4話「歯車は嘆きを刻む」
フリードリヒの研究室は、思っていたよりもずっと狭かった。
二階の角部屋を二つ繋げた空間に、作業台が三つ、棚が五つ、そして数え切れない量の部品と器具と書類と図面が押し込められている。壁にはパイプの配管図や数式のびっしり書き込まれた紙が画鋲で留められ、天井近くの棚にはガラス瓶が整然と——いや、辛うじて落ちずに——並んでいた。
「散らかっていてすまない」
フリードリヒが書類の山をどかして椅子を作った。
「ボクのトランクの中よりはきれいだよ」
「それは——どのくらい散らかっているんだ」
「聞かないで」
作業台の中央に、一つの装置が置かれていた。
高さ五十センチほどの円筒形の金属構造物。外側は真鍮のフレームで覆われ、内側にガラスの小さな容器が嵌め込まれている。地下で見た軍の装置とは比べものにならないほど小さいが、基本的な構造には似通った部分がある。
「これが——共鳴式の?」
「試作七号機。今までで一番ましなものだが、まだ動かない」
フリードリヒが装置の横に立ち、ガラス容器の部分を指し示した。
「ここに精霊の力を導くんだが、この街の空気中に残っている精霊の力では微弱すぎて、共鳴が起きない。マルタの薬に使われているような残り滓では、装置を起動することすらできない」
「軍の装置は動いてるのに?」
「軍の装置は共鳴ではなく強制抽出だからだ。精霊を物理的に閉じ込めて、力を直接吸い出す。暴力的だが、確実に動く。——僕の方式は、精霊が自発的に力を提供してくれなければ成立しない」
精霊が自発的に。その言葉に、アウリィは少しだけ安堵した。
「じゃあ、ボクが精霊と繋がって、力を装置に流し込めば——」
「理論上は、起動テストができる。ただ」
フリードリヒが眼鏡を押し上げた。昨夜は気づかなかったが、薄いレンズの眼鏡をかけている。レンズの端が少し欠けていた。
「君の精霊術がこの世界でどの程度機能するのか、僕には分からない。無理をして君自身が傷つくようなことは避けたい」
「大丈夫だよ。精霊術はボクの専門だから。——ただ、この世界の精霊は遠いんだ。声が届くまでに時間がかかるかもしれない」
「構わない。急ぐ必要はない」
それは嘘だ、とアウリィは思った。
東部戦線は悪化している。軍は精霊動力炉の実戦投入を急いでいる。地下の精霊は弱り続けている。時間はない。——でも、フリードリヒは「急ぐ必要はない」と言った。アウリィを気遣って。
そういう人なのだ。自分が追い詰められていても、他人を急かさない。
「やってみるね」
装置の前に立った。両手をガラス容器の上にかざす。目を閉じて、意識を沈める。
精霊術の基本——自分の中にある精霊との繋がりを辿り、その先にいる精霊に呼びかける。声ではない。意識の糸を伸ばすような感覚。風の精霊、水の精霊、土の精霊、火の精霊。誰でもいい。応えてくれる誰かを探す。
給水塔の上では風の精霊を感じた。だから——風に呼びかけた。
パイプラインの隙間を吹き抜ける風。建物の壁に当たって渦を巻く風。煙突の煙を千切って散らす風。その流れの一つ一つに、精霊がいる。薄く、微かに。でもいる。
——聞こえる?
呼びかけた。
沈黙。
もう一度。もっと深く、意識を沈めて。自分の中にある繋がりの、一番古い層——数万年の蓄積が眠る場所——にまで手を伸ばす。
——お願い。少しだけ、力を貸して。
風が応えた。
部屋の中に風はない。窓は閉まっている。パイプの音が壁越しに聞こえるだけだ。でも、アウリィの掌の上で、微かに——空気が動いた。
精霊の気配。薄い糸のように細く、今にも切れそうなほど頼りないが、確かにそこにあった。
その力を、装置のガラス容器に向けて流す。
容器の中に、淡い——本当に淡い——光が灯った。蝋燭の炎よりも小さな、白い光の点。
フリードリヒが息を呑んだ。
「動いた——計器が反応している。共鳴値が——微弱だが、ゼロじゃない」
「もう少し——」
力を集中する。額に汗が浮かんだ。この世界の精霊との繋がりは細くて、力を通すのに普段の何倍もの集中力が必要だ。まるで針の穴に糸を通すような——。
光がわずかに強くなった。容器の中で、光の点がゆっくりと回転し始める。
「共鳴が始まっている。これは——僕の計算通りだ。精霊が自発的に力を提供している。強制ではない、自発的な——」
フリードリヒの声が震えていた。七年間の研究が、初めて形になった瞬間。
だが。
「——っ」
アウリィの足が揺れた。
力の消耗が大きい。この世界の精霊との繋がりが細すぎて、精霊術の効率が極端に悪い。通常の十倍——いや、それ以上のエネルギーを自分の中から持ち出している。
光が揺らいだ。
「アウリィ、無理をするな」
フリードリヒの声が遠く聞こえた。
手を離した。光がふっと消える。容器の中は、また透明に戻った。
膝が折れそうになったのを、作業台の縁を掴んで堪えた。息が荒い。額の汗が顎を伝って落ちた。
「大丈夫かい」
「うん——ちょっと、疲れただけ」
椅子に座り込んだ。マントの端を掴んで、手の甲で汗を拭う。真紅の布の加護が体温を安定させてくれるのを感じた。
「十分だよ。十分すぎるくらいだ」
フリードリヒが計器のデータを書き写しながら言った。その手はまだ震えていたが、今の震えは疲労や不安からではなく、興奮だった。
「これで共鳴式が理論通りに機能することが証明された。精霊を閉じ込めなくても——自発的に提供される力だけで、動力機関を駆動できる。効率は低い。出力も小さい。でも、原理は正しい」
「よかった」
「ああ。——ただ、問題はここからだ。この結果をどう使うか」
フリードリヒは書き写したデータを見つめた。
「軍にこのデータを突きつけたところで、方針を変えるとは思えない。強制抽出のほうが出力が高い以上、軍事的な観点からは共鳴式に切り替える理由がない」
「じゃあ——」
「帝都の技術院に直接報告する方法がある。技術院にはまだ、僕の研究を支持してくれる人間が何人かいる。もし共鳴式の優位性を示すデータを送ることができれば——」
「軍の頭越しに、上に働きかけるってこと?」
「そうだ。——危険ではある。でも」
フリードリヒは作業台に手をついて、まっすぐにアウリィを見た。
「このまま何もしなければ、あの精霊は消滅する。代わりの精霊が確保されれば、同じことが繰り返される。僕は——もう、見ているだけは嫌なんだ」
七年分の無力感を振り払うような声だった。
アウリィは頷いた。
「手伝うよ」
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午後になって、マルタの店を訪ねた。
暖簾をくぐると、老婆はカウンターの裏で薬を調合していた。アウリィの顔を見て、眉を上げた。
「また来たね。——顔色が悪いよ」
「精霊術を使いすぎちゃって。この世界だと、すごく消耗するんだ」
「この世界、ときたか」マルタは含み笑いをした。「まあいい。座りな。滋養のつく薬を出してやる」
カウンターに座ると、琥珀色の液体が入った小瓶を渡された。一口飲むと、甘くて苦くて温かいものが喉を流れていった。体の奥が、じんわりと熱くなる。
「——おいしい。効いてる感じがする」
「精霊の残り滓をほんの少し混ぜてある。あんたなら、それだけで回復が早いだろう」
マルタは調合を続けながら、さりげなく言った。
「地下水路に行ったんだろう」
「……うん」
「あの装置を見たかい」
「見た」
「で、何かするつもりだね」
アウリィは小瓶を両手で包んだ。
「マルタは——怒ってないの? 精霊があんな扱いを受けてるのに」
「怒ってるさ」マルタの手が止まった。「三十年、この街で精霊の薬を売ってきた。あたしにとって精霊は——商売道具でもあるが、それ以上に、古い友人のようなもんだ。友人が苦しめられてりゃ、怒るに決まってる」
「でも、何もしてない?」
マルタの目が鋭くなった。アウリィは自分の言葉が失礼だったかもしれないと思ったが、撤回はしなかった。
「……あたしは年寄りだ」マルタは静かに言った。「若い頃なら、乗り込んでいって装置を叩き壊していたかもしれない。でも今は——体も衰えた。残された時間で、できることをやるしかない。あたしにできるのは、精霊の力をほんの少し集めて、薬にして、この街の人間の体を癒すことだ。それが精霊への敬意の示し方だと——思ってる」
「……ごめん。偉そうなこと言った」
「いいよ。あんたは若い——若く見えるだけかもしれないがね。若い奴は動けばいい。あたしは後ろから見てるよ」
マルタが棚から何かを取り出した。小さな布袋。中からころりと転がり出たのは、青緑色の石だった。親指の爪ほどの大きさで、内部にかすかな光が明滅している。
「精霊石だよ。精霊の力が結晶化したもんだ。この街の地下で、ごくたまに見つかる。あたしの在庫の最後の一つ」
「これを——ボクに?」
「フリードリヒに渡しな。あの男の研究に使えるはずだ。共鳴式の装置とやらに組み込めば、安定性が上がる」
「マルタ、なんで知って——」
「長く生きてりゃ、聞こえてくるもんさ。この街の壁は薄いからね」
アウリィは精霊石を受け取った。掌の中で微かに脈打つような感触がある。精霊の鼓動。この世界にも、精霊はちゃんと生きている。
「ありがとう、マルタ」
「いいよ。——ただし一つ条件がある」
「何?」
「あんたが次にうちに来るときは、旅の話を聞かせてくれ。いろんな世界を渡り歩いてるんだろう? 年寄りの娯楽が少ないんだよ、この街は」
アウリィは笑った。今度は、ちゃんと笑えた。
「約束する」
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鋼鉄カモメ亭に戻る途中で、ヨルクに会った。
路地の角で工具箱を抱えたまま立っていた。アウリィの顔を見て、少しだけ表情が緩んだ——ように見えた。光の加減かもしれない。
「ヨルク、仕事は?」
「今終わった。——あんた、何してた」
「いろいろ」
「怪しいな」
「怪しくないよ。——ねえ、時間ある? ちょっと付き合ってほしいところがあるんだけど」
「また空が見たいのか」
「ううん。今日はフリードリヒの研究室」
ヨルクの眉が動いた。
「フリードリヒに会ったのか」
「昨日の夜、向こうから来てくれて。——ヨルクにも知ってほしいことがあるんだ。一緒に来て」
ヨルクはしばらく黙っていた。それから工具箱を肩にかけ直して、「飯は」と言った。
「後で。おごるから」
「……分かった」
二階のフリードリヒの研究室に三人が集まったのは、それから三十分後のことだった。
アウリィがマルタから受け取った精霊石を渡すと、フリードリヒの目が見開いた。
「精霊石——本物か。どこで」
「マルタさんから。共鳴式の装置に使えるって」
フリードリヒは精霊石を光にかざした。青緑の光が彼の顔を照らす。震える指先が、今は興奮で震えているのか、感動で震えているのか、判別できなかった。
「これがあれば——安定した共鳴場を形成できる。精霊の力を外部から供給し続けなくても、石自体が共鳴の核になる」
「じゃあ、ボクが精霊術で力を流し込まなくても動くようになる?」
「完全に自律動作するには程遠いが、起動と維持に必要な負荷は大幅に減る。君に無理をさせずに済む」
ヨルクはドアの近くに立ったまま、二人のやり取りを黙って聞いていた。工具箱を足元に置いて、腕を組んでいる。
「で、それをどうするんだ」
ヨルクの声は平坦だった。
「共鳴式の装置が動いたとして、それをどうする。軍に見せて「こっちのほうがいいですよ」って言うのか。そんなの聞くわけねえだろ」
「帝都の技術院に報告するつもりだ」とフリードリヒが答えた。「技術院が認めれば、軍の研究方針を変えさせる権限がある」
「それ、間に合うのかよ。東部戦線がもたねえって話が——」
「間に合わせる」フリードリヒの声が硬くなった。「間に合わせなければ、あの精霊は死ぬ」
沈黙が落ちた。
ヨルクは腕を組んだまま、視線を床に落としていた。何かを考え込んでいる顔。十歳の少年には重すぎるものを背負っている顔。
「……俺に何ができる」
小さな声だった。
「ヨルク」
「俺は技師見習いだ。精霊術なんか使えねえし、帝都に知り合いもいねえ。でも——あの地下の光景を見て、何もしないのは——もう、無理だ」
アウリィは椅子から立ち上がって、ヨルクの前に行った。正面に立つと、ヨルクのほうが少しだけ背が高い。ほんの二、三センチ。
「ヨルクは地下水路の抜け道を知ってるでしょ。あと、部品の組み立てが得意。——フリードリヒ、装置の組み立てにヨルクの手を借りられない?」
「もちろん。精密部品の組み立てなら、僕よりヨルクのほうが上手いかもしれない」
ヨルクが顔を上げた。
「……本気か?」
「本気だよ」
「俺はまだ子どもだぞ」
「ボクも見た目は子どもだけどね」
「あんたは違うだろ。何万年も生きてるって——」
「あ、信じてたんだ」
ヨルクが口をつぐんだ。耳の先が赤い。
「——別に、信じてるとは言ってねえ」
「はいはい」
アウリィは笑った。ヨルクが照れている姿は初めて見た。鋭い目つきが少しだけ柔らかくなって、年相応に見える。
フリードリヒが咳払いをした。
「計画を整理しよう。——まず、精霊石を装置に組み込んで、共鳴式動力機関の実動テストを行う。これにはヨルクの組み立て技術と、アウリィの精霊術が必要だ」
「うん」
「次に、テストの結果をまとめて、帝都の技術院に送る。報告書は僕が書く。送る手段は——正規のルートは軍に検閲されるから、別の方法を考えなければならない」
「伝書機鳥は?」
「軍の管理下だ。民間の郵便は——」
「ある」ヨルクが言った。「闇郵便。下層区の運び屋が使ってるルートがある。金はかかるけど、軍の検閲は通らない」
「ヨルク、よく知ってるね」
「この街で生きてりゃ嫌でも覚える」
フリードリヒが頷いた。
「では、闇郵便を使う。ヨルク、手配を頼めるか」
「ああ。——ただ、時間がかかる。帝都まで片道で十日はかかるし、返事がいつ来るかも分からねえ」
「分かっている。でも、他に手がない」
三人は顔を見合わせた。研究室の薄暗い光の中で、それぞれの表情を確認し合う。
フリードリヒは決意を固めた技術者の顔。ヨルクは覚悟を決めたばかりの少年の顔。そしてアウリィは——。
自分がどんな顔をしているのか分からなかった。
嬉しいのだと思う。誰かと一緒に何かを成し遂げようとしている。この感覚は好きだ。でも同時に、心の奥で小さな針が刺さっている。
いつかこの世界を去る。この人たちを置いて。
「——よし。じゃあ、始めよう」
その思いを振り払って、声を上げた。
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その夜から、三人の作業が始まった。
フリードリヒが設計を修正し、ヨルクが部品を組み立て、アウリィが精霊との橋渡しをする。役割は明確で、三人の手が一つの装置に集まる時間は、不思議と心地よかった。
ヨルクの手は正確だった。極小の歯車を指先で摘まみ、工具の先で回転させ、正確な位置にはめ込む。呼吸を止めて、一ミリの狂いもなく。
「すごいね、ヨルク。本当に上手い」
「騒ぐな。ずれる」
「ごめん」
フリードリヒは設計図を広げながら、精霊石の配置位置を計算していた。白衣の袖が作業台の端から垂れている。
「精霊石を共鳴核として中央に配置する。周囲の導管は——」
「三ミリの真鍮管で八本、放射状に」ヨルクが図面を見もせずに言った。「接合部はフランジ締めだと精度が出ねえから、銀ロウ付けにする」
「——君、僕の図面を読んだのか」
「読まなくても分かる。設計の癖が出てるからな。あんた、対称配置が好きだろ。八方向に均等に広げるのが効率がいいって考えるタイプだ」
フリードリヒが少し驚いた顔をして、それから静かに笑った。
「参ったな。見抜かれている」
アウリィはその様子を眺めながら、精霊との繋がりを維持する作業に集中していた。装置の中心——精霊石が収まる予定の空間に、微かな精霊の気配を誘導する。風の精霊に呼びかけ、ほんの少しの力を分けてもらう。
掌の上で空気が渦を巻く。小さな風の精霊が、ほんの一瞬だけ姿を見せた——透明な光の粒のようなものが、指先でくるくると回って、すぐに消えた。
「——かわいい」
思わず声に出した。
ヨルクが手を止めてこちらを見た。
「何が」
「今、風の精霊がちょっとだけ見えたの。小さくて、きらきらしてて——この世界でも、ちゃんといるんだなって」
「見えるのか、精霊が」
「たまにね。ほんの一瞬だけ。この世界だと特に短いけど——」
アウリィは掌を見つめた。もう何もいない。でも、精霊が触れた指先が、ほんのりと温かかった。
「ボクね、精霊と話すのが好きなんだ。言葉じゃないんだけど——気持ちが伝わるの。風の精霊は気まぐれで、水の精霊は穏やかで、土の精霊は頑固で、火の精霊は情熱的で。どの世界でも、精霊の性格は似てるんだよ」
「どの世界でも、か」
フリードリヒが呟いた。ペンを止めて、アウリィを見ている。
「君は——本当に、たくさんの世界を見てきたんだね」
「うん。たくさん。多すぎて、全部は覚えてないけど」
「覚えていないのは——辛くないか」
アウリィの手が一瞬止まった。
辛いか。辛いのだろうか。分からない。忘れること自体を忘れてしまえば、辛さもまた消えていく。それが救いなのか、それとも——もっと深い喪失なのか。
「……辛いって思うこともあるけど、それも忘れちゃうから。忘れたことを思い出せないと、辛さも曖昧になるんだよね。便利なのか悲しいのか、自分でもよく分かんない」
笑いながら言った。明るい声で。
フリードリヒもヨルクも、それ以上は聞かなかった。
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作業の合間に、一階に下りて夜食を取った。ギーゼラが呆れ顔で鉄羊の煮込みの残りとパンを出してくれた。
「あんたら、こんな時間まで何やってんだい。特にヨルク、子どもは寝る時間だよ」
「子どもじゃねえ」
「言ったな? じゃあ洗い物を手伝いな。大人の仕事だ」
ヨルクが苦い顔をしたが、立ち上がって素直に洗い場に向かった。ギーゼラの言うことには逆らわないらしい。
アウリィはパンを千切りながら、食堂を見回した。深夜なので客はほとんどいない。隅のテーブルで酔い潰れた労働者が一人、いびきをかいている。
窓の外から遠い砲声が聞こえた。
低く、鈍い、腹に響くような音。一度。二度。三度。
ギーゼラの手が止まった。
「——東部だね。近いな」
「砲撃?」
「夜間砲撃。共和連合が夜に仕掛けてくることが増えてる。——まだ距離はあるけど、この街に届く日も遠くないかもしれないね」
ギーゼラは淡々と言ったが、その太い腕が僅かに強張っていた。
「ギーゼラさんは、避難しないの?」
「する場所がないよ。この街が全部あたしの場所だ。ここで店を開いて十五年。逃げたところで、どこに行くってんだい」
「でも——」
「心配してくれるのは嬉しいけどね。あたしは大丈夫さ。この腕で酔っ払いを放り出してきたんだ、砲弾の一発や二発——」
ギーゼラの声に、いつもの豪快さが戻った。でもアウリィは見逃さなかった。ギーゼラが皿を拭く手が、ほんの一瞬だけ震えていたことを。
この街の人たちは、怖がっている。怖がっているけれど、怖がっていることを見せない。見せたら、日常が崩れてしまうから。
洗い物を終えたヨルクが戻ってきた。
「終わったぞ」
「ご苦労さん。——あんたの分の飯も温めてあるよ」
ヨルクが席に着いて、煮込みを食べ始めた。黙々と、しかし速いペースで食べる。よく見ると、パンを多めに取っている。明日の朝食の分まで確保しているのかもしれない。
アウリィは何も言わず、自分のパンを一切れ、ヨルクの皿の横に置いた。
ヨルクが一瞬だけ手を止めて、それから黙ってパンを自分の皿に引き寄せた。
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食事の後、三人は再び二階に上がった。
精霊石の組み込み作業が続く。ヨルクの指先が真鍮管を銀ロウで接合していく。小さなバーナーの青い炎が、暗い研究室に揺らめく影を落とした。
作業を見守りながら、アウリィは窓辺に立っていた。窓の外は暗い。パイプラインの隙間から覗く空には、星が一つも見えない。雲か、煤煙か。
「ねえ、フリードリヒ」
「何だい」
「この装置が完成して、帝都に報告が届いて、うまくいったとして——その先はどうなるの?」
「軍の研究方針が見直される——理想的にはね。強制抽出式から共鳴式への移行が検討され、地下の精霊が解放される」
「でも、戦争は続くんでしょ。動力源が変わっても、蒸甲蟲は戦場に送られる」
フリードリヒのペンが止まった。
「……そうだ。僕の研究は、動力源の倫理性を変えるだけであって、戦争そのものを止めるものではない」
「それでいいの?」
「いいか悪いかの問題ではないんだ。僕にできることの限界が、そこにある。——戦争を止めるのは、僕の仕事ではない」
「誰の仕事なの」
フリードリヒは答えなかった。
ヨルクがバーナーの炎を消して、顔を上げた。
「戦争は、始めた奴の仕事だろ。止めるのも。——俺たちみたいな下っ端にできるのは、目の前の一個を何とかすることだけだ」
十歳の少年の言葉とは思えなかった。でも、この街で生きてきた十年が、その言葉に重みを与えていた。
アウリィは窓の外に目を戻した。
目の前の一個を何とかすること。
それは——アウリィ自身がずっとやってきたことではなかったか。どの世界でも、全てを変えることはできない。救える命は限られている。解決できる問題はほんの一部だ。それでも、目の前にあるものに手を伸ばす。
そうやって、数万年を過ごしてきた。
——本当にそうだったかな。
疑問が、また頭をもたげた。
最初から「目の前の一個」だったのだろうか。もっと昔——旅を始めた頃は、もっと大きな何かを求めていなかったか。世界を変えようとか、全てを救おうとか、そういう——。
思い出せない。摩耗した記憶の底に、何かがある気がする。でも手が届かない。
「アウリィ」
フリードリヒの声で我に返った。
「組み込みが完了したよ」
振り返ると、作業台の上の装置が変わっていた。中央のガラス容器の中に、青緑色の精霊石が据えられている。八本の真鍮管が放射状に伸び、その先端がフレームの各所に接続されている。
美しい装置だった。機能美と言うべきか。この世界の蒸気機関が持つ武骨さとは違う、繊細で有機的な造形。精霊との共鳴のために設計されたものは、精霊に似た柔らかさを持つのかもしれない。
「起動テストをする。——アウリィ、もう一度力を貸してくれるか」
「うん」
装置の前に立った。両手をかざす。目を閉じる。
今度は、さっきよりも楽だった。精霊石が共鳴核として機能しているから、アウリィが精霊との繋がりを維持するための負荷が大幅に軽減されている。針の穴に糸を通す作業が、普通の裁縫くらいにはなった。
——聞こえる?
呼びかけた。
——ここに、きみたちの力を活かす場所がある。誰も傷つけない方法で。
風が応えた。水が応えた。微かに——本当に微かに——土の精霊も。
精霊石が光った。青緑の光が、八本の導管を通って装置全体に広がる。フレームの継ぎ目から、淡い光が漏れ出た。
装置が、静かに震えた。
「共鳴場、形成。出力——安定。持続時間——」
フリードリヒが計器を読み上げる声が上ずっている。
装置の中心で、精霊石が柔らかに脈打っていた。精霊の鼓動。閉じ込められているのではない。自ら選んで、そこに力を注いでいる。流れが止まっているのではなく、流れの形が変わっているだけ。
「——きれいだ」
ヨルクが呟いた。
作業台から一歩離れて、装置の光を見つめている。その顔には、給水塔の上で空を見上げていたときと同じ表情が浮かんでいた。知らないものに手を伸ばしたがっている、子どもの顔。
アウリィは微笑んだ。
「ね。精霊の光って、きれいでしょ」
「……ああ」
光はしばらく安定して輝き続け、やがてゆっくりと弱まった。精霊の力の供給が途切れたのだろう。この世界では、精霊が提供できる力の総量が限られている。
でも、テストは成功だった。
「データは十分だ」フリードリヒが書き留めた数値を確認しながら言った。「これで報告書が書ける。——明日中にまとめて、闇郵便の手配を進めよう」
「俺が運び屋に話をつける」ヨルクが言った。「金はどうする」
「ボクが出す」アウリィがポーチに手を入れた。「宝石の残り、まだあるから」
「いや、それは——」
「いいの。こういうときのための蓄えだから」
三人は顔を見合わせた。そして——誰からともなく、笑った。
小さな、疲れた、でも温かい笑い。
アウリィの胸の中で、あの針がまた一本増えた。
---
深夜、自分の部屋に戻った。
日記帳を開く。今日一日のことを書く。
精霊石のこと。装置のテスト。ヨルクの言葉。フリードリヒの笑顔。ギーゼラの震える手。遠くの砲声。マルタの精霊石。
書き終えてから、ペンを止めた。
新しい頁に、別のことを書き始めた。
『ボクは何のために旅をしているんだろう。最初の理由は——覚えていない。いつから覚えていないのかも覚えていない。ただ、旅を続けることだけが残っている。次の世界へ。その次の世界へ。止まらないこと。それ自体が目的になってしまっている気がする。
でも——この街で出会った人たちのことは、忘れたくないと思う。ヨルクの不器用な優しさ。フリードリヒの折れない信念。ギーゼラの太い腕。マルタの精霊石。
忘れたくない。でも、きっと忘れてしまう。
それでも——今ここで感じていることは、本物だと思いたい』
ペンを置いた。
インクが乾く前に、涙が一滴、紙の上に落ちた。文字が滲んだ。
慌てて拭こうとしたが、もう遅かった。「忘れたくない」の文字が、ぼんやりと溶けて読みにくくなっていた。
「……あーあ」
笑った。泣きながら笑った。
馬鹿みたいだ。日記に書いた「忘れたくない」が滲んで読めなくなるなんて。まるで自分の記憶みたいだ。
日記帳を閉じて、ポーチにしまった。
ランタンを消す前に、髪飾りに触れた。赤い彼岸花。花弁の一枚一枚。微かな温もり。
この温もりだけは、まだ消えていない。
「おやすみ」
誰にともなく呟いて、眠りに落ちた。
夢は見なかった。




