溝の並び方が、どこかで見たような気がする。回路、という言葉を思い出しかけて、すぐに曖昧になった。そういうことがよくある。知っているはずなのに、知っていた場所だけが霧に包まれている感じ。
「触ってもいい?」
ミルファは少しだけ考えてから、頷いた。
「壊すな」
「壊さないよ」
「大抵、そう言うやつほど壊す」
「信用がない」
「まだない」
正直でよろしい、と思う。
ボクは台座に手を触れた。
ひやりとした感触。金属に似ているのに、生き物の骨みたいな湿り気がわずかにある。意識を細く伸ばすと、塔の内部を流れる何かが、ボクの指先にそっと触れ返してきた。
精霊じゃない。
けれど、精霊に似ている。
乾いたこの世界の精霊たちよりずっと整然としていて、歌石の中で眠る音の欠片みたいな、古い流れ。
ボクは思わず息を止めた。
光が走る。音が重なる。脳の奥で、知らない言葉のかたちだけが擦れる。
――欠けている。
――根が閉じている。
――第二節、未帰還。
「アウリィ?」
ナシムの声が、遠くから聞こえた。
ボクははっとして手を離す。
世界の輪郭が戻ってきた。塔の青い光。ミルファの皺の深い顔。サフの不安そうな目。
「どうした」
「……うん」
息を整える。
「この塔、片方ない」
言ってから、自分でもざっくりしすぎだと思った。
案の定、ナシムが眉を寄せる。
「片方ってなんだ」
「歌の」
「余計わからん」
「ええとね」
ボクは言葉を探した。こういうのは感覚で掴めても、口にするのが難しい。
「一人で歌ってるんじゃなくて、本当は誰かと合わせる歌だった、みたいな感じ」
「誰か?」
「もの、かな。たぶん」
ミルファが細く息を吐いた。
「私もそう思っていた」
「わかるの?」
「長く聞いていれば、わからないなりに癖は見える」
彼女は台座の溝を指でなぞる。
「塔はずっと眠っていた。完全に、ではないがね。井戸が痩せるたびに少しだけ起こして、水を絞らせる。だが今夜の歌は違う。何かを探している音だ」
サフが筒を見た。
「じゃあ、これ?」
「かもしれないし、違うかもしれない」とミルファ。
「どっちだよ」
「わかっているなら最初から苦労しない」
サフは口をへの字にした。
ボクはもう一度塔を見上げた。歌は続いている。低く、長く、どこか寂しげで、でも焦れているようでもあった。
待っている歌だ。
何かが帰ってくるのを。
「今夜はもう触らん」
ミルファが言った。
「まず人間を休ませる。塔の相手は明日だ」
「待てよ、ミルファ」とナシムが言う。「歌ってるのに放っておくのか」
「お前は疲れてる。私も疲れてる。ザハルも肩を傷めてる。サフは役に立たない」
「ひどい!」
「事実だ」
ボクは少しだけ笑った。
ミルファがこっちを見る。
「お前は?」
「ボク?」
「疲れてない顔をしてる」
「楽しくて元気」
「そうかい。ならなおさら寝な」
予想外の返しに、ボクは目を瞬いた。
「珍しいな。知らないものが目の前にあるのに、待てって言う人」
「急いて噛まれるよりましだよ」
その口調が妙に落ち着いていて、ボクは素直に頷いてしまった。
---
その夜、ボクはザハルの家に泊めてもらうことになった。
家といっても、半分は帆布で仕切っただけの広い一室で、壁の一枚が丸く湾曲している。元は何か別のものだったのだろう。床には敷物が重ねられ、真ん中で豆と干し肉の煮込みがぐつぐつ言っていた。
「粗末で悪いな」とザハル。
「知らない味なら、だいたいごちそうだよ」
「変わった褒め方だ」
木の匙で煮込みをすくう。塩気が強くて、少しだけ苦い葉の香りがする。おいしい。ボクが目を丸くすると、ザハルが笑った。
「気に入ったか」
「うん。これ何の豆?」
「砂豆」
「そのまんまだ」
「そういうもんだ」
サフは鍋を抱えて食べていた。まだ昼の戦いの名残で、興奮が抜けきっていないらしい。
「姉ちゃん、絶対あとで怒られるよ」
「なにを」
「アウリィを村に入れたこと」
「助けてもらったんだから当たり前だろ」
「いや、そうじゃなくて」
「じゃあ何だ」
「塔が鳴いた日に知らないやつが来たから」
「だから何だ」
「だから、何かあるかもって」
ザハルが煮込みをかき回しながら言う。
「何かはあるだろうさ。塔が鳴いてる時点で」
その言い方に、変に重みがあった。
ボクは匙を止める。
「前にもあったの?」
「ある」
答えたのはナシムだった。いつの間にか戸口のところに立っている。外套を脱いで、砂を払っていた。
「でも、こんなふうじゃなかった」
「こんなふうって?」
「村じゅうが起きて、みんな息をひそめてる感じ」
彼女は中へ入ってきて、壁にもたれる。
「前に塔が大きく鳴いたときは、井戸が半分埋まった。もっと前は、砂蜥の群れが集まった。だから、縁起がいい音だとは誰も思ってない」
「ふうん」
それで、あの村人たちの目か。
歓迎と警戒が半分ずつ。原因がボクじゃなくても、偶然重なれば結びつけたくなるのはわかる。
「ボク、出ていったほうがいい?」
「今?」
「もし邪魔なら」
「……そういう意味じゃない」
ナシムは少しだけ言いよどんだ。
その間を埋めるみたいに、ザハルが笑う。
「いま出ていかれても、こっちが寝覚め悪いよ」
「それもそうか」
「それに」とサフが顔を上げる。「おれ、明日もアウリィが塔さわるとこ見たい」
「見世物じゃないよ」
「でもちょっと見世物っぽい」
「サフ」
ナシムの声に、サフは慌てて黙った。
ボクは別に気にしなかった。好奇心の目は嫌いじゃない。勝手に線を引いて、決めつける目のほうが苦手だ。
「アウリィ」
不意にナシムが言う。
「お前、なんでそんなに平気なんだ」
「何が?」
「知らないところに来て、知らない塔に触って、妙な音がしてるのに」
ボクは匙の先についた豆を見た。
なんでだろう。
怖くないわけじゃない。痛いのも、死にそうになるのも、好きじゃない。そういう感覚はちゃんとある。
でも、それより先に来るものがある。
「知りたいから、かな」
答えると、ナシムはあからさまに呆れた顔をした。
「それで済むのか」
「済まないこともあるけど」
「じゃあ駄目だろ」
「でも、知らないまま通り過ぎるの、もったいないじゃない」
「……もったいない、か」
ナシムはその言葉を飲みこむみたいに繰り返した。
ザハルが横で肩を揺らす。
「お前、そういうとこ、少しは似てるぞ」
「誰が」
「お前が」
「やめてくれ」
サフがにやにやしながら言う。
「姉ちゃん、昔っから気になったら首突っこむもんな」
「お前は一回黙れ」
軽い言い合いが続く。
それを聞きながら、ボクはふと、こういう時間を少しだけ好きになりかけている自分に気づいた。
知らない家の、知らない鍋の匂い。旅の途中で拾った会話。名前を知った人たちの、まだ浅い関係。
こういうのは、気をつけないとすぐに根を張る。
長居しすぎない。
それはもう、何度も自分に言い聞かせてきたことだ。
世界はいつかボクを送り出すし、ボクもいつか離れる。そのとき、置いていくものが大きすぎると、少し困る。
少しだけ。
……たぶん、少しじゃないときもあったのだろうけれど。
そこまで考えて、ボクは思考を止めた。
古い痛みは、掘り返すと形がわからなくなる。
代わりにポーチから日記帳を出す。
サフがすぐ反応した。
「あ、また書く」
「うん」
「何書くの?」
「秘密」
「さっき見せてくれたじゃん」
「ちょっとだけね」
「ずるい」
「旅人だから」
「万能の言葉だな、それ」
ナシムが呆れたように言う。
ボクはにっと笑って、頁に短く書きつけた。
> クェルの井に着いた。
> 塔は青く、音は待っているみたい。
> ミルファは鋭い。たぶん、嫌いじゃない。
> 煮込みは塩が強くておいしい。
書き終えて頁を閉じると、ナシムがじっと見ていた。
「……ほんとに、何でも書くんだな」
「書けるうちにね」
「忘れるからって言ってたな」
「うん」
「そんなに忘れるのか」
「古いのは、けっこう」
ナシムは少しだけ視線を落とした。
「それ、嫌じゃないのか」
「嫌だよ」
「嫌なのに、平気そうに言う」
「平気そうに言わないと、面倒な顔されることもあるし」
「今はしてない」
「うん。知ってる」
ボクがそう言うと、ナシムは黙った。
その沈黙は嫌なものじゃなかった。
---
眠る前、外へ出ると、村の灯りはだいぶ少なくなっていた。
それでも完全には消えていない。塔の歌が続いているせいだ。誰もが眠りきれずにいるのが、暗がりの気配でわかる。
空は高く、銀の輪のそばに星が増えていた。
井戸は塔の少し向こうにあった。
石と古い金属で縁取られた、大きな円形の口。覗きこんでも、水面の反射はない。底は暗く、風だけが上がってくる。
「落ちるなよ」
後ろから声がした。
振り向くと、ナシムだった。腕を組み、眠そうでもあり、起きすぎている顔でもある。
「見張り?」
「半分」
「もう半分は?」
「お前が勝手なことしないように」
ボクは少し口を尖らせた。
「信用ないなあ」
「あるわけないだろ。会って一日だぞ」
「一日で二回助けたよ」
「その恩とこれとは別だ」
正しい。
正しいのが、ちょっと悔しい。
ボクは井戸の縁から離れて、かわりに塔のほうを見た。
「ナシムは寝ないの?」
「眠れない」
「塔のせい?」
「それもある」
彼女は少し間を置いてから、低く言った。
「村が渇くと、わかりやすく色んなものが荒れる。人も、家畜も、道も」
「……うん」
「塔が起きるなら、それで水が戻るかもしれない。でも、戻らないかもしれない。むしろ余計なものを起こすかもしれない」
ナシムは塔を見ず、井戸を見ていた。
「そういう時に、期待するのは怖い」
その言葉は、静かだった。
静かなのに、妙にまっすぐ胸に入ってくる。
ボクは少しだけ考えてから、言う。
「期待しないのは、もっと怖くない?」
ナシムがこっちを向いた。
「お前、時々そういうこと簡単に言うな」
「難しかった?」
「簡単すぎるって言ってる」
「でも、ボクはそう思うよ」
たぶん、ずっと昔から。
期待したぶん痛いこともある。なくしたくないものが増えるのも、あとで少し厄介だ。
けれど、最初から何も待たなかったら、旅はだいぶ味気ない。
ナシムは何かを返しかけて、やめた。
その代わり、ふっと鼻で笑う。
「変なやつ」
「知ってる」
「自覚あるのな」
「便利だからね」
またそれか、と言いたげな顔をされた。
そのとき、塔の歌が変わった。
長く引いていた音に、別の高さが混じる。まるで誰かが二声目を重ねそこねたみたいな、不安定な響き。
ナシムの表情が消えた。
「……ミルファを呼ぶ」
「もう来てるよ」
ボクが言うのと同時に、塔の向こうからランプの光が揺れた。
ミルファがひとり、こちらへ歩いてくる。片手に青い石をはめこんだ小さな灯りを下げ、もう片方には昼の筒を持っていた。
「耳は悪くないようだね」
「そっちも」とボク。
「年寄り扱いは早い」
「してないよ」
「ならいい」
ミルファは塔の根元まで来ると、ランプを置いた。
「寝ろと言ったのに」とナシム。
「年寄りは気が短いんだよ」
「元気だな」
「お前よりは」
ナシムが口をつぐむ。勝てない相手らしい。
ミルファは筒を窪みの中央へ置いた。
「さっきから歌が変わり続けてる。待たせると機嫌を損ねそうだ」
「塔に機嫌があるの?」
「あるものとして扱ったほうが長持ちする」
なんだかすごくわかる気がした。
ボクは一歩近づく。
「手伝う?」
「そのために呼んだ」
「呼ばれた覚えはないけど」
「今、呼んだ」
確かに。
ミルファは溝の端を指す。
「さっき、お前は“片方ない”と言ったね」
「うん」
「なら、これが片方のはずだ。合うか見ろ」
ナシムが眉をひそめる。
「今やるのか」
「今鳴いてる」
「それはそうだが」
「怖いかい」
「怖くない」
「なら黙って見てな」
ぴしゃりと言われて、ナシムは黙った。
ボクは思わず笑いそうになるのをこらえ、筒を持ち上げた。見た目より軽い。表面には細い筋が入っていて、指でなぞるとざらりとした。
窪みの中央には、確かに筒を収めるための溝がある。
そっと置く。形は合う。でも、ぴたりとは嵌まらない。ほんの少しだけ足りない感じがする。
「半分」
「やっぱりか」とミルファ。
次の瞬間、塔の歌が高く跳ねた。
青い光が台座の溝を走る。一本、二本、三本。まるで眠っていた道が順番に起きていくみたいに、溝の奥が発光していった。
サフがいないのが惜しいな、と一瞬だけ思う。たぶん目を丸くして喜ぶ。
ボクは再び台座に手を触れた。
今度はさっきより深く、声が来る。
――接続、不完全。
――節、一。
――節、二、欠損。
――根線、閉塞。
――井戸、下層、応答あり。
「井戸の下だ」
気づけば、口からこぼれていた。
「何?」
とナシム。
「下に、何かある。応答してる」
ミルファの目が細くなる。
「どこまでわかる」
「ええと……水じゃない。でも、水に関係ある。たぶん、塔の続き」
ボクの言葉は、いつだって感覚から先に出る。後から整えるのが面倒だ。
ナシムが井戸を見る。
「続きって、地下に?」
「そう聞こえる」
ミルファはしばらく黙った。
塔の歌が、さらにひとつ高さを増す。今度は村じゅうに届いたらしく、遠くで戸を開ける音がした。誰かの足音が近づいてくる前に、ミルファは決めたように言う。
「行くよ」
「どこへ」
「下へ」
ナシムが顔をしかめる。
「井戸に?」
「他にどこがある」
「夜中だぞ」
「昼なら安全だと思うのかい」
「……思わない」
「なら同じだ」
たしかに。
ボクは井戸の縁へ駆け寄った。風が上がってくる。冷たい。昼の砂海とは思えないくらい冷たい空気だ。
「待て、ひとりで乗り出すな!」ナシムの声が飛ぶ。
「落ちないよ」
「そういう話じゃない!」
言われつつも、彼女もすぐ隣へ来る。
ミルファが井戸の縁に埋まった古い金具をいくつか押しこんだ。かち、かち、と小さな音が連なる。何も起こらないかと思った次の瞬間、井戸の内壁のどこかで低い唸りが響いた。
石ではない。古い機械の、重い喉鳴りみたいな音。
ザハルの家のほうから、村人のざわめきが近づく。
井戸の内側の一部が、ゆっくり横へずれた。
暗闇の中に、細い螺旋階段が現れる。
サフだったら、たぶん叫んでいる。
ボクは笑いそうになった。楽しくて。
けれど、それと同時に、背筋を何かが撫でる。
階段の下、ずっと下から、風とは違うものが上がってきていた。
音だ。
塔の歌に似ている。でも、もっと低い。濁っていて、長い眠りの底から無理やり喉を開いたみたいな、不格好な歌。
それが、井戸の底から返ってきていた。
ナシムがごく小さく言う。
「……返した」
ミルファはランプを持ち直す。
「起きたか、まだ夢の中か。どちらでもいい。確かめる」
彼女が一歩、階段へ足をかける。
ナシムが即座に前へ出た。
「先に行く」
「勝手に決めるな」
「年寄りを先頭にするほど落ちぶれてない」
「お前ひとりで行かせるほど信用もしてない」
そこで、二人が同時にボクを見た。
「え?」
「ついて来る気だろう」
「うん」
「顔に出てる」
「そんなに?」
「ひどく」
ちょっとだけ不本意だった。
でも否定はできない。だって、こんなの、ついて行かない理由がない。
ミルファが鼻を鳴らす。
「アウレーリエ」
「うん」
「死ぬな」
「なるべく」
「なるべくじゃ困る」
「じゃあ、がんばる」
「もっとましな返事はないのかい」
ナシムが頭を抱えた。
「なんでこいつを連れていく流れになってるんだ」
「聞こえるのがこいつだけだからだ」とミルファ。
「私も少しは聞こえる」
「少しだろう」
「……そうだけど」
ボクは井戸の暗闇をのぞきこんだ。
下から来る歌は、さっきよりはっきりしている。
呼んでいる、というより、確かめている感じだった。
そこにいるのは、誰だ。
まだ、壊れていないのか。
歌を、覚えているか。
そんなふうに。
不意に、胸の奥がちくりと痛んだ。
覚えているか。
その問いだけ、妙に深く刺さる。
何を、誰を、どこまで。
答えられないことを問われた気がした。
「アウリィ?」
ナシムの声で、我に返る。
「……うん。大丈夫」
ほんの少しだけ、息を吸い直す。
大丈夫だ。
少なくとも、今は。
ボクはマントの留め具に触れ、それから髪飾りを指先で確かめた。いつもの癖だ。手に馴染む小さな重みがあると、足元の世界がきちんと戻ってくる。
「行こう」
そう言うと、ナシムがじっとこちらを見た。
何か言いたそうだったけれど、結局、短く息を吐くだけだった。
「……勝手に走るなよ」
「善処する」
「それ、しないやつの言い方だ」
「よくわかったね」
「わかる」と、彼女は本当に嫌そうな顔で言った。
そのやり取りに、ミルファが口元だけで笑う。
上では、村人たちのざわめきが大きくなっていく。
下では、井戸の底の歌が待っている。
青白い塔の光が、開いた階段の縁を冷たく照らしていた。
ボクは胸の奥で跳ねる好奇心を、半分だけ落ち着かせようとして、結局うまくいかなかった。
知らないものが、下にある。
それだけで十分だった。
ミルファの灯りが暗闇へ滑りこみ、ナシムが続き、ボクもそのあとへ足をかける。
井戸の底から吹く風は、砂海の夜より冷たかった。
そして、三段ほど下りたところで、歌はもう“音”ではなく、はっきりした“声”の形になった。
聞いたことのない古い響きで。
それでも、なぜか意味だけがわかってしまう。
――遅い。
ボクは思わず立ち止まった。
ナシムが振り返る。
「どうした」
「……今、誰か怒った」
「は?」
「下にいる何かが」
ミルファの灯りがゆらりと揺れた。
井戸の底で、もうひとつ、青い光が点いた。




