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3話「眠った心臓」

目を覚ましたのは、まだ空が暗い時間だった。


窓の外に星がいくつか残っている。東の端がわずかに白み始めていて、雲の海の表面に薄い銀色が滲んでいた。夜と朝の境目。いつもならもう少し布団にくるまっていたい時間だ。


「……はやい」


ベッドの中で呟いて、数秒だけ迷った。温かい布団。柔らかい枕。もう少しだけ——いや、だめだ。日の出に出ると言ったのはヨルンで、絶対行くと言ったのは自分だ。


身体を起こして、着替える。手早くワンピースを被り、タイツを履き、ベストのボタンを留める。ブーツの紐を結びながら三つ編みを整えるのは、何千年もの旅で身についた器用さだった。マントを羽織り、ベルトポーチを着けて、髪飾りに触れる。


トランクから乾燥果実の袋を引っ張り出してポーチに突っ込んだ。船の上で小腹が空いた時のために。ついでに日記帳とペンも確認して、部屋を出た。


階段を降りると、食堂にはまだ誰もいなかった。カウンターの奥から微かにマリサの寝息が聞こえる。起こさないようにそっと扉を開けて、外に出た。


夜明け前の町は静かだった。石畳に自分のブーツの音だけが響く。空気が冷たい。マントの加護が体温を守ってくれるから寒くはないけれど、吐く息がうっすらと白い。


桟橋への道を歩きながら、空を見上げた。東の空が紫に変わり始めている。星が少しずつ消えていく。前の世界では星を見ることがほとんどなかった。砂嵐の世界だったから、空はいつも赤茶けた砂塵に覆われていて——


前の世界のことを思い出そうとして、もうかなりぼやけていることに気づいた。昨日まで鮮明だったはずなのに。匂いは覚えている。乾いた、砂と風だけの匂い。でも人の顔は——あの世界で出会った人たちの顔が、もう曖昧だ。


たった数日なのに。


いつものことだ。世界を離れると、その世界の記憶は急速に薄れていく。大切な記憶も、些細な記憶も、平等に褪せる。だから日記に書く。書いておけば、読み返した時にほんの少しだけ輪郭が戻ってくるから。


第三桟橋に着くと、ヨルンはもう船の上にいた。甲板の上で帆の結びを確認しながら、こちらに一瞥をくれた。


「来たか」


「約束したもん」


「半分は来ないと思っていた」


「ひどい」


船に飛び乗ると、甲板がわずかに揺れた。昨日と同じ木箱に座ろうとしたら、箱がなかった。代わりに、船首寄りの位置に古い毛布が折り畳まれて置いてあった。


「……これ、ボクに?」


「風が冷たい。マントだけでは——」


「大丈夫だよ。このマント、見た目より温かいの」


「そうか。ならいい」


ヨルンはそっけなく言って操舵席に戻った。けれど毛布は片付けなかった。アウレーリエはその上に座ることにした。木箱より座り心地がいい。


桟橋のロープが解かれ、船がゆっくりと離れていく。浮遊石の淡い光が足元で脈打ち、帆が朝の微風を捉えて膨らんだ。


町の灯りが遠ざかっていく。リーゲンの島が背後に小さくなっていく。


その瞬間、東の空が割れた。


太陽だ。


雲の海の彼方から、燃える光が溢れ出した。水平線——いや、雲平線とでも呼ぶべきか——に太陽の上端が顔を覗かせた瞬間、白い雲の海が一斉に色を変えた。銀から金へ、金から橙へ、橙から薔薇色へ。光の洪水が雲の海の表面を走り、遠くの島々の影を鮮烈に浮かび上がらせた。


「——わあ」


言葉にならなかった。


何万年も生きてきて、いくつもの世界で朝日を見てきた。水平線から昇る朝日。山の稜線から覗く朝日。二つの太陽が交互に昇る世界もあった。


でも、雲の海から昇る朝日は初めてだ。光が雲の表面で反射し、屈折し、散乱して、空全体が燃え上がるように輝いている。この世界でしか見られない朝日。


「ヨルン、見て、すごい——」


振り返ると、ヨルンは操舵輪を握ったまま、真っ直ぐ前を見ていた。朝日に照らされた横顔が、橙色の光に染まっている。


「……毎日見てるだろうに」


「ああ。毎日見ている」


「飽きない?」


「飽きない」


それだけ言って、ヨルンは舵を切った。南西への航路。その横顔に浮かんでいた表情を、アウレーリエは見逃さなかった。ほんの一瞬だけ——穏やかな、柔らかな何かが。


この人は空が好きなのだ。


---


ミラク島までは、順風なら三時間ほどだとヨルンは言った。


朝日が完全に昇りきると、空は昨日と同じ蒼穹に戻った。風は穏やかで、船はほとんど揺れない。アウレーリエは毛布の上に寝転がって空を見上げていた。


「ヨルンはさ、ずっとこの航路を?」


「いや、以前はもっと東を飛んでいた。カレドラと東端の島々を結ぶ長距離航路だ」


「長距離! 何日もかかるやつ?」


「片道五日。往復で十日以上になる」


「なんでやめたの?」


ヨルンはすぐには答えなかった。帆の角度を微調整し、風向きを確かめ、それから低い声で言った。


「東の島がいくつか落ちた。航路の途中に補給できる島が減って、長距離が成り立たなくなった」


「……ああ」


「三年前の話だ。それからこっちの航路に移った」


淡々とした口調だったが、それが三年前の出来事を軽く見ているわけではないことは、もう二日の付き合いでわかる。この人は重いものほど軽く語る。


「東の島の人たちはどうなったの?」


「落ちる前に避難できた島もある。間に合わなかった島もある」


それ以上は聞けなかった。聞いてはいけないのではなく、これ以上聞いても答えは同じだと思ったからだ。間に合わなかった島がある。それが全てだ。


しばらく風の音だけが流れた。


「ねえ」


「何だ」


「この世界のこと、もう少し教えて。群島って、いつからあるの?」


「古い伝承では、世界は最初ひとつの大地だったという。それが何かの大変動で砕けて、破片が空に散った。それが今の島々だと」


「大変動……何が起きたんだろう」


「伝承の向こう側の話だ。千年か、二千年か——それ以上前のことだろう。記録が残っていない」


千年や二千年。アウレーリエにとっては、それほど長い時間ではない。けれどこの世界の人々にとっては、手の届かない過去だ。記録もなく、記憶もなく、伝承だけが断片的に残っている。


「ボクの記憶みたいだね」


「何?」


「ううん、独り言」


大地がひとつだった頃。根石は存在したのだろうか。島を浮かせる必要がない世界に、根石は——あるいは、大地が砕けた時に根石が生まれたのか。それとも、根石があったからこそ砕けた大地が空に留まれたのか。


考えても答えは出ない。でも考えること自体が楽しい。知らないことを知ろうとする過程が、いつだって旅の醍醐味だ。


---


ミラク島が見えてきたのは、太陽が頭上に近づいた頃だった。


小さな島だった。リーゲンの四分の一もないだろう。けれど、その小さな島は深い緑に覆われていた。遠目にも植物が密集しているのがわかる。木々の枝が島の縁からはみ出して垂れ下がり、蔦や蔓が岩肌を這っている。空に浮かぶ森だ。


「うわあ……緑がすごい」


「ミラクは土壌に特殊な鉱物が混じっている。それで植物の成長が早い。薬草が多く自生していて、薬師たちが住んでいる」


島に近づくにつれて、緑の匂いが強くなった。湿った土と葉の匂い。花の匂い。何かの果実が発酵したような甘酸っぱい匂い。全部が混ざり合って、濃密な生命の香りになっている。


桟橋は島の北側に一箇所だけあった。小さな木の桟橋に船を寄せると、ロープを受け取る人がいた。


「よう、ヨルン。定期便か」


「ああ。リーゲンからの注文品だ」


桟橋にいたのは、五十がらみの女性だった。日に焼けた肌に深い皺。白髪交じりの黒い髪を頭頂で無造作に結い上げている。服は草の汁や土で汚れていて、腰には園芸用の小さな鎌がぶら下がっていた。


「ふん、連れがいるじゃないか。珍しいね」


女性の目がアウレーリエを捉えた。


「こんにちは。ボクはアウリィです」


「……ほう」


女性はアウレーリエの耳を見て、目を細めた。好奇心ともつかない、品定めするような視線。けれど敵意はない。


「変わった子だね。まあいい、私はネリア。この島の薬師をやっている。——お前さん、何者だい」


「旅人です」


「この群島に旅人は珍しい。行く場所なんて限られてるからね。——まあ、入んな。荷降ろしを手伝うなら茶くらい出すよ」


ヨルンが船から木箱を降ろし始め、アウレーリエも手伝った。箱の中身は布や金属の道具類らしく、そこそこ重い。百四十七センチの身体で大きな箱を担ぐ姿は端から見れば危なっかしいのだろうが、見た目に反して力はある。数万年の蓄積は伊達ではない。


「あんた、見かけによらず力あるね」


ネリアが感心したように言った。


「よく言われます」


荷降ろしを終えると、ネリアが桟橋から続く細い道を案内してくれた。木々の間を縫うように踏み固められた小道。頭上で枝葉が重なり合って天蓋を作り、緑色の光が地面に斑模様を描いている。


「この島には何人くらい住んでるの?」


「今は十二人。多い時は三十人ほどいたが、若いのが出ていってね」


「薬草の島なのに?」


「薬草だけじゃ食っていけない時代さ。それにこの島は小さい。若い連中はリーゲンやカレドラに出て行く。まあ、仕方のないことだ」


ネリアの声には諦めがあったが、それは乾いた諦めだった。嘆くのではなく、ただ事実として受け入れている。


小道を進むと、小さな集落に出た。木と石で造られた簡素な家が六つか七つ。その周りに、整然と区切られた薬草園が広がっている。


「ヨルン、いつものところに荷を入れておいてくれ。——旅人さん、あんたは好きに見て回りな。ただし赤い花には触るんじゃないよ。かぶれる」


「赤い花。わかりました」


ヨルンが荷を運んでいく間、アウレーリエはひとりで島を歩いた。


薬草園を過ぎると、すぐに原生の森になった。人の手が入っていない区域は植物の勢いが凄まじく、歩くたびに蔦や蔓を払わなければならなかった。見たことのない植物ばかりだ。螺旋状に巻いた葉を持つ灌木。透明な樹液を滴らせる太い幹。地面を這う苔のようなものは、踏むと微かに光った。


「これ、光る苔だ……!」


しゃがみ込んで観察する。苔の表面に、微細な結晶のようなものが散りばめられている。光を蓄える性質があるのだろうか。指先で軽く触れると——触れた瞬間、耳の奥で何かが鳴った。


精霊の気配だ。


ここの精霊は、リーゲンのものとは少し違う。風ではない。もっと地面に近い——土の精霊。根の精霊。植物の中を流れる何かに宿った、静かで深い存在。


目を閉じた。


意識を広げる。今度はゆっくりと、丁寧に。急がない。無理に触れない。ただ耳を澄ませるように——


——ここ、あたたかい。


——でも、すこし、つめたくなってきた。


——むかしは、もっと。


断片。言葉未満の感覚の塊。けれどリーゲンの風の精霊たちよりも、少しだけはっきりしている。この島の精霊たちは、土壌の鉱物のおかげで力が強いのかもしれない。


「冷たくなってきた……って、根石のこと?」


——ね。いし。ずっと、うたって、いた。


——うた、が、ちいさく、なってる。


歌。根石が歌っている。


ティナのおじいさんは根石を「眠った心臓」と呼んだ。精霊たちは「歌っている」と言う。脈を打つ心臓。歌う石。どちらも同じものを、違う感覚で捉えているのだろうか。


「その歌が小さくなると、どうなるの?」


——しま、が、わすれる。うかぶこと、を。


——おちる。


足元の土が、わずかに震えた気がした。


目を開ける。森は静かだった。木漏れ日が地面を照らし、光る苔が淡い緑色の輝きを放っている。穏やかな風景だ。けれど、その地面の遥か下——島の核のあたりで、何かが少しずつ衰えていることを、精霊たちは感じ取っている。


「この島も——弱ってきてるの?」


精霊たちは答えなかった。代わりに、微かな振動がもう一度、足の裏を通り抜けた。


アウレーリエは立ち上がって、森の奥へ進んだ。精霊の気配が濃くなる方向へ。木々の密度が増し、足元が岩がちになっていく。島の中心に向かっているのだと、感覚的にわかった。


やがて、森が途切れた。


小さな空き地——というより、窪地だった。島の中心に当たる場所に、すり鉢状に地面がくぼんでいて、その底に——


岩があった。


人の背丈ほどの、青白い光を宿した岩。周囲の土から半ば突き出す形で鎮座している。表面には複雑な紋様のようなひび割れが走り、その亀裂のひとつひとつから、微かな光が脈打つように明滅していた。


根石だ。


アウレーリエは息を呑んだ。


近づくにつれて、身体の奥が共鳴するように震えた。これは——大きな力だ。衰えているとはいえ、この石が放つ力は桁が違う。島を空に留める力。命を育む力。


精霊たちの気配が一気に濃くなった。根石の周囲に集まっている。まるで弱った誰かの枕元に寄り添うように。


根石に手を伸ばした。


「触んじゃないよ」


背後からの声に、手が止まった。


振り返ると、ネリアが木々の間に立っていた。


「島の中をうろうろしてると思ったら、ここまで来たのかい。嗅覚のいい子だ」


「ごめんなさい、勝手に——」


「別に怒っちゃいない。ただ根石に素手で触るのは感心しない。下手すると力に当てられる」


ネリアは窪地の縁に腰を下ろして、根石を見下ろした。


「あんた、これがわかるのかい。根石が」


「……感じます。力が脈打ってるのが」


「ほう。それは珍しい。今時、石の脈を感じられる人間なんていやしない」


「人間じゃないので」


「ああ、そうだったね。エルフだっけ。——精霊と話せるのかい」


「少しだけ。この世界の精霊とは、まだ言葉がうまく通じなくて。でも——怖がってるのはわかります。根石が弱ってることを」


ネリアは長く息を吐いた。


「この島の根石はまだましなほうさ。ミラクは土壌が良い分、石の力の循環が活発でね。でもそれも、あと何年持つか。十年か、二十年か——」


「原因は何なんですか」


「私に聞くのかい」


「薬草の島の薬師さんなら、自然のことに詳しいかと思って」


ネリアは短く笑った。皺の深い顔に、意外なほど若々しい笑みだった。


「薬師は人を治すのが仕事であって、島を治すのは管轄外さ。——だが、一つだけ言えることがある」


ネリアは根石を見つめた。青白い光が、彼女の顔を淡く照らしている。


「根石は循環している。力を吸い上げて、島に巡らせて、また戻す。呼吸のようなものだ。私の見立てでは、その循環がどこかで詰まっている。吸い上げる力はあるのに、巡らせたものが戻ってこない。だからじわじわと痩せていく」


「詰まっている? 何が」


「わからない。わかっていたら手の打ちようもある。——ただ、昔はそれを診る人がいた。調律師と呼ばれていた」


「ティナのおじいさん」


「お、ティナを知っているのかい。あの子のじいさま——ベルフォートの爺さんは最後の調律師だった。腕は確かだったよ。あの人が生きていた頃は、ミラクにも年に一度来て、根石を診てくれた」


ネリアの声に、懐かしさが混じった。


「爺さんが根石に手を当てると、石が嬉しそうに光るんだ。子どもの頃に見た記憶がある。まるで石が笑ってるみたいだった」


石が笑う。心臓が歌う。詩的な表現だけれど、精霊たちの声を聞いた今なら、それが比喩ではないとわかる。


「ネリアさん、ひとつ聞いてもいいですか」


「何だい」


「調律師が根石を診る時、精霊の力を使っていましたか?」


ネリアは首を傾げた。しばらく記憶を手繰っているようだった。


「……はっきりとは覚えていないが、爺さんは何かに語りかけていたよ。石にか、空気にか——今思えば、何か目に見えないものと対話しているようだった」


精霊だ。調律師は精霊と対話し、精霊を介して根石の状態を把握し、循環を整えていた。そうだとすれば、調律の技術が途絶えたことと、精霊との繋がりが失われたことは、表裏一体の問題なのかもしれない。


根石を見つめた。青白い光が弱々しく明滅している。呼吸するように。歌うように。けれどその歌は確かに小さくなっていて、いつか止まる日が来ると——精霊たちが恐れている。


「ネリアさん。この根石に——触ってもいいですか」


「さっき触るなと言ったばかりだが」


「素手じゃなければ大丈夫ですか」


ネリアはアウレーリエをじっと見た。何かを測るような、深い目だった。


「……何をする気だい」


「確かめたいことがあります。根石の中を流れているものを、感じてみたい。精霊の力を借りれば——」


「あんたがそれをやって、何かわかるのかい」


「わからないかもしれない。でも——」


言葉を探した。正直に言うべきだろう。


「ボクは、いろんな世界を旅してきました。この世界とは違う、たくさんの世界を。その中で、似たようなものを見たことがある——ような気がするんです。大地の力が流れる脈。石に宿る命。記憶が曖昧で、はっきりとは思い出せないけれど、手で触れれば何か思い出せるかもしれない」


ネリアは長い沈黙の後、ゆっくりと頷いた。


「好きにしな。ただし異変を感じたらすぐに手を離すこと。それが条件だ」


「はい」


窪地の底に降りた。根石が目の前にある。近くで見ると、表面の紋様はさらに複雑だった。鉱物の結晶構造とも、植物の根の模様とも、何か生き物の血管とも見える。


マントの裾を手に巻いた。布越しなら直接触れることにはならない。真紅のマントの加護が、石の力から身を守ってくれるはずだ。


手を伸ばして、根石に触れた。


——瞬間、世界が変わった。


音が聞こえた。


低くて深くて、果てしなく遠い音。地の底から湧き上がるような、空の果てから降りてくるような、どちらとも言えない振動。音というより——鼓動だ。ゆっくりと、重く、途切れがちに。


同時に、何かが流れているのを感じた。根石の内部を巡る力の流れ。液体のようでもあり、光のようでもあり、風のようでもある何か。それが石の中を循環し、島の土壌に染み出し、植物を養い、空気を満たし——そしてどこかで、消えている。


ネリアの言った通りだ。循環が滞っている。巡らせた力が、どこかで失われている。戻ってくるべきものが戻ってこない。心臓が血液を送り出しているのに、静脈が破れて漏れ出しているような——


視えた。


一瞬だけ、視界の端に何かが閃いた。島の底——根石から下に伸びる力の脈の先端が、雲の海の中へ消えている。そしてその先で、何かが脈の力を——


吸い取っている。


何かが、下から、吸い上げている。


「——っ!」


手を離した。衝撃で二歩よろめき、尻もちをついた。心臓が早鐘を打っている。指先が痺れていた。マント越しだったにもかかわらず、根石の力の奔流に一瞬だけ飲まれかけた。


「大丈夫かい!」


ネリアが駆け寄ってきた。アウレーリエの肩を掴んで顔を覗き込む。


「うん——大丈夫。大丈夫です」


呼吸を整える。指の痺れが少しずつ引いていく。


「何が見えた」


ネリアの声は鋭かった。


「……根石の力が漏れてます。島の底のほうから。何かが下から——雲の海の下から、吸い上げてる」


ネリアの表情が変わった。


「下から?」


「根石から下に伸びてる力の脈——それが雲の中に消えてて、その先で何かに吸われてる。だから循環が壊れてるんです。力を巡らせても巡らせても、下から抜けていく」


ネリアは根石を見つめた。青白い光は、アウレーリエが触れる前と変わらず脈打っている。静かに。弱々しく。


「雲の下、か。——あの下に何があるか、誰も知らない」


「ヨルンも言ってました。降りた船で戻ってきたものはないって」


「ああ。雲底の下は禁域と呼ばれている。行こうとする者はいるが、帰ってきた者はいない」


禁域。未知の領域。この世界の人々にとって、雲の下は深海よりも遠い場所なのだ。


アウレーリエはゆっくりと立ち上がって、服についた土を払った。膝が少し震えていた。根石の力は想像以上に大きくて、ほんの一瞬触れただけで身体が悲鳴を上げている。


「……もう少し、精霊と話せるようになれば」


「ん?」


「精霊たちは根石の脈を流れてるものと近い存在です。もっとちゃんと対話できれば、何が起きているかもっと詳しくわかるかもしれない」


ネリアは腕を組んで、しばらくアウレーリエを見つめていた。


「あんた、お節介な旅人だね」


「……よく言われます」


「いいことだよ」


ネリアは短く笑って、踵を返した。


「茶を淹れよう。身体が冷えただろう」


---


ネリアの家は薬草の匂いで満ちていた。


天井から束ねた草が吊り下げられ、棚には何十種類もの乾燥した植物や粉末が瓶に入って並んでいる。すり鉢、乳鉢、秤、漉し布。長い年月をかけて積み上げられた仕事場の空気がある。


小さな竈で沸かした湯で茶を淹れてくれた。リーゲンのルゥ茶とは違う、苦くて深い味わいの茶だった。


「身体を温める薬草を混ぜてある。根石に触ったなら、内側から冷えてるはずだ」


「ありがとうございます」


両手で椀を包んで、温もりを味わった。確かに身体の芯がひんやりしている。根石の力は冷たかった。冷たい、というのは正確ではないかもしれない。ただ圧倒的に大きくて、自分の体温を持っていかれた——そんな感覚。


ヨルンが戸口に現れた。荷降ろしが終わったらしい。ネリアの家の中を見回して、椅子に座っているアウレーリエの顔色を一瞥した。


「……何をやった」


「根石にちょっと触った」


「正気か」


「マント越しだよ。ちゃんと注意はした」


ヨルンは額に手を当てた。疲れた顔をしている。荷降ろしの疲れではなく、アウレーリエへの疲れだ。


「子ど——人を乗せてきた責任がある。怪我をされては困る」


「子どもって言いかけたでしょ」


「言っていない」


「言いかけた」


「言っていない。——で、何がわかった」


ヨルンは椅子を引いて座った。大きな身体が小さな椅子に窮屈そうに収まる。ネリアが無言でもうひとつ茶を差し出し、ヨルンは無言で受け取った。何も言わずに通じ合う動作。長い付き合いなのだろう。


アウレーリエは根石で感じたことを話した。力の循環。下からの吸引。漏れ出す脈。


ヨルンは黙って聞いていた。茶を一口飲み、椀を置き、腕を組んだ。


「雲の下から何かが吸い上げている、と」


「うん。何かはわからない。でも確かに、下に向かって力が引っ張られてた」


「全ての島で同じことが起きているとしたら——」


「群島全体の問題になる。落ちる島が増えてるのも、根石が弱ってるのも、全部同じ原因かもしれない」


沈黙が落ちた。ネリアが竈の火を弄り、ヨルンが茶をすする音だけが聞こえた。


「大きな話だな」


ヨルンが低く言った。


「ボクひとりでどうにかなる話じゃない。でも、少なくとも原因の手がかりにはなると思う。ティナに話さなきゃ。おじいさんの手記と照らし合わせたら、何かわかるかも」


「ベルフォートの孫か。あの子は賢い。爺さんの意志を継ごうとしている数少ない人間だ」


ネリアが言った。


「ネリアさんもおじいさんを知ってるんだ」


「知っているも何も。この島に来るたびに茶を飲んでいったよ。根石を診た後は必ずここに寄って、『ネリア、石が元気だったぞ』と嬉しそうに言うんだ。石が元気だなんて、変な言い方だろう。でもあの人にとっては、根石は本当に生きているものだったんだね」


ネリアの声が柔らかくなった。遠い日の記憶を辿る声。


アウレーリエは椀の中の茶を見つめた。暗い色の液体に、自分の金色の瞳がぼんやりと映っている。


生きている石。歌う心臓。精霊たちの恐怖。雲の下の何か。


この世界は、静かに壊れかけている。


旅人として、どこまで踏み込むべきか。この世界の問題を、この世界の人々の手に委ねて去るべきか。それとも——


「帰るぞ」


ヨルンが立ち上がった。


「日が暮れる前にリーゲンに着きたい。夜の航行は好まん」


「うん。——ネリアさん、ありがとうございました。お茶、おいしかったです」


「また来な。次は薬草を見せてやるよ。赤い花以外のやつをね」


ネリアはにやりと笑った。


---


帰りの船の上で、アウレーリエは船首に座って夕暮れの空を眺めていた。


根石に触れた時の感覚がまだ指先に残っている。あの圧倒的な力。あの鼓動。そしてあの——下から引っ張られる、不気味な吸引力。


「ヨルン」


「何だ」


「雲の下に降りた人で、戻ってこなかった人たち。どうして降りようとしたの?」


ヨルンは操舵輪を握ったまま、少し考えた。


「理由は様々だろう。探検家の好奇心。学者の探究心。——中には、落ちた島の家族を探しに行った者もいると聞く」


落ちた島の家族を。


その言葉が、胸に刺さった。


「……そっか」


「何を考えている」


「ボクが同じ立場だったら、やっぱり降りるだろうなって」


「馬鹿なことを言うな。戻れないとわかっている場所に行くのは勇気じゃない」


「勇気じゃないかもしれないね。でも、行かずにはいられない気持ちは——わかる気がする」


ヨルンは何も言わなかった。操舵輪を握る手に、ほんの少しだけ力がこもったのが見えた。


夕焼けの空を渡りながら、アウレーリエは日記帳を膝の上に開いた。揺れる船の上で文字を書くのは難しいけれど、忘れないうちに書き留めておきたかった。


——ミラク島。緑が濃くて、光る苔がある。

——根石に触った。歌が聞こえた。弱い歌。力が下から吸われている。

——雲の下に何かがある。何かが根石の力を奪っている。

——全部の島で同じことが起きているとしたら、群島全体が沈んでいく。

——明日、ティナの手記を見る。何かわかるといいな。

——ネリアさんのお茶は苦かったけどおいしかった。


ペンを止めて、空を見上げた。


夕焼けの中を、小さな鳥の群れが飛んでいった。この世界にも鳥がいるのだ。島から島へ渡る鳥たち。自分の翼だけを頼りに、果てしない空を越えていく。


自分も——鳥のようなものかもしれない。どこにも巣を持たず、ただ飛び続ける渡り鳥。


でも鳥には帰る場所がある。季節が巡れば帰る場所が。


自分には——


髪飾りに手を伸ばした。赤い彼岸花。母の形見。帰る場所。帰る場所が、あったはずだ。遠い遠い昔に。もう覚えていないけれど。もう戻れないけれど。


「ヨルン」


「何だ」


「きれいな夕焼けだね」


「……ああ」


ヨルンは頷いた。船は穏やかに空を渡り、リーゲンの灯りが前方にゆっくりと近づいてきた。


島の灯りが目に沁みた。


たぶん少し疲れているのだ。根石の力に当てられたせいだろう。明日になればまた元気になる。朝が来れば、知らないことを知りに行ける。


それだけで充分だ。


きっと。


たぶん。

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