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3話「呼ぶ灯り、潜る約束」

裏口の前だけ、夜の温度が違っている気がした。


食堂の暖かさ、湯気、皿の匂い、女将の気配。そういう「人のいる場所」の空気の向こうで、扉一枚隔てた先に、海から這い上がってきたみたいな湿った冷たさがある。


こんこん、と、もう一度。


規則正しい三回。


ニクスが低い声で言う。


「返事するな」


女将は棒を握ったまま、アウリィのほうをちらりと見た。開けるな、と目が言っている。もっともだ。今夜の港で何かが起きた直後に、意味ありげな声で“空から来たひと”を呼ぶ相手なんて、どう考えても怪しい。


それでもアウリィは、胸の内で好奇心がふわりと持ち上がるのを感じていた。


怪しい。


怪しい、は、とても魅力的な言葉だ。


もちろん危険もある。だから飛びつくわけにはいかない。ただ、扉の向こうの声には、妙な引っかかりがあった。脅しでも、誘惑でもない。もっと無邪気な、見つけたものを誰かに見せたくてたまらない子どもの声に似ている。


その“似ている”が一番危ない、ということも知っている。


アウリィが一歩動くと、ニクスが即座に前へ出た。


「行くな」


「まだ行ってないよ」


「行こうとした」


「気持ちはちょっと」


「十分だ」


「厳しいなあ」


「当たり前だろ」


彼の声は苛立っているのに、足の向きは扉とアウリィのあいだを塞ぐようになっていた。かばう位置だ。本人に自覚があるのかは知らない。


扉の向こうから、少女の声がまたした。


「ねえ、聞こえてる? わたし、悪いひとじゃないよ」


ニクスがぼそりと呟く。


「悪い奴ほどそう言う」


「同感」


アウリィも小さく返す。


すると扉の向こうで、くすっと笑う気配がした。


「そっちのこわいお兄さん、疑い深いね」


「誰がお兄さんだ」


ニクスが真顔で返す。そこか、と思って、アウリィは少しだけ口元を押さえた。


女将が扉越しに怒鳴る。


「名乗りな!」


「ルネ」


少女はあっさり答えた。


「ルネ・ハーラ。南の干潟小屋に住んでる。お魚をとるのが仕事。あと、変なものを見つけるのが得意」


「後者はいらない自己紹介だね」


アウリィがつい言うと、扉の向こうがぱっと明るくなったみたいに声を弾ませた。


「あ、いた!」


「いたよ」


「会って話したい」


「それはわかるけど」


「じゃあ開けて」


「早いなあ」


会話が成立してしまう。こういう相手は少し困る。勢いに乗ると、そのままどこかへ連れていかれそうになるからだ。もっとも、その“どこか”へ行ってみたくなるのがアウリィの悪い癖でもある。


ニクスが眉間を押さえる。


「相性が悪い」


「え、ボクたち?」


「お前とこういうのだ」


「ひどい」


「ひどくない。これ以上面倒を増やすな」


女将が棒の先で床を叩いた。


「静かにしな。開けるにしても、あたしが決めるよ」


食堂が少し静まる。残っていた客たちは、もう半分以上が帰っていた。今ここにいるのは、町の騒ぎに巻き込まれたか、帰るタイミングを逃した者たちだけだ。みんな聞き耳を立てている。


アウリィは少し考える。


扉を開けるのは危険だ。でも、放って帰らせるのも惜しい。何より、“海の下の灯りがまた呼んでいる”という言い方が引っかかる。今夜、海中で見た青白い環。中に閉じ込められていた何か。見られた、という感覚。


もし本当に“呼んでいる”なら、あの灯りはまだ沈んだままでは終わっていない。


「ニクス」


「なんだ」


「扉を少しだけ開けて、キミが先に見るのは?」


「俺に危険役をやれって?」


「得意そう」


「得意じゃない」


「でもやってくれそう」


「それが気に入らない」


ぶつぶつ言いながらも、ニクスは裏口へ近づいた。女将が合図して鍵を外す。棒は構えたまま。扉は鎖をかけた状態で、指二本ぶんほどだけ開かれた。


隙間から覗く夜気の向こうに、少女が立っていた。


アウリィも背伸びして覗く。


たぶん、十二、三歳。いやもう少し下かもしれない。髪は煤けた銀色で、肩のあたりで雑に切られている。目は海硝子みたいな淡い緑。頬にそばかす。麻の上着の裾が濡れていて、裸足に近い薄い靴を履いていた。痩せているけれど、風に慣れた子の立ち方だ。


そしてなにより、彼女は少しも怯えていなかった。


こんな夜に、こんな宿の裏口へ一人で来て、鎖越しに大人たちに睨まれて、それでも平気な顔でこちらを見ている。


「……ほんとにいた」


少女――ルネは、アウリィを見るなりそう言った。


「金の髪だ。目も」


「うん。キミがルネ?」


「そう」


「ボクはアウリィ」


「知ってる」


「なんで?」


「港で見たもん。蒸気車止めたひとでしょ」


ああ、とアウリィは納得する。見られていた。今日はいろんな人に見られる日だ。


ルネは鎖の隙間から食堂の中を見回し、ニクスに目を止める。


「ニクスもいる」


「いるが」


「じゃあ話が早いね」


「まったく早くない」


ニクスの返事に、ルネは気にした風もなく肩をすくめた。


「海の下の灯り、また動いたよ。今度はもっと沖じゃなくて、古い排水坑のほう」


その言葉で、ニクスの目つきが変わる。


「排水坑?」


「うん。南の干潟の、崩れてるほう」


女将が舌打ちした。


「嫌な場所を出すね……」


アウリィはその反応を見る。どうやら町の人間なら誰でも知っている場所らしい。ニクスも嫌そうな顔をしている。


「何があるの、そこ」


「行き止まりと、臭い水と、昔の失敗の残骸だ」


ニクスが答える。


「なるほど、行きたい場所だね」


「どうしてそうなる」


「だって、灯りがあるんでしょ?」


「あるかもしれないって話だ!」


「同じようなものだよ」


「違う!」


言い切られても、アウリィはぜんぜんそう思わなかった。むしろ、可能性があるだけで十分だ。そういうものを追ってここまで来たような気さえする。いや、本当の理由はもう少し別のところにあるのかもしれないけれど、少なくとも今の自分を動かすのはそういう衝動だった。


ルネが鎖の向こうで身を乗り出す。


「わたしね、あの灯りの音が聞こえるんだ」


アウリィは瞬きをした。


「音?」


「うん。鈴みたいな、でも水の中で鳴ってるみたいなやつ。みんなは聞こえないって言うけど」


その言葉で、アウリィの胸が小さく鳴る。


世界を渡るとき、耳の奥で鳴る遠い鈴。思い出そうとすると輪郭が崩れる、曖昧な音。


もちろん同じとは限らない。ただ、似ているというだけで、十分に引っ張られる。


ニクスが鋭く問う。


「それを誰に話した」


「セルマには前に話した」


「他は」


「おじさんたちには笑われた。黒い炉の印つけてるひとたちには話してないよ」


黒炉会。


その名が出ると、空気がまた少しだけ固くなる。


「なんで」


ニクスが聞くと、ルネはあっけらかんと言った。


「目がいやだったから」


単純で、正しい理由だ。


アウリィはその答えが好きだと思った。うまく説明できなくても、嫌なものは嫌でいい。長く生きていると、そういう感覚を理屈で潰してしまう人をたくさん見てきたから。


女将が唸る。


「……どうする、ニクス」


「どうするも何も、今夜は動けない。港であれだけ騒ぎがあったんだ。見張りも増えてるし、セルマに黙って南へ行くのはまずい」


「じゃあ明日?」


ルネが即座に言う。


「明日、朝いち。潮が引いてるときがいいよ」


アウリィとニクスの視線がぶつかる。


彼の顔には「絶対に嫌だ」と「でも放置できない」が仲良く並んでいた。


「キミ、わかりやすいね」


「お前にだけは言われたくない」


「じゃあ行くんだ?」


「行くとは言ってない」


「顔が言ってる」


「幻覚だ」


「便利な返し」


女将が深いため息をついた。


「どのみち、ここで立ち話することじゃない。ルネ、今夜は帰んな。裏道を使いな。追われてる様子は」


「ないよ」


「ほんとかい」


「ほんと。たぶん」


「その“たぶん”は良くないね」


ルネがにししと笑う。アウリィは少し親近感を覚えた。たぶんこういう返答で周りを困らせるの、彼女もよくやっている。


女将は扉を閉める前に、低い声で言った。


「明日、行くならセルマに話を通しな。勝手に潜って死なれちゃ寝覚めが悪い」


「うん」


返事をしたのは三人同時だった。


扉が閉まり、鎖が鳴る。


食堂に静けさが戻る。


その静けさの中で、ニクスがゆっくりアウリィを見た。


「言っておくが」


「うん」


「今の流れで決定したみたいな顔をするな」


「してないよ?」


「してる」


「ちょっとだけ」


「十分だ」


また怒られた。だが、その声の棘はさっきより少しだけ鈍い。もう半分くらいは諦めているのかもしれない。


アウリィは湯のみを両手で包む。ぬくもりが指にしみる。


明日、古い排水坑へ行く。


そう考えるだけで、眠気の底から好奇心が顔を出してくる。困ったものだ。疲れているのに、目の奥が冴えていく。


けれど、浮き立つ気持ちの下に、もう一つ別の感情があった。


あの海底機関の内側にいた“何か”の感触。


閉じ込められて、擦り減って、けれどまだ消えていなかったもの。


もしルネの言う灯りがそれにつながっているなら、見過ごせない。


理由は、うまく言えない。


未知だから、だけではない。もっと柔らかくて、放っておくと嫌な感じがする何か。


「……寝よう」


ぼそっと言うと、ニクスが意外そうな顔をした。


「珍しくまともだな」


「明日に備えてだよ」


「本当にそうか?」


「うん。たぶん」


「お前までその返しをするな」


今度は女将が小さく吹き出した。


---


翌朝、錆海の端港は、昨夜の騒ぎが嘘みたいに普通の顔をしていた。


もちろん無傷ではない。北の係留区へ続く通りには、折れた木材や歪んだ金具を積んだ荷車が何台も並んでいるし、店先では人々が「うちは窓だけで済んだ」「船が一艘やられた」と声をひそめている。


それでも朝市は立つ。魚は並ぶ。蒸気車は走る。港町は、痛みを抱えたままでも腹を空かせるし、仕事を始める。


そういう強さは好きだ、とアウリィは思う。


宿の朝食は、塩漬け肉と黒パン、半熟卵だった。ルネは約束の時間よりずっと早く来て、食堂の隅でもぐもぐ魚の干物をかじっていた。女将がくれたらしい。


「おはよう」


アウリィが声をかけると、ルネがぱっと顔を上げる。


「おはよう、アウリィ。寝癖ついてる」


「えっ」


慌てて髪に手をやる。たしかに片側の三つ編みの根元が少し浮いていた。鏡を見て直したつもりだったのに。


「……うそ?」


「ほんと」


「最悪だ」


隣でニクスがぴくりと反応する。


「人の口癖を取るな」


「いいじゃん」


「よくない」


「似合ってるよ」


「慰めが雑!」


ルネが笑い転げる。朝から元気だなあ、とアウリィは思う。嫌いじゃない。こういう笑い方をする子は、まだ世界にちゃんと期待している。


ガンツとセルマは、食事の途中でやってきた。


「お前ら、本当に行く気か」


開口一番、ガンツが言う。


「行くよ」


「行く」


ルネも言う。


ニクスは一拍遅れて、苦々しくうなずいた。


「……見に行くだけだ」


「その“だけ”が信用ならないんだよ」


ガンツがぼやくと、セルマが地図のようなものをテーブルに広げた。油染みのついた古い紙だ。南の干潟、崩れた防壁、排水路、かつての作業坑の印がある。


「許可は出す。ただし条件つきだ」


セルマの声は朝でも鋭い。


「日が高いうちに戻ること。単独行動はしないこと。崩落の兆候があれば即退避。何か拾っても勝手に触るな」


「はーい」


「返事が軽い」


「返事は軽くても守るよ」


「そこが読めん」


セルマは地図の一点を指した。


「古い排水坑は、潮が引いてる間だけ入口が露出する。中は半分水没、半分は空洞だ。昔、下の潮力炉と繋がっていた。今は閉鎖されたはずだが、昨夜の揺れでどこか開いたのかもしれん」


アウリィは紙に顔を寄せる。線が複雑だ。町の下には、地上の通りより多くの道があるように見える。排水、蒸気、採掘、運搬。人間は地上だけでは飽き足らず、下へ下へと潜っていくのだな、と妙に感心する。


「ねえ」


アウリィが指をさす。


「この丸い印、何?」


セルマの目がほんのわずかに険しくなる。


「旧式調圧塔の跡だ。今は沈んでる」


「昨夜の機械と関係ある?」


「あるかもしれん」


その言い方は、情報が足りないときの人の顔だ。セルマは知っていることを全部言っていないのではなく、全部言えるほどわかっていないのだろう。


ニクスが地図を折りたたみながら言う。


「黒炉会もその辺りを嗅ぎ回ってた」


「見たの?」


とアウリィ。


「足跡と、使ってる油の匂い」


「匂いでわかるんだ」


「わかるさ。あいつら、変に甘い防錆油を使う」


ルネが鼻をひくひくさせた。


「たしかに。薬みたいな匂いする」


ガンツが低く唸る。


「じゃあ余計に急がねえとな」


「急ぎすぎて足を滑らせるなよ」


セルマはルネをじっと見た。


「お前は案内だけだ。前に出るな」


「えー」


「えー、じゃない」


「だってわたしが道知ってるもん」


「知ってる奴ほど死ぬ」


その言葉に、ルネは口をつぐんだ。


一瞬だけ落ちた沈黙に、アウリィは小さな違和感を覚える。セルマの言い方には、経験がある響きが混じっていた。たぶん、誰かを亡くしている。あるいは見送っている。


旅先で人の痛みを深掘りしすぎない。それはアウリィの中の癖というより、長く旅を続けるための小さな決まりごとだった。知らなければ、別れるとき少し楽だから。


それでも、目の前にある沈黙には触れたくなる。


たぶん、それが自分の悪いところだ。


「セルマ」


「なんだ」


「ボクたち、ちゃんと戻ってくるよ」


軽い声で言ったつもりだった。


だがセルマは数秒、黙ってアウリィを見る。


それから短く答えた。


「……そうしろ」


その返事だけで十分だった。


---


南の干潟へ向かう道は、港の賑わいから少し外れるほど荒れていった。


石畳はひび割れ、配管の数は減り、代わりに海風が強くなる。潮の匂いに、泥と藻の匂いが混じる。遠くに見えるのは、崩れかけた防波壁と、斜めに傾いた鉄骨の残骸。


ルネは先頭に立ち、ぴょんぴょんと軽く進んでいく。細い足なのに、泥濘を踏む場所の見極めがうまい。慣れているのだろう。


「こっちこっち」


「待て、飛ぶな」


ニクスが言う。


「飛ばないと沈むとこあるよ」


「だからってお前の歩幅に合わせられるか」


「じゃあ大人の歩幅で飛べば」


「雑なことを言うな」


アウリィはその後ろを歩きながら、ちょっと楽しくなっていた。


「ねえニクス」


「なんだ」


「キミ、ずっと怒ってるね」


「怒ってない」


「怒ってるよ」


「注意してるだけだ」


「それをずっとしてると疲れない?」


「疲れる」


「正直だ」


「お前らが原因だ」


ガンツが後ろから笑う。


「諦めろ。今日はそういう日だ」


「もう昨日からそうだ」


「じゃあ二日連続だね」


アウリィが言うと、ニクスが本当に嫌そうな顔をした。


干潟は、遠目に見るよりずっと足場が悪かった。


泥の下に貝殻や古い金属片が埋まっている。踏み外すとぬるりと滑るし、水たまりと思った場所が急に深いこともある。アウリィのブーツは頑丈だから平気だが、普通の靴なら厄介だろう。


風が吹くたび、崩れた排水管の穴から笛のような音がする。


「ここ、好きかも」


つい漏らすと、ルネが振り返る。


「ほんと?」


「うん。寂れてるのに、まだ死んでない感じがする」


「わかる!」


ぱっと顔が明るくなる。


ニクスが呆れたように言う。


「わかり合うな、そんなところで」


「いいじゃん」


「よくない。そういう時のお前らは大体危ない」


「信用ないなあ」


「正しい評価だ」


前方に、半ば崩れた石のアーチが見えてきた。蔦ではなく海藻と塩の白がへばりつき、上部には古い文字らしきものが刻まれている。読めない。けれど、門だとわかる。


その下が、排水坑の入口だった。


潮が引いているおかげで半分ほど露出しているが、下部はまだ水に浸かっている。奥は暗い。冷気が流れてくる。昼だというのに、口を開けた地下は夜みたいな顔をしていた。


ルネが胸を張る。


「ここ!」


「元気よく紹介する場所じゃねえだろ」


ガンツがぼやく。


セルマは入口の縁にしゃがみ、石を叩き、壁のひびを見た。慎重だ。少しして立ち上がる。


「すぐには落ちん。だが長居はするな」


「セルマも来るんだね」


アウリィが言うと、彼女は当然だという顔をした。


「お前らだけで行かせるか」


「頼もしい」


「監視だ」


「照れなくていいのに」


「照れてない」


こういうやりとりをしても、表情があまり崩れない人は楽しい。アウリィは少しだけ口元を上げた。


入口の前で、彼女は立ち止まる。


中から流れてくる気配を読む。


湿った空気。錆。藻。古い蒸気。水。人の足跡。獣はいない。精霊は……いる。いるけれど、散らばっていて怯えている。浅瀬に小魚が隠れるみたいに、壁や水たまりの陰に薄く張りついている。


その奥。


微かに、青白い脈。


「いるね」


誰にともなく言う。


ニクスが横目で見た。


「灯りか」


「たぶん」


「聞こえる?」


今度はルネ。


アウリィは耳を澄ます。水滴。風。遠くで金属がきしむ音。そして、そのさらに奥に、たしかにある。


りん。


とても小さい。


遠い。


でも、鈴に似た音。


「……うん。少し」


ルネの目が輝いた。


「でしょ!」


「ほんとに聞こえるのか」


ニクスが訝しむ。


「キミは聞こえない?」


「水音しか」


「ガンツは?」


「風だな」


セルマは首を振った。


ルネが得意そうに笑う。


「ね、わたし変じゃないでしょ」


「変ではあると思うよ」


アウリィが正直に言うと、ルネが口を尖らせた。


「なんで!」


「でも、いい意味で」


「それずるい」


「ずるくないよ。ボクもよく変って言われるし」


「同類……」


ニクスがぼそりと呟く。


「どういう意味かな」


「そのままの意味だ」


アウリィは少しむっとしたが、今は先が気になるほうが勝った。


一行は坑内へ入る。


最初の通路は腰ほどまで水が溜まっていた。冷たい。だがマントの加護のおかげで、肌まで刺す感じはしない。壁には古い鉄の補強材が並び、ところどころに錆びた弁や圧力計が残っている。天井からは水滴。床には泥と貝殻。


ルネが小声になる。


「この先、左に古い作業部屋があるの。昨日、そこまで行った」


「一人で?」


ガンツがぎろりと睨む。


「ちょっとだけ」


「ちょっとで済まねえ場所だろうが」


「だって光ってたんだもん」


アウリィはその言い方に少しだけ共感してしまい、口をつぐむ。いまそれを表に出すと、確実に一緒に怒られる。


ニクスは気づいたらしく、じろりと横目を寄越した。


「今、黙ってやり過ごそうとしたな」


「してないよ?」


「した」


「キミ、ほんとによく見てるね」


「見てないと困る」


その返答は、何気ないようでいて少し重かった。


見ていないと困る。


この町で、危ういものを見過ごさないために生きてきた人の言葉だ。


アウリィは一瞬だけ、彼の横顔を見る。若い。けれど、若いわりに“放っておけなかった回数”が多そうな顔をしている。


長く生きていると、たまにそういう人に出会う。寿命の長さとは別の尺度で、妙に早く古びてしまう人。逆に、どんなに歳を重ねても子どもみたいに笑う人もいる。人の時間は不思議だ。


通路を曲がると、空洞が少し広がった。


作業部屋だろう。壁際に棚の残骸、倒れた机、割れた硝子筒。中央には半ば水没した円形の穴があって、そこから下へ降りる梯子が覗いている。もっと深い層へ続いているらしい。


そして、部屋の奥。


薄暗がりの中に、青白い光が瞬いていた。


「……あれだ」


ルネが囁く。


アウリィの胸がどくりと鳴る。


昨夜、海底機関の中で見た光と同じ色だ。冷たく澄んで、でもどこか生き物の体温みたいなものを感じさせる色。


近づく。


光の正体は、壁に半分埋まった球体だった。金属の殻に覆われた、腕に抱えられるくらいの大きさ。表面には幾何学模様。ところどころに貝や錆。ひびの隙間から青白い光が漏れている。


「触るな」


セルマが即座に言う。


「見ただけだよ」


とアウリィ。


「その“だけ”のあとに触るんだろ、お前は」


ニクスが言う。


「今は触らない」


「今は?」


「あとで必要なら」


「それが危ないって言ってる」


やっぱり信用が薄い。少し悲しい。少しだけ。


ガンツがしゃがみ込み、球体の縁を覗き込んだ。


「……これ、見たことあるな」


「ほんと?」


アウリィが食いつく。


「工房の古い設計図の端に似た絵があった。潮力炉の調律核とか何とか……ただ、実物は初めてだ」


「調律核」


「海と圧と蒸気の流れを合わせるための部品らしい。古すぎて、今じゃ誰も使わねえ」


ニクスが眉をひそめる。


「部品、って言うには妙だな」


「妙って?」


「あれ、脈打ってる」


その言葉通り、青白い光は一定間隔ではなく、心臓みたいに少し不規則に明滅していた。


アウリィはそっと目を閉じる。


精霊に触れるときの呼吸をする。


遠い。けれど昨日よりはましだ。たぶんこの町で一日過ごしたぶん、少しだけ向こうもこちらを認め始めている。あるいは、ここが彼らに近い場所だからか。


球体の中へ意識を向ける。


冷たい水。

回る環。

押し込められた声。

長い眠り。

壊れた命令。

そして――痛い。


「っ」


思わず目を開けた。


「どうした」


セルマの声。


「中にいる」


「昨夜も言っていたな」


「うん。今度はもっとはっきり。これ、ただの機械じゃない。何か……精霊に近いものを核にしてる」


場が静まる。


説明台詞が嫌いなのはアウリィ自身も同じだ。わからないものをわかった顔で言い切るのは好きじゃない。だから断言は避ける。


「たぶんだけど」


付け足すと、ニクスが深く息を吐いた。


「その“たぶん”で事態が重くなるのやめろ」


「でも本当っぽいよ」


「わかってるから言ってる」


ルネが球体を見つめたまま呟く。


「かわいそう」


その一言に、アウリィは視線を向けた。


ルネは眉を下げていた。さっきまでの元気な顔ではない。海の底に置き忘れられたものを見る目をしている。


「ずっと一人で鳴ってたのかな」


アウリィの胸が、少しだけ痛む。


その感じを知っている気がした。


何をどこまで知っているのか、自分ではもう思い出せないことも多い。古い記憶は擦り切れて、名前も顔も抜け落ちている。それでも、取り残される感覚だけは、ときどき妙に鮮明だ。


長く生きているせいかもしれない。

旅ばかりしているせいかもしれない。


あるいは、もっと別の理由か。


「……助けられるかな」


ルネの声。


セルマは即答しなかった。そこがこの人の好きなところだ、とアウリィは思う。安易に無理ともできるとも言わない。


ガンツが球体の周りを調べながら言う。


「壁の奥で何かと繋がってる。引っこ抜いたらまずいな」


「壊したら?」


ニクス。


「もっとまずい。圧の逃げ場がわからん」


「つまり」


アウリィがまとめる。


「丁寧に外す必要がある」


「簡単に言うな」


「でもそうでしょ」


「そうだが」


そのとき、通路のほうから、ぱしゃ、と小さな水音がした。


全員が振り向く。


静かだ。


さっきまで聞こえていた水滴の音まで止まったように感じる。


セルマの手が剣の柄へ伸びる。ニクスは短銃を抜いた。ガンツも工具袋から短い鉄棒を出す。


アウリィは槍を呼び出さず、まず耳を澄ます。


人の気配。


一人ではない。二人、三人。靴底の重さ。油の匂い。ほんのり甘い防錆油。


「黒炉会だ」


ニクスが低く言う。


その直後、通路の影から男が現れた。


煤色のコート。胸元に黒い炉の紋章。口元に薄い笑み。後ろに二人。どれも武装しているが、荒くれというより“仕事”の顔だ。


「やあやあ、賑やかだね」


先頭の男が軽く手を上げる。


「保安隊長に修理屋、見慣れた顔もいる。あと……」


視線がアウリィで止まる。


「聞いていたより、ずいぶん可愛らしい旅人だ」


むっ、とする。


本当に、この町の人たちは。


アウリィが反論するより早く、ニクスが一歩前へ出た。


「失せろ、ヴァン」


ヴァン、と呼ばれた男は肩をすくめる。


「つれないな、ニクス。再会を喜んでくれてもいいじゃないか」


「喜ぶ理由がない」


「僕はあるよ。君はいつも、面倒な場所に先回りしてくれる」


「追い払う手間が増えるだけだ」


ヴァンの笑みは薄いままだが、目が笑っていない。柔らかく喋る人間ほど、腹の底を見せないことがある。アウリィはそういう相手を何度も見てきた。


彼の視線が球体へ向く。


「へえ。見つけたんだね」


ルネが一歩下がる。アウリィはそれを横目で確認する。


セルマの声は冷たい。


「立入禁止だ。帰れ」


「そんなつれないことを。僕らも町のためを思って動いてるんですよ」


「その台詞を信じるほど暇じゃない」


「残念だ」


残念そうに言う声すら、どこか芝居がかっている。


アウリィは少しだけ首を傾げた。


「キミたち、これが何か知ってるの?」


ヴァンが目を細める。


「おや、ずいぶん素直に話しかけてくれる」


「質問に質問で返すのは、あんまり好きじゃないな」


「可愛い顔で手厳しい」


「だからその言い方」


「気に障った?」


「地味にね」


ヴァンはくすりと笑う。


「失礼。では正直に。完全には知らない。でも価値があることは知っている」


「何の価値?」


「動かせるかもしれない価値。使えるかもしれない価値。変えられるかもしれない価値」


その答えに、アウリィはあまり良くないものを感じた。


中身を知らないまま、使えるかもしれないから欲しがる顔。


それは、危ない人の顔だ。


ニクスが吐き捨てる。


「だから嫌いなんだよ、お前らは」


ヴァンは笑みを崩さない。


「君の嫌いは、僕にはあまり響かないな」


「じゃあ実力行使で響かせるか?」


「怖い怖い」


言葉のわりに、ヴァンの後ろの二人はすでに武器を構えかけていた。


空気が張る。


アウリィはそっと息を吸う。


精霊たちは、狭い坑道の中でざわついている。怖がっている。でも、逃げ場もない。こういう場で大きな術を使うのは危険だ。崩落の可能性もある。


なら、最小限でいい。


「ねえ、ヴァン」


「なんだい」


「これは渡せないよ」


「どうして」


「中にいるものが嫌がってるから」


ヴァンの表情が、ほんの少しだけ止まった。


理解したわけではない。ただ、その返答が予想外だったのだろう。


「……君、そういうタイプか」


「そういうタイプだよ」


「ますます欲しくなった」


「それはすごく嫌だなあ」


その瞬間、ヴァンが手を上げた。


合図。


同時に後ろの男が何かを投げる。小さな金属筒。床に転がり、白い煙を噴いた。


「煙!」


ガンツが叫ぶ。


視界が一気に白む。だがアウリィはもう動いていた。槍を呼び出す。銀光。穂先ではなく柄で、正面から来る影の手首を打つ。武器が落ちる音。続けて半歩ずらして体当たり。狭い場所では大振りより崩しだ。


横でニクスが短銃を撃つ。乾いた音。誰かのうめき。


セルマの怒声。


「ルネ、下がれ!」


ルネの返事はないが、水音が遠ざかる。よし、とアウリィは胸の内だけで言う。


煙越しに、ヴァンの声だけがやけに近く聞こえた。


「やっぱり厄介だ!」


「褒め言葉なら受け取っとく!」


踏み込み。槍の石突で足払い。誰かが水の中に倒れる。狭い坑道では水しぶきひとつでも視界を乱す。アウリィはそれを利用して身を滑らせた。


だが次の瞬間、嫌な音がした。


きし、という、壁の内側から鳴る小さな悲鳴。


「まずい」


ガンツの声が本気になる。


「配管に当たった!」


煙の向こうで、青白い球体の光が急に強くなった。壁の奥で圧が変わっている。アウリィの皮膚に、ひりつくような冷たさが走る。


「全員、止まれ!」


セルマが叫ぶ。


だが、遅い。


壁の亀裂から、水が噴いた。


ただの水ではない。青白く光る、冷たい圧力の塊みたいな水だ。触れた床を凍らせるのではなく、音を奪うように静かに広がってくる。


アウリィの背筋が粟立つ。


世界に拒まれるときの感覚に、少し似ていた。


受け入れられないものが、境界から染み出してくる感じ。


「外へ!」


ニクスが叫ぶ。


その声と同時に、球体の中から、たしかに“声”がした。


言葉ではない。


でも、意味だけが胸に届く。


――いやだ。


アウリィは反射で振り向いた。


逃げるべきだ。理屈ではそうわかる。崩落、浸水、敵。条件は最悪に近い。


それでも、あの声を置いていくのは違う気がした。


違う、と感じてしまった。


「アウリィ!」


ニクスの手が伸びる。


アウリィはその手を見て、一瞬だけ迷う。


迷って、それでも笑った。


「ちょっとだけ待って!」


「待てる状況か!」


「待てないけど!」


叫び返して、アウリィは青白い球体へ駆けた。


また怒られるな、と思う。


でも、たぶん、今はそれでいい。

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