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2話「喰らい付きの骨、灯る潮」

桟橋を蹴った瞬間、足裏から伝わる感触が変わった。


木のたわみ。

潮で湿った板の滑り。

その先にある、礁へ向かって吹きつける強い風。


ボクは走りながら一度だけ槍を握り直した。白銀の柄はいつだって同じ重さで、同じ冷たさだ。世界が変わっても、この感触だけはあまり裏切らない。


正面では、黒い影――喰らい付き、と呼ばれたそれが、落ちた星の魚の腹へ頭を突っ込もうとしていた。縦に裂けた口が何度も開閉し、そのたび青白い内光が脈打つ。背の骨は濡れた刃みたいに海面から突き出し、波を切るたび不快な音を立てていた。


「アウリィ!」


後ろでカナが叫ぶ。制止ではなく、半分は驚き、半分は怒りの声だった。


でももう止まれない。


こういう時、考えることは少ないほうがいい。何を守るか、どこを断つか、それだけだ。


礁へ渡る最後の板は波で半ば沈み、先は砕けていた。普通に飛べば届く。けれど着地の先が濡れた岩では、そのあとが難しい。


ボクは空いた左手をひらいた。


「少しだけ」


風に呼びかける。


この世界の精霊は、水より風のほうがいくらか素直だった。見えない手が背を押す。跳躍の勢いがわずかに伸びる。岩に足先が触れた瞬間、体を低く沈め、滑る勢いを腰で殺す。


よし。


喰らい付きがこちらへ気づくより早く、間合いへ入る。


近くで見ると、なおさら魚ではなかった。鱗ではなく硬い皮膜。目はなく、代わりに顔の側面に幾筋もの裂け目があり、そこがひくひくと動いている。感覚器官なのだろう。落ちた星の魚の光に惹かれているのか、あるいは血の匂いか。


「こっちだよ」


声をかける。


喰らい付きの裂け目が一斉にこちらを向いた。


次の瞬間、突進。


速い。


水中の生き物特有の直線的な速さではない。礁を這うように、跳ねるように、異様な細かい切り返しを混ぜて迫ってくる。初見殺しだ。村の人が嫌がるのもわかる。


ボクは半歩だけ退き、槍を横へ流した。


骨の背が穂先と擦れ、火花の代わりに青い燐光が散る。硬い。まともに突けば浅い。


喰らい付きはそのままボクを噛み砕くつもりだったらしく、開いた縦口が目前まで迫った。口内の青白い光が脈打つたび、喉の奥に針のような歯が何列も見える。


「趣味の悪い口だなあ」


ぼやきながら、ボクは槍の石突きで岩を突いた。反動で身体をわずかに浮かせ、噛みつきを紙一重で外す。そのまま槍の柄を捻り、喰らい付きの下顎――顎と言っていいならだけど――に沿って穂先を滑り込ませる。


感触は硬い皮膜、次いで柔らかい内側。


喰らい付きが痙攣し、体を大きく振った。青白い液が飛ぶ。


「アウリィ、離れろ!」


ガドの声。


振り向く余裕はない。喰らい付きの背骨めいた突起が一斉に逆立ち、びり、と空気が震えた。嫌な予感がして、ボクは槍を引き抜きながら横へ飛ぶ。


直後、背骨の先から青い火花が散った。


礁が弾ける。


「わっ」


岩片が頬を掠めた。熱はないのに、皮膚がしびれる。電撃に近いけれど違う。空気よりもう少し粘る感じ。世界によってはこういう「魔法と呼ぶしかない現象」によく出会うけれど、毎回あんまり嬉しいものではない。


桟橋の端まで来たガドが網を振りかぶる。


「頭を上げさせる!」


「うん!」


セナは後方で長い鉤を構えていた。村人たちも集まり始めている。みんな手慣れている。怖がってはいても、怯えて固まるだけではない。


ガドの網が飛ぶ。


重りのついた太い網は喰らい付きの上半身を包み、骨の突起へ絡みついた。喰らい付きがのたうち、網がみしみしと悲鳴を上げる。普通の繊維ではない。海藻か、筋か、ずいぶん強い。


セナが鉤を打ち込む。


「せえっ!」


鉤は喰らい付きの肩口へ刺さり、わずかに引きを止めた。その一瞬で、ボクは喰らい付きの正面へ回り込む。


口の内側は柔らかい。

でも不用意に近づけば、今度こそ噛まれる。


だったら――


ボクは深く息を吸い、槍を真っ直ぐ構えた。


「ごめんね。ちょっと派手にいくよ」


誰に向けたかわからない言葉だった。喰らい付きか、村の人たちか、それともこの海そのものか。


穂先に淡い光が集まる。


大規模な術を使うほど精霊との親和は高くない。けれど一点に絞るくらいなら足りる。水際で、流れを借りて、圧を通す。


「穿て」


突き。


穂先が空気を裂くのと同時に、圧縮された水の槍が重なって走った。見えない衝撃が喰らい付きの縦口へ叩き込まれ、内側から頭部を破裂させる。


鈍い、湿った音。


青白い光が一度だけ明滅し、喰らい付きの体が大きく跳ねた。網が千切れ、尾が礁を打つ。ボクは飛び退く。ガドとセナも反射的に身を引いた。


数拍遅れて、黒い体が崩れるように海へ沈んでいった。


静寂。


いや、静寂ではない。みんな息を呑んでいるから、そう感じただけだ。波は相変わらずうるさいし、しおよみはまだ細く鳴っている。


ボクは槍を下ろした。


「……終わった?」


セナが呆然と答える。


「たぶん……」


ガドはすぐに気を抜かなかった。礁の縁まで出て海面を見張り、それからようやく大きく息を吐く。


「沈んだな」


ボクもそこで振り返った。


落ちた星の魚は、まだ生きていた。


礁に半身を乗り上げ、傷だらけの体をわずかに上下させている。近くで見ると巨大だ。家一軒とまではいかないが、小舟よりはずっと大きい。胸鰭の端は薄く透けていて、星図みたいな細かい光が走っている。目は半ば閉じていた。


さっきボクを見た眼だ。


「……生きてる」


思わず呟くと、桟橋から村人たちのざわめきが起きた。


「本当に」

「落ちたのに」

「まだ息が――」


カナが前へ出てきた。顔は強張っている。


「誰も近づくんじゃないよ」


そう言いながらも、自分は近づいてくる。こういう人だ。言うだけ言って他人任せにしない。


ボクは槍を消し、魚の側へゆっくりしゃがんだ。魚の体表からは微かな熱があった。海水より少し高い。傷口は抉られ、銀色の血が細い糸みたいに流れている。触れれば指先で光が溶けそうだった。


「アウリィ」


カナの声がすぐ後ろで止まる。


「何をするつもりだい」


「まだ決めてない」


「決めてないで触るんじゃないよ」


「だって、死にそうだし」


「だからだ」


カナの声音には苛立ちだけじゃなく、恐れがあった。


ボクは手を引っ込め、彼女を見上げる。「星の魚に触ると、なにかあるの?」


カナは答えに少し間を置いた。


「……昔、落ちた魚を解体した者が、三日ほど眠ったまま起きなかった」


「へえ」


「起きたあと、自分の名も家も忘れていた」


「うわ」


「笑いごとじゃない」


「笑ってないよ」


半分は驚き、半分は興味だった。たぶん顔にはかなり出ていたと思う。カナがますます嫌そうな顔をする。


ガドが近くへ来て、魚を見下ろした。


「この大きさは久しぶりだ。しかも生きて落ちるなんて」


セナも息を整えながら追いつく。「どうすんだ。殺すのか」


ミオが桟橋の向こうから叫ぶ。


「だめ!」


カナがきつく振り向く。「ミオ!」


でもミオは泣きそうな顔で続けた。


「だってかわいそうだよ!」


子どもの言葉は時々、いちばん困るところを刺してくる。


かわいそう。


たしかにそうだ。空から落ちて、喰らい付きに食われかけて、今もほとんど息も絶え絶えだ。けれど、かわいそうだから生かせるかは別の話になる。危険かもしれないし、村に災いをもたらすかもしれない。


ボクは魚の眼を見る。


半分閉じたその眼が、かすかに動いた。視線が合った気がした。


知らないものに情を移しすぎないように。

長居しすぎないように。

旅を続けるうちに、自分で自分へ何度も言い聞かせてきた。


それでも。


「……少しだけ、試してもいい?」


ボクが言うと、カナの眉間にしわが寄る。


「何を」


「助かるかどうか」


「危険だと言ったろう」


「直接深く触れない。たぶん大丈夫」


「たぶんで困るんだよ」


ごもっともだ。


でも、やめろと強く言い切らないあたり、この人も迷っているんだろう。ガドは腕を組み、セナは魚とボクとを交互に見ている。


ボクは続けた。


「この世界の精霊、星の魚とは相性がいいかもしれない」


「かもしれない」


「うん」


「また曖昧だね」


「はじめて見るものだからね」


ボクが正直にそう言うと、セナが半ば呆れたように笑った。「こんな時にまでそれ言うか」


「だって本当だし」


カナは目を閉じ、短く息を吐いた。それからガドに言う。


「もし何か起きたら、アウリィごと引き離しな」


「わかった」


許可、ではない。

でも不許可でもない。


十分だった。


ボクは魚の傷の少し上、鱗の欠けていない部分に手をかざした。直接触れない。熱と光の流れだけを見る。


目を閉じる。


海が近い。空の裂け目がまだ完全に閉じていないせいか、潮の気配に別のものが混じっている。遠い、冷たい、夜の匂い。世界の外側を撫でるような感触。


魚の内側には、その冷たさが深く食い込んでいた。

落下の衝撃だけじゃない。

何かに追われ、噛まれ、削られ、それでもここまで来たような傷だった。


「……きみ、どこから来たの」


もちろん返事はない。


けれど、指先にぴり、と微細な震えが返った。


相性は、悪くない。

少なくとも拒絶はされていない。


ボクは海風に髪を揺らされながら、静かに精霊へ呼びかけた。


「縫うんじゃなくて、寄せるだけ。流れを戻して」


水の精霊はやっぱりよそよそしかった。露骨に嫌がってはいないけれど、こちらの言葉をそのまま聞き入れるほど親しくはない。だから頼み方を変える。命令じゃなく、相談に近く。


傷口の周囲で、銀色の血がゆっくり留まり始める。

海水が膜のように集まり、鱗の欠けた縁を撫でる。


魚の体が、びくりと震えた。


「アウリィ」


カナの声が少し低くなる。「何か変だよ」


ボクも感じていた。


魚の内側にある冷たい気配が、こっちを見ている。


いや、魚そのものじゃない。

もっと奥。もっと遠いところにつながる何か。


視界の裏側で、暗い海が見えた気がした。


月も星もない黒い水。

そこを、数えきれないほどの光る魚が群れで泳いでいる。

そのさらに下で、巨大な影が口を開いて――


「っ」


ボクは反射的に手を引いた。


同時に、魚の傷口から銀光が噴いた。

村人たちが悲鳴を上げる。ガドが前へ出る。セナが鉤を構える。カナがミオを庇うように抱き寄せた。


でも魚は暴れなかった。


ただ、胸鰭を一度だけ大きく広げた。


ひらいた膜に、無数の光点が浮かぶ。

まるで夜空だ。


その光が波打ち、何かの形を描いた。


線。

円。

弧を描く幾つもの環。


ボクは息を呑む。


地図だ。


海図というより、空図に近い。

環礁の位置。潮の流れ。湾の外にある岩礁群。

そして、さっき空に開いた裂け目に似た印が、いくつかの場所に灯っては消える。


「なんだい、それ……」


カナが呆然と呟く。


ガドは目を凝らし、低く言った。「潮道か?」


セナが首を振る。「違う。こんなの見たことねえ」


魚の眼が、もう一度ボクを見た。


助けて、ではなく。

見ろ、とでも言うように。


次の瞬間、光はふっと消えた。胸鰭が崩れるように礁へ落ちる。魚の呼吸はさらに浅くなった。


「おい!」


ガドが踏み出す。


ボクははっとして再び手をかざした。今度は無理に奥を覗かない。表面だけ、痛みを散らすように。流れを整えるだけ。荒れた水面を鎮めるみたいに。


しばらくして、魚の体の震えがわずかに収まった。


完全には助かっていない。けれど、今すぐ死ぬほどでもなくなったように見える。


ボクは息を吐いた。思ったより疲れていたらしい。膝が少し重い。


「……応急処置くらい」


「応急処置であれをやるのかい」


カナの声には疲労が混じっていた。怒っているのか呆れているのか、たぶん両方だ。


セナが魚を指さす。「今の、みんな見たよな?」


村人たちのざわめきが一段高くなる。


「光ってた」

「地図みたいな」

「環礁の並びだ」

「裂け目の印も――」


カナは即座に振り向き、声を張った。「見たものを勝手に言い広めるんじゃないよ! 長の家へ集まりな!」


どうやらカナはそれなりの立場どころではなく、かなり中心にいる人らしい。人々はざわつきながらも従い始める。


ミオだけがまだ魚を見つめていた。


「アウリィ。ルゥのときみたいに、なおる?」


小さな声だった。


ボクは少しだけ困って、でも嘘はつかなかった。


「すぐには無理かな」


「そっか」


「でも、まだ生きる気はあるみたい」


ミオはそれを聞いて、少しだけほっとした顔をした。


カナがこちらへ戻ってくる。


「ガド、見張りを。セナ、若いのを集めて礁の周りを固めな。喰らい付きが一匹だけとは限らない」


「了解」

「わかった」


二人が散る。


カナはボクを見る。海風で髪が乱れていたが、そんなことを気にする様子はない。


「アウリィ」


「うん」


「あんた、何者だい」


さっきも似た問いはあった。けれど今のそれは、もっと重い。


魔術師か、旅人か、危険人物か。

そういう分類では収まらない何かを見た、という顔だ。


ボクは少し考える。


答え方はいくつもある。

でも、どれも正確じゃない。


だから正確じゃないまま、いちばん近いところだけを口にした。


「通りすがりの旅人だよ」


カナは無言で見つめてきた。

それから、ふっと力なく笑った。


「今まで聞いた中で、いちばん信用できない旅人だね」


「えー」


「えーじゃないよ」


でも、その口調にはさっきより棘がなかった。


***


夕方、ボクは長の家と呼ばれた建物の隅に座っていた。


村の中心にある、海上の大きな家だ。床板は広く、天井は高い。壁には色褪せた布が何枚も下がり、そこに環や波、魚の紋が刺繍されている。風が抜けるたび、その布が静かに揺れた。


中央ではカナと、年配の男女が数人、低い声で話し込んでいる。

ボクは部外者なので、隅に置かれている。

まあ当然だ。


追い出されないだけまし、と言うべきかもしれない。


木杯に入った薄い果実酒の匂いが漂う。誰も飲んでいる余裕はなさそうだけど。緊張した空気の中、ミオだけがこそこそと近づいてきた。


「アウリィ」


「ん」


「これ」


差し出されたのは、焼いた貝だった。殻を開いて、香草のようなものを載せてある。湯気が立っていた。


「くれるの?」


「うん。おばが、アウリィにもって」


「カナが?」


「ほんとはぼくがたべたかった」


「そっちか」


ミオがにっと笑う。


ボクも笑って、貝を受け取った。熱い。ふうふうしてから口に入れると、濃い旨味が広がる。少しだけ苦い葉の香りが後味を引き締めていて、おいしい。


「おいしい」


「でしょ!」


食べ物は強い。知らない場所でも、それだけで少し心がほどける。


ミオはボクの横に座り、膝を抱えた。


「ねえ、アウリィ」


「うん」


「空のさかな、しってた?」


「知らなかった。今日初めて見たよ」


「ほんとに?」


「ほんとほんと」


「じゃあ、びっくりした?」


「すっごくびっくりした」


「ぼくも、はじめて見たとき、びっくりした」


ミオは得意げに鼻を鳴らした。初めて見た時の自分を思い出している顔だ。


「でも、きれいだった」


「うん」


「こわいけど、きれい」


その言葉に、ボクは少しだけ目を見開いた。


さっきボクが感じたことを、そのまま小さい口で言われた気がしたからだ。


「……そうだね」


「アウリィもおもった?」


「思った」


「いっしょだ」


ミオは嬉しそうだった。


あんまり、いっしょだと喜ばないほうがいいかもしれないよ、と一瞬思って、でも言わなかった。知らないものを見てきれいだと思ってしまうのは、たぶん悪いことばかりじゃない。そこから無茶をするかどうかが別問題なだけで。


いや、ボクはそこがだいぶ怪しいんだけど。


ミオが声をひそめる。


「あのね、ルゥがいうの」


「ルゥが?」


「よるのうみ、たまにおとがするって」


「魚が言うの?」


「うん」


「ミオ、魚と話せるの?」


「ちょっとだけ」


さらっとすごいことを言った。


ボクが見つめると、ミオは首を傾げる。


「みんな、ちょっとはわかるよ?」


「ほんとに?」


「うーん……おばは、わかんないっていう。ガドは、はらへったしかわかんないっていう。セナは、うるさいっていう」


「セナはそう言いそう」


ミオがくすくす笑う。


完全な会話ではなくても、気配や感情を読むのが得意なのだろう。海で暮らす人たちにはそういう者がいてもおかしくない。精霊術とも違う、もっと生活に近い感覚として。


「それで、どんな音?」


「んー……たべる、おと」


ミオの声が少し小さくなった。


「たべる?」


「うん。おおきいのが、ぱくってするみたいな」


その表現に、礁で見た光景が脳裏によぎる。

喰らい付き。

縦に裂けた口。

星の魚の抉れた胴。


ボクは貝殻をそっと床に置いた。


「前から、そういうのあったの?」


「わかんない。さいきん、よくルゥがにげてる」


「ルゥが」


「うん。いつもは、ぼくがよぶとくるのに、ちかごろはそわそわしてる」


ミオが不安そうに唇を噛む。


それ以上聞こうとした時、中央の話し合いが終わったらしく、カナがこちらへ来た。ミオはすぐに居住まいを正す。やっぱりちょっと怖いんだろう。


「アウリィ、来な」


「ボク?」


「他に誰がいる」


「いるけど」


でも立ち上がる。トランクは壁際に置いたままだ。槍は今はしまってある。


中央には、白髪混じりの老人が待っていた。痩せているが、背はしゃんとしている。腕に青い刺青の環が幾重にも入っていた。眼は淡い灰色で、海霧みたいな色だった。


「この方が長だよ」とカナが言う。


老人は小さく頷いた。


「私はトゥオ。話は聞いた、旅人」


「アウリィだよ」


「ではアウリィ」


名を言い直してくれたのは好印象だった。


トゥオはボクの顔をしばらく見て、それからゆっくり言った。


「お前には二つ、頼みたいことがある」


「いきなりだね」


「いきなり頼まねばならんほど、村に余裕がない」


そう言われると、軽口を挟みにくい。


ボクは頷いた。「聞くだけ聞くよ」


「ひとつ。あの星の魚を今夜、見張ってほしい」


「今夜?」


「喰らい付きは夜に増えることがある。村の者だけでは手が足りぬ」


それはまあ、わかる。

戦える者が多いわけではなさそうだし、さっきのでボクが使えることも見せてしまった。


「もうひとつは?」


トゥオの灰色の眼が、少しだけ細くなる。


「魚が見せた光の図。あれを、もう一度見られるなら見たい」


ボクは黙った。


それは頼みごとというより、半分は探りだ。

ボクがどこまで関われるか、どこまで手を出せるかを測っている。


カナが腕を組んだまま言う。


「無理にとは言わない。ただ、裂け目の印が湾の外にいくつも見えた。もしあれが本当に場所を示しているなら、今後の潮漁や見張りを変えなきゃならない」


ガドも口を開く。


「最近、沖の様子がおかしい。魚群が逃げる。網が破られる。空だけじゃなく海の下でも何か動いてる」


セナが不機嫌そうに付け足す。


「で、そこに急に現れた得体の知れねえ旅人が、星の魚を落ち着かせた」


「疑ってる?」


「疑うだろ、そりゃ」


「うん、そうだね」


素直に返すと、セナはまた少し言いにくそうな顔をした。


ボクは考える。


本来なら、ここで深く関わりすぎるのは避けたい。世界に居られる時間は限られているし、去る時に後を引く形はあまり良くない。誰かの問題を解決しきれないまま姿を消すのは、残された側にも、自分にも、あまり優しくないから。


でも、見てしまった。

しかも、たぶんこれは偶然じゃない。


空の裂け目。

星の魚。

喰らい付き。

そして魚が見せた環の地図。


この世界は今、どこかで歪んでいる。


そういう歪みは、放っておくとたいてい面倒なことになる。


「一つ、条件」


ボクが言うと、カナが眉を上げた。


「条件?」


「ボクにも村のことを少し教えて。全部じゃなくていいけど、知らないままじゃ動きにくい」


トゥオは静かに頷いた。


「妥当だ」


「あと、子どもは今夜ちゃんと寝かせて」


ミオが「えーっ」と声を上げる。


ボクは振り返って言った。「だめ。夜の海は危ない」


「アウリィがいるのに?」


「ボクがいても危ないものは危ない」


ミオは不満そうに頬を膨らませる。ちょっとかわいい。ちょっとだけ。


カナがその頭を軽く叩いた。「聞いたろ」


「はーい……」


トゥオがかすかに笑った。


「では決まりだな」


ボクは頷く。


「見張りはやる。光の図は……できるかはわからない。でも試すよ」


「それでいい」


話はそこでいったん終わったらしい。大人たちがまた別の相談を始める。夜の配置、網の用意、火の位置、湾の閉じ方。実際的な話ばかりだ。


ボクはその輪から少し離れ、壁際へ戻った。


そこでようやく、ベルトポーチから小さな日記帳を取り出す。


革表紙は柔らかく、角はだいぶ擦れている。

開くと、ところどころ紙の色が違う。世界ごとに増えていった頁たちだ。


炭筆を走らせる。


――新しい世界。海上に村を作る人々。

――空から魚が落ちる。星の魚と呼ぶ。

――黒い捕食者あり。喰らい付き。

――村の者は海と共に生き、海を恐れてもいる。

――今日助けた小魚の名はルゥ。子ども、ミオの友達。


そこまで書いて、少し止まる。


続けて、


――星の魚の眼は、どこか懐かしかった。


と書きかけて、手が止まった。


懐かしい。


何に?

どこで?

いつ?


古い記憶は時々、端だけ浮いてきて、肝心なところが白く削れている。夜空を泳ぐものを見たことが、昔あった気がする。あったとしても、同じものとは限らない。旅を長くしていると、似た景色はいくらでもある。


ボクは結局、その一文を細く線で消した。


思い出せないものを、わかったように書くのは好きじゃない。


代わりに新しく書く。


――今夜、見張り。無茶はほどほどに。


自分で書いて、自分でちょっと笑う。

ほどほどに、で済むなら苦労しない。


***


夜は、思ったより冷えた。


村のあちこちに青い火が灯される。油ではなく、何かの発光苔か、海獣の脂に鉱石を混ぜたものかもしれない。炎というより光の塊に近く、風に揺れてもあまり赤くならない。


ボクは礁へ近い桟橋の先に立っていた。

横にはガド。

少し離れてセナと若い男たちが網を持ち、さらに後方にはカナがいる。トゥオは村中央に残った。


湾の外では、あの星の魚がまだ礁に身を預けている。

潮が満ちてきて、昼より少し浮きやすくなっていた。回復しているのか、それともただ波に持ち上げられているだけか。


空は晴れている。

星が異様に多い。

そして、その星々の合間に、ときどきほんの短く、暗い筋が走る。


「……あれ、いつもあるの?」


ボクが空を見たまま尋ねると、ガドが同じ方向を見上げた。


「ああいうのか」


「うん」


「最近増えた」


最近。

やっぱりか。


ガドは腕を組み、低い声で続けた。


「昔は、しおよみが鳴るのは季節に一度あるかどうかだった。だがここ数年、回数が増えた。落ちる魚も、喰らい付きも」


「数年」


「その顔は、長いとか思ってないな」


「うーん……」


ガドが横目で見る。「思ってるだろ」


「少しだけ」


「正直だな」


「取り繕っても仕方ないし」


ガドは短く笑った。昼よりいくらか打ち解けた気がする。


「お前、変だが、嫌な感じはしない」


「それ褒めてる?」


「半分くらいは」


「微妙だなあ」


しばらく沈黙。波音。木の軋み。遠くで誰かが網を引きずる音。


ガドがぽつりと言った。


「カナがな、昔、落ちた魚の光を見たことがある」


「え」


「若い頃だ。今みたいに大勢の前じゃない。たった一人で、浜にいたときらしい」


「それで?」


「詳しくは話さない。だが、そのあとしばらく熱を出したそうだ」


ボクは昼間のことを思い出す。魚の内側に触れたとき見えた、黒い海。もしあれを深く見すぎれば、ただで済まないのかもしれない。


「……カナは、それでも今ここにいるんだね」


「いる。誰よりも海を見てる」


ガドの言い方には信頼があった。


前方で、星の魚がわずかに身じろぎする。

その拍子に鱗が光り、夜の海へ金銀の欠片が散った。


きれいだ。


本当に、困るくらい。


その時、風向きが変わった。


海からではなく、上から冷たい空気が落ちてくる。

ボクは顔を上げる。星空の一角が、ほんのわずかに歪んでいた。


「ガド」


「ああ、見えた」


しおよみの音が遠くで鳴り始める。かあん、かあん、と、昼より低く長い。


セナが叫ぶ。「来るぞ!」


村の若者たちが網を構える。カナが後方で指示を飛ばす。


空の歪みは裂け目になる前に、唐突に横へ広がった。

黒ではなく、今度は青。

深海の底を切り取って貼ったみたいな色。


その青の向こうで、何か巨大なものがうごめいた。


魚影。

一つではない。

群れだ。


「……落ちる」


ボクが呟いた瞬間、青い裂け目から無数の光がこぼれた。


小さな星の魚たち。


何十、いや百はいる。

手のひらほどのものから腕ほどのものまで、青白く光る魚が雨のように降ってくる。湾の外、内、桟橋の上、屋根の上。ばしゃばしゃと音を立てて落ち、人々が悲鳴と怒号をあげる。


「うわ、すごいな!」


つい声が弾んだら、ガドに睨まれた。


「喜ぶな!」


「ごめん!」


でもすごいものはすごい。


小魚たちは落ちてもすぐには死なず、ぴちぴちと跳ね回る。その光が村じゅうに散って、まるで星空が砕けて降ってきたみたいだった。


幻想的で――


そして、その光を追うように、海面がいくつも盛り上がる。


喰らい付きだ。


一匹、二匹、三匹。

昼のより小型だが数が多い。青白い小魚を狙って、桟橋の下から跳ね上がってくる。


「うわ、こっちは全然きれいじゃない!」


ボクは槍を呼び出した。


ガドが網を投げ、セナが鉤で迎え撃つ。村の若者たちも棒や短槍で応戦する。小型とはいえ、歯は同じだ。噛まれればただじゃ済まない。


一匹が桟橋へ飛び乗り、若い男の脚へ喰らいつこうとする。

ボクはその前へ滑り込み、槍の柄で下から弾き上げた。軽い。空中で体勢を崩したところへ穂先を横薙ぎに入れる。黒い皮膜が裂け、青白い液が散る。


「右!」


セナの声。

振り向きざま、もう一匹。今度は低い。飛ぶより滑るように足元へ来る。ボクは片足を引き、柄の中ほどで叩く。甲高い音。硬い。でも押し返せる。


ガドの網が覆いかぶさる。

「刺せ!」


「うん!」


網越しに穂先を差し込み、喰らい付きの喉元を貫く。小型はこれで十分だった。


一方、村の中では小魚を桶へ集める者たちもいる。

食料にするのか、放すのか、まだわからない。でも放置できないのだろう。


ミオが家の隙間から顔を出しているのが見え、カナが怒鳴る。


「引っ込んでな!」


「でも、ルゥが――」


「ルゥなら海だ!」


こんな時でもルゥの心配をしているらしい。ある意味大物だ。


ボクはもう一匹を突き伏せながら、湾の外へ視線を走らせる。


大きな星の魚が、ゆっくりと頭を上げていた。

その周りに、小さな星の魚たちが集まっていく。まるで親のもとへ戻る子どもみたいに。


「あ」


思わず漏れる。


それはきれいな光景だった。

けれど次の瞬間、その外縁を黒い影が円を描いて回るのが見えた。


喰らい付きの群れ。

まだいる。


しかも――


「ガド、下!」


ガドが反応するより早く、桟橋の真下から一際大きな喰らい付きが突き上がった。板が割れる。ガドの体勢が崩れる。落ちる。


ボクは反射で手を伸ばした。

間に合わない。


その瞬間、海面が金色にひらめいた。


群青の背。


ルゥだ。


昼に助けた魚が、桟橋の下から飛び出し、喰らい付きの横腹へ体当たりした。大きさは全然足りない。でも勢いは十分だった。喰らい付きがわずかに逸れ、その隙にガドが割れた板へ肘を引っかける。


「くっ……!」


ボクは槍を投げた。


白銀の軌跡が喰らい付きの背へ突き刺さる。骨の間、柔らかい継ぎ目。大きな個体が苦鳴のような音を立て、海中でもがいた。


ガドが這い上がる。

セナが腕を掴んで引き戻す。


「無事!?」


「まだ生きてる!」


「なら動け!」


「ひどいな!」


でもそのやり取りに少し安心する。


ボクは手をかざし、投げた槍を呼び戻した。白銀の槍は光になって手元へ戻る。セナが今それ見て驚いている場合ではない顔をしたが、すぐ次の敵に向き直った。


戦いは長くは続かなかった。


小魚を狙って上がってきた喰らい付きたちは、数はいても統率がない。村人たちの連携も悪くないし、ボクが前に出ることで崩せる。何匹かは仕留め、何匹かは網に絡まって海へ沈み、残りは光が減るにつれて沖へ退いていった。


青い裂け目も、じわじわと閉じていく。


最後の一匹が海中へ消える頃には、村じゅうが息を切らしていた。


桟橋の上には、小さな星の魚がまだ何匹も跳ねている。

そのたび、青白い光が夜をかすかに照らす。


ガドが膝に手をつき、荒く息を吐く。


「……なんて夜だ」


「うん」


ボクも少し肩で呼吸していた。大した消耗ではないけれど、この世界の精霊との噛み合いが微妙なせいで、細かい調整に余計な力を使う。


カナが駆け寄ってきて、まずガドの腕を掴んだ。「怪我は」


「かすり傷だ」


「血が出てる」


「それくらいなら平気だ」


「平気かどうかは私が決める」


ぴしゃりと言われ、ガドは黙った。


ボクはそこで、海のほうから聞こえた音に顔を上げる。


ちゃぷん。

ちゃぷん。


群青の背が二つ、三つ。

ルゥと、その仲間だろうか。小さな魚たちが、湾の外で大きな星の魚のまわりを回っている。


そしてその大きな魚が、夜の中で再び胸鰭をひらいた。


今度の光は昼より淡い。

でも、はっきりと見えた。


環。

いくつもの環。

その中心で、ひときわ強く光る一点。


トゥオが後ろから息を呑む。「……南の環礁だ」


カナが振り返る。「わかるのかい」


「古い潮図に似ている。昔、祈り場があった場所だ」


「祈り場?」


ボクが尋ねると、トゥオは緊張した顔のまま答えた。


「今は沈んだ環礁だ。もう誰も近づかぬ」


光の図の一点が、脈打つ。


まるでそこへ行けと言っているみたいに。


ボクはその光を見つめながら、胸の奥がざわつくのを感じた。


新しい場所。

新しい謎。

たぶん危ない。

でも、確実に面白い。


困ったなあ、と内心で思う。

こういう時の自分は、だいたい止まらない。


隣でセナが、まだ息を整えながら呟いた。


「まさか……行く気じゃねえだろうな」


ボクは彼を見た。


それから、光る環礁を見た。


「まだ決めてないよ」


「その顔で言うな」


「どんな顔?」


「行く顔だ」


たぶん、当たっていた。


夜の海で、大きな星の魚がもう一度だけ光る。

その光は、まるで道標みたいに、暗い沖の一点を指していた。


そしてボクは、その先に何があるのか、知りたくてたまらなくなっていた。

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