1話「歌う砂の旅人」
光がほどけたあと、最初に来たのは音だった。
しゃら、しゃら、と。
足元一面の砂が、薄い硝子片どうしを撫で合わせるみたいに鳴いている。風がひと筋吹くたび、音の高さが変わる。低く、細く、遠くで笑うみたいに。
ボクは目を開けた。
「……うわぁ」
思わず、声が漏れた。
世界を渡るたび、最初にすることはだいたい同じだ。息を吸う。肺が痛まないか確かめる。地面を踏む。足元がボクを拒まないか確かめる。精霊に呼びかける。返事の気配があるか確かめる。
胸いっぱいに空気を吸いこんでみる。
熱い。乾いている。硝子を陽に当てたときの、あの、少し焦げたみたいな匂いがする。でも息はできる。喉も焼けない。足元の砂は靴の裏で気持ちよく鳴って、ボクの体重をちゃんと受け止めた。
「うん。大丈夫。少なくとも、今は」
誰に言うでもなく、そうつぶやく。
見渡せば、地平線まで続く砂丘は、ただの砂じゃなかった。白金色にきらめく粒の混じった、半透明の砂。陽が斜めに差すたび、海みたいに光が流れる。砂海、という言葉がぴったりだった。
空は青く高く、そのもっと上、ずっと遠いところに銀の輪があった。雲ではない。傷跡みたいに、細く、ぐるりと空を囲んでいる。
「おもしろいなぁ……」
楽しくなって、笑ってしまう。
新しい世界だ。知らない匂い、知らない空、知らない音。何度経験しても、この瞬間だけは飽きない。たぶんこれからも、飽きない。
ボクは横に倒れていたトランクを起こした。赤褐色の革張りに真鍮の金具。見た目よりずっと重いはずなのに、手にかかる重さはいつも軽い。中がどうなっているのか、説明するのは面倒だから、聞かれてもだいたいごまかすことにしている。
髪に触れる。赤い彼岸花の髪飾りは、ちゃんとそこにあった。
それだけ確かめて、ほんの少しだけ安心する。
誰にも言わないけれど、世界を渡ったあと、最初にこれがあるか確認する癖がある。なくしたことはない。けれど、なくす夢はたまに見る。
夢の中で、何か大切な声も一緒に失くしている気がするのに、その声の主の顔は、もう輪郭が曖昧だ。
「……ま、いっか」
よくないのかもしれない。でも、立ち止まっても戻らない記憶は、追いかけるだけ疲れる。
ボクはポーチから小さな日記帳を出した。革表紙は使い込まれて角が丸くなっている。
頁を開いて、短く書く。
> 砂が歌う。
> 熱い。乾いている。
> 精霊はいる。けど、ちょっと硬い。
> いい世界の予感。
書いてから、自分で笑った。
「予感って」
まだ何も知らないのに。
けれど、知らないからこそ、そう書きたくなった。
日記をしまい、指先を砂に向ける。意識を広げると、この世界の精霊たちがざり、と動いた。水辺の世界の精霊は柔らかいし、森の世界の精霊はくすぐったい。ここのは、乾いていて、尖っていて、触れ合うたび小さな音を立てる。まるで細い硝子管を束ねたみたいだ。
「ねえ、ちょっとだけ手伝って」
呼びかけると、風の筋が一本、マントの裾を持ち上げた。
相性は悪くない。ただ、気難しそう。無理に掴むと折れそうで、いつもより丁寧に触れなきゃいけない。
索敵の術を薄く広げる。
砂の下。風の流れ。熱源。生き物の気配。
しばらくして、ボクは顔を上げた。
「あれ?」
遠くに動くものがあった。
砂丘と砂丘の谷間を、小さな列が進んでいる。荷台。大きな蜥蜴みたいな獣。三人、いや四人。……その横を、別の影が回りこむように動いていた。
影は低く、速い。数は二つ。
獣でも、人でもない。少なくとも、あの caravan――たぶん隊商だ――にとって、あまり歓迎したい相手じゃない。
ボクは少し考えた。
助ける義理はない。けれど、この世界の人と話すきっかけにはなる。なにより、初日から面白そうなものを見つけてしまった。
「うん、決まり」
トランクの取っ手を握り直し、砂丘を駆け下りた。
---
近づくほど、音がはっきりしてきた。
獣の荒い息。荷車の軋み。誰かの怒鳴り声。
「ナシム、右だ!」
「見えてる!」
砂の谷底では、一台の荷台車が斜めに傾いていた。車輪の片方が、溶けて固まったみたいな硝子質の地面にはまりこんでいる。荷を引く二頭の大蜥蜴――背に布の帆みたいな皮膜を持った荷蜥が、低く鳴いて暴れていた。
それを囲むように、二匹の獣がいる。
狼に似ていた。けれど毛並みはなく、薄青い硝子の殻みたいなものが身体のあちこちを覆っている。陽を受けるたび、内部で鈍い光が流れた。口を開けると、歯までも半透明だ。
一匹が跳んだ。
褐色の肌をした若い女が、短い曲刀で受ける。火花みたいな音が散る。けれど押し込まれている。
ボクは荷台の横へ滑りこんだ。
「やぁ!」
元気よく声をかけたせいで、全員がこっちを見た。今じゃなかったかもしれない。
「は!?」
「子ども!?」
むっとした。
いきなりそこか。
でも今はそれより先だ。
ボクは右手をひらく。空いた掌に、細い光の線が集まる。線は伸び、重なり、銀白の穂先を結ぶ。
ミスリルの槍が、風を切る音もなく現れた。
一拍だけ、空気が止まる。
「話はあと!」
ボクは前へ出た。
左から回りこんできた硝狼が、低く唸って飛びかかる。速い。でも、速いだけだ。踏みこみの癖が素直すぎる。
半歩外す。喉元を槍の柄でいなして、すれ違いざまに後脚の関節を打つ。
甲高い音。
獣は着地に失敗して転がった。
もう一匹が荷台へ向かう。荷台の陰には、布をかぶった小柄な子がいるのが見えた。
「そっちはだめ」
槍の石突きを砂に打ちこむ。ざり、と足元の精霊が応えた。砂が一瞬だけ盛り上がり、獣の前脚を鈍らせる。
そこへ、さっきの女の曲刀が走った。
「っ、しゃあ!」
獣の鼻面を裂く。硝子の殻が欠け、透明な破片が飛ぶ。
ボクは間合いを詰め、穂先で首筋の継ぎ目を正確に突いた。
硬い感触。次の瞬間、内部を走っていた光がふっと消える。
獣はその場に崩れ落ちた。
残った一匹は、一瞬だけ迷ってから、仲間の死骸を見て後ずさった。賢い。逃がしてもいい。そう思ったところで、荷台の向こうの年配の男が短弓を放つ。
矢が肩に刺さり、獣は悲鳴をあげて砂丘の向こうへ消えた。
静けさが戻る。
いや、完全な静けさじゃない。荷蜥の荒い鼻息と、熱風と、砂の歌。
その中で、女がボクを見た。
日に焼けた頬。風にさらされた黒髪を布でまとめ、琥珀色の目だけが鋭い。年はボクより……見た目だけならずっと上だろう。実際もそう見える。
「……何者だ、お前」
「旅人だよ」
槍をくるりと回して肩に担ぐ。にこっと笑ってみせる。
「助けは間に合った?」
女は露骨に眉をひそめた。
「質問に質問で返すな」
「じゃあ、うん、間に合った?」
「……間に合った」
律儀に答えてしまってから、女はますます嫌そうな顔をした。
荷台の陰から、砂色のターバンを巻いた少年が顔を出す。目が丸い。
「すげえ……」
「サフ、出るな」
「もう出てるよ、ナシム姉」
ふむ。ナシムというらしい。
年配の男もこちらへ来た。片方の目が白く濁っているけれど、もう片方は妙に優しそうだった。長い外套の裾が砂で擦り切れている。
「助かったよ、お嬢さん」
「アウリィ」
反射的に言い返していた。
男が瞬く。
「うん?」
「お嬢さんじゃなくて、アウリィ。名前があるから」
「はは、それは失礼。俺はザハルだ」
気のいい笑い方だった。
けれどナシムは腕を組んだまま、じろじろとボクを見ている。トランク、槍、髪飾り、マント、顔。
最後に、はっきりと言った。
「迷子か?」
「迷子じゃないよ」
「知らない場所でひとりでうろついてる時点で、だいぶ迷子だろ」
「それは、旅だよ」
「同じだ」
「違う」
ボクはちょっとだけ口を尖らせた。
「迷子っていうのは、帰る場所を先に決めてる人の言葉でしょ」
ナシムが黙る。
ザハルが、ほんの少しだけ目を細めた。
サフはぽかんとしてから、「難しいこと言うなあ」と笑った。
「とにかく」とナシムが咳払いした。「助けてもらった借りはある。でも、ここにひとりでいるなら、どのみち死ぬ。近くの風除けまで一緒に来い」
「命令?」
「忠告だ」
「じゃあ、聞く」
素直に答えると、ナシムは拍子抜けした顔をした。
「……もっと揉めると思った」
「知らない世界では、知ってる人の言うことは聞く主義なんだ」
それは本当だ。全部じゃないけれど。
ザハルが荷台の車輪を見て、低く唸る。
「抜けるかねえ」
「やるよ」
ボクは槍を消した。光がほどけるみたいに消えていくのを見て、サフがまた「うわ」と声をあげる。
荷車の沈んだ車輪に手を添え、精霊へ呼びかける。砂の粒がきしきしと寄り集まり、固まった硝子の縁を少しだけ削った。そこへナシムとザハルが肩を入れる。
「せーの!」
「おおっ、ら!」
車輪が外れ、荷台が傾きを戻す。
ナシムが息を吐き、ボクを見る目を少しだけ変えた。
「……便利だな、お前」
「ありがとう」
褒められたと思って、素直に受け取る。
「褒めてない」
「じゃあ今から褒めて」
「面倒くさいやつだな」
その言い方に棘はあったけれど、最初ほど強くなかった。
---
風除けと呼ばれた場所は、古い建造物の残骸だった。
砂丘から突き出た半球状のもの。金属とも石ともつかない灰色の外壁の一部だけが砂の上に出ている。入口らしい裂け目をくぐると、中はひんやりしていた。
「うわ、いいなここ」
ボクが言うと、サフが得意げに胸を張る。
「だろ。昔の空船の頭だって、村じゃ言ってる」
「空船?」
「ほんとかどうか知らんがな」とザハルが肩をすくめる。「昔のもんは、だいたい空を飛んでたことにされる」
ナシムが荷蜥の口に水袋を押しあてながら、こっちを見た。
「で。旅人」
「うん」
「どこから来た」
「遠く」
即答したら、呆れられた。
「それで通ると思うなよ」
「じゃあ、すごく遠く」
「細かさが消えただけだろ」
「細かく言っても、たぶん通じないよ」
これはごまかしで、でも嘘じゃない。
ザハルはそこで追及をやめた。代わりに、小さな革袋を投げてよこす。受け取ると、中にはぬるい水が入っていた。
「飲みな」
「ありがとう」
一口飲んで、思わず目を瞬いた。ほんの少し、金属みたいな味がする。砂の世界の水の味だ。
サフがボクのトランクをつつく。
「これ、何が入ってるの?」
「いろいろ」
「食べ物?」
「あるよ」
「宝石?」
「ある」
「武器?」
「それも」
「じゃあ、なんでも箱じゃん!」
きらきらした目で言われて、ちょっと楽しくなる。
「夢も入ってる」
「絶対うそだ」
「半分ほんと」
「どっちなんだよ」
ナシムがため息をつきつつ、干し肉を噛みちぎる。噛み方が野性的で、でも綺麗だ。強い人の食べ方だった。
「アウリィ、だったか」
「うん」
「その槍、どこにしまった」
「内緒」
「……胡散臭い」
「旅人なんて、だいたい胡散臭いものだよ」
「自覚あるのか」
ボクは笑った。
空船の残骸の天井には、細い亀裂がいくつも走っていて、そこから光の筋が落ちてくる。舞う砂がその中できらきら光る。
気分がよくて、日記を出しかけたところで、ナシムに見つかった。
「また書くのか」
「うん」
「今?」
「今」
ザハルが口元をほころばせる。
「記録癖か」
「忘れちゃうからね」
ぽろりと出た言葉に、自分で少しだけひっかかった。
忘れちゃうから。
大事なことも、くだらないことも、古い順に曖昧になる。どんなに長く生きても、頭の中の棚は無限じゃない。だから書く。見たもの、聞いたもの、そのとき何を思ったか。
書いておけば、あとから読んだときに、少なくとも“なくなった”とは言わずに済む。
ナシムは何か言いかけて、やめた。
代わりに、別の問いを投げてくる。
「何歳だ、お前」
「急だね」
「見た目よりは場慣れしてる。どっちなんだ」
「どっちって?」
「子どもなのか、大人なのか」
むっ。
そこを突かれると、少し面倒だ。
「ボクはボクだよ」
「答えになってない」
「じゃあそっちは? ナシムは大人?」
「は?」
「大人って、いつから?」
「……知らん」
「でしょ」
サフが吹き出す。ザハルも肩を揺らした。
ナシムだけが真顔のままこめかみを押さえた。
「なんでこっちが言い負かされたみたいになるんだ」
「言い負かしたからかな」
「小さいくせに」
「小さいって言った」
「事実だろ」
「事実でも、言い方ってものがあるんだよ」
つい、少しだけむっとした声になる。
ナシムはそれに気づいたのか、口を閉じた。気まずそうに視線をそらす。
その間を埋めるように、ザハルが荷の包みを叩いた。
「まあまあ。アウリィが助けてくれたのは事実だ。恩人に背丈の話ばかりするもんじゃない」
「……悪かった」
「うん」
素直に謝られると、怒り続ける気も失せる。
「別に、慣れてるし」
「それはそれで不憫だな」とザハル。
「不憫じゃないよ。地味にむっとするだけ」
サフがけらけら笑った。
「地味に、なんだ」
「そう。派手にじゃなくて、地味に」
自分で言って、ちょっとおかしくなる。
空気がやわらいだところで、ザハルが地図のような金属板を広げた。表面に細い線が刻まれている。ところどころ、青い点が灯っていた。
「日が傾いたら出る。今夜のうちにクェルの井まで戻りたい」
「そんなに急ぐの?」とボク。
「井戸が痩せてるんだ」とサフが答えた。「呼水塔もずっと寝たままだし」
「呼水塔?」
「水を集める塔だよ。夜露とか、空の水とか、いろいろ」
「いろいろって便利な言葉だね」
「姉ちゃんもそう言う」
ナシムが鼻を鳴らす。
「要するに、村の水がまずい。だから、こいつを拾ってきた」
彼女が示したのは、荷台の真ん中に固定された筒だった。腕ほどの太さで、青灰色の金属に覆われている。表面には、文字なのか回路なのかわからない細い筋。よく見ると、その内側でごく淡い光が脈打っていた。
ボクは目を輝かせる。
「なにそれ」
「遺物だ」
「ざっくりしてる!」
「詳しくはわからん」
「でも持って帰れば塔が起きるかもしれないって、塔守が言ってたんだ」とサフが補足する。
「塔守?」
「村の、機械とか歌石とかをみる人」
「歌石」
知らない単語がぽんぽん出てくる。たのしい。
ボクは知らず、前のめりになっていたらしい。ナシムに半眼で見られた。
「お前、ほんとに変なとこで嬉しそうになるな」
「だって知らないものだよ?」
「そうだけど」
「知らないものがあるって、いいことじゃない」
「……まあ、そういうもんなのかもな」
ナシムは完全には納得していない顔で、でも否定もしなかった。
---
夕方、外へ出ると、世界の色が変わっていた。
昼の白い熱が落ち着き、砂海は蜂蜜色の光を帯びている。遠くの地平線は紫に沈み、空の銀の輪だけが冷たく光っていた。
荷蜥に荷を結び直し、隊列を組む。ボクは最初、自分で歩くつもりだったけれど、サフが余っていた荷蜥の背を叩いた。
「乗りなよ」
「いいの?」
「歩くより楽だぞ。落ちるなよ、ちびっ――」
「サフ」
「……アウリィ」
ナシムに睨まれて、サフが慌てて言い直す。
ボクは満足して、荷蜥の背にまたがった。皮膜のついた背中は思ったよりあたたかい。
「ありがと」
「別に。姉ちゃん、怒ると長いから」
隊列が動き出す。
砂の上を進むたび、しゃらしゃらと低い歌が続く。風が少し強くなってきた。ボクは精霊へ触れ、周囲を薄く探りながら進む。
けれど、さっきより反応がばらついていた。
乾いた精霊たちが、落ち着かない。風の層の向こうで、何か大きなものが動いている気配がある。遠い。まだ遠い。でも、近づいてくる。
「ねえ、ナシム」
「なんだ」
「この辺り、砂嵐はよく来る?」
「来る。なんだ、見えるのか」
「見えるっていうか、聞こえるっていうか……うまく言えないけど、空気がきしんでる」
「鏡鳴り前かもしれん」とザハルが振り返った。「急ぐぞ」
鏡鳴り。
言葉の響きがいい、と思ってしまうあたり、ボクはきっと呑気だ。
ナシムが速度を上げる。荷蜥たちが低く鳴き、帆のような背膜をたたんで前へ進んだ。
しばらくして、サフが不安そうに口を開く。
「アウリィ、ほんとに旅人なんだよな」
「うん」
「ひとりで?」
「だいたい」
「寂しくないの?」
「……どうだろ」
即答できなかった。
寂しいときもあったはずだ。きっと、何度も。けれど、それがどの世界で、誰と別れたあとだったのか、細部はもう曖昧になっている。
だから、答えは少しだけ笑ってごまかした。
「忙しいから、あんまり考えないかな」
「変なの」
「よく言われる」
「誰に?」
「いろんな人に」
それも本当だ。
ナシムが前を向いたまま、ぽつりと言う。
「それで平気なのか」
「なにが?」
「その、長く同じところにいないで」
ボクはマントの端を握った。
風が吹く。熱が少しだけ下がる。
「平気じゃないときもあるよ」
気づけば、そう答えていた。
「でも、平気じゃないからって、立ち止まる理由にはならないこともある」
自分で言ってから、その言葉がどこか借りものみたいに聞こえた。
ずっと昔、誰かに言われたのかもしれない。あるいは、自分で書いた日記の一文か。
思い出そうとして、思い出せない。
髪飾りに触れそうになって、やめた。
そのときだった。
足元の砂が、ずるりと沈んだ。
「止まれ!」
ボクが叫ぶのと、ナシムが荷蜥を引くのがほとんど同時だった。
次の瞬間、隊列の真ん中の砂丘が割れた。
巨大な影が飛び出す。
魚だった。いや、魚の形に似た何か。全身を琥珀色の硝子板で覆い、砂を泳ぐためのひれが幾重にも裂けている。口は縦に開き、内側で青白い光が明滅した。
「砂鯨もどき!?」サフが半泣きの声を上げる。
「もどきってなんだろうね!」とボク。
「今そこ!?」
叫びながら、ボクは荷蜥の背から飛び降りた。
巨体が荷台へぶつかる。車体が跳ね、固定していた青灰色の筒がきしんだ。
まずい。
あれが壊れたら、せっかく拾ってきたものが駄目になるかもしれない。
「ザハル、荷を! サフは蜥を押さえろ!」ナシムが叫ぶ。
「アウリィ! 下がれ!」
「やだ!」
即答して、ボクは槍を呼んだ。
光が手に戻る。
巨体の正面に立つのは危ない。横へ回る。砂の流れを読む。こいつは目で獲物を追うんじゃない。振動だ。砂の揺れに反応している。
「ナシム! 右から音を立てて!」
「は!?」
「いいから!」
「ちっ――サフ、鍋!」
「ええ!?」
サフが荷から金属鍋を引っつかみ、半泣きで叩く。がんがんがん、と場違いな音が砂海に響いた。
怪魚の頭がそちらを向く。
今。
ボクは穂先を低く構え、一気に踏みこむ。狙うのは硝子板の継ぎ目――ひれの付け根、その奥の柔らかいところ。
突きこんだ瞬間、腕に重い反動が返った。硬い。けれど貫ける。
怪魚が身をよじる。砂の波が立ち、ボクの身体が横へ投げられそうになる。
「アウリィ!」
「平気!」
平気じゃない。重い。
でも、嫌いじゃない重さだ。生き物の手応えは、世界ごとに違う。
ボクは柄を滑らせ、槍を支点にして身体を跳ね上げる。怪魚の背に着地。足元の硝子板は熱く、つるつるしていて危ない。
精霊へ短く命じる。風を一点に。
きし、と空気が鳴った。
砂が巻き上がり、怪魚の顔に叩きつけられる。目にあたる部分がわずかに閉じた。
そこへナシムが駆けこみ、曲刀を全力で振り下ろした。
「こっち見ろ、このでかぶつ!」
刃が、ボクの開けた継ぎ目に食いこむ。
怪魚が悲鳴をあげた。今度は本当に魚に近い、高く濁った声。
ボクは槍を深く差し入れ、そのままひねる。
内部を走っていた青白い光が、ぶつん、と途切れた。
巨体が崩れる。
砂がどっと噴き上がり、しばらく何も見えなくなった。
ごほごほと咳をしながら立ち上がると、サフが鍋を抱えたまま震えていた。ザハルは荷をかばって膝をつき、ナシムは曲刀を怪魚の体から引き抜いて息を整えている。
やがて、ナシムが顔を上げた。
「……お前、ほんとに何者だ」
「旅人だってば」
「旅人は普通、あれに乗らない」
「そうかな。乗ったほうが早いこともあるよ」
「早いの種類が違うんだよ!」
サフがへたりこんだまま笑い出した。怖すぎると笑うしかなくなるやつだ。
ザハルも、砂だらけの顔で苦笑する。
「こりゃ、ただの恩人じゃ済まんぞ」
「二度も助けてもらったからな」とナシム。
「じゃあ、晩ごはん少し豪華にして」
「図々しいな」
「冗談だよ」
「半分本気だろ」
「当たり」
今度、ナシムはため息と一緒に少しだけ笑った。
そのとき、サフが空を指さした。
「見て!」
全員がそちらを見る。
遠い、遠い地平線の向こう。紫に沈む砂海の彼方で、一本の細い光が立ち上がっていた。
塔だ。
夜に向かう世界の中で、まっすぐ空へ伸びる青白い光。脈打つように明滅し、やがて低く、こちらにまで届くような音を鳴らす。
歌っているようだった。
ザハルの顔色が変わる。
「……呼水塔だ」
「クェルの井の?」サフが目を見開く。
「そんな、まだ村には着いてないのに」とナシム。
ボクは見入ってしまった。
光の塔。歌う音。乾いた精霊たちが、その方向へざわざわと身を寄せていく。
知らない現象だ。知らない仕組みだ。知らない理由だ。
胸の奥で、子どもみたいな好奇心が飛び跳ねる。
「ねえ」
気づけば、言っていた。
「ボクもその村、行っていい?」
ナシムとザハルが同時にこちらを見る。
「断る理由はないが」とザハル。
「面倒ごとに首を突っこみたいだけだろ」とナシム。
「うん」
「即答するな」
でも、ナシムの声に本気の拒絶はなかった。
ザハルが光る塔を見ながら言う。
「歓迎するよ、アウリィ。あんたが来た日に塔が鳴くとは、妙な縁だ」
「縁かあ」
その言葉を、ボクは口の中で転がした。
縁は、いつも旅の途中に落ちている。拾うかどうかは自分次第。拾ったあと、いつまで持っていられるかは、もっと別の話だ。
長居はしない。
そう決めている。
情が移りすぎる前に、次へ行く。
そうしないと、あとが少し痛いから。
けれど――一晩か二晩、いや、もう少しだけなら。
歌う塔の理由を知るくらいなら、きっと許される。
「よし」
ボクは頷いた。
「じゃあ、よろしくね」
「こちらこそ」とザハル。
「……勝手に死ぬなよ」とナシム。
「ナシムもね」
「私はお前より死なない」
「どうかなあ」
「なんだその余裕は」
サフが鍋を抱えたまま言う。
「おれ、ちょっとわかってきた。アウリィって、変なんじゃなくて、ずっとこうなんだ」
「褒めてる?」
「うーん、半分」
「ナシムと同じこと言う」
「姉ちゃんの悪い癖がうつった」
「サフ」
「ごめん」
隊列がまた動き出す。
今度はさっきまでより、少しだけボクの居場所が自然にできていた。荷蜥の間、荷台の横、風の通り道。ほんの少しの隙間だ。でも、旅の途中ではそれで十分だ。
砂海の夜は早い。
気温がするすると落ちていく。ボクのマントが熱を逃がしすぎないよう包みこんでくれる。ありがたい。昔、これを仕立てた人は裁縫の腕も性格もよかった。名前は――
「……あれ」
思い出せない。
喉の奥にひっかかるみたいな、変な感覚だけが残る。
古い記憶は、こういうふうにふいに欠ける。
欠けたところを見つめても、たいてい戻ってこない。
だからボクは、空を見上げた。
銀の輪の下、最初の星がひとつ、硝子粒みたいに瞬いていた。
クェルの井へ向かう途中、ボクは荷蜥の背で日記帳をひらく。揺れる字で、でもちゃんと読めるように。
> この世界の砂は歌う。
> 人も、塔も、たぶん歌う。
> ナシムは口が悪いけど、たぶんいい人。
> ザハルは笑い方がずるい。
> サフは鍋が似合う。
> たぶん、しばらく退屈しない。
少し考えて、最後に一行足した。
> まだ、この世界はボクを受け入れている。
頁を閉じる。
遠くで、呼水塔がもう一度鳴いた。
その音は、どこか懐かしいものに似ていた気もしたけれど、何に似ているのかは、結局わからなかった。
だから、わからないままでいい。
わからないことがあるから、旅は続く。
ボクは夜の砂海に向かって、ひそかに笑った。
この先にあるものを、まだひとつも知らないことが、たまらなく嬉しかった。




