5話「星喰みの潮、その先へ」
夜明け前の空は、まだ星を手放しきれていなかった。
村じゅうが寝静まっているわけではない。むしろ、あちこちで小さな灯が動いている。舟の準備をする者、見送りの品を持ってくる者、残る者どうしで短く言葉を交わす者。声はみんな抑えているのに、緊張だけは隠れない。
凪の環へ行く舟は二艘になった。
一艘では危険すぎる、けれど大きすぎても動けない。そうして選ばれたのが、昨日より少し大きい細舟を二つ。乗るのは、カナ、ガド、セナ、ボクに加えて、長のトゥオ、それから若い漁師が三人。ひとりは網投げが得意で、ひとりは見張りの目が良く、もうひとりは黙っているけれど舟の扱いが上手いらしい。名前は聞いた。リオ、ハシ、ネマ。ちゃんと覚えようと思って、心の中で二度繰り返す。
ボクは桟橋で、手のひらを開いたり閉じたりしていた。
傷はだいぶ塞がっている。ミオの青い葉と、カナが塗ってくれた薬のおかげだ。少ししみるけれど、槍を握るには困らない。
「アウリィ」
振り向くと、ミオがいた。
眠そうな顔なのに、ちゃんと起きてきたらしい。両手で何かを大事そうに抱えている。
「おはよう」
「おはよう。はい、これ」
差し出されたのは、小さな布包みだった。開くと、焼いた貝の身と、平たい干し魚、それから海麦の甘い焼き菓子が入っている。
「おやつ」
「ありがとう」
「おやつだよ」
「うん」
「ごはんじゃなくて、おやつ」
妙に強調する。たぶん大人たちに「非常食」として持たせろと言われたのを、自分の中では「おやつ」として渡したいのだろう。かわいい。
「じゃあ、おやつとして大事に食べる」
「うん!」
それで満足したらしい。ミオはにこっと笑い、それから急に不安そうな顔になった。
「……かえってくる?」
その問いに、ほんの少しだけ言葉が詰まった。
こういう時、軽々しく約束するのは好きじゃない。
帰る、と言って帰れないことがあるのを、ボクは知っている。
でも、黙るのも違う。
ボクはしゃがんで、ミオと目線を合わせた。
「帰るために行くよ」
ミオはしばらくボクの顔を見ていたが、やがてこくんと頷いた。
「じゃあ、まってる」
「うん」
「ルゥにもいっとく」
「それは心強いなあ」
その時、カナの声が飛ぶ。
「ミオ! 離れな!」
「はーい!」
走っていくミオの背を見送りながら、ボクは布包みをポーチへしまった。
待ってる、か。
胸のどこかが少しだけ重くなる。
でも、その重さは今は悪くなかった。
***
凪の環は、村から半日ほど南東へ行った先にある。
「半日」と聞いた時、海の距離感なんて世界ごとに違うしなあ、と思っていたけれど、実際に進むにつれてそれがかなり遠いことを思い知った。湾内とは比べものにならない潮の複雑さ。環礁と歯岩が入り組み、風向きもころころ変わる。舟は二艘、一定の間隔を保ちながら進み、前後左右を絶えず見張る必要があった。
朝のうちはまだ空も海も穏やかだった。
群青の水面の下を、時折、星の魚たちが走る。小さな光の群れは昨日より多い。こちらを先導しているのか、偶然同じ流れに乗っているのか、判然としない。でも、ただの偶然と片づけるにはできすぎていた。
先頭の舟にはガドとトゥオ、ハシ、ネマ。
後ろの舟にカナ、セナ、リオ、ボク。
セナが舵を握り、リオが櫂を動かす。カナは前方を睨み、ボクはできるだけ周囲の気配を拾うように意識を広げていた。
精霊との相性は、相変わらず微妙だ。
南の祈り場では骨と歌が噛み合って、なんとかなった。
でも沖に出るほど、水の精霊たちはまとまりを失う。そわそわしていて、何かを恐れているみたいだ。呼びかけてもすぐ散る。嫌われているわけじゃない。ただ、落ち着かないのだ。
「……嫌な海」
ぽつりとこぼすと、カナがちらりと見た。
「何か感じるのかい」
「うん。水がびくびくしてる」
「水が?」
「精霊がね」
リオが櫂を止めないまま、少し目を見開いた。「本当にいるんだな、そういうの」
「いる世界と、あんまりいない世界があるよ」
「またそういう言い方する」とセナ。
「だってほんとだし」
ガドの舟から声が飛ぶ。「右前方、影!」
全員の意識がそちらへ向く。
海面下に、暗い筋が走っていた。
喰らい付きかと思ったけれど、違う。もっと長く、もっと大きい。しかも一匹ではない。何本も、まるで海底から生えた影の根みたいにうごめいている。
トゥオが低く言う。「潮の裂け目だ」
見た目はただの影なのに、近づくほど水の色が濁る。
しかも影のまわりだけ波の向きが逆だ。海がそこを避けて流れている。
「触るなよ!」とカナ。
「触らないようにできるなら苦労しないって!」とセナ。
二艘が大きく迂回する。
けれど影はそこだけではなかった。ひとつ避ければ、またひとつ。そのたびに舟が削られるように進路を変える。
凪の環が禁足になった理由の一端を、ようやく肌で理解した。
これは慣れない海ではない。海そのものが、途中から道をやめている。
やがて太陽が高くなるにつれ、空の色までおかしくなってきた。
青の中に、薄い黒の筋が混じる。
雲ではない。裂け目の傷痕みたいなものだ。昼なのに、そこだけ夜が薄く滲んでいる。
トゥオが振り返り、ボクへ声をかける。
「アウリィ、星の魚はまだ見えるか」
「見えるよ」
「どこへ向かっている」
ボクは目を細めた。
前方、海面下の光の群れは、ある一点へ集まるように泳いでいる。その先にはまだ何も見えない。でも気配がある。大きくて、静かで、たぶん危険なものの気配。
「あっち。……もう近いと思う」
トゥオは短く頷く。
それ以上の会話はなかった。
みんな、わかっているのだろう。
近い。
そして、近づきたくない。
***
凪の環は、突然現れた。
霧が切れたのではない。
海そのものが一段低くなったみたいに、視界の先に巨大な円が開けたのだ。
ボクは思わず息を呑む。
環礁、と呼ぶにはあまりに大きい。
まるで海の上に置かれた巨大な輪だ。外縁は白い岩と黒い岩が幾重にも重なり、ところどころ骨のような柱が突き出している。中央には、鏡みたいに静かな水面が広がっていた。風があるのに、そこだけ波がない。
その静けさの中心に、塔が立っている。
いや、塔だったもの、かもしれない。
白い骨と石で組まれた巨大な尖塔。途中で折れ、半ば海へ沈んでいる。それでもなお高い。骨の輪が幾重にも塔を囲み、天へ伸びるように捻れていた。
「……すごい」
声が漏れる。
隣でセナも、珍しく黙っていた。
カナの顔は強張っている。
トゥオは目を閉じ、何か小さく祈るように唇を動かした。
凪の環。
空を見上げるための場所。
一番大きな祈り場。
南の祈り場が小さな門なら、ここは本当に「核」なのだろう。
ボクの首元で、貝のお守りがちり、と鳴る。
それに応えるように、海面下の星の魚たちが一斉に中央へ向かった。
その瞬間、静かな水面に、黒い輪が広がった。
「来るぞ!」
ガドの声と同時に、中央の鏡面が割れる。
黒い水柱。
いや、水ではない。夜そのものが噴き上がったみたいな柱だ。そこから無数の喰らい付きが弾けるように飛び出す。小型、中型、南の祈り場で見た触腕めいたものまで混じっている。
「多っ!」
思わず叫ぶ。
数が違う。これでは倒しても倒しても追いつかない。
「中央へ近づけ!」とトゥオ。
「門を見つけるしかない!」
二艘が外縁を切り、内側へ入る。
喰らい付きたちが追う。黒い体が波を裂き、縦口の光があちこちで瞬く。星の魚の群れがそれを撹乱するように散り、何匹かは喰われ、何匹かはうまく避ける。その光景の美しさと惨さに、胸がざわざわした。
ボクは槍を呼び出す。
「右!」
セナの声に合わせ、舟縁から身を乗り出して一突き。飛びかかってきた喰らい付きの口を貫く。リオが櫂で別の個体を叩き落とし、カナが投げ槍で追撃する。前の舟ではガドが網を広げ、ハシとネマが連携して群れを逸らしていた。
けれど、きりがない。
中央の黒い水柱はむしろ大きくなっている。
しかもその根元――塔の折れた基部あたりに、空間が歪んで見えた。
裂け目だ。
今まで見たどの裂け目より大きい。
空ではなく、海の上に開いた裂け目。
「門、あそこ!」
ボクが叫ぶ。
トゥオが振り返る。「見えるのか!」
「うん!」
「なら行く!」
セナが歯を食いしばる。「無茶言うなよ!」
でも舟は進む。
行くしかない。
喰らい付きの群れが左右から迫る。
そのとき、海面下から大きな群青の影が跳ね上がった。
大きい星の魚だ。
村の礁にいた、あの傷ついた個体。完全には治っていないはずなのに、ここまで来たらしい。胸鰭を大きくひらき、無数の小さな星の魚を従えて、黒い群れの只中へ突っ込む。
「うわ……」
言葉を失う。
群青と金銀の光が、黒を裂く。
喰らい付きたちは一瞬たじろぎ、隊列が崩れた。
「今だ!」ガド。
二艘が一気に中央へ滑り込む。
塔の基部へ近づくと、水面が急に浅くなった。海の下に石畳がある。いや、かつて床だった場所がまだ残っているのだ。舟底が擦れる。
「降りるよ!」
カナが飛び降りる。膝下ほどの水。
ボクも続く。冷たい。でも、南の祈り場に入る前の海と同じ匂いがした。古い祈りの匂い。
塔の基部には、半円形の広間の残骸があった。
折れた骨柱。崩れた壁。中央には巨大な円盤状の祭壇。そしてその真上、空中に、黒い裂け目が開いている。
裂け目の向こうは、海ではなかった。
暗い。
ただひたすらに暗い。
けれど、その奥で何か巨大なものが動いている。輪郭を見た瞬間、背筋が凍った。
口だ。
大きすぎて形がわからないほど大きい、何かの口。
星も魚も、たぶんこの海そのものすら呑み込みかねない、底のない口。
「……あれが、星喰み」
トゥオが掠れた声で言う。
そうか。
喰らい付きは端末にすぎなかったのだ。
本体はもっと向こう、裂け目の奥にいる。
裂け目の縁から、黒い糸みたいなものが垂れている。それが海に触れるたび、水が黒く染まり、新しい喰らい付きが形を取る。
「どう閉じる!」
カナが怒鳴る。
答えはない。
女はもういない。
祈りの残り香もここまでは届かないらしい。
でも祭壇はある。
門も、たぶんこれだ。
南の祈り場よりずっと大きい円盤。周囲に骨の輪。中央には、空を向くように口を開いた魚頭の紋。そこへ何かを嵌める溝が幾つもある。
「鍵が足りない」
思わず呟く。
南では、ミオの貝とルゥの鱗が鍵になった。
ここではもっと大きい。ひとつでは足りない。
その時、星の魚の群れが一斉に祭壇の周囲へ集まった。
小さなものも、大きなものも。傷ついた個体まで、ふらつきながら水面近くへ身を寄せる。
群青の胸鰭がひらく。
光が走る。
ひとつ、またひとつと、星の魚たちの鱗が剥がれ、光の欠片になって祭壇の溝へ落ちていく。小さな星のような鱗たちが、空いた場所を埋める。
「自分で……」
セナが呆然とする。
トゥオが目を見開いた。「祈りを返しているのか」
祭壇が反応する。
骨の輪が群青に灯り、裂け目がわずかに縮む。
だが、まだ足りない。
星喰みの口が向こうで脈打つ。
裂け目が逆に広がろうとする。
喰らい付きたちがさらに湧く。
ボクは歯を食いしばった。
歌だ。
また歌が要る。
でも今度はそれだけじゃ押し負ける。
「アウリィ!」カナ。
「何かわかるかい!」
わかる、とは言えない。
でも、やるしかない。
ボクは祭壇へ駆け寄り、両手をその冷たい骨へ置いた。
瞬間、頭の奥に轟音が走る。
見える。
空路。
環礁をつなぐ見えない道。
星の魚が落ちて、海へ戻り、またどこかへ還っていく循環。
その途中を、裂け目が喰い破っている。
星喰みは外から来たのではなく、道の傷に育った飢えだ。
飢え。
喪失。
還れないものの残滓。
なぜか、その感覚に覚えがあった。
何かを失って、思い出せなくて、それでも埋まらない穴だけが残る感じ。
それを他人事だと思えなくて、胸が少し痛む。
でも同情してる場合じゃない。
「みんな、祭壇の輪に骨を!」
ボクが叫ぶ。
「骨!?」ガド。
「柱でも破片でもなんでもいい、円を繋いで!」
セナが即座に動く。「聞いたな、やるぞ!」
カナも崩れた骨柱へ走る。リオたちがその後に続く。
トゥオは祭壇の前へ立ち、震える手で古い祈りの言葉を口にし始めた。意味はわからない。でも響きがある。古い潮の言葉だ。
ボクは深く息を吸う。
あの歌を思い出す。
やさしい歌。
骨に、空路を思い出させる歌。
今度は迷わなかった。
声を放つ。
旋律が海へ広がる。
凪の環の静かな水面が共鳴し、折れた塔の骨が微かに震える。星の魚たちも、音に合わせるように胸鰭をひらく。群青と金銀の光が、歌に寄り添う。
裂け目の向こうの口が、嫌そうに脈打つ。
喰らい付きが一斉にこちらへ殺到した。
「来るぞ!」
ガドが前へ出る。
網が飛ぶ。セナの鉤が唸る。カナは骨片を祭壇の輪へ押し込みながら、短槍を蹴り上げるように投げた。リオが喰らい付きの噛みつきを受けて腕を裂かれ、ネマが無言で引き戻す。
ボクは歌いながら槍を呼んだ。
白銀の槍が右手に収まる。
左手は祭壇。
歌を止めない。
喰らい付きの群れが跳ぶ。
ボクは半身を開き、槍を横へ払う。二匹まとめて弾く。三匹目が足元から来る。石を蹴って回避、そのまま柄尻で頭を叩き潰す。歌が途切れそうになるたび、トゥオの低い祈りの声が下から支えた。
「続けろ、旅人!」
「続けてる!」
裂け目がまた広がる。
祭壇の光が押し返す。
拮抗。
足りない。
何か、あと一押し。
その時、大きな星の魚が水面から身を起こした。
傷だらけの体で、塔の基部へ胸を預ける。巨大な眼が、まっすぐボクを見る。
「……きみも、やるの」
魚は返事の代わりに、胸鰭を大きく広げた。
夜空そのものみたいな鰭膜に、環の地図が浮かぶ。
その中心――祭壇の直下に、ひときわ強い光点。
そして、その光が魚の胸から離れ、球のように凝縮した。
鱗でもない。
骨でもない。
もっと深い、核みたいな光。
「まさか」
ボクは首を振る。
それはたぶん、この魚にとって大事すぎるものだ。
でも魚は迷わず、その光を祭壇の中央へ落とした。
かち、と音がした。
最後の溝が埋まる。
世界が、鳴った。
骨の輪が白金に変わる。
折れた塔の骨柱が一本ずつ光を取り戻し、見えないところでつながっていく。海面が鏡のように張りつめ、裂け目の縁へ光の環が噛み合った。
星喰みの口が大きく開く。
怒りなのか、飢えなのか、言葉にならない圧が吹きつける。ボクの歌がかき消されそうになる。足が滑る。セナが後ろから肩を支えた。
「落ちるな!」
「うん!」
ボクは歌いながら、槍を祭壇へ突き立てた。
白銀の穂先が光の中心を貫く。
その瞬間、祭壇の輪と、ボクの槍と、星の魚の核とが一つの線でつながった。
精霊が、来る。
今までそわそわしていた水の気配が、いっせいにこちらへ向く。海じゅうの流れが、この一点へ集まる。風も、潮も、光も。
「閉じろ」
声にしたのは、祈りか命令か、自分でもわからなかった。
でも世界は応えた。
凪の環の水面が逆巻き、光の柱が裂け目へ突き立つ。
星喰みの口が、初めて怯えたようにひるむ。
喰らい付きたちが悲鳴みたいな音を立て、次々と黒い泡になって崩れる。
裂け目が、閉じていく。
少しずつ。
けれど確かに。
あと一歩。
その時、背後でカナの叫びが響いた。
「アウリィ、上!」
反射で顔を上げる。
裂け目の最後の隙間から、黒い杭みたいなものが落ちてきた。
いや、牙だ。
星喰み本体の一部。巨大な口の縁から切り離されたような、黒い骨の牙。それが真っ直ぐ、祭壇の中心――ボクへ向かっていた。
避ければ祭壇が砕ける。
受ければ、たぶんただじゃ済まない。
迷う暇はなかった。
ボクは槍を抜き、両手で構える。
全身の力を込めて、落ちてくる牙を真正面から受けた。
凄まじい衝撃。
「っ――!」
腕が痺れる。
足元の石が砕ける。
膝が折れそうになる。
でも、引かない。
ボクの後ろには祭壇があって、その向こうには歌い続けるトゥオと、支えてくれるセナと、傷だらけでも立っているカナたちがいる。
ここで退けない。
「アウリィ!」
誰かの声。
たぶん何人分も重なっていた。
ボクは歯を食いしばる。
押し返す。
ただの力比べじゃない。槍へ、祭壇へ、流れを通す。
「……帰れ」
それは星喰みに向けた言葉だったのか、自分自身へ言い聞かせたのか、わからない。
次の瞬間、槍が白く燃えた。
光が牙を包み、ひびを入れる。
ぱき、ぱき、と黒い骨が割れる音。
そして――砕けた。
砕けた牙の破片が、光の中へ散る。
それを最後に、裂け目は完全に閉じた。
静寂。
波音すら、一瞬遅れて戻ってきた。
ボクはその場に膝をついた。
槍の柄に体重を預けないと倒れそうだ。腕がじんじんする。掌の古傷がまた開いて、赤が滲んでいた。
凪の環の中央は、もう黒くない。
鏡みたいな水面も消え、普通の海に戻りつつある。いや、普通といっても、この世界の海として、だ。
喰らい付きの残骸はどこにもない。
塔の骨の光も徐々に落ち着いている。
しばらく誰も何も言わなかった。
最初に近づいてきたのはカナだった。
乱暴なくらい勢いよくボクの肩を掴み、上下を確かめる。
「どこ折れた」
「いきなり前提がひどい」
「折れたのかい!」
「たぶん折れてない!」
カナはそこでようやく、長く息を吐いた。
怒っている顔のまま、ほんの少しだけ目が潤んで見えたのは、たぶん見間違いじゃない。
セナが隣にしゃがみこむ。
「無茶にもほどがあるだろ……」
「それは、ごめん」
「今のは謝って済むやつじゃねえ」
でもその声は震えていた。怖かったんだろう。ボクもちょっと怖かった。
ガドが祭壇を見上げ、低く呟く。「閉じたな」
トゥオは祈りの姿勢のまま、しばらく動かなかった。
やがて静かに額を上げ、海と空を見渡す。
「……返った」
その一言には、何十年分もの安堵が滲んでいた。
ボクはそこで、大きな星の魚を探した。
少し離れた水面に、群青の背が浮いている。
でも、前よりずっと淡い。胸の核を祭壇へ渡したせいか、光が弱くなっていた。
「あ」
立ち上がろうとして、セナに止められる。
「待て」
「でも」
「待てって」
珍しく強い口調だった。
それでも目は魚を追ってしまう。
大きな星の魚は、ゆっくりとボクたちのほうを向いた。巨大な眼が細まる。その周囲を、小さな星の魚たちが群れになって回る。ルゥも、たぶんいる。
魚は一度だけ、胸鰭をひらいた。
もう地図のような鮮やかな光ではない。
それでも、朝焼けみたいにあたたかな金が広がった。
ありがとう、と言われた気がした。
次の瞬間、その体がふっとほどける。
鱗が、光になる。
骨が、霧になる。
巨大な魚の輪郭そのものが、細かな星屑みたいに海と空へ散っていく。
「……還ったのか」
トゥオの声は小さかった。
ボクは何も言えなかった。
言えることがなかった。
きれいだった。
すごく、きれいだった。
そして少し、悲しかった。
でも、その悲しさを握りしめすぎる前に、ルゥたち小さな星の魚が一斉に跳ねた。群青の光が海面を叩き、まるで見送るみたいに何度も、何度も。
ボクはそっと目を閉じた。
「……おつかれさま」
聞こえたかどうかはわからない。
でも、言いたかった。
***
帰りの舟は、行きよりずっと静かだった。
疲れているのもある。
見たものが大きすぎて、みんなまだ飲み込みきれていないのもある。
海は確かに変わっていた。
来るときにあった黒い潮の影は薄れ、空の傷痕もいくらか淡くなっている。完全に消えたわけではないけれど、少なくとも今すぐまた裂ける感じはしない。
ボクは舟の縁にもたれ、ぼんやり海を見ていた。
槍はもうしまってある。
代わりに、手のひらでミオにもらった貝を撫でる。
中のルゥの鱗は、まだちゃんと光っていた。
「アウリィ」
トゥオの声で顔を上げる。
老人は前の舟からこちらを見ていた。
「お前はいずれ行くのだな」
唐突だけど、たぶん唐突ではない。
ずっとみんなの頭のどこかにあったことだ。
ボクは少し笑った。
「そうだね」
「この海に留まらぬ」
「うん」
トゥオは静かに頷いた。
「なら、記していけ」
「え」
「見たものを。忘れると言うなら、なおさらだ」
その言葉に、日記帳の重みを思い出す。
「……うん」
「そして、もしまた似た裂けを見たなら」
老人は海の先を見る。
「今日のことを思い出せ。道は失われても、繋ぎ直せることがある」
ボクは返事の代わりに、深く頷いた。
忘れても、足は覚えることがある。
女の言葉と、トゥオの言葉が、どこかで重なった気がした。
村へ戻るころには、空はもう夕方に傾いていた。
見張りの者たちが最初にこちらを見つけ、次に、しおよみが澄んだ音を鳴らした。
昨日までの警告音ではない。
もっと柔らかく、長い音。
迎える音だ、とミオが後で教えてくれた。
桟橋には大勢が集まっていた。
みんな疲れた顔をしているのに、目だけが強く光っている。帰ってきた。それだけで、たぶん十分なのだ。
ミオはもちろん真っ先に飛び出してきた。
「アウリィ!」
「ただいま」
口にしてから、少しだけ驚いた。
ただいま、なんて。ずいぶん久しぶりに言った気がする。
ミオはそんなこと気にせず、ボクの手を見て、顔をしかめて、でも貝が無事なのを見て安心したように笑う。
「ルゥ、いた?」
「いたよ」
「げんき?」
「うん。たぶん」
「たぶん?」
「たぶん、元気に泳いでる」
完全な嘘ではない。
ルゥはたしかに、まだ泳いでいた。
その夜、村ではささやかながらも祝う食事が出た。
大騒ぎではない。失ったものもあったし、怪我人も多い。けれど、静かな安堵を分け合うような食卓だった。焼いた魚、貝の汁、海麦の酒。ボクは勧められるまま少しだけ飲んで、すぐに顔が熱くなったのでやめた。セナに笑われた。
「弱すぎだろ」
「世界によって違うんだよ、たぶん」
「またそれか」
「ほんとだもん」
会話して、笑って、傷の手当てをして。
そうして夜が更けるにつれて、ボクの中で一つの感覚が強くなっていく。
この世界が、少しずつ離れ始めている。
いつもそうだ。
長くいても、短くいても、兆しは来る。
風の手触りが変わる。地面の重さが薄れる。精霊たちがこちらを見る目が、「客人」から「旅立つもの」へ変わる。
世界が、もうすぐ十分だと言っている。
ボクは宴の輪から少し外れ、夜の桟橋へ出た。
予想通り、カナがいた。
「抜けてくると思ったよ」
「カナも」
「見送りの支度さ」
「気が早いなあ」
「そうかい?」
振り向いたカナの顔は、いつもよりずっとやわらかかった。
「……行くんだろ」
ボクは少し黙ってから、頷く。
「たぶん、今夜か明日の朝」
「そうかい」
短い返事。
でも、それ以上の引き止めはなかった。
カナは懐から小さな包みを取り出した。革紐でくくった、平たい袋。
「持っていきな」
「なにこれ」
「乾燥薬草と、潮焼け止めと、傷薬。旅人にも要るだろ」
「いる」
「なら持ちな」
ボクは受け取る。
ずっしりするほどではない。でも、やけに重く感じた。
「ありがとう」
「礼はいいよ」
「でも言う」
するとカナは、少しだけ笑った。
「……最初、あんたを見たとき、厄介なのが来たと思った」
「それはひどいな」
「実際厄介だったろ」
「それはそう」
二人で小さく笑う。
それからカナは、海を見たまま言った。
「ミオのこと、書いたんだろ」
「うん」
「なら、私たちのことも少しくらい書いときな」
「書くよ」
「忘れるなとは言わない」
少し間を置いて、彼女は続けた。
「でも、たまに思い出せ」
その言い方が、やけに優しくて、少し困った。
ボクは髪飾りへ触れ、そして貝へ触れた。
赤と黄色。悲しい記憶と、陽気な心。ボクの旅にずっとついてきたものと、この世界でもらったもの。
「うん。たまにじゃなくて、わりと何度も思い出すと思う」
「そうかい」
それで十分、という顔だった。
***
夜のいちばん深い刻、世界は静かにほどけ始めた。
ボクにはわかる。
空気が軽くなる。遠くの音が紙越しみたいに薄くなる。足元の板が、ほんの少し現実味を失う。
ボクはトランクを持ち、誰も起こさないように桟橋を歩いた。
でも、途中でちゃんと見つかった。
「やっぱり今か」
セナだった。
手すりにもたれて、最初から待っていたみたいな顔をしている。
「寝てなかったの?」
「寝れるか」
「そっか」
言葉が少しだけ足りないまま、二人で海を見る。
星は静かだ。
裂け目の傷痕は、もうほとんど見えない。
「またどっか行って、また変なの見るんだろ」
「たぶんね」
「そしたら、今度は一人で突っ込む前にちゃんと考えろ」
「善処します」
「それ、信用ならねえんだよ」
ボクは笑った。
セナは少しだけ視線を逸らし、それからポケットみたいな布袋から、小さな骨の針を出した。白く磨かれた魚骨で、持ち手に青い糸が巻いてある。
「これ、やる」
「え」
「網の綻び、すぐ直せる。旅でも使うだろ」
「使うかな」
「使え」
「はい」
受け取る。軽い。けれどちゃんと丈夫そうだ。
「ありがとう」
「礼は、まあ……別にいい」
カナと同じことを言うのに、照れ方は全然違った。
ちょっとおかしくて、でも笑うと悪い気がして、口元を押さえる。
セナは小さく息を吐いた。
「……死ぬなよ」
その一言は、たぶんとても重い。
ボクはふざけずに頷いた。
「できるだけ」
「できるだけじゃ困る」
「じゃあ、死なないようにがんばる」
「最初からそう言え」
そこで、風が変わった。
桟橋の端、夜の空気が淡く歪む。
次の世界への門は、いつもこんなふうにさりげない。誰にも見えないこともあるけれど、今夜はセナにもわかったらしい。彼は目を細めた。
「……ほんとに、変な旅人だな」
「今さら?」
「今さらだ」
ボクはトランクを持ち直し、日記帳をポーチの上から軽く叩いた。
「ねえ、セナ」
「なんだ」
「村、好きでいてね」
セナは一瞬きょとんとして、すぐにむっとした。
「言われなくてもだ」
「うん。なら安心」
「何目線だよ」
「旅人目線?」
「腹立つな」
でも最後には、ちゃんと笑ってくれた。
その笑顔を見て、ボクは少しだけ肩の力を抜く。
よかった。こういう顔を覚えておけるなら、まだボクはそんなに空っぽじゃない。
「じゃあね」
「おう」
「カナとガドと、トゥオと、ミオにもよろしく」
「自分で言えればよかったのにな」
「別れは、少し苦手なんだ」
正直に言うと、セナは何も返さなかった。
ただ、それで十分だとわかる顔をした。
ボクは最後に海を見る。
凪の環の方角は闇に沈んで見えない。
けれど、どこか遠くで小さく、群青の光が跳ねた気がした。
ルゥかもしれないし、違うかもしれない。
それでも、見送られた気がした。
一歩、歪みの中へ踏み出す。
ぱらり、と頁がめくられるような感覚。
潮の匂いが遠ざかる。
消える直前、ボクは小さく呟いた。
「ありがとう」
誰に向けたのかは、もうあまり大事じゃなかった。
***
次の世界へ渡ったあと、最初の夜にボクは日記を開いた。
新しい世界の空気は乾いていて、海の匂いはもうしない。
それでも頁をめくると、塩気のある風が少しだけ戻ってくる気がした。
ボクは丁寧に書く。
――星喰みの環礁編、了。
――空から魚が落ちる海の世界。
――ミオ。魚と話す子。ルゥの友達。
――カナ。きつくて強くて、深く海を見る人。
――ガド。静かで頼れる槍手。
――セナ。素直じゃないけど、ちゃんと仲間の顔を見ている人。
――トゥオ。古い祈りを忘れなかった長。
少し迷って、それから続ける。
――星喰みは、還れない道に育つ飢えだったのかもしれない。
――門は閉じた。でも道は、何度でも傷つくのだと思う。
――それでも、繋ぎ直せることがある。
書き終えて、指先を止める。
最後に、もう一行だけ足した。
――忘れたくないと思った世界だった。
炭筆を置く。
窓の外には、もう別の星空がある。
知らない風が吹いている。
次の頁が始まる。
でも、黄色い貝はまだ髪飾りの下で揺れていた。
ちり、と小さく鳴る。
ボクは少し笑って、日記帳を閉じた。




