1話「潮の匂いと、鉄の歌」
世界を渡る瞬間というのは、いつだって少しだけ心臓に悪い。
足元がなくなって、空が裏返って、耳の奥で誰かが遠くで鈴を鳴らすみたいな音がして――それから、急に、何かの匂いがする。
今回は塩気と、熱い鉄の匂いだった。
「わっ」
アウレーリエ・リュコーリアス――アウリィは、空中から現れた自分の身体をどうにかひねって、転がるように着地した。膝をつき、片手を石畳につく。細い指先に伝わる感触は、ざらりとして、乾いていて、それでいてどこか油じみている。
顔を上げる。
赤茶けた空だった。
正確には空そのものが赤いわけではない。高いところに、何本もの巨大な煙突が突き刺さっていて、そこから吐き出される灰色と黒の煙が、夕焼けでもないのに天井みたいに広がっているのだ。その隙間を縫うように、鈍く光る金属の橋がいくつも走っていた。遠くでは歯車の噛み合う低い響き。近くでは蒸気の噴く鋭い音。さらに耳を澄ませば、波の音まで混じっている。
海が近い。
「んー……」
アウリィは立ち上がり、マントの裾についた煤をぱっぱと払った。真紅の布が揺れ、裏地の黄色がちらりとのぞく。髪飾りの彼岸花が、ひときわ鮮やかに見えた。
「これはまた、ずいぶん賑やかな世界だねえ」
つぶやいて、目を輝かせる。
知らない世界に来たとき、最初に胸に湧くのはいつだって少しの警戒と、大きな好奇心だ。警戒は長い旅で身についた。好奇心は、たぶん、もっとずっと昔から変わっていない。
彼女はそっと息を吸って、精霊たちの気配を探った。
――けれど、返ってくる感触は鈍い。
水の気配はある。風もいる。火も、土も、たしかにそこにいるのに、厚い手袋越しに触れているみたいに遠い。世界が違えば、精霊との距離も違う。相性が悪いわけではないが、よくもない。無理をすれば使えなくはない、という程度だ。
「ふむ」
少し口をとがらせる。
「仲良くなるまで時間がかかるタイプかな。ボク、初対面の空気が重いのはちょっと苦手なんだけど」
もちろん、精霊は返事をしない。いや、しているのかもしれないが、少なくとも今のアウリィにはうまく拾えなかった。
彼女は周囲を見渡した。
どうやら、港町らしい。石と鉄でできた建物が積み木みたいに重なり、その間を配管が走っている。道の脇にはレールが敷かれ、小さな貨車ががたごとと音を立てて進んでいた。荷台には、錆びた鉄屑や石炭のような黒い塊が積まれている。
人々は忙しそうだった。厚手の作業着、皮の前掛け、金属製のゴーグル。肩に工具を担いだ男。籠いっぱいの貝を運ぶ女。煤で鼻の頭を汚した子どもたちが、配管の下をすり抜けて駆けていく。
そして、そのうちの一人がアウリィを見て、ぴたりと足を止めた。
「……おい」
子どもは友達の袖を引いた。
「あれ、どっから出てきた?」
「知らねえよ。旅芸人?」
「髪、すげえな」
「目も」
視線が集まる。
アウリィはにこっと笑って、軽く手を振った。
「こんにちは!」
子どもたちは一斉に一歩下がった。
「あ、逃げなくても大丈夫だよ。たぶん」
「たぶんって何だよ!」
一番背の高い、鼻にそばかすのある少年が叫んだ。十歳前後だろうか。声変わり前の、まだ高い声だ。
「あはは。たしかにそこは不安になる言い方だったね」
アウリィはしゃがみこんで目線を下げた。下げたつもりだったが、それでも元々の身長が低いので、あまり変わらない。少しだけ複雑な気分になる。
「ボクはアウリィ。旅人だよ。ここはなんていう場所?」
子どもたちは顔を見合わせた。
「……知らねえの?」
「うん、今来たばっかりだから」
「今来たって、どこから」
「それはねえ」
アウリィは空を見上げる。
「遠くから」
子どもたちが微妙な顔をした。そうだろうな、と自分でも思う。
そのとき、背後からしゃがれた怒鳴り声が飛んだ。
「こらァ、チビども! 仕事の邪魔してんじゃねえ!」
子どもたちが、ぱっと散る。さっきのそばかすの少年だけが去り際にちらりとアウリィを見て、「錆海の端港だよ」と小声で言い残して走っていった。
錆海。
いい響きだな、とアウリィは思う。
振り返ると、大柄な男が立っていた。腕が太い。髭面で、片目に煤けたレンズをはめている。片手にはレンチ。もう片方には湯気の立つ金属製のカップ。
「見ねえ顔だな、お嬢ちゃん」
「お嬢ちゃんではなく、アウリィです」
「はは、気ィ強えな」
むっ、としたが、相手は悪気がなさそうだったので飲み込む。
「旅人です。少し町を見て回りたくて」
「旅人ねえ」
男は頭のてっぺんからつま先までアウリィを眺めた。服の質、靴の作り、腰のポーチ、手ぶらに見えること。そういうものを無遠慮に、しかし職人らしい目つきで見ている。
「蒸機船には見えねえし、陸路で来たにしちゃ軽装すぎる」
「歩くのは得意なんだ」
「この辺は得意じゃどうにもならねえ場所もある。……まあいい。ここいらは港の積み替え場だ。観光するには煤っぽすぎるぞ」
「じゃあ、観光向きの場所があるんだ?」
男は鼻で笑った。
「港町だぞ。外から来る連中に見せる顔くらいある」
「親切だね」
「別に。迷子が配管区画に入り込んで茹で上がられたら寝覚めが悪い」
言いながら、男は金属カップの中身をすすった。香ばしい匂いが漂う。麦茶に似ているが、もっと苦い何かだ。
「腹減ってるか?」
「少し」
「金は?」
「あるよ」
アウリィはポーチを軽く叩いた。中には、この手の世界でそのまま使えるかはわからないが、換金用の小さな宝石がいくつか入っている。世界ごとに貨幣は違うので、最初はたいていこれでどうにかする。
男はうなずいた。
「なら、表通りまで案内してやる。ついでに換金屋の場所も教える。俺はガンツだ」
「ありがとう、ガンツ」
「礼は、面倒起こさねえでくれりゃいい」
「善処するよ」
「善処、ねえ……」
ガンツはなんとも言えない顔をした。
その顔に、アウリィは思わず笑ってしまう。
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錆海の端港は、近くで見るほど奇妙な町だった。
海沿いなのに、潮風より先に機械油の匂いが来る。波止場には船が並んでいるが、帆船よりも鉄の外板を張った蒸機船のほうが多い。船腹には大きな外輪、あるいは角ばった推進機構。煙突からは白い蒸気が上がり、甲板では作業員たちが怒鳴り合いながら荷を運んでいた。
それでも海は海で、岸壁には貝が貼りつき、かもめに似た鳥が鳴いている。自然と人工物が喧嘩しながら一緒にいる感じがした。
「好きだなあ、こういうの」
ぼそりと漏らすと、隣を歩くガンツが片眉を上げた。
「何がだ?」
「世界がまだ、どっちつかずなところ。便利になりたいのに、泥臭さが残ってる感じ」
「変な褒め方するな」
「変かな。ボクは好き」
ガンツは少しだけ口の端を上げた。
「旅人らしい物の見方だ」
表通りは、積み替え場よりずっと賑やかだった。店先に吊るされたランプ。歯車仕掛けの看板。金属の骨組みにガラスをはめた屋台。焼いた魚の匂い、甘い蜜菓子の匂い、錆びた水の匂い。
通りの中央には蒸気路面車のようなものまで走っている。箱型の車体が小さな警笛を鳴らしながら進み、子どもたちが歓声を上げて追いかけていた。
アウリィはきょろきょろしっぱなしだった。
「あれ何?」
「運搬車」
「あの丸いのは?」
「圧力計」
「こっちの光ってる管は?」
「たぶん違法改造」
「へえ!」
「へえ、で済ますな」
怒られた。
だがガンツの言い方に本気の刺はない。世話焼きなのだろう。こういう人は、たまにいる。初対面ではぶっきらぼうで、放っておけなくなると最後まで面倒を見てしまう人。
アウリィはそういう人を見るたび、少しだけ胸が温かくなる。温かくなりすぎないようには、しているけれど。
「ここだ」
ガンツが立ち止まったのは、鉄格子の窓がついた石造りの建物だった。看板には、天秤と歯車の絵。
「換金屋。宝石ならたぶん通る。あんまり吹っかける店じゃねえ」
「ガンツは信用されてるんだね」
「俺がっていうか、うちの工房がな」
「工房?」
「蒸機の修理屋だ」
なるほど、とアウリィはうなずく。腕が太いわけだ。
中に入ると、乾いた鈴が鳴った。店内は薄暗く、金属の匂いと紙の匂いが混じっている。カウンターの向こうには、痩せた女性が帳簿をつけていた。年齢はよくわからない。灰色の髪をきっちり結い、細い鎖眼鏡をかけている。
「いらっしゃい、ガンツ。今日は鉄屑じゃないのね」
「こっちは連れだ。換金したいらしい」
女性の視線が、すっとアウリィに移る。
「……珍しいお客ね」
「旅人なんだってよ」
「旅人は毎月見るけれど、その格好はあまり見ないわ」
「それは、ありがとう?」
「褒めてないのだけれど」
女性は淡々とした声で言った。アウリィは瞬きをしてから、ふっと笑う。
「そっか。じゃあ、正直な感想をありがとう」
女性の手が、ほんの少しだけ止まった。
その一瞬を見て、アウリィは内心でくすりとする。真面目で堅い人ほど、こういう返しに弱いことがある。
ポーチから、小さな青い宝石をひと粒取り出した。光を受けると深い海みたいに色が変わる石だ。この世界での価値はわからないが、加工の難しい硬度と透明度を持っている。
女性は受け取ると、ルーペで覗き、重さを量り、無言で別の器具にもかけた。
「……本物ね。産地は知らないけれど」
「遠いところ」
「そう」
ぱちん、と帳簿を閉じる音。
女性は金属貨幣の入った袋を差し出した。
「これでどうかしら」
アウリィは中身を見た。相場は知らない。ただ、相手の目つきとガンツの微妙なうなずきで、極端な安値ではないと判断する。
「うん、いいよ。ありがとう」
「ずいぶんあっさりしているのね」
「知らない相場で駆け引きしても、たぶん勝てないから」
「賢いのか呑気なのかわからないわ」
「両方かな」
ガンツが噴き出した。
女性はため息をついたが、口元はわずかに緩んでいた。
店を出ると、通りのざわめきがまた押し寄せてくる。
「さて」
アウリィは貨幣袋をポーチにしまった。
「次は宿かな」
「そうだな。泊まるなら『青錆亭』が無難だ」
「無難はいい言葉だね」
「旅人にとってはな」
歩き出そうとした、そのときだった。
――甲高い警笛。
通りの向こうで、人々が一斉にざわつく。
「退け! 退けえッ!」
怒号。
何か重いものが壊れる音。
ガンツが「くそ」と短く吐き、アウリィの肩を押した。
「下がれ!」
言われる前に、アウリィはもう動いていた。
視線の先、路地を突っ切ってきたのは、荷を積んだ小型蒸気車だ。前輪の片方が外れかけ、車体が大きく傾いている。操縦席の男は顔面蒼白でレバーにしがみついていたが、制御できていない。
進行方向には、露店と、足の遅い老人が一人。
アウリィの頭の中で、距離と速度とタイミングが一瞬で組み上がる。
精霊術は鈍い。大きな術を使う暇はない。なら、身体で足りる。
地面を蹴った。
真紅のマントが翻る。小柄な体は人々の隙間を縫い、蒸気車の前へ滑り込む。老人の襟首をつかみ、通りの外へ投げるように押し出す。
次の瞬間、蒸気車の側面に手をかけた。
熱い。金属が焼けている。
それでもアウリィは歯を見せて笑った。
「元気だねえ!」
「何だそりゃあ!?」
操縦席の男が悲鳴を上げる。
返事の代わりに、アウリィは身体を沈めた。ぶつかる力そのものを止めるのではなく、傾きを誘導する。流す。車輪の向きを読んで、崩れる先を選ぶ。細い腕には不釣り合いなほど洗練された動きだった。
がしゃん、と派手な音を立てて蒸気車が横倒しになる。荷台の木箱がいくつか飛び、果物のような赤い実が石畳に散らばった。
沈黙。
続いて、わあっと人々の声が上がる。
「助かった……」
「おい、あの嬢ちゃん一人でやったぞ」
「いや今のどうなってた!?」
ガンツが呆れ顔で近づいてきた。
「お前、見た目に反して無茶苦茶するな」
「見た目に反しては余計だよ」
「そこに反応すんのか」
「するよ」
アウリィは頬をふくらませた。手のひらが少し赤くなっている。熱傷というほどではないが、じんじんする。こっそり風の精霊にささやくと、遅れて冷たい気配が指先にまとわりついた。反応が鈍いなりに、やる気はあるらしい。
「……ありがと」
か細い声。
見ると、さっき押し出した老人が、へたり込んだままこちらを見ていた。目尻に深い皺。海風にさらされたような顔だ。
アウリィはしゃがみこんだ。
「立てる?」
「お、おう……なんとかな」
「よかった」
老人はその顔を見て、ぽかんとした。
「なんだい、お嬢……」
「アウリィです」
「……アウリィ。あんた、笑うんだな」
「うん?」
「いや、ああいう動きする奴ァ、もっと怖い顔してるもんかと」
「怖い顔もできるかもしれないけど、あんまり好きじゃないから」
すると老人は、しわくちゃの手で頭をかいた。
「変な娘だ」
「よく言われる」
横転した蒸気車の操縦士が、半泣きで何度も頭を下げている。周囲の人々も手伝い始め、さっきまでの騒ぎは少しずつ片付けの空気に変わっていった。
その流れの中で、アウリィはひとつの視線に気づいた。
通りの向かい。配管の影。
誰かが見ている。
細い、鋭い視線だった。敵意というより観察に近い。目が合った、と思った瞬間、その影はひらりと身を引いた。灰色の外套。短い黒髪。たぶん若い。
「……?」
「どうした」
ガンツの声に、アウリィは首を振る。
「いや、なんでもない」
本当は少し気になった。だが、世界に来たばかりの旅人が、知らない町で知らない視線を一つ二つ受けるのは珍しいことではない。気にしすぎても仕方がない。
けれど、胸の奥に小さな棘みたいな感覚は残った。
世界に受け入れられているあいだしかいられない。
その感覚は、長い旅の中で何度も味わってきた。歓迎される世界もある。拒む世界もある。最初は穏やかでも、ふとした拍子に空気が変わることもある。
今のところ、この世界はまだ判断を保留しているように感じた。
「……まあ、いいか」
「何がだ」
「ううん。今日の夕飯、魚がいいなって思って」
「切り替え早えな」
「旅人だからね」
ガンツは半ばあきれ、半ば感心したように息をついた。
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青錆亭は、たしかに無難な宿だった。
表の看板は青く塗られた金属板で、錆の模様が波のように見える。中は木と鉄を組み合わせた内装で、思ったより清潔だ。一階は酒場兼食堂になっていて、夕方前だというのにすでに客が何組かいた。
カウンターの向こうには、ふくよかな女将がいる。腕まくりした前腕がたくましい。
「一泊、食事つきで」
ガンツに教わった相場を思い出しながら貨幣を出すと、女将は慣れた手つきで受け取った。
「部屋は二階の端。鍵はこれ。風呂は湯が出てるうちなら自由。夜更かしは勝手にしな、騒がなきゃね」
「ありがとう」
「ずいぶん可愛い旅人だこと」
アウリィの頬が引きつる。
女将は悪気なくにこにこしているだけだが、その「可愛い」が「年若い」に接続しそうな気配を察したのだ。
「可愛いより頼もしいって言ってもらえると嬉しいな」
「おや、そういうお年頃かい」
違う。そういう問題ではない。
しかし説明すると余計に子ども扱いが深まりそうで、アウリィはぐっとこらえた。ガンツが横で肩を震わせている。あとで覚えておけと思う。
部屋は狭いが悪くなかった。小さなベッド、丸窓、金属の洗面台。壁の向こうから配管を流れる湯の音がする。窓を開ければ、港の一部が見えた。クレーンの骨組みと、煙と、海。
アウリィはトランクを取り出した。
見た目は古びた旅行鞄だが、内部は拡張されていて、下手な部屋より広い。便利だが、便利すぎるせいで中身はだいたい散らかる。
「うわ」
開けてすぐ、自分で言った。
「前の世界で急いで仕舞ったんだっけ……そうだった……」
布。箱。瓶。乾燥させた茶葉。古い手紙。見覚えのあるようなないような飾り紐。小さな木彫りの鳥。使いかけのインク。日用品と思い出が雑に同居している。
少しだけ、胸がちくりとした。
何万年も旅をしていれば、持ち物は増える。捨てたものはもっと多い。残したものだけでも、こうして積み重なっていく。
けれど、そのどれもが今の自分をちゃんと説明してくれるわけではない。古い記憶は摩耗して、輪郭がぼやけている。誰にもらったか思い出せるものもあれば、どうして捨てられなかったのかわからないものもある。
アウリィは無意識に髪飾りへ触れた。
赤い彼岸花。
母からもらったものだ。そう理解している。大切だった。きっと、とても。けれど顔は思い出せない。声も、匂いも、手の温度も。
思い出せないことを悲しむ時期は、たぶん、とっくに過ぎた。
それでも、ふとした瞬間に胸の奥が空洞みたいになることがある。
「……だめだめ」
自分で自分に言う。
「初日から湿っぽいのはよくない」
旅をしている理由だって、今では自分でもうまく言えないのだから。
何かを探していた気もする。何かから逃げていた気もする。世界を渡るたび、景色に見惚れて、出会いに笑って、別れで少しだけ痛んで、その繰り返しの中で、本当の理由は砂みたいに指の間からこぼれ落ちていった。
けれど、未知を見たい気持ちだけは本物だ。
それが残っているなら、まだ進める。
アウリィは日記帳を取り出した。革張りの、手に馴染んだ一冊。新しい頁を開き、インクペンを走らせる。
『錆海編、一日目。
空は煙で曇っていて、海は鉄の匂いがした。
精霊たちは少し人見知り。
端港の人々は忙しなくて、でも見て見ぬふりが下手そうだ。
ガンツという世話焼きの修理屋に助けられた。
蒸気車をひっくり返したら目立った。ちょっとやりすぎたかもしれない。』
そこでペン先が止まる。
少し考えてから、もう一行足した。
『配管の影から、誰かに見られていた気がする。』
書いてしまうと、逆に気になってくる。アウリィは苦笑して、日記を閉じた。
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夕食は本当に魚だった。
白身魚を香草と油で焼いたものに、黒いパン、貝のスープ。見た目は素朴だが、塩気が利いていておいしい。アウリィは幸せな気持ちで頬を緩めた。
「おいしい……」
「そんな顔して食う奴を久々に見た」
向かいに座ったガンツが言う。
結局、宿まで送ってきた流れで、彼もここで食事を取ることになったのだ。律儀というか面倒見がいいというか。
「だっておいしいよ」
「そりゃそうだが」
「旅先で最初のごはんがおいしいと、だいたいいい世界なんだ」
「食い物基準か」
「かなり大事だよ」
ガンツは呆れながらも、少しだけ興味深そうだった。
「お前、いろんなとこ旅してるんだな」
「うん」
「どこが一番良かった」
問いは軽い。世間話として、ごく普通だ。
けれどアウリィは、手を止めた。
一番。
その言葉はときどき残酷だ。長い長い旅のなかで見た景色、会った人、救われたこと、置いてきたもの。そのどれか一つを選ぶことは、ほかを切り捨てることに少し似ている。
「……難しいなあ」
結局、そう答える。
「一番を決めるのって苦手」
「優柔不断か」
「違うよ。たくさん良かったから」
「ふうん」
ガンツは深くは追及しなかった。ありがたいと思う。
代わりに、彼はスープをすすってから言った。
「この町は、まあ……住むには面倒だが悪くない。魚はうまいし、仕事もある。空気は悪い」
「最後が強いね」
「事実だ」
「好きなの、この町」
ガンツは少し黙った。
「……どうかな」
「どうかな?」
「嫌いじゃねえ。だが、好きって言い切ると腹が立つ日もある」
アウリィは目を瞬かせた。
それは、なんだかとても正直な答えだった。
「いいね、その言い方」
「何が」
「好きじゃないから大事にしない、にはならないでしょ」
ガンツは答えず、魚の骨を皿の端に寄せた。
その沈黙の形で、アウリィは少しだけわかる。彼はこの町に根を張っている。文句を言いながら、壊れたものを直し、面倒を見て、ここで生きている。
そういう人の時間は重い。
旅人の時間とは違う重さだ。
だからこそ、少し羨ましくもある。
「……あのさ」
アウリィが口を開いたとき、宿の扉が勢いよく開いた。
冷たい風が吹き込み、食堂の客たちが一斉に振り返る。
入ってきたのは、灰色の外套を着た細身の若者だった。短い黒髪。鋭い目。さっき、配管の影にいた人物だ。
アウリィの背筋が、ごくわずかに伸びる。
若者は店内を見回し、まっすぐこちらへ歩いてきた。
ガンツが眉をひそめる。
「……おい、ニクス。なんだその顔」
ニクス、と呼ばれた若者は答えなかった。アウリィの前で立ち止まり、じっとその黄色い目を見た。
近くで見ると、年はアウリィより少し上に見える。十代の終わりか二十代のはじめ。頬はこけ気味で、眠っていない人間の目をしていた。
そして、開口一番、こう言った。
「今日、積み替え場の北側で落ちたろ」
アウリィはぱちぱちと瞬く。
「うん」
「空から」
「うん」
「やっぱりか」
ニクスはひどく疲れた顔で、額を押さえた。
「最悪だ」
「えっ、なんで」
「だいたい空から来る奴は厄介なんだよ」
むっ。
アウリィは椅子の上で背筋を正した。
「偏見だなあ。ボクはそんなに厄介じゃないよ」
「蒸気車ひっくり返してる時点で十分厄介だろ」
「助けただけだよ!」
「結果的にな!」
ガンツが盛大にため息をついた。
「知り合いか?」
「知り合いじゃない」
「まだね」
アウリィが言うと、ニクスは嫌そうな顔をした。
「その“まだ”を付けるな」
「これから知り合うかもしれないでしょ」
「知り合いたくない」
「ひどい」
本気で傷ついた顔をすると、ニクスが一瞬だけたじろいだ。押しに弱いのかもしれない。
「……とにかく」
彼は声を低くした。
「お前、今夜は一人で出歩くな」
食堂の空気が少しだけ変わる。
ただの言い争いではない響きだった。
アウリィは笑みを引っ込める。
「理由を聞いても?」
ニクスは答える前に、ちらりと周囲を見た。聞き耳を立てている客がいる。女将もカウンターの向こうで手を止めていた。
「……場所を変える」
「やだ」
即答すると、ニクスの眉間に皺が寄る。
「は?」
「だって、理由も言わずに移動しろって、怪しいもん」
「怪しいのはお前だろうが」
「それとこれとは別」
ガンツが腕を組んだ。
「ここで言えねえ話なら、俺も聞く必要があるな」
「ガンツさんまで……」
ニクスは露骨に嫌そうだった。だが、少し迷ったあと、観念したように低く言う。
「最近、この町で“落ちてきたもの”が狙われてる」
アウリィは瞬きを一つ。
「落ちてきたもの?」
「人も物もだ。空から現れるもの、海霧の向こうから流れ着くもの、そういう得体の知れないものを集めてる連中がいる」
「蒐集家趣味?」
「そんな可愛いもんじゃない」
ニクスの声には、はっきりした嫌悪があった。
「手に入れたものが何を起こすか、試して回ってる。壊れるなら壊れるでいいって顔でな」
ガンツの目つきが変わる。
「……黒炉会か」
「たぶん」
「まだ潰れてなかったのか、あいつら」
話についていけないまま、アウリィは二人を見た。
黒炉会。物騒な名前だ。
けれどニクスが最初から自分を見張っていたのだとしたら、その理由は一応つく。
「つまり、ボクが珍しいから狙われるかもってこと?」
「そうだ」
「それで最悪って言ったの?」
「そうだよ」
「ひどくない?」
「事実だろ!」
思わず声が弾む。半分はむっとして、半分はおかしくて。
ニクスは本当に、心の底から面倒ごとを嫌がっている顔だった。そして、嫌がりながら放っておけない顔でもある。
アウリィはそんな相手を前にすると、少しだけ意地悪したくなる。
「じゃあ、ニクスが守ってくれるの?」
「なんでそうなる」
「出歩くなって忠告してくれるくらいだし」
「忠告しただけだ」
「でも見張ってたんでしょ?」
「……それは」
詰まった。
ガンツが吹き出す。
「図星か」
「うるさい」
ニクスは耳まで少し赤くなっていた。アウリィは堪えきれずに笑った。
「ふふっ。じゃあ、ありがとう」
「礼を言われる筋合いはない」
「あるよ。ボク、親切にはちゃんと感謝するほうだから」
ニクスは露骨に言葉を失った。
たぶん、この手の真っ直ぐな感謝に慣れていない。そういう人間だ。
ほんの一瞬だけ、その目から刺が抜けた気がした。
だが次の瞬間、彼はまた険しい顔に戻る。
「……とにかく、窓に鍵をかけろ。知らない音がしても開けるな。妙な連中を見たら騒げ」
「わかった」
「わかったならいい」
「ニクスは?」
「俺は――」
そこまで言ったところで、宿の外から、低く鈍い音が響いた。
どん。
続けて、どん、どん、と二度。
まるで、巨大な何かが港のどこかで脈を打ったみたいな音だった。
食堂中が静まり返る。
誰かが、小さく言った。
「……また、鳴った」
女将の顔色が変わる。
ガンツが椅子から立ち上がる。
ニクスは舌打ちした。
「くそ、早い」
「何?」
アウリィが問うと、ニクスは窓の外を睨んだまま答えた。
「海の下で、何かが起きてる」
三度目の音が、今度はもっと近くで鳴った。
窓硝子がびりびり震える。
港の方角で、誰かの悲鳴が上がった。
アウリィは立ち上がる。胸の奥で、好奇心と警戒が同時に跳ねた。
新しい世界の最初の夜は、どうやら静かには終わってくれないらしい。
ニクスが振り返る。
「言っとくけど、これは観光じゃないぞ」
アウリィは、にっと笑った。
「知ってる。でも、見に行かなきゃ始まらないでしょ?」
「だから厄介なんだよ、お前みたいなのは!」
その叫びと同時に、外で蒸気警報が鳴り響いた。
錆海の夜が、赤く騒ぎ始める。




