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5話「黄金の残照」

その朝は、いつもと違った。


目を覚ましたとき、まず気づいたのは静けさだった。パイプの振動音がない。壁越しに聞こえるはずのフリードリヒの作業音もない。遠くの工場の稼働音すら、薄い膜を隔てたように遠い。


代わりに聞こえたのは、鳥の声だった。


機械の鳥ではない。生きた鳥の、高く澄んだ囀り。


窓を開けた。冷たい空気が部屋に流れ込んできた。煤の匂いがしない。いや——薄い。いつもよりずっと薄い。


向かいの建物の壁に、朝の光が当たっていた。パイプラインの隙間から差し込む光ではなく、もっと広い角度から降り注ぐ光。見上げると——パイプの合間に、青い空が覗いていた。昨日よりも広く。雲がゆっくりと流れている。


「——きれいだな」


呟いてから、違和感に気づいた。


身体が軽い。昨夜、精霊術の疲労で重かったはずの四肢が、嘘のように軽い。頭も澄んでいる。


そして——皮膚の裏側が、かすかに痺れていた。


知っている感覚だった。


世界が、手を離し始めている。


アウリィはしばらく窓枠に手をかけたまま、動かなかった。


いつかは来ると分かっていた。この世界がアウリィを受け入れている時間には限りがある。受け入れが終わりに近づくと、身体の奥で何かが緩むような——居場所が溶けていくような感覚が始まる。


今日ではないかもしれない。明日かもしれない。あるいは明後日。でも、もう長くはない。


「……そっか」


声に感情を乗せないようにした。乗せてしまうと、次の行動が鈍る。


着替えた。ベストの留め金を締め、ブーツの紐を結び、マントを羽織り、ポーチを腰に着けた。トランクの蓋を開けて中を確認した——相変わらずのごちゃごちゃ。いつでも出発できるように、少しだけ整理しておこうと思った。思っただけで、手は動かなかった。


一階に下りた。


食堂にはギーゼラがいた。カウンターを拭きながら、いつもの朝を回している。


「おはよう。今日はえらく早いね」


「うん。なんか、目が覚めちゃって」


「パンとスープ、出すよ。座りな」


席に着くと、温かいスープが出てきた。芋と塩漬け肉のスープ。この街に来て何度も食べたもの。味が馴染んでいる。それが少し、切なかった。


パンを千切りながら、ギーゼラに聞いた。


「昨日の夜の砲声、聞こえた?」


「ああ。いつもより近かった。——今朝方、軍の伝令が走り回ってたよ。東部戦線の前線基地が一つ落ちたって話だ」


「そう——」


「まあ、この街がすぐどうこうなるわけじゃないさ。クレーゼン要塞はまだ持ちこたえてる。——でもね」


ギーゼラはカウンターに両手をついた。


「あんたがここにいる間に、ここが戦場になるかもしれない。そうなったら——」


「そうなったら?」


「逃げな。あんたは旅人だ。この街の戦争に巻き込まれる義理はない」


「ギーゼラさん——」


「言っとくよ。あんたはいい子だけど、この街の人間じゃない。守るべきものがここにある人間と、通りすがりの旅人とでは、やるべきことが違うんだ」


厳しい言葉だった。でも、その声は優しかった。


アウリィはスープの表面に映った自分の顔を見つめた。黄色い瞳が、湯気越しに揺れている。


「……ありがとう、ギーゼラさん」


「礼なんかいらないよ。——おかわり、いるかい?」


「うん」


---


朝食の後、二階のフリードリヒの研究室を訪ねた。


ノックすると、いつもより早く扉が開いた。フリードリヒの目の下の隈は変わらなかったが、目に光があった。


「アウリィ。ちょうどよかった。——報告書が完成した」


作業台の上に、何枚もの紙が重ねられていた。数式とグラフと図面と、フリードリヒの細かい文字がびっしりと書き込まれた報告書。


「共鳴式精霊動力機関の理論的根拠と実験データ。強制抽出式との比較分析。精霊への影響度の評価。——七年分の研究を、全て詰め込んだ」


「すごい。これだけのものを一晩で?」


「一晩じゃないよ。七年間ずっと、頭の中で書き続けていたものだ。紙に書き写すのに一晩かかっただけさ」


フリードリヒは報告書を丁寧に封筒に入れ、封蝋で閉じた。


「ヨルクが闇郵便の手配を進めてくれている。今日の夕方には運び屋が来るはずだ」


「よかった。——間に合うといいね」


「ああ。——間に合わなかったとしても、この報告書が帝都に届けば、いずれ変化は起きる。そう信じたい」


フリードリヒの声は穏やかだった。七年間の重みを背負いながら、それでも前を向いている声。


アウリィは口を開きかけた。今朝感じたこと——世界が手を離し始めていること——を伝えるべきかどうか、迷った。


言わなかった。


まだ確定ではない。もう一日あるかもしれない。二日あるかもしれない。今ここで告げれば、フリードリヒたちの判断に影響する。急がせてしまう。焦らせてしまう。それは良くない。


「ボク、ちょっと出かけてくるね」


「どこへ?」


「マルタさんのところ。約束したことがあるから」


---


市場への道を歩きながら、アウリィは街を見ていた。


この街に来て十日。最初の日に感じた新鮮な驚きは、今はもう別の感情に変わっている。驚きではなく、親しみ。知らない街ではなく、知っている街。油と蒸気の匂いも、パイプラインの影も、石畳のボルトの感触も、全部——。


「——だめだ」


首を横に振った。情が移りすぎている。分かっている。分かっているのに止められない。いつもそうだ。


市場は今日も賑わっていた。缶詰の山、工具の屋台、発酵蒸気水を売る店。初めて来たときに見た万能工具の屋台を通り過ぎるとき、店主のしゃがれた声が聞こえた。「にいちゃん、今日は買うのか?」同じ声。同じ言葉。アウリィは笑って手を振った。


マルタの店の暖簾をくぐった。


老婆はカウンターの奥で椅子に座っていた。いつもは薬を調合しているのに、今日は何もしていない。ただ座って、棚に並んだ瓶を眺めていた。


「マルタ。——来たよ」


「ああ。早かったね」


「約束したでしょ。旅の話を聞かせるって」


マルタが椅子に座り直した。アウリィはカウンターの向こう側——客の側ではなく、店の側に回り込んで、マルタの隣に座った。老婆は特に咎めなかった。


「何が聞きたい?」


「何でもいいよ。あんたが一番覚えている世界の話を聞かせてくれ」


一番覚えている世界。


アウリィは考えた。一番覚えている——つまり、一番記憶が鮮明な世界。それは最近訪れた世界ではないかもしれない。記憶は時間に比例して摩耗するわけではない。強い感情が伴った記憶は、長く残る。でも、強い感情とは何だったか——。


「……ごめん。一番覚えているのがどれか、よく分かんないんだ。全部ぼんやりしてて」


「全部ぼんやり?」


「うん。ボク、すごく長く生きてるから——記憶が磨り減っちゃうの。大切だったことも、いつの間にか輪郭が消えてて」


「ふうん」マルタは目を細めた。「じゃあ、覚えている断片でいい。ぼんやりした欠片でいいよ。年寄りには、それくらいのほうがちょうどいい」


アウリィは膝の上で手を組んだ。


「——海がある世界があった。すごく広い海で、水が全部透き通ってて、底まで見えるの。魚がいっぱいいて、珊瑚が光ってて。そこの人たちは船で暮らしてた。陸地がほとんどなくて、海の上が全部生活の場所で」


「へえ。それは——きれいだったかい」


「きれいだった。あと、空が緑色の世界もあった。草原がどこまでも続いてて、走っても走っても終わらないの。空は緑で、草は銀色で、夜になると草が光るんだ」


「銀色の草か。見てみたかったね」


「——あと」


言葉が詰まった。


「あと?」


「……花がたくさん咲いている世界があった。赤い花。一面の赤い花畑で——誰かがそこにいて——」


記憶がぼやけた。赤い花。赤い花畑。誰かが立っていた。誰だったか。何を言っていたか。手を伸ばしていた——自分が? 相手が? 分からない。


「——思い出せない。ごめん」


「謝ることじゃないよ」


マルタがアウリィの手に、そっと自分の手を重ねた。皺だらけの、小さな手。薬草の匂いがした。


「覚えていないことは、なかったことじゃない。あんたの中に残ってるよ。形がなくなっても、残ってる。——あたしも、そうだからね。若い頃のことはもう半分も覚えちゃいないけど、そのときの気持ちは——ここにある」


マルタが自分の胸を叩いた。乾いた音がした。


「……ありがとう、マルタ」


「礼はもういいよ。——ほら、もう一つくらい話してくれ。楽しい話がいいな」


「楽しい話——あ、じゃあ。食べ物がすごくおいしい世界があってね。何を食べてもおいしいの。水を飲んでもおいしい。石を舐めてもおいしい」


「石を?」


「うん。そういう世界なの。全部おいしいから、みんないつもにこにこしてて——あ、でも、困ったこともあって」


「何だい」


「おいしすぎて食べすぎるから、みんなすごくお腹が——」


「ぷっ——あはは。そりゃあ大変だ」


マルタが笑った。しわくちゃの顔が、くしゃっと崩れた。


アウリィも笑った。二人で、狭い店の中で笑い合った。棚の瓶がかすかに揺れて、中の液体が光を反射した。


「——いい話だったよ。ありがとう、アウリィ」


「こちらこそ」


立ち上がりかけたとき、マルタが言った。


「もうすぐ行くんだろう。——この世界から」


アウリィの足が止まった。


「……分かるの?」


「分かるさ。あんたの目が、来たときと変わってきてる。最初の日は——ここに来たばかりの、好奇心でいっぱいの目だった。今は——もう、ここを覚えておこうとしている目だ」


アウリィは何も言えなかった。


「行きな。あんたの旅だ。——この街のことは、あたしたちが何とかする」


「マルタ——」


「泣くんじゃないよ。年寄りを泣かせるのは後にしてくれ」


泣いてなんかいない。——いや、少しだけ、目の奥が熱かった。


暖簾をくぐって外に出た。鉄ビーズの音が背中で鳴った。


市場の喧騒の中に立ったまま、しばらく動けなかった。人波が左右に流れていく。煤の匂い。蒸気の音。遠くの汽笛。


全部覚えておきたいと思った。


全部忘れてしまうと分かっていても。


---


昼過ぎ、鋼鉄カモメ亭に戻ると、ヨルクが食堂のテーブルで待っていた。


いつものように部品をいじっている——かと思ったら、違った。テーブルの上に何もない。ヨルクはただ座って、壁を見つめていた。


「ヨルク?」


声をかけると、ヨルクがこちらを見た。いつもの鋭い目つき——ではなかった。何かを堪えているような、不安定な目。


「運び屋が来た。報告書は預けた。夕方には出発する」


「そう。よかった——」


「アウリィ」


ヨルクがテーブルの縁を掴んだ。


「あんた、もうすぐ行くだろ」


心臓が跳ねた。


「——どうして」


「分かるよ。昨日から顔が違う。覚悟を決めた奴の顔をしてる」


子どもの目は誤魔化せない。大人よりもずっと正確に、人の内側を見抜く。


アウリィは向かいの椅子に座った。


「……うん。たぶん、もうすぐ」


「たぶん、じゃなくて——いつだ」


「分からない。明日かもしれないし、今夜かもしれない。ボクにも——いつ来るか分からないんだ」


ヨルクの拳がテーブルの上で白くなった。


「——ふざけんな」


低い声だった。


「来たと思ったら勝手に消えるのかよ。俺たちの前に現れて、精霊がどうの、手伝うだのって言って——全部途中のまま、いなくなるのか」


「ヨルク——」


「最初から分かってたんだろ。長くいられないって。それなのに——なんで——」


ヨルクの声が震えた。最後まで言い切れなかった。


アウリィは何も言えなかった。言い訳も、弁解も、慰めも、何一つ口から出てこなかった。


ヨルクの言う通りだ。分かっていた。最初から分かっていて、それでも深入りした。情を移さないと決めていたのに、移してしまった。ヨルクの不器用な優しさに。フリードリヒの折れない信念に。ギーゼラの太い腕に。マルタの皺だらけの笑顔に。


全部——全部、自分で選んで踏み込んだ。


「……ごめん」


「謝んな」ヨルクが顔を背けた。「謝られると——余計に——」


沈黙が落ちた。食堂の時計が、かちかちと歯車の音を刻んでいる。


長い沈黙の後、ヨルクが口を開いた。


「——あんたが来る前から、地下の精霊のことは知ってた。知ってて、何もできなかった。見て見ぬふりをしてた。でもあんたが来て——何かできるかもしれないって、初めて思えた」


「ヨルク——」


「あんたがいなくなっても、報告書は帝都に届く。フリードリヒの研究は続く。俺だって——部品を作るだけじゃなくて、もっとできることがある。——だから、いなくなっても、あんたがやったことは残る」


ヨルクの目が、まっすぐにアウリィを見た。涙は流していなかった。流すまいと堪えている顔だった。


「でも——やっぱり、ふざけんなって思う」


アウリィは笑った。泣きそうな笑顔だった。


「うん。ボクもそう思う」


---


夕方、フリードリヒの研究室に三人が集まった。


最後になるかもしれない。その予感は、三人とも共有していた。言葉にはしなかったが、空気でわかった。


フリードリヒが紅茶を淹れた。マルタの店で買った薬草茶ではなく、帝都から持ってきたという本物の紅茶。貴重品だが、「こういう日のために取っておいた」と言った。


三つのカップから湯気が立ち上る。研究室の薄暗い光の中で、紅茶の赤い色が温かく映えた。


「——フリードリヒ。一つ、お願いがあるんだ」


「何だい」


「地下の精霊のこと——報告書が帝都に届いて、結果が出るまでに時間がかかるでしょ。その間に、精霊が消滅しちゃうかもしれない」


「……ああ。その可能性はある」


「だから——ボクがいる間に、あの精霊の負担を少しだけ軽くすることはできないかなって」


フリードリヒとヨルクが顔を見合わせた。


「どうやって」


「精霊術で——封印の術式に干渉するんじゃなくて、精霊そのものに力を送る。元気づけるっていうか——もう少しだけ耐えてって、伝える」


「それは——君の負担が大きくないか」


「大丈夫。最後だから」


最後。その言葉が、三人の間に静かに落ちた。


「……行こう」フリードリヒが立ち上がった。「案内を頼む、ヨルク」


---


夕暮れの地下水路は、前回よりも静かだった。


ヨルクが先導し、フリードリヒが続き、アウリィが最後に歩く。三人分の足音が石壁に反響して、ぱしゃぱしゃと水が跳ねた。


広間に着いた。


装置は前回と変わらずそこにあった。ガラス容器の中で、青白い光が弱々しく渦巻いている。前よりも光が暗い。精霊が弱っている。


アウリィは装置の前に立った。


マントを脱いで、椅子の代わりにヨルクに渡した。赤褐色のベストの下の生成り色のワンピースが、精霊の光に照らされた。


「——フリードリヒ。ボクが何かしている間に、軍の巡回が来たら——」


「僕が対応する。元はと言えば僕の設計だ。ここに来る理由はある」


「ヨルク」


「見張りはまかせろ。——入口のほうで見てくる」


ヨルクがアウリィのマントを抱えたまま、水路の奥に戻っていった。小さな背中が闇に溶ける。


フリードリヒがアウリィの隣に立った。


「無理はしないでくれ」


「うん。——見ててね」


両手をガラス容器にかざした。目を閉じた。


意識を沈める。深く。もっと深く。自分の中にある精霊との繋がりの、一番古い層にまで手を伸ばす。数万年の蓄積。無数の世界で結んだ、精霊たちとの絆の残滓。一つ一つは薄くなっているけれど、全部を束ねれば——。


呼びかけた。この世界の精霊にではなく。自分自身の中にある、全ての精霊の記憶に。


——力を貸して。


応えがあった。


風の記憶。水の記憶。土の記憶。火の記憶。名前も場所も忘れてしまった世界の精霊たちが、アウリィの中に残した記憶の欠片が、一斉に光った。


掌が熱くなった。いや、熱いのではない。温かい。生きている温かさ。精霊の——命の温もり。


その温もりを、ガラス容器の中の精霊に向けて送った。


——大丈夫。ここにいるよ。


容器の中の光が、ほんの僅かに強くなった。渦巻きが緩やかになった。苦しげにもがいていた動きが、少しだけ穏やかになった。


——もう少しだけ、待って。この街の人たちが、きみを助ける方法を探しているから。


精霊が応えた。言葉ではない。感覚の共有。冷たさと温かさが同時に押し寄せてくる。悲しみと、それでもまだ消えていない希望が。


涙が頬を伝った。今度は止めなかった。


どのくらいの時間が経ったか分からない。数分かもしれない。数十分かもしれない。


手を離したとき、膝が崩れた。フリードリヒが慌てて支えてくれた。


「アウリィ——」


「大丈夫。ちょっと——くらっとしただけ」


容器の中の精霊の光は、先ほどよりも僅かに明るくなっていた。劇的な変化ではない。でも、少しだけ——少しだけ楽になったように見えた。


「これで——しばらくは持つと思う。あとは——フリードリヒ、頼んだよ」


「——ああ。任せてくれ」


フリードリヒの声が震えていた。


---


地上に戻ると、空が赤かった。


夕焼けだった。パイプラインの隙間から、赤い光が差し込んでいる。煤煙の層を通して拡散した光が、街全体を赤く染めていた。


「——わあ」


アウリィは立ち止まって、空を見上げた。


この街で初めて見る夕焼け。パイプの向こうの空が燃えている。赤い。赤い。赤い彼岸花のような赤。


隣にヨルクが立った。アウリィのマントを抱えたまま。


「……きれいだな」


「うん」


「この街でも、こんな空が見えるんだな。知らなかった」


三人で、しばらく夕焼けを眺めた。蒸気パイプの隙間から漏れる白い蒸気が、赤い光に染まって、薔薇色の煙のように立ちのぼっていく。


ヨルクがマントをアウリィに返した。受け取ったとき、布が温かかった。ヨルクの体温が移っている。


「ありがとう。——持っててくれて」


「……別に」


---


鋼鉄カモメ亭に戻って、最後の夕食を取った。


ギーゼラが腕によりをかけた料理が並んだ。鉄羊の煮込み、焼いたパン、芋のグラタン、干し果物のコンポート。いつもの倍の量があった。


「何の騒ぎだい、こんなに」とフリードリヒが言った。


「うるさいね。作りたいから作ったんだよ」


ギーゼラの声は素っ気なかったが、料理を並べる手は丁寧だった。最後にアウリィの前に、小さなカップを置いた。発酵蒸気水だった。初日に市場で買ったあの飲み物。


「口に合うか分からないけどね。あんたが市場で飲んでたって、ヨルクから聞いたから」


「——ギーゼラさん」


「何だい」


「ありがとう」


「だから、礼はいらないって——」


「ありがとう」


二度言った。ギーゼラは口を結んで、それから太い腕でアウリィの頭をくしゃくしゃと撫でた。


「あんたは——いい子だよ」


子ども扱いだ。いつもなら少しむっとするところだ。でも今は——。


「……うん」


何も言い返さなかった。


四人で食卓を囲んだ。フリードリヒは紅茶の残りを持ってきて、ギーゼラにも振る舞った。ヨルクはパンを三つ食べた。アウリィは全部の料理を少しずつ食べて、全部の味を舌に刻み込んだ。


「ねえ、みんな」


「何だい」


「ボクね——明日にはもう、ここにいないかもしれない」


食堂が静かになった。


フリードリヒがカップを置いた。ヨルクが視線を落とした。ギーゼラが腕を組んだ。


誰も驚かなかった。三人とも——もう分かっていたのだろう。


「行くのかい」ギーゼラが言った。


「行くっていうか——行かなきゃいけないの。ボクの旅は、そういうものだから」


「次の世界に行くんだな」ヨルクが言った。


「うん」


「どんな世界か、分かるのか」


「分からない。行ってみないと」


「——怖くないのか」


「怖いよ。毎回怖い。でも——」


アウリィは笑った。


「知らないところに行くのは、怖いけど楽しいんだ。何があるか分からないってことは、何でもあるかもしれないってことだから」


ヨルクが鼻を鳴らした。「馬鹿みたいだ」と言ったが、声は震えていた。


フリードリヒが立ち上がった。研究室に行って、すぐに戻ってきた。手に小さなものを持っている。


真鍮の歯車だった。親指の爪ほどの大きさの、精密に作られた小さな歯車。表面に細かい文様が刻まれている。


「これを——持っていってくれないか。お守りのようなものだ。この街のことを、少しでも覚えていてくれるように」


アウリィは歯車を受け取った。掌の上で、金属が冷たく光っている。


「ありがとう、フリードリヒ」


ヨルクがポケットに手を突っ込んだ。しばらくごそごそやってから、何かを取り出した。


小さな計時機構だった。あの日、食堂のテーブルで組み立てていたもの。時計の心臓部分。


「——完成したのか?」とフリードリヒが驚いた。


「昨日の夜にな」ヨルクはそれをアウリィの前に置いた。「外装はないから時計としては使えねえけど。——まあ、記念品だ」


小さな歯車が噛み合って、かちかちと音を立てている。時を刻む音。この街の時間の音。


「ヨルク——」


「泣くな」


「泣いてないよ」


泣いていた。


ギーゼラがカウンターの下から包みを出した。


「はい。これは明日の朝飯。旅の途中で食べな。——パンと干し肉と、鉄羊の缶詰だ」


「ギーゼラさん——」


「泣くなっての。あたしまでもらい泣きするだろ」


ギーゼラの目が赤かった。


---


夜、一人きりの部屋で、荷物をまとめた。


トランクの中に、フリードリヒの歯車とヨルクの計時機構を入れた。ギーゼラの包みはポーチに入れた。


トランクの中のごちゃごちゃの中に、新しい品物が二つ加わった。いつか——何十年後か、何百年後か、何千年後か——このトランクを開けたとき、この歯車を手に取って、どこで誰にもらったのか思い出せなくなるのだろうか。


あの木彫りの鳥のように。


「——忘れないよ」


声に出した。


忘れるかもしれない。きっと忘れる。記憶は摩耗する。名前が消え、顔がぼやけ、声が遠のく。


でも——日記がある。


日記帳を開いた。最後の頁に書いた。


『グランツヴェルク。硝煙と歯車の街。十日間の旅。


ヨルク——鋭い目をした、優しい少年。部品を作る天才。飯をおごると動く。


フリードリヒ——折れない信念の技術者。七年間、諦めなかった人。紅茶がおいしかった。


ギーゼラ——太い腕の女将。料理がうまくて、声が大きくて、目が赤くなってた。


マルタ——精霊の友人。皺だらけの手が温かかった。旅の話を聞いてくれた。


精霊——閉じ込められていた水の精霊。助けを求めていた。少しだけ力を送った。きっとフリードリヒたちが助けてくれる。


この街の空は煤煙に覆われていたけど、夕焼けはきれいだった。給水塔の上から見た青空も。


忘れたくない。


でも忘れてしまうから、ここに書いておく。


ボクはここで泣いた。二回——いや、三回か四回。数えてなかった。


ありがとう。またね。——またはないけど、またね』


ペンを置いた。


日記帳を閉じて、ポーチにしまった。


ランタンの光を消す前に、部屋を見回した。狭いベッド、小さな机と椅子、窓の外のパイプライン。十日間過ごした部屋。


「ありがとう。いい部屋だったよ」


ランタンを消した。


暗闇の中で、壁の向こうからフリードリヒの作業音が聞こえた。今夜も研究を続けている。歯車が噛み合う音。液体が流れる音。そして——精霊の微かな声。泣き声ではなかった。もっと穏やかな——祈りのような声。


「おやすみ」


目を閉じた。


---


明け方に目が覚めた。


身体が——透けている。


比喩ではない。指先を目の前にかざすと、向こう側の壁がうっすらと見えた。自分の輪郭が溶け始めている。世界が、アウリィを手放そうとしている。


「——来たか」


静かに起き上がった。


身体はまだ動く。完全に消えるまでには、少し時間がある。過去の経験から、だいたいの猶予は分かっている。


着替える必要はなかった。寝るときもベストとブーツを脱いだだけだった。ベストを着て、ブーツを履き、マントを羽織った。トランクの留め金を確認した。ポーチも二つとも腰にある。


部屋を出た。


廊下を歩いて、階段を下りる。


一階の食堂は、まだ暗かった。誰もいない。テーブルと椅子が並んでいるだけの空間。ギーゼラは奥の居住区で眠っているのだろう。


食堂のテーブルの一つに、紙片を一枚置いた。この世界の文字は書けないから、代わりに——ポーチから小さな宝石を一つ取り出して、紙片の上に載せた。星蒼石。最初にギーゼラに渡したのと同じ青い石。宿代の残りと、感謝の気持ち。


扉を開けて、外に出た。


夜明け前のグランツヴェルク。通りは静かで、パイプラインの蒸気だけが白く立ちのぼっている。石畳が夜露に濡れて、ブーツの底がぬるりと滑った。


——最初の日と、同じだ。


路地を歩いた。最初の日にヨルクに案内された道を、逆に辿るように。坂を上がり、鉄階段を上り、パイプの隙間を縫って——。


北区の給水塔が見えた。


煉瓦と鉄骨の円筒形の塔。外壁の鉄はしご。あの日、ヨルクと一緒に登った場所。


はしごに手をかけた。一段ずつ、上っていく。透け始めた指が鉄の手すりを握る。まだ掴める。まだ、この世界に触れられる。


頂上に立った。


空が——広がっていた。


パイプラインの上。煙突の煙の向こう。東の地平線が白み始めていた。薄い桃色の光が空の端を染めて、雲の腹を金色に照らしている。


風が吹いた。冷たくて、澄んでいて、精霊の気配をほんの少しだけ含んだ風。マントがばさりとはためいて、真紅と黄色の裏地が夜明けの光に翻った。


「——きれい」


目に焼き付けた。


この空の色。この風の冷たさ。この街の輪郭。全部。


「アウリィ!」


下から声がした。


見下ろすと、給水塔の根元にヨルクが立っていた。息を切らしている。走ってきたのだろう。パジャマの上に外套を引っかけただけの格好で、裸足だった。


「ヨルク——なんで——」


「窓から見えたんだよ! あんたの部屋の窓から光が漏れてて——もう行くのかって——」


ヨルクがはしごに手をかけた。登ろうとしている。


「来なくていいよ! ここから話せる!」


「——ふざけんな! 最後なんだろ! 上まで行く!」


止められなかった。ヨルクは裸足のまま、鉄のはしごを登ってきた。錆びた手すりで足の裏を切ったのか、はしごに赤い跡がついた。


頂上に着いたヨルクは、荒い息のまま、アウリィの前に立った。


そして——アウリィの手が透けていることに気づいた。


「——手が——」


「うん。もう始まってる。あんまり時間がないんだ」


ヨルクの顔が歪んだ。泣きそうな顔。でも泣かない。歯を食いしばって、泣くまいとしている。


「何か——何か言えよ。最後に——」


「うん」


アウリィは笑った。


透け始めた手で、ヨルクの頭にそっと触れた。まだ触れられる。髪の毛の感触が指先にある。温かい。生きている。


「ヨルク。きみはすごい子だよ。ボクが出会った中で、一番——いや、何番目かは分かんないけど——すごく、すごくいい子だ」


「子どもじゃねえ——」


「うん。子どもじゃない。きみは立派な技師だ。——フリードリヒのこと、頼んだよ。あの人、一人だと無理しすぎるから」


「——ああ」


「あと、ギーゼラさんの飯ちゃんと食べて。朝ごはん抜くなって——」


「うるせえ——分かってるよ——」


ヨルクの声が、ついに震えて割れた。


アウリィは手を離した。指先の感覚が薄れ始めている。もう長くない。


東の空から、朝日が差し始めた。


光がパイプラインの隙間を通り抜けて、給水塔の上に降り注ぐ。金色の光が、アウリィの黄金の髪を照らした。赤い彼岸花の髪飾りが、朝日を受けて深い紅色に輝いた。


「ヨルク」


「何だよ」


「ボクね——この世界に来てよかった。この街に来て、きみに会えてよかった。全部忘れちゃうかもしれないけど——今この瞬間は、本物だから」


ヨルクが何か言おうとした。口を開いて、でも言葉にならなくて、もう一度開いて——。


「——またな」


それだけ言った。


アウリィは目を細めた。朝日がまぶしい。涙で光が滲んで、世界がきらきらと揺れている。


「うん。またね」


身体が光に溶け始めた。足元から透明になっていく。マントの裾が光の粒子に変わって、風に散っていく。真紅と黄色の光の粒が、朝の空気の中を舞った。


最後に見えたのは、ヨルクの顔だった。泣いていた。泣かないと決めていたはずの少年が、裸足のまま給水塔の上で、泣いていた。


——ごめんね。


——ありがとう。


光が全てを包み込んだ。


---


——意識が途切れた。


どのくらいの時間が経ったのか分からない。一瞬かもしれないし、永遠かもしれない。


世界と世界の狭間。身体がばらばらに解けて、もう一度組み上げられる感覚。何度経験しても慣れない。


やがて——。


足の裏に、柔らかいものが触れた。


草だ。


目を開けた。


空が青かった。パイプもない、煤煙もない、どこまでも澄み渡った青い空。白い雲がゆっくりと流れている。


足元には緑の草が広がっていた。見渡す限りの草原。風が吹いて、草が波打つように揺れている。空気が甘い。花の匂いがする。


どこか遠くで、鳥が鳴いていた。


「——」


アウリィは草の上に座り込んだ。マントが草の匂いに包まれる。ベストもブーツもワンピースも、全部無事だ。トランクが横に転がっている。ポーチも二つとも腰にある。


身体をまさぐった。


髪飾り——ある。赤い彼岸花。母からもらった、大切なお守り。


ポーチを開けた。日記帳。宝石の袋。ペン。


トランクを開けた。相変わらずのごちゃごちゃの中に——。


真鍮の歯車。


小さな計時機構。


かちかちと、歯車が時を刻む音が聞こえた。


「——あ」


記憶がある。まだある。


ヨルクの顔。フリードリヒの笑み。ギーゼラの太い腕。マルタの皺だらけの手。鉄羊の煮込みの味。発酵蒸気水の変な味。パイプラインの隙間から見た夕焼け。給水塔の上の青い空。地下の精霊の青白い光。


全部——まだ覚えている。


今は。


今は、まだ。


日記帳を開いた。新しい頁に書く。


『新しい世界。草原。空が青い。空気が甘い。


前の世界のことは、まだ覚えている。全部覚えている。——いつまで覚えていられるか分からないけど。


歯車と計時機構をトランクに入れた。大切にする。忘れても、これを手に取ったとき、日記を読んだとき、きっと何かが——残ってる。


さあ、行こう。次の旅だ。


知らない世界が待っている。


怖いけど、楽しみ。何があるか分からないってことは、何でもあるかもしれないってことだから。


——またね、グランツヴェルク。またね、みんな。


またはないけど。


またね』


日記帳を閉じた。


立ち上がって、草原を見渡した。どの方向にも道はない。ただ緑の草が風に揺れているだけだ。


どこに行こう。


——どこでもいい。


アウリィは一歩踏み出した。草を踏む感触が足の裏に伝わる。柔らかくて、温かくて、生きている大地の感触。


風が吹いた。マントが翻る。真紅の布地の裏から、黄色い裏地がちらりと覗いた。黄色い彼岸花のような色。


追想。陽気。元気な心。深い思いやり。


アウリィ・リュコーリアスは歩き出した。次の未知へ向かって。胸の奥の小さな炎を灯したまま。


その炎がいつか消えるのかどうか、本人にも分からない。


でも——今は、燃えている。


それでいい。

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