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2話「根のある場所」

朝の光で目が覚めた。


一瞬、どこにいるのかわからなかった。天井が低い。木目がある。窓から差し込む光が白い。知らない匂い——知らない洗剤の、昨晩嗅いだのと同じ匂い。


ああ、そうだ。空に島が浮かぶ世界。


身を起こして窓の外を見ると、朝焼けが雲の海を淡い桃色に染めていた。島々のシルエットが朝霧の中にぼんやりと浮かんでいて、一番遠くの大きな島は霞の向こうに半ば溶けている。


「きれい……」


しばらく窓辺にぼうっと立っていた。新しい世界の最初の朝は、いつも少しだけ特別な気持ちになる。二日目の朝が来たということは、この世界がまだ自分を拒んでいないということだ。足元の床は冷たくて硬くて、しっかりと自分の体重を受け止めている。大丈夫。もう少しいられる。


顔を洗って着替えた。生成り色のワンピースに黒のタイツ、赤褐色のベストを羽織ってブーツを履く。マントの留め金を首元で止めて、髪を整え、三つ編みのおさげを結い直す。鏡を覗き込んで、赤い彼岸花の髪飾りの位置を微調整。


鏡の中の自分と目が合う。金色の瞳。子どもに見える顔。数万年生きていてもこの顔だ。この顔がこの先も変わることはない。便利なこともあるけれど——宿代を負けてもらえたりとか——不便なことのほうがずっと多い。


ベルトポーチをふたつ腰に着けて、トランクは部屋に置いていく。鍵をかけて、階段を降りた。


一階の食堂にはすでに何人かの先客がいた。テーブルに向かって朝食をとっている。カウンターの奥からマリサが顔を出して、「おはよう」と手を振った。


「こっちにおいで。朝ごはん、できてるよ」


テーブルに通されると、すぐに皿が運ばれてきた。固めに焼いたパンと、黄色い塊のチーズ、茶色い豆の煮物、それから湯気を立てる飲み物。飲み物は見た目は薄い茶だが、匂いは甘くて少しスパイシーだった。


一口飲んで、目を見開いた。


「おいしい! これ何?」


「ルゥ茶っていうんだよ。このあたりの島で採れる木の実を煮出したもんさ」


「木の実のお茶かあ。甘いのに後味がすっきりしてる」


「気に入ったかい? おかわりもあるからね」


マリサは嬉しそうに笑って厨房に戻っていった。


豆の煮物を口に運びながら、周囲を観察した。食堂にいるのは四人。窓際に座った年配の男がひとりで黙々とパンをちぎっている。その隣のテーブルには若い男女が向かい合って、何やら書類を広げながら朝食を兼ねた打ち合わせをしている。奥のカウンター近くには、フードを被った痩せた人物が背を丸めてルゥ茶をすすっていた。


旅人か、商人か。宿に泊まっているということは、少なくともリーゲンの住人ではないのだろう。


朝食を終えて外に出ると、町はもう動き始めていた。


石畳の通りを荷車が行き交い、店先に並べられた商品を品定めする人々の姿がある。昨夜は暗くてよく見えなかったが、町は思ったよりも広く、細い路地が複雑に入り組んでいた。建物の壁は灰色の石造りで、窓枠や扉だけが木製。屋根はどれも低く平らで、これは空からの風雨を避けるための造りなのだろう。


歩きながら、あちこちに目を配る。


肉屋。八百屋——見たことのない形の野菜が並んでいる。工具店。仕立て屋。路地の奥に小さな鍛冶場があって、金属を打つ音がリズミカルに響いている。


通りの角に、大きな掲示板があった。木の板に紙が何枚も貼り付けてある。文字は読めないけれど、絵や数字で何となく内容が推察できるものもあった。船の運行表らしいもの。品物の価格表。そして——


一枚の紙が、他より大きく、目立つ位置に貼ってあった。島の絵が描かれていて、その下に大きな赤い文字。赤い文字には取り消し線が引かれていて、その上から別の文字が書き加えられている。


「読めたら楽なんだけどなあ」


「何が読みたいの」


突然、後ろから声がした。


振り返ると、小柄な少女が立っていた。——いや、少女というには少し大人びた雰囲気がある。アウレーリエよりは背が高いが、ここの大人たちよりはずっと小さい。十代の半ばくらいだろうか。


赤みがかった茶色の髪を後ろでひとつに束ね、袖をまくった作業着を着ている。手には工具の入った革袋を提げていて、指先がうっすらと黒く汚れていた。油か、煤か。


こちらを見ている目は、好奇心に溢れた濃い茶色だった。アウレーリエの耳を見ているのがわかる。


「……外から来たの? その耳、初めて見る」


「うん。昨日来たばかり。文字が読めなくて」


「あ、それは困るね。この張り紙?」


少女は掲示板の前に立って、赤い文字の紙を指差した。


「これはね、『レンマ島への渡航禁止令』。先月出た通達なんだけど、上から書き足されてるのは——えっと、『一部解除、調査員に限り許可』。つまり、まだ一般の人は行けないってこと」


「渡航禁止? どうして」


「島が不安定になってるから。根石が急に弱って、傾き始めたの。結構大きな島だったんだけどね——」


少女の声が一瞬だけ翳った。それからすぐに、何でもないような調子で続けた。


「最近こういうの多いんだ。去年だけで三つの島が落ちた。前はそんなことなかったのに」


「去年だけで三つ……」


「あ、ごめん。来たばかりなのにこんな話」


「ううん、教えてくれてありがとう。ボク、アウリィ。アウレーリエ・リュコーリアスっていうんだけど、長いからアウリィでいいよ」


「私はティナ。ティナ・ベルフォート。——アウリィ、その名前、どこの島の名前?」


「島じゃなくて、もっとずっと遠いところ」


「ふうん」


ティナはそれ以上追求しなかった。気にならないわけではなさそうだけれど、深入りしない礼儀を心得ているのか、あるいは単にそこまで興味がないのか。


「ティナは何の仕事をしてるの? その工具」


「整備士。飛行船の修理や、浮遊石の調整をしてるの。見習いだけどね」


「浮遊石の調整! 根石とは違うの?」


「原理は同じ。ただ、船に使うのは小さい石で、出力も弱い。根石はもっとずっと大きくて——島そのものを支えてる」


「根石を調整する人もいるの?」


ティナの表情が微かに変わった。


「いたよ。昔は。おじいちゃんがそうだった」


過去形だ。アウレーリエはそれ以上聞かなかった。代わりに、もう少し穏やかな話題を探す。


「ねえ、ティナ。この町を案内してもらえたりしない? 昨日来たばかりで何も知らなくて」


「案内? 私、午後から仕事なんだけど——」


「午前中だけでいいよ。お礼にお昼ごはんおごるから」


「……いいよ。面白そうだし、あなた」


ティナは小さく笑った。仕事道具の革袋を肩に担ぎ直して、歩き始める。アウレーリエは小走りでその横に並んだ。ティナのほうが頭半分ほど背が高い。人間の十代半ばの少女より小さい自分が、ほんの少しだけ悔しい。


---


リーゲンの町は、空に浮かぶ島としては中規模だとティナは言った。


「大きな島だと、人口が何万人ってところもあるけど、リーゲンは三千人くらい。でもこのあたりの島の中では交通の要所だから、行き来する人は多いの」


通りを歩きながら、ティナが建物や店を指差して説明してくれる。雑貨屋、薬屋、古い時計塔、中央広場に面した議会堂。議会堂は島で一番大きな石造りの建物で、正面に掲げられた旗がはためいていた。旗の紋章は、雲の上に浮かぶ島をかたどったものだった。


「あそこが工房通り。船大工や鍛冶屋が集まってて、私もあのへんで働いてる」


工房通りからは金属を打つ音が幾重にも重なって聞こえてきた。木材を削る匂い、炭と鉄の匂い。覗き込むと、開け放たれた工房の中で職人たちが黙々と作業をしていた。船の部品を造っているらしい。


「この世界って——ごめん、この群島って、どのくらいの広さがあるの?」


「端から端まで? 飛行船で何日かかるかなあ……速い船でも、一番遠い島まで二十日はかかるって聞いたことがある。でも、群島の外側にも島はあるかもしれないし、正確にはわかんない」


「その外側に行った人はいないの?」


「行った人はいるよ。ただ、外に行けば行くほど島がまばらになって、補給できなくなるから。あんまり冒険する人はいないかな」


島と島の間を渡る術がなければ、人は自分の島とその周辺だけで生涯を終えるのだろう。水平線の向こうに憧れる海辺の人々と同じように、この世界の人々は空の彼方に思いを馳せるのかもしれない。


ティナに連れられて、町の外れにある展望台のような場所に来た。島の縁に沿って設けられた柵と、そこから空を見渡すための石造りのテラス。何脚かのベンチが置かれていて、老人がひとり座って雲の海を眺めていた。


アウレーリエは柵に駆け寄って身を乗り出した。


「うわあ——!」


ここからの眺めは格別だった。リーゲンの町を背にして、広大な空が一望できる。午前の陽光を受けて、遠くの島々がくっきりと浮かび上がっている。大小さまざまな形の島が、まるで誰かが空にばらまいた石のように散在していた。


「あの大きいの、何ていう島?」


「あっちの? カレドラ。このあたりの群島で一番大きな島で、連邦議会が置かれてる」


「連邦議会……政治の中心?」


「一応ね。まあ、島ごとの自治が強いから、中央がどこまで力を持ってるかは微妙なとこだけど」


ティナはベンチに腰掛けて足を伸ばした。アウレーリエは柵の上段に座った。足が地面につかないのではない。こっちのほうが景色がよく見えるからだ。


「ねえ、ティナ。さっきの渡航禁止の島——レンマ島って、大きかったの?」


「……まあまあ。リーゲンの半分くらいかな。漁師の島で、魚の燻製が名物だった」


「だった?」


「もう人は住んでない。避難したの。根石が弱って、島がいつ落ちてもおかしくないって」


ティナの声は落ち着いていた。感情を押し殺しているのではなく、何度も考えて、もう言葉にすることに慣れてしまった——そんな響きだった。


「おじいちゃんが生きてた頃は、こんなことなかったのに。根石の調律師って職業があって、石の力を整えて、島を安定させてたの。でも——」


ティナは言葉を探すように空を見上げた。


「調律の技術がね、途絶えかけてる。おじいちゃんの世代で、まともにできる人がほとんどいなくなった。技術を継ぐ人が少なくて、師匠が死んだらそれで終わり。今は理屈すら完全にはわかってない」


「ティナのおじいさんは——」


「六年前に死んだ。私が九つの時。それからは弟子もいなくて、このあたりの島の根石は誰も診てない」


さっき「昔は」と過去形で言ったのは、そういうことだったのだ。


「ティナが整備士になったのは——」


「おじいちゃんの影響、かな。浮遊石と根石は原理が同じだから、船の整備をしながら、少しずつ根石のことも勉強してる。おじいちゃんの手記が残ってるんだけど、半分くらいは読み解けてない」


「手記があるんだ」


「うん。ただ、おじいちゃん独自の記号とか略語とかが多くて、意味がわかんないところだらけ。師匠から弟子に口伝で補っていたんだろうけど、その口伝が——」


「途切れてしまった」


「そう」


風が吹いた。ティナの束ねた髪が揺れ、アウレーリエのマントがはためく。風の中に精霊の気配を感じた。昨日よりも少し近い。耳を澄ませれば聞こえるかもしれない距離に、小さな意思がひしめいている。


ふと思いついて、目を閉じた。


精霊術は世界によって相性がある。この世界の風の精霊と、自分の精霊術がどこまで噛み合うかはまだわからない。けれど、試してみる価値はある。


意識を広げる。自分の内側にある力——エルフとして生まれた時から持っている、精霊との親和性——を、そっと外に向けて開いた。


風が応えた。


ほんの微かに。さざ波のように。何千もの小さな声が、聞き取れないほどの音量で、耳の奥をくすぐった。


「——あ」


「どうしたの?」


「ん、ちょっと……風が面白いなって」


「風?」


「うん。この世界の風、すごくにぎやかだよ。——ティナには聞こえない?」


「風の音は聞こえるけど。にぎやかっていうのは——」


ティナは首を傾げた。不審そうというよりは、純粋に疑問を感じているという顔だった。


「精霊のこと、知ってる?」


「言い伝えでは聞いたことあるよ。昔は精霊と話せる人がいたとか。でも今は——そういう人、見たことない」


調律師と同じだ。失われた技術。忘れられた繋がり。この世界は何かを少しずつ失い続けている。


アウレーリエはもう少しだけ意識を広げてみた。精霊たちの反応を探る。


好奇心。警戒。そして——不安。


不安?


精霊たちが何かを恐れている。漠然とした、けれど確かな恐怖。それは根石が弱っていることと関係があるのだろうか。直感的にそう感じたけれど、言葉を交わせない以上、確かめようがなかった。


「ティナ」


「ん?」


「根石が弱る原因って、わかってるの?」


「はっきりとはわかってない。老化って言う人もいるし、群島全体の何かが変わってきてるって言う学者もいる。カレドラの議会で調査委員会が作られてるけど、目に見える成果は出てないみたい」


「ティナはどう思う?」


ティナはしばらく黙った。工具袋の紐を指先でいじりながら、空を見つめている。


「おじいちゃんの手記に、気になることが書いてあって。根石は……ただの石じゃない、って」


「ただの石じゃない」


「根石には脈がある、って。石の中を何かが流れていて、それが止まると石は死ぬ——みたいなこと。おじいちゃんの言い方では、根石は『眠った心臓』なんだって」


眠った心臓。


その言葉が、アウレーリエの中の何かに触れた。遠い記憶——いつだったか、どの世界だったか——似たような話を聞いた気がする。石に宿る命。大地を支える脈動。何かの世界で、何かの誰かが——


思い出せない。


古い記憶はいつもそうだ。掴もうとすると、するりと逃げていく。何千年も何万年も前のことが、夢のように薄れて輪郭を失う。覚えていることもある。忘れてしまうこともある。どちらになるかは自分では選べない。


「アウリィ? 大丈夫?」


「え? あ、うん。ちょっとぼーっとした。——ごめん。おじいさんの手記、面白そうだね」


「面白いっていうか、もどかしいんだよね。答えが書いてあるかもしれないのに、読めないっていうのが」


ティナの声に滲む苛立ちは、島を救いたいのに手が届かないという切実さだった。おじいさんの遺した知識。すぐそこにあるのに、掴めない。


「ボクに見せてもらうことはできる?」


「え?」


「手記。もしかしたら何か気づくことがあるかもしれない。いろんなところを旅してきたから、見覚えのある記号とかがあるかも」


ティナは驚いた顔をした。それから、少し考え込んだ。


「……いいよ。でも、期待しないでね。専門家が見てもわかんなかったくらいだから」


「うん。期待はしない。でも、見てみたい」


アウレーリエは笑った。純粋な好奇心と——もう少しだけ複雑な何かが混じった笑み。この世界の問題に首を突っ込むべきかどうか、頭の片隅で考えている自分がいた。


深入りしすぎるな。情を移しすぎるな。


いつもの戒め。いつもの自制。


でも、目の前で島が落ちていくのを見て何も感じないほど、まだ心は摩耗していない。たぶん。


---


昼食はティナお勧めの食堂でとった。


中央広場に面した、間口の狭い店。カウンターだけの小さな店内は、昼時とあって客でいっぱいだった。隅の席にどうにか収まって、ティナが注文してくれた料理を待つ。


「ここの芋団子の煮込みは絶対食べたほうがいい」


「芋団子! 楽しみ」


運ばれてきたのは、琥珀色のスープの中に白い団子がごろごろと入った皿だった。スープからは複雑な香りが立ち上っている。肉と野菜を長く煮込んだ深い味と、ほくほくとした芋団子の素朴な甘さ。


「おいしい……!」


「でしょ」


ティナは得意そうに笑って自分の皿にかかった。


「ねえ、アウリィ。ひとつ聞いてもいい?」


「なに?」


「その……本当にエルフなの? 長く生きてるって、どのくらい?」


スプーンを止めた。どこまで話すか、一瞬だけ迷う。


「……数えるのをやめちゃったくらい」


「数えるのをやめた?」


「うん。途中からあんまり意味がなくなってきて。百年も千年も、ある時点から感覚が変わらなくなるの」


ティナは団子を咀嚼しながら、じっとこちらを見ていた。信じていないわけではなさそうだ。かといって、すんなり受け入れているわけでもない。


「じゃあ、いろんなことを知ってるんだ」


「知ってることもあるし、忘れちゃったこともたくさんあるよ。古い記憶って、どんどんぼやけていくの。ぎゅっと握ってても指の間からこぼれてく砂みたいに」


「……それって、さみしくない?」


ティナの声は、同情ではなかった。ただの問いかけ。


「どうだろう。さみしいのかもしれないし、もう慣れちゃっただけかもしれない。でもね——」


スプーンで団子をつつきながら、言葉を探した。


「忘れちゃうからこそ、書き留めるの。日記をつけてる。今日のことも、昨日のことも、明日のことも。忘れても、読み返せば——輪郭くらいは思い出せるかなって」


「日記かあ。何冊くらいあるの?」


「数えてない。トランクの底のほうに古いのが溜まってるんだけど、散らかりすぎてて」


「片付けなよ」


「う」


真っ当な指摘に言い返せず、アウレーリエは団子を頬張って誤魔化した。


食事を終えて店を出ると、ティナは腕まくりをし直した。


「私、そろそろ工房に行かなきゃ。手記は今度見せるよ。明日の午前中なら空いてるから——」


「ほんと? ありがとう!」


「その代わり、旅の話聞かせてね。いろんなところ行ってるんでしょ?」


「もちろん。話しきれないくらいあるよ」


ティナは片手を上げて工房通りのほうへ走っていった。その背中を見送ってから、アウレーリエはひとりで町を歩き始めた。


午後の陽光が石畳を温めている。影が短い。空は高くて蒼い。


ひとりになると、頭の中で整理が始まる。


この世界には問題がある。根石が弱り、島が落ちている。その原因はわかっていない。かつてあった調律の技術は途絶えかけている。精霊たちは何かを恐れている。


関わるべきか。


長い旅の中で、いくつもの世界の問題に関わってきた。解決できたこともある。できなかったこともある。関わりすぎて、離れる時に心が軋んだことも——


だから、あまり深入りしないと決めているのだ。自分はこの世界の住人ではない。いずれ去る旅人でしかない。旅人にできることには限りがある。


でも。


ティナの油で汚れた指先を思い出す。おじいさんの手記を読み解こうとしている、あの手。


「——まあ、手記を見るくらいなら」


呟いて、歩く速度を上げた。考え込むのは性に合わない。今この瞬間にできることをしよう。


町の外れ、午前中にティナと行った展望台まで戻ってきた。今度はひとりだ。柵にもたれて空を眺める。


午後の風は午前より強い。マントが大きくはためいて、裏地の黄色が空に映える。


目を閉じて、精霊たちに呼びかけてみた。


午前中と同じように、意識を開いて、自分の中にある精霊との親和性をそっと差し出す。無理強いはしない。ただ、ここにいるよ、と伝える。


風が耳元を通り過ぎた。


何かが触れた。物理的な接触ではなく、もっと奥——意識の表面を、小さな手でそっと撫でるような感覚。


声が聞こえた。


声と呼んでいいのかはわからない。言葉ではなく、感覚の断片。色のない映像。形のない音。


——こわい。


——しずんでいく。


——ね、が、とまる。


断片的すぎて、意味がまとまらない。けれど、感情だけは明確に伝わってきた。恐怖。焦燥。そして——悲しみ。


精霊たちはこの世界の異変を感じている。根石の衰えが、精霊たちにとっても脅威であることは間違いなさそうだ。


「大丈夫だよ」


声に出して言った。


「ボクに何ができるかはわかんないけど——ちゃんと聞いてるから」


風が少しだけ和らいだ。撫でるように、優しく、アウレーリエの頬を通り過ぎていった。


---


桟橋に足を向けたのは、夕方近くになってからだった。


ヨルンがいるかもしれないと思ったのだ。預けた宝石のお釣りという名目があるけれど、実際にはもう少しこの世界のことを聞きたかった。ティナは町の中のことには詳しいが、島と島の間を行き来するヨルンには、別の視点がある。


桟橋に着くと、見覚えのある船が停泊していた。甲板の上で、ヨルンが帆の補修をしている。大きな手で太い針を操り、布に糸を通す動きは繊細だった。


「ヨルン!」


声をかけると、ヨルンは手を止めずに視線だけをこちらに向けた。


「……来たのか」


「お釣りもらいに来たんだけど——って言ったら信じる?」


「半分くらいは」


「正直だね」


桟橋から船に飛び乗る。ヨルンは眉をひそめたが、止めはしなかった。


「勝手に乗るな」


「もう乗った」


「…………」


ヨルンはため息をついて、帆の補修に戻った。アウレーリエは昨日と同じ木箱に腰掛けて、足をぶらぶらさせた。


夕暮れの桟橋は穏やかだった。一日の仕事を終えた船が戻ってきて、船乗りたちが疲れた身体を引きずるように陸に上がっていく。荷降ろしの掛け声。金属がぶつかる音。どこかの船から煮炊きの匂い。


「ヨルン、今日はどこまで行ってたの?」


「南のグルムまで。農作物の定期便だ」


「グルム? 農業の島?」


「群島で一番土壌がいい島だ。ここらの食料の大半はグルムから来る」


「へえ。島によって得意なものが違うんだ」


「当然だろう。島の大きさも環境も違う。だから交易が成り立つ」


帆に針を通す手が止まった。ヨルンは糸を歯で噛み切って、補修した部分を手のひらで撫でた。


「グルムの根石も、少し調子が悪いらしい」


「……え?」


「まだ深刻なほどではないと言っていたが。農家の連中が、土の力が前より弱いと——作物の育ちが遅くなったと言っていた」


「根石の力が弱ると、土にも影響するの?」


「根石は島を浮かせているだけじゃない。土を養い、水を巡らせ、空気を整えている。島の全てが根石に依存している」


眠った心臓、とティナが言っていた。その心臓が弱れば、身体の隅々まで影響が及ぶのは道理だ。


「ヨルンは——怖くないの?」


言ってから、少し後悔した。唐突すぎたかもしれない。


けれどヨルンは、手を止めなかった。補修を終えた帆を畳みながら、淡々と答えた。


「怖いさ」


意外なほどあっさりとした言葉だった。


「この船で空を渡っていると、落ちかけた島を見ることがある。傾いた島の上で、家財を抱えて逃げる人々を乗せたこともある。——怖いに決まっている」


「……うん」


「だが、怖がっていても島は落ちる。俺にできるのは船を動かすことだけだ。人を運び、荷を運び、繋ぐ。それだけだ」


ヨルンは畳んだ帆を船倉にしまい込んだ。甲板に戻ってきて、アウレーリエの向かいに腰を下ろした。体格の差が改めて際立つ。座っていてもヨルンのほうがずっと大きい。


「——お前」


「アウリィだよ」


「……アウリィ。お前は何をしにここに来た」


何を、と問われると困る。何をしにとか、何のためにとか、そういう目的を持ってこの世界に来たわけではない。来たくて来たわけでもない。世界が呼んで、世界が受け入れて、気がついたらここにいた。いつもそうだ。


「来たくて来たわけじゃないの。勝手に来ちゃうの。行き先は選べないから」


「何を言っている」


「ボクはね、世界を渡り歩いてるの。ひとつの世界からひとつの世界へ。ここの前は砂漠の世界にいて、その前は——えっと、森の世界だったかな。もう曖昧だけど」


ヨルンはしばらく黙っていた。信じているのかいないのか、表情からは読み取れない。


「……それは、自分の意思ではないのか」


「半々、かな。旅を続けること自体は自分で選んでる——と思う。でもどの世界に行くかは選べないし、いつまでいられるかもわからない。世界がボクを受け入れてくれている間だけ」


「受け入れている間」


「うん。足元の地面がよそよそしくなる感覚があるの。風が背中を押すように変わる。それが去り時。——まだここの地面は温かいから、もう少しいられると思うけど」


ブーツの底で甲板を軽く踏んだ。木の感触がしっかりと返ってくる。


ヨルンは空を見上げた。夕焼けが始まっている。橙と紫が溶け合う空の中を、どこかの飛行船がゆっくりと横切っていった。


「変わった客だな」


「客って言い方、なんかいいね」


「旅人と言ったほうがいいか」


「旅人。うん、それが一番近い」


ヨルンはポケットから何かを取り出した。小さな布袋。中にはいくつかの硬貨が入っていた。


「釣り銭だ。宝石を換金屋に持っていった。相場がわからんから足元を見られたかもしれんが——」


「ありがとう。助かるよ」


硬貨を受け取る。銅色と銀色の、薄くて軽い硬貨。片面に島の紋章、もう片面に数字が刻まれている。


「この世界のお金、初めて触った。かわいい形してる」


「金に可愛いも何もないだろう」


「あるよ。世界によって全然違うんだもん。貝殻がお金の世界もあったし、光る石を割って使う世界もあったし——」


ヨルンの目が、ほんの少しだけ興味の色を帯びた。気のせいかもしれない。でも、そうだと思いたい。


「——お前の話は、作り話にしてはやけに具体的だ」


「作り話じゃないもん」


「……まあ、どちらでもいい」


ヨルンは立ち上がった。夕陽を背にした大きなシルエットが、甲板に長い影を落とす。


「明日、南西のミラク島まで荷を届ける。小さい島だが、薬草の産地で変わった植物が多い。——来るか」


「行く!」


即答だった。考えるまでもない。新しい島。見たことのない植物。それだけで充分な理由だ。


「朝、第三桟橋に来い。日の出に出る」


「日の出って……早い」


「渡し船は朝が早い。嫌なら来るな」


「行く行く。絶対行く」


ヨルンは鼻を鳴らした。今度こそ、口元が確かに緩んだのが見えた。


---


宿に戻ると、部屋の窓から夜空が見えた。


この世界の星は明るい。大気が薄いせいだろうか、星の瞬きが少なく、ひとつひとつの光がはっきりと見える。雲の海の上という高い場所にいるからかもしれない。


窓辺に座って、日記帳を開いた。


——二日目。

——ティナという女の子に会った。整備士の見習い。おじいさんが根石の調律師だったらしい。手記を見せてくれるって。

——島が落ちる原因は、根石が弱っているから。根石は「眠った心臓」。何かが流れていて、それが止まると死ぬ。

——精霊たちと少しだけ話せた。彼らも怖がっている。「しずんでいく」「ねがとまる」。根のことだ。精霊たちも根石の異変を感じている。

——ヨルンに旅のことを少し話した。信じてくれたかはわからないけど、明日、別の島に連れて行ってくれるって。

——芋団子の煮込みがおいしかった。ルゥ茶もおいしい。おかわりした。


ペンを止めて、窓の外を見る。星空の下、遠くの島にいくつかの灯りが見えた。人が暮らしている灯り。小さくて、温かくて、心もとなくて。


あの灯りの下にも、眠った心臓が脈を打っている。


いつか止まるかもしれない脈を。


——この世界のために何かできるかな。わからない。でも、知りたい。


最後にそう書き足して、日記帳を閉じた。


赤い彼岸花の髪飾りに触れる。今日も温かい。微かに、本当に微かに。


「おやすみ」


誰にともなく呟いて、明かりを消した。


明日は日の出に起きなければならない。新しい島が待っている。風が呼んでいる。


この世界がまだ自分を受け入れてくれている限り——もう少しだけ、ここにいよう。


もう少しだけ。

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