1話「空に落ちた日」
世界と世界の狭間は、いつも曖昧だ。
暗くて、明るくて、冷たくて、温かい。五感が溶けて混ざり合うような感覚の中を、アウレーリエ・リュコーリアスは漂っていた。自分の身体の輪郭さえ曖昧になって、ただ意識だけが在る。前の世界の残響——あの赤い砂漠の乾いた匂い——が薄れていく。もう遠い。もう手が届かない。いつものことだ。
何度経験しても慣れないけれど、何度経験しても怖くはない。ただ少しだけ、くすぐったい。何かの繭に包まれているようで、嫌いな感覚ではなかった。
次はどんな世界だろう。
そう思った瞬間——風が、全身を叩いた。
「わっ——!」
目を開けると、空だった。
どこまでも果てしなく広がる青い空。透き通るような蒼穹が頭上に、足元に、あらゆる方向に広がっている。そしてその空の中を、アウレーリエは猛烈な速度で落ちていた。
身体が回転する。風が耳元で叫ぶ。金色の髪が視界を覆い、三つ編みのおさげが暴れ回る。真紅のマントが風をはらんで大きく膨らんだ。裏地の柔らかな黄色が翻って、赤と金の軌跡が空に散る。
落下。それ自体は、そう珍しいことでもない。
数え切れないほどの世界を渡ってきた。穏やかな草原に降り立ったこともあれば、灼熱の火口に出たこともある。海の底だったことも、断崖の上だったこともある。空中は——三回目か、四回目か。記憶が定かではないけれど、少なくとも最悪ではない。最悪は火口だった。あれは流石にまずかった。
「——っと」
空中で身体を捻り、姿勢を整える。マントの裾を両手で掴んで広げ、風を受けて落下速度を殺しながら下を見た。
雲だ。白い雲がどこまでも広がる海のように足元に敷き詰められている。陽光を受けて金色に輝く雲の表面は、本物の海のようにうねりながら果てしなく続いていた。
そしてその雲の上に——
「……島?」
浮いていた。
巨大な岩の塊が、雲の海の上に浮かんでいた。ひとつではない。遠くに目を凝らせば、いくつもの島が、高さも大きさもまちまちに、空のあちこちに漂っている。逆さまの山のように底部が尖ったもの、平たい円盤のような形のもの、緑に覆われたもの、岩肌が剥き出しのもの。
その中のひとつが、急速に近づいてくる。いや、自分が落ちていくのだ。緑色をした、そこそこ大きな島。
「よいしょっ——と!」
島の縁をかすめるように、草地に着地——というには少々荒っぽく、二回ほど転がってから仰向けに止まった。背中に柔らかい草の感触。空から降ってきた衝撃を、マントの加護が和らげてくれたのだろう。着ていなかったら骨の二、三本は覚悟しなければならなかったかもしれない。
仰向けのまま、しばらく空を見上げた。
とても、青い空だった。
高い。底が抜けたように高くて、深くて、どこまでも透明だ。太陽はひとつ。頭上やや西寄りにあって、空気は乾いているけれど冷たすぎはしない。吸い込む風には少しだけ鉱物のような匂いが混じっている。知らない匂い。知らない空。知らない世界。
それだけで、胸の奥がじわりと温かくなった。
「——よし」
起き上がって、膝についた草を払った。赤褐色のブーツに傷はなく、同色のベストも無事。生成り色のワンピースの裾に少し草の汁がついたけれど、すぐ落ちるだろう。ベルトポーチはふたつとも腰にしっかりついている。
手を頭にやった。
髪飾りがある。赤い彼岸花を模した、小さなお守り。指先で触れると、微かに温もりを感じた。
「うん、大丈夫」
立ち上がって、あらためて周囲を見渡した。
自分が降り立ったのは、それほど大きくない島だった。歩いて一周するのに、小一時間もあれば足りるくらいだろうか。一面の草原に、背の低い木が数本。紫がかった花が点々と咲いている。名前も知らない花だ。しゃがみこんで一輪に顔を近づけると、ほのかに甘い香りがした。
「きれい」
摘みたい衝動を抑えて立ち上がる。知らない世界のものにむやみに触らないのは、長い旅の中で学んだ数少ない教訓のひとつだ。きれいな花ほど毒があったりする。
島の端に近づいてみた。切り立った崖になっていて、その先は何もない。空と、遠くに浮かぶ別の島々と、眼下に広がる白い雲の海。崖の断面からは、淡い青白い光を放つ鉱石が露出しているのが見えた。
風が吹いた。
ただの風ではない。アウレーリエの耳——人間より少し長い、先の尖った耳が、その風の中に含まれた気配を捉えた。
精霊だ。
風の精霊が、この世界にはいる。それも、たくさん。草を揺らし、髪をなぶり、マントの裾を引っ張るように吹く風のひとつひとつに、小さな意思が宿っている。前の世界——名前すら忘れかけたあの砂漠の世界では、精霊はとても希薄だった。それに比べると、ここは驚くほど濃密だ。
「……きみたち、元気だね」
話しかけてみる。精霊との対話は、世界によってまるで勝手が違う。言葉が通じることもあれば、感覚だけで繋がることもあれば、何も返ってこないこともある。
返事はなかった。ただ、風が少しだけ強くなった気がした。髪飾りの花弁が揺れる。
興味はあるけれど、警戒している。そんな印象を受けた。異物を見定めようとしている、とでも言うのだろうか。
「まあ、いいや。そのうち仲良くなれるといいな」
独り言。旅が長いと、ひとりごとが多くなる。最初の頃は自分で気味悪がったものだけれど、今ではもう相棒のようなものだ。思考を声に出すと、不思議と頭の中が整理される。
それから島を歩き回った。紫の花の群生を抜け、背の低い木立の間を通り、草原を横切って反対側へ。
島の縁に、木で組まれた小さな桟橋のようなものが空に向かって突き出していた。木材は灰色に風化しているが、構造はしっかりしている。人の手で造られたものだ。桟橋の先端には金属の杭が打たれていて、ロープを結ぶためのものらしい。
人がいる世界だ。
アウレーリエは桟橋の先端に立って、遠くの島々を眺めた。ここからだと、近くの島にも距離がある。一番近い島には小さな建物らしきものが見え、もっと遠くには、ずいぶん大きな島があった。目を凝らすと、町のようなものが乗っているのがうっすらとわかる。
どうやって行けばいいだろう。飛べるわけではないし、精霊の力を借りるにもまだ対話すらできていない。泳ぐわけにも——雲の海を泳ぐという発想はさすがにない。
「誰か来ないかなあ」
桟橋に座り込んで足をぶらぶらさせながら空を眺めた。急ぐ理由はない。新しい世界に来たばかりで、急ぐ理由などあるはずもない。ただ、できれば暗くなる前に人のいる場所へ辿り着きたい。野宿は嫌いではないけれど、見知らぬ世界の最初の夜を野外で過ごすのは、できれば避けたい。何がいるかわからない。
しばらく待っていると、空の遠くに何かが光った。
小さな影が、こちらに向かってゆっくりと近づいてくる。光を反射しながら移動する、船のような形をした——
「飛行船だ!」
両手を日除けにして目を細める。木と金属で組まれた船体に、上部に楕円形の風船のようなものがついている。複数の帆が風を受けて膨らんでいて、船尾からは薄い煙が上がっている。
飛行船は、ゆっくりと旋回しながら桟橋に接近した。
船体は思ったより小さかった。人が五、六人も乗ればいっぱいになりそうな大きさで、荷を積むための甲板が大部分を占めている。帆柱にロープが複雑に絡み、船体の下部には青白く光る石が埋め込まれていた。島の崖の断面に見えたのと同じ鉱石だろうか。
桟橋に寄せられた船から、太いロープが投げ出された。そしてひとりの男が身軽に桟橋に飛び降りた。
長身だった。アウレーリエの頭ふたつ分は優に高い。日に焼けた肌に、くすんだ青の作業着。短く刈った灰色がかった髪と、風に晒され続けたような無骨な顔立ち。年齢は三十手前くらいだろうか。大きな手でロープを桟橋の杭に手慣れた様子で結びながら、こちらに気づいた。
手が止まる。
「……おい」
低い声だった。
「どうしてこんなところに子どもがいる」
アウレーリエの眉がぴくりと動いた。
「子ども?」
「ここはフラスの停泊島だぞ。町からだいぶ離れてる。迷ったのか? 親はどうした」
男は手を止めて、真っ直ぐにこちらを見下ろした。腰を少しかがめて、目線を合わせようとしている。心配しているのだと、その声の調子や仕草でわかった。
わかったけれど。
「子どもじゃないよ」
「……は?」
「ボクは子どもじゃないの。これでもけっこう長く生きてるんだけど」
腰に手を当てて、ぐっと背筋を伸ばす。百四十七センチの身体は、大抵の世界でこういう誤解を招く。慣れてはいる。慣れてはいるけれど、慣れることと気にならないことは別の話だ。
男は怪訝そうに眉を寄せた。視線がアウレーリエの尖った耳に止まり、それから金色の瞳、真紅のマント、赤褐色のブーツへと順番に移っていった。
「……長く生きてる?」
「うん。まあ、それはそれとして——ねえ、この辺りで一番近い町ってどこ? ここに来たばかりで、何もわからなくて」
「来たばかりって、どこから来たんだ。この島には定期便は来ない。泳いで来たわけでもあるまい」
「泳ぐ……雲の海を泳ぐって発想は面白いね」
「答えになっていないぞ」
「えっと、遠いところ。すごく遠いところから来たの。説明するとものすごく長くなるんだけど……」
嘘ではない。世界ひとつ分の距離は、だいたいにおいて「すごく遠い」で間違っていない。
男はしばらくアウレーリエを見つめていた。見慣れないものを前にした時の——どう扱っていいかわからない、けれど目の前にいる以上は無視もできない——あの表情だ。どの世界でも、最初はだいたい同じような顔をする。
「……見たことのない種族だな。その耳、その目」
「エルフって知らない?」
「古い伝承の中でなら聞いたことがある。実在するとは思っていなかったが」
「伝承かあ。お伽話の存在扱いされる世界は久しぶりだなあ」
「何を言ってるんだ」
「ああ、ごめんごめん。気にしないで。えっと——ボクはアウレーリエ。アウレーリエ・リュコーリアス。長いからアウリィって呼んで」
手を差し出すと、男は一瞬だけ迷ってから、大きな手で握り返した。アウレーリエの手がすっぽり包まれてしまう。
「ヨルン。渡しをやっている」
「渡し?」
「島と島の間を行き来して、人や荷を運ぶ仕事だ」
「この船で!」
アウレーリエは目を輝かせて飛行船を見上げた。近くで見ると、木材の継ぎ目や金属の鋲のひとつひとつまで見える。船体には細かい傷や修繕の跡が無数にあって、長く使い込まれていることがわかった。
「すごい、空を渡る船なんて! あの上の風船みたいなのは何でできてるの?」
「……渡し船はそう珍しくないが」
「空を飛ぶのが珍しいの! ねえねえ、船の下の光ってる石は何? あの帆はどうやって制御——」
「待て、待て」
ヨルンは片手を上げてアウレーリエの質問の奔流を遮った。困惑しているが、警戒は解けたようだった。子どもだと思ったから警戒していなかったのか、それとも本能的に危険ではないと判断したのか。おそらく前者だろう。少し悔しい。
「……とにかく、ここに用がないなら長居する理由もないだろう」
「うん、ない! というか、ここがどこかもよくわかってない」
「一番近い町はリーゲンだ。俺もこれから向かう。乗せていくことはできる」
「本当に!? ありがとう!」
「放っておいて気になるほうが面倒だ。——子どもじゃないと言ったな」
「言った」
「なら、自分の面倒は自分で見られるんだな」
「もちろん。それだけは得意だよ」
ヨルンは鼻を鳴らした。笑ったのかもしれない。無愛想な顔の奥で、ほんの少しだけ口元が緩んだ気がした。
「乗れ。出るぞ」
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渡し船の甲板は、思った以上に居心地がよかった。
船尾の操舵席にヨルンが立ち、アウレーリエは船首近くの木箱に腰掛けて足をぶらぶらさせていた。箱の中身は何かの工具らしく、揺れるたびにカチャカチャと音がする。
風が心地いい。マントが後ろにたなびいて、金色の髪が空に踊る。
「ねえ、ヨルン」
「何だ」
「この船の下についてる光る石って何なの?」
「浮遊石だ。飛翔晶とも呼ぶ。空気中の精気を集めて揚力を生む。島が浮いてるのも同じ原理だ」
「島の中にも入ってるんだ」
「島の核になる、もっと大きな石がある。根石と呼ばれている」
「根石……根っこの石?」
「島を支える根のようなものだからな。根石がなければ島は浮かんでいられない」
アウレーリエは足元の船底を見つめてから、視線を雲の海に移した。この世界を成り立たせているもの。見えないところで全てを支えている力。精霊の力とは違うのだろうか。それとも、根源的には同じものなのか。
「ねえ、あの雲の下には何があるの?」
ヨルンはしばらく答えなかった。操舵輪を僅かに回して風向きに合わせ、帆の角度を調整してから、短く言った。
「誰も知らない」
「誰も?」
「雲底より下に降りた船で、戻ってきたものはない。何があるか確かめる方法がないんだ」
その声には、事実を述べる以上の重みがあった。アウレーリエは問い返さなかった。ただ雲の海を見下ろして、白い表面が陽光にきらめくのを眺めた。
世界によって海は様々だ。水の海、砂の海、光の海。そして雲の海。どんな海にも底があるはずだけれど、この世界の底はまだ誰にも見つかっていないらしい。
船は穏やかに空を渡っていく。帆が風を受けてぱたぱたと鳴り、船底の浮遊石が淡い光を放ち続けている。遠くの島がゆっくりと近づいては通り過ぎていく。
途中、小さな島のそばを通った。傾いていた。明らかに水平ではなく、二十度ほど斜めになっている。島の表面にあったらしい木々は根こそぎ剥がれ、露出した地面は乾いてひび割れていた。
「あの島、傾いてるね」
「ああ。根石が弱っている」
「弱る? 根石って、衰えるものなの」
「永遠じゃない。力が尽きれば島は傾き、やがて——落ちる」
ヨルンの声は淡々としていた。日常的な事実を述べるように。けれど、操舵輪を握る指に少しだけ力がこもったのをアウレーリエは見逃さなかった。
「最近、多いのかな。落ちる島」
「……昔よりは。じいさんの代には、島が落ちるなんて百年に一度の大事だったと聞いている。今は——」
ヨルンはそこで言葉を切った。視線が傾いた島から離れ、前方の空に戻る。
「この仕事をしていると、嫌でも目にする」
アウレーリエはそれ以上は聞かなかった。出会ったばかりの相手の痛みに、無遠慮に踏み込むほど無神経なつもりはない。いくつもの世界を渡り歩く中で、それだけは忘れないようにしてきた——つもりだ。
代わりに話題を変えた。
「ヨルンはずっとこの仕事をしてるの?」
「十年ほどになる」
「十年! じゃあこの辺りの島は全部知ってるんだ」
「この航路沿いはな。群島全体となると、一生かけても回りきれない」
「群島って言うんだ。空の群島」
「正式には浮遊群島連邦。まあ、そんな大層なものでもないが。島ごとに自治をしていて、大きな島にはそれぞれ議会がある」
「国みたいなもの?」
「まとまっているかと言われると、怪しいがな」
ヨルンは短く息をついた。政治に興味があるというより、日々の暮らしの中で否応なく触れている——そんな空気感だった。
それから少しの間、ふたりは黙って空を渡った。沈黙は重くない。風の音と帆の軋む音が心地よく空間を満たしていて、無理に埋める必要を感じなかった。
ふと、風が変わった。
精霊たちの気配が、さっきより近い。船の周りを飛び回るように、小さな意思のかたまりが風に混じっている。島にいた時よりもずっとはっきりと感じる。
——あ。
ひとつの風が、アウレーリエの指先をかすめた。ほんの一瞬、何かが伝わった。感情とも言葉ともつかない、曖昧な感覚。
好奇心。精霊たちがこちらに興味を持ち始めている。この世界にそぐわない存在——異物であるアウレーリエに。
そっと微笑んだ。この世界の精霊たちは警戒心が強いけれど、敵意はない。時間をかければ通じ合えるかもしれない。
「何を笑っている」
「え? あ、うん。風が気持ちよくて」
「……変なやつだな」
「よく言われる」
前方の空に、それまでとは明らかに違う大きな影が見えてきた。他の島を圧倒する巨大な陸塊が、夕方に差し掛かった空に悠然と浮かんでいる。
「あれがリーゲンだ」
ヨルンが顎で示した。
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リーゲンは、これまでに通り過ぎたどの島よりも大きかった。
島全体が緩やかな丘のような形をしていて、その上に石と木で造られた建物が肩を寄せ合うように立ち並んでいる。塔がいくつか空に突き出し、島の外縁には桟橋がぐるりと巡らされていた。飛行船が何隻も停泊していて、人の姿がせわしなく動き回っている。
「わあ……!」
アウレーリエは船首から身を乗り出した。
「すごい、島の上に町がまるごと乗ってる!」
「落ちるぞ」
ヨルンが後ろから襟を掴んだ。
「大丈夫だよ、落ちても——」
「落ちてもの続きは聞かないでおく。座っていろ」
船が桟橋に寄せられ、ヨルンが手際よくロープを結んだ。桟橋には他の船乗りや荷運びの人々が行き交っていて活気がある。夕方の時間帯だからだろうか、戻ってくる船が多い。
人々の服装は機能的で、風を通さないよう工夫された厚手の上着やゴーグルを身につけた者が目立つ。肌の色や髪の色は様々だったが、アウレーリエのように耳の尖った者は見当たらなかった。
何人かの視線がこちらに向く。珍しいものを見る目。それ自体には慣れている。
「ここに宿はある?」
「通りを上がっていけば何軒かある。マリサの旅亭がまともだ。あの赤い看板の道をまっすぐ行けばわかる」
「ありがとう、ヨルン。本当に助かった」
「渡し賃の話をしていなかったが——」
「あ、そうだよね」
アウレーリエはベルトポーチのひとつを開けて中を覗き込んだ。この世界の通貨など持っているはずもない。けれど、どの世界でもだいたい通用するものがある。
「これで足りるかな」
取り出したのは、小指の先ほどの透明な宝石だった。
ヨルンの目が僅かに見開かれた。宝石を受け取り、指で摘んで光に透かす。
「……いい石だな。渡し賃どころか、十回は往復できる」
「じゃあ、お釣りは今度会った時でいいよ」
「待て。受け取れない、こんな額は」
「いいの。ボクこの世界のお金持ってないし、どこかで換えなきゃいけないんだもん。ヨルンが妥当な額だけ使って、残りは預かっておいてくれたらありがたい」
ヨルンは宝石と、それを差し出した小さな手と、にっこり笑っている金色の瞳を順番に見た。何か言いたそうに口を開きかけて、やめた。
「……わかった。預かる。だが、つり銭はきっちり返すぞ」
「約束だよ」
こうしておけば、またヨルンに会う理由ができる。新しい世界で最初に出会った人との縁は、できれば繋いでおきたい。ほんのささやかな糸でいいから。
桟橋から町の中へ足を踏み入れると、一気に様々な感覚が押し寄せてきた。焼いた肉の匂い、金属の匂い、機械油のような匂い。甘くて少し鋭い、知らない香辛料の匂い。石畳を叩く靴音、どこかの窓から聞こえる笑い声、荷車の軋む音。
通りは石畳で、建物は二階か三階建てのものがほとんどだった。窓にはガラスが嵌められ、看板には手描きの文字と絵。文字は読めない。これは少し不便だ。世界によっては言語そのものが違うこともあるのだけれど、今回は幸い話し言葉は通じるらしい。文字はそのうち覚えるしかない。
行き交う人々の中を歩きながら、アウレーリエは深く息を吸い込んだ。
新しい世界の匂い。新しい世界の音。新しい世界の色。
この瞬間がいつだって好きだ。まだ何も知らない。これから何でも知ることができる。名前も知らない通りの、名前も知らない店の、名前も知らない料理の匂いに包まれている。その可能性だけで、足取りが軽くなる。
赤い看板の通りを見つけて進むと、「マリサの旅亭」と思しき建物があった。文字は読めないけれど、看板に描かれた絵——布団にくるまった猫のような動物——が宿屋だと教えてくれた。
扉を開けると、薄暗い室内にカウンターがあり、その奥に恰幅のいい中年の女性が立っていた。赤い巻き毛に丸い頬。エプロンで手を拭きながらこちらを見て——
「あら。迷子かい?」
アウレーリエは深く、深く息を吸った。
「迷子じゃないです。宿泊したいんですけど」
「お泊り? ひとりで? おうちの人は?」
「いません。ボクはひとりで旅をしています」
我慢だ。この世界に来て何度目かの子ども扱いだけれど、我慢だ。見た目が幼く見えるのは種族の問題であって本人の落ち度ではない。「おうちの人」という言葉に反応しそうになる自分を、ぐっと抑える。
「旅って——まあ、あんた、耳が……ちょっと変わった子だねえ」
「……はい。珍しい種族なんです。一泊ぶんお願いします」
ベルトポーチから小さな宝石をもうひとつ取り出すと、女将——おそらくこの人がマリサだろう——の目の色が変わった。
「あらまあ、こりゃまた立派な……ちょっと待っておくれよ」
宝石を光に透かし、歯で噛み——噛もうとしたのでさすがに止めた——、しばらく値踏みした後、マリサは急に愛想よくなった。
「二階の角部屋が空いてるよ。窓が大きくてね、眺めがいいんだ。お湯も出るし、朝食もつけるけど——数日泊まるのかい?」
「しばらくお世話になるかもしれません」
「そうかいそうかい。じゃあこの石で七泊ぶんってことにしようかね。お釣りはその都度、この街の通貨で返すよ」
悪い条件ではなさそうだ。宝石の価値が正確にはわからないけれど、ヨルンの反応と照らし合わせて、おそらく妥当なところだろう。
二階に上がると、言われた通り悪くない部屋だった。木製の寝台にふかふかの布団。小さな机と椅子。窓からは町の通りと、その先に広がる夕焼け色の空が見えた。
扉を閉めて、ようやく一息ついた。
「——ふう」
トランクをベッドの上に置く。見た目は片手で持てる革のトランクだけれど、中身は魔法で拡張されている。蓋を開けると——雑多な品々が溢れんばかりに詰まっていた。前の世界で手に入れた乾燥果実の袋、何世代も前の世界の古い地図、修繕用の糸と針の束、替えの靴下、読みかけの本が三冊、正体不明の薬が入った小瓶、誰かにもらった石の人形、使い道を忘れた鍵——
「……また散らかってる」
整理しなきゃとは思う。もう何十回目かの決意表明だ。けれど結局、必要なものを探し当てればそれでいい、という結論に毎回落ち着いてしまう。
着替えだけ引っ張り出して、トランクの蓋を閉めた。
着替えを済ませてから窓際の机に座り、ベルトポーチからくたびれた日記帳を取り出す。革の表紙は擦り切れて角が丸くなっている。いま使っているこの一冊が何冊目なのか、もう数えてはいない。古い日記はトランクの底のほうに溜まっているはずだけれど、発掘する気力はなかった。
ペンを取って、新しいページを開く。
——新しい世界。空に島が浮かぶ世界。
一行書いて、ペンを止めた。窓の外を見る。太陽が傾いて、空が青から橙へ、橙から薄紅へと色を変えていく。遠くの島々がシルエットになって、空に浮かぶ影絵のように見えた。
きれいだ、と素直に思った。
ペンを走らせる。
——雲の海の上に人々が暮らしている。島は「根石」という石の力で浮いているらしい。
——風の精霊がたくさんいる。まだ言葉は通じないけれど、少しだけ触れ合えた。そのうち仲良くなれるといいな。
——最初に会った人はヨルンという渡し船の船乗り。背が高くて無口。ボクのことを子どもだと思った。むう。
——宿の女将にも「迷子かい?」と言われた。むうむう。
——島が落ちるということがあるらしい。根石が弱ると。最近増えているとヨルンが言っていた。何が起きているのか、気になる。
——この世界が何を見せてくれるのか、まだわからない。でも、空がとても青くて、風が気持ちよかった。
ペンを止めて、窓の外を見た。
夕陽が沈んでいく。この世界の太陽は、雲の海の彼方に沈むらしい。光の筋が雲の表面を這うように伸びて、白い海を金色に染めていた。
こういう夕暮れに、いつも同じことを思う。
もう少しだけ、ここにいたいな、と。
でも、長くはいられない。どの世界にも、永くは。世界がボクを受け入れてくれている間だけの旅だ。いつか足元の地面がよそよそしくなる感覚。風が背中を押すように吹き始める感覚。それが去り時の合図。何度も経験してきた。何度も世界を離れた。出会って、知って、別れて、また——
だから情を移しすぎないようにしている。つもりだ。
ときどき思う。最初はなぜ旅を始めたのだったか。どんな理由があって、最初の一歩を踏み出したのか。あったはずの確信が、長い長い年月の中ですり減って、今ではぼんやりとした輪郭しか残っていない。何かを探していた気がする。誰かに頼まれた気もする。あるいはただ、歩き出したら止まれなくなっただけかもしれない。
思い出そうとすると、指の間から砂がこぼれるように記憶が逃げていく。
——まあ、いいか。
アウレーリエは日記帳を閉じて、椅子の上であぐらをかいた。小さな身体が椅子にすっぽりと収まる。
理由なんて忘れたって、旅は楽しい。新しい空、新しい風、新しい出会い。それだけで充分だ。
たぶん。
きっと。
窓から入り込んだ夜風が、赤い彼岸花の髪飾りをそっと揺らした。手を伸ばして触れる。誰にもらったんだっけ——いや、母にもらったのだ。それは覚えている。顔は思い出せない。声も遠い。でも、これを手渡してくれた時の手の温もりだけは、まだ——
指先に、微かな温もりが残っている。気がする。
「——よし」
ベッドに飛び乗った。布団に顔を埋めると、知らない洗剤の匂いがした。
知らない匂い。知らない世界。知らない明日。
全部、好きだ。
明日はもう少し町を歩こう。この世界のことをもっと知ろう。落ちていく島のことも気になるし、精霊たちともちゃんと話してみたい。ヨルンにも会いに行こう。お釣りを口実にして。
目を閉じる。眠りに落ちる直前、窓の外から風がひとすじ、そっと部屋の中を通り抜けた。
精霊の気配がした。小さくて、遠慮がちな、挨拶のような。
「——おやすみ」
そう呟いて、アウレーリエ・リュコーリアスは新しい世界で最初の夜を迎えた。




