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3話「沈んだ祈り場と、忘れかけた歌」

夜が明ける前の海は、青ではなく灰色だった。


空と水の境目が曖昧で、遠くの環礁は霧に沈んでいる。夜通し騒がしかった村も、ようやく疲労の色を隠せなくなっていた。桟橋には昨夜の小さな星の魚を集めた桶が並び、青白い残光がまだ底のほうでゆらゆらと揺れている。


死んだものもいるし、生きて海へ戻されたものもいる。


喰らい付きの死骸は、夜のうちにいくつか沖へ流したらしい。村に置いておきたくないのだとカナが言っていた。わかる。あれを朝まで眺めていたい趣味の人は、たぶんあまりいない。


……ボクは少しだけ観察したかったけど、さすがに言わなかった。


今、ボクは長の家の外、海へ向いた足場に腰かけている。足元では潮が静かに板を撫でていた。日記帳は膝の上に開いているけれど、まだ何も書いていない。


書こうとして、やめる。

また書こうとして、止まる。


南の環礁。

沈んだ祈り場。

魚の光が示した一点。


昨夜から頭の中で、そればかりが繰り返されていた。


「眠れなかったのかい」


声がして振り向くと、カナがいた。髪を簡単にまとめ直し、片手に湯気の立つ器を二つ持っている。さすがに目の下に少し影があった。


「半分くらいは」


「半分も眠れりゃ上等だよ」


そう言って、片方をボクへ差し出してくる。中身は薄い茶色の飲み物で、香ばしい匂いがした。


「なにこれ」


「炒った海麦の湯だ。眠気覚まし」


「海麦」


「海辺に生える草の実だよ」


ひと口飲む。苦味は軽く、後から甘さが来る。たしかに目が覚める感じがした。


「おいしい」


「そうかい」


カナはボクの隣に立ち、海を見る。座らないあたり、まだ完全には気を許していないのだろうし、この人の性格でもあるのだろう。


しばらく二人で黙ったまま、水面を眺めた。


湾の外、昨夜落ちた大きな星の魚は、まだ礁の近くにいる。潮が満ちて体のほとんどは浮いているけれど、傷は深い。小さな星の魚たちが周囲を巡り、時おりその体に触れては離れていく。


「あの子たち、親子みたいだね」


ボクが言うと、カナは少しだけ眉を動かした。


「魚に親子がないとは言わないが、星の魚がどう生まれるのかは誰も知らない」


「ふうん」


「わかっているのは、空から来ることと、海へ戻ろうとすることくらいさ」


「それだけでも十分変だけどね」


「この海じゃ、変なことをいちいち数えていたら暮らせない」


その言葉は、妙にしっくりきた。


世界ごとにおかしなことは山ほどある。そこに生きる人にとっては、それが日常だ。空から魚が降ることも、この村の人たちには「対処すべき現象」であって、驚き続ける対象ではないのだろう。


ボクは器を両手で包む。


「南の環礁、行くんでしょ」


カナがさらっと言った。


「決めつけるなあ」


「行かない顔をしてない」


「セナにも同じこと言われた」


「当たり前だよ」


ボクはむっとしたふりをしてみせたけれど、カナは笑わなかった。代わりに、海の先を見たまま続ける。


「トゥオもガドも、行くべきだと思ってる。魚があれだけはっきり示したんだ。見ないふりはできない」


「カナは?」


「行かせたくない」


即答だった。


ボクは器を持つ手を少し下ろす。「へえ」


「……意外かい」


「少し」


「なぜ」


「だって、カナは見ないふりしない人でしょ」


ようやく、カナがこちらを見た。

その視線は強い。でも怒ってはいない。


「見ないふりと、急いで呑み込まれに行くのは違う」


「呑み込まれに行く、か」


「南の環礁は、沈んでからずっと潮が狂ってる。近づいた舟が戻らなかったこともある。昔の祈り場なんて言っても、今はただの危ない海だよ」


「それでも、魚はそこを示した」


「そうだ」


「なら、行く価値はあるんじゃないかな」


カナは少しだけ目を伏せた。迷っているのだと思う。行くべきだと理解していて、それでも行かせたくない。そういう顔だ。


「……あんたが行くなら、誰かがついていく」


「一人じゃだめ?」


「だめだね」


「ボク、一人でも平気だよ」


「村の海だ。平気かどうかはあんた一人で決めることじゃない」


正論だった。


こういうところ、本当にこの人は強い。


ボクは肩をすくめる。「じゃあ、誰が来るの」


「まだ決めてない。どうせ嫌な顔をするのは決まってるけどね」


「セナ?」


「よくわかったね」


「わかりやすいもん」


ちょうどその時、そのわかりやすい本人が足音を立ててやってきた。


「聞こえてるからな」


「聞こえるように言った」


セナは濡れた髪を片手で払って、露骨に不機嫌そうな顔をした。昨夜の疲れはあるはずなのに、若いぶん回復も早いらしい。


「俺は反対だ。行くとしても昼を待つ。潮が上がりきる前は流れが悪い」


「それはそうだね」とカナ。


「あと、旅人を最初に舟へ乗せるのも反対だ」


「それはボクの操船技術を疑ってる?」


「あるのか」


「少しは」


「余計に不安だ」


セナの言い方が真顔すぎて、ちょっとおかしかった。


カナが器を掲げる。「とにかく朝だ。腹に何か入れて、長のところへ来な。話をまとめる」


そう言って去っていく。せわしない。でも、忙しく動いているほうが落ち着く人なのかもしれない。


セナはその背を見送り、それからボクの隣に、かなり嫌そうな顔のまま腰を下ろした。板がぎしっと鳴る。


「……なんでそんな平気なんだよ」


「なにが?」


「知らねえ海、知らねえ魚、知らねえ化け物だらけだぞ」


「知らないから面白いんじゃん」


「やっぱお前変だよ」


「セナにだけは言われたくないなあ」


「は?」


「怖いのにちゃんと前に出る人は、だいたい少し変だよ」


セナは口を開きかけて、閉じた。


図星だったらしい。


「別に、好きで出てるわけじゃねえ」


「うん。でも逃げないでしょ」


「……村だからな」


短い答えだった。

でも十分だ。


ボクは海麦の湯を飲み干し、器を足元に置いた。


「セナは、この村好き?」


唐突に聞くと、彼は本当に嫌そうな顔をした。


「なんだよその質問」


「なんとなく」


「好きじゃなきゃ、こんな面倒くさいとこ残るか」


「好きなんだ」


「言わせるな」


ぶっきらぼうに返す。でも耳が少し赤い。面白いなあ、この人。


「じゃあ、一緒に行こうよ」


「話飛びすぎだろ」


「村が好きなら、放っておけないんでしょ」


「……お前、そうやって人を丸め込んでんのか」


「え、丸め込めてる?」


「少なくとも気分は悪い」


「それはごめん」


セナは大きく息を吐いた。


「行くよ。どうせ止めても、お前一人で行きかねない」


「かねないね」


「自覚あるならちょっとは反省しろ」


「するする」


「軽い」


軽口の応酬が、昨夜よりだいぶ自然になっていた。

それが少し嬉しかった。


嬉しい、と思ってしまって、ボクはほんの少しだけ自分の胸の奥を警戒する。情が移りすぎないように。長居しすぎないように。何度も言ってきたことだ。


でも、まだ大丈夫。

たぶん。


***


朝食は、焼いた平たい魚と、海麦の粥、それから塩漬けの実だった。


長の家に集まったのは、トゥオ、カナ、ガド、セナ、そしてボク。ミオは当然外されたらしく、戸口の向こうで明らかに盗み聞きしている気配がする。ばればれだ。


トゥオが卓に置いたのは、古い布地の地図だった。


布は幾度も折られて擦り切れ、端は補修だらけだ。そこに青い糸と白い絵の具で、湾と環礁群の位置が描かれている。細い線は潮道だろう。昨夜、星の魚が見せた光の図に、たしかによく似ていた。


トゥオの節くれだった指が、南方の一点を示す。


「ここが南の環礁。今は半分以上沈んでいる。潮が引いた時だけ歯のような岩が見える」


「祈り場があったところ?」


「そうだ」


「何を祈るの」


「海と、空だ」


トゥオの答えは短かった。詳しく話すつもりはなさそうだ。あるいは、うまく言葉にできないのかもしれない。


ガドが口を開く。


「昔は、落ちた星の魚の骨をそこへ納めていたらしい」


「骨を」


「波に還すためだと聞いたことがある」


「へえ……」


骨を海へ還す祈り場。

なんとなく、この世界らしい。


セナが地図の湾外を指した。「今はここらに喰らい付きが出る。昨夜の群れも、おそらくこの流れに乗って入った」


カナが頷く。「だから舟は小回りの利くものを使う。大きいのはだめだ」


「人数は?」


「四人。これ以上は重い」


「ボク、ガド、セナ……あと一人?」


そう言うと、部屋の空気が一瞬だけ止まった。


カナが無表情で言う。「私だよ」


「え」


「え、じゃない」


「いや、来るんだ」


「来るさ。あんたを放り込んで三人で待つと思うのかい」


「思ってなかったけど、反対派だから乗らないのかなって」


「反対だから乗るんだよ」


なんかすごくカナらしい理屈だった。


ガドが苦笑する。「結局こうなると思ってた」


セナがぼそっと言う。「俺も」


トゥオはそれを咎めず、ただボクを見る。


「出るのは昼前だ。潮が一番素直になる刻に合わせる。星の魚がまだそこを示すなら、お前にも来てもらう意味がある」


「わかった」


「だが、ひとつ約束しろ」


老人の声が少しだけ低くなる。


「何かあったとき、好奇心を優先するな」


……それは、なかなか厳しい注文だ。


ボクが曖昧な顔をしたのだろう。カナがすかさず言った。


「できないなら置いていく」


「ええー」


「ええーじゃない」


セナが肩を震わせて笑いをこらえている。ひどい。


ボクはしぶしぶ頷いた。


「……なるべく」


「ちゃんと」


「ちゃんと、善処します」


「不安しかないね」とカナ。


でもそれ以上は追及されなかった。

信じたわけではなく、これ以上言っても変わらないと判断されたのだろう。正しい。


戸口の向こうで、何かが小さくぶつかる音がした。ミオだ。

セナが呆れて戸を開けると、案の定、耳をぴたりと押しつけていたミオが前につんのめった。


「いてっ」


「何してんだお前」


「きいてないよ!」


「聞いてただろ」


「きいてた!」


正直でよろしい。


ミオは立ち上がると、まっすぐボクのところへ来た。そして手のひらをぐっと突き出す。


そこに乗っていたのは、小さな貝殻の飾りだった。薄い黄色の巻き貝に、赤い糸が通してある。


「これ、もってって」


「ボクに?」


「うん。ルゥのうろこ、はいってるから」


「え」


よく見ると、貝の内側に本当に小さな群青色の鱗が一枚、樹脂のようなもので留められている。昨日助けた時に剥がれたものだろうか。


「おまもり」


ミオが真剣な顔で言った。


そういう顔をされると、断れない。


ボクはそっと受け取る。「ありがとう、大事にする」


「なくさないでね」


「なくさない」


ベルトポーチへしまおうとして、少し考え、髪飾りの下あたりに赤い糸を軽く結んだ。赤い彼岸花の髪飾りの近くで、黄色い貝が揺れる。


ミオの顔がぱっと明るくなる。


「にあう!」


「そう?」


「うん!」


カナがそれを見て、ほんの少しだけ目を細めた。何か言いかけて、結局何も言わない。


トゥオが咳払いする。


「準備をしろ。日が高くなる前に出る」


***


出航前、ボクはひとりで湾の外の礁へ向かった。


昨夜の大きな星の魚に会っておきたかったからだ。


見張りの村人が少し緊張した顔をしたが、カナから話は通っていたらしい。止められはしなかった。


潮は朝より満ち、魚の体はほとんど海に浮いている。近づくと、胸鰭がゆるく動いた。生きている。でも弱っている。


「おはよう」


なんとなく声をかける。


魚の巨大な眼がゆっくり開いた。

群青に金の輪。その奥に星屑みたいな光が沈んでいる。


「きみが示した場所、行ってくるよ」


返事はない。けれど、魚の周囲にいた小さな星の魚たちが、くるりと一斉に向きを変えた。ボクのほうを見た……ような気がする。


妙に儀式めいていて、少しだけおかしい。


「もしできれば、もうちょっとわかりやすくしてくれると助かるんだけど」


魚の胸鰭が、微かに揺れる。

その膜に、薄く光が走った。


昨夜ほど鮮明ではない。でも、ひとつだけ形が見えた。


環の中心。

その下へ向かって伸びる線。

まるで、沈んでいく階段みたいな。


「下に、何かある?」


問いかけた時、魚の眼がほんの少しだけ細くなった。


肯定かどうかはわからない。

でも、そう受け取ってしまうには十分だった。


ボクは苦笑する。「ほんとに、わかりやすくはないなあ」


それでも、胸のざわめきは増すばかりだ。


昔々、もっと別の世界で、地下へ沈んだ神殿を見たことがある気がする。いや、海底都市だったかもしれない。あるいは星の落ちた窪地か。そうやって記憶の断片が混ざるから、ボクは自分の古い記憶をあまり信用していない。


けれど、沈んだ場所にはたいてい、何かが残る。


祈りか、後悔か、あるいはその両方。


「じゃあ、行ってくる」


そう言って立ち上がると、魚はもう一度だけ、尾を小さく打った。


見送られたような気がした。


***


舟は、想像していたよりずっと細かった。


長さはあるが幅が狭く、両側に浮き木を備えている。軽く、速く、波を切ることに特化した形だ。底には編んだ縄や網、短槍、鉤、樽、そして青い火の入った小さな灯籠が積まれている。


「落ちるなよ」とセナ。


「子どもじゃないよ」


「見た目がな」


「むっ」


地味にむっとした。

ガドが横で笑う。カナは見て見ぬふりをした。


ボクはトランクをどうするか少し迷ったけれど、今回は村に置いていくことにした。必要最低限のものだけをベルトポーチへ移し、槍だけはいつでも出せるようにしておく。


舟へ乗り込む順番で少し揉めた末、結局、先頭にガド、中央にボクとカナ、後ろに舵を取るセナという配置になった。


「なんでボクが真ん中」


「飛び出させないため」とカナ。


「信用ないなあ」


「あると思うのかい」


ないのは知ってる。


舟が岸を離れる。

櫂が静かに水を噛み、湾の穏やかな水面を進む。村が少しずつ遠ざかっていく。海上の家々、しおよみの塔、青い火の点。ミオが桟橋の先でぶんぶん手を振っているのが見えた。


ボクも振り返すと、セナが呟いた。


「ほんとに懐かれるな、お前」


「ミオが素直なんだよ」


「そういう問題か……」


湾を出ると、海の色がすぐに変わった。

明るい青から、深く鈍い群青へ。

波は高くないが、下から持ち上げるようなうねりがある。舟がそのたびきしむ。


ガドが前方を見据えたまま言う。


「左前。歯岩」


海面すれすれに、鋭い岩が何本も並んでいた。昨日、トゥオが言っていた「歯のような岩」だろう。潮が高い今でも先端だけが見えている。これが引き潮になればさらに危険そうだ。


セナが舵を切る。「見えてる」


カナは周囲を絶えず警戒していた。村では叱る側の人という印象が強いけれど、こうして舟に乗る姿はひどく板についている。たぶん、昔から何度もこういう海へ出てきたのだろう。


ボクは海を覗き込む。


底が見えない。

深い。

それなのに、時折、はるか下を光が横切る。


「星の魚?」


「たまにいる」とガド。


「普段から?」


「普段から。落ちてきたものの全部が死ぬわけじゃない」


「へえ……」


この海は、空から来たものを受け入れている。

あるいは、受け入れざるを得ないのか。


世界に受け入れられている間しかいられない。

ふと、自分のことが頭をよぎった。


ボクも似たようなものかもしれない、と、変なことを思う。

どこから来て、どこへ落ちて、どこまで居ていいのか、いつも自分では決められない。


考え始めると、あまりよくない方向へ行く。

だから海の匂いを吸って、意識を戻した。


「南の環礁って、どれくらい?」


「もう見えてる」とカナ。


前方、霧の切れ目に、低く長い影が浮かんでいた。

環礁、と呼ぶには今は崩れすぎている。円形の名残をわずかに残しながら、ところどころが沈み、ところどころが尖っている。中央には静かな水たまりのような入り江があり、その奥に、黒い縦線が幾つも並んで見えた。


柱だ。


「祈り場……?」


ボクが呟くと、誰も答えなかった。

みんな黙って、その沈んだ場所を見ている。


近づくにつれて、空気が変わる。

風が弱いのに、肌がひやりとする。

潮の匂いに、石の冷たい匂いが混ざる。


しおよみは持ってきていない。

でも、なくてもわかるくらい、この場所はどこかおかしい。


セナが低く言う。「嫌な感じだ」


「うん」


「お前まで同意すんな。余計怖い」


ボクはちょっと笑った。


舟は環礁の外縁を慎重に回り、比較的穏やかな切れ目から内側へ入る。中央の入り江は、驚くほど波がなかった。まるで外海と切り離されているみたいに静かだ。


その静けさの中心に、祈り場の残骸があった。


半分水没した石造りの基壇。

そこから生えたように立つ白い柱。

柱の天辺には、魚の骨を模した彫刻がいくつも絡みついている。いや、模したのではなく、本物の骨が石化しているのかもしれない。


「……すごい」


息が漏れる。


美しい、というのとは少し違う。

でも目を離しにくい造形だった。


ガドが櫂を止める。「ここからは歩く」


浅瀬へ舟を寄せ、膝下ほどの水に降りる。冷たい。底は砂ではなく、細かい白い破片でじゃりじゃりしていた。貝殻と、骨の欠片だ。


ボクは足元を見て眉をひそめる。

骨。

小魚のものではない。もっと大きい。


カナも気づいていたらしい。「踏み荒らすなよ」


「うん」


基壇へ近づくと、柱の根元に彫られた文様が見えてきた。円と波と、いくつもの魚影。古い文字もある。でも、この世界の文字はまだちゃんと読めない。いくつか規則性は見えるけれど、解読には時間が要る。


「読める?」とカナ。


「まだ無理」


「まだ、ってことは、いつかは?」


「たぶん」


「便利だね、旅人」


「便利でもないよ。時間かかるし」


時間。

自分には有り余っているはずのもの。


そう思った瞬間、ふいに胸の奥に空洞みたいなものが広がった。何千年、何万年とあったはずの時間のうち、思い出せるものはごく一部だ。あるのに、ない。持っているのに、零れている。


気を抜くと、その感覚に飲まれる。


ボクは柱へ手を伸ばした。

冷たい石肌。潮で磨かれ、ところどころ滑らかになっている。


その時だった。


黄色い貝のお守りが、ちり、と鳴った。


小さな、乾いた音。


ボクははっとして首元に触れる。ミオにもらった貝殻が、ほんのり温かかった。


「アウリィ?」


カナの声。


返事をする前に、足元の水面へ波紋が広がる。


一つ。

二つ。

円形に、基壇のまわりを取り囲むように。


ガドが槍を構える。「来るぞ」


でも浮かび上がってきたのは喰らい付きではなかった。


群青色の小魚たち。

十匹、二十匹、もっと。

昨夜の星の魚の子どもたちか、それに似たものたちか。光る鱗を揺らしながら、水面すれすれをくるくると回っている。


「ルゥ?」


思わず言うと、そのうち一匹がひときわ大きく跳ねた。


たぶん、そうだ。


ルゥは舟の周りを一周し、それから基壇の奥へ向かって泳いだ。ほかの群れもそれに続く。


「案内してるみたいだね」とボク。


セナが顔をしかめる。「魚に案内されるの、なんか複雑だな」


「かわいいじゃん」


「お前は気楽でいいよな……」


でも、セナもついてくる。みんな、結局は同じものを見ている。

知らないものに導かれる不安と、それでも目を逸らせない感じ。


基壇の奥には、水面下へ沈む階段があった。


昨夜、魚が見せた光のとおりだ。


石段は海藻に覆われ、ところどころ崩れている。下は暗く、どこまで続いているのかわからない。水は澄んでいるのに、そこだけ底が見えない。


カナが舌打ちした。「こんなの、今まで見えたことなかったよ」


「昨日までは沈んでたのかも」とガド。


「昨日の裂け目で潮が変わったのかもね」とボク。


セナがちらりとこちらを見る。「好奇心優先すんなって言われたの覚えてるか」


「覚えてるよ」


「その目がもう怪しい」


「そんなに?」


「そんなにだ」


カナは階段を見下ろし、静かに息を吐く。


「降りる」


「即決だね」


「ここまで来て見ないなんて選べないよ」


さっきボクに言ったことと、あまり変わらない。

思わず笑いそうになって、でも堪えた。


「ただし、私が先」


「えー」


「えーじゃない」


結局それだ。


ガドが前衛、カナがその後、ボク、最後尾がセナという並びになった。階段は狭く、二人並ぶのは難しい。


一段、また一段、海水の中へ降りていく。


最初は膝まで。

次に腿。

腰。

冷たさがじわじわ上がってくる。でもマントの加護のおかげで身体の芯までは冷えない。ありがたい。


途中でふと気づく。

息苦しくない。


「……あれ」


「どうした」とセナ。


「ここ、水の中なのに、呼吸が楽」


カナが短く言う。「祈り場の下は昔からそういう場所だと言われてる」


「先に言ってよ」


「自分で気づいただろ」


たしかに。


さらに降りると、水面が頭上へ移った。

でも濡れていない。

いや、濡れてはいるのだけど、周囲に薄い膜みたいなものがあって、海水を押しのけている。


水の底に空間がある。


「すごいなあ……」


思わず足を止める。

石壁には青白い苔が生え、柔らかい光を放っていた。階段の先には広間があり、柱が並んでいる。天井は半ば崩れ、そこから海水が糸のように垂れているのに、床まで届く前に霧となって消えていた。


幻想的、という言葉で片づけるには、少し古びすぎている。

きれいだけれど、長く忘れられていた場所の匂いがする。


「……祈り場だ」


ガドの声が低く響いた。


広間の奥、祭壇らしき場所には、大きな魚の頭骨が安置されていた。星の魚のものだろう。長い吻、弓なりの顎、幾重にも重なる透明な骨板。周囲には小さな骨も積まれている。供物のように、丁寧に。


その祭壇の前に、人影があった。


ボクたちは一斉に止まる。


人影は白い衣をまとい、長い髪を垂らしている。

背を向けて、祭壇に手を触れていた。


「誰だ」


セナが鋭く問う。


影が、ゆっくり振り返る。


若い女だった。

年はカナより少し下くらいか。肌は青白く、髪は濡れた銀。目は閉じているのに、こちらを見ている感じがする。足元は水に溶けるみたいに曖昧で、完全には立っていない。


人ではない。


そうわかるのに、恐怖より先に、ひどく懐かしい気配がした。


「……遅かった」


女が言った。


声は、歌みたいに響いた。

水の底で鳴る鈴の音に近い。


「星の子が傷ついている。空路が裂け、海路が喰われているのに」


カナが槍を構える。「何者だい」


女は答えず、かわりにボクを見た。

いや、目は閉じたままなのに、やっぱりボクを見た。


「渡る子」


胸が、どくりと鳴る。


その呼び方は、この世界の誰も知らないはずだった。


ボクは無意識に一歩前へ出る。セナが「おい」と低く止める気配があったけれど、足が止まらない。


「……ボクを知ってるの?」


女の唇が、わずかに笑みの形になる。


「全部は知らない。けれど、あなたのようなものを待つように、祈りはここへ残された」


待つ。

祈り。

残された。


言葉のひとつひとつが、古い記憶のどこかに触れそうで、触れない。


頭の奥で、すり減った頁がめくれるような感覚がした。

黄色い花。

誰かの手。

歌。

それから――


「アウリィ!」


カナの鋭い声で、意識が戻る。


女の周囲の水が、ざわりと揺れていた。祭壇の影から、細い黒いものが何本も這い出してくる。海藻ではない。骨のように節くれだった腕。喰らい付きの背骨に似た、不快な質感。


ガドが前へ出る。「話は後だ!」


女は目を閉じたまま、悲しそうに言った。


「急いで。もう底が開く」


その瞬間、祭壇の下から鈍い音が響いた。


ごご、と地の底が唸る。

広間全体が揺れる。

柱の一本に亀裂が走り、青白い苔の光がぱらぱらと降る。


「まずい!」


セナが叫ぶ。


祭壇の足元、床石の継ぎ目から、暗い水が逆流するように噴き出していた。黒い、星のない夜みたいな水。その中に、いくつもの青白い目が開く。


喰らい付きじゃない。

もっと大きい。

もっと深いものだ。


ボクはぞわっと背筋が粟立つのを感じた。


見たことがある気がした。

どこか遠い昔、似たような「底の開く場所」を。

でも、思い出すより早く、現実が迫ってくる。


カナが怒鳴る。「アウリィ!」


「うん!」


反射で槍を引き抜く。


白銀の穂先が、青白い祈り場の光を弾いた。


沈んだ祈り場の底で、何かが目を覚まそうとしている。

そして女は、まだ目を閉じたまま、歌うように告げた。


「骨の門を閉じなさい。さもなくば、星を喰む潮がここへ満ちる」


意味はわからない。

でも、わからないままで済ませていい声じゃなかった。


世界がまた、きしみ始めている。


ボクは槍を構え、揺れる床を踏みしめた。

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