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5話「旅人は灯りを見送り、次の空へ」

「その核を戻してくれれば、起動は完成する。ありがとう、旅人さん」


ヴァンの声は、最後まで柔らかかった。


その柔らかさが、いっそ腹立たしい。


赤い灯りが下層の円形空間に点々と灯り、壊れたはずの環や配管の影を不気味に浮かび上がらせる。中央の巨大な炉心は青白く脈打ち、そこへ繋がるべき空席の前で、抜き出された核の光がふるふると揺れていた。


怖がっている。


アウリィにはそれがわかった。


戻りたい。

でも戻りたくない。

帰る場所が檻だったらどうすればいいのか、決めかねているみたいな揺れ方だ。


ヴァンの背後には黒炉会の連中が三人。さっき坑道で相対した顔もある。煤色のコート、武器、甘い防錆油の匂い。手にした装置の赤い炉石だけが妙に生々しい。


ニクスが前へ出る。


「一歩でも近づいてみろ」


「怖いなあ」


ヴァンは言うが、本当に怖がってはいない。相手の怒りも焦りも、交渉の道具くらいにしか思っていない顔だ。


セルマは剣を抜き、低く言う。


「黒炉会。ここで退け。次は捕縛で済まさん」


「保安隊長らしい台詞だ」


「感想はいらん」


ガンツが唸る。


「ヴァン、お前ら、昨夜のあれもわざと揺らしたのか」


「揺らした、というより呼び起こした、かな。眠っていた機関に刺激を与えたら、予想以上に元気だった」


「元気で済ますな」


アウリィが思わず言うと、ヴァンの目がこちらに向く。


「ああ、君はそこに反応するんだね」


「するよ。迷惑だったし」


「迷惑、か。世界が変わるときには少しの犠牲が要る」


「その“少し”に選ばれる側は、たいてい納得しないんじゃないかな」


ヴァンは肩をすくめた。


「納得は結果のあとについてくるものさ」


その返しを聞いた瞬間、アウリィはこの男があんまり好きではない、と改めて思った。


理屈の形をしているくせに、痛いほうの気持ちを最初から数に入れていない。

そういう人は、どこの世界にもいる。

いて、そのたびに同じ顔をする。


飽きるほど見たはずなのに、慣れはしない。


ニクスが短銃を構えたまま吐き捨てる。


「お前の結果なんか知るか。ここで終わりだ」


「そう簡単じゃないよ」


ヴァンが赤い装置を少し持ち上げる。すると中央の炉心が強く脈打った。円形空間全体が低く鳴る。海の底で鐘を鳴らしたみたいな重い響き。


ルネが耳を押さえた。


「やだ、この音……!」


アウリィの髪が、微かな風もないのにふわりと揺れる。精霊たちがざわついている。怖がる気配と、怒る気配が混ざっている。


ヴァンは満足げに言った。


「核は一つじゃ足りない。だから補助炉を作った。けれど、やはり“本物”が戻れば安定する。港を動かすには十分な力になるよ」


「港を壊す、の間違いじゃない?」


「最初はね」


「正直だなあ」


「君もだろう?」


「ボクは嫌なときに嫌って言うだけだよ」


「それは美徳かもしれない」


「キミが言うと、あんまりうれしくないな」


ヴァンが笑う。

その瞬間、アウリィは気づいた。彼は勝ち筋が見えている顔をしている。自分たちを侮っているというより、すでに機構の半分を掌握しているのだ。


真正面から奪い合うのはよくない。


アウリィは視線を動かす。

中央炉心。空席。周囲の環。赤い補助装置。ヴァンたちの立ち位置。セルマ、ガンツ、ニクス、ルネ。足場。水位。


この世界の精霊たちは遠い。

でも、いまはさっきより近い。

ここが彼らの苦しみの中心に近いせいかもしれない。


「……ねえ」


アウリィは小さく呼ぶ。


「キミたち、どこまで動ける?」


誰に言ったのか、ぱっと見ではわからないだろう。

だが、足元の薄い海水が微かに震えた。天井近くの湿った風が、ゆるく渦を巻く。壊れた環の陰で揺れる灯りが、ふっと色を変えた。


返事は十分ではない。

でも、ある。


ニクスが横目だけ寄越す。


「何かする気か」


「少し」


「その少しが信用できない」


「今回はちゃんと相談するよ」


「ほんとか」


「たぶん」


「今その返しをやめろ」


セルマが前を見たまま言う。


「手短に話せ」


その声に、アウリィは少しだけ口元を上げる。こういう人がいるとやりやすい。


「核は戻したい。でも、ヴァンの装置で起動させるのはだめ。たぶん無理やり命令を上書きしてる」


「だろうな」


ガンツが低く言う。


「じゃあ装置を壊せば」


ルネが言いかけて、ニクスが首を振る。


「雑に壊したら炉心ごと暴れる」


「じゃあどうするの」


「切り離す」


アウリィは中央を見た。


「赤い装置と炉心の繋がりだけ、外したい」


「言うのは簡単だ」


ガンツ。


「できそう?」


「たぶん」


「だからそのたぶんは」


ニクスが言い終えるより早く、ヴァンが楽しそうに口を開いた。


「作戦会議かな? 余裕だね」


「余裕じゃないよ」


アウリィは答える。


「でも、キミに合わせて焦るのも癪だから」


「可愛い反抗だ」


「またそれ」


「気に入ったんだ」


「ボクは気に入らない」


「そういうところも」


「会話に混ざってくるな、ヴァン!」


ガンツが怒鳴る。空気が少しだけ揺るむ。その隙に、アウリィはニクスへ小声で言った。


「キミ、速いでしょ」


「急に雑な信頼を向けるな」


「速いよね?」


「……まあ」


「ヴァンの持ってる装置、引き離せる?」


「条件次第」


「ボクが赤い線を切る。その一瞬だけでいい」


「無茶を前提にするな」


「得意そう」


「そう見えるのが不本意だ」


セルマも小声で入る。


「私とガンツで前を押さえる。ルネ、お前は下がれ」


「えー」


「えー、じゃない」


ルネは渋い顔をしたが、うなずいた。その目は中央の青白い核から離れない。鈴の音を聞く子だ。彼女なりに何か感じているのだろう。


ヴァンが、ふっとため息をつく。


「残念だよ。もっと素直に協力してくれれば、君たちにも席はあったのに」


「いらない」


ニクスが即答した。


アウリィも続ける。


「ボク、席を決められるのあんまり好きじゃないんだ」


言いながら、胸の奥で小さな苦味が動く。


席。

居場所。

そういう言葉に、ときどき妙に引っかかる自分がいる。


どこかに落ち着きたかったのか、ずっと旅を続けたかったのか、今では自分でもよくわからない。ただ、一つの場所に深く根を下ろさないようにしてきたことだけは確かだった。情が移ると、別れが重くなるから。


なのに、いま、この町の下で、灯りを助けたいと思っている。

ニクスたちに生きていてほしいと思っている。


困るなあ、とアウリィは思う。

本当に。


「じゃあ、始めようか」


ヴァンが装置を起動する。


赤い線が空間に走る。

中央炉心が強く唸る。

同時に、セルマが動いた。


「今だ!」


銃声。剣戟。ガンツが鉄棒で黒炉会の一人を殴り飛ばす。ニクスが低く滑るように走り、ヴァンの側面へ回る。


アウリィは逆方向から中央へ踏み込んだ。


ミスリルの槍を水平に構える。

赤い線はただの光じゃない。命令の流れだ。雑に切れば反動がくる。なら、流れの継ぎ目を探す。


見える。

赤の中に、わずかに濁った箇所。無理やり繋いだ傷口みたいな部分。


「そこ」


穂先を走らせる。

鋭く、でも浅く。断ち切るというより、剥がすみたいに。


きぃん、と澄んだ音。


赤い線が歪む。


「ニクス!」


「見えてる!」


彼が跳んだ。ヴァンの腕を払い上げ、赤い装置へ手をかける。ヴァンも抵抗する。二人の体勢が崩れ、水飛沫が上がる。


その瞬間、炉心が激しく脈打った。


どん。


空間が揺れる。

壊れた環が軋み、天井から錆と水滴が降る。


「まずい、暴れる!」


ガンツが叫ぶ。


青白い核の光が乱れ、空席の前で震える。戻りたいのに、戻る道が揺れている。


アウリィは奥歯を噛む。


ここで迷うな。


「来て!」


両手を伸ばすような気持ちで、精霊へ呼びかける。

水。風。残響。ここに染みついた古い灯り。


応えてくれたのは、ほんのわずかな流れだった。

でも、それで十分。


青白い光を包むように、水の薄膜が持ち上がる。

ふわりと、核が空席へ向かう。


ヴァンが目を見開いた。


「やめろ!」


「やだ!」


アウリィは即答した。


「それ、キミに渡したくない」


言葉と同時に、核が空席へ触れる。


ぱち、と小さな火花みたいな音。


次の瞬間、世界が白く染まった。


---


音が消える。


いや、消えたように感じただけかもしれない。


アウリィは、白い場所に立っていた。


上下の感覚が曖昧だ。海の底みたいに静かで、雲の中みたいに柔らかい。遠くに青白い環が浮かび、その中心で、小さな灯りがこちらを見ている。


さっきの核だ。


今は、少しだけ形が見える。

人のようにも見えるし、花の蕾にも見える。曖昧な輪郭のまま、でもはっきりと“意思”がある。


「こんにちは」


アウリィは言った。


こういうとき、まず何を言うべきかは本当にわからない。だから、いつも通りにする。


灯りが揺れる。


声はない。けれど意味だけが落ちてきた。


――だれ。


「アウリィ。旅人だよ」


――たびびと。


「うん。たまたま通りかかった」


――うそ。


思わず笑ってしまう。


「そうかも」


たまたま、だけでここまで深く潜る旅人は、まあ少ないだろう。


灯りはしばらく揺れていた。

警戒しているというより、不思議そうだ。


――ずっと、くらかった。

――ずっと、しばられてた。

――まだ、こわい。


「うん」


アウリィは頷く。


「でも戻った。キミが自分で選んだ」


――もどった。

――でも、おなじなら、いや。


その感情はよくわかった。


戻ることが、必ずしも救いじゃない。

帰る場所がそのまま檻なら、戻るのはただの繰り返しだ。


「同じにはさせない」


そう言うと、灯りが少し大きく揺れた。


その反応の意味を読む前に、白い空間の端がきしむ。現実の音が混ざってくる。戻される。


「あ、待って」


アウリィは慌てて言う。


「キミ、この機械を止められる?」


沈黙。

それから、灯りはたしかに答えた。


――とめるだけなら、できる。

――でも、しずむ。

――まちも、いたむ。


「直すのは?」


――ひとつじゃ、たりない。

――みんな、ちりぢり。

――でも、つなげば、やさしく、なおせる。


断片的な答えだった。

けれど十分だ。


止めるだけならできる。

でも町が痛む。

やさしく繋げれば、直せる。


アウリィはその言葉を胸に刻む。

戻る前に、最後にひとつだけ聞いた。


「キミ、名前は?」


灯りは少しだけ困ったように揺れた。


――わすれた。


その返答が、あまりにも自然で。


アウリィは、一瞬だけ息を止めた。


忘れた。


古い記憶は摩耗して、顔も声も名前も、ぽろぽろ落ちていく。

その感覚を、彼女はよく知っていた。


胸の奥で、痛みとも懐かしさともつかないものがそっと触れる。


「そっか」


笑う。

うまく笑えていたかはわからない。


「じゃあ、思い出すまで、好きに名乗ればいいよ」


灯りが、ふわりと明るくなった。


そして白が砕けた。


---


現実へ戻る。


轟音が一斉に押し寄せた。


水の流れ。金属の鳴動。誰かの叫び。赤い装置のひび割れる音。


アウリィは膝をついていた。槍が床を支えている。息が荒い。頭が少し痛い。でも立てる。


中央炉心は、さっきまでとは違う光り方をしていた。

赤ではなく、青白い波紋が穏やかに広がっている。壊れた環の回転も、乱暴なものではなく、ゆっくりと噛み合い直すような動きだ。


「成功……か?」


ガンツが呆然と呟く。


ヴァンは赤い装置を手にしたまま固まっていた。その装置はもう半ば溶け、炉石にひびが走っている。


「何をした」


低い声。

さすがに笑っていなかった。


アウリィは立ち上がりながら答える。


「キミの言う“起動”じゃなくて、ちゃんと起きてもらっただけ」


「意味がわからない」


「わかんないままのほうがいいこともあるよ」


ヴァンの顔が、初めてはっきり歪む。


その隙を、ニクスは逃さなかった。

装置を蹴り飛ばし、ヴァンの腕をねじり上げる。セルマが一息で間合いを詰め、剣の切っ先を喉元へ突きつけた。


「終わりだ、ヴァン」


黒炉会の残り二人もガンツに叩き伏せられ、床に転がる。勝負はついた。


ヴァンは苦い顔で、しかし完全には崩れずに言った。


「……町は古いままだ。結局、誰かが動かさなきゃ沈む」


セルマの返事は短かった。


「だからといって、お前に壊させる理由にはならん」


「正論だな」


ヴァンは笑おうとして、うまく笑えなかった。


そのとき、ルネが中央炉心を見上げて息を呑んだ。


「見て」


全員の視線が向く。


青白い炉心から、細い光が空間のあちこちへ伸びていた。壊れて沈黙していた核の跡や、断たれた配管や、倒れた環に、ひとつずつやわらかく触れていく。まるで、長く離れていた指先を探してつなぎ直しているみたいに。


ガンツが囁く。


「……調律してる」


セルマも言葉を失っていた。


アウリィは、その光の中に、さっき白い空間で会った灯りの気配を感じる。


怖がっていた。

それでも戻った。

同じにはしたくないと言った。


だから、自分で変えようとしている。


「えらいなあ」


つい、そんな感想が口からこぼれた。


ニクスが横で言う。


「お前、たまにそういう親みたいなこと言うな」


「えっ」


「褒め方が」


「そうかな」


「そうだ」


少し気恥ずかしくなって、アウリィは頬をかく。

でも否定しきれなかった。長く生きていると、時々こういう気持ちになる。誰かがちゃんと一歩を選んだとき、うれしくて仕方なくなるのだ。


炉心の脈動が落ち着くにつれ、空間の軋みも弱まっていく。

崩落の気配が薄れる。

海水の流れも穏やかになる。


「戻るぞ」


セルマが言った。


「今のうちに上へ出る。こいつらも連れてな」


「重労働だなあ」


ガンツがぼやく。


「文句を言う元気があるなら運べ」


「へいへい」


ルネはまだ炉心を見ていた。青白い光が彼女の頬を照らして、海硝子みたいな目をいっそう淡く見せる。


「もう、泣いてない」


小さな声だった。


アウリィは隣に立つ。


「うん」


「名前、思い出せるかな」


「どうだろう。でも、急がなくてもいいよ」


ルネがアウリィを見上げる。


「わたし、あの子の声、これからも聞けるかな」


その問いに、アウリィは少しだけ迷った。


安易に言い切るのは好きじゃない。

けれど、ただ濁すのも違う。


「聞こうとするなら、たぶん」


「たぶん」


ルネが真似するように言って笑った。


「アウリィのたぶん、ちょっと好き」


「えへへ」


横からニクスが冷たく言う。


「好きになるな。危ないぞ」


「キミ、ほんとそういうこと言うね」


「事実だ」


「でも今は、ちょっとだけ褒めてくれてもいいんじゃない?」


ニクスは一瞬黙る。


それから、視線を逸らしたまま言った。


「……助かった」


短い。

でも、ちゃんと聞こえた。


アウリィは目を丸くして、それから嬉しくなって笑う。


「うん!」


「素直すぎる反応するな」


「だって嬉しいし」


「……そうかよ」


耳が少し赤い。

見ないふりをしておいてあげることにした。


---


地上へ戻るころには、潮が満ち始めていた。


南の干潟は朝よりも青く、風は強く、崩れた排水坑の入口の周りに白い波が当たっている。捕らえた黒炉会の連中は保安隊に引き渡され、ヴァンもセルマの厳しい監視のもとで連行された。


去り際、ヴァンは一度だけアウリィを振り返った。


「君みたいなのは、いつか自分が拾ったものに足を取られるよ」


その言葉に、アウリィは少しだけ首を傾げる。


「もう何回か取られてるかも」


ヴァンが、今度こそ本当に言葉を失った顔をしたので、少しだけ可笑しかった。


セルマが横から低く言う。


「お前、そういう返しをわざとやってるだろ」


「半分くらい?」


「性質が悪い」


「褒められた?」


「違う」


ガンツが大声で笑った。


その笑い声が風に散る。

港町の昼が、少しずついつもの音へ戻っていく。


---


それから二日ほど、端港は忙しかった。


北の係留区の修理。南の排水坑の封鎖。黒炉会の残党探し。町じゅうがあわただしく、けれど前より少しだけ顔を上げていた。


海の下の機関は、完全に元通りとはいかなかったが、少なくとも暴れなくなった。時折、夜の静かな時間になると、港の水面下で青白い灯りがゆっくり脈打つのが見えるようになったという。怖がる者もいる。けれど以前ほどの恐怖ではないらしい。


「見守ってる感じがする」とルネは言った。

「仕事してる感じだ」とガンツは言った。

「監視対象だ」とセルマは言った。

ニクスは少し考えてから、「……まあ、前よりはましだ」とだけ言った。


その答えが一番彼らしいな、とアウリィは思う。


青錆亭の二階、自分の部屋でトランクを開けながら、アウリィは荷物をまとめていた。


まとめる、と言っても、内部が散らかりすぎていて実際には「どこに何を突っ込んだか確認する」作業に近い。日用品。交換用の服。使いかけのインク。古い紙片。思い出せない国の硬貨。途中まで読んで閉じた本。


「んー……」


しゃがみ込んだまま、小箱をひとつ取り出す。

中には小さな貝殻が二枚入っていた。いつ拾ったものか、ぱっとは思い出せない。海のある世界は多い。どの海だったかはわからない。


「まあ、きれいだからいいか」


そう呟いて戻す。


こういうことが増えた。

記憶はあるのに、出どころが曖昧になる。

何かを失ったと自覚するほど鮮明ではなく、でも確かに抜け落ちている。


ふと、髪飾りに触れる。

赤い彼岸花。

母にもらったもの。

そういう事実だけは残っているのに、顔が出てこない。


「……困るなあ」


でも、今さら泣くほどではない。

むしろ、思い出せないままでも持っていようと思う。それが、自分の中にまだ残っている“やめたくないもの”だから。


窓の外では、港の汽笛が鳴っていた。


その音に混じって、鈴のような小さな響きが、ほんの一度だけ耳の奥で鳴る。


アウリィは顔を上げる。


世界の気配が、少し変わっていた。


わかる。

長い旅の中で、何度も感じてきた。

世界が「そろそろだ」と告げてくる感覚。


歓迎が薄れていくわけではない。

むしろ逆だ。受け入れるべき時間を受け入れて、その役目が終わりに近づくときの、静かな揺らぎ。


この世界にいられる時間は、そう長くない。


胸の内で、少しだけ寂しさが揺れる。


まだ数日だ。長居したわけでもない。

それなのに、もう少しだけ見ていたいと思ってしまう。

困るなあ、とまた思う。


情が移りすぎないように。

長くいすぎないように。

そう決めてきたのに。


「……まあ、だから旅なんだけど」


自分で言って、少しだけ笑った。


---


出立の朝、見送りは来なくていいと伝えたはずだった。


それなのに港の端には、ちゃんと人がいた。


ガンツが腕を組み、

セルマが無表情で立ち、

ルネがぶんぶん手を振り、

ニクスが少し離れた場所で不機嫌そうな顔をしている。


「来てるじゃん」


アウリィが言うと、ガンツが鼻を鳴らした。


「たまたま通りかかっただけだ」


「その台詞、ボクのほうが似合うよ」


「うるせえ」


セルマは短く告げる。


「礼を言う。今回の件、お前がいなければ被害はもっと大きかった」


「どういたしまして」


「だが次に来るときは、もう少し最初から報告と連携を覚えろ」


「難しい注文だなあ」


「努力しろ」


「努力する」


「その返事は聞いた」


「便利だから」


セルマの口元がほんの少しだけ動く。

笑ったのかもしれない。


ルネは駆け寄ってきて、両手を差し出した。

小さな布包みだ。


「これ、おみやげ」


「え、くれるの?」


「うん。南の干潟で拾った硝子石。青いの。灯りの色にちょっと似てるから」


布を開くと、海に磨かれた青い硝子片が入っていた。角が丸く、朝の光を受けてやさしく光る。


アウリィは目を細める。


「きれい……ありがとう」


「日記に挟んでもいいし、髪飾りの箱に入れてもいいし、投げちゃだめだよ」


「投げないよ」


「アウリィ、なんか勢いでやりそうだから」


「ひどい」


でも、否定しきれない。

ちょっとだけルネに似てきたのかもしれない。いや、それは違うか。最初から似たもの同士だったのだろう。


ニクスはなかなか近づいてこなかった。

なので、アウリィのほうから行く。


「おはよう、ニクス」


「おはよう」


「顔が暗いね」


「朝だからだ」


「嘘だなあ」


彼は少しだけ眉を寄せた。


近くで見ると、いつもより眠そうでもある。昨夜遅くまで何かしていたのかもしれない。見送りに来るくらいには。


アウリィは首を傾げる。


「もしかして、寂しい?」


「絶対に違う」


即答。

速い。


「じゃあ心配?」


「……それは、少しはある」


正直だった。

アウリィはその返事が好きだと思う。


「大丈夫だよ」


「その台詞も信用ならない」


「でも本当。ボク、旅は慣れてるから」


ニクスはしばらく黙って、それからポケットから小さなものを取り出した。


金属の小片だった。

丸くて薄い、歯車の欠片のような護符。

中央に小さな穴が空き、紐が通してある。


「これ」


「くれるの?」


「お守りみたいなもんだ。港の古い部品から作った」


「へえ」


アウリィは受け取る。ひんやりして、でも手に馴染む重さだった。


「なくすなよ」


「善処する」


「そこは絶対って言え」


「絶対なくさない、はちょっと自信ない」


「お前な……」


呆れられたので、アウリィは笑う。


それから、少しだけ真面目な顔で言った。


「でも大事にするよ」


ニクスの表情が、ほんの少しだけ緩んだ。

ほんの少しだけ。


「……ならいい」


そう言って視線を逸らす。

照れに弱い人だ。からかうと可哀想なので、今日はやめておく。


港の水面下で、青白い光が一度だけ瞬いた。


アウリィはそちらを見て、小さく手を振る。


名前を思い出したかはわからない。

でも、もう泣いてはいないだろう。


「またね」


その言葉は、誰に向けたものだったのか自分でも曖昧だった。

町か、人か、海の下の灯りか。

全部かもしれない。


世界の境目は、いつだって唐突だ。


別れの最中に来ることもあるし、眠っているあいだに来ることもある。

今回は、朝の光の中だった。


足元の空気がふっと薄くなる。

耳の奥で、小さな鈴が鳴る。


ガンツが顔を上げる。


「……おい」


セルマの目が細くなる。

ルネが「あ」と声を漏らす。

ニクスが、一歩前に出た。


ああ、もうか。


アウリィは一瞬だけ目を閉じる。


名残惜しい。

それは本当だ。


けれど、ここで踏みとどまることはできない。

この世界が受け入れてくれた時間は、きっとこれで十分だったのだろう。


「ボク、行くね」


ルネが駆け出しかけ、セルマが肩を押さえる。

ガンツが何か言おうとして、飲み込む。

ニクスだけが、まっすぐこちらを見ていた。


「アウリィ」


「うん?」


「次の世界でも、あんまり無茶するな」


無茶、か。

今さら難しい注文だ。


アウリィは笑う。


「努力するよ」


「だからその返しは……」


最後まで言い切る前に、光が満ちた。


赤いマントが翻り、黄金の髪が朝日に溶ける。

足元から景色がほどけていく。


消える直前、アウリィは見た。


錆海の港。

煙突と海。

ルネの振る手。

ガンツのしかめ面。

セルマの強い目。

そしてニクスの、言葉にしない顔。


胸の奥が少しだけ痛む。


でも、その痛みごと抱えて次へ行くのが旅だ。


---


気づけば、足元は柔らかい砂だった。


潮の匂いではない。

もっと乾いた、熱を含んだ風。

遠くで何か巨大な羽音がする。

空は高く、雲が薄い。


「……おお」


アウリィは目を輝かせる。


「今度はそういう感じなんだ」


さっきまでの寂しさが消えたわけじゃない。

でも、その上から新しい好奇心が顔を出してくる。


本当に、自分はどうしようもない。


苦笑しながら、彼女はベルトポーチから日記帳を取り出した。

新しい頁を開く前に、ひとつ前の記録へ指を滑らせる。


『錆海編、最終日。

 海の下の灯りは、もう泣いていなかった。

 この町は厄介で、面白くて、思ったよりやさしかった。』


少し考えてから、もう一行。


『ボクはたぶん、また誰かに情を移してしまった。困る。』


書いて、自分で少し笑う。


最後に、ルネからもらった青い硝子片を頁のあいだに挟み、

ニクスにもらった金属の護符を指先で弾く。


乾いた風の中で、小さな音が鳴った。


アウリィは日記を閉じ、顔を上げる。


知らない世界。

知らない空。

まだ名もない景色。


胸が弾む。


「さて」


真紅のマントを翻し、旅人は歩き出す。


次の世界がどんな顔をしているのか、彼女にはまだわからない。

でも、それでいい。


わからないから、会いに行ける。


錆海の記憶を少しだけ胸に残したまま、

アウレーリエ・リュコーリアスはまた、新しい世界へ進んでいく。

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