3話「地底の涙」
約束の日は、雨だった。
雨といっても、アウリィが知っている雨とは少し違う。パイプラインの隙間を通り抜けてくる雫は、煤煙を吸い込んで灰色に濁っていた。石畳に落ちると黒い染みを作り、排水溝を汚れた川のように流れていく。
マントのフードを目深に被り、鋼鉄カモメ亭の軒先でヨルクを待った。約束の時刻は、工場の第二汽笛が鳴った後。まだ少し早い。
軒先から手を伸ばして、灰色の雨粒を掌で受けた。ぬるい。水の精霊の気配はほとんどない。この雨は、精霊の恵みではなく、蒸気と煤煙が冷えて凝結しただけの水だ。給水塔の上で感じた風の精霊たちも、この雨雲の向こうに追いやられているのだろう。
「——汚い雨だね」
呟くと、掌の水がわずかに震えた。気のせいかもしれない。でも、どこか遠くで水の精霊がこちらに気づいたような、微かな共鳴を感じた。
第二汽笛が鳴った。長く、低く、雨音を切り裂くように。
その余韻が消えないうちに、路地の向こうからヨルクが走ってきた。頭にゴーグル付きの帽子を載せ、大きすぎる外套を羽織っている。足元は油染みだらけのブーツだ。
「待たせたか」
「ううん、ボクも今来たところ」
「嘘つけ。靴の先が濡れてる。少なくとも十分は立ってただろ」
鋭い観察眼だった。アウリィは肩をすくめた。
「まあね。——雨、大丈夫? 延期にする?」
「雨のほうが都合がいい。見回りの兵士が減るからな」
ヨルクはそう言って、歩き出した。アウリィは黙って後に続いた。
二人は下層区をさらに下へ向かった。鉄階段を三つ下り、連絡通路を二つ渡り、労働者向けの安い長屋が立ち並ぶ一画を抜ける。雨のおかげで人通りは少なく、すれ違うのは外套を被った数人だけだった。
「ヨルクは、地下水路に行ったことがあるの?」
「何度かな」
「何のために?」
ヨルクは答えなかった。前を向いたまま歩き続け、やがて行き止まりのように見える壁の前で足を止めた。煉瓦の壁に、鉄板が一枚打ちつけてある。ボルトが数本。ヨルクはポケットから小さな工具を取り出して、手慣れた動きでボルトを外し始めた。
四本目のボルトを抜くと、鉄板が浮いた。ヨルクがそれをずらすと、壁に人一人が通れるほどの穴が現れた。暗い。奥から、冷たく湿った空気が流れてくる。
「ここから入る。足元は滑るから気をつけろ。——あと、暗いけどランタンは最小限にしろ。光が漏れると厄介だ」
「分かった」
穴をくぐると、石造りの狭い階段があった。苔むした壁に手をつきながら、一段ずつ下りていく。マントの裾が壁に擦れて、湿った苔の感触がひんやりと伝わった。
二十段ほど下りたところで、階段が終わった。
目の前に、闇が広がっていた。
ランタンの光を絞って灯す。橙色の光が、低い天井と石壁に反射した。水路だった。幅は三メートルほど、天井の高さは大人が立てるくらい。足元には浅い水が流れていて、壁面には古い苔と、もっと古い——何百年も前のものと思われる——石のレリーフが刻まれていた。
「古い……」
アウリィは壁のレリーフに手を触れた。波紋のような文様。魚。水草。そして、その中心に——人型の、水の精霊を思わせる意匠。
「この水路、もともとは精霊信仰の時代に造られたものかもしれない」
「精霊信仰?」
「うん。この文様、水の精霊への祈りだと思う。水路を通る水に精霊の加護を願って——」
「さあな。俺にはただの古い彫り物にしか見えねえ」
ヨルクはランタンの光を先へ向けた。「こっちだ。奥に行くぞ」
水路の中を歩いた。水深は足首ほどで、ブーツの中まで染みてくるほどではなかったが、底の石が苔で滑る。ヨルクの足取りは迷いがなく、分岐点でも一瞬の躊躇なく左右を選んでいく。何度も来ているのは間違いない。
三つ目の分岐を左に折れたとき、アウリィは足を止めた。
感じた。
精霊の気配——マルタが言っていた、歪んだ気配。止められて、閉じ込められて、本来の流れを失った精霊の、苦しみの気配。夜、壁越しに聞こえた泣き声の正体と同じもの。でも、今はもっと近い。もっと濃い。もっとはっきりしている。
「……ヨルク」
「分かってる。この先だ」
ヨルクの声が低くなっていた。いつもの投げやりな調子ではなく、何かを警戒する声。
水路が広くなった。天井が高くなり、壁の間隔が開いて、広間のような空間に出た。かつてはここが水路の合流地点だったのだろう。何本もの水路がこの広間に向かって口を開けていて、中央には大きな石のプールが設えられていた。
プールは干上がっていた。その代わりに——。
アウリィは息を呑んだ。
プールの中に、金属の装置が設置されていた。
複雑な機構だった。鉄とガラスと真鍮で構成された、巨大な——何と表現すればいいだろう——籠のようなもの。籠の中心に、透明な円筒形のガラス容器がある。直径は一メートほど。高さは二メートル近い。そしてその中に——。
青白い光が渦巻いていた。
水の精霊だった。
本来なら流れとなり、雨となり、泉となって世界に溶け込んでいるはずの精霊が、ガラスの円筒の中に閉じ込められていた。苦しげに渦巻き、壁に打ちつけられ、出口を探して——見つけられずに、また渦巻く。
「——っ」
胸の奥で何かが引きつった。
精霊の悲鳴が聞こえた。声ではない。音ですらない。でも、アウリィの精霊との繋がりが、その苦しみを直接伝えてくる。水が凍りつくような、灼けるような、両方を同時に感じるような——矛盾した痛み。
「なにこれ——」
声が震えた。自分でも驚くほど。
ヨルクが横に立った。少年の顔は暗がりの中で青白く見えた。ランタンの光ではなく、ガラス容器の中の精霊の光に照らされて。
「これを見せたかったんだ」
「ヨルク、これは——」
「軍がやってる。半年くらい前から、この地下で何かをやってるって噂があった。俺は抜け道を知ってたから、忍び込んで——これを見つけた」
アウリィは装置に近づいた。鉄の籠の表面に、びっしりと刻印が施されている。この世界の文字——読めないが、等間隔に並んだ配列から、何かの術式であることは推測できた。技術的な刻印ではない。もっと古い、まじないに近い——精霊を封じるための術式。
「精霊を、動力にしようとしてるんだ」
ヨルクの声は平坦だった。
「フリードリヒが言ってた研究——代替動力源の研究。石炭の代わりに精霊の力を使う。理論的には可能だって。——でも、フリードリヒのやり方と、軍のやり方は違ったんだ」
「フリードリヒのやり方?」
「フリードリヒは、精霊と協力する方法を模索してた。精霊の力を少しだけ分けてもらって、それを変換する。でも軍は——」
ヨルクはガラス容器を見上げた。中で精霊が身悶えしている。
「軍は、丸ごと捕まえて、搾り取る方法を選んだ。そのほうが早いし、確実だし、量も多い。フリードリヒが反対したら、研究室から追い出された」
だから半ば自主研究になった。宿の二階を借りて、細々とやっている——フリードリヒの言葉の意味が、ようやく繋がった。
「フリードリヒは知ってるの? ここのことを」
「知ってる。でも、止められない。軍に逆らえば——この街じゃ消されるからな」
消される。ヨルクがその言葉を使ったとき、声の温度が一段下がった。実感のこもった言い方だった。
アウリィはガラス容器の前に立った。
青白い光が渦巻いている。精霊の目も口もない。でも、泣いている。それだけは間違いない。自分の全身で、その悲鳴を受け止めている。
——助けてあげたい。
その衝動が、胸の底から湧き上がった。
同時に、もう一つの声が聞こえた。いつもの声。旅人の声。
——これはこの世界の問題だ。お前が解決するべきことではない。深入りするな。情を移すな。
分かっている。分かっている、けど。
「ヨルク」
「何だ」
「きみがボクにこれを見せたのは——どうしてほしいから?」
ヨルクは少し間を置いた。視線を落として、水路の底に溜まった薄い水を見つめた。
「——分からねえ。分からねえけど、誰かに見てほしかった。俺一人で抱えてるのが、きつくなってた」
十歳の少年の声だった。鋭い目つきも、大人びた口調も剥がれ落ちた、ただの子どもの声。
アウリィは手を伸ばして、ヨルクの頭にそっと触れた。帽子の上から。ヨルクは振り払わなかった。
「見せてくれてありがとう」
ヨルクが何か言おうとした、そのとき——。
足音が聞こえた。
水路の奥から。複数の足音。規則正しい、軍靴の足音。
「——まずい」
ヨルクの顔が強張った。ランタンを消す。暗闇が二人を包み込んだ。
精霊の青白い光だけが、広間をぼんやりと照らしている。
「こっちだ」
ヨルクがアウリィの手を掴んで、壁際に引っ張った。広間の隅に、崩れかけた石の壁がある。その裏側に身を潜める。マントの裾を体の下に押し込んで、呼吸を殺した。
足音が近づいてくる。
ランタンの光が水路の入口に現れた。黄色い光が広間を舐めるように走り、装置の金属面で反射した。
「——異常なし。装置の稼働状況、正常」
男の声。事務的な口調。
「圧力計の数値は?」
別の声。こちらはもう少し低い。
「前回の点検時から二割上昇。容器内の精霊抵抗値が増大しています。次の抽出に備えて、抑制術式の強化が必要かと」
精霊抵抗値。抽出。抑制術式。聞き慣れない単語が、アウリィの耳に突き刺さった。
覗き見ると、軍服の男が二人、装置の前に立っていた。一人は書記官のような若い男で、手帳に数値を書き込んでいる。もう一人は——。
エルゼ・ヴァイトラウフだった。
灰色の軍服。短い赤毛。こめかみから顎にかけての傷跡。温度のない灰色の目が、ガラス容器の中の精霊を見つめている。
「抽出スケジュールを前倒しにする。東部戦線に蒸甲蟲の増援を送る必要がある。精霊動力炉の試作品は——」
「フリードリヒ技師の設計をもとにした試作三号機が、来週には完成予定です」
「フリードリヒの設計か」エルゼの声に、微かな皮肉が混じった。「彼は自分の設計がこう使われていることを知ったら、どんな顔をするだろうな」
「技師は現在、監視下に——」
「分かっている。——それより、容器の精霊だが。抵抗が増しているということは、個体が弱っているということだ。このまま抽出を続ければ消滅する」
「代わりの精霊の確保は進めていますが、この地域では個体数が——」
「東の森林地帯から確保する手段を検討しろ。長耳族の領域だが、戦時協力の名目で交渉できるはずだ」
アウリィの拳が、無意識に握りしめられていた。
精霊を消滅するまで使い潰す。代わりを確保する。まるで石炭を掘り出すように、精霊を資源として扱っている。
壁の裏側で、ヨルクがアウリィの袖を引いた。「行くぞ」と口の形だけで言っている。
だめだ。ここにいてはだめだ。見つかれば——。
でも、足が動かなかった。
ガラス容器の中の精霊が、ひときわ強く光った。渦巻きが激しくなり、容器の壁に打ちつけられて、そのたびに光が明滅する。苦しんでいる。もがいている。助けを求めている。
——誰か。
精霊の声なき声が、アウリィの全身を貫いた。
——誰か、ここから出して。
涙が頬を伝った。
自分でも驚いた。泣いている。精霊の痛みを受け止めて、自分の体が泣いている。こんなに強く精霊の感情を受け取ったのは、いつ以来だろう。この世界では精霊との繋がりが薄いはずなのに——閉じ込められた精霊の悲鳴は、薄い壁を突き破って届いてくる。
ヨルクが強く袖を引いた。
アウリィは歯を食いしばって、ヨルクに従った。壁の裏を這うようにして、広間から離れ、別の水路に滑り込む。軍靴の足音が遠ざかるまで、暗闇の中を無言で移動した。
三つの分岐を戻り、階段を駆け上がり、鉄板の穴から外に出た。雨はまだ降っていた。灰色の雨粒が顔に当たる。冷たくて、汚くて、でも地下の闇よりはましだった。
鉄板をヨルクが戻してボルトを締める。その間、アウリィは壁にもたれて立っていた。マントのフードが落ちて、雨が直接髪に降り注いだ。金色の髪が濡れて、頬に張りついた。
「——大丈夫か」
ヨルクが手を止めて、アウリィを見た。
「うん」
嘘だった。大丈夫ではない。胸の奥が軋んでいる。精霊の悲鳴がまだ耳の奥にこびりついている。
「泣いてたぞ、あんた」
「……うん」
否定しなかった。頬に残る涙の跡を、雨が洗い流していく。
「精霊の声が聞こえたのか」
「聞こえた。苦しんでた。——助けを求めてた」
ヨルクは口を結んで、しばらく黙っていた。工具をポケットにしまい、帽子を被り直す。
「助けられるのか。あんたに」
重い質問だった。
「——分からない」
正直に答えた。
助けたい。助けたいけれど。
装置を壊して精霊を解放することは、おそらくできる。精霊術を使えば、あの封印の術式を解除する方法を見つけられるかもしれない。だが、それをすれば——。
軍と敵対することになる。この街にいられなくなる。ヨルクやフリードリヒやギーゼラやマルタに迷惑がかかる。そして何より——。
これはこの世界の問題だ。
旅人が介入して、一時的に精霊を解放したとしても、根本的な解決にはならない。アウリィがいなくなった後、軍はまた精霊を捕らえるだろう。別の方法で、別の場所で。
「ヨルクの言う通りだよ。ボクは旅人で、この世界の人間じゃない。ボクにできることは——」
「限られてる、か」
ヨルクの声は、責めるものではなかった。ただ、静かに確認するような声だった。
「……あのさ、アウリィ。一つ聞いていいか」
「うん」
「あんたは——こういうのを、今まで何度も見てきたのか。どうにもならないことを」
アウリィは雨の中に立ったまま、目を閉じた。
何度も。何十回も。何百回も。
戦争で焼ける街を。飢えに苦しむ人々を。理不尽に奪われる命を。搾取される弱いものを。
全部、見てきた。全部、覚えていたはずだった。でも記憶は摩耗して、個別の光景は溶け合って、残っているのは——ただ、胸の底に溜まった重さだけ。
「……見てきたよ。たくさん」
「そのたびに、泣いたのか」
「——どうだろうね。泣かなくなった時期もあったと思う。でも今日は泣いちゃった。えへへ、格好悪いね」
笑おうとしたが、うまく笑えなかった。
ヨルクはまた何も言わなかった。二人で並んで、雨の中を歩いた。灰色の水が頬を濡らし、マントの裾を重くし、ブーツの底をぬるぬると滑らせた。
鋼鉄カモメ亭に着くと、ギーゼラが腰に手を当てて立っていた。
「何だいその格好は! ずぶ濡れじゃないか。ヨルク、あんたもだよ。中に入んな、風邪ひくよ」
有無を言わさずタオルを押しつけられ、暖炉の前に座らされた。暖炉の火は石炭ではなく、圧縮された蒸気を熱源にしている。赤い光ではなく、白い熱が部屋を暖めていた。
温かいスープが出てきた。ヨルクは無言でスプーンを動かし、アウリィはカップを両手で包んで、立ち上る湯気を眺めていた。
「——ありがとう、ヨルク。見せてくれて」
「礼は——」
「飯でしょ。分かってるよ」
ヨルクの唇が、ほんの少しだけ緩んだ。
---
夜になった。
部屋に戻り、濡れた服を着替えてから、アウリィはしばらくベッドの上で膝を抱えていた。
ランタンの光が部屋を橙色に染めている。壁の向こうから、今夜もフリードリヒの作業音が聞こえた。金属のこすれる音。液体の流れる音。そして——精霊の微かな泣き声。
フリードリヒは、軍のやり方に反対して追い出された。でも、彼の設計した装置が、軍の精霊動力炉の基盤になっている。本人の意志に反して、自分の技術が精霊を苦しめるために使われている。
それを知っていて、止められないまま、宿の二階で一人きりの研究を続けている。
あの震える指先は、疲労だけではなかったのかもしれない。
ノックの音がした。
「はい」
扉の向こうに立っていたのは、フリードリヒだった。白衣の代わりに、くたびれたカーディガンを羽織っている。手には二つのカップを持っていた。
「夜遅くにすまない。——飲み物を持ってきた。眠れないのかと思って」
「ありがとう。——分かるの、起きてるって?」
「壁が薄いからね。寝返りの音が聞こえるんだ」
お互い様だな、とアウリィは思った。自分もフリードリヒの作業音をずっと聞いていたのだから。
部屋に招き入れた。椅子が一つしかないので、フリードリヒに椅子を勧めて、自分はベッドに座った。カップの中身はハーブティーだった。マルタの店で買ったものだとフリードリヒは言った。
「……ヨルクと一緒に、地下に行ったね」
アウリィのカップを持つ手が止まった。
フリードリヒは穏やかな顔をしていた。怒っている様子はない。ただ、目の下の隈がいっそう濃く見えた。
「ヨルクから聞いたの?」
「いや。あの子は何も言わない。——僕はただ、君の顔を見れば分かった。あれを見た人間の顔は、独特だから」
フリードリヒはカップに口をつけた。長い黒髪が顔にかかる。
「驚いてないね。ボクたちが見に行ったこと」
「ヨルクがいずれ誰かを連れて行くだろうとは思っていた。あの子は——あれを一人で抱えるには、まだ若すぎる」
「フリードリヒは——あれを作ったんでしょう」
直接的に言った。
フリードリヒの手が一瞬止まった。それから、ゆっくりとカップをテーブルに置いた。
「……基本設計は僕がやった」
「精霊を閉じ込める装置を?」
「違う。僕が設計したのは、精霊と共鳴する装置だった」
フリードリヒの声が、少しだけ熱を帯びた。
「精霊の力を一方的に取り込むのではなく、共鳴を通じて力を分けてもらう。精霊が自発的に提供するエネルギーだけを使う。それが僕の設計思想だった。——でも、軍はそれを改良した。改良と呼ぶのもおぞましいが」
「共鳴を、拘束に変えた」
「そうだ。精霊の意志を無視して、力を強制的に抽出する方式に変更された。僕は抗議した。何度も。——結果、研究室から外された」
フリードリヒは両手を膝の上で組んだ。震えている。寒さのせいではない。
「僕には止める力がなかった。政治力も、軍事力も。技術者としての発言力は、軍に利用される範囲でしか認められない。抗議は無視され、設計図は接収され、代わりの技術者が割り当てられた。——僕にできたのは、ここに引きこもって、自分の理想の装置を細々と作り続けることだけだ」
「それが、二階の研究室でやってること?」
「ああ。共鳴式の精霊動力機関。精霊を傷つけない、対等な関係に基づく装置。——でも、完成には程遠い。この街では精霊の力が薄すぎて、共鳴の実験すらまともにできない」
沈黙が落ちた。
ハーブティーが冷めていく。ランタンの光が揺れて、二人の影が壁で踊った。
アウリィは膝の上でカップを回しながら、考えていた。
考えていたのは、精霊のことではなかった。フリードリヒのことだった。
この人は七年間、この街にいる。自分の技術が精霊を苦しめるために使われていることを知りながら、止められないまま、それでも理想を捨てずに研究を続けている。七年間。
七年。
アウリィにとって、七年は瞬きのような時間だ。でもフリードリヒにとっては違う。人間の一生のうちの、かなりの割合を占める時間だ。その時間を、罪悪感と無力感を抱えたまま過ごしている。
「フリードリヒ」
「何だい」
「ボクに——何かできることはある?」
フリードリヒが目を見開いた。
「何かって——」
「精霊術が使えるんだ、ボク。この世界では力が弱くなってるけど、ゼロじゃない。もし共鳴の実験に精霊の力が必要なら——」
「待ってくれ」
フリードリヒが片手を上げた。
「君は旅人だろう。この街に長くいるわけではない。こんなことに巻き込まれる必要は——」
「巻き込まれてるんじゃないよ。ボクが自分で首を突っ込んでるの」
アウリィはカップをベッドの脇に置いて、フリードリヒの目をまっすぐに見た。
「さっき地下で、精霊の声が聞こえた。助けてって言ってた。それを聞いちゃったから、何もしないでは帰れないよ」
「でも——」
「ボクが何かをしたからって、この世界の全部が変わるとは思ってない。ボクがいなくなった後、また同じことが起きるかもしれない。でも——今、目の前で苦しんでいるものを放っておくのは、ボクの性分に合わないんだ」
フリードリヒはしばらく黙っていた。長い黒髪の向こうに隠れた表情は読み取れなかった。
やがて、フリードリヒは小さく息を吐いた。
「……君は、不思議な人だね」
「よく言われる」
「初めて会ったときから思っていた。この街に似合わない人だと。煤煙も、歯車も、戦争も——君には馴染まない。でも、だからこそ——」
フリードリヒは言葉を切った。何かを飲み込むように喉を動かしてから、続けた。
「——信じてみたくなる」
その言葉を聞いたとき、アウリィの胸の奥で、また何かが軋んだ。
信じてみたくなる。そう言ってくれる人がいる。それが嬉しくて、同時に怖い。
いつか去ることが決まっている自分を信じてもらうことの、残酷さ。
でも——。
「じゃあ、信じて。ボク、できることはちゃんとやるから」
笑った。いつもの笑顔で。天真爛漫に、屈託なく。
その笑顔の裏で、小さな棘が刺さっているのを感じながら。
---
フリードリヒが部屋を出た後、アウリィは日記帳を開いた。
今日の出来事を書く。地下水路のこと。閉じ込められた精霊のこと。エルゼの計画。フリードリヒの告白。ヨルクの質問。
ペンを動かしながら、ふと気づいた。
手が震えている。
疲労ではない。恐怖でもない。これは——怒りだ。
精霊を資源として扱い、消滅するまで搾り取る。代わりを確保する。まるで——。
『まるで薪を割るように、命を扱っている。ボクは怒っている。怒っていい。でも、怒りだけでは何も解決しない。考えろ。何ができるか考えろ』
ペンを止めた。インクが紙に滲んで、黒い染みが広がった。
日記帳をポーチに戻し、ランタンの光を落とした。
暗闇の中で、髪飾りに触れた。赤い彼岸花の花弁。指先に伝わる微かな温もり。
お母さんだったら、何て言うだろう。
顔も声も思い出せない人に、助言を求めるのは滑稽だ。でも——。
「……ボクにできることをする。それだけだよね」
答えは返ってこない。当たり前だ。
マントに身を包んで、目を閉じた。今夜は雨音が子守唄だ。灰色の、汚れた雨。精霊のいない雨。
でも、どこか遠くで——本当にかすかに——水の精霊が応えた気がした。
眠りに落ちる直前、最後に思ったのは——。
——あの精霊を助ける方法を、明日フリードリヒと考えよう。
旅人の作法を破ることへの後ろめたさと、それでも動かずにはいられない自分への呆れと、そしてほんの少しの——温かさ。
この街に来て、五日目の夜だった。




