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4話「手記と歌と」

翌朝は曇っていた。


窓の外に広がるのは、いつもの蒼穹ではなく、低く垂れ込めた灰色の雲だった。空に浮かぶ島々は霞の中に沈んでいて、遠くのものはほとんど見えない。雲の海との境界が曖昧になっていて、上も下も灰色に包まれたような心許ない朝だった。


ベッドの上で膝を抱えて、しばらく外を眺めていた。


身体の奥にまだ、昨日の名残がある。根石に触れた時の感覚。あの圧倒的な鼓動と、下から引き剥がされるような力。指先の痺れはもう消えたけれど、身体の芯のあたりにほんのりと冷たいものが残っていた。ネリアの薬草茶のおかげでだいぶましにはなったものの。


マリサの食堂で朝食をとった。今朝のルゥ茶はいつもより少し濃かった。温かい液体が胃に落ちると、身体の内側から冷えが和らいでいくのを感じた。


「今日は天気が悪いねえ。こういう日は船が出にくいから、町も静かになるよ」


マリサがパンの追加を皿に載せながら言った。


「曇りだと船が出せないの?」


「出せないことはないけど、視界が悪いと島にぶつかる危険があるからね。慣れた船乗りなら構わず飛ぶけど、大方は待つよ」


「ヨルンは飛ぶかな」


「あの人? あの人は台風でも飛ぶよ。頑固者だからね」


マリサは笑った。ヨルンのことを知っているらしい。小さな町だ、顔見知りくらいにはなるのだろう。


朝食を終えて宿を出ると、約束の時間より少し早かったが、ティナはもう中央広場のベンチに座っていた。膝の上に古びた革の鞄を抱えていて、アウレーリエの姿を認めると手を振った。


「おはよう、アウリィ。早いね」


「ティナのほうが早いじゃん」


「待ちきれなくて。昨日の夜から、おじいちゃんの手記を引っ張り出して準備してたの。——それで、旅の話は?」


「ボクも話したいことがあるんだけど——先に手記、見せてもらっていい?」


ティナは小さく首を傾げたが、頷いて鞄を開けた。


「場所を変えよう。ここじゃ広げにくいから」


ティナに案内されたのは、工房通りの外れにある古い倉庫だった。今は使われていないらしく、埃っぽいが広い。木の作業台がひとつ残されていて、その上に手記を広げるには充分な場所があった。


「ここ、たまに使ってるの。おじいちゃんの手記を読むときとか、ひとりで考えたいときとか」


ティナは鞄から三冊の手帳を取り出した。革表紙で、どれも角が擦り切れている。ページの端が黄ばんで波打っていた。年季の入った手帳だ。アウレーリエの日記帳と、どこか似ている。


「全部で七冊あるんだけど、今日は特に重要そうな三冊を持ってきた。おじいちゃんが晩年に書いたやつ」


最初の一冊を開いた。びっしりと文字が詰まっている。この世界の文字はまだ読めないが、文字の間に図が描かれていた。


「これは……島の断面図?」


「そう。おじいちゃんが調律した島の構造を記録してあるの。この丸いのが根石で、ここから線が伸びてるのが——」


「力の脈だ」


「え?」


「昨日、ミラク島の根石に触ったの」


ティナの目が大きく見開かれた。


「触った!? 根石に!?」


「マント越しにね。——その時に感じたんだけど、根石から脈みたいなものが伸びてて、島全体に力を巡らせてた。この図と同じだよ。根石が中心にあって、そこから放射状に脈が走ってる」


ティナは手記の図をもう一度見つめた。それから、アウレーリエの顔を見た。


「……本当に触ったの。根石に」


「うん」


「信じられない。根石の力は一般人じゃ耐えられないって、おじいちゃんの手記にも書いてある。調律師は何年もかけて身体を慣らしてから触れるようになるって——」


「エルフだから、たぶん普通の人より精霊の力への耐性が高いの。それでも結構きつかったけど」


ティナは口を半開きにしたまま、数秒間固まっていた。それから大きく息を吐いて、手記に視線を戻した。


「——わかった。とにかく、続きを聞かせて。根石に触って、何がわかったの」


昨日の体験を話した。力の循環。下からの吸引。漏れ出す脈。精霊たちの声。


話しながら、ティナの表情が変わっていくのを見ていた。驚きから理解へ、理解から真剣さへ。工具を握る時と同じ目。問題の在処を特定しようとする技術者の目。


「下から吸われてる……」


ティナは手記を一枚一枚めくっていった。何かを探している。途中で指が止まった。


「これ」


開かれたページに、根石の図があった。他の図と違って、根石の下にも線が伸びている。島の底を突き抜けて、下方に向かって長く——そしてその線の先端に、おじいさんの筆跡で何かが書かれていた。


ティナが読み上げた。


「『根の先は雲底に達す。そこより下の力の流れは不明。かつて大地であった頃の名残か。根石は上に力を送るだけでなく、下からも何かを受け取っているように思われる。この循環の全容を解き明かさぬ限り、調律は対症療法に過ぎぬ』」


アウレーリエは息を詰めた。


「おじいさん、気づいてたんだ」


「……うん。でもこの先のページは」


ティナがめくると、次のページからは独自の記号が並んでいた。文字ではなく、図形や線の組み合わせ。規則性があるようにも見えるが、何を意味しているのかわからない。


「ここからが読めないの。たぶん調律の実技に関する記録なんだと思うんだけど、おじいちゃん独自の記譜法みたいなもので——」


「記譜法? 楽譜のような?」


「調律っていうくらいだから、音に関係してるんじゃないかって思ってる。おじいちゃん、根石を診る時に歌ってたことがあるって、お母さんが言ってた」


歌。ネリアも似たようなことを言っていた。ベルフォートの爺さんは何かに語りかけていた、と。そしてミラク島の精霊たちは、根石が歌っていると——


「これ、音を記録してるんだとしたら……」


手記の記号に見入った。文字が読めなくても、図形ならば手がかりがあるかもしれない。線の長さ、角度、太さ。規則的に繰り返される模様。どこかで見た気がする。何かに似ている。何に——


記憶を手繰った。古い記憶の海を潜って、何かを探す。指の間からこぼれていく砂粒の中に、ひとつだけ光るものがあった。


——歌。


遠い世界の記憶だ。いつだったか、どの世界だったか。大地の歌を記録する方法を教えてくれた誰かがいた。顔は思い出せない。名前も。でも、その人が石板の上に描いた図形の形は——


「似てる」


「え?」


「この記号。ボクが昔いた世界で見たことがある記法と——全然同じではないけど、考え方が似てるかもしれない」


ティナが身を乗り出した。


「わかるの!?」


「全部はわからない。でもたぶん——この縦の線が音の高さで、横の線が持続時間。この丸い記号が繰り返しの印。で、この波線が——振動の種類、かな。力の質を表してる」


「力の質?」


「根石の力はひとつじゃない。温かいものと冷たいもの、速いものと遅いもの——いろんな性質の力が混ざり合って流れてる。調律師はそれを整えるんだとしたら、どの性質がどんな状態かを記録する必要がある」


ティナは手記と、アウレーリエの指先と、その黄金の瞳を交互に見ていた。


「……ちょっと待って」


鞄から別の手帳——自分の手帳を取り出した。白紙のページを開いて、ペンを構える。


「もう一回言って。縦の線が音の高さ、横が——」


それから小一時間ほど、ふたりは手記の解読に没頭した。


アウレーリエが記号の意味を推測し、ティナがそれを自分の手帳に書き起こしていく。すべてが正しいかはわからない。別の世界の記法との類似から推測しているに過ぎないのだから、的外れな部分もあるだろう。けれど、ティナの目はどんどん輝いていった。ばらばらだった記号が、少しずつ意味を成していく。パズルのピースが嵌まるように。


「——ここ。この部分」


ティナが手記のあるページを指差した。記号の連なりの中に、赤いインクで強調された部分がある。他の記号と明らかに様子が違っていて、何度も書き直した跡があった。


「赤いインクで書いてあるのは、重要な部分?」


「たぶん。おじいちゃん、大事なことは赤で書く癖があったから」


アウレーリエは赤い記号をじっと見つめた。解読の推測に従えば、これは——


「深い音だ。すごく深い。根石の歌の中で一番低い音。そして——途切れてる」


「途切れてる?」


「この記号の並びだと、本来はここで音が折り返すはずなの。上に巡らせた力が戻ってくる場所。でも赤い記号のところで、流れが——切れてる。戻ってこない」


ティナの手が止まった。


「それって——」


「うん。おじいさんがこれを書いた時点で、もう異変は始まってたんだと思う。力の循環が途切れ始めてた。おじいさんはそれに気づいて、原因を探ろうとしてた」


「六年前に——いや、もっと前から」


「手記の日付は」


ティナはページの端を確認した。


「……八年前。亡くなる二年前だ」


八年前。その時点で既に、根石の異変は始まっていた。調律師であったベルフォートの爺さんはそれに気づき、記録し、おそらくは対処しようとした。けれどその途中で——


「おじいちゃんは、何をしようとしてたんだろう」


ティナの声が小さくなった。手帳を握る指先に力がこもっている。


「手記の最後のほうを見てみようか」


三冊目——最も新しい手帳を開いた。後半のページには文字が急に少なくなり、代わりに大きな図がいくつか描かれていた。島の断面図。根石から下に伸びる脈。雲の層。そしてその下に——


描きかけの図があった。


雲の下に、何かの輪郭が描かれている。巨大な——球体のようなもの。その表面に無数の線が走っていて、線の先端が上に向かって伸び、雲を突き抜け、各々の島の根石に繋がっている。


「これ……」


アウレーリエの声が掠れた。


「全部の島の根石が、雲の下の何かに繋がってる——」


「おじいちゃん、ここまで考えてたの……」


図の横に、最後の文字が書かれていた。ティナが震える声で読み上げた。


「『大いなる根。全ての島の母体。枯れかけている。この歌が止まれば、全てが落ちる』」


沈黙が降りた。


倉庫の中は薄暗く、埃が光の筋の中で静かに舞っていた。外では曇り空の下を風が吹いている。窓ガラスがかたかたと小さく鳴った。


全てが落ちる。


群島の全てが。


「ティナ」


「……うん」


「おじいさんは、この図を誰かに見せた? 議会とか、他の調律師とか」


「わからない。お母さんは何も聞いてないって言ってた。おじいちゃん、晩年は体調を崩してて、あまり外に出なくなってたから」


つまり、この発見は——もしこれが正しいのだとすれば——ベルフォートの爺さんの胸の中だけに留まったまま、彼と共に失われたのだ。


ティナが手帳を閉じた。ゆっくりと、大切なものを扱うように。


「……八年も前から」


「うん」


「八年もあったのに。おじいちゃんが気づいてたのに。誰にも伝わらないまま——島が落ち続けてる」


ティナの声は平坦だった。怒りでも悲しみでもなく、ただ事実の重みに押し潰されそうになっている——そういう声だった。


アウレーリエは何と言うべきか迷った。安易な慰めは嘘になる。かといって黙っているのも違う。


「——伝わったよ」


「え?」


「今、ティナに伝わった。おじいさんが見つけたものは、八年かかったけど、ちゃんとティナのところに届いた」


ティナはアウレーリエを見つめた。目が潤んでいた。でも泣かなかった。唇をきゅっと引き結んで、一度だけ深く息を吸い込んだ。


「——うん。そうだね」


ティナは手帳を鞄にしまった。その動作がいつもより丁寧で、いつもより遅かった。


---


倉庫を出ると、曇り空の下を冷たい風が吹き抜けた。


ティナは午後の仕事があるからと工房に向かい、アウレーリエはひとりで町を歩いた。頭の中では手記の図が回り続けている。


雲の下の巨大な球体。全ての島の根石を繋ぐ母体。「大いなる根」とベルフォートの爺さんは呼んだ。それが枯れかけている。


精霊たちに確かめたかった。


展望台に向かった。曇りの日は人気が少なく、ベンチにも誰もいなかった。柵にもたれて目を閉じる。


この三日間で、少しずつ精霊との距離は縮まっている。最初は気配だけだったものが、断片的な感覚になり、今ではかろうじて意味のある言葉が届くようになっていた。もう少し——もう少しだけ、深く繋がれれば。


意識を広げた。これまでで一番大きく、一番深く。自分の中にある精霊との親和性を、両手を広げるように開いた。


風が応えた。


今度は断片ではなかった。無数の小さな声が、ひとつの流れになって押し寄せてきた。


——きこえる?


——きこえるの?


——ひさしぶり。こんなに、はっきり、きこえるの。


「聞こえるよ」


声に出して答えた。風が頬を撫でた。精霊たちの気配が一気に近づいてくる。嬉しそうだった。何かに飢えていた者が、ようやく満たされたような——


——ずっと、よんでた。


——だれも、きこえなかった。


——ちょうりつし、がいなくなってから。


「調律師がいなくなってから、誰も精霊の声を聞けなくなったの?」


——うん。


——ひとりも。


——さみしかった。


その声に、胸が締めつけられた。この世界の精霊たちは、ずっと声を上げ続けていたのだ。島が落ちていく恐怖を。根石が弱っていく不安を。でも誰にも聞こえなかった。聞ける人がいなくなってしまったから。


「教えて。雲の下にあるもの——大いなる根って、何?」


精霊たちの声が揺れた。一瞬、ざわめきが走って、それからひとつの声が——他の声より少しだけ大きな声が、前に出てきた。


——おおきな、おおきな、いし。


——せかいの、はじまりの、いし。


——むかし、だいちだったころ、せかいのまんなかに、あった。


——だいちがくだけたとき、いしはしたにのこった。


——しまたちは、いしから、ちからをもらって、うかんでいる。


——でも、いま——


声が途切れた。恐怖が伝わってきた。言葉にならない、生々しい恐怖。


——いしの、うたが、とまりかけてる。


——おおきなねが、かれていく。


——かれたら、ぜんぶ、おちる。


「どうして枯れていくの? 何が原因?」


——わからない。


——したのほうで、なにかが、かわった。


——くらいもの、が、ある。


——くらいもの、が、ねを、むしばんでる。


暗いもの。


雲の下にある、暗いもの。大いなる根を蝕んでいる何か。精霊たちにもその正体はわからないようだった。ただ、それが存在することと、それが根を枯らしていることだけは確かだ。


「ボクに——何かできることはある?」


長い沈黙が流れた。風が止んだ。精霊たちが何かを相談しているような、密やかなざわめきがあった。


——うたを。


「歌?」


——ちょうりつしが、うたってた。


——ねいしに、うたをきかせると、ちからがもどる。


——いまのねいしは、うたをわすれてる。


——おもいださせて。


根石に歌を聞かせる。調律師がやっていたこと。ベルフォートの爺さんが、根石の前で語りかけていたこと。あの手記の記譜法は、根石のための歌を記録していたのだ。


「ボクにそれができるかな。調律師じゃないのに」


——せいれいと、はなせる。


——それだけで、じゅうぶん。


——うたは、おしえる。


——でも——


声が急に小さくなった。


——したにいかないと、だめ。


——おおきなねは、くものした。


——そこまで、うたを、とどけないと。


雲の下。禁域。降りた者で戻ってきた者はいない。


「…………」


目を開けた。


灰色の空が広がっていた。曇り空の向こうに太陽があるはずだが、その輪郭すら見えない。島々は霞の中に沈み、雲の海は灰色の絨毯のように平坦に広がっている。


柵の手すりを握る手に、少し力がこもった。


行くべきだろうか。


行けるのだろうか。


戻れない場所に行くのは勇気じゃない、とヨルンは言った。その通りかもしれない。でも——


でも。


この世界は今も、少しずつ沈んでいる。ティナがいる。ヨルンがいる。ネリアがいる。マリサがいる。名前も知らない人たちが無数にいる。島の上で暮らし、空を渡り、朝日を見て、夕焼けの中を帰っていく。その全てが、いつか落ちる。大いなる根が枯れれば。


旅人の自分に、この世界を救う義務はない。いずれ去る者が背負うべき荷ではない。わかっている。何十もの世界を渡る中で、何度も同じ結論に至った。深入りしすぎるな。情を移しすぎるな。


——でもボクは、ここにいる間はここの人間だ。


その思考が、自分の中のどこから来たのか、わからなかった。もしかしたらずっと前から——最初の世界から——持ち続けていた信条なのかもしれない。忘れてしまっただけで。


足元の石畳を踏んだ。まだ温かい。まだこの世界は自分を受け入れている。


「——よし」


まだ決められない。でも、考え続けることはできる。


宿に戻ろうとして、桟橋のほうから騒ぎが聞こえた。


---


桟橋に駆けつけると、人だかりができていた。


船乗りたちが慌ただしく動き回り、何隻かの船が急いでロープを解いている。誰かが叫んでいた。


「東のエルダ島が傾いた! 避難船が要る!」


「住民は何人だ!」


「百二十人! 子どもと年寄りだけでも先に出せ!」


アウレーリエは人だかりを掻き分けて前に出た。桟橋の端から東の空を見ると——灰色の霞の中に、かすかに見えた。ひとつの島が、明らかに傾いている。水平線から二十度——いや、三十度近く。


ヨルンの船があった。ヨルンはもう甲板の上に立っていて、帆を開く準備をしていた。


「ヨルン!」


「来たか。——エルダ島の根石が崩壊しかけている。避難の手伝いに行く」


「ボクも行く」


ヨルンはこちらを一瞥した。一瞬だけ何か言いかけて——やめた。


「乗れ」


船が桟橋を離れた。他にも数隻の船が前後して東に向かっている。風が強い。帆が激しくはためき、船体が軋んだ。ヨルンは操舵輪を握りしめて、真っ直ぐ前を見ていた。


エルダ島が近づいてくる。近づくにつれて、その異常さがはっきりとわかった。島全体が大きく傾いていて、表面の建物や木々が斜面から滑り落ちかけている。島の縁からは土砂が崩れ、空中に破片が散っていた。


そして——根石の悲鳴が聞こえた。


精霊たちを通じて、遠くからでも感じ取れるほどの——強烈な苦痛の波。根石が砕けかけている。支えきれなくなった重みに、石が悲鳴を上げている。


「——っ」


耳を塞ぎたくなるほどの、鋭い感覚だった。精霊たちの恐怖が上乗せされて、頭の中がぐわんと揺れる。


「アウリィ!」


ヨルンの声で我に返った。船はエルダ島の桟橋に接近していた。傾いた桟橋には人々がひしめいている。子どもを抱えた親。荷物を担いだ老人。泣き叫ぶ声。怒鳴る声。


「ロープを出せ! 先に子どもを!」


ヨルンが叫びながらロープを投げた。アウレーリエは甲板の端で手を伸ばして、桟橋から差し出された子どもを受け取った。五歳くらいの男の子が、泣きながらしがみついてくる。


「大丈夫だよ。大丈夫」


次々と人を乗せた。小さな渡し船にはすぐに限界が来る。十二人を乗せたところで、ヨルンが判断した。


「これ以上は沈む。いったんリーゲンに戻る。すぐ来る!」


桟橋に残された人々の顔が遠ざかっていく。不安と恐怖に歪んだ顔。でもその中に——怒りの顔は少なかった。彼らは知っている。船が戻ってくることを。ヨルンが戻ってくることを。


リーゲンに着くと、人々が桟橋で待ち構えていた。子どもたちと老人たちが次々と降ろされ、町の人々が毛布や食事を持って駆け寄っていく。マリサの姿もあった。大きな体で子どもたちを抱き寄せ、食堂に連れていく。


「もう一回行く」


ヨルンは人を降ろし終えるなり、船首を東に向けた。


「行くよ」


アウレーリエも船に残った。


二往復目。三往復目。他の船も往復を続け、少しずつエルダ島の住民が運び出されていく。曇り空の下、何隻もの船が灰色の空を行き来する光景は、鳥の群れが嵐の前に巣に急ぐ姿に似ていた。


四往復目の途中で——


音がした。


低い、地の底から響くような轟音。空気が震え、船が大きく揺れた。


振り返ると、エルダ島が——さらに大きく傾いていた。四十五度を超えている。島の表面から家屋が滑り落ち、空中に砕けて散っていく。木が根こそぎ倒れ、土砂が滝のように流れ落ちる。


「間に合うか——」


ヨルンが歯を食いしばった。


桟橋はもうほとんど垂直に近くなっていた。残っている人は——数えられる。八人。桟橋の柱にしがみついている。


「ヨルン、近づけて!」


「これ以上は危険だ! 島が崩れたら巻き込まれる!」


「ロープを投げて! ボクが桟橋に渡る!」


「馬鹿を言うな!」


「言ってない! やるの!」


ヨルンは一瞬だけアウレーリエを見た。その金色の瞳に、恐怖はなかった。覚悟でもなかった。ただ——今やらなければ間に合わない、という確信だけがあった。


ヨルンはロープを投げた。


アウレーリエはロープを掴んで船から飛び出した。風を切って桟橋に着地する。傾いた板の上は足場が悪い。ブーツの底が滑る。マントが風に煽られる。


「こっち! ロープに掴まって!」


柱にしがみついていた人々に手を伸ばす。ひとりずつロープに繋いで、ヨルンの船に引き寄せる。


六人。七人。


最後のひとりは老人だった。足が悪いのか動けずに柱にへばりついている。アウレーリエはその背中に手を回して、ロープに結びつけた。


「引っ張って!」


ヨルンが船上で渾身の力でロープを手繰った。老人の身体が持ち上がり、船に引き寄せられていく。


そして——


島が、落ちた。


轟音と共に、エルダ島の根石が砕けた。精霊たちの悲鳴が頭の中で炸裂した。島全体が一気に傾き、崩れ、雲の海に向かって落ちていく。


桟橋が足元から崩壊した。


「アウリィ!」


ヨルンの声。


身体が空に放り出される。一瞬の浮遊感。それから落下。風が全身を叩く。金色の髪が視界を覆い、マントが翻る。


何かが足首を掴んだ。


ロープだ。さっき老人を結んだロープの端が、偶然足首に絡まっていた。身体が引っ張られ、落下が止まった。宙吊りになったまま——下を見ると、崩れたエルダ島の残骸が雲の海に沈んでいくのが見えた。巨大な岩塊が雲を突き破り、白い渦を巻き上げながら、下へ、下へ——


そして消えた。


雲の海に飲み込まれて、跡形もなく。


ヨルンがロープを引き上げ、アウレーリエの身体が甲板に引きずり上げられた。仰向けに転がったまま、荒い呼吸を繰り返す。


「……っ、は……」


「この——馬鹿が」


ヨルンの声が震えていた。


起き上がると、甲板の上に救助された人々が身を寄せ合っていた。最後の老人も無事だった。全員が——桟橋にいた全員が。


振り返って、エルダ島があった場所を見た。何もなかった。灰色の空に、ぽっかりと空白が開いているだけだった。さっきまでそこにあった島が、百二十人の故郷が、もうどこにもない。


精霊たちの嗚咽が、まだ耳の奥で響いていた。


---


リーゲンに戻ると、日はもう暮れかけていた。


避難してきた人々は町の集会所や宿に分散して受け入れられた。マリサの旅亭も満員で、食堂は即席の避難所になっていた。マリサが休む間もなくスープを大鍋で作り、パンを焼き、毛布を配っている。


アウレーリエは宿の隅に座って、小さくなっていた。


怪我はない。マントの加護のおかげで、落下の衝撃もロープの摩擦も致命傷にはならなかった。足首に擦り傷があるだけだ。


でも——心が、重かった。


島がひとつ、消えた。


目の前で。手の届く場所で。根石の悲鳴を聞きながら、自分にできたのは人を運ぶことだけだった。島そのものを救うことは、できなかった。


ティナが駆け込んできたのは、夜が完全に落ちてからだった。


「アウリィ! 無事!?」


「うん。無事だよ」


「聞いたよ、エルダ島が——あんた桟橋に渡ったって——馬鹿じゃないの!?」


「ヨルンにも言われた」


「当たり前でしょ!」


ティナはアウレーリエの前に膝をついて、肩を掴んだ。手が震えていた。目が赤い。泣いたのか、泣きそうなのか。


「怪我は、本当にないの」


「足首にちょっと擦り傷。それだけ」


ティナはアウレーリエの足首を確認して、それからようやく大きく息を吐いた。


「……よかった」


その声があまりにも安堵に満ちていて、アウレーリエはどう反応していいかわからなかった。出会ってまだ三日だ。三日しか経っていないのに、この子はこんなに心配してくれている。


情を移しすぎるな。


頭の中の声がそう言った。いつもの声。いつもの戒め。


でもその声は、ティナの震える手の温もりの前では、ひどく小さかった。


ヨルンが食堂の入口に現れた。大きな身体で人の間を縫って、こちらに来た。


「全員の受け入れが終わった。——怪我は」


「ないよ。ヨルンは?」


「ロープで手を擦りむいた。大したことはない」


ヨルンは壁にもたれかかった。疲労の色が濃い。四往復の航行と、最後の綱渡りのような救出で、体力を使い果たしたのだろう。


三人で、しばらく何も言わなかった。食堂のざわめきが遠くに聞こえていた。避難してきた人々の声。子どもの泣き声。誰かをなだめる声。


「ボク——」


声を出した。ヨルンとティナが同時にこちらを見た。


「考えてることがあるの。でもまだ——まとまってない。明日、ちゃんと話す。ふたりに」


「何を考えてるの」


ティナが聞いた。


「——雲の下に、行こうかなって」


沈黙。


ヨルンの目が細くなった。ティナの口が開いて、閉じた。


「明日話す。今日はもう——ごめん、ちょっと疲れた」


立ち上がって、二階への階段に向かった。途中で振り返った。


「ヨルン。今日はありがとう」


「……俺は何もしていない」


「嘘つき」


階段を上がって、部屋に入った。扉を閉めて、鍵をかけて。


ベッドに座って、髪飾りに触れた。赤い彼岸花。母の形見。冷たかった。いつもは微かに温もりを感じるのに、今夜は冷たい。


「……お母さん」


声に出してから、自分でも驚いた。もう何千年も——いや、何万年も、そんなふうに呼びかけたことはなかったはずだ。


顔が思い出せない。声も思い出せない。名前すら——名前は覚えていたか? 思い出そうとすると、いつものように記憶が逃げる。砂が指の間からこぼれる。


でも今夜は、少しだけ——ほんの少しだけ——あの手の温もりが近い気がした。この髪飾りを手渡してくれた時の、あの手。


日記帳を開いた。ペンを取る手が、少し震えていた。


——エルダ島が、落ちた。


書き出して、しばらくペンが止まった。何を書けばいいのかわからなかった。事実を書けばいい。いつもそうしてきた。でも今夜は事実だけでは足りない気がした。


——目の前で島が落ちた。百二十人の故郷が消えた。人は全員助かった。でも島は助からなかった。

——手記を読んだ。おじいさんは気づいていた。全ての島が繋がっていること。大いなる根が枯れかけていること。

——精霊たちと話した。雲の下に暗いものがある。大いなる根を蝕んでいる。歌を届ければ力が戻るかもしれない。

——雲の下に行かなければならないのかもしれない。

——怖い。嘘じゃなく、本当に怖い。戻れないかもしれない。

——でも、ここの人たちの場所が消えていくのを見ているだけなのは、もっと怖い。

——ボクは旅人だ。いつか去る。それはわかってる。でも、今ここにいる間は——


ペンが止まった。


続きが書けなかった。


日記帳を閉じて、枕に顔を埋めた。今夜は眠れないかもしれないと思った。目を閉じると、落ちていくエルダ島の残骸が瞼の裏に浮かぶ。雲を突き破り、白い渦を巻き上げながら、下へ、下へ——


窓の外で、風が鳴った。精霊たちの気配がそっと寄り添うように近づいてくる。


——ありがとう。


——きょう、ひとをたすけてくれて。


——ありがとう。


「……うん」


目を閉じたまま、小さく頷いた。


「おやすみ」


風がそっと窓ガラスを叩いた。まるで、手を振るように。


この世界の四日目が終わった。

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