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4話「残された術式」

四日目の朝は、フィロに起こされた。


「おい、アウリィ。起きろ」


肩を揺すられて目を開けると、フィロの顔が間近にあった。灰緑色の瞳がこちらを覗き込んでいる。表情は硬いが、数日前の敵意に満ちた硬さとは違う。心配の色を隠しきれていない硬さだ。


「……ん」


「見張りのまま寝ていたのか」


「え? あ——」


身体を起こすと、入り口の布の傍に座ったままの姿勢だった。聖槍が膝から滑り落ちて横に転がっている。精霊の探知膜はまだ維持されていたが、薄くなっていた。


いつの間にか眠っていた。見張りをしながら。


「ごめん。やっちゃった」


「見張りを買って出て自分が寝落ちるとは。大した旅人だ」


皮肉ではなかった。呆れてはいるが、声の端に柔らかさがある。


「面目ない。昨日ちょっと精霊術使いすぎたかも。聖域での接触と、灰喰いとの戦闘と、索敵の維持と——」


「無理をしているのか」


「無理ってほどじゃないよ。この世界だと精霊の力が借りにくいから、自分の魔力を多めに使うことになるの。普段より燃費が悪い感じ」


フィロが水の容器を差し出した。アウリィは受け取って一口飲む。地底湖の水系から汲んだ透明な水。冷たくて、甘くて、身体に染み渡る。


「おいしい。……何度飲んでもおいしいなぁ」


「毎回同じ感想だな」


「おいしいものはおいしいの。慣れて感動しなくなる方がもったいないでしょ」


フィロが小さく息を吐いた。呆れか感嘆か。最近はその区別をつけようとすることを、フィロ自身がやめているような気がした。


朝食はアウリィのトランクから出した干し肉と、フィロの灰茸の煮物だった。灰茸は灰色の——当然だが——菌類で、水で長時間煮ることで毒性が薄まるらしい。食感はぶよぶよとして頼りなく、味は土を薄めたような風味だった。


「……」


アウリィは黙って咀嚼した。表情が微妙に引きつっている。


「無理に食べなくていい」


「食べる。食べるけど——うん、フィロ、三年間これを食べてきたの?」


「ああ」


「えらいね」


「褒められることではない。他に選択肢がなかっただけだ」


「選択肢がなくても生きることを選び続けたのは、えらいよ」


フィロの手が止まった。左手に持った灰茸の煮物を見つめ、それからアウリィを見た。


「……お前にそう言われると、そういう気がしてくるから困る」


「困らせるつもりはないんだけど」


「知っている」


フィロが灰茸を口に入れた。三年間食べ続けてきた味だ。不味いとすら感じなくなっていたはずだが、アウリィの干し肉と蜂蜜を知ってしまった今では、改めてその味気なさが際立つ。


食事の後、二人は地下に降りた。今日の目的は、金属板に記されていた召喚術式の詳細な解析と、帰還術式の理論構築だ。


---


書庫の石の床に金属板を広げ、その周囲に関連する石板を並べた。回路図、発動句の一覧、次元理論に関する断片的な記述。それらを一つの体系として組み立てる作業。


「この召喚陣の外周部——フィロの一族に伝わってた次元術式の理論と照合すると、どうなる?」


「円環の結節点が十二ある。私の知る理論では、次元の接点を安定させるために必要な固定点の数が十二とされていた。合致する」


「十二の結節点それぞれに、対応する発動句がある。この石板の発動句一覧と照合すると——ある。ここ、ここ、ここ……」


一つずつ確認していく。十二の結節点のうち、九つまでは対応する発動句が特定できた。残りの三つは石板の文字が摩耗して読み取れない。


「三つ足りない」


「九つでは術式は起動しないのか」


「たぶん不完全な状態で起動する。次元の接点は開くかもしれないけど、安定しない。不安定な次元の裂け目は——ボク、別の世界で見たことがある。周囲のあらゆるものを吸い込んで歪めて、最終的には自壊する。灰母を帰すどころか、この世界に新しい災厄をもたらしかねない」


フィロの表情が険しくなった。


「残りの三つを復元する方法は」


「推測するしかない。他の九つの発動句のパターンから、残りの三つの構造を推定する。——できなくはないと思う。でも時間がかかる」


「時間は——」


フィロが言いかけて、やめた。時間はある、と言おうとしたのだろう。だがアウリィの時間は無限ではない。いつこの世界から弾き出されるかわからない。


アウリィはそのことを考えないようにした。考えても仕方がない。


「やれるだけやろう。まず九つの発動句を完全に解読して、構造のパターンを抽出する。それから推定に入る」


「わかった。私にできることは」


「フィロの口伝の知識がすごく重要。次元術式の理論的な部分は、この石板よりもフィロの方が詳しいかもしれない。ボクが精霊術の理論を提供して、フィロが次元術式の理論を提供して、二つを統合する。それが一番可能性が高い」


フィロが頷いた。迷いのない頷き。


作業が始まった。


---


発動句の解析は、想像以上に緻密な作業だった。


旧アスガリア語の発動句は、単なる呪文ではなかった。音の振動、リズム、強弱のパターンが魔力の形状を決定する設計図になっている。一音でもずれれば魔力の形が崩れ、術式全体が不安定になる。


「この音の繰り返しパターン——三拍のリズムで組まれてる。三拍目が強音で、そこに魔力の核が集中する構造。ボクの知ってる精霊術の詠唱体系とは違うけど、魔力の集束原理は同じだ」


「三拍構造は、旧アスガリア語の韻律の基本形だ。詩も演説もすべて三拍を基調にしていた。魔法も同じ韻律に従っていたのか」


「文化と魔法が一体化してるんだね。言語が魔法で、魔法が言語。だから旧アスガリア語が失われたことは、魔法の体系そのものが失われたことを意味する」


「——」


フィロが手を止めた。その言葉の重さに気づいたのだ。


旧アスガリア語を復元できなければ、この世界の魔法は永遠に失われる。灰母を帰す手段も、世界を回復させる手段も。


「でも今、ボクたちが少しずつ解読してる。完全じゃなくても、核心部分さえ復元できれば——」


「核心部分。召喚と帰還の術式か」


「うん。全部を復元するのはボクには——いや、誰にも無理だと思う。でもこの一点に絞れば、もしかしたら」


集中を切らさないように注意しながら、一語一語を解読していく。


三番目の結節点の発動句を解読しているとき、アウリィの手が止まった。


「この部分——おかしいな」


「何が」


「召喚術式の発動句なのに、一部だけ構造が違う。召喚ではなくて——送還の構造になってる」


「送還?」


「呼び寄せるのではなくて、送り返すための魔力パターン。術式を設計した人が——もしかして、最初から送還の手段を組み込んでいた?」


フィロの眉が寄った。


「安全装置、ということか。召喚が失敗した場合に備えて、術式の中に送還のための機構を仕込んでいた」


「そうだとしたら——召喚術式を『逆転』させる必要はないのかもしれない。もともと組み込まれている送還機構を『起動』するだけでいい。それなら必要な魔力量も、新しい術式を一から構築するよりもずっと少なくて済む」


二人の間に、静かな興奮が走った。


「でも——それなら、なぜ六百年前の術者たちはそれを使わなかったんだ?」


フィロの問いは核心を突いていた。


「核石が砕けたからだと思う。送還機構が組み込まれていても、起動するための魔力源——核石がなければ動かせない。核石を召喚に使い果たしてしまったから、送還機構を起動する力が残らなかった」


「堂々巡りだ。結局、核石がなければ——」


「ううん。核石がないのは変わらない。でも送還機構の方が必要魔力が少ないなら——精霊の力で代替できる可能性が上がる。ゼロから術式を組むのと、もともとある機構を動かすのとでは、求められる力の桁が違うから」


アウリィは金属板の図面に指を置いた。


「この回路図を見て。召喚陣の十二の結節点のうち、三つだけが他の九つと構造が異なるでしょ。ボクたちが解読できなかった三つ。これが送還機構の結節点だとしたら——」


「発動句が異なるのは当然か。召喚ではなく送還のための句だから」


「そう。つまり、ボクたちが探すべきなのは『失われた三つの召喚句を推定する』ことじゃなくて、『送還用の三つの句を特定する』こと。これなら——」


アウリィは書庫の棚を見回した。


「この書庫のどこかに、送還に関する記述が残っている可能性がある。術式の設計者は安全装置として送還機構を組み込んだ。ということは、その使用方法も記録していたはず」


「書庫の未解読の石板の中に」


「うん。全部を解読する必要はない。送還に関する記述だけを探せばいい」


立ち上がったアウリィの足元がふらついた。精霊術の索敵を維持しながらの長時間の解析作業で、魔力の消耗が進んでいた。


フィロの左手がアウリィの肩を支えた。


「休め」


「大丈夫。もうちょっと——」


「休めと言っている」


有無を言わさぬ口調だった。アウリィを壁際に座らせ、水を差し出す。


「倒れたら元も子もない。石板は逃げないんだから、休んでから探せばいい」


「……フィロに説教されるとは思わなかった」


「お前が無茶をするからだ。他人に寝ろと言っておいて、自分は寝落ちるまで無理をするような奴だから、誰かが止めなければならない」


アウリィは水を飲みながら、少し笑った。


「ボクの世話を焼いてくれる人、久しぶりだなぁ」


「世話を焼いているつもりはない。——ないが、放っておけなくなっている自分がいるのは認める」


フィロはそっぽを向いて言った。耳の端がわずかに赤い。灰色の世界では色の変化がわかりにくいが、アウリィの目は色に敏感だった。


「ふふ」


「笑うな」


「笑ってない。嬉しいだけ」


フィロが何か言おうとして、口をつぐんだ。代わりに棚に向かい、石板を一枚引き出した。


「私が探す。お前は座って指示を出せ。どんな記述を探せばいいか、手がかりをくれ」


「——うん。ありがとう、フィロ」


---


アウリィが壁にもたれて指示を出し、フィロが石板を引き出しては照合する。二人の役割が逆転していた。


「送還に関する記述なら、この表意文字が含まれてるはず。『帰る』とか『戻る』に相当する記号。対照表を見ると——これかな。この丸い記号の中に波線が入ったやつ」


フィロが石板の表面を走査する。一枚、二枚、三枚——


「ない」


「次の棚」


四枚、五枚——


「これにある」


フィロが石板を持ってきた。アウリィが受け取り、記述を確認する。


「えーっと——『送還の句は三拍に非ず、五拍を基調とす。来たるものを帰すは、喚ぶより繊細なる業なり。五拍の韻律に乗せ、結び目を……解く……ように……』」


五拍。召喚が三拍構造なのに対し、送還は五拍構造。異なる韻律。


「続きは——『結び目を解くように、穏やかに、強いることなく。引き寄せた者を傷つけることなく帰す道を開くことこそ、術者の矜持なり』」


アウリィは石板を膝に置いて、天井を見つめた。


「術者の矜持、か。呼んだ者を帰す責任を、設計者は感じてたんだね。灰母を——あれが何であれ、無理やり連れてきたことを、少なくとも設計者は正しいとは思っていなかった」


フィロは黙っていた。その沈黙の中に、複雑な感情が渦巻いているのが見えた。先祖である術者たちへの怒りと、そしてその中にいた良心的な誰かへの——何と呼べばいいのか。


「五拍構造の発動句。これが見つかれば、送還機構を起動できるかもしれない。他の石板にもっと詳しい記述がないか——」


「探す」


フィロが再び棚に向かった。


七枚目の石板に、発動句の断片が見つかった。五拍構造の韻律パターンと、十二の結節点のうち送還用の三つに対応する音の配列。完全ではなかったが、残りの九つの召喚句との関係性から推定可能な程度には復元できそうだった。


「これとこれを合わせれば——かなり高い精度で復元できると思う」


アウリィの声に力が戻っていた。休息と水と、何より進展による高揚が疲労を押し返している。


「フィロ、五拍の韻律って、この世界の言語にある?」


「旧アスガリア語では珍しい。だが——皆無ではない。祈りの言葉に五拍のものがあった。一族に伝わっていた古い祈りの句が——」


フィロが目を閉じ、記憶を辿った。


「『アル・ティーナ・ヴェル・シーネ・カ』」


五つの音節。五拍。


「どういう意味?」


「正確な訳は伝わっていない。だが——『還るべき場所へ、安らかに』というような意味だと、祖母に教わった」


アウリィの背筋に震えが走った。


「それ——送還の発動句の原型かもしれない」


「何?」


「術式の設計者が、古い祈りの形式を送還の句に組み込んだとしたら——祈りの言葉が術式の鍵になっている。そうすれば、術式の理論を知らなくても、祈りさえ知っていれば送還を起動できる。設計者は、自分たちがいなくなった後のことも考えていたんだ」


フィロの手が震えた。左手の指が、膝の上で開いたり閉じたりしている。


「祖母が——私の祖母が、意味もわからずに伝え続けていた祈りの言葉が——」


「意味があったんだよ。ずっと。フィロの一族が代々守ってきたものは、無駄じゃなかった」


フィロが唇を噛んだ。言葉が出てこないらしい。嗚咽を堪えているのか、それとも感情が言葉にならないのか。


アウリィは待った。静かに、辛抱強く。精霊の光が書庫を淡く照らす中、フィロが自分の感情を整理するのを待った。


長い沈黙の後、フィロが目を開けた。赤みを帯びた灰緑色の瞳に、濡れた光があった。泣いてはいない。だが泣いた後のように、瞳が透明だった。


「……やるぞ」


「うん」


「術式を完成させる。精霊の力を借りて、送還機構を起動する。灰母を——帰す」


「うん。でも今日はもう遅い。明日、聖域で精霊たちと話をして、力を貸してもらえるか確認する。無理強いはしない。精霊が嫌だと言ったら、別の方法を考える」


「ああ」


「それからもう一つ。ボクがいつまでこの世界にいられるかわからない。もしボクがいなくなった後でも、フィロ一人で術式を起動できるように——」


「何を言っている」


フィロの声が鋭くなった。


「いなくなる前提で話をするな」


「でも——」


「いなくなるなら、それまでにやり遂げればいい。余計な仮定を立てるな」


アウリィが目を瞬かせた。


それから、ゆっくりと笑った。困ったような、嬉しいような、泣きそうな笑顔だった。


「……うん。そうだね。ごめん」


二人は書庫を出て、地上に戻った。


---


夕方の空は、今日も灰色だった。昨日のような橙色の光は見えない。雲のない空——いや、雲ではなく灰の層が空を覆い尽くしている。


建物に戻り、夕食の準備をする。アウリィがトランクから携帯用の小鍋を出し、地下水路の水と、乾燥肉と、フィロの灰茸を合わせて簡単な汁物を作った。


「灰茸、煮るだけよりスープにした方がまだ食べやすいかもしれない」


「……調理器具まで持っているのか」


「何でもあるよ、このトランク。問題はどこに何があるかわからないことだけど」


火はアウリィの精霊術で起こした。火の精霊は水や風よりもさらに反応が弱かったが、小さな炎を維持する程度なら何とかなった。


灰茸のスープは——劇的においしくなったわけではない。だが灰茸だけを煮たものよりは、干し肉の出汁が加わった分、幾分かましだった。


「三年分の灰茸料理の不満が、少し解消された気がする」


「少し?」


「少しだ。根本的な解決には至っていない」


「根本的な解決は——灰が止まってからかな。灰がなくなれば地上に植物が戻る。果物もきっとまた実るよ」


フィロがスープを啜る手を止めた。


「果物か」


「うん。フィロは何の果物が好き? 子どもの頃に食べたことがあるって言ってたよね」


「……覚えていない。名前は——忘れた。赤い実だった。甘くて、少し酸っぱくて、手のひらに収まるくらいの大きさで」


「それだけ覚えてれば十分だよ。きっとまた食べられる」


「約束はするな」


「約束じゃないよ。可能性の話」


「お前の可能性の話は、いつも約束に聞こえる」


アウリィは口を閉じた。それから小さく、本当に小さく呟いた。


「……約束、できたらいいのに」


聞こえなかったかもしれない。聞こえていたとしても、フィロは何も言わなかった。


---


食事の後、アウリィは日記帳を開いた。


今日の記録は長くなりそうだった。召喚術式の分析。送還機構の発見。五拍の韻律。フィロの祈りの言葉。書くべきことが多い。


だが最初に書いたのは、別のことだった。


——四日目。フィロに肩を支えられた。世話を焼いてくれる人がいるのは、久しぶりだ。何世界ぶりだろう。覚えていない。


ペンを止めて、トランクの中を探った。日記帳の予備を探していたのではない。何か——何かがあったはずだ。古い、ずっと古い日記帳が。


トランクの奥の方から、色褪せた冊子を引っ張り出した。表紙がほとんど剥がれかけている。紙は黄色く変色し、端がぼろぼろと崩れそうだった。相当に古い日記帳だ。


開く。


自分の字だ。だが今の筆跡とはかなり違う。もっと丁寧で、もっと角張った字。いつの時代に書いたものだろう。


最初のページの文字を読む。


——今日、旅を始める。母がお守りをくれた。赤い花の髪飾り。大事にする。必ず——


続きが読めなかった。インクが薄れて消えている。


母。このお守りをくれた母。顔が思い出せない。声が思い出せない。名前すら——


アウリィは日記帳を閉じた。


胸の奥が痛い。懐かしさなのか悲しさなのか、もう区別がつかないくらいに摩耗した感情が、鈍く疼いている。


「アウリィ」


顔を上げると、フィロがこちらを見ていた。


「泣いているのか」


「え?」


頬に手を当てた。濡れていた。


「……泣いてた。気づかなかった。ごめん、何でもない」


「何でもないような顔ではないが」


「本当に何でもないの。ただ古い日記を読んだら、ちょっと——ちょっとだけ」


アウリィは古い日記帳をトランクにしまった。乱暴にではなく、丁寧に。壊れやすいものを扱うように。


「ボクね、旅の記録をずっとつけてるんだけど、古い日記を読んでも書いた時のことを思い出せないことが多いの。文字は残ってるのに、その時何を感じてたかが——消えちゃってる」


「記憶が——失われるのか。永く生きていると」


「うん。たぶんね。全部覚えてたら頭がパンクしちゃうのかも。だから大事なことほど——本当に大事なことほど、いつか忘れちゃう。矛盾してるよね。大事だから何度も思い返して、思い返すたびに少しずつ形が変わって、最後には原型がなくなっちゃう」


フィロは黙って聞いていた。


「でも日記に書いておけば、忘れても読み返せる。感情は消えても、事実は残る。だから書くの。今日あったこと、見たこと、感じたこと。全部」


アウリィは今の日記帳に向き直り、ペンを握った。


——送還機構が術式に組み込まれていた。五拍構造。フィロの祈りの言葉「アル・ティーナ・ヴェル・シーネ・カ」。還るべき場所へ、安らかに。灰茸のスープを作った。まだおいしくはないけど、フィロと一緒に食べるとまずくもない。フィロの好きな果物は赤くて甘酸っぱい小さな実。名前は忘れたって言ってた。ボクも忘れることが多いから、気持ちがわかる。でもフィロには忘れてほしくないな。ボクのことも、果物のことも、全部。


書き終えて、インクが乾くのを待った。


「フィロ」


「何だ」


「明日、精霊の聖域に行って、精霊たちと話をする。力を貸してもらえるか確認して、術式の準備に入る。たぶん——明日か明後日には、やれるかどうかの見通しが立つと思う」


「ああ」


「その後のことは——まだわかんない。でも、やれるだけのことはやりたい。ここに来たからには」


フィロが頷いた。


「今夜は——交代で見張ろう。前半はボクがやるから、フィロは先に寝て」


「お前が寝落ちたら起こしに行くからな」


「寝落ちないよ、今日は。たぶん」


「たぶんで信用できるか」


「大丈夫だって。ボク、何万年も旅してきたんだよ? 見張りくらい——」


「昨夜、見張り中に寝落ちた奴のセリフとは思えんな」


「うっ」


アウリィが口ごもり、フィロの口の端がわずかに上がった。この数日間で最も明確な——紛れもない笑みだった。


「……笑った」


「笑っていない」


「笑ったよ。ボク見たもん。フィロ、笑うとかわいいね」


「かわい——黙れ」


フィロが背を向けた。耳が赤い。今度ははっきりと見えた。


アウリィは声を出して笑った。灰色の世界に、明るい笑い声が響く。ほんの一瞬だけ、この廃墟が廃墟でなくなったような——人が暮らす家のような空気が、二人の間に生まれた。


---


フィロが毛布にくるまって横になった後、アウリィは入り口の布の傍に座った。


聖槍を膝に立てかけ、精霊の探知膜を張る。今日は集中を切らさない。寝落ちない。フィロに心配をかけたくない。


灰色の闇を見つめる。灰が降っている。いつも通り、止むことなく。


静かな夜だ。灰喰いの気配もない。精霊の探知は昨日よりも範囲が広がっていて、百メートル近くまで感知できるようになっている。聖域での精霊との接触が、確実に効果を発揮している。


灰の降る音を聞きながら、アウリィは考える。


明日、精霊に力を借りて、送還術式を起動する準備に入る。成功すれば灰母はもといた次元に帰り、灰は止まる。この世界は回復に向かう。精霊たちは聖域から出て、大地に戻れる。フィロは——


フィロは、灰のない世界を生きられる。赤い果物を食べられる。空の色を見られる。


そしてアウリィは——


いつかこの世界を離れる。明日かもしれない。一週間後かもしれない。術式を起動する前かもしれないし、した後かもしれない。それはアウリィには制御できない。


制御できないことを心配しても仕方がない。わかっている。何万年も旅を続けて、その度に出会い、その度に別れてきた。いつだってそうだった。


でも、と思う。


でも今回は——


「……だめだなぁ」


情が移りすぎている。自覚している。フィロの笑顔を見たいと思っている。フィロに果物を食べさせたいと思っている。フィロの祈りの言葉が世界を救う瞬間を、隣で見ていたいと思っている。


だがそれが叶うかどうかは——


「やめやめ。考えすぎ」


頭を振って、思考を追い払う。今ここにいる。それだけが確かなことだ。明日のことは明日考える。一万年前にも同じことを考えていた気がするし、一万年後にも同じことを考えているだろう。


ただ、一万年後にフィロのことを覚えているかどうかは——


やめろ、と自分に言い聞かせた。


髪飾りに触れた。赤い彼岸花。母の記憶が失われたように、フィロの記憶もいつか——


指先に力が入った。金属の花弁が掌に食い込む。痛い。でもその痛みが、今の自分を繋ぎ止めている。


「忘れない」


声に出して言った。


「今日のことは忘れない。フィロが笑ったこと。灰茸のスープ。祈りの言葉。全部書いたから。日記に書いたから——大丈夫。忘れても、読み返せる」


灰が降り続けている。


アウリィは日記帳をもう一度開き、最後に一行だけ書き足した。


——忘れたくない。


ペンを置いて、灰色の夜に目を戻した。


建物の奥で、フィロが穏やかに眠っている。


明日は、聖域へ行く。

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