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1話「潮の匂いと、空に沈む魚」

世界が変わる瞬間は、いつだって前触れが薄い。


落ちる、という感覚に近いこともあるし、逆に何かにふわりと持ち上げられるようなこともある。今回はそのどちらでもなくて、古い本の頁をめくられるみたいだった。ぱらり、と音のない風がボクの輪郭をさらっていき、次の頁に置き直す。


足の裏に最初に触れたのは、ざり、と乾いた砂だった。


「……あ」


まぶしさに目を細める。


空が、近い。


そう思った。青いからじゃない。広いからでもない。頭上にあるはずの空が、すこし低く、すこし重たく感じる。雲の流れが妙に速くて、海鳥のような影がいくつも横切っていく。けれど鳴き声は聞こえない。


代わりに、波の音だけが、ずっと遠くからも、すぐそばからも聞こえていた。


ボクはその場で一度しゃがみこんで、砂を指先でつまんだ。白い。粒は粗く、少しだけ銀色を含んでいる。陽にかざすと、きらきらというより、ぬらりと光った。


「海辺の世界、かな」


独りごちる。声はちゃんと届く。空気は重すぎず軽すぎず、呼吸も問題ない。肌に触れる風は湿っているけれど、不快ではなかった。むしろ少し懐かしい。海のある世界はいくつも歩いたけれど、潮の匂いはいつも世界ごとに違う。


ここは鉄の匂いが薄い。代わりに、青い草をちぎった時みたいな匂いが、潮に混じっている。


ボクは立ち上がり、マントの裾を払った。真紅の布が陽を受けて揺れる。足元に置かれたトランクは、いつも通りちゃんと一緒に来ていた。角の金具を確かめて、ベルトポーチを軽く叩く。日記帳もある。


少し安心して、ボクは小さく息を吐いた。


「さて。今回はどんなところかな」


誰に言うでもない問いだったけれど、世界を渡るたびに、まず最初に口にしてしまう。癖みたいなものだ。


返事はない。けれど、耳を澄ませば、砂浜の先――切り立った黒い岩の向こうから、人の声がした。


二人。いや、三人。


ひとりは高い。怒鳴っている。

ひとりは低く短い。

もうひとりは、泣いている。


ボクは少しだけ眉を上げた。


「来たばっかりで、事件の匂いがするなあ……」


面倒ごと、と言い切るには、声の端に切迫があった。


世界によっては、最初の接触がそのまま生死に関わることもある。慎重に行くべきだ。慎重に――そう考えたのに、足はもう岩場へ向いていた。こういうところが、たぶん、ボクのよくないところなんだと思う。


でも、泣き声は放っておきにくい。


岩陰に身を寄せて、そっと覗く。


白い砂浜がそこで途切れ、黒い礁が海へ突き出している。その狭間に、粗末な木舟が一艘、横倒しになっていた。波に煽られている。男が二人、舟を押さえようとしていて、少し離れたところで、褐色の肌をした小柄な子が膝を抱えて泣いていた。


子どもだ。十歳前後。


そして泣いている理由は、どうやら舟そのものではなさそうだった。


礁の先。海面から少し離れた場所に、誰かがしがみついている。


……違う。


誰か、ではない。生き物だ。大きな魚の背に、人が半身を巻き込まれるように引っかかっている。いや、人じゃない。脚があるように見えたのは、魚の長い鰭だった。鱗は淡い群青。陽を受けてガラスみたいに透ける。口の端から赤い泡を吐いて、もがいている。


「うわ」


思わず声が漏れた。


それに気づいた高い声の男が振り返る。日に焼けた顔に、ぎょっとした表情。髪は潮風でばさばさ、手には網。


「誰だお前!」


「通りすがり!」


反射で答えてから、自分でも雑だなと思った。


男は眉をひそめる。「通りすがり」で片づく場所では明らかにない。周囲に道も民家もないのだから。けれど、問い直している余裕はなかった。群青の魚がまた大きく跳ね、礁に体を打ちつける。鈍い音。鰭の一部が裂け、赤が散る。


泣いていた子が悲鳴を上げた。


「ルゥが、ルゥが死んじゃう!」


魚の名、かな。


低い声の男が舌打ちした。「網じゃ届かん! 潮が強すぎる!」


高い声のほうがこちらに怒鳴る。「ぼさっと立ってんな、手伝え!」


「うん、いいよ」


返事をした時にはもう、ボクはマントの留め具を外していた。


こういう時、説明は要らない。


岩場へ駆け、濡れた礁の手前で一歩止まる。海の気配を測る。流れは複雑だけど、底は浅い。巻き込みがある。普通に入ると足を取られる。魚は大きいわりに幼い。暴れているのは痛みと恐怖のせい。近づけばさらに暴れるかもしれない。


この世界の精霊は――


ボクは意識を澄ませた。


水のそばには、いつだって誰かしらいる。けれど世界ごとに顔色が違う。こちらを見てくるものもいれば、見向きもしないものもいる。今回は、少しよそよそしい。触れられないほど遠くはないけれど、手を貸してもらうには機嫌を損ねないよう注意が必要だ。


「ねえ、少しだけ。暴れないように、揺らしてくれる?」


囁くように呼びかける。


波が一拍遅れて、ふっとほどけた。


よし。嫌われてはいない。


ボクは濡れた岩に飛び乗り、体勢を低くした。男たちが何か叫んだが、風で半分流れた。魚がこちらに気づき、眼を剥く。きれいな金緑色の眼だった。恐怖で濁っている。


「大丈夫、大丈夫」


人間相手にも魚相手にも、こういう言葉はたいてい意味がない。でも、自分の声を落ち着けるには役に立つ。


腰の横、空いた手をひらく。


淡い光が集まり、細い柄が形をとる。瞬きのあいだに、それは一本の長槍になった。白銀の穂先は陽光を返し、柄には古い文様が淡く走る。


「な……」


背後で男が息を呑むのがわかった。


今は気にしない。


ボクは槍を逆手に持ち、穂先ではなく石突きを魚の脇の岩へ差し込んだ。支点を作る。次に、身体を滑らせるようにして魚へ近づき、鰭に絡んだ裂けた縄を見た。


漁具だ。


古い銛綱か、捨てられた網の芯か。礁の隙間に引っかかって、暴れるたびに締まっている。


「これか」


魚が身をよじる。尾が打ちつけられ、潮が顔にかかった。しょっぱい。いや、少し苦い。


「うわ、苦い海だなあ」


こんな時に何を言ってるんだろう、ボク。


でも、その一言で少しだけ肩の力が抜けた。指先に魔力を流す。糸は古い植物繊維に似ているが、ところどころ貝殻のように硬化していて、手でちぎるのは難しい。


槍の穂先をわずかに滑らせる。


ぱち、と乾いた音。


縄が断ち切れた。


同時に魚が激しく跳ねる。ボクは石突きを岩から抜き、体をひねって波の外へ飛び退いた。背中まで濡れたけれど転ばずに済む。魚は半ば転がるように海へ戻り、青い水を大きく撥ね上げた。


子どもが叫ぶ。


「ルゥ!」


群青の背が一度だけ海面に現れた。傷ついた鰭を引きずりながら、それでも沖へ向かう。けれど完全には去らなかった。少し離れた浅瀬で旋回し、こちらを見ている。


ボクは槍を消し、手を振った。


「気をつけてねー」


魚がわかったかどうかは知らない。ただ、尾びれがひとつ、水面を打った。


それから、静かになった。


波だけが寄せて返す。


数秒遅れて、背後から足音がどたどた近づいてきた。


「お、お前……」


高い声の男だ。近くで見ると若い。二十代の半ばくらい。腕は太く、首から貝のお守りをいくつも下げている。まじまじとこちらを見ている目は、警戒と驚きが半々だった。


低い声の男はもっと年上で、片目の横に古い傷がある。こちらを見る視線は若い男より鋭いが、怒ってはいなかった。値踏みしている感じ。


子どもはもう泣き止んでいて、鼻をすすりながら海を見つめている。


若い男が、ようやく続きを言った。


「なんだ今の」


「縄を切っただけだよ」


「そこじゃねえ!」


「そこじゃないんだ」


ちょっと面白くなって、ボクは口元を押さえた。若い男はますます胡散臭そうな顔になる。


年上の男が短く言った。


「魔術師か」


「うーん、似たようなものかな」


正確に答えると長くなる時は、少しぼかすに限る。


若い男が口を尖らせる。「似たようなものってなんだよ」


「世界による」


「は?」


「こっちの話」


子どもがそこで、びくびくしながらボクに近づいてきた。髪は黒く、海風で額にはりついている。手首に、編み紐が何本も巻かれていた。大きな瞳でボクを見上げる。


見上げる。


……見上げる。


ちょっとだけ、むっとした。


子どもが遠慮がちに言う。


「おねえちゃん、ルゥ助けてくれて、ありがとう」


「おねえちゃんじゃなくて……」


言いかけて、やめた。


子ども相手に訂正しても大人げないし、実際、外見だけならそう見えるのはわかっている。わかっているけど。


「……アウリィでいいよ」


「アウイ?」


「ア・ウ・リィ」


「アウリィ」


「そう。それでいい」


子どもはぱっと顔を明るくした。


「ぼく、ミオ。ルゥはともだちなんだ」


「ともだちなんだ」


「うん!」


即答だった。疑いも誇張もない声。


ボクは少しだけ目を丸くする。魚を友達と言う子は、そんなに珍しくない。でも本当にそういう顔で言える子は、案外少ない。


若い男が頭をかいた。「ともだち、ねえ……ただ餌やってるだけだろ」


「ともだちだもん!」


「はいはい」


年上の男が子どもの頭を軽く撫でてから、ボクに向き直った。


「助かった。礼を言う、アウリィ。俺はガド、こいつはセナ。こっちはミオだ。……見ない顔だな」


「うん、初めて来たから」


「どこから」


「遠くから」


セナと呼ばれた若い男が胡乱げに目を細める。「答える気ねえな」


「答えにくいだけ」


ボクがそう返すと、ガドは少しだけ口の端を上げた。笑った、というほどでもない。けれど、無理に問い詰める気は薄れたようだった。


「腹は減ってるか」


唐突な問いだった。


「え」


「浜で立ち話することでもない。村へ来い。助けられた礼もしないとな」


セナがぎょっとした。「おいガド、そんな簡単に――」


「海で見たものを見なかったことにするほど、俺は狭量じゃない」


ガドはセナを一瞥して、それからボクを見る。「それとも、来たくないか」


ボクは少し考えた。


こういう時、村へ入るのは情報収集として正しい。でも警戒される場所に踏み込むのは、相手にも負担をかける。世界に受け入れられているあいだだけしかいられないボクにとって、土地の人との距離感は難しい。近すぎても、遠すぎても困る。


それでも。


海の向こうに群青の背がまだ見えていて、ミオがそれを何度も振り返っているのを見たら、断りづらかった。


「じゃあ、お言葉に甘えようかな」


そう言うと、ミオが嬉しそうに跳ねた。


「やった! アウリィ、うちの村くるの!」


セナはまだ不安そうだったが、結局何も言わなかった。


***


村は、岩場を越えた先の湾内にあった。


最初に見えた時、ボクは少し足を止めた。


海の上に家が浮かんでいる。


正確には、巨大な貝殻や流木を組み合わせた足場の上に、丸い家々が建っていた。白い骨のような梁が弧を描き、その上に青灰色の膜――魚の皮をなめしたような素材だろうか――が張られている。桟橋が幾重にも伸び、家と家とをつないでいた。陸にもいくつか建物はあるが、中心は海上だ。


足元の水は驚くほど透き通っている。小魚の群れが光の筋のように走り、時おり底のほうから、丸く大きな影がゆっくり過ぎる。


「わあ」


思わず声が出た。


セナがちらりとこちらを見る。「なんだよ」


「いや、きれいで」


「……そうか?」


「そうだよ。すごく」


本心だった。知らない造り、知らない暮らし。旅を長く続けていても、初めて見るものはいまだにちゃんと嬉しい。


ガドが前を歩きながら言った。


「潮満ちの時刻が近い。足元に気をつけろ。板が浮く」


「うん」


「トランクは持つか」


「持てるよ」


見た目で心配されたのだろう。そこにちょっとだけまたむっとしたけれど、ガドに悪気がないのもわかったので、口には出さなかった。ボクはトランクを軽々と持ち上げ、セナの目が見開かれるのを横目で見た。


「それ、重くないのか」


「秘密」


「なんなんだよ本当に……」


ミオが先に走っていく。桟橋の向こうから、何人もの視線がこちらへ集まった。漁から戻る男たち、貝を剥く女たち、桶を運ぶ子どもたち。知らない顔に対する露骨な警戒。そりゃそうだ。


村は外の者を歓迎するようにはできていない。


足場の中央には、大きな塔のようなものが立っていた。石でも木でもない、白くねじれた素材でできている。珊瑚に似ているけれど、もっと滑らかで、人の手が入っている。塔の先端には、青い硝子玉のようなものが吊るされ、風に揺れていた。


「あれ、なんだろ」


ボクが呟くと、ミオが得意げに振り返る。


「しおよみ!」


「しおよみ」


「星の魚が近いと、あれが鳴るの」


星の魚。


単語が耳に引っかかった。


けれど聞き返すより早く、桟橋の奥から鋭い声が飛んできた。


「ミオ!」


みんなが一斉にそちらを見る。


背の高い女が、濡れた前掛け姿でこちらへ歩いてきた。髪は長く編まれ、片耳に銀色の殻飾りをつけている。目つきが強い。ミオは一瞬で肩をすくめた。


「か、カナおば……」


「ルゥを追って礁まで行ったのかい」


「……いった」


「セナ」


「はい」


「ガド」


「悪かった」


「あなたたちもだ」


短い言葉なのに、叱責として完璧だった。セナが露骨にしゅんとする。ガドですら視線を逸らした。どうやらこの女の人はかなり強い立場らしい。


それから彼女の目がボクに移る。


値踏み。警戒。計算。


「で」


ひどく平らな声だった。


「その子は?」


その子。


きた。


ボクは笑顔を作った。作ったけれど、たぶん目は笑えていなかったと思う。


「その子じゃなくて、アウリィだよ」


女は瞬きを一つした。


ミオが慌てて口を挟む。「アウリィがルゥ助けてくれたの!」


「ルゥを?」


「うん! 礁に縄がひっかかって、でもアウリィが、すごくて、ぴかってして、しゅってして!」


語彙のほとんどを勢いで補っている。けれど十分伝わったようで、女の眉がわずかに寄った。


「……そう」


彼女はボクから目を離さないまま、ガドに尋ねる。「本当かい」


「ああ」


「嘘偽りなく?」


「なく」


しばしの沈黙。


潮騒と、どこかで貝を割る音。


女はやがて小さく息を吐いた。


「私はカナ。ミオの伯母だ。助けてくれたこと自体には礼を言う」


「どういたしまして」


「ただし、見知らぬ者をそのまま村へ入れるのは本来の決まりに反する」


「うん」


「だから、しばらく私の目の届くところにいてもらうよ」


セナが「だろうな」と小さく呟いた。


ボクは肩をすくめる。「それで安心するなら」


カナは少しだけ、意外そうな顔をした。


「反発しないんだね」


「まあ、見知らぬ者だし」


「自覚はあるわけだ」


「あるよ」


むしろ長年の旅で嫌というほどある。初対面で歓迎されることのほうが珍しい。ボクがそういう顔をしていたのか、カナの警戒がほんの少しだけ和らいだ気がした。


「……来な。話を聞く」


***


カナの家は陸側にあった。


海上の家よりひと回り大きく、床は固く編まれた葦の敷物で覆われている。壁には乾いた海藻や貝殻、骨で作られた道具が整然と掛けられていた。生活の匂いがするのに、散らかってはいない。几帳面な人の家だ。


ボクは入口近くにトランクを置き、勧められた丸椅子に座った。高さが微妙に合わなくて、足が少し浮く。なんだか子どもみたいで嫌だったので、すぐに座り直して姿勢を整える。


カナはそれを見ていた気がするけれど、何も言わなかった。


代わりに、湯気の立つ木椀を差し出してくる。中身は白いスープで、細かく刻んだ海藻と貝の身が浮いていた。


「熱いよ」


「ありがとう」


ひと口飲む。やさしい塩気。少し甘い。貝の出汁が深くて、海藻の香りが後から広がる。


「おいしい」


「それはよかった」


カナは自分の分を持たず、向かいに座った。質問の時間らしい。ミオは後ろでそわそわしている。セナは戸口にもたれ、ガドは壁際に立っていた。


完全に見張りだ。


「まず、アウリィ」


「うん」


「どこから来た」


「遠くから」


「それはさっき聞いた」


「うーん……地名を言っても、たぶん通じない」


「試してみな」


少し迷った末に、ボクは一つ、比較的どうでもいい昔の地名を口にした。案の定、誰の顔にも心当たりは浮かばない。カナは表情を変えない。


「聞いたことがない」


「だと思った」


「船で来たわけではないのか」


「違う」


「では、どうやって」


質問は鋭いけれど、声音は静かだった。誤魔化しすぎても怪しまれる。でも、全部を話す必要もない。


ボクは木椀を両手で持ったまま答える。


「たまに、気づいたら知らない場所にいることがあるんだ」


セナが眉をひそめた。「夢みたいなこと言うな」


「ほんとだよ」


「信じろってほうが無理だ」


「だよね」


同意すると、セナが少しだけ言葉に詰まった。


カナはボクの顔をじっと見ていた。嘘を見抜こうとしている目だ。こういう人は嫌いじゃない。雑に信じる人より、ずっとましだ。


「……少なくとも、ふざけてはないようだね」


「うん」


「その槍は」


「護身用」


「さっきは見えなかった」


「しまってたから」


「どこに」


「秘密」


セナが呆れたように天井を仰ぐ。ミオは「かっこいい」と小声で言った。


カナは木の卓を指で軽く叩いた。「助けてもらった恩がある。だから今すぐ追い出す気はない。でも、この村には事情がある。外の者に軽々しく見せたくないものも、知られたくないこともある」


「うん」


「勝手に歩き回らない。夜、ひとりで海へ出ない。塔には近づかない。これを守れるかい」


塔。さっきの「しおよみ」か。


ボクは頷いた。「守るよ」


「質問は」


「ある」


「なんだい」


「星の魚ってなに?」


部屋の空気が、少しだけ変わった。


ガドが視線を上げる。セナが眉を寄せる。ミオだけが、しまったという顔ではなく、単純に「あ」と口を開けていた。たぶん言ってはいけないことを言った自覚が今来たのだろう。


カナはすぐには答えなかった。


窓の向こうで、潮が足場を揺らす音がした。


「……ミオ」


「はい」


「外で貝を剥いておいで」


「えー」


「ミオ」


「はぁい……」


しぶしぶ出ていく。セナもカナに目配せされ、戸口から離れた。ガドだけが残る。


ボクは木椀を机に置いた。


カナは少しだけ声を低くする。


「この海には、ときどき空から魚が落ちてくる」


ボクは瞬いた。


「空から?」


「そうだよ」


真顔だった。


冗談ではない。比喩でもなさそうだ。


「夜空の裂け目から降る、と伝わってる。青く光る魚だ。小さいものもいれば、舟ほどのものもいる。生きて落ちるもの、死んで落ちるもの、半分だけのもの……いろいろだ」


「半分だけ」


「見たくないなら、夜の浜には行かないことだね」


言い方が妙に生々しくて、背筋が少し寒くなった。


ボクは無意識に髪飾りへ触れた。赤い彼岸花の細工が、いつもの位置で髪を留めている。硬い感触に、少し落ち着く。


「それが、星の魚」


「このあたりではそう呼ぶ」


「食べるの?」


思ったまま聞くと、ガドが噴き出しかけた。カナは呆れたように片眉を上げる。


「まずそこかい」


「だって魚なんでしょ」


「食べる者もいる。祀る者もいる。捨てる者もいる」


「なるほど」


「落ちてきた星の魚は、潮と天を乱すことがある。だから塔で兆しを読む。村の者はそれに従って動く」


「へえ……」


面白い。


ものすごく面白い。


空から魚が落ちる世界なんて、初めてだ。


ボクの顔に出ていたのだろう。カナがうんざりしたように目を細めた。


「好奇心を抑えな」


「がんばる」


「本当に?」


「……ほどほどに」


「不安だね」


ガドが低く笑った。


その時だった。


外で、甲高い音が鳴った。


かあん、と硝子を爪で弾いたような、澄んだ音。ひとつ。ふたつ。みっつ。


カナの顔色が変わる。


「しおよみ」


ガドが即座に戸口へ向かう。セナが外から叫んだ。


「カナ! 塔が!」


カナは立ち上がり、ボクを鋭く見た。


「ここにいな」


そう言って出ていく。


ボクは、数秒だけ、本当にその場にいた。


けれど外のざわめきが一気に膨らみ、足場を走る足音と、人々の低い叫びが重なって、じっとしていられなくなった。


「……ダメって言われたばっかりなんだけどなあ」


小さく呟く。


でも、こういう時に何が起きているか知らないまま待つのは、もっと落ち着かない。


ボクは椅子から降りて、そっと戸口へ向かった。


外へ出ると、村中の視線が塔へ集まっていた。


しおよみの先端に吊るされた青い硝子玉が、淡く発光している。風はないのに大きく揺れ、硬質な音を立てていた。ひとつひとつの音が、水面に輪のような震えを広げていく。


海の色が変わっていた。


青ではなく、暗い紫。湾の外、水平線の少し上に、夜でもないのに、細い裂け目のような黒が浮かんでいる。


空に、穴が開いていた。


「うわあ……」


思わず声が漏れる。


周囲の人々は祈るように胸元へ手をやり、ある者は桶を抱えて走り、ある者は子どもを家へ押し込んでいる。混乱ではない。慣れている動きだ。でも慣れているからこそ怖い。


ミオが人波の向こうでボクを見つけ、「アウリィ!」と叫びかけたところで、カナに肩を掴まれて家のほうへ押し戻された。


その刹那。


空の裂け目から、何かが落ちてきた。


最初はただの光だった。夕日の欠片みたいな金色。それが回転しながら大きくなり、尾を引き、空気を灼いて落ちる。


魚だ。


異様に長い体。翼のように広い胸鰭。鱗は星屑のように明滅し、腹は白銀、背は深い群青。けれど、ただ美しいだけではない。その胴の途中が、大きく抉れていた。まるで何かに噛みちぎられたみたいに。


それでも生きている。


口を開き、音にならない悲鳴を上げながら、魚は湾の外の礁へ叩きつけられた。


轟音。


水柱が空まで立つ。


村の足場が揺れ、誰かが悲鳴を上げる。


しおよみが甲高く鳴り続けるなか、ボクはただ、目を奪われていた。


綺麗だった。


痛々しいのに、綺麗だと思ってしまった。


たぶん、それが少しだけ、ひどいことだと知っている。知っているのに、未知に対する胸の高鳴りを止められない。


そして、次の瞬間。


その巨大な魚の落ちた礁の近くから、別の影が跳ね上がった。


黒い。


魚じゃない。


細長い肢体が水を裂き、鋭い骨のようなものを幾本も背から突き出している。口が縦に割れ、中に青白い光が脈打っていた。


セナが蒼白になって叫ぶ。


「喰らい付きだ!」


ガドが槍を掴んで走る。


カナが村人に怒鳴る。「子どもを中へ! 網持ちを集めな!」


黒い影は落ちた星の魚に喰らいつき、その肉を引き裂いた。銀色の血が飛ぶ。血は海に落ちず、しばらく空中で蛍みたいに光ってから消えた。


ボクは喉の奥が熱くなるのを感じた。


好奇心と、警戒と、少しの怒り。


ああ、なるほど。


この世界はきっと、穏やかなだけじゃない。


ボクの背で、収納の魔法がほどける気配がした。

呼ばれなくても、槍は手に馴染む。


カナが振り返り、ボクがそこにいるのを見て目を見開く。


「アウリィ! 下がれ!」


ボクは彼女を見た。


それから、海を見た。


落ちた星の魚の眼が、こちらを見ていた。


群青に、金の輪がある眼。

さっき助けたルゥとは違う、もっと古く、もっと深い色の眼。


助けて、と言ったわけじゃない。

言葉なんてない。


でも、見てしまった。


ボクは息を吸い、ほんの少しだけ笑った。


「ごめん、カナ」


自分でも、困った性分だと思う。


「それ、見ちゃったら無理」


白銀の槍を引き抜く。


潮の匂い。揺れる足場。空の裂け目。誰かの怒鳴り声。子どもの泣きそうな息。


新しい世界の一日目は、たいていいつも忙しい。


ボクは桟橋を蹴った。


海へ、走る。

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