2話「精霊を閉じ込める街」
グランツヴェルクに来て三日目の朝、アウリィは市場に出かけた。
ギーゼラに教えてもらった下層区の市場は、鋼鉄カモメ亭から鉄階段を二つ下りた先にある。高台の工場地帯と港湾地帯の中間に位置していて、日用品から食料品、工具から怪しげな薬品まで、ありとあらゆるものが狭い路地に押し込められるようにして並んでいた。
天幕の代わりに鉄板やトタンを張った屋台が通りの両側にひしめき合い、蒸気パイプの隙間から差し込むわずかな光と、あちこちに吊るされたランタンの火が、ごちゃごちゃした空間をぼんやりと照らしている。
「わあ——」
思わず足が止まった。屋台の一つに、見たこともない道具が山積みにされていた。小さな歯車を何十個も組み合わせた球体、握ると指の動きに合わせて変形する金属の塊、水を入れると自分で沸騰する小さなポット。どれもこれも、アウリィの知らない技術で作られたものだ。
「にいちゃん、買うのか冷やかしか?」
店主のしゃがれた声に我に返る。「にいちゃん」という呼ばれ方は新鮮だった。「お嬢ちゃん」よりはまだましだが。
「見てるだけ。——これ、何に使うの?」
自分で変形する金属の塊を指差した。
「整備用の万能工具だよ。握り方で形が変わるんだ。スパナにもペンチにもなる。蒸気技師の必需品だな」
「へえ! すごい! どういう仕組み?」
「知らねえよ。俺は売るだけだ」
それもそうか、とアウリィは笑った。次の屋台、その次の屋台と歩を進めながら、片っ端から眺めていく。食料品の屋台では缶詰が主流で、生鮮品は少ない。野菜も果物も、見慣れない形と色をしたものばかりだ。紫色のネギのようなもの、鉄のように硬い殻に包まれた木の実、瓶の中でぶくぶくと泡を立てている半透明の液体——これは食べ物なのだろうか。
「これ、飲み物?」
「発酵蒸気水だよ。整備士の間じゃ眠気覚ましに人気がある」
一瓶買ってみた。宝石での支払いは大きすぎるので、昨日ギーゼラに両替してもらったこの街の通貨——歯車を象った小さな銅貨を数枚出した。蓋を開けて一口飲むと、炭酸のような刺激と、甘いような苦いような不思議な味が口の中に広がった。
「んっ——変な味! でも嫌いじゃない!」
市場の奥へ進むにつれて、品揃えが変わってきた。日用品の屋台が減り、代わりに古物や中古部品の店が増えていく。壊れた歯車の山、錆びたパイプの束、用途不明の機械部品。そしてその中に——
アウリィの足がぴたりと止まった。
路地の行き止まりに近い場所に、他の屋台とは明らかに雰囲気の違う店があった。天幕は暗い紫色の布で、入口に鉄のビーズで作られた暖簾がかかっている。看板はなく、代わりに小さなガラス玉がいくつも糸で吊るされて、微かな光を放っていた。
そのガラス玉から、精霊の気配がした。
この街に来てから三日間、精霊の気配はずっと薄かった。空気の精霊も、水の精霊も、声が遠く、触れることが難しい。街全体を覆う煤煙と蒸気が、精霊たちの居場所を圧迫しているのだと思っていた。
でも、あのガラス玉は違う。微かだが確かに、精霊の気配を閉じ込めている。初日の夜、二階の廊下ですれ違った白衣の男が持っていた、あの青白い液体と同じ種類の気配。
暖簾を押し分けて中に入った。
薄暗い店内だった。棚がいくつも並び、その上にガラス瓶や金属の容器が所狭しと置かれている。瓶の中身は液体だったり粉末だったり、光る結晶だったりする。天井から吊るされたランタンの光が、瓶の中身を通して壁に不思議な模様を投げかけていた。
奥のカウンターに、人影があった。
小柄な老婆だった。深い皺の刻まれた顔に、灰色の髪を無造作にまとめている。背中が丸く曲がっていて、カウンターの上に身を乗り出すようにして、何かの液体を小さなスポイトで瓶に移していた。
「いらっしゃい」
顔を上げずに言った。声は枯れていたが、芯がある。
「こんにちは。ここは——何のお店?」
「見りゃ分かるだろう。精霊薬の店だよ」
精霊薬。その言葉に、心臓が跳ねた。
「精霊の薬があるの? この街に?」
老婆はようやく顔を上げた。アウリィの耳を見て、目を細めた。
「長耳族か。——なるほど、精霊の気配を辿ってきたね?」
「うん。外のガラス玉が光ってたから」
「あんたの目にはあれが光って見えるのかい。ほとんどの人間には、ただのガラス玉にしか見えないよ」
老婆はスポイトを置いて、カウンターの向こうから出てきた。アウリィよりもさらに小さい。百四十センチあるかどうかという身長だった。
「あたしはマルタ。この店をもう三十年やってる。——あんた、名前は?」
「アウリィ」
「アウリィ。いい名前だ。——で、何が欲しいんだい?」
「欲しいものっていうか、知りたいことがあって。この街で精霊の力を扱ってる人がいるんだなって、驚いて」
マルタは乾いた笑い声を上げた。
「扱ってる、なんて大層なもんじゃないよ。あたしがやってるのは、この街の空気や水に残ってるわずかな精霊の力を集めて、薬に練り込むことだ。火傷に効く軟膏とか、咳止めの飲み薬とか。まじないの延長みたいなもんさ」
「でも、ちゃんと精霊の力が入ってる。ボクには分かるよ」
「そりゃあ、長耳族だからね。あんたらは生まれつき精霊と繋がってるんだろう? この街の連中には分からない。効けばいい薬、効かなきゃインチキ。そういう扱いだ」
マルタは棚の瓶を一つ手に取って、アウリィの前に置いた。淡い緑色の液体が入っている。蓋を開けると、森の匂いがした。この煤だらけの街で嗅ぐ森の匂いは、不思議と懐かしかった。
「水の精霊の力が少しだけ入った、のどの薬。この街じゃ煤煙で喉をやられる人が多いからね、よく売れる」
アウリィはそっと瓶に指先で触れた。微かな振動。精霊が応えている——のだと思う。でもそれは本当にかすかなもので、この世界における精霊たちの存在がいかに希薄かを改めて思い知らされた。
「ねえ、マルタ。この街で精霊の力を使っている人は、マルタ以外にもいる?」
マルタの手が一瞬止まった。
老婆は瓶の蓋を閉めながら、少しだけ間を置いてから答えた。
「……いるかもしれないし、いないかもしれない。あたしが知ってる範囲じゃ、いない。——少なくとも、あたしのように堂々と店を出してる奴はね」
「堂々と、じゃない形で使ってる人がいるってこと?」
マルタはアウリィをじっと見た。灰色の目に、わずかな逡巡が見えた。
「あんた、この街に来てまだ日が浅いだろう。余計な首を突っ込まないほうがいい——とは思うんだが」
「うん?」
「長耳族で、精霊の気配を辿れるってんなら、遅かれ早かれ気づくだろうしね」
マルタはカウンターの裏に手を伸ばし、引き出しから一枚の紙を取り出した。そこに、炭でさっと何かを書く。地図のようだった。
「この街の地下に、古い水路がある。帝国が工業化を始める前の時代に使われてた下水道だ。今は廃棄されて、誰も入らないことになってるけど——最近、そこから妙な気配がするんだよ」
「妙な気配?」
「精霊のだよ。それも、あたしが集めてるようなわずかな残り滓じゃない。もっと濃い、もっと——歪んだ気配がね」
アウリィは地図を受け取った。線と印だけの簡素なもので、この世界の文字は相変わらず読めなかったが、位置関係は分かる。
「歪んだ、っていうのは?」
「精霊ってのはね、本来は自由なもんだ。あんたなら知ってるだろう。風は吹きたいように吹き、水は流れたいように流れる。精霊はその流れそのものだ。——でも、地下から感じる気配は、流れてない。止められてる。閉じ込められてるんだ」
閉じ込められた精霊。その言葉を聞いた瞬間、初日の夜に見た白衣の男の姿が脳裏をよぎった。木箱の中の青白い液体。管に封じられた光。
「……ありがとう、マルタ。参考になった」
「礼はいいよ。——ただ、一つだけ忠告しとく。この街には、精霊のことを良く思ってない連中が上のほうにいる。蒸気と歯車の力で世界を動かしてるって自負がある連中にとって、精霊ってのは旧時代の遺物であり、制御すべき自然の力に過ぎない。あんたが精霊術を使えるってことを、あんまり広めないほうがいい」
エルゼ少佐の質問を思い出した。精霊術は使えるか——あの質問の意味が、少しだけ見えてきた気がする。
「分かった。気をつけるよ」
店を出て、暖簾の鉄ビーズがしゃらしゃらと鳴る音を背中に聞きながら、市場を歩き戻った。
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鋼鉄カモメ亭に戻ると、食堂の隅のテーブルにヨルクが座っていた。
テーブルの上に小さな部品を並べて、細い工具で何かを組み立てている。指先の動きは正確で、迷いがない。年齢に似合わない手つきだった。
「ヨルク。今日は工房お休み?」
「半休だ。午後から夜勤がある」
向かいの椅子に座った。ヨルクは手を止めずに、ちらりとアウリィを見た。
「どこ行ってたんだ。市場か?」
「うん。面白いお店がたくさんあった。——あと、精霊薬っていうのを売ってるお店を見つけたよ」
「マルタばあさんの店か。知ってる。うちの工房の親方が、火傷の軟膏をときどき買ってる。よく効くらしいけど、軍の連中には嫌われてるな」
「嫌われてる?」
「精霊だの、まじないだの、旧時代の迷信は工業都市にふさわしくないってさ。でもマルタばあさんは気にしてないみたいだ。三十年もあの場所で店やってるんだから、度胸があるよ」
ヨルクの手元を覗き込んだ。小さな歯車と、金属の薄板と、極細のバネ。何を組み立てているのか見当がつかない。
「それ、何作ってるの?」
「時限起爆装置」
「えっ」
「嘘だよ。——計時機構だ。時計の心臓部分。こいつを正確に組めるようになったら一人前だって、親方が言ってた」
ヨルクの唇の端が、ほんの僅かに上がった。この少年が冗談を言うのを初めて聞いた気がして、アウリィは思わず笑った。
「びっくりしたあ」
「あんた、脅かすと面白い反応するな」
「もう。——ねえ、ヨルク。一つ聞いてもいい?」
「何だ」
「この街の地下に、古い水路があるって聞いたんだけど。知ってる?」
ヨルクの手が止まった。
工具を握ったまま、顔を上げない。でも、手が止まったことが答えだった。
「……誰に聞いた」
「マルタさん」
「あのばあさん、余計なことを——」ヨルクは小さく舌打ちした。「旅人に教えるようなことじゃねえ」
「どうして?」
「危ないからだよ。古い水路は崩落してるところが多いし、今は軍が一部を物資の搬送路に使ってる。見つかったら面倒なことになる」
「軍が使ってるの?」
ヨルクは答えなかった。工具を手に取り直して、作業を再開した。会話を打ち切るつもりなのだろう。
アウリィは追及しなかった。代わりに、テーブルに頬杖をついて、ヨルクの作業を眺めた。
小さな歯車がかちりと噛み合う音。バネの張力を調整する細かな指の動き。時計の心臓部分——時を刻む機構。ここでは時間を歯車で切り分けて、管理して、消費する。精霊術を使う世界では、時間はもっと曖昧なものだった。朝が来て、日が昇って、沈んで、夜になる。その繰り返しを、歯車ではなく自然の流れで感じ取る。
どちらが良いとか悪いとかではない。ただ、違う。
「……ヨルク」
「何だよ」
「ボクがこの街にいる間、街を案内してくれない?」
ヨルクが怪訝な顔で見上げた。
「案内って——金取るぞ」
「いいよ。お昼ごはんおごるのと、どっちがいい?」
「……飯」
即答だった。
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その日の午後、ヨルクは夜勤に行き、アウリィは一人で宿の部屋にいた。
日記帳を開いて、ここ数日の出来事を整理する。
マルタの店で聞いた話。地下水路の精霊の気配。ヨルクの微妙な反応。エルゼ少佐の質問。初日に見た白衣の男。
ペンを走らせながら、考えた。
精霊を閉じ込めている——という表現が引っかかる。精霊は本来、自然そのものの流れだ。閉じ込めるためには、それなりの技術と知識が必要になる。この蒸気と歯車の世界で、誰が、何のために、精霊を閉じ込めている?
好奇心が疼く。知りたい。見たい。触れたい。
——でも。
ペンが止まった。
この世界にいられる時間は限られている。深入りしすぎれば、情が移る。情が移れば、去るときに痛みが増す。痛みが増せば——。
何度、同じことを繰り返してきただろう。
どこかの世界で出会った誰かの笑顔を思い出そうとして、輪郭がぼやける。声が遠のく。名前が消える。でも、別れの瞬間の胸の痛みだけが、薄い傷跡のように残っている。何百、何千の傷跡が重なり合って、もう一つ一つを区別することもできない。
「……考えすぎだな」
頭を振って、立ち上がった。
トランクを開けて、着替えを探す。——のつもりが、手に触れたのは硬い革表紙の本だった。引っ張り出してみると、古い図鑑のようなものだった。植物図鑑。どこの世界で手に入れたものか分からないが、精緻な植物の挿絵が描かれている。ぱらぱらとめくると、ある頁で指が止まった。
赤い花の絵。六枚の花弁が反り返るように咲く、細い茎の花。
彼岸花——ではない。似ているけれど違う。この図鑑が描かれた世界の、別の花だ。でも形が似ていたから、つい手が止まってしまった。
髪飾りに触れた。指先に、花弁の繊細な造形が伝わる。
「……お母さん」
声に出してみても、応えるものは何もない。顔は思い出せない。声も、匂いも。ただ、自分がかつて「お母さん」と呼んだ誰かがいて、この髪飾りをくれたのだという事実だけが、記憶の一番古い層に沈んでいる。
何万年も前のことだ。それが正確に何万年なのかも、もう分からない。
図鑑をトランクに戻して、蓋を閉めた。
窓の外から、汽笛が鳴った。短く三回。何かの合図だろうか。続いて、遠くからがらがらという音——蒸甲蟲の足音。また兵器が移動している。
窓を開けて身を乗り出した。今度は少しだけ角度が良くて、通りの先を覗くことができた。大通りを四体の蒸甲蟲が一列で歩いていく。その後ろに、幌をかけた大型の蒸気車が何台も続いている。兵員輸送車だろうか。
戦線が近づいている——エルゼの言葉が蘇る。
アウリィはしばらく窓辺に立って、通過していく車列を見つめていた。兵士たちの顔は距離があって見えない。でも、車列が通り過ぎた後の通りには、それを見送る市民たちが何人か立っていた。手を振る者はいなかった。ただ黙って見ていて、車列が見えなくなると、何事もなかったように歩き出す。
日常の中に戦争がある。戦争の中に日常がある。その境界が溶けてしまっている街。
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夕暮れ時、食堂に下りると、思いがけない人物がいた。
白衣の男だった。初日の夜に二階の廊下ですれ違った、あの痩せた男。今日もあの白衣と革のエプロンを着て、カウンターの端に座っている。目の前にはエールのジョッキがあったが、ほとんど手をつけていない。
アウリィは少し離れた席に座って、温かいスープを注文した。それとなく男のほうを観察する。
目の下の隈は初日よりも深くなっている気がした。指先の震えも同じだ。白衣の袖口が少しまくれていて、腕に火傷の跡が見えた。古いものと新しいものが混在している。
男がふと顔を上げて、アウリィと目が合った。
一瞬の沈黙。男が先に視線を逸らすかと思ったが、逸らさなかった。逆に、少し身を乗り出して、アウリィの耳を見た。
「……長耳族だね」
「うん」
「この前、廊下で会ったかな。二階の」
「あ、覚えてくれてたんだ。ボクはアウリィ。ここに泊まってるの」
「僕はフリードリヒ。ここの二階を借りて、研究室として使っている」
研究室。あの日、木箱を抱えていたのはそういうことか。
「何を研究してるの?」
フリードリヒは少し間を置いた。ジョッキの縁を指でなぞりながら、何を話して何を話すまいか、選んでいるようだった。
「……動力機関の改良を。蒸気機関の効率化に関する研究だよ」
嘘ではないのだろう。でも、全部でもない。アウリィにはそれが分かった。嘘の匂いを嗅ぎ分ける能力があるわけではない。ただ、数万年を生きていると、人が何かを隠しているときの微妙な間合いや視線の揺れに敏感になる。
追及はしない。まだ、その段階ではない。
「蒸気機関って、すごいよね。ボク、こういう技術は初めて見たから、毎日びっくりしてる」
「初めて? 長耳族の集落には蒸気機関がないのか」
「ボクが来たところにはなかったんだ。——フリードリヒは、ずっとこの街にいるの?」
「七年になる。帝都の技術院から派遣されて、この街の軍需工場で研究を続けている。——いや、続けていた、と言うべきかな」
「過去形?」
フリードリヒは苦笑した。初めて見る表情の変化だった。でもその笑みには、疲労がにじんでいた。
「少し前に、研究の方向性をめぐって上と意見が合わなくなってね。今は半ば自主研究のような形だ。この宿の二階を借りて、細々とやっている」
「ふうん。——何の方向性が合わなかったの?」
フリードリヒがまた間を置いた。今度は、言うか言うまいかではなく、どう説明したものか考えているようだった。
「……蒸気機関の動力源について、だよ」
「動力源?」
「蒸気機関は石炭を燃やして水を沸騰させ、その蒸気の圧力で機械を動かす。これが基本だ。でも、石炭には限りがある。このまま戦争が続けば、燃料の枯渇は避けられない。だから、代替の動力源を研究する必要があった」
「それで?」
「僕は——ある種のエネルギーに着目した。自然界に存在する、もっと根源的な力を動力として利用できないかと」
自然界に存在する、根源的な力。
精霊だ。
アウリィは確信した。あの日、木箱の中にあった青白い液体。精霊の力を封じた管。フリードリヒが研究していたのは、精霊の力を蒸気機関の動力源にすることだ。
でも、ここで早まってはいけない。口に出してしまえば、フリードリヒは警戒するかもしれない。
「面白いね。その研究、うまくいきそう?」
「理論上は可能だ。でも——」フリードリヒはジョッキのエールをようやく一口飲んだ。「技術的な壁がいくつもある。それに、政治的な問題も。帝国は蒸気機関の優位性を国の根幹に据えている。それ以外の動力源を認めることは、帝国の存在意義を揺るがしかねない——と、上の連中は考えるんだ」
「政治的な問題かあ。難しいね」
「難しいよ。——でも、僕は必要な研究だと思っている。このままでは、この街も、この国も、いずれ立ち行かなくなる」
フリードリヒの目に、一瞬だけ熱が宿った。隈だらけの顔、震える指先、擦り切れた白衣。それでもまだ研究を続けている男の目は、何かを信じている目だった。
不思議な気持ちになった。この世界にいる時間は短い。深入りはしない。情は移さない。——そう決めているのに、こういう目を見ると、胸の奥で何かが動く。
「フリードリヒの研究、成功するといいね」
素直にそう言った。思ったことをそのまま。
フリードリヒは少し驚いたような顔をして、それからまた苦笑した。今度の笑みは、さっきよりも少しだけ柔らかかった。
「ありがとう。——そう言ってくれる人は、この街では珍しいよ」
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その夜、部屋に戻ってからも、しばらく眠れなかった。
ベッドに仰向けになって、天井のパイプの振動を感じながら、考えていた。
フリードリヒの研究。地下水路の精霊の気配。マルタの警告。エルゼの質問。戦争。
点と点が、まだ線になっていない。でも、何となく輪郭が見え始めている。
この街では——いや、この世界では、精霊の力が意図的に抑圧されている。蒸気と歯車の技術が支配的になった結果、精霊たちの居場所が失われた。それは自然な推移なのか、意図的な排除なのか。
そして、フリードリヒのような研究者が、精霊の力を新しい形で利用しようとしている。軍はそれを知っているのか。知っていて、何をしようとしているのか。
——ボクには関係のないことだ。
頭の中で、いつもの声が囁く。旅人は通りすがるだけだ。この世界の問題は、この世界の人間が解決する。アウリィにできるのは、見ることと、記録することだけだ。
でも。
「……見ちゃったからなあ」
知ってしまったことを知らなかったことにはできない。見てしまったものを見なかったことにはできない。それは、数万年を生きても変わらない自分の性質だった。
——何かの世界で、同じようなことを言った記憶がある。同じように、見てしまったからと言って、首を突っ込んで、巻き込まれて——。
その先を思い出そうとしたが、記憶がぼやけた。いつもの摩耗だ。大切だったはずの記憶が、砂のように指の隙間からこぼれていく。
日記帳を取り出して、枕元のランタンの光で書いた。
『四日目の夜。フリードリヒという研究者と話した。精霊の力を動力源にする研究をしている(たぶん)。彼の目は本物だった。信じているものがある人の目。この街の精霊たちが閉じ込められているなら、誰がやっているのか知りたい。知りたいけど、深入りしすぎないようにしないと。——でも、ボクはたぶん、深入りする。いつもそうだから』
最後の一文を書いてから、自分で自分に苦笑した。自覚があるなら止められるはずだ。でも止めない。止められない。
それが弱さなのか、それとも——。
昨夜も同じことを考えた気がする。答えは出ていない。
日記帳を閉じて、ランタンの光を落とした。
暗闇の中で、壁の向こうからかすかな音が聞こえた。二階の研究室。フリードリヒがまだ作業をしているのだろう。金属がこすれ合う音。液体がごぼごぼと流れる音。そして——。
耳を澄ませた。
精霊の声。
ごくごく微かに、壁越しに、何かが泣いているような——。
「——っ」
身体を起こした。
泣いている。精霊が泣いている。閉じ込められて、圧縮されて、本来の流れを止められた精霊の、苦しみの声。
マルタが言っていた。歪んだ気配。止められている。閉じ込められている。
フリードリヒがやっているのか。彼の研究が、精霊を閉じ込めることで成り立っているのか。
胸の奥で、何かが痛んだ。
精霊術を使うとき、アウリィは精霊に語りかける。お願いをする。力を貸してほしいと。精霊は気まぐれで、応えてくれるときもあれば、知らん顔をするときもある。でもそれは対等な関係であって、決して支配ではない。
閉じ込めるのは、違う。
暗闇の中で膝を抱えた。マントを引っ張り出して肩にかける。真紅の布の加護が、ほんの少しだけ気持ちを落ち着かせてくれた。
——まだ分からない。聞いた気がしただけかもしれない。この世界では精霊の気配が薄いから、勘違いの可能性もある。明日、もう少し確かめてから判断しよう。
自分に言い聞かせて、もう一度横になった。
目を閉じると、闇の奥に黄色い光の粒が見えた。自分の意識の深いところにある、精霊たちとの繋がりの残照。どの世界でも、どんなに気配が薄くても、完全に消えたことはない。
それがアウリィの拠り所だった。数万年の旅の中で、変わらずにあり続けた数少ないもの。
——明日。明日になったら動こう。
そう決めて、ようやく意識が沈んでいった。
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翌朝、目覚めたのはまた窓ガラスを叩く音だった。
今度は伝書機鳥ではなく、ヨルクだった。窓の外の非常階段に立って、ガラスをこんこんと叩いている。
「ヨルク? なんで窓から——」
「玄関からだと、ギーゼラのおばさんに捕まって朝飯食わされる。腹は減ってねえ」
「それ、食べたほうがいいと思うけど……」
窓を開けて中に入れると、ヨルクは部屋の中をぐるりと見回した。トランクのそばに散らばった小物——昨夜、図鑑を探したときに出しっぱなしにしていた——を見て、眉をひそめた。
「汚ねえな」
「あはは……片付けが苦手で」
「あんたの鞄、見た目より物が入ってるだろ。中どうなってんだ」
「聞かないほうがいいよ」
ヨルクは肩をすくめて、ベッドの端に座った。
「で、今日はどこに行きたいんだ。案内するって約束だろ」
アウリィは少し考えた。
地下水路のことを聞きたかった。でも、昨日の反応を見る限り、ヨルクにとってその話題は触れたくないものらしい。無理に聞き出すのは良くない。
「うーん——この街の高いところに行ってみたい。空が見たいの」
「空?」ヨルクが怪訝な顔をした。「パイプの上ってことか?」
「この街って、パイプの上に出れば空が見えるの?」
「場所によるな。北区の給水塔なら、パイプラインの上に出られる。天気がよけりゃ、空も見える。——ただ、許可なく登ると罰金だぞ」
「許可なく登ろう」
「……あんた、見た目に似合わず無茶するタイプだな」
「ボクに見た目の話はしないで」
ヨルクの口角がまた僅かに上がった。
二人で宿を出た。朝のグランツヴェルクは、工場の始業を告げる汽笛が鳴り響いて、煤煙の濃度が一段上がる。労働者の列が坂を上っていくのを縫うようにして、逆方向に歩いた。
「ヨルク、昨日の夜勤はどうだった?」
「いつもどおりだよ。部品を作って、検品して、箱に詰める。それだけだ」
「何の部品?」
「蒸甲蟲の関節用ベアリング。精密部品だから、大人の太い指じゃうまく組めないんだ」
また、さらりと言った。子どもの手が必要とされる仕事。ヨルクがそれをどう感じているのか、表情からは読み取れなかった。
「ヨルク——」
「余計なこと聞くなよ」
見透かされた。アウリィは口をつぐんだ。
北区に向かう途中で、広い通りに出た。ここは工場地帯の入口にあたるらしく、大きな門と番所がある。門の上に帝国の紋章——歯車と鉄槌を組み合わせた意匠——が掲げられていた。
ヨルクは門を避けて脇道に入り、建物の隙間を縫っていく。番所の兵士に見つからないルートを熟知しているようだった。
「よくこういうことするの?」
「するわけねえだろ。——今日が特別だ」
脇道を抜けると、大きな円筒形の建造物が見えた。給水塔。煉瓦と鉄骨で組まれた、高さ二十メートルほどの塔。外壁に鉄製のはしごが取り付けられている。
「あれを登るんだ。——高いところ、平気か?」
「うん」
はしごに手をかけた。鉄は冷たく、ところどころ錆びていた。一段一段、慎重に登る。ヨルクが先に行き、アウリィが続いた。マントの裾がはしごに引っかかりそうになったので、腰のあたりで結んだ。
登るにつれて、視界が変わっていった。
パイプラインが目線の高さになり、やがて足元に沈んでいく。建物の屋根が見え始める。煙突の先端、歯車の回転する機構の上部、蒸気を噴き出すバルブの頂点。グランツヴェルクという街が、歯車と管の塊であることが一望できた。
そして——。
給水塔の頂上に立ったとき、アウリィは息を呑んだ。
空が見えた。
パイプラインの上、煙突の煙の向こうに、空があった。灰色ではなかった。薄い青だった。雲が幾筋も流れていて、朝の光が斜めに差し込んで、煤煙の層を金色に染めている。
「——きれい」
風が吹いた。下界の蒸気と煤煙の匂いを吹き飛ばして、冷たくて澄んだ空気が頬を撫でる。マントがばさりとはためいて、真紅と黄色の裏地が翻った。
「わあ——!」
両手を広げて、風を受けた。目を閉じると、精霊の気配が——地上よりも遥かにはっきりと——感じられた。風の精霊だ。パイプラインの下には届かない精霊たちが、ここにはいる。
「聞こえる——ここなら聞こえるよ」
「何が?」
ヨルクが怪訝な顔で振り返った。
「風の声」
「……あんた、やっぱ変な奴だな」
でもヨルクは、アウリィが目を閉じて風を受けている姿をしばらく黙って見ていた。何か言いたそうな顔をして、でも言わないで、自分も空を見上げた。
「なあ、アウリィ」
「うん?」
「あんた、本当にいろんな世界を旅してるのか」
「うん」
「じゃあ——空がきれいな世界もあったのか。こんな煤で汚れてない、ちゃんとした空の世界」
「あったよ。たくさん」
ヨルクは何も言わなかった。ただ空を見上げていた。その横顔は、十歳の子どものものだった。鋭い目つきも、値踏みするような態度も消えて、ただ純粋に、知らないものに手を伸ばしたがっている子どもの顔。
アウリィはそれを見て、胸が少し痛んだ。
——情を移すな。
自分に言い聞かせる。でも、もう遅い気がした。
しばらくの間、二人で給水塔の上にいた。風が吹くたびに精霊の気配を感じて、アウリィは小さく微笑んだ。この世界でも、精霊は死に絶えたわけではない。ただ、人間たちの作った煤煙と蒸気の壁の下に、閉じ出されているだけだ。
降りるとき、ヨルクが言った。
「今度——地下水路の場所、教えてやるよ」
「え?」
「あんたが行きたがってるのは分かってる。——一人で行って迷子になられたら寝覚めが悪いからな」
「ヨルク——」
「礼は飯でいい」
先にはしごを下り始めたヨルクの背中を見ながら、アウリィはまた胸が痛むのを感じていた。
情を移すな。
長居をするな。
——分かってる。分かってるけど。
給水塔の上に、風が吹いた。空はまだ青かった。




