4話「骨の門、ひらく底」
揺れは、一度きりでは終わらなかった。
ごご、と祈り場の底が唸るたび、床石の継ぎ目から黒い水が滲み出す。青白い苔の光に照らされて、その黒はただの海水ではないとわかった。色だけじゃない。近づくと耳の奥が詰まるような、不快な圧がある。
祭壇の下で、何かが呼吸しているみたいだった。
「後ろへ!」
カナの声が飛ぶ。
でも、前にいるのはガドだ。祭壇へ最も近く、すでに槍を半歩引いて構えている。黒い水の中で、青白い目がいくつも明滅した。ひとつ、ふたつじゃない。群れている。いや、群れというより、一つの塊の中にいくつもの目が浮いているようにも見える。
セナが舌打ちする。
「なんなんだよ、あれ……!」
「知らない!」
返しながら、ボクは白い女――祈りの残滓、精霊、亡霊、そのどれともつかない存在――を見た。彼女は揺れる床の上に立っているのに、足元だけは波紋ひとつ立っていない。現実に干渉しているのか、していないのか、曖昧なままだ。
「骨の門って、どこ!」
ボクが叫ぶと、女はゆっくり祭壇を見た。
「そこ」
雑だな、と思った。
思ったけど、たしかに祭壇のまわりには骨が多い。大きな頭骨、小さな骨、柱に絡む骨板。そして祭壇の基部には、口を開けた魚の骨を模したような弧がある。
骨の門、という呼び名には合っている。
でも、閉じろと言われても、どうやって。
床がまた鳴動した。
同時に、黒い水から何かが飛び出す。
長い。
喰らい付きに似た節のある胴だが、もっと細く、もっとしなやかだ。骨の鞭みたいな触腕が四本、いや六本。先端に縦割れの口がついている。目だと思った青白い光は、それぞれの口の奥で脈打っていた。
「うわっ、増えてる!」
「喜ぶな!」
セナの叫びはもう半分習慣になっていた。
最初の一本がガドへ襲いかかる。
ガドは踏み込み、槍を真っ直ぐ突き出した。穂先が口の一つを貫く。青白い液が散る。けれど、それだけでは止まらない。別の触腕が横から回り込み、槍の柄へ巻きつこうとした。
ボクは間合いを詰める。
槍を下から振り上げ、巻きつく前の節を断つ。感触は硬い骨と、ぬめる筋。切れ味は通るけれど、気持ちいい相手じゃない。断たれた先端が床へ落ちても、口はまだぎちぎちと噛み続けていた。
「しぶといなあ!」
「見ればわかる!」
ガドが体勢を立て直し、二本目を石柱へ叩きつける。カナは横から短槍を投げた。狙いは正確だ。触腕の節の間に刺さり、動きを止める。そこへセナが鉤を引っかけ、無理やり祭壇から引き剥がした。
連携が早い。
初見の化け物相手でこれができるのは、やっぱりこの人たちが海で生きてきたからだろう。
でも、数が悪い。
祭壇の下から次々と黒い触腕が湧き上がる。床石を押しのけるほどではないが、隙間を探すみたいに、ぬるりぬるりと広がっていく。
「これ、全部倒すのは無理だよ!」
ボクが叫ぶと、カナが即答した。
「なら門を閉じろ!」
「やり方知らないって!」
「そこの幽霊に聞きな!」
雑だった。
でも正しい。
ボクは半歩下がり、女へ向き直る。
「どうやって閉じるの!」
彼女は静かな声で言う。
「歌を返す」
「わからない!」
「忘れられた祈りを、骨へ」
余計にわからない。
たぶん昔のこの場所では、それで通じたんだろう。歌を返せばよくて、祈りを骨へ戻せばよかった。でも今は、その習わしも歌も失われている。村の人たちですら、ここをもう「沈んだ危険な場所」としか見ていないのだから。
「もっと今風に言って!」
思わず叫ぶと、セナがこんな時に吹き出しかけた。
カナは本気で呆れた顔をしたが、次の瞬間にはまた触腕を蹴り飛ばしている。
女は少しだけ首を傾げる。
困っている、ように見えた。
「……骨に、空路を思い出させる」
「だからどうやって!」
答えの代わりに、彼女の輪郭が一瞬揺らぐ。
時間切れかもしれない。
この存在そのものが、長くここに留まれないのだろう。
ボクは唇を噛んだ。
思い出せ、という言葉が耳の奥に刺さる。
思い出せないことばかりのくせに、こういう時だけ記憶に頼れと言われるのは、本当に困る。
でも――
骨。
歌。
祈り。
空路。
魚が空から落ちる世界。
骨を祀る祈り場。
星の魚の胸鰭に浮かんだ地図。
この場所は、海の神殿じゃない。
空から来るものを受け止め、海へ送り返すための場所だったんじゃないか。
「ガド! 祭壇のまわりの骨、動かしたことある?」
「ない!」
「カナ、祈りの歌とか知らない?」
「子守歌くらいなら!」
「それだ!」
「は!?」
ボクは祭壇へ駆けた。
触腕の一本が足元を薙ぐ。石を蹴って飛び越え、そのまま祭壇の脇へ滑り込む。近くで見る頭骨は圧倒的だった。大きな星の魚の頭骨。顎の内側には細かな刻みが並び、それが文字に見える。円弧を描く骨の基部には、何かを差し込む溝があった。
「鍵か」
呟いた瞬間、ミオにもらった貝のお守りがまた熱を持った。
ちり、と鳴る。
ボクははっとする。髪の横、赤い彼岸花の下で揺れる黄色い貝。その中に入っているルゥの鱗が、祭壇の骨と同じような群青の光を返していた。
「……まさか」
試しに、貝を外して溝へ近づける。
ぴたり、と収まった。
「ええー」
思わず間の抜けた声が出た。
直後、祭壇の骨全体に細い光が走る。
床の文様が連動して光り、広間に低い振動が響いた。触腕の動きが一瞬鈍る。
「アウリィ!」
カナが叫ぶ。「何した!」
「なんか入った!」
「雑!」
「ボクも今びっくりしてる!」
でも、これで間違ってはいないはずだ。
骨は確かに反応している。
問題はその次だった。
光は走ったが、すぐに弱まり始めた。足りない。鍵だけではだめ。歌か、祈りか、なにかもう一つが必要だ。
女が囁く。
「声を」
「だから、歌を知らないんだって」
「知っている」
「知らないよ」
「深くにある」
深く。
古い記憶の、摩耗した底に?
そんな曖昧なものを今引きずり出せと言われても困る。困るけれど、触腕は待ってくれない。ガドが二本を同時に受け流し、セナがその隙に一本を切り落とす。カナの肩口には浅い裂傷が走っていた。血が滲んでいる。
悠長に迷っている時間はない。
ボクは祭壇へ片手を置いた。
冷たい骨の感触。
その奥に、微かな鼓動みたいな振動。
「……思い出せるなら、思い出したいよ」
誰に言ったのかわからない。
母かもしれないし、自分かもしれない。
目を閉じる。
触れるのは骨だけ。
奥へ潜りすぎない。
でも、音を探す。
波の音。
潮の音。
しおよみの硝子が鳴る音。
ミオの笑い声。
ルゥが跳ねる音。
それらのずっとずっと奥に、かすかな旋律があった。
高い声。
やわらかい手。
黄色い花が揺れている。
遠い昔、誰かがボクの髪を梳きながら歌っていた、短い歌。
顔は思い出せない。
匂いも、季節も、ほとんど曖昧だ。
でも、歌だけが、すり切れた頁の隙間から落ちてきた。
「……っ」
喉が震える。
歌詞は完全じゃない。
言葉の半分は抜け落ちている。
でも旋律なら、たぶん。
ボクは小さく、口を開いた。
声にした瞬間、自分でも驚くほど古い響きが喉を通った。
今のどの世界の言葉とも少し違う。
風に乗るために作られたみたいな、軽く長い音。
戦っていた三人が、一瞬だけこちらを見る。
女は目を閉じたまま、わずかに頷いた。
旋律を続ける。
意味はわからない。
でも、歌っているうちに骨が応えるのがわかった。
祭壇の頭骨が淡く光り、柱の骨板が共鳴する。広間中に張り巡らされた文様へ、群青の光が走る。
触腕たちが一斉に身をよじる。
青白い口の光が乱れ、ぎちぎちと不快な音を立てた。
「効いてる!」
セナが叫ぶ。
「なら止めるな!」カナ。
「止めない!」
歌いながら戦うのは、あまり得意じゃない。
でもできないことはない。
ボクは右手で祭壇に触れたまま、左手に槍を呼び戻した。白銀の槍が光の中から現れる。片手槍は少し重いが、牽制くらいなら十分だ。
触腕の一本が背後から襲う。
振り向かず、槍を後ろへ突き出す。節の隙間に穂先が入り、動きが止まる。そこへガドが踏み込み、まとめて断ち切った。
「助かる!」
「歌に集中しな!」
「してるよ!」
カナの声はきついが、今は頼もしい。
祭壇の光がさらに強まる。
床石の継ぎ目が群青に染まり、黒い水を押し返し始める。底の唸りが、怒るように低くなる。
まだ足りない。
ボクは歌いながら、目だけで祭壇の全体を見る。
顎。頭骨。周囲の小骨。柱へ伸びる光。
そして祭壇の前に積まれた、小さな星の魚の骨。
あれも、配置に意味があるのか。
「ガド! その小さい骨、円に並べて!」
「どれだ!」
「祭壇前の!」
ガドは一瞬だけ迷ったが、すぐに理解したらしい。触腕を蹴り飛ばしながら、供物の骨を拾い上げる。セナも加わり、床の文様に沿って小骨を並べていく。カナはその作業を守るように前へ出た。
「来るよ!」
黒い水が盛り上がる。
今までより太い触腕が二本、同時に噴き上がった。一本はカナへ、一本はボクへ一直線。口の中の光が強い。たぶん本命だ。止められないと、ここで祭壇ごと砕かれる。
歌を止めるわけにはいかない。
ボクは左手の槍を低く構えたまま、足を一歩引いた。
触腕が迫る。
速い。
ぎりぎりまで引きつけ、穂先を斜めに滑らせる。正面からは受けない。骨を逸らし、噛み口の軌道だけ外す。触腕は祭壇の脇をかすめ、石を砕いた。
「っ、危な」
言葉の代わりに歌がこぼれる。
途切れかけた旋律を、無理やり繋ぐ。
カナのほうは、彼女自身が避けなかった。
短槍を逆手に持ち、触腕の口の内側へ突き立てる。そのまま横へ転がり、噛みつきを受け流す。荒っぽい。けれど確実だ。血がまた増えたけれど、本人は顔色一つ変えない。
「できた!」
セナの声。
祭壇前の小骨が、床の円へ綺麗に収まった。
その瞬間、光の流れが繋がる。
広間全体が鳴った。
鐘ではない。
歌でもない。
骨そのものが鳴る音だ。
白い柱に刻まれた文様が順に輝き、天井から垂れていた海水が逆流するように上へ巻き上がる。黒い水が激しく渦を巻き、祭壇の下へ吸い込まれていく。触腕たちは一斉にのたうち、次々と床へ叩きつけられた。
女が、初めて目を開いた。
その瞳は海の色ではなく、真昼の空みたいな淡い金だった。
「そう」
彼女が微笑む。
「まだ、残っていた」
ボクの歌に、彼女の声が重なる。
二つの旋律がぴたりと噛み合い、祭壇の骨が大きく光った。
ごん、と重い音。
床の継ぎ目が閉じる。
黒い水が、まるでそこに最初からなかったみたいに消えていく。触腕の残骸も、青白い液も、骨の粉になって風もないのに舞い上がり、そのまま光へ溶けた。
静かになった。
ほんとうに、突然に。
ボクは歌を止め、しばらくその場に立ち尽くした。
耳がきんとしている。
心臓が妙に速い。
ガドがまず大きく息を吐いた。「……閉じたか」
セナは床を槍の柄で小突く。「たぶん」
カナは肩で息をしながら、祭壇とボクを見比べる。「たぶんじゃ困る」
「でも今は閉じてるよ」とボク。
「それは見ればわかる」
声はいつも通りきついのに、少しだけ掠れていた。
疲れているのだろう。
ボクはようやく祭壇から手を離す。
掌がじんじんしていた。骨の冷たさがまだ残っている。
女は祭壇の向こうで、薄く透け始めていた。
さっきよりもさらに輪郭が曖昧だ。
「あの」
ボクが呼ぶと、彼女は静かにこちらを向いた。
「あなた、誰?」
いまさらの問いだった。
でも聞かずにはいられない。
彼女は少し考えるように首を傾げ、それから言った。
「祈りの残り香。名はもう要らない」
「要るよ、ボクは知りたい」
すると彼女は、ほんのわずかに困ったように笑った。
その表情に、妙な既視感が走る。
誰かに似ている、気がする。
でも、誰にかはまた思い出せない。
「昔、この場所で歌っていた者のひとり」
「ひとり」
「星の子を迎え、送り、道を整える者たちがいた」
トゥオの言っていた祈り場の役割と、だいたい重なる。
でも、それが実在していたのだとわかると、重みが違った。
「どうして門が開いたの」とカナが問う。
女は空を見るように、崩れた天井へ顔を向けた。
「空路が傷んでいるから。上で喰われ、下で歪み、道が混ざっている」
「喰われるって、喰らい付きに?」
「似ているけれど、もっと大きいもの」
その答えに、ボクの胸の奥で昨夜見た幻が疼く。
月も星もない黒い海。
その底で口を開く巨大な影。
セナが嫌そうに顔をしかめる。「まだ上がいるのかよ」
「いる」
さらっと肯定された。
「南の門は閉じた。けれど一つだけ」
女の声が少し遠くなる。
「海路の裂けは、まだ他にもある」
ガドが地図のことを思い出したのか、眉をひそめる。「環の光か」
女は頷いた。
「中心へ行きなさい」
「中心?」
ボクが問うと、彼女はボクを見る。
「星喰みの潮は、環の核を目指している。そこを失えば、この海は空を返せなくなる」
空を返せなくなる。
つまり、星の魚が落ちるだけで戻れなくなる、ということだろうか。
あるいは、落ちるものが魚だけでは済まなくなるのかもしれない。
カナが低く言う。「中心の環礁は……」
「禁足だ」とガド。
セナが乾いた笑いを漏らす。「だろうなと思ったよ」
だいたいこういう時、「行くな」と言われている場所ほど行く必要がある。
嫌な予感しかしないけれど、外れた試しもあまりない。
ボクは女へ一歩近づいた。
「あなたは、ボクのことを“渡る子”って呼んだよね」
女のまなざしが、ほんの少しだけ柔らかくなる。
「旅をやめないもの」
「……やめない、のかな」
ぽろっと本音が漏れた。
自分でも、旅を続ける本当の理由はもう曖昧だ。
知りたいから?
止まれないから?
置いていかれたくないから?
何かを探しているつもりで、実は探しているものを忘れているんじゃないか。
女はそれを責めるでもなく、ただ静かに言った。
「忘れても、足は覚えることがある」
その一言が、妙に胸へ落ちた。
ボクは返事ができなかった。
かわりに、髪飾りへ指が触れる。赤い彼岸花の硬い感触。母にもらったもの。顔も声ももう思い出せないのに、これだけはまだ残っている。
女の輪郭がさらに薄くなる。
時間だ。
「待って」とボクは言った。
「歌、あれ、どこで……」
最後まで言えなかった。
女は淡く笑う。
「やさしい歌だった」
それだけを残して、彼女は潮の霧みたいにほどけた。
光る粒になり、祭壇の骨へ吸い込まれて消える。
沈黙が落ちる。
しばらく誰も動かなかった。
最初に現実へ戻ったのは、やっぱりカナだった。
「傷の手当てをする。ここで倒れるのは御免だからね」
「はいはい」とセナ。
「お前もだぞ、アウリィ」
「ボク?」
「手、真っ赤だ」
言われて初めて見る。掌に細い裂け傷がいくつも走っていた。祭壇の骨か、触腕を弾いた時か。痛みが遅れてきて、じわっと熱い。
「ほんとだ」
「ほんとだ、じゃない」とカナ。
ガドが床の円を見下ろし、低く言う。「……今の話、長にどう伝える」
「そのままだろうね」とカナ。
「省けるほど軽い話じゃない」
セナが天井の向こう、揺れる水面を見上げる。
「帰れるうちに帰ろうぜ。また開いたら笑えねえ」
それはその通りだった。
でも、帰る前にもう一つだけ確かめておきたいことがあった。
ボクは祭壇の頭骨を見上げる。光はもう弱く、ただの白い骨に戻りつつある。
「アウリィ」
カナが少し鋭く呼ぶ。
余計なことをしそうな顔をしていたのだろう。
ボクは素直に両手を上げた。「触らないよ。今は」
「今は、が余計だよ」
「だってあとで気になるし」
「あとでもだめだ」
セナが笑う。「言われてる」
「うう」
不満そうにしてみせたけれど、今回は本当に従った。
今は情報のほうが大事だ。ここでまた門を刺激しても仕方ない。
階段を戻るとき、背後でほんのかすかに、さっきの歌の余韻が聞こえた気がした。
気のせいかもしれない。
でも振り返らなかった。
***
祈り場を出ると、昼の海はまぶしいほど明るかった。
さっきまであんな場所にいたのが嘘みたいだ。
環礁の内側は静かで、星の魚たちがまだ数匹、浅瀬に留まっていた。ルゥもいた。ボクたちが戻ると、群青の背が一度だけ跳ねる。
「迎えに来たのかな」
ボクが言うと、セナは鼻で笑った。
「たまたまだろ」
「素直じゃないなあ」
「魚相手に嫉妬してねえよ」
「してるって言ってないよ」
「……お前、性格悪いな」
ちょっとだけ仲良くなった証拠みたいで、ボクは内心少し嬉しかった。
でも同時に、その嬉しさを大きくしすぎないように、心のどこかで手綱を引く。
舟に戻り、環礁を離れる。
帰りの海は行きより重く感じた。疲れのせいもあるし、知ってしまったことのせいもある。
南の門は閉じた。
でも、他にも裂けがある。
しかも中心の環礁が危ない。
ガドが櫂を動かしながら言う。
「長は中心へ行くつもりになる」
カナが短く答える。「なるね」
「止めるか」
「止められると思うかい」
「思わん」
セナが舵を握ったままぼやく。「結局行くんじゃねえか」
「そうなるだろうね」とカナ。
ボクは海面を見つめる。
下を、光る魚の群れが通った。
その向こうに、一瞬だけ、もっと大きな影が見えた気がした。
「……中心って、どんな場所?」
誰にともなく問う。
ガドが答える。「今は“凪の環”と呼ばれてる」
「今は、ってことは昔は違った?」
「古い名はあるらしいが、もう使う者はいない」
カナが少しだけ言いよどみ、それから口を開く。
「昔、そこに一番大きな祈り場があった」
「南のより?」
「比べものにならない。村の祖たちが、空を見上げるための場所だったと伝わってる」
「空を見上げるため」
「星の魚を迎えるため、ってことだろうね」とセナ。
ボクの脳裏に、祭壇の骨、柱の文様、そして女の言葉がよぎる。
空を返せなくなる。
環の核。
星喰みの潮。
中心には、たぶんもっと大きな門がある。
その時、カナが不意にこちらを見た。
「アウリィ」
「ん?」
「さっきの歌」
声色が少しだけやわらかかった。
「……どこで覚えたんだい」
ボクは黙る。
正直に言えば、わからない。
思い出した、というより、零れてきた。
ずっと前に聞いた気がする誰かの歌。
たぶん大事な人だった。
でも顔は思い出せない。
それをそのまま言うのは、少しだけ嫌だった。
曖昧なものを他人に触らせるのは、なんだか落ち着かない。
だから、しばらく考えた末に、ボクはこう答えた。
「……昔、やさしい人が歌ってくれた気がする」
カナはそれ以上は聞かなかった。
「そうかい」
ただ、それだけ。
でも十分だった。
深掘りされないのが、今はありがたい。
セナが前を向いたまま言う。
「似合わねえな」
「なにが」
「お前が、そういう顔するの」
「どういう顔」
「……少し、さみしそうな」
ボクは目を瞬いた。
そんな顔をしていたらしい。
「セナって、意外と人の顔見てるね」
「見たくなくても見える位置なんだよ」
「ふうん」
照れ隠しだとわかったので、それ以上は突っ込まなかった。
海風が髪を揺らす。
赤い花の髪飾りの横で、ミオのくれた貝が小さく鳴った。
***
村へ戻ると、出迎えは思ったより大きかった。
無事に帰ったことへの安堵もあるし、カナたちが珍しく揃って険しい顔をしているせいでもあるだろう。ミオは真っ先に走ってきて、危うく桟橋から落ちそうになりながら踏みとどまった。
「アウリィ! ルゥいた!?」
「いたよ」
「ほんと!?」
「元気だった」
「やった!」
それだけでぱっと笑う。
いいなあ、その単純さ。
でも次の瞬間、ボクの手の傷に気づいて顔を曇らせた。
「けがした」
「ちょっとだけ」
「いたい?」
「今は少し」
ミオは真剣な顔で、ポーチから何かを探り出す。小さな青い葉だった。潰して傷へ貼れと言うので、素直に受け取る。ひんやりして気持ちいい。
「ありがと」
「どういたしまして」
得意げだ。
その後は、長の家で報告になった。
南の環礁で見たこと、門が開きかけていたこと、祈り場の残滓と会話したこと、中心の環礁へ行く必要があること。
案の定、重い空気になった。
トゥオは報告のあいだ、ほとんど口を挟まなかった。
全部聞き終えてから、長く目を閉じる。
その沈黙に、部屋の誰もが口をつぐんだ。
やがて老人は、低く言った。
「凪の環へ行く」
異論は、すぐには出なかった。
出ないのは賛成だからではない。
わかっているからだ。行かない選択が、もう残っていないことを。
それでも何人かは顔をしかめたし、年長の女が「禁足だよ」と絞り出すように言った。トゥオは頷く。
「知っている」
「ならなぜ」
「禁じたのは、失うのを恐れたからだ」
老人の声は静かだったが、よく通った。
「だが恐れたまま忘れた結果、今これだ。なら、見に行かねばならん」
カナが腕を組んだまま言う。「人数は絞るよ。大勢で行く海じゃない」
ガドも同意する。「早いほうがいい」
セナがうんざりした顔を隠しもせず息を吐く。「俺も行くんだろうな」
「行くよ」とカナ。
「嫌でも」
「だと思った」
みんな疲れているのに、話は止まらない。
準備の相談が始まる。舟は二艘か一艘か、見張りをどう残すか、夜明け前に出るか、星の魚の大きな個体はどうするか。
ボクはその輪から少し外れ、壁際で日記帳を開いた。
――南の環礁の祈り場で、骨の門を閉じた。
――白い女。名はない。祈りの残り香。
――“忘れても、足は覚えることがある”
――歌を思い出した。誰の歌かは、まだ曖昧。
書いてから、その一文を消さなかった。
曖昧でも、今のボクには必要な記録だと思えたからだ。
さらに、
――次は凪の環。
――中心の門。たぶんもっと危ない。
そう付け足したところで、隣に誰かがしゃがみこむ気配がした。見るとミオだった。いつのまにかまた近くへ来ている。
「なにかいてるの」
「日記」
「きのうもかいてた」
「毎日書いてるからね」
「なんで?」
「忘れるから」
答えた瞬間、自分で少しだけ驚いた。
いつもなら、「旅の記録だよ」くらいにぼかすところだ。けれど今は、その言葉がすんなり出た。
ミオは首を傾げる。
「わすれちゃうの?」
「うん。古いことは、けっこう」
「やだね」
「やだねえ」
ミオはしばらくボクの顔を見て、それから言った。
「じゃあ、ぼくのこともかいて」
「ミオのこと?」
「うん。わすれないように」
その無邪気な言葉に、胸のどこかがちくりとした。
忘れないように。
それは、嬉しい頼みごとで、少しだけ残酷だ。
ボクは多くの世界を歩いてきた。
多くの人に会って、別れて、名前を記した。
それでも零れていったものはたくさんある。
だから、すぐに「もちろん」とは言えなかった。
でもミオはそんなためらいを知らず、当然のように笑っている。
ボクはゆっくり頷いた。
「書くよ」
「ほんと?」
「ほんと」
「やった」
ミオが満足そうに去っていく。
その背を見送りながら、ボクは日記に新しい行を足した。
――ミオ。魚と話す子。素直で、泣き虫で、よく笑う。
それだけ書いて、しばらく指を止める。
続けて、
――忘れたくないと思った。
と、今度はちゃんと書いた。
***
夜、出発前の準備が一段落したころ、ボクはひとりで村外れの桟橋にいた。
空には星が多い。
でも昨日までとは少し違って見える。
綺麗なだけじゃなく、その向こうに裂け目があることを知ってしまったからだろう。
背後で足音がした。
振り返ると、セナだった。
「やっぱりここにいた」
「探してたの?」
「少し」
彼は隣まで来て、手すりにもたれた。
昼間よりずっと静かな顔をしている。
「明日、たぶん荒れる」
「そうだね」
「怖くないのか」
「怖いよ」
即答すると、セナが少し驚いた顔をした。
「怖いんだな」
「そりゃね。死にたくないし、痛いのも嫌だし」
「じゃあなんで行く」
それは、ずっと前から、いろんな人に問われてきたことだ。
なんで旅をするのか。
なんで首を突っ込むのか。
なんで、知らないものを追いかけるのか。
答えはいつも少しずつ違う。
ボクは海を見たまま言った。
「見てしまったから、かな」
「それだけか」
「それだけが、けっこう大きいんだよ」
セナは黙る。
ボクは続ける。
「知らないものを見て、放っておける時もある。でも、見てしまって、聞いてしまって、手が届くかもしれない時は……たぶん、行っちゃう」
「難儀な性分だな」
「ほんとにね」
少しの沈黙のあと、セナがぽつりと言う。
「帰る場所、あんのか」
その問いに、ボクはまばたきした。
意外だった。
セナがそんなことを聞くとは思わなかった。
「……ない、のかも」
正直に答える。
ない、と言い切る勇気も、ある、と言える根拠もない。
「旅の途中って感じ?」
「ずっと途中」
「終わりそうにないな」
「ボクもそう思う」
セナが小さく笑う。
それから真面目な声で言った。
「じゃあせめて、明日は落ちるなよ」
「子ども扱いしてない?」
「してねえ。仲間扱いだ」
その一言に、ほんの少しだけ、胸が温かくなった。
仲間。
短い時間でも、そう呼ばれるのは嬉しい。
嬉しいからこそ、危ない。
でも今は、その温かさを否定しないでおこうと思った。
「……うん。落ちないようにする」
「そうしろ」
星空の下、海は静かだった。
静かすぎて、明日の不穏さが逆に際立つ。
凪の環。
中心の門。
星喰みの潮。
たぶん、ここがこの世界のいちばん深いところだ。
ボクは首元の貝に触れる。
赤い彼岸花の髪飾りも、その下で硬く静かだった。
「ねえ、母さん」
口の中だけで呟く。
思い出せない顔へ向ける、曖昧な呼びかけ。
「やさしい歌って、これでよかったのかな」
返事はない。
ただ、潮の匂いだけが夜の風に乗ってきた。
明日、中心へ向かう。
その先で何を見て、何を閉じるのか、まだわからない。
でも、もう後戻りはできない。
星の落ちる海の中心で、きっと何かが待っている。




