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2話「海の下で鳴るもの」

蒸気警報というものは、聞いていて気持ちのいい音ではない。


高く長く、金属の喉を引っかいているみたいな音だ。錆海の端港じゅうにそれが走ると、さっきまで夕食を食べていた食堂の空気が一気にひっくり返った。


椅子が鳴る。皿が揺れる。客たちが立ち上がり、誰かが勘定はあとだと怒鳴り、女将が「火を消しな!」と厨房へ叫ぶ。


アウリィは、そういう“町が生き物みたいに一斉に身構える瞬間”が嫌いではなかった。好き、というと誤解されるだろうけれど、目が離せない。世界ごとに危機の音は違う。鐘だったこともある。鳥の鳴き声だったこともある。空そのものがひび割れるように青く光った世界もあった。


この町は、鉄の悲鳴だった。


「ぼんやりするな!」


ニクスの声で、意識を引き戻される。


「してないよ」


「してた」


「ちょっと感心してただけ」


「今それやるな!」


ひどい言われようだなあ、とアウリィは思ったが、たしかに今は反論している場合でもない。


ガンツが窓際へ行き、乱暴に鎧戸を押し開けた。外から赤みを帯びた光と、潮と油の混じった風が流れ込む。港の方角、人が走っている。荷車が脇に寄せられ、蒸機車両が止まり、海沿いの通りがざわつくのがここからでも見えた。


「北の係留区だな……」


「また?」


女将が低く言う。


ガンツは振り返らないまま、短くうなずいた。


また。


その言葉に、アウリィは小さく眉を動かした。


「初めてじゃないんだね」


「三度目だ」


答えたのはニクスだった。彼はすでに外套の留め具を締め直している。細い指が早い。慣れている手つきだ。


「一度目は漁具倉庫の床が抜けた。二度目は海面が盛り上がって、係留してた小舟が二隻ひっくり返った。今回は――」


また、どん、と響く。


今度は天井の梁まで軋んだ。


ニクスが奥歯を噛んだ。


「近い」


アウリィの胸の内で、警戒心がひとつ段を上がる。


「それ、海獣とかじゃないの?」


「だったらまだましだ」


ガンツが言った。


まだまし。


この町の人たちは、妙にそういう言い方をする。言葉を濁しているというより、現実の輪郭がまだ掴めていないときの声だ。


女将がカウンターの下から太い棒を取り出した。木ではない。金属芯が入っていそうな重い棒だ。見た目に似合わず手慣れている。


「行くなら行きな。戻るときゃ裏口からお入り。表は閉める」


「わかった」


ガンツがうなずく。


ニクスはアウリィを見る。


「お前は」


「行くよ」


「言い終わる前に返すな」


「だって止める気でしょ?」


「当たり前だろ」


「でも行く」


「お前な……」


彼は本気で頭が痛そうに目を閉じた。アウリィはその顔を見て、少しだけ申し訳なくなる。少しだけだ。


もちろん、危険はある。来たばかりの町で土地勘もない。精霊との相性もまだ鈍い。目立つことをしたせいで、黒炉会とかいう怪しげな連中にも認識された可能性がある。


それでも、外で何かが起きているのに、宿の中でじっとしていられる性分ではない。


たぶん昔からそうだった。たぶん今も。


「大丈夫。邪魔はしない」


「お前みたいなのが一番信用できない約束だ」


「信頼が薄いなあ」


「まだ会って数時間だぞ!」


「数時間でも人柄は見えるよ」


「見えてたらなおさら引くと思うんだが」


ガンツが半分笑い、半分うんざりした顔で割って入る。


「言い合ってる暇ねえ。ニクス、お前は先に北へ走れ。俺は工具を取りに工房寄る。嬢ちゃん……いや、アウリィ」


わざわざ言い直したところに、少しだけ誠意を感じる。


「来るなら俺のそばを離れるな。いいな」


「うん」


「返事だけはいいんだよなあ」


ガンツがぼやく。


アウリィはにっと笑って、椅子から飛び降りた。


---


外は、さっきまでとはまるで違う町に見えた。


明かりはついている。店も建物もそのままだ。けれど、人の流れが一本の方向へ傾いている。港へ向かう者、港から離れる者、家族を呼ぶ者、窓を閉める者。誰もが落ち着かない顔をしていた。


空気の振動が肌に伝わる。


海の下から、何かが脈打っている。


アウリィは歩きながら、意識を外へ広げた。風。水。足元の石の冷たさ。配管を流れる蒸気。人間の息。遠くで回る歯車。


精霊たちはやっぱり少し遠い。けれど、最初よりはわずかに応答が早い気がする。町のざわめきに混じって、小さな囁きが耳の奥に引っかかった。


――つめたい。ふかい。した。


水の精霊かもしれない。


「深い、下……」


「何か言ったか?」


隣を急ぐガンツが問う。


「ううん、独り言」


「今は大きめに言え」


「はーい」


走りながら返すと、ガンツが「あぶねえから前見ろ」と手を振った。


港へ近づくほど、人の密度は上がるが、中心へは逆にぽっかり空間ができていた。誰もがそこから距離を取っているからだ。


視界が開ける。


そこは北の係留区だった。


石造りの岸壁に沿って、大小の船が並んでいる。クレーン。貨物用のレール。荷を積むための昇降機。海面には油膜がゆらめき、橙色のランプの光を歪めて映していた。


そして、その真ん中。


海が、膨らんでいた。


「うわあ」


アウリィの口から、素直な感嘆が漏れる。


人によっては不謹慎だと言われるかもしれない。だが、目の前の光景は純粋に異様だった。海面の一部が、まるで巨大な息を吸い込んだみたいに丸く盛り上がっている。波ではない。もっと重く、粘るような膨らみだ。直径は家一軒ぶん以上。中心には黒い影が揺れていて、ときどき金属が擦れるような音が混じる。


岸壁の近くでは、制服めいた厚手のコートを着た男たちが人払いをしていた。町の保安隊だろうか。その一団の中心に、背の高い女性が立っている。濃紺のコート、短く切った髪、片耳に銀の管飾り。目つきが刃物みたいだ。


「隊長!」


誰かが叫ぶ。


女性――隊長は、ガンツを見るとわずかに顔をしかめた。


「来たか。工具は」


「あとだ。状況は」


「最悪の一歩手前」


「便利な言い回ししやがる」


「最悪だと言い切ったら縁起が悪い」


その返しに、アウリィは少しだけ感心した。こういうときでも口が回る人は強い。


隊長の視線が、ふいにアウリィへ向く。


「……誰だ」


「旅人」


「そう見えるか?」


「見える」


「連れてきたのは失敗だったかも」


ガンツがぼそりと言う。


アウリィは頬をふくらませた。


「失敗って言い方ない?」


「今はある」


隊長が一歩近づく。目の色は鋼に似ていた。


「私はこの区画の保安を預かるセルマだ。見物なら帰れ」


「見物じゃないよ」


「手伝えると言うつもりなら、なおさら帰れ」


「手伝えるかは、見てみないとわからない」


「気に入らない返事だ」


「正直なだけ」


セルマは黙ってアウリィを見る。その視線には威圧があったが、ただ高圧的なだけではない。測っている。危険か、役に立つか、あるいはその両方か。


その間に、海がまた低く鳴った。


どん。


膨らみが一段高くなる。岸壁に繋がれた船が大きく軋んだ。


周囲から悲鳴が上がる。


セルマが振り返りざまに怒鳴った。


「索具を切れ! 三番から五番、船を離せ! 巻き込まれるぞ!」


指示は即座に飛び、人が動く。いい指揮だな、とアウリィは思う。恐慌の匂いが完全には広がっていないのは、この人が立っているからかもしれない。


「ガンツ!」


セルマが続ける。


「水中昇降機の圧が狂ってる。下から押し上げられてるのか、配管が逆流してるのか判断がつかん。見ろ」


「厄介だな」


「簡単な日に呼んだ覚えはない」


ガンツは苦笑し、走り出した。


アウリィもついていこうとすると、セルマの手が前に出る。


「お前は待て」


「なんで」


「危なそうだからだ」


「その理由、子ども扱いに聞こえる」


セルマの片眉が上がった。


「子ども扱いが気に入らない年頃か」


「だからそういうのじゃなくて!」


「元気だな」


「元気だけど今はそこじゃないよ!」


思わず声が大きくなる。周囲の数人がちらりと見た。アウリィは耳の先が少し熱くなるのを感じる。見た目のせいでこういう会話になるの、本当に納得いかない。


セルマは数秒だけ真顔を保ち、それから、ごくわずかに口元を緩めた。


「……悪かった。なら言い換える。見知らぬ腕を、状況不明の現場にいきなり入れたくない」


「それならわかる」


「聞き分けはいいんだな」


「だから返事だけはいいって顔しないで」


「してたか?」


「してた」


そのやりとりの途中で、ニクスが戻ってきた。息は乱れていないが、額に薄く汗が浮いている。


「東側の見張り台、異常なし。西は人払い完了。……何やってる」


「会話」


アウリィが答える。


「見ればわかる。なんで今する」


「会話は大事だよ」


「今は優先順位があるだろ」


「それもそう」


「素直に引くな!」


セルマが短く息を吐く。笑ったのかもしれない。


「ニクス、お前は下の観測口へ回れ。目視できるなら何でも拾え」


「了解」


「それと」


セルマの目がアウリィに戻る。


「そいつを連れて行け」


「は?」


ニクスが本気で嫌そうな顔をした。


「待って、今さっき見知らぬ腕を入れたくないって」


「お前と組ませる。お前なら引き際を知ってる」


「買いかぶりだ」


「じゃあ止める方を任せる」


「もっと買いかぶりだ」


セルマはそれを無視した。


「旅人」


「アウリィ」


「アウリィ。勝手な真似はするな。ニクスの指示に従え」


アウリィは少し考えてから、うなずいた。


「全部は無理かも」


「おい」


ニクスが即座に口を挟む。


「でも、ちゃんと見るし、聞くし、無茶もしないよう努力する」


「努力か」


セルマが言う。


「それで十分だ。今はな」


不思議な返答だった。信じたわけではない。ただ、完全には切らなかった。それが少し嬉しい。


「行くぞ」


ニクスが短く言って歩き出す。アウリィはその横に並んだ。


「ねえ」


「なんだ」


「キミ、隊長には逆らわないんだね」


「逆らっても無駄だからだ」


「えらい」


「褒められてる気がしない」


「半分は褒めてる」


「半分は何だ」


「観察」


「やめろ」


けれど、歩幅は緩めてくれている。アウリィはそれに気づいて、ちょっとだけ笑った。


---


観測口は、岸壁の脇にある整備用の通路の先にあった。


普段は作業員だけが使う場所らしい。鉄の手すり、濡れた階段、海水と蒸気が混じる生暖かい空気。下へ降りるほど、町の喧騒は遠くなり、代わりに海と機械の音が濃くなる。


途中、ニクスが足を止めた。


「滑る。手すりを持て」


「うん」


アウリィが素直に従うと、ニクスは少しだけ意外そうだった。


「……今のは逆らわないんだな」


「合理的だから」


「自分の基準があるのか」


「あるよ。ボク、ちゃんと考えてるもん」


「考えてる奴は“観光じゃなきゃ見に行かなきゃ始まらない”とか言わない」


「言うよ」


「言わない」


「言う」


「言わない」


ちょっと楽しくなってきて、アウリィは同じ調子で返した。


するとニクスが露骨に疲れた顔をしたので、少し笑ってしまう。


「キミって、真面目だね」


「不本意だが、よく言われる」


「ボクは好きだよ。真面目な人」


「口説いてるのか」


「違うよ?」


「間があったな今」


「ちょっと考えただけ」


「最悪だ」


またその言い方だ、とアウリィは思う。よほど口癖らしい。


最下層の観測口は、厚い円形の硝子がはめ込まれた小部屋だった。硝子の向こうは暗い海。時折、岸壁の灯りがぼんやり差し込むが、基本的には黒い。


ニクスは壁際のバルブをひねり、別のレバーを下ろした。ぎい、と鈍い音がして、硝子の周囲に細い光が灯る。水中照明らしい。淡い白が海を切り取った。


何かが見えた。


アウリィは思わず身を乗り出す。


「……あれ」


「見えるか」


「うん。あれ、生き物じゃないね」


黒い影は、不規則な塊だった。殻のようでもあり、鉄屑の集合体のようでもある。表面はごつごつしていて、ところどころ継ぎ目みたいな線が走っている。海藻が絡み、貝が付着しているせいで、長く海底にあったものにも見えた。


だが、次の瞬間、その継ぎ目の一つが赤く光った。


「うわ」


アウリィの声と同時に、塊がわずかに動く。


内側から、脈を打つように。


ニクスが息を呑んだ。


「やっぱり……」


「知ってるの?」


「確信はなかった。けど、似た記録を見たことがある」


「どういうの」


ニクスは答える前に、硝子へ顔を近づけた。緊張で横顔が鋭くなる。


「旧式の海底機関だ」


「機関」


「昔、この港の下にはもっと大きな設備があったらしい。今の町が広がる前、海中採掘と潮力炉を組み合わせた時代の遺構だ。ほとんどは沈んで、記録も半端にしか残ってない」


アウリィは黒い塊を見つめる。


機械。遺構。海底に沈んだ古いもの。


そう言われるとたしかに、あれは生き物の筋肉ではなく、歯車や弁や圧力室の塊に見えてくる。けれど、それだけではない違和感もあった。動きが妙なのだ。単に作動しているというより、眠りながら寝返りを打っているみたいな、不規則さ。


「変だね」


「何が」


「動き方。壊れた機械か、起きたばかりの何かみたい」


ニクスがちらりとアウリィを見る。


「……お前、本当に見えてるな」


「見えてるよ」


「勘じゃなくて?」


「勘もあるけど」


「ほぼ勘じゃないか」


「失礼だなあ」


そのとき、硝子の向こうで、海底機関らしき塊の一部がぱかりと開いた。


光が漏れる。赤ではない。もっと青白い、冷たい光。


そして、その奥で何かが回っていた。


円環。羽根。あるいは骨組み。形が定まらない。見ていると、目が引っ張られるような妙な感覚がある。


アウリィの肌が粟立つ。


「下がって」


「え?」


「ニクス、下がって」


声が少し硬くなった。自分でもわかる。


彼は一瞬だけ遅れたが、その表情を見て反射的に後ろへ退く。


次の瞬間。


硝子の向こうから、見えない何かがぶつかった。


ばん、と鈍い衝撃。


観測室全体が揺れ、天井から錆がぱらぱら落ちる。灯りが一瞬消え、また点いた。


ニクスが壁に手をつく。


「今のは……!」


「見られた」


「は?」


「こっちを見たんだよ、あれ」


「機械が?」


「わからない。でも、目が合った感じがした」


言った途端、自分でぞわりとする。


機械に目があるわけがない。理屈ではそうだ。けれど、長く旅をしていると、理屈では説明しづらい“感じ”に何度も命を救われる。逆もあるが。


ニクスは数秒だけアウリィを見つめ、それから舌打ちした。


「上へ戻る」


「賛成」


階段を駆け上がる。今度は会話を挟む余裕はない。背後で、またどん、と鈍い圧力が響く。水が揺れ、配管が鳴く。


地上へ出ると、係留区はさらに騒然としていた。


海面の膨らみはひと回り大きくなり、中央が割れている。黒いものが少しだけ姿を見せていた。錆びた外殻。貝殻のように幾重にも重なった装甲。そこから蒸気とも泡ともつかない白が噴き出している。


セルマが怒鳴っていた。


「全員、第二防波壁まで下がれ! 無理に留めるな、岸ごと持っていかれる!」


保安隊がロープを切り、荷を捨て、船を離す。誰かが泣いていた。誰かが船名を叫んでいる。生活が、目の前で切り離されていく音だった。


ガンツが昇降機の脇で何かを叩いていたが、アウリィたちを見ると顔を上げた。


「どうだった!」


ニクスが答える。


「旧式海底機関の可能性が高い! ただし、挙動が変だ。観測口に反応した」


「反応?」


「見られた、とこいつは言う」


ガンツの目がアウリィに向く。


「本当か」


「たぶん」


「たぶんか」


「でも嫌な感じは本当」


セルマがそこへ来た。


「嫌な感じで現場判断をするつもりはないが、今は否定もしない。……旅人、お前、何ができる」


ようやく来た問いだ、とアウリィは思った。


簡潔に答える。


「索敵と支援。精霊術は使えるけど、この世界だと反応がちょっと鈍い。戦うのもできる」


セルマの視線が細くなる。


「武器は」


アウリィは右手を軽くひらいた。


空気がきらりと歪み、次の瞬間、長い槍がその手に現れる。ミスリルの穂先が港の灯りを受け、白く鋭く光った。


周囲の何人かが息を呑んだ。


ガンツが目を丸くする。


「持ってたのかよ!」


「しまってたの」


「どこに!?」


「便利なところに」


「説明になってねえ!」


ニクスが額を押さえた。


「だから厄介なんだよ……」


セルマだけは目を見開いたあと、すぐに現実へ戻った。


「いい。十分だ。なら働け」


「うん」


その返事をした瞬間、海面が裂けた。


轟音。


黒い巨体が、海を押しのけるようにして姿を現す。人の背丈をいくつも重ねたような高さ。錆びた殻。円筒と関節が組み合わさった脚部。古いクレーンや潜水機械や甲殻類を、無理やり一つの形にまとめたみたいな異形。


その中心部で、青白い環が回っている。


「うわああ、すごい!」


アウリィは思わず叫んだ。


「感想が最悪だ!」


ニクスが怒鳴る。


「だってすごいじゃない!」


「そこじゃないだろ!」


「怖くないわけじゃないよ、でもすごいものはすごい!」


叫び返しながら、アウリィは槍を握り直した。手のひらに、慣れた重みが戻る。身体が静かに整っていく。


恐怖はある。もちろんある。


けれどそれと同じくらい、未知のものを前にした高揚があった。自分でも少し困るくらいに。


巨体は岸壁へ半身を乗り上げ、錆びた脚を一本振り上げた。先端は杭のように鋭い。あれが落ちれば、石も人も一緒くただ。


セルマが叫ぶ。


「散れ!」


アウリィは地を蹴った。


最初の一歩で、風の精霊に触れる。遅い。重い。それでも間に合うだけの後押しはくれる。身体が軽くなる。


脚が振り下ろされる軌道へ飛び込む。


「おいアウリィ!」


ニクスの声を背に聞きながら、アウリィは槍の石突を地へ打ち込んだ。穂先ではない。軸で受ける。真正面から砕くのではなく、落ちる力の向きをずらす。


ぎゃり、と耳障りな金属音。


衝撃が肩から背中へ抜ける。重い。大きい。けれど読める。


脚は石畳を抉りながら横へ逸れ、岸壁の外れに突き刺さった。水柱が上がる。


「今だ、足場が開いた!」


アウリィが叫ぶより早く、セルマが命じていた。


「火薬槍、関節部!」


保安隊が一斉に銃槍のような武器を構える。発砲音。火花。関節部へ炸裂する小さな爆発。錆が弾け、青白い光が漏れた。


巨体が軋み、低く唸る。


「機械が唸るの、ちょっと格好いいね」


「お前の感性どうなってるんだ!」


今度はガンツに怒鳴られた。


そのとき、アウリィは気づく。漏れた光のまわりに、微かに揺れているものがある。煙ではない。蒸気でもない。もっと淡い、輪郭のないもの。


精霊。


いや、精霊に似た“何か”だ。


「……捕まってる?」


思わずつぶやく。


巨体の内側に、何かが絡め取られている。押し込められている。だから挙動が生き物じみているのか。だから“見られた”感覚があったのか。


水と金属のあわいで、声にならない声がきしむ。


アウリィは息を呑んだ。


この世界の精霊は遠い。けれど、遠いからこそ、閉じ込められたときの苦しさが濁って伝わってくる。


「セルマ!」


彼女は振り返らずに怒鳴り返した。


「報告は短く!」


「中に何かいる! たぶん、動力だけじゃない!」


「壊せば止まるか!」


「雑に壊すと暴れるかも!」


「今も十分暴れてる!」


それはそうだ。


言い返せなくて、アウリィは一瞬だけ困った顔になる。その横をニクスが駆け抜けた。いつの間にか手には短銃と細身の刃物。彼は巨体の脚部の陰へ滑り込み、露出した継ぎ目に何かを差し込む。


「おい!」


アウリィが叫ぶ。


「無茶してるのどっちだ!」


ニクスが怒鳴り返す。


「ボクはいま合理的!」


「今だけだろ!」


「今が大事なんだよ!」


言い合っている場合ではないのに、どうしてこう会話が成立してしまうのか。少しおかしい。


巨体が別の脚を振り上げる。狙いはニクスだ。


「っ」


アウリィは槍を引き、踏み込んだ。


穂先が錆殻を滑り、関節の隙間へ深く入る。てこの原理で捻る。金属が悲鳴を上げる。脚の軌道がぶれた。


その一瞬で、ニクスが離脱した。転がるように岸壁の影へ飛び込み、息を吐く。


「助かった!」


「どういたしまして!」


「嬉しそうに言うな!」


「助けられるのは嬉しいよ!」


「言い方!」


また怒られた。


ガンツが昇降機側から叫ぶ。


「圧を抜ける! 全員、衝撃に備えろ!」


セルマが即座に判断する。


「総員、伏せろ!」


アウリィもとっさに身を低くした。


次の瞬間、岸壁の下から凄まじい蒸気が噴き上がる。白い壁みたいな蒸気柱が巨体の腹部を打ち、青白い環の回転がぶれた。巨体がのけぞる。脚が滑る。海面へ重心が傾く。


「今だ、押し戻せ!」


セルマの声。


保安隊が再度火薬槍を撃つ。ガンツが何かの弁をさらに開く。ニクスが継ぎ目に差し込んだ装置から火花が散る。


アウリィは槍を構え直した。


大きすぎる相手を、一人の力でどうこうできるとは思っていない。けれど、いま必要なのは“あと少し傾ける”ことだ。


風を借りる。足元の石に力を返す。身体を弓のようにしならせる。


「いって、戻って!」


誰に向けたのかわからない声と一緒に、槍を突き出す。


穂先は青白い環の外縁をかすめ、ひどく澄んだ音を立てた。


きぃん、と。


その音だけ、まるで別の世界のものみたいだった。


次の瞬間、巨体の全身から光が走る。青白い線が殻の継ぎ目を駆け、海水が沸騰したみたいに泡立つ。


「下がれ下がれ下がれ!」


ニクスが叫ぶ。


アウリィは反射で飛び退いた。遅れて、巨体が大きく痙攣する。そしてそのまま、岸壁から海へと崩れ落ちた。


轟音。水柱。潮と油の雨。


周囲から歓声とも悲鳴ともつかない声が上がる。


海面は激しく揺れたが、膨らみは急速にしぼんでいく。青白い光も沈み、やがて黒い海に溶けた。


しばらく、誰も動かなかった。


蒸気だけがしゅうしゅうと鳴っている。


最初に息を吐いたのはセルマだった。


「……被害確認」


その一言で、止まっていた現場がまた動き出す。負傷者の声、点呼、索具の確認、流れた荷の回収。危機が完全に去ったわけではない。ただ、今この瞬間だけは越えたのだと、全員が理解していた。


アウリィは槍の柄を握ったまま、海を見つめる。


沈んだ。


けれど、あれで終わりとは思えなかった。


穂先が青白い環に触れたとき、たしかに何かの感触が返ってきた。金属ではない。もっと柔らかく、疲れきったもの。閉じ込められていた“何か”が、一瞬だけこちらを向いたような気がしたのだ。


――たすけて、とまでは言わない。

でも、まだ終わっていない。


そんな、曖昧な感触。


「おい」


ニクスの声で我に返る。


見ると、彼の頬には煤がつき、外套の裾が裂けていた。けれど大きな怪我はなさそうで、アウリィは少し安心する。


「無事?」


「その台詞はこっちだ」


「ボクは丈夫だから」


「そういう問題じゃない」


ニクスはじっとアウリィの顔を見て、それから大きく息を吐いた。


「……なんで笑ってる」


「え?」


自分の頬に手をやって、アウリィは気づく。たしかに少し笑っていた。


怖かった。危なかった。なのに、身体の奥がまだ熱を持っている。新しいものに触れた興奮が消えていない。


「たぶん、面白かったんだと思う」


「最悪だ」


「また言った」


「今日だけで何回目だと思ってる」


「数えてない」


「数えろ」


「やだ」


ニクスは頭を抱えた。


そのやりとりを、少し離れたところでセルマが見ていた。彼女は近づいてくると、アウリィの槍をちらりと見、それから本人の目を見る。


「礼を言う。助かった」


まっすぐな声だった。


アウリィは少しだけ目を丸くする。


「どういたしまして」


「だが、次からは勝手に中心へ飛び込む前に一声かけろ」


「努力する」


「さっきも聞いたな、その返事」


「便利なんだよ」


セルマの口元がわずかに動く。


「気に入らんが、嫌いじゃない」


ガンツもやってきた。髭にまで蒸気の水滴をつけている。


「嬢ちゃん、いやアウリィ、お前ほんと何者だ」


「旅人」


「その答えで納得できるか」


「できないだろうねえ」


「わかってるならもう少し誠実に説明しろ」


「今度ね」


「今度があるのかよ」


あるのかな、とアウリィは少しだけ考える。


この町に長居はしないつもりだ。いつだってそうだ。情が移りすぎる前に、世界が強く拒む前に、次へ行く。そう決めている。


でも――今夜、海の下で鳴っていたもののことを、このまま知らないまま去るのは、きっと無理だ。


「たぶんあるよ」


そう言うと、ニクスが嫌な予感しかしない顔をした。


「やめろ。その言い方をする時のお前、ろくなこと考えてない」


「失礼だなあ。ちょっと海の下に何があるか気になってるだけだよ」


「十分ろくでもない!」


ガンツが天を仰ぎ、セルマが額を押さえる。


その様子が可笑しくて、アウリィはまた笑ってしまった。


けれど次の瞬間、その笑みは少しだけ薄れる。


海面の向こう、沈んだはずの場所で、一度だけ青白い光が瞬いた気がしたからだ。


誰にも言わなかった。


言えば今すぐ騒ぎになる。見間違いの可能性もある。


ただ、胸の奥に小さな予感が残る。


これは始まりだ。


宿へ戻る道すがら、町は疲れた息をしていた。警報は止み、人々は割れた箱を片づけ、無事だった船を数え、失ったものの名前を確かめている。夜風は冷たく、潮の匂いがさっきより強い。


青錆亭に着く頃には、どっと疲れが来た。


女将は無言で湯気の立つ飲み物を出してくれた。苦くて少し甘い。身体がほぐれる。


部屋へ戻る前、アウリィは食堂の隅で日記帳を開いた。


『錆海編、二日目の夜。

 海の下から古い機械のようなものが起き上がった。

 けれど、ただの機械には見えなかった。

 中に、何かがいた。』


少し迷ってから、書き足す。


『ニクスはよく怒る。でも、ちゃんと危ない方へ来る人だ。

 セルマは強い。ガンツはやっぱり世話焼き。

 この町は、厄介で、面白い。』


そこでペン先が止まる。


最後に、ほんの小さく一行。


『海はまだ、眠っていない。』


日記を閉じる。


部屋へ向かおうとした、そのときだった。


食堂の裏口が、こんこん、と三度叩かれた。


こんな時間に客か、と女将が眉をひそめる。だがその叩き方に、どこか妙な規則性があった。合図めいている。


ニクスが椅子から立ち上がる。彼はまだ帰っていなかった。たぶんアウリィを一人にしないためか、単に警戒しているのか、その両方か。


「開けるな」


彼が低く言う。


女将も頷き、棒を握り直した。


だが、扉の向こうから聞こえた声に、アウリィは目を見開いた。


「……ねえ、いるんでしょ。空から来たひと」


少女の声だった。


少しかすれていて、でも妙に明るい。


「わたし、見たの。海の下の灯り。あれ、また呼んでるよ」


食堂の空気が冷える。


アウリィは、無意識に髪飾りへ手をやっていた。


新しい謎の匂いがした。


そしてそれに、胸が少しだけ弾んでしまう自分に、困ったように笑う。

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