1話「煤煙の空の下で」
目を開けると、空が錆びていた。
いや、違う。あれは空ではなく、空を覆い隠す無数のパイプラインだった。太いもの、細いもの、蛇のように絡み合いながら建物の隙間を縫って伸びていく金属の管。その継ぎ目から白い蒸気が噴き出して、視界をぼんやりと曇らせている。
「——んぅ」
アウレーリエ・リュコーリアスは、冷たい石畳の上で身じろぎした。
背中が痛い。腰も痛い。右の肩甲骨あたりに何か硬いものが当たっている。手探りで確かめると、ボルトの頭だった。石畳に打ち込まれた、親指の爪ほどもある六角ボルト。
「いたた……」
上体を起こす。真紅のマントが身体に巻きついて、繭のようになっていた。丁寧にほどきながら、周囲を見回す。
路地裏だった。両側を煉瓦造りの壁に挟まれた、大人が二人並べば窮屈になるほどの細い通路。壁面にはびっしりとリベットが打たれた鉄板が貼られ、そこからも細いパイプが何本も飛び出している。足元には油と水が混ざった黒い液体が薄く溜まっていて、ブーツの底がぬるりと滑った。
空気が重たい。鼻の奥を刺す、金属と石炭を混ぜたような匂い。吸い込むと喉がいがらっぽくなる。
「げほっ——ずいぶん、濃いなぁ」
マントの裾で口元を覆いながら立ち上がる。身体のあちこちが軋むのは、転移直後のいつものことだ。世界と世界の狭間を渡るとき、身体が一度ばらばらに解けて、もう一度組み上げられるような感覚がある。もう何度経験したか分からないけれど、慣れるものではない。
足元を確認する。トランクは——あった。すぐ傍に横倒しになっている。革張りの外装に新しい擦り傷がついていたけれど、留め金は無事だ。ベルトポーチも二つとも腰にある。指先で軽く叩いて中身を確かめた。日記帳の角張った感触、小さな革袋の中でかちかちと触れ合う宝石の硬さ。うん、大丈夫。
髪を手櫛で整える。三つ編みのおさげがほどけかかっていたので、結び直した。頭に手をやると、髪飾りの花弁の形が指に触れた。赤い彼岸花。これも無事。
「よし」
小さく息を吐いて、路地の出口に向かって歩き出す。石畳は不揃いで、油混じりの水たまりがそこかしこにあった。壁の隙間から覗く歯車が、かちかちと小さな音を立てて回っている。
路地を抜けた瞬間、音が変わった。
一気に押し寄せてくる喧騒。人の声、金属の軋み、蒸気の噴出音、どこかで鳴る汽笛。目の前に広がったのは、煤けた煉瓦と鉄骨で構成された街並みだった。
建物は三階建て、四階建て、中には無理やり積み上げたように歪んだ五階建てもある。どの建物にも外壁にパイプが這い、歯車が回り、煙突から黒い煙を吐き出していた。通りを行き交う人々は厚手の外套やゴーグル付きの帽子を身に着け、足早に歩いている。馬車の代わりだろうか、蒸気を噴きながら走る三輪の車両が通りの真ん中を行く。
「わあ」
思わず声が漏れた。
知らない世界の、知らない街。知らない技術で動く、知らない機械たち。胸の奥がじわりと熱くなる。この瞬間がいつだって好きだ。目に映るもの全てが新しくて、手を伸ばせば触れられる距離にある未知。
ポーチから日記帳を取り出して、すぐにペンを走らせる。
『新しい世界。空がパイプで覆われている。空気は煤っぽくて重い。蒸気と歯車の文明。機械技術が発達している? 魔法の気配は薄い。精霊は——要確認。とにかく、すごい』
最後の二文字を書いたところで、ペン先がかすれた。インクが切れかかっている。また補充しないと。日記帳をポーチに戻しながら、通りへ踏み出した。
人の流れに入る。身長が百四十七センチしかないので、周囲の大人たちの肩や肘がやたらと近い。視界の大半が他人の背中と外套の裾で塞がれる。つま先立ちになっても、通りの先がよく見えない。
——まあ、いつものことだけど。
人波を縫うように歩きながら、観察を続けた。
通りに面した店は、金物屋、歯車屋、工具屋が目立つ。ショーウィンドウの中に真鍮のパーツが整然と並んでいたり、店先に巨大なスパナが立てかけてあったりする。食料品店もあった。ガラス瓶に入った干し肉や、缶詰が山積みにされている。値札が貼られているけれど、文字が読めなかった。
文字が読めない。これは少し不便だ。
言葉のほうは問題ない。これは転移のたびに不思議と解決される。現地の言葉が分かるし、話せるし、聞き取れる。でも文字は別だ。文字は自分で学ぶしかない。
「ねえ」
後ろから声がして、振り返った。
十歳くらいの少年が立っていた。短く刈り込んだ茶色の髪、煤で汚れた頬、大きすぎる作業着の袖をまくっている。手には油で黒ずんだ布切れを握っていた。
「あんた、迷子?」
少年はまっすぐにこちらを見ていた。目が鋭い。子どもの目というよりは、物事を値踏みする商人のような目つきだった。
「迷子じゃないよ」
アウリィは笑って答えた。
「迷子じゃないなら、なんでさっきからきょろきょろしてんだ。この辺は観光するような場所じゃねえぞ」
「観光っていうか——うん、まあ、来たばかりなんだ、この街に」
「旅人か」少年は目を細めた。「どこから来たんだ? ルスティカか? それとも北の——」
「もっとずっと遠くからだよ」
少年は怪訝な顔をした。アウリィの格好を上から下まで眺める。赤褐色のベスト、生成り色のワンピース、真紅のマント。この街の人間が着ているものとは明らかに違う。
「変わった服だな」
「そう?」
「見たことない素材だ。——あと、その耳」
少年の目が、アウリィの耳の先端に止まった。セミロングの髪から僅かに覗く、人間よりもずっと長く尖った耳。
「長耳族か? この街じゃ珍しいな。ほとんど見ねえ」
長耳族。この世界でのエルフの呼び名だろうか。存在は認知されているらしい。それは少し安心する。全く知られていないと、面倒なことになりやすい。
「珍しいんだ?」
「ああ。長耳族はだいたい東の森林地帯に住んでて、こんな煤だらけの工業都市にはまず来ない。空気が合わないとか言ってな」
「たしかに、ちょっと喉がいがいがする」
「だろ。——で、あんた、宿は?」
「まだ決めてないんだ。おすすめある?」
少年はしばらくアウリィを見つめてから、小さく舌打ちした。苛立ちというよりは、呆れに近い音だった。
「ついて来な。この辺でぼうっとしてると、スリに身ぐるみ剥がされるぞ」
「あはは、大丈夫だよ、ボクそんなにぼんやりしてないし」
「してるだろ。さっきからずっと空ばっか見上げてた」
否定できなかったので、おとなしく少年の後について歩いた。
少年は慣れた足取りで路地を抜け、階段を下り、また別の通りに出た。この街は高低差が激しい。斜面に張り付くように建物が建てられていて、通りと通りの間を鉄の階段や渡り廊下が繋いでいる。足元では排水溝を黒っぽい水が流れていた。
「この街はグランツヴェルクっていうんだ」少年は前を向いたまま言った。「帝国北部の工業都市。蒸気機関の部品や兵器の製造が主な産業で、人口は——まあ多い。正確な数は誰も知らねえけど」
「兵器?」
「戦争してんだよ。南部の共和連合とな。もう十何年になるか」
少年の声に、特別な感情は乗っていなかった。天気の話でもするような、淡々とした口調。それが逆に、この街にとって戦争がどれほど日常に溶け込んでいるかを物語っていた。
「きみ、名前は?」
「ヨルク」
「ヨルク。ボクはアウリィ。よろしくね」
ヨルクは振り返りもせず、「ああ」とだけ言った。
二つ目の鉄階段を上りきったところで、ヨルクが足を止めた。
「ここだ」
目の前にあったのは、三階建ての煉瓦の建物だった。壁は煤で黒ずみ、窓枠の鉄は錆びている。入口の上に、丸い歯車の形をした看板が掛かっていた。何か文字が書いてあるが、読めない。
「なんて書いてあるの?」
「『鋼鉄カモメ亭』。安宿だけど、飯はまともだし、女将さんもまあ悪い奴じゃねえ。旅人もよく泊まる」
「カモメ? この街に海はあるの?」
「ねえよ。女将の趣味だ」
扉を押して中に入ると、蒸気と油の匂いに混じって、煮込み料理の匂いがした。腹の底がきゅうと鳴った。そういえば、最後に食べたのはいつだったか。前の世界の最後の食事——何を食べたっけ。思い出せない。前の世界のことがもう薄くなりかかっている。
一階は食堂兼酒場になっていた。昼時を少し過ぎた時間帯で、客はまばらだ。奥のカウンターの向こうに、大柄な女が立っていた。腕が太い。鍛冶屋かと思うほどの腕だった。
「ヨルク。また来たのかい」
「客連れてきた。宿泊希望だってよ」
女——女将がカウンターから身を乗り出して、アウリィを見下ろした。見下ろした、という表現が正確だ。女将の身長はアウリィの頭二つ分は上にある。
「あら、ちっちゃい子だね。一人旅かい?」
「子どもじゃないよ」
アウリィの声が、ほんの少しだけ低くなった。ほんの少しだけ。
「おっと、失礼。長耳族だね? うちは種族で差別はしないから安心しな。一泊いくらかは——」
「先に聞きたいんだけど」アウリィはベルトポーチに手を入れた。「この街の通貨、ボク持ってないんだ。宝石での支払いか、物々交換はできる?」
女将は目を丸くした。それから豪快に笑った。
「宝石ときたか! 見せてごらんよ」
ポーチから小さな革袋を取り出し、中身を一つだけ掌に転がした。爪の先ほどの青い石。サファイアに似ているが、よく見ると内部に淡い光の筋が走っている。
女将が目を見開いた。
「こいつは——星蒼石じゃないか。本物かい?」
「たぶん。前に……どこかの世界で手に入れたんだけど、正直どこだったか覚えてなくて」
口が滑った。「どこかの世界」と言ってしまった。女将は特に気に留めなかったようだが、ヨルクの目が一瞬だけ光った気がした。
「こんなもん一粒あれば、ひと月は泊まれるよ。飯付きでね」
「ひと月も泊まらないと思うけど……じゃあ、お願いします」
星蒼石を女将に渡すと、代わりに真鍮の鍵を受け取った。三〇二号室。三階の角部屋だという。
ヨルクが踵を返しかけたので、慌てて声をかけた。
「ヨルク、ありがとう。助かったよ」
「別に。たまたまだ」
「お礼がしたいんだけど、何かほしいものある?」
ヨルクは立ち止まった。振り返って、少しだけ考えるような顔をした。
「——じゃあ、飯おごれ。ここの煮込み、うまいから」
「うん!」
二人でカウンター近くのテーブルについた。女将が運んできたのは、大きな皿に盛られた芋と肉の煮込みと、黒っぽいパンだった。パンは硬かったが、煮込みの汁に浸すとちょうどよくなる。肉は羊に似た味がした。
アウリィは目を輝かせて食べた。
「おいしい! この肉、何?」
「鉄羊だ。機械仕掛けの牧場で育てた羊。普通の羊より硬いけど、煮込めばうまい」
「鉄羊! 機械の牧場! すごいなあ、この世界」
ヨルクがスプーンを止めた。
「『この世界』?」
しまった。二度目だ。アウリィはスプーンを咥えたまま、一瞬だけ逡巡した。
誤魔化すこともできる。旅人の比喩表現だと言えばいい。でも、ヨルクの目がまっすぐにこちらを見ていた。値踏みするような目ではなく、純粋に何かを確かめようとする目。
「ボクね、いろんな世界を旅してるんだ」
言ってしまった。
ヨルクの眉が僅かに動いた。
「いろんな世界」
「うん。この世界に来る前は、別の世界にいた。その前も、その前も。ずっとそうやって旅してる」
沈黙。ヨルクが煮込みの皿に目を落とし、スプーンでゆっくりと芋をつついた。
「頭おかしいのか?」
「あはは、そう思うよね」
「笑うなよ。——本気で言ってんのか?」
「本気だよ。信じなくてもいいけど」
ヨルクはしばらく黙っていた。それから、何かを飲み込むように一度だけ喉を動かした。
「……この街にゃ、変な奴はいくらでもいる。蒸気の吸いすぎで頭がやられた技師とか、機械に魂が宿るとか言い出す整備士とか。あんたもそのクチかもしれねえけど、まあ、害がなけりゃ別にいい」
「ありがとう。寛容だね、ヨルクは」
「寛容じゃねえよ。どうでもいいだけだ」
そう言いながらも、ヨルクの表情はどこか柔らかくなっていた。少なくとも、最初に声をかけてきたときの鋭さは薄れている。
食事を終えて、ヨルクは席を立った。
「じゃあな。俺は工房に戻る」
「工房? ヨルクは何を作ってるの?」
「部品だよ。蒸気機関の細かいパーツ。子どもの手は小さいから、精密部品の組み立てに向いてんだ」
さらりと言った。その言葉の裏に何があるのか、アウリィには分かった。分かったけれど、踏み込まなかった。出会って数時間の相手に踏み込むべきではないことくらい、数万年を生きていれば嫌でも覚える。
「またね、ヨルク」
「——ああ」
ヨルクは外套のポケットに手を突っ込んで、出て行った。扉が閉まると、蒸気の匂いが一瞬だけ強くなって、またすぐに煮込みの匂いに戻った。
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三〇二号室は狭かった。
ベッドと小さな机と椅子。窓の外には向かいの建物の壁が見えるだけで、空は相変わらずパイプに覆われている。ただ、シーツは清潔だったし、枕もそれなりに柔らかかった。
トランクをベッドの脇に置いて、留め金を外す。蓋を開けた瞬間、中からぽろりと何かが転がり出た。小さな木彫りの鳥。どこの世界で手に入れたものだったか——思い出せない。手のひらに載せて、しばらく眺めた。丸っこくて、嘴が少しだけ上を向いている。可愛らしい造形だ。でも、これを誰にもらったのか、いつ手に入れたのか、何も思い出せない。
「……ごめんね。忘れちゃった」
木彫りの鳥をトランクに戻す。中は相変わらずの惨状だった。衣類、書物、瓶詰め、乾燥した植物の束、正体不明の金属片、小さな箱、布に包まれた何か。拡張された内部空間にぎゅうぎゅうに詰め込まれていて、何がどこにあるか自分でも把握しきれていない。
必要なものだけ取り出した。インクの瓶、替えのペン先、それから小さな手鏡。
手鏡に映った自分の顔を確認する。金色の髪は多少乱れているが、大きな問題はない。黄色い瞳が蒸気の湿気で少し潤んでいた。頬に煤がついていたので、指で拭った。
赤い彼岸花の髪飾りに触れる。花弁の一枚一枚が精巧に作られていて、触れると僅かに温かい。母がくれたもの。——母の顔は、もう思い出せない。声も、名前も。ただ、この髪飾りを渡してくれたときの手の温もりだけが、かすかに残っている。それすらも、記憶なのか、記憶の残り香に自分が形を与えたものなのか、分からなくなっている。
日記帳を開いた。新しいページに、今日の分を書く。
『グランツヴェルク。帝国北部の工業都市。蒸気機関の文明。戦争中。南部の共和連合との戦い、十数年続いている。宿は「鋼鉄カモメ亭」、三〇二号室。女将は豪快な人。ヨルクという少年に案内してもらった。工房で部品を作っている。鉄羊の煮込みがおいしかった』
ペンを止めて、少し考えてから書き足した。
『精霊の気配がとても薄い。この世界は機械と蒸気の力で動いている。精霊術は使いにくいかもしれない。要注意』
日記帳を閉じて、ベッドに仰向けになった。天井は低く、木の梁がむき出しになっている。梁に沿って細いパイプが一本通っていて、ときどきかすかに振動している。
精霊のことが気になった。
目を閉じて、意識を広げる。索敵のときに使う感覚の拡張——精霊術の基本。空気の中に、水の中に、土の中に、火の中に溶け込んでいる精霊たちの気配を探る。
……遠い。
いる、ことはいる。完全に不在ではない。でも、声が遠い。分厚い壁越しに囁きを聞くような感覚。この街の煤煙と蒸気が、精霊たちの居場所を押しのけているのかもしれない。あるいは、この世界そのものが、精霊との繋がりが希薄なのか。
どちらにしても、高度な精霊術は難しそうだ。基本的な索敵くらいならなんとかなるかもしれないが、支援術や攻撃術は期待しないほうがいい。
「まあ、なんとかなるか」
独り言を天井に向かって呟く。なんとかならなかったことも過去にはあったけれど、それでも今こうして生きている。数万年の蓄積は、一つや二つの不便では揺るがない。
ベッドの上で寝返りを打つと、窓の外から汽笛の音が聞こえた。長く、低い音。どこかの工場の終業を告げる汽笛だろうか。それとも——
もう一度、汽笛。今度は短く、二回。
その音に重なるようにして、遠くからがらがらという金属的な音が響いてきた。何か大きなものが通りを移動しているような音。窓に近づいて外を見たが、向かいの壁しか見えない。
部屋を出て、廊下の突き当たりにある小窓から外を覗いた。
通りの向こう——少し離れた大通りを、巨大な鉄の塊が移動していた。六本の脚で地面を踏みしめながら歩く、蟲のような機械。背中に砲塔を載せ、全身の関節から蒸気を噴き出している。全長は十メートルを超えるだろうか。その後ろに、同じような機械がもう二体続いている。
兵器だ。ヨルクが言っていた戦争に使われるものだろう。
アウリィは窓枠に手をかけて、その光景を見つめた。胸の中に、複雑な何かが渦巻く。未知のものを目にした興奮と、戦争という現実の重さが、混ざり合って沈殿する。
——戦争をしている世界には何度か来たことがある。
いや、「何度か」ではない。もっと多い。もっとずっと多い。ただ、その一つ一つを明確に思い出すことができない。記憶が摩耗して、角が取れて、丸くなって、やがて他の記憶と溶け合ってしまう。悲しかったのか、怖かったのか、怒ったのか。そのときの自分が何を感じたのかさえ、曖昧になっている。
でも、身体は覚えている。戦場の近くにいるときの、皮膚の裏側がぴりぴりするような感覚。これは記憶ではなく、経験が刻んだ反射だ。
巨大な蟲型兵器が通りの向こうに消えていく。地響きのような足音が遠ざかり、やがて蒸気の噴出音だけが残った。
アウリィは窓から離れて、部屋に戻った。
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夕方になると、一階の食堂が賑わい始めた。
仕事を終えた労働者たちが、煤だらけの顔のまま席について、エールを注文する。女将——名前はギーゼラだと後で教えてもらった——が一人で切り盛りしているのだが、あの太い腕で皿を四枚同時に運び、ジョッキを片手で三つ持ち、酔っ払いの首根っこを掴んで外に放り出す。圧巻の仕事ぶりだった。
アウリィはカウンターの端に座って、エールの代わりに温かいお茶を頼んだ。薄い琥珀色の液体からは、ほのかに薬草のような香りがした。
「長耳族はあんまり酒を飲まないのかい?」ギーゼラが訊いた。
「ボクは飲むよ。でも今日はまだ頭がちょっとぼんやりしてるから、お茶にしておく」
「そうかい。まあ、この街の水は煮沸しないと飲めたもんじゃないから、お茶は正解だよ」
カウンターの向かい側の席で、二人の労働者が言い争いを始めた。声が大きくなる。
「——だから、東部戦線は持たねえって言ってんだ! クレーゼン要塞が落ちたら、次はこの街だぞ!」
「落ちるわけねえだろ。あそこには第七機甲師団がいるんだ。蒸甲蟲が二十体以上——」
「蒸甲蟲なんざ、共和連合の新型砲で紙みてえに抜かれてんだよ! 知らねえのか、先月の——」
ギーゼラが怒鳴った。
「戦争の話は外でやりな! うちは飯食う場所だ!」
二人は肩をすくめて黙った。しかし、彼らが口にした内容は、周囲の客たちの表情にも暗い影を落としていた。
アウリィはお茶を啜りながら、食堂の空気を感じ取っていた。
疲労。不安。諦め。それでも明日の仕事のために今日の飯を食い、酒を飲み、眠る。その繰り返しで命を繋いでいる人々。
——この世界は、ボクに何を見せてくれるんだろう。
世界がアウリィを受け入れている。その感覚はある。転移してきたとき、世界が自分を拒絶していない——むしろ、招いている——という微かな確信。でも、それがいつまで続くかは分からない。一週間かもしれない。一ヶ月かもしれない。ある朝目覚めたら、もう次の世界に移る時が来ていることもある。
だから、長居はしない。情を移しすぎない。見るべきものを見て、感じるべきものを感じて、記録して、去る。それが旅の作法だ。自分で決めた作法。
——本当にそうだったかな。
ふと、疑問が頭をよぎった。最初からそういう旅をしていただろうか。もっと昔、旅を始めた頃は——何のために旅を始めたんだったか。
「……思い出せないな」
「何か言ったかい?」ギーゼラが振り向いた。
「ううん。独り言」
お茶を飲み干して、カップを置いた。
食堂の喧騒の中で、ふと気づいたことがあった。客の中に、軍服を着た者が何人かいる。灰色の軍服に、歯車を象った徽章。彼らは他の客とは少し離れた場所に固まって座り、低い声で話し込んでいた。
その中の一人——三十代半ばくらいの女性士官が、こちらを見ていた。
目が合った。
女性士官は短い赤毛をきっちりと撫でつけ、軍帽を脇に置いていた。顔の左側に、こめかみから顎にかけて走る古い傷跡がある。その目は灰色で、冷たいというよりは、温度がないように見えた。
アウリィは微笑んでみた。相手はわずかに目を細めただけで、すぐに視線を戻した。
——気にされている。長耳族が珍しいから、というだけではない気がする。
考えすぎかもしれない。でも、精霊の気配を探るように研ぎ澄ませた感覚が、小さな警告を発していた。この街には、煤煙の匂い以外にも、何かが漂っている。
立ち上がって、階段に向かった。部屋に戻ろう。今日はもう十分だ。新しい世界に来た最初の日は、あまり動きすぎないほうがいい。身体も、心も、まだこの世界に馴染みきっていない。
階段を上がる途中で、足を止めた。
二階の廊下に、一人の男が立っていた。痩せた体格に、長い黒髪。白衣のようなものを羽織り、その上から革のエプロンをかけている。手には歯車やバネの入った木箱を抱えていた。
「——ああ、すまない。塞いでしまったかな」
男は穏やかな声で言って、身体を横にずらした。年齢はよく分からない。三十にも五十にも見える。目の下に深い隈があり、指先が細かく震えていた。
「いえ、大丈夫です」
すれ違いざま、木箱の中身がちらりと見えた。歯車の他に、見慣れない部品がいくつか入っている。半透明の管の中に、青白い液体が封じ込められたもの。それが、ほんの微かに——光っていた。
精霊の気配。
この街に来てから初めて感じた、はっきりとした精霊の気配が、あの青白い液体から漂っていた。
「あの——」
声をかけようとしたが、男はもう階段を下りていた。白衣の裾が角を曲がって消える。
「……何だったんだろう」
首を傾げながら、三階に上がった。三〇二号室の鍵を開けて中に入る。窓の外はもう暗くなっていた。パイプラインの隙間から覗く空が、深い紫色に沈んでいく。この世界にも夕焼けはあるのだろうか。パイプの向こうでは見えないけれど。
ベッドに座って、ブーツを脱いだ。ベストを脱いで、マントを椅子の背にかける。
トランクからランタンを取り出した。これは魔法の品で、小さな精霊の光を封じたものだ。この世界では光が弱いかもしれないと思ったが、ぽう、と温かい橙色の光が灯った。精霊の力がゼロではないことの証拠。
ランタンの光の中で、日記帳をもう一度開く。
今日の記録の下に、追記した。
『蒸甲蟲という歩行兵器を見た。六本脚、砲塔付き。大きくて、すごい迫力。でも、怖くもあった。戦況はあまりよくないらしい。街の人たちの顔に疲れが見える。——二階にいた男、白衣の技師? 木箱の中に精霊の気配を感じた。この世界にも精霊と関わる技術があるのかもしれない。気になる』
ペンを置いて、天井を見上げた。
新しい世界。新しい人。新しい匂いと音。
胸の奥に灯る、小さな炎のような好奇心。これがある限り、旅は続けられる。
——でも、いつかこの炎も消えるのだろうか。
考えないようにして、目を閉じた。ランタンの光が瞼を橙色に染める。遠くで汽笛が鳴っている。パイプの振動が壁越しに伝わってくる。この街は眠らないのかもしれない。蒸気を吐き続ける機械のように、止まることなく動き続ける街。
意識が沈んでいく。眠りに落ちる直前、ふと思った。
——ヨルク、明日も来るかな。
来てほしいような、来てほしくないような。仲良くなれば、去るときが辛くなる。辛くなることを知っているのに、それでも人と関わることをやめられない。やめたくない。
それは弱さだろうか。
それとも——。
思考が途切れて、眠りが訪れた。
硝煙と蒸気の街の、最初の夜が更けていく。
---
翌朝、目を覚ましたのは、窓ガラスを叩く音のせいだった。
跳ね起きて窓を開けると、小さな金属の鳥がそこにいた。手のひらに乗るサイズの、真鍮製の機械仕掛けの鳥。翼の代わりに小さな歯車が並び、胸の部分にレンズのような目がはめ込まれている。
機械の鳥は窓枠に止まると、胸のレンズがかちりと回り、くちばしを開いた。
中から、紙片がするりと出てきた。
アウリィは紙片を受け取った。文字が書いてある。——読めない。この世界の文字はまだ学んでいない。
「うーん……」
機械の鳥を見つめる。鳥は用を済ませたとでも言うように、翼の歯車をかちかちと回して、窓の外に飛び去っていった。
誰からのメッセージだろう。読めないものを受け取っても仕方がない。ギーゼラに読んでもらおうと思い、紙片を持って一階に下りた。
食堂にはまだ客が少なく、ギーゼラが一人でカウンターを拭いていた。
「おはよう。早起きだね」
「おはよう、ギーゼラさん。あの、これ、読んでもらえる? 窓に機械の鳥が来て——」
ギーゼラが紙片を受け取り、目を通した。太い眉が、ぴくりと動いた。
「……こいつは、軍の伝書機鳥だね」
「軍の?」
「ああ。この街の長耳族に該当する者は、市政庁に出頭して身元登録をせよ、だとさ」
アウリィは首を傾げた。
「身元登録?」
「戦時中だからね。外来種族の出入りは管理されてるのさ。——まあ、昨日の今日だ。あんたが宿帳に名前を書いたのが、もう軍に伝わったんだろう」
宿帳。そういえば、昨日チェックインのときにギーゼラに名前を書いてもらった。自分では文字が書けないから、口頭で伝えて代筆してもらったのだ。
「行かなきゃだめ?」
「行かないと面倒なことになるよ。この街で軍の指示を無視するのは得策じゃない。——でもまあ、身元登録なんて形だけのもんだ。名前と種族と滞在目的を言って、判子を押してもらって終わりさ」
「ふうん……分かった。行ってくる」
朝食にパンと干し肉のスープを食べてから、外に出た。ギーゼラが市政庁への道順を教えてくれたが、道に自信がなかったので、途中で人に訊きながら歩いた。
朝のグランツヴェルクは、昨日よりも少しだけ空気が澄んでいた。風が出ているのか、パイプラインの隙間から差し込む光が、煤の粒子をきらきらと照らしている。通りには出勤する労働者たちの列ができていて、重い足取りで坂を上っていく。
市政庁は、街の高台にある大きな建物だった。煉瓦造りだが、他の建物より手入れが行き届いていて、壁に煤がこびりついていない。入口の両脇に、蒸甲蟲を模した小さなレリーフが飾られている。
受付で用件を告げると、奥の部屋に通された。待合室のような場所で、木製の長椅子がいくつか並んでいる。他に待っている人はいなかった。
しばらく待つと、扉が開いた。
入ってきたのは、昨夜の食堂で目が合った女性士官だった。
灰色の軍服に歯車の徽章。短い赤毛。こめかみから顎にかけての傷跡。温度のない灰色の目。
「アウレーリエ・リュコーリアス。——合っているか?」
「はい。アウリィって呼んでくれていいよ」
女性士官は椅子に座るよう促し、自分は向かいの椅子に腰を下ろした。膝の上に書類板を載せて、ペンを構える。
「私はエルゼ・ヴァイトラウフ。帝国軍北部方面司令部、情報管理課の少佐だ」
情報管理課。身元登録だけにしては、少し大きな肩書きだとアウリィは思った。
「身元登録の手続きだと聞いたんだけど」
「そうだ。いくつか質問する。正直に答えてもらいたい」
「うん」
エルゼは書類板に目を落とした。
「種族、長耳族。出身地は?」
「……遠いところ」
「具体的に」
「この世界の地名で言えるような場所じゃないんだ。ごめんね」
エルゼのペンが止まった。灰色の目がアウリィを見つめる。
「では、質問を変えよう。この街に来た目的は?」
「旅の途中で立ち寄っただけ。長居するつもりはないよ」
「どのくらい滞在する予定だ?」
「分からない。たぶん、そんなに長くはないと思う」
エルゼは書類に何か書き込んだ。表情は変わらない。
「もう一つ。——精霊術は使えるか?」
アウリィの心臓が、一拍だけ跳ねた。
質問の意図を考える。この街で精霊の気配は薄い。精霊術が一般的な技術ではないことは、街の雰囲気から察していた。では、なぜ訊く。長耳族が精霊術を使うことが知られているから? それとも——
「使えるよ。でもこの街では、あんまり上手くいかないみたい」
「そうか」
エルゼはそれ以上追及しなかった。書類板にまた何か書き込んで、最後にぽん、と判子を押した。赤い歯車型のインクの跡。
「登録は完了だ。滞在中は身元証を携帯するように」
紙片を一枚渡された。この世界の文字で何か書いてある。身元証なのだろう。
「ありがとう、エルゼ少佐」
立ち上がりかけたとき、エルゼが言った。
「アウリィ」
愛称で呼ばれて、振り返った。
「この街は今、不安定だ。戦線が近づいている。——旅人なら、長居しないことを勧める」
その言葉は忠告のようでもあり、警告のようでもあった。
「うん。ボクもそう思ってる」
市政庁を出ると、空が少しだけ見えた。パイプの隙間から覗く、灰色の空。本当の空の色が何色なのか、この街からでは分からない。
坂を下りながら、さっきのやり取りを反芻した。
精霊術のことを訊かれた。それが引っかかっている。あの質問は、定型の質問項目ではなかった。エルゼの声のトーンが、あの質問のときだけ微かに変わった。
——そして、昨夜の白衣の男。木箱の中の、精霊の気配を帯びた青白い液体。
この街には何かがある。蒸気と歯車だけでは説明できない、何かが。
「面白くなってきたかも」
誰にともなく呟いて、アウリィは坂道を駆け下りた。マントの裾が風にはためいて、真紅の布地の裏から黄色い裏地がちらりと覗く。
知らない世界の、知らない謎。
胸の奥の小さな炎が、また少しだけ、明るくなった気がした。




