5話「還るべき場所へ」
五日目の朝は、地面の震動で目を覚ました。
正確には、アウリィは起きていた。見張りの最中だった。だが微かな揺れが足元から這い上がってきた瞬間、全身の感覚が鋭くなった。精霊の探知膜が震え、遠くの——とても遠くの、大気の異変を拾っている。
灰母が近い。
「フィロ」
声を抑えて呼ぶ。フィロは一瞬で目を覚ました。三年間の独り生きが刻んだ反射。毛布を跳ねのけ、短剣を握って身を起こすまで二秒とかからない。
「灰母か」
「まだ遠い。でも——前回と進路が違う。こっちに向かってきてる。真っ直ぐ」
フィロの顔が強張った。
「こちらに? 灰母の移動経路は不規則だが、この廃都の上空を通過するのは稀だ。前回は——」
「前回は三日前。三日で戻ってくるのは普通?」
「普通ではない。周期が早すぎる」
二人は顔を見合わせた。
考えられる原因は一つ。アウリィの精霊術。中核広間の回路を微かに起動させ、聖域で精霊と接触した。その魔力の動きを、灰母が感知した。
「ボクのせいだ」
「断定するのは早い。だが——可能性は高いな」
フィロは責める口調ではなかった。事実を確認しているだけだ。だがアウリィの胸は痛んだ。
「ごめん」
「謝るな。回路が反応したのは結果であって、お前の意図ではない。——それより、今やるべきことを考えろ」
フィロの声は硬いが、その硬さは恐怖や怒りのものではなかった。覚悟の硬さだ。
アウリィは深呼吸した。頭を切り替える。
「灰母が来るまでにどのくらい時間がある?」
「前回の接近速度から推測すれば、半日——いや、直進なら数時間かもしれん」
「数時間」
送還術式の準備には、精霊との交渉、回路の調整、発動句の確認——少なくとも丸一日は必要だと見積もっていた。数時間では足りない。
だが灰母がこちらに向かっている今、準備が整うまで悠長に待つ選択肢はない。
「今日やる?」
アウリィの問いに、フィロは間を置かなかった。
「今日やる」
「準備が足りないかもしれない。失敗したら——」
「失敗したら、灰母がこの廃都を直撃する。聖域が見つかれば、精霊たちも終わりだ。次はない」
フィロの言葉は冷静だったが、底に熱がある。三年間の孤独と、一族の記憶と、昨日見つけた祈りの言葉。それらすべてがフィロを駆り立てている。
アウリィは頷いた。
「行こう。聖域へ」
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地下水路を走った。
光石の明かりが揺れる水路の壁を照らし、回路の文様がかすかに発光しているのが見える。昨日よりもさらに強い。アウリィの精霊術が注いだ魔力が、回路全体に行き渡り始めている。
走りながら、アウリィは精霊に呼びかけた。地上に残した探知膜を通じて、灰母の接近を監視し続ける。遠く、だが確実に近づいている。巨大な圧力。大気が歪む感覚。
中核広間を通過する。台座の窪みが仄かに光っていた。回路の中心が目覚めかけている。
聖域への支線に入る。天井が低くなり、空気が変わる。灰の匂いが消え、土と水の匂いが満ちる。文様の発光が強くなり、光石がなくても足元が見えるほどに。
洞窟が開けた。
地底湖が青い光を湛えて広がっている。湖畔の草が揺れ、白い花が咲いている。そして——精霊の光。前回よりも多くの光の粒が空間に漂い、二人の到着を感じ取ってざわめいた。
「みんな、聞いて」
アウリィは湖畔に立ち、両手を広げた。精霊術を通じた感情の伝達。言葉ではなく、想いで語りかける。
——灰母が来る。ここに向かっている。時間がない。
精霊たちが震えた。恐怖。六百年間怯え続けてきた恐怖が、光の粒を明滅させる。いくつかの光が消えかけた。
——逃げなくていい。帰す方法が見つかった。でも力がいる。あなたたちの力が。
震えが広がる。だが消えかけた光が、踏みとどまった。
水の精霊が前に出てきた。前回と同じ、他より少し大きな光の粒。地底湖の主。
水の精霊から感情が伝わってくる。複雑な感情。恐れ。だがその奥に——
覚悟。
六百年間、ここで耐えてきた。仲間が一つ、また一つと力尽きて消えていくのを見送りながら。いつか終わりが来ることを、祈りながら。
今がその時なのだと。
アウリィの目に涙が浮かんだ。精霊たちの覚悟が、直接胸に流れ込んでくる。
——ありがとう。無理はさせない。でも力を貸して。
精霊たちの光が、一斉に強くなった。承諾。
フィロがアウリィの隣に来た。精霊の光を見上げている。フィロには精霊の感情は伝わらない。だが光の変化から、何が起きているかは理解している。
「力を貸してくれるのか」
「うん。覚悟を決めてくれた」
「そうか」
フィロの声が震えていた。それ以上の言葉はなかった。
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準備を始めた。
まず回路の調整。送還術式を起動するためには、中核広間の回路を送還用に再構成する必要がある。昨日解読した発動句と回路の対応関係を元に、十二の結節点を正しい配置で活性化させる。
「聖域から中核広間まで、回路は繋がっている。精霊の力を聖域で集めて、回路を通じて中核広間に送る。中核広間で術式を起動して、灰母に送還の道を開く」
「発動句は——召喚用の九つと、送還用の三つ。送還用の三つは昨日の解析結果を使う。不完全だが——」
「不完全な部分はボクの精霊術で補正する。精霊の力と、ボクの術で、足りない部分を埋める」
「そしてフィロの祈りの言葉」
「アル・ティーナ・ヴェル・シーネ・カ」
フィロが静かに唱えた。五拍の韻律。還るべき場所へ、安らかに。
「それが鍵になる。術式の最終起動は、フィロの祈りで行う」
「私が? 私には魔力も精霊術もないが」
「フィロの一族が代々守ってきた言葉だよ。この術式の設計者が、未来の誰かが使うことを想定して仕込んだ鍵。魔力はいらない。言葉が——祈りそのものが、鍵なの」
フィロが拳を握った。左手の拳。右の手首の包帯が目に入る。
「……わかった」
「一つだけ。正直に言うね」
アウリィはフィロの目を見た。黄色い瞳が、精霊の光を受けて澄んでいた。
「成功する保証はない。術式の復元は不完全だし、精霊の力が足りるかもわからない。失敗したらどうなるかも予測しきれない。最悪の場合——」
「世界が終わる。聖域も、精霊も、この廃都も」
「それでもやる?」
「やる。やらなくても灰母が来る。何もしなければ同じ結果だ。ならば——」
フィロが背筋を伸ばした。長い体躯が、聖域の光の中でまっすぐに立っている。
「祈りを唱える方がいい」
アウリィは笑った。泣き笑いに近い笑顔だった。
「かっこいいね、フィロ」
「……茶化すな」
「茶化してないよ。本気で言ってる」
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中核広間に移動した。
石の台座を中心に、回路の文様が壁面全体に広がっている。精霊の力が聖域から回路を伝って流れ込み、文様の発光が段階的に強くなっていた。青白い光が広間を満たし、空気が振動している。
アウリィは台座の前に立った。ベルトポーチから日記帳を出し、昨日書き写した発動句のメモを確認する。十二の結節点。九つの召喚句と三つの送還句。
右手を空間に差し入れ、収納空間からミスリルの聖槍を引き出した。銀色の輝きが回路の光と共鳴し、穂先が青白く発光した。
「聖槍を媒介にして精霊の力を術式に注ぐ。大規模な精霊術のときはいつもこうするの」
フィロが頷いた。台座の反対側に立ち、短剣を鞘に収めて両手を——左手を胸の前に置いた。祈りの姿勢。
地上から、振動が伝わってきた。灰母が近づいている。もう数十分の距離か。
「始めるよ」
アウリィは聖槍を台座の窪みに立てた。穂先が天井を向き、柄の尾端が窪みに嵌まる。核石の代わりに聖槍が立つ。完全な代替にはならないが、精霊の力を集束する媒介としては機能する。
精霊に呼びかけた。聖域の精霊たちへ。
——力を。
回路が脈動した。聖域から中核広間へ、水路に沿って魔力の奔流が走る。壁面の文様が一つずつ点灯していく。結節点が順番に活性化し、回路全体が一つの巨大な術式として形を成していく。
アウリィは発動句を唱え始めた。
旧アスガリア語の三拍構造。自分の言語ではない異世界の言葉を、解読した音韻に従って一語ずつ紡ぐ。発音が完全でないことは自覚していた。だが精霊術で音の振動を補正し、回路が求める正確な波形に近づける。
一つ目の結節点が起動した。壁面の一角が明るく輝く。
二つ目。三つ目。
順調だ。回路が応答している。六百年の眠りから覚めた回路が、術式の記憶を呼び起こすように動き始めている。
四つ目。五つ目。六つ目。
広間全体が青白い光に満ちた。空気が震え、台座の聖槍が高い音を発している。ミスリルの金属が魔力の奔流に共振して歌っている。
七つ目。八つ目。
アウリィの身体に負荷がかかり始めた。精霊の力を術式に注ぎ込みながら、発動句の音を補正し、回路の流れを監視する。三つの作業を同時にこなす集中力が、精神を削っていく。
九つ目。召喚用の結節点がすべて起動した。
ここからが本番だ。送還用の三つ。
十番目の結節点。送還句の構造は五拍。三拍とはリズムが異なる。回路の流れを切り替える必要がある。
アウリィは詠唱のリズムを変えた。三拍から五拍へ。滑らかに移行——しようとして、回路が軋んだ。
「くっ——」
魔力の流れが乱れた。三拍と五拍の切り替え点で回路が混乱し、結節点の活性化が不安定になる。光が明滅し、台座の聖槍が不協和音を発した。
「アウリィ!」
「大丈夫——大丈夫、立て直す——」
精霊に呼びかける。力の流れを安定させて、と。精霊たちが応答する。弱々しいが、懸命に。
流れが安定した。十番目の結節点が起動する。送還の回路が開いた。壁面の光の色が変わった。青白から、淡い金色へ。
十一番目。ここが最も不完全な部分だ。発動句の復元が推定に頼っている箇所。音が一つでもずれれば——
アウリィは目を閉じた。精霊に意識を深く沈める。この世界の精霊と、自分の魔力を、一つに重ねる。
精霊の記憶。六百年前、この回路が最後に動いたときの記憶が、精霊の中にかすかに残っている。水の精霊が前回見せてくれた映像の中に、術者が唱えていた発動句の残響が——
あった。
音の断片。かすかな、ほとんど消えかけた残響。だがアウリィの精霊術がそれを拾い上げ、増幅し、復元する。
唇が動いた。自分でも聞いたことのない音を、精霊の記憶から引き出して発声する。喉が震え、空気が波打ち、音が回路に触れた。
十一番目が起動した。
残り一つ。
アウリィの全身から汗が噴き出していた。指先が震えている。精霊術の負荷が限界に近い。この世界の精霊との相性は改善されたとはいえ、これほどの大規模術式を維持するには——
精霊たちも限界が近い。光の粒がいくつか消えた。力尽きたのか。消えた精霊は——戻ってくるのか。わからない。
十二番目。最後の結節点。最後の送還句。
「フィロ」
声がかすれていた。
「フィロ、お願い。祈りを」
フィロは台座の向こう側に立っていた。青白い光と金色の光に照らされたその顔は、蒼白だったが、目だけが燃えていた。灰緑色の瞳の奥で、一族の記憶が、祖母の声が、失われた家族の面影が、すべてが一つになって燃えている。
フィロが左手を胸に当てた。右の手首——失われた手の痛みが疼くように包帯の下で脈打っている。だがその痛みすらも、今のフィロにとっては力だった。
唇が開いた。
「アル・ティーナ・ヴェル・シーネ・カ」
声は大きくなかった。叫びではなく、祈り。静かに、穏やかに、まるで子守唄のように。祖母がフィロに教えたときも、きっとこんな声だったのだろう。
五拍の韻律が広間に響いた。
回路がそれに応答した。十二番目の結節点が起動し、壁面全体の光が一斉に金色に変わった。回路の文様がすべて繋がり、一つの巨大な円環を形成する。送還の術式。
台座の聖槍が高く澄んだ音を発し、穂先から光の柱が天井に向かって伸びた。光は石の天井を透過し——いや、天井に刻まれた文様を通じて上方に延長され、地下から地上へ、地上から空へと立ち昇っていく。
地面が震えた。今度は灰母の接近による振動ではない。術式自体の振動だ。大地に眠っていた回路が六百年ぶりに全力で稼働し、都市全体が——都市という一つの巨大な魔法装置が、最後の力を振り絞っている。
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地上で何が起きているかは、地下にいるアウリィたちには直接見えなかった。
だが精霊を通じて、アウリィには感じ取れた。
光の柱が廃都の中心から空に伸びている。灰色の空を貫いて、灰の層を突き破って。灰の層の向こうには——この世界の本当の空がある。青い空。六百年間、灰に隠されていた空。
光の柱が空に穴を開けた。灰色の天蓋に円形の裂け目ができ、その奥から——光が差した。太陽の光。本物の太陽の光が、六百年ぶりにアスガリアの大地に降り注いだ。
灰母が反応した。
巨大な灰色の存在が、光の柱に向かって動きを変えた。怒りか、恐怖か、それとも——
「灰母が来る」
アウリィの声が広間に響いた。精霊の感覚を通じて、灰母の動きが手に取るようにわかる。
だが灰母は攻撃してきたのではなかった。
光の柱に——引き寄せられている。
送還の術式。来たるものを帰す道を開く術。光の柱は灰母がもといた次元への帰り道そのものだ。六百年前に無理やり引きずり出された存在が、帰るべき場所への道を示されている。
灰母が鳴いた。
地下にいても聞こえた。低く、長く、大地を震わせるような声。鯨の歌に似ている。だがもっと深く、もっと悲しい。
アウリィは息を呑んだ。
精霊を通じて、灰母の感情が——かすかに、ほんのかすかに伝わってきた。
寂しさ。
灰母もまた、六百年間、ここにいたくてここにいたわけではなかったのだ。故郷を引き離され、異質な世界に固定され、帰る方法がわからないまま——灰を降らせ続けていた。灰は灰母の悲鳴だった。居場所のない世界で、消化しきれない力が灰として溢れ出していた。
「泣いてる」
アウリィの頬を涙が伝った。
「灰母が泣いてる。帰りたかったんだ。ずっと」
フィロが目を見開いた。
「泣いて——」
「帰りたかったの。ずっとずっと、帰りたかったの。でも帰り道がなくて——」
声が震えた。精霊術の維持に支障が出そうなほど感情が揺れている。だが止められない。灰母の寂しさが、アウリィ自身の中にある何かと共鳴している。
故郷を離れ、帰る場所がなく、終わりのない旅を続ける存在。
それは——
「アウリィ! 集中しろ!」
フィロの声が意識を引き戻した。
術式が揺らいでいた。アウリィの感情の乱れが精霊術に波及し、回路の魔力供給が不安定になっている。結節点のいくつかが明滅し始めた。
「——ごめん、ごめん、大丈夫、立て直す——」
聖槍を握り直す。精霊に呼びかける。力を——もう少しだけ。
精霊たちが応えた。最後の力を振り絞って。光の粒がまた幾つか消えた。消えるたびにアウリィの胸が痛んだ。だが消えた精霊たちの力は、残った精霊たちに受け継がれ、回路を流れ続けている。
光の柱が安定した。灰母が柱に近づいていく。巨大な灰色の身体が、光に触れて——
溶けるように、光の中に吸い込まれていった。
灰母が、もう一度鳴いた。
今度は——悲しい声ではなかった。もっと穏やかな、安堵に似た声だった。
灰母の輪郭が光に融けていく。灰色の身体が薄れ、赤黒い光の線が消え、巨大な影が——
消えた。
光の柱が細くなり、やがてそれも消えた。回路の文様の発光が急速に弱まっていく。聖槍の共振音が止み、台座の温もりが引いていく。
回路が、眠りに戻ろうとしていた。六百年間蓄えた最後の力を使い果たして。
広間が暗くなっていく。精霊の光も弱まっている。だが消え去ったわけではない。微かに、蛍の光のように、まだ幾つかの光の粒が漂っていた。
静寂が満ちた。
アウリィは聖槍にしがみつくように立っていた。膝が震えている。全身の魔力を使い果たした後の、底の抜けたような脱力感。視界がぼやける。
「アウリィ」
フィロの声がすぐ近くで聞こえた。左手がアウリィの肩を支えている。
「終わった……のか」
「……うん」
「灰母は」
「帰った。帰ったよ。もといた場所に——」
膝が折れた。フィロに支えられて、ゆっくりと石の床に座り込む。聖槍が台座から外れて倒れ、からんと乾いた音を立てた。
「帰れて——よかったね」
誰に向けた言葉かわからなかった。灰母に。精霊に。それとも——
フィロがアウリィの隣に座った。肩と肩が触れる距離。
「精霊たちは——何体か消えた。力を使い果たして」
「……わかっていたのか」
「感じてた。一つ消えるたびに、ここが——痛かった」
胸に手を当てた。
「でも残った精霊たちは大丈夫。弱ってるけど、生きてる。灰母がいなくなれば、少しずつ回復する。この世界全体の精霊が——目を覚ますかもしれない」
フィロは何も言わなかった。天井を見上げていた。文様の光はほとんど消えていたが、完全な暗闇ではなかった。残った精霊たちの微かな光が、広間をぼんやりと照らしている。
「地上を見に行こう」
アウリィが言った。
「立てるのか」
「立てる。たぶん」
立てなかった。足に力が入らない。
フィロが黙ってアウリィの腕を自分の肩にかけた。長身のフィロがかがみ、小柄なアウリィを半ば抱えるようにして立ち上がる。
「無理をするなと何度言えば——」
「ごめんごめん。でも見たいの、空」
---
水路を歩いた。行きは走った道を、帰りはゆっくりと。アウリィはフィロに支えられながら、半ば引きずられるように歩いた。聖槍は収納空間にしまった。トランクは書庫に置いたままだ。後で取りに来ればいい。
石の階段を上る。瓦礫をどかして地上に出る。
二人は同時に足を止めた。
空が、青かった。
灰色の層が薄れていた。完全には消えていない。灰はまだ大気中に漂っている。だがその密度が劇的に減っていた。灰母がいなくなったことで、灰の供給源が断たれたのだ。風が灰を散らし、空の一部が——広い一部が——露わになっていた。
青い空。白い雲。そして——
太陽。
西に傾きかけた太陽が、灰の薄い部分から光を投げかけていた。灰色の廃墟に、橙色の光が差している。建物の壁が、瓦礫が、石畳が、橙色に染まっている。
夕焼けだった。
一昨日見たかすかな光とは比べ物にならない、鮮烈な夕焼け。灰色の世界に、色が戻りつつある。
フィロの手がアウリィの肩の上で震えていた。
アウリィはフィロの顔を見上げた。
フィロは泣いていた。
声もなく、表情もほとんど変えずに、ただ涙だけが頬を伝っていた。灰緑色の瞳が夕焼けの橙を映して、見たことのない色に輝いている。
「きれいだね」
アウリィの声も震えていた。
「ああ」
フィロの声はかすれて、ほとんど聞こえなかった。
二人はしばらくの間、廃墟の通りに立って夕焼けを見ていた。灰が少しずつ晴れていく空を。六百年ぶりに姿を見せた太陽を。
灰の中に、光が差している。まだ完全ではない。灰が完全に消えるには長い時間がかかるだろう。大地に積もった灰が浄化されるにはもっと長い時間が。
だが、止まった。灰は、もう降っていない。
「止まってる」
アウリィが呟いた。
「灰が——降ってない。フィロ、灰が止まったよ」
フィロは答えなかった。涙を拭うこともせず、ただ空を見上げ続けていた。
---
建物に戻った頃には、アウリィの体力は少し回復していた。自力で歩けるようになり、フィロの肩からそっと離れた。
室内は灰が薄く積もったままだったが、もう新しい灰は降り込んでこない。入り口の布を捲ると、外の空気が違っていた。灰の匂いが薄れ、代わりに——何の匂いだろう。土の匂い。遠くの水の匂い。生きている大気の匂い。
フィロが水を汲みに地下に降り、戻ってきた。二人で水を飲んだ。いつものように冷たくておいしい水。だが今日は、その水にすら何か違う味がする気がした。
「フィロ」
「何だ」
「やったね」
「……ああ」
短い言葉の交換。だがそれだけで十分だった。
アウリィはトランクを取りに地下に降り、書庫から回収して戻った。トランクを開け、中を漁る。
「あった」
取り出したのは、小さな布袋だった。中に種が入っている。どの世界で手に入れたか覚えていないが、植物の種だ。
「これ、何の種かわからないんだけど——灰が止まったなら、地上に何か植えられるかもしれない」
「今すぐには無理だろう。地面の灰を除かなければ——」
「うん、すぐには無理。でもいつか。聖域の湖畔に植えたら、育つかもしれない。あそこは灰がないから」
フィロが種の袋を受け取った。左手で布袋を握り、中の小さな粒の感触を確かめている。
「種か」
「うん。未来のための種」
フィロが袋を握りしめた。
「ありがとう」
三度目のありがとう。初日にはなかった言葉。それが今、こんなにも自然に出てくる。
アウリィは笑って——
身体が震えた。
内側から。骨の奥から。細胞の一つ一つが振動するような、あの感覚。
何度も経験した感覚。世界と世界の境界が近づいてくるときの——
「——」
アウリィの笑顔が凍った。
「アウリィ?」
フィロが異変に気づいた。アウリィの顔色が変わっている。黄色い瞳が揺れている。
「どうした。具合が悪いのか。魔力を使いすぎて——」
「違う」
声が硬かった。
「違うの。これは——」
身体の震えが強くなった。指先が薄く透けている。光に溶けるように。
時間だ。
この世界がアウリィを受け入れる期間が、終わろうとしている。
「嘘でしょ」
声が裏返った。
「早い。早すぎる。まだ五日しか——」
「アウリィ、何が起きている。指が——指が透けて——」
フィロの声に恐怖が混じった。アウリィの右手の指先が、かすかに光を帯びて透明になりかけている。
「行かなきゃいけないの。次の世界に。この世界がボクを——」
言葉が詰まった。
知っていた。いつかこうなることは知っていた。急に終わると自分で言ったではないか。ぶつっと切れるように。だから長居はしすぎないように、情が移りすぎないように——
守れなかった。とっくに。
「やだ」
子どもみたいな声が出た。自分でも驚くほど素直な、何の虚飾もない声。
「やだ。まだいたい。まだフィロと——」
「アウリィ!」
フィロがアウリィの両肩を掴んだ。左手の力が強い。右の手首の包帯がアウリィの肩に触れている。
「止められないのか。止める方法は——」
「ない。ないの。ボクには制御できない。世界が——決めるから——」
透明さが指先から手首に広がっていく。ゆっくりと。だが確実に。あと何分持つかわからない。数分か。もっと短いか。
アウリィは震える手でベルトポーチを探った。日記帳を取り出す。最後のページを開き、ペンを握る。透けかけた指で。
「待って。書く。書かなきゃ。忘れちゃう前に——」
「アウリィ——」
「お願い、少しだけ待って——」
ペンが走った。震える文字。読めるかどうかもわからない、乱れた筆跡。
——灰燼回廊。灰色の世界。アスガリア。地底湖。白い花。精霊たち。灰母を帰した。夕焼けを見た。
——フィロ。フィロ・家名なし。灰緑色の目。背が高い。左手だけで短剣を使う。灰茸はまずい。蜂蜜を食べたときの顔。怒るとこわい。でもやさしい。笑うとかわいい。祈りの言葉。アル・ティーナ・ヴェル・シーネ・カ。
ペンが止まった。涙が日記帳に落ちて、インクが滲んだ。
「フィロ」
日記帳を閉じて、顔を上げた。涙で滲んだ視界に、フィロの顔がある。フィロも泣いていた。今度は声を殺しきれずに、唇を噛んで涙を流していた。
「ボクのこと忘れないで」
「忘れるわけがない——」
「忘れないで。ボクは——ボクは忘れちゃうかもしれないから。何万年も生きてると、大事なことほど——でも日記に書いたから。書いたから大丈夫。読み返すから。何度でも」
身体の透明さが肩まで広がっていた。もう時間がない。
アウリィはトランクの蓋を開けた。中を一瞬だけ覗き込んで——一つだけ、取り出した。
蜂蜜の瓶。残りわずかな、琥珀色の瓶。
「これ、持ってて」
フィロの手に押し込んだ。透けかけた指がフィロの指に重なる。触れている感覚がもう薄い。
「甘いもの食べて。灰茸ばっかりじゃだめだよ。果物も——南の方に行けばあるって言ってたでしょ。灰嵐はもうないから、行けるよ。赤い果物、見つけて。名前思い出したら——」
言葉が溢れ出す。止められない。まだ言いたいことがある。まだ伝えたいことがある。時間が足りない。いつだって足りない。
「聖域の精霊を大事にしてね。あの子たち弱ってるけど回復するから。水やりも——花に水やりしてあげて。種も植えて。何が生えてくるかわかんないけど——」
「アウリィ」
フィロの声が、アウリィの言葉を止めた。
「覚えている。全部。お前が言ったことは全部覚えている。だから——もういい。もう十分だ」
「十分じゃないよ。まだ——」
「十分だ」
フィロの左手がアウリィの頬に触れた。涙を拭う。透けかけた頬に触れる指の感触が、温かい。
「五日間だった。たった五日間。だが——お前が来てくれて、よかった」
アウリィの視界が滲んだ。涙ではなく、世界そのものが滲み始めている。境界が近づいている。色が薄れ、音が遠くなり、重力が曖昧になっていく。
「ボクも」
精一杯の声で言った。
「ここに来てよかった。フィロに会えてよかった。この世界のこと——忘れないよ。絶対に」
嘘かもしれない。忘れてしまうかもしれない。何万年も生きていれば、どんなに大切な記憶も摩耗する。母の顔のように。いくつもの世界の風景のように。
でも今この瞬間だけは、絶対にという言葉を嘘にしたくなかった。
フィロの指がアウリィの頬から離れた。もう触れられなくなっていた。アウリィの身体が光に溶けていく。世界の境界が開き、色のない空白が見え始めている。
最後に見えたのは、フィロの顔だった。
泣いていた。笑ってもいた。泣きながら笑っている顔。灰緑色の瞳が夕焼けの光を受けて、アウリィがこの世界で見た中で一番きれいな色に光っていた。
「さよなら、フィロ」
声はもう届いたかどうかわからない。
世界が白く弾けた。
---
色のない空白を漂っている。
世界と世界のあいだ。呼吸も鼓動も重力もない場所。何度も通った場所。何も感じないはずの場所。
なのに、頬が濡れている。
涙だけが、空白の中でも消えずに残っていた。
アウリィは目を閉じた。閉じる目があるのかどうかもわからないが、意識の上で目を閉じた。
フィロの顔を思い出す。まだ覚えている。今はまだ、鮮明に。灰緑色の瞳。短い黒髪。硬い表情の奥にあるやさしさ。笑うと少し照れる顔。
祈りの言葉。
「アル・ティーナ・ヴェル・シーネ・カ」
空白の中で呟いた。還るべき場所へ、安らかに。
灰母は帰れた。帰る場所があったから。
ボクには——
その問いを、アウリィは途中で止めた。止めて、空白の中で身体を丸めた。マントの裏地の黄色が、暗闇の中でかすかに見えた。
ベルトポーチに手を入れた。日記帳がある。震える指で最後のページを開いた。
文字が見える。灰燼回廊。フィロ。灰緑色の目。笑うとかわいい。
書いてある。全部書いてある。だから大丈夫。忘れても、読み返せる。
日記帳を胸に抱いて、目を閉じた。
次の世界が近づいてくる気配がある。次はどんな世界だろう。また灰色かもしれない。色鮮やかかもしれない。海があるかもしれない。山があるかもしれない。
どんな世界でも、歩いていくしかない。いつだってそうだったように。
これからも。
---
色のない空白が薄れ、新しい感覚が指先に触れた。風だ。温かい風。花の匂いがする。
まだ目は開けない。もう少しだけ、このまま。
フィロの顔を思い出す。まだ覚えている。まだ——
目を開けた。
眩しかった。
光が溢れている。暖かい光。見上げると、空が——
青かった。
雲が白い。太陽が高い位置から金色の光を降らせている。足元には草が広がっていて、風に揺れている。緑の草。生きている草。
そしてその草の中に、花が咲いていた。
黄色い花。群生する黄色い花が、風に揺れて波のようにうねっている。
彼岸花だった。
黄色い彼岸花の野原に、アウリィは立っていた。
夢で見た風景に似ていた。黄色い花。青い空。でも隣には誰もいない。手を繋いでくれる人はいない。
涙が一粒、頬を落ちた。最後の一粒。灰色の世界から持ってきた涙。
アウリィはそれを手の甲で拭い、深呼吸した。花の匂いが胸に満ちる。温かい空気が肺を広げる。
ベルトポーチの日記帳に触れた。ある。全部ある。
「よし」
声を出した。自分の声を確認するために。ちゃんと音になっている。ちゃんとこの世界に在る。
髪飾りに触れた。赤い彼岸花。母の——顔は思い出せない。でもこの花だけは、ここにある。
マントを翻して、歩き出した。黄色い花の海の中を。どこに向かうかはわからない。いつも通り。
三歩歩いて、立ち止まった。
振り返った。
誰もいない。花だけが揺れている。
「……忘れないよ」
呟いて、前を向いた。
トランクを持ち直し、新しい世界の最初の一歩を踏み出す。黄色い彼岸花が風に揺れて道を作る。赤い彼岸花の髪飾りが、陽光を受けてかすかに揺れた。
歩く。
どこまでも歩く。
それが旅だから。
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——新しい世界。黄色い花の野原。青い空。風が温かい。
——フィロ、元気にしてるかな。果物は見つけたかな。種は芽を出したかな。
——忘れてない。まだ覚えてる。ちゃんと覚えてる。
——次のページに続きを書こう。たくさん書こう。この世界のことも。次の世界のことも。全部。
——だって、忘れちゃうから。
——忘れたくないから。




