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5話「追想」

朝が来た。


昨夜は眠れないかもしれないと思ったのに、いつの間にか眠っていたらしい。目を開けると、窓の外に晴れた空が広がっていた。昨日の曇天が嘘のように澄んだ蒼穹。雲の海は白く輝いて、遠くの島々がくっきりと浮かんでいる。


ひとつ少なくなった島々が。


起き上がって顔を洗い、着替えた。いつもの手順。ワンピース、タイツ、ベスト、ブーツ。マント。髪飾り。ベルトポーチ。


今朝だけ、ひとつ違うことをした。


ベッドの上にトランクを開いた。雑多な品々が詰まった内部拡張空間の底のほうを掻き分けて、手を突っ込む。乾燥果実の袋、古い地図、正体不明の鍵——その奥に、指先が硬いものに触れた。


引き出す。


細長い金属の棒。銀色よりやや青みがかった、独特の光沢を持つ金属。ミスリル。


聖槍だ。


普段は専用の魔法で収納しているが、取り出すこともできる。柄を握ると、手のひらに馴染んだ。何万年もの間、この手で振るってきた得物。槍の穂先は磨き上げられたように滑らかで、微かに精霊の力を帯びている。


しばらく見つめてから、再び収納の魔法をかけた。手の中から槍が消える。必要になれば、いつでも呼び出せる。


階段を降りた。食堂は昨夜の避難者たちでいっぱいだった。マリサが大きな体で鍋を運び、パンを配っている。その合間に、子どもたちの頭を撫で、老人に声をかけ、泣いている女性の背中をさすっている。


隅のテーブルにヨルンが座っていた。茶を飲んでいる。大きな手の甲に、ロープで擦りむいた跡が残っていた。


向かいに座った。


「おはよう」


「ああ」


「ティナは」


「呼んである。すぐ来るだろう」


言葉少なに茶をすする。昨日の疲労はまだ顔に残っていたが、目の光は鈍っていなかった。


ティナが入ってきたのは、それから間もなくだった。工具袋を肩に提げている。いつでも仕事に行ける格好。目の下に隈がある。あまり眠れなかったのだろう。


三人がテーブルに揃った。


アウレーリエは深く息を吸い込んだ。


「昨日の続き。——ボク、雲の下に行こうと思ってる」


ティナの箸が止まった。ヨルンは茶を飲む手を止めなかった。


「精霊たちに聞いたの。雲の下に大いなる根がある。おじいさんの手記にあった通り。全ての島の根石はそこから力をもらって浮かんでる。その根が枯れかけてる。何か暗いものに蝕まれて」


「それで、行ってどうする」


ヨルンが静かに聞いた。


「歌を届ける。根石の歌——調律師がやっていたのと同じこと。精霊を通じて大いなる根に歌を届ければ、力が戻るかもしれないって、精霊たちが言ってた」


「かもしれない、か」


「うん。確実じゃない。でも——」


「でも、昨日みたいに島が落ちるのを見てるだけなのは嫌だ。そう言いたいんでしょ」


ティナが遮った。その声は怒っているようでも、呆れているようでもあった。


「……うん」


「戻ってこられる保証は」


「ない」


ティナが唇を噛んだ。


「ある、って言ってほしかった」


「嘘はつけないよ」


沈黙が落ちた。食堂のざわめきが遠くに聞こえていた。避難者たちの声。皿がぶつかる音。子どもの笑い声——笑っている子どもがいる。昨日故郷を失ったばかりなのに。子どもは強い。


「ひとつ聞く」


ヨルンが茶を置いた。


「お前がやらなければならない理由は何だ。精霊と話せるからか。根石に触れるからか。それとも——」


ヨルンは真っ直ぐにこちらを見た。


「ただの、お節介か」


お節介。ネリアにも言われた。お節介な旅人。


「——全部、かな」


正直に答えた。


「精霊と話せるのはボクだけだし、根石に触れるのもたぶんボクだけ。でもそれだけじゃない。ボクがこの世界に来たのには、何か意味があるんじゃないかって——」


言いかけて、止まった。


意味。旅に意味を求めるのは危険だ。何千もの世界を渡ってきて、全ての世界に意味があったわけではない。ただ通り過ぎただけの世界もある。何もできなかった世界もある。


でも。


「ボクは数万年生きてきて、たくさんのことを忘れてきた。自分がなぜ旅を始めたのかも、もうよく覚えてない。でもね——忘れちゃいけないことが、ひとつだけあるの」


ふたりが黙って聞いている。


「目の前で誰かの場所がなくなりそうな時に、手を伸ばせるのに伸ばさなかったら——そういう自分を、ボクは好きになれない」


声が震えるかと思ったが、震えなかった。自分でも意外なほど、澄んだ声だった。


ティナが鞄の中から手帳を取り出した。おじいさんの手記ではない。昨日、ふたりで解読した内容を書き写した自分の手帳だ。


「これを持っていって」


「ティナ」


「おじいちゃんの歌の記譜法。あんたが解読してくれたやつ。根石に歌を届けるなら、この記録が要るでしょ」


手帳を受け取った。ティナの筆跡は几帳面で読みやすい。技術者の手帳だ。


「……ありがとう」


「お礼はいらない。帰ってきてから言って」


ティナの目は真っ直ぐだった。潤んでいたが、泣いてはいなかった。


ヨルンが立ち上がった。


「船を出す」


「え——ヨルン、あんたまで?」


ティナが驚いて見上げた。


「雲の下に行くには船がいる。落ちるのを待つわけにはいかんだろう」


「でも、戻れないかもしれないって——」


「渡し船は人を運ぶのが仕事だ。行き先が雲の下だろうと、それは変わらない」


ヨルンの声は淡々としていた。いつもと同じ、低くて無愛想な声。でもその目は——アウレーリエが初めて見る光を宿していた。


「ヨルン、危険だよ。ボクは精霊の加護があるけど——」


「お前ひとりで行かせるほど無責任な船乗りではないつもりだ」


「……ヨルン」


「それに——」


ヨルンは窓の外を見た。蒼い空。白い雲の海。朝日を受けて輝く島々。


「雲の下に何があるか、見てみたい。——渡し船乗りとして」


その声に嘘はなかった。怖くないわけがない。それでも——知りたいのだ。この人もまた、空を愛する者として。


「……わかった。一緒に行こう」


ティナが椅子を蹴って立ち上がった。


「私も行く」


「だめ」


アウレーリエとヨルンの声が重なった。


「何で!」


「ティナはここに残って。おじいさんの手記を持ってるのはティナだけなの。ボクたちが——もし戻れなくても、手記があれば誰かが後を継げる」


「そんな——」


「ティナ」


アウレーリエはティナの手を取った。油で汚れた、技術者の手。この手が未来を繋ぐ。


「おじいさんの知恵を受け継げるのはティナだけだよ。全部の記号を解読して、調律の技術を取り戻して。ボクたちが戻ったら、一緒に島を直そう」


「戻ったら、って——」


「戻るよ。たぶん」


「たぶんじゃ困るんだけど」


「じゃあ、きっと」


ティナの手が、ぎゅっとアウレーリエの手を握り返した。


---


出発の準備は、思いのほか早く整った。


ヨルンが船の点検をしている間に、アウレーリエは宿に戻って荷物をまとめた。トランクはティナに預けた。日記帳だけはベルトポーチに入れて持っていく。


「散らかってるけど、中は見ないでね」


「見ないよ。——でもあんたが帰ってきたら片付けさせるからね」


「う」


ネリアにも伝えなければと思ったが、時間がない。代わりにティナに頼んだ。


「ネリアさんに伝えて。お茶、おいしかったって。それと——ミラクの根石はまだ大丈夫。ちゃんと歌ってたって」


マリサには何と言おうか迷ったが、結局「ちょっと遠出してくる」とだけ言った。マリサは何も聞かずにパンを包んで持たせてくれた。


「腹が減っちゃ旅はできないよ」


「……ありがとう、マリサさん」


桟橋に向かう途中、掲示板の前を通りかかった。あの渡航禁止令の紙はまだ貼ってある。その隣に、新しい紙が追加されていた。おそらくエルダ島の避難に関する告知だろう。読めない文字が並んでいる。


この世界の文字、結局読めるようにならなかったな、と思った。もう少し時間があれば——


第三桟橋に着くと、ヨルンの船はすでに帆を張り、出発の準備が整っていた。ティナが桟橋に立っている。見送りに来たのだ。


船に乗り込む前に、もう一度ティナに向き合った。


「ティナ。ひとつだけ聞いていい?」


「何」


「おじいさんのこと、好きだった?」


ティナは一瞬きょとんとして、それから笑った。泣きそうな、でも確かに笑っている顔で。


「大好きだったよ。根石を触る手がすっごく大きくて、温かくて——私が泣いてると、頭にぽんって手を置いてくれるの。それだけで安心した」


「いいおじいさんだね」


「うん。最高のおじいちゃんだった」


その言葉を胸にしまった。知らない人の記憶を、自分の中に入れる。日記に書くまでもなく覚えていられるように。


「行ってくるね」


「行ってらっしゃい。——絶対帰ってきて」


船に飛び乗った。ヨルンがロープを解く。帆が風を受けて膨らみ、船がゆっくりと桟橋を離れた。


ティナの姿が小さくなっていく。最後まで手を振っていた。


---


船は南に向かった。


群島の南端——最も雲の海に近い空域に、大いなる根に繋がる道があると、精霊たちが教えてくれた。雲が薄くなっている場所。そこから下に潜れば、大いなる根に辿り着ける。


航行中、アウレーリエは甲板に座ってティナの手帳を広げていた。記譜法の解読結果を頭に叩き込む。根石の歌。調律師が歌い継いできた、大地の記憶。


——音の高さ。持続時間。力の質。振動の波形。


全てを覚えなくてもいい。精霊たちが手助けしてくれると言っていた。自分はただ——声を出すだけでいい。精霊たちがそれを歌に変えてくれる。


「ヨルン」


「何だ」


「雲の下に降りた船で戻ってきたものはない、って言ったよね」


「ああ」


「でもヨルンは来てくれた」


「…………」


「怖くないの」


ヨルンは操舵輪から片手を離して、顎を擦った。


「怖い。——前にも言ったが、怖いさ」


「うん」


「だが、お前が落ちかけた桟橋に飛び移った時に思ったんだ。あの小さな身体で、迷いもなく飛んだ。——あれを見て、自分だけ安全な場所にいるのは、性に合わんとな」


「小さいって言った」


「事実だ」


「むう」


ヨルンが——笑った。声を出して。低い、短い笑い声だったが、アウレーリエが初めて聞くヨルンの笑い声だった。


「……何笑ってるの」


「いや。——お前は本当に子どもではないんだな、と思っただけだ」


「今さら?」


「ああ。今さらだ」


風が変わった。南に進むにつれて、空気の質が変わっていく。湿度が上がり、風が重くなる。雲の海の表面が近づいているのだ。普通の航路ではここまで降りてこない。


島影がなくなった。周囲に浮かぶ島はひとつもない。ただ白い雲の海が、どこまでも広がっている。


「精霊が言ってる。もう少し南に——あそこ」


指差した先に、雲の海の表面に穴が開いていた。渦を巻くように雲が薄くなっている箇所。その中心は暗い。雲の下の闇が覗いている。


「あそこから降りるの」


ヨルンは操舵輪を握り直した。


「浮遊石の出力を落とせば、船は沈む。問題は——下に何があるかだ」


「精霊たちが導いてくれる。たぶん」


「たぶんが多いな、お前は」


「確実なことなんて、どの世界にもないよ」


船が雲の穴の上に差しかかった。見下ろすと、渦の中心に暗い空間が口を開けている。冷たい風が下から吹き上げてきた。精霊たちの気配が急激に薄くなる。下の世界は、精霊たちにとっても未知の領域なのだ。


「——行くよ」


ヨルンが帆を畳み、浮遊石の出力を絞った。船がゆっくりと沈み始める。雲の層が視界を覆い、一瞬だけ何も見えなくなった。白い霧の中を落ちていく。マントの加護が冷気から身体を守ってくれているが、それでも骨の芯まで染み通るような寒さがあった。


そして——雲を抜けた。


「…………」


ヨルンが息を呑んだ。アウレーリエも声が出なかった。


雲の下には——もうひとつの世界があった。


暗かった。太陽の光は雲の層に遮られて、ぼんやりとした薄明かりだけが漂っている。その薄明かりの中に、巨大な柱が何本も聳え立っていた。島の底部だ。空に浮かぶ島々の、下から見た姿。逆さまの山のように天に向かって伸びる無数の岩の柱が、雲の天井を支えるように立ち並んでいる。


そしてその柱の根元——遥か下方に、それは在った。


光っていた。


巨大な——途方もなく巨大な結晶体が、闇の底に横たわっている。青白い光を放ちながら、脈打つように明滅している。根石と同じ光。しかしその規模は、ミラクで見た根石とは比較にならない。島ひとつ分——いや、それ以上の大きさ。


大いなる根。


全ての島の母体。世界の始まりの石。


そしてその表面を——黒い靄のようなものが覆っていた。


脈動する青白い光を、黒い靄が侵食している。光が消えた箇所は二度と灯らない。ゆっくりと、確実に、黒が青を呑み込んでいく。


「あれが——暗いもの」


精霊たちが恐れていたもの。根を蝕んでいるもの。


「何だ、あれは」


ヨルンが低く呻いた。


アウレーリエは目を閉じた。精霊の力を通じて、大いなる根の状態を探る。触れた瞬間、膨大な情報が流れ込んできた。


痛み。疲弊。孤独。


大いなる根は——苦しんでいた。何千年もの間、ひとりで全ての島を支え続けて、その力が限界に近づいている。黒い靄は——大地が砕けた時に生まれた傷痕だった。大変動の残響。世界が壊れた時の痛みが、何千年もかけてゆっくりと根を蝕んでいた。


傷は新しいものではなかった。世界が生まれた時から——島が空に浮かんだ最初の日から、この傷はあったのだ。調律師たちが歌を届けることで抑えてきた。けれど調律師が途絶え、歌が聞こえなくなってから、傷は急速に広がった。


歌を忘れた石は、痛みに耐えられなくなっていく。


「ヨルン、もっと近づけて」


「これ以上降りたら戻れなくなるぞ」


「戻るよ。——絶対戻る」


ヨルンは歯を食いしばった。操舵輪を回し、浮遊石の出力をさらに絞る。船が大いなる根に向かって降下していく。黒い靄が近づいてくる。冷たい。暗い。船体が軋む。


充分に近づいたところで、アウレーリエは船首に立った。


マントが風にはためく。真紅の布地の裏の黄色が、大いなる根の青白い光を受けて淡く輝いた。


聖槍を呼んだ。


手の中にミスリルの冷たい感触が現れる。銀青色の穂先が、闇の中に一筋の光を描いた。


槍を両手で握り、穂先を大いなる根に向けた。槍は精霊術の触媒になる。自分の声と精霊の力を束ねて、遠くまで届ける杖。


目を閉じた。


ティナの手帳の記譜法を思い出す。音の高さ。持続時間。力の質。振動の波形。根石の歌。調律師が歌い継いできた——


歌い方を、アウレーリエは知らない。調律師ではないから。


でも、精霊たちが教えてくれると言った。


——きこえる?


呼びかけた。


——ここにいるよ。


応答があった。微かだけれど、確かに。雲の上から——遥か高い空から——無数の小さな声が降りてきた。精霊たちが、雲の層を越えて声を送ってくれている。


——うたって。


——わたしたちが、おしえるから。


——うたって。ねに、とどけて。


声を——出した。


最初は震えた。闇の中で、巨大な根の前で、自分の声がどれほどちっぽけか思い知らされる。何万年生きていても、この身体は百四十七センチしかない。この喉は小さい。この声は細い。


でも。


精霊たちの力が、声に重なった。


風の精霊が声を運び、土の精霊が声を深くし、あらゆる精霊たちがアウレーリエの歌を編み上げていく。ティナの手帳にあった記譜法の通りに——でもそれだけではなく、もっと古い、もっと根源的な旋律が、精霊たちの記憶の底から立ち上がってきた。


調律師たちが歌い継いできた歌。その原型。最初の調律師が——きっと精霊と話せた最初の人間が——大いなる根に捧げた歌。


言葉のない歌だった。意味はわからない。でも声にすると、胸の奥が振動した。根石に触れた時と同じ感覚。圧倒的で、冷たくて、でもどこか懐かしい——


大いなる根が応えた。


青白い光が、一瞬だけ強くなった。鼓動が速まった。黒い靄の侵食が——止まった。止まっただけではない。光が、少しだけ押し返している。


もっと。もっと歌を。


声を張り上げた。槍を掲げ、精霊の力を束ね、歌を大いなる根に叩き込む。


黒い靄が抵抗した。冷たい風が吹き付け、船が大きく揺れた。ヨルンが操舵輪にしがみつく。靄がアウレーリエに向かって伸びてきた。


恐怖が襲った。


靄に触れた部分が凍えるように冷たくなる。マントの加護が懸命に身体を守っているが、精神的な圧迫は防ぎきれない。痛み。悲しみ。絶望。靄は世界が壊れた時の痛みそのものだ。何千年分の——


——やめろ。お前には関係ない。


靄がそう言った気がした。言葉ではない。感覚として。


お前はこの世界の者ではない。旅人だ。いずれ去る者だ。この痛みはお前のものではない。


——その通りだ。


アウレーリエは思った。この痛みは自分のものではない。この世界は自分の故郷ではない。


でも。


——ボクは今、ここにいる。


目を開けた。金色の瞳が、闇の中で光った。


——ここにいる間は、ここの人間だ。


声を——叫びに近い声を上げた。歌が闇を切り裂いた。精霊たちの力が爆発的に膨らみ、聖槍が青白い光を放った。


大いなる根が——歌った。


アウレーリエの歌に応えて、根そのものが鼓動を取り戻した。力強い、深い、世界を支える歌。忘れていた歌を思い出したように——あるいは、聞こえなくなっていた歌が再び耳に届いたように。


黒い靄が引いていく。消えたのではない。まだそこにある。世界の傷は消えない。でも、歌がある限り——歌を届ける者がいる限り——傷は広がらない。


光が溢れた。


大いなる根から放たれた光が、上に向かって走った。島々の根石に繋がる無数の脈を通って、力が一気に巡っていく。枯れかけた循環が息を吹き返す。


雲の下の闇が、少しだけ——ほんの少しだけ、明るくなった。


---


船が雲の上に戻った時、空は夕焼けに染まっていた。


アウレーリエは甲板の上に仰向けに倒れていた。全身の力が抜けて、指一本動かすのも億劫だった。精霊術を限界まで使った反動で、身体中が軋んでいる。


でも——空が見える。


蒼穹が橙に変わっていく、この世界の空。雲の海が金色に輝く空。見慣れた——たった五日で、もう見慣れたと思えるほど好きになった空。


「……戻って、きた」


「ああ。戻ってきた」


ヨルンの声が、少し掠れていた。


起き上がると、ヨルンが操舵席に座ったまま空を見上げていた。その目が、濡れている気がした。光の加減かもしれない。聞かないでおいた。


リーゲンが見えてきた。島の灯りが夕暮れの中にぽつぽつと灯り始めている。桟橋に小さな人影がある。


ティナだった。


船が桟橋に着く前に、ティナは桟橋の端まで走ってきていた。ロープが結ばれるのを待たずに、アウレーリエが甲板から降りるのを待たずに——


「おかえり!」


その声が、夕暮れの空に響いた。


「……ただいま」


応えた瞬間、足元に違和感があった。


ほんの微かな——けれど、間違いようのない感覚。


桟橋の板が、少しだけよそよそしくなった。


さっきまで確かに自分の体重を受け止めていた地面が、ほんのわずかに——拒んでいる。


ああ、とアウレーリエは思った。


来たか。


風が背中を押していた。優しく、けれど確かに。もう行きなさい、と言うように。


この世界の受け入れが、終わりに近づいている。


---


その夜、マリサの旅亭の食堂で、ささやかな食事の席が設けられた。


ヨルンとティナとアウレーリエ。三人だけのテーブル。マリサが特別に作ってくれた芋団子の煮込みと、ルゥ茶。


大いなる根に歌を届けたことで、群島全体の根石の状態が持ち直し始めたのは、帰ってきてすぐにわかった。ティナが工房の仲間から聞いた話では、各地の島で浮遊石の出力がわずかに上がったという報告が入っているそうだ。


「一時的なものかもしれないけど——でも、確実に変化はあった。あんたのおかげだよ」


ティナが言った。


アウレーリエは芋団子を頬張りながら、首を横に振った。


「ボクだけのおかげじゃないよ。精霊たちが歌を教えてくれた。ヨルンが船を出してくれた。ティナがおじいさんの手記を解読してくれた。ネリアさんが根石のことを教えてくれた。みんなの力だよ」


「殊勝なことを言うな」


ヨルンがルゥ茶をすすった。


「でも——これで終わりじゃないんだよね」


ティナが手帳を開いた。記譜法の解読結果が並んでいる。


「暗いものは消えてない。歌を届け続けないと、また——」


「うん。だから——ティナに頼みたいの」


アウレーリエは団子を飲み込んで、真っ直ぐにティナを見た。


「調律の技術を取り戻して。おじいさんの手記の残りも全部解読して、できれば他の人にも教えて。精霊と話す方法も——ボクが感じたことを全部伝えるから、手がかりにして」


「私に——できるかな」


「できるよ。ティナは根石の脈を感じられないかもしれないけど、理解はできる。技術は理解から始まるんでしょ」


ティナは手帳を握りしめた。


「……うん。やる。おじいちゃんの後を、継ぐ」


「ヨルンにもお願いがあるの」


「何だ」


「遠くの島にも、歌を届けに行かなきゃいけない時が来ると思う。その時は——」


「船を出せ、と言うんだろう」


「うん」


「言われなくてもそうする」


ヨルンは茶を飲み干した。


それから三人は、深夜まで話し込んだ。精霊との対話の方法。根石の力の性質。記譜法の細部。アウレーリエが知っていること、感じたことを、全てティナの手帳に書き写した。


話しながら——足元の感覚を、ずっと意識していた。


よそよそしさが、少しずつ増している。この世界が自分を手放そうとしている。明日か。明後日か。もう長くはない。


言わなければならない。でも——まだ言えなかった。


---


翌朝。


六日目の朝日は、初日と同じように美しかった。


雲の海から昇る太陽。白い雲が金色に輝き、島々のシルエットが鮮烈に浮かび上がる。


展望台に立って、それを見ていた。風が頬を撫でた。精霊たちの気配が近い。昨日よりもずっと近い。歌を届けたことで、精霊たちとの距離が一気に縮まったのだ。


——ありがとう。


——ねが、うたいはじめた。


——まだよわいけど、うたってる。


「よかった」


——でも、あなた、いくんだね。


「……わかるの?」


——かぜが、おくってる。つぎのせかいに。


「うん。——もう少しだけ、待ってもらえるかな」


——すこしだけなら。


足元の石畳を踏みしめた。冷たい。昨日よりもっと冷たい。世界の拒絶が強まっている。明日までは持たないかもしれない。


宿に戻って、トランクを受け取りに行った。


「片付けさせるって言ったのに、もう行くの?」


ティナの声が震えていた。アウレーリエが何も言わなくても——顔を見ればわかったのだろう。


「……ごめん。長くいられないの」


「どうして」


「世界がね、もう行きなさいって言ってる。ボクが異物だから。いつまでもは受け入れてもらえない」


ティナは唇を噛んだ。目が赤くなっていく。


「そんなの——あんたは異物なんかじゃ——」


「ティナ」


「だって——まだ三日しか経ってないのに——」


「六日だよ。六日も一緒にいたんだよ。ボクにとっては——充分すぎるくらい」


嘘だ。充分なんかじゃない。もっといたい。もっと知りたい。この空をもっと見ていたい。ティナの笑顔をもっと見ていたい。ヨルンの不器用な優しさにもっと触れていたい。


でも、それが旅というものだ。


出会って、知って、別れて、また歩き出す。


「ティナ。ボクの日記帳の最新のページ、読んでもいいよ。この世界のことが書いてある。ボクがこの世界で何を見て、何を感じたか——全部」


「読んだら泣いちゃうかもしれないんだけど」


「泣いていいよ。ボクも書きながらちょっと泣いたから」


ティナが笑った。泣きながら笑った。


---


桟橋にヨルンがいた。


船の手入れをしている——ふりをしていた。明らかに必要のない作業を、ゆっくりと繰り返している。


「ヨルン」


「……行くのか」


「うん」


「そうか」


ヨルンは帆の結び目をいじる手を止めなかった。


「行き先は——わからんのだったな」


「うん。どんな世界に行くかは自分でも選べない」


「そうか」


沈黙。


「ヨルン」


「何だ」


「最初に会った時、渡し賃にもらった宝石のお釣り、まだ残ってるよね」


「……ああ」


「取っておいて。ボクが戻ってきた時に返してもらうから」


ヨルンの手が止まった。


「戻ってくるのか」


「わからない。同じ世界にもう一度来られるかどうかも、わからない。でも——約束しておけば、理由になるでしょ」


「何の理由だ」


「戻ってくる理由」


ヨルンは長い間黙っていた。それから、ポケットから小さな布袋を取り出した。硬貨の入った布袋。釣り銭。


「……預かっておく」


「約束だよ」


「ああ。約束だ」


ヨルンが手を差し出した。大きな手。最初に握手をした時と同じ手。アウレーリエの手がすっぽり包まれる。


「世話になったな、渡し船乗り」


「客に礼を言われる筋合いはない。——元気でやれ、旅人」


手を離した。


桟橋を歩いて、町のほうに戻った。振り返らなかった。振り返ったら——たぶん、泣いてしまうから。


---


町外れの展望台。


ここに来るのは何度目だろう。たった六日なのに、何度も来た場所。


柵にもたれて、空を見上げた。蒼穹。白い雲の海。遠くの島々。


足元の石が、もう完全に冷たい。地面が自分を拒んでいる。もう時間がない。


ティナが走ってきた。息を切らして。


「間に——合った——」


「ティナ」


「これ——」


ティナが差し出したのは、小さな布の包みだった。開けると——乾燥させた薬草の束が入っていた。


「ネリアさんからのもらいもの。前に分けてもらったやつ。お茶にすると身体が温まるって」


「ネリアさんの——」


「あと、これ」


もうひとつ。小さな金属片。浮遊石の欠片だった。淡い青白い光を宿した、小指の先ほどの石。


「工房にあった端材。なんの役にも立たないけど——この世界のこと、忘れないでほしくて」


アウレーリエはふたつの贈り物をベルトポーチにしまった。手が震えた。


「忘れないよ。——忘れても、日記に書いてあるから。読み返せば、思い出す」


「約束して」


「する。するよ」


足元の地面が揺れた。地面ではない——自分自身が揺れているのだ。世界の境界が薄くなっていく。周囲の景色がわずかに透き通り始める。


時間だ。


「ティナ」


「うん」


「ボクがいなくても——歌を届けて。精霊たちに呼びかけ続けて。最初は聞こえないかもしれないけど、きっと届く。ティナなら——おじいさんの孫なら、きっと」


「うん。——うん」


ティナの目から涙がこぼれた。それでも笑っていた。


「行ってらっしゃい、アウリィ」


世界が溶ける。


視界が白くなっていく。音が遠くなる。ティナの顔が——笑いながら泣いている顔が——薄れていく。風の匂いが消えていく。精霊たちの声が遠ざかっていく。


最後に聞こえたのは、風の中の小さな声だった。


——またね。


——うたを、つづけるね。


——ありがとう。


身体の輪郭が曖昧になる。五感が溶けて混ざり合う。暗くて、明るくて、冷たくて、温かい。世界と世界の狭間。いつもの感覚。いつもの旅路。


目を閉じた。


いや——目を閉じたのか、それとも世界が閉じたのか。もう区別がつかない。


空の群島の残響が薄れていく。蒼い空の記憶。雲の海の輝き。芋団子の味。ルゥ茶の甘さ。ヨルンの大きな手。ティナの油で汚れた指。ネリアの皺だらけの笑顔。マリサの温かい声。根石の歌。精霊たちの声。


全部、遠くなっていく。


——忘れないで。


自分に言い聞かせる。日記に書いた。ポーチに薬草と浮遊石がある。約束もした。渡し賃の釣り銭が、あの布袋の中で待っている。


忘れても——思い出す手がかりは、ちゃんと残した。


暗くて明るい狭間の中で、アウレーリエは微笑んだ。


次はどんな世界だろう。


どんな空が見えるだろう。どんな風が吹くだろう。どんな人に会えるだろう。


まだ知らない。


それが——たまらなく、好きだ。


---


どれくらい漂っていただろう。


光が見えた。


新しい光。新しい世界の光。


身体の輪郭が戻ってくる。五感がひとつずつ分離していく。匂いが最初に戻った。土の匂い。草の匂い。それから——水の匂い。


目を開けた。


緑だった。


見渡す限りの緑。深い森が四方に広がっている。足元は柔らかい苔に覆われていて、頭上には木々の枝葉が重なり合って天蓋を作っている。木漏れ日が地面に斑模様を描いている。


どこかで鳥が鳴いていた。水の流れる音が近くから聞こえる。


森の世界だ。


空を見上げたが、木々に遮られて空は見えなかった。


「——よし」


立ち上がって、服についた苔を払った。赤褐色のブーツに傷はなく、ベストも無事。ベルトポーチはふたつとも腰についている。


手を頭にやった。


髪飾りがある。赤い彼岸花。触れると——微かに、温かい。


ベルトポーチを開けて、中を確認した。日記帳。ペン。換金用の宝石。そして——乾燥薬草の小さな包みと、淡い青白い光を宿した浮遊石の欠片。


浮遊石を指先で摘んで、光に透かした。


「…………」


何かを忘れかけている。大切な何かを。でも——手がかりがある。ポーチの中に。日記帳の中に。


日記帳を開いた。最新のページ。自分の筆跡。


——新しい世界。空に島が浮かぶ世界。


読み進めた。芋団子の煮込み。ルゥ茶。ヨルン。ティナ。根石。精霊。歌。


ああ——そうだ。


思い出した。全部ではないけれど、輪郭は戻ってきた。


蒼い空。白い雲の海。六日間の旅。


日記帳を閉じて、新しいページを開いた。ペンを取る。


——新しい世界。森の世界。

——前の世界のことは、日記を読めば思い出せる。大切な人たちのことも、交わした約束のことも。

——渡し賃のお釣り、まだ預けっぱなしだった。いつか返してもらわなきゃ。


ペンを止めて、森の奥を見た。木々の間から差し込む光が、金色の髪を照らしている。


新しい匂い。新しい音。新しい世界。


まだ知らないことが、たくさんある。


「——さて」


トランクを手に取って、歩き出した。森の奥へ。知らない道を。知らない明日へ向かって。


赤い彼岸花の髪飾りが、木漏れ日の中で静かに揺れた。

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