3話「灰の中の声」
三日目の朝は、フィロの寝顔から始まった。
壁にもたれたまま眠っているフィロの顔から、起きているときの硬さが消えていた。眉間の皺が薄れ、口元の力が抜けている。灰色のフードが少しずれて、短く刈り込まれた黒髪が覗いていた。左手は短剣の柄にかかったままだったが、握る力は緩んでいる。
年齢はいくつくらいだろう、とアウリィはぼんやり考えた。二十代の半ば、あるいはもう少し上か。灰の中で過ごした歳月が実年齢以上に顔を老けさせている可能性もある。
起こすべきか、もう少し寝かせるべきか。
結局、選ぶ必要はなかった。アウリィの視線を感じたのか、フィロの目がゆっくりと開いた。意識が戻る一瞬、灰緑色の瞳がぼんやりとこちらを見て——それからすぐに、いつもの硬さが戻った。
「……寝ていたか」
「ぐっすりだったよ。いびきはかいてなかったから安心して」
「いびきなど——」
フィロが身を起こし、首を回した。骨が鳴る。
「何もなかったか」
「うん。静かな夜だった。灰喰いも来なかったし」
アウリィは伸びをして立ち上がった。一晩中座っていた腰が少し痛む。だがこの程度は慣れたものだ。
「ありがとう」
フィロが言った。短く、素っ気なく。だが昨日まではなかった言葉だった。
「どういたしまして。じゃ、ご飯食べて書庫行こう」
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朝食はアウリィのトランクから出した乾パンと、フィロの保存食の残り。蜂蜜はまだ少し残っていたので、乾パンに塗って分けた。
「フィロ、食料の備蓄ってどのくらいあるの?」
「あと十日分ほどだ。近いうちに調達に出なければならない」
「調達って、どこから?」
「廃都の外縁部に、灰の薄い区域がいくつかある。そこに自生する灰茸という菌類が主な食料だ。灰の魔力を含んでいるが、水で煮れば毒性は薄まる。味は——」
「おいしくない?」
「食えなくはない」
つまりおいしくない。
「水は地下から汲めるから問題ない。食料が尽きれば外に出る。その繰り返しだ。三年間、ずっと」
三年間。その言葉が胸に刺さった。灰色の世界で、一人で、おいしくない菌類を煮て食べ、地下の水を飲み、灰嵐を避けて眠る。三年間。
「ボクの持ち物で補えるものは補うよ。食料も日用品もけっこうあるから」
「お前の旅に必要なものだろう」
「次の世界に行けば、また手に入るものばかりだよ。今ここで使った方が有意義」
フィロが何か言おうとして、やめた。代わりに乾パンの最後の一切れを口に入れ、蜂蜜の甘さに一瞬だけ目を閉じた。
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地下に降り、水路を通って書庫へ向かう。もう三度目の道程なので、アウリィも分岐の位置を覚え始めていた。光石の明かりが壁の文様を照らすたびに、回路の残留魔力がかすかに反応する。昨日よりも反応が少しだけ強くなっている気がした。
精霊に尋ねてみる。
返ってきたのは、曖昧ではあるが肯定的な感覚だった。回路の魔力が——わずかに増している? なぜだ。外部からの供給源はないはずなのに。
「フィロ、この回路の魔力、昨日より強くなってない?」
「わかるのか。私にはまったく感じ取れないが」
「うん、ほんの少しだけ。なんでだろう。核石はないのに」
考えながら歩く。精霊に意識を重ねて回路の流れを追う。魔力の流れは水路に沿って広がっていて、緩やかな循環を形成している。その循環の中心は——やはり昨日の中核広間だ。
「中核広間に寄ってみてもいい?」
フィロが頷き、道を折れた。
中核広間に入ると、空気が違った。昨日よりも明らかに、魔力の密度が高い。光石の明かりとは別に、壁面の文様自体がかすかに発光していた。淡い、青白い光。
「光ってる……昨日は光ってなかったよね?」
「ああ。私がここに来てから、この文様が光ったことは一度もなかった」
二人で台座に近づく。核石が置かれていた窪みに、アウリィは再び手を入れてみた。
指先に温もりが触れた。
「あったかい」
「何?」
「台座の窪み。昨日は冷たかったのに、今は温かい。魔力が集まってきてる」
目を閉じて、精霊を通して感覚を研ぎ澄ます。回路の魔力の流れを追い、その源を探る。魔力はどこから来ている? 核石がなければ供給源がないはず——
「——あ」
目を開けた。
「ボクだ」
「何?」
「魔力の供給源、ボクだ。ボクが精霊術を使うたびに、この回路に微量の魔力が流れ込んでる。たぶん回路がボクの精霊術の魔力を吸い上げてるんだ。異なる体系の魔力だけど、回路が自動的に変換して取り込んでる。この都市の設計者、本当にとんでもないね」
フィロの目が見開かれた。
「お前の魔力がこの都市を——」
「起こしかけてる。ほんの少しだけ。核石に比べたらボクの魔力なんて雫みたいなものだけど、回路自体がまだ生きてるから、その雫でもわずかに反応してるんだと思う」
アウリィは台座から手を離し、広間を見回した。文様の発光は弱く、明かりとしてはほぼ役に立たないレベルだ。だが「光っている」という事実が重要だった。
「六百年間眠っていた回路が、目を覚ましかけてる。もしもっと魔力を供給できたら——」
「都市の機能を——復元できるかもしれない、ということか」
「全部は無理だよ。核石なしでは元通りにはならない。でも一部の機能——たとえば防御結界とか、魔力の増幅装置とか——を限定的に動かすことは、もしかしたら」
言いながら、アウリィは自分の言葉の意味を考えていた。この都市の機能を復元することに、何の意味がある? 自分はいずれここを去る。世界が自分を受け入れなくなった瞬間に、すべてを置いて消える。
長居はしすぎないように。情が移りすぎないように。
そのルールが、頭の隅でちらつく。
「書庫に行こう。回路の設計に関する石板が、もっとあるかもしれない」
自分の思考を振り切るように、アウリィは広間を出た。
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書庫での作業は、昨日の続きから始まった。
対照表を手がかりに、旧アスガリア語の石板を一枚ずつ解読していく。アウリィが音を推定し、フィロが文脈を補い、二人の知識を組み合わせて一文ずつ意味を浮かび上がらせる。
今日の目標は、灰母の出自に関する記述をさらに探すこと。そして、回路の設計に関する技術文書を見つけること。
棚の奥に手を伸ばしたアウリィが、一枚の石板を引き出した。他の石板よりも薄く、表面の仕上げが異なる。文字ではなく、図形が刻まれていた。
「これ——回路図だ」
広げて見る。都市全体の地下回路の配置図だった。現在の水路と照合すると、大部分が一致する。崩落している区画や、まだ行っていない区画の位置もわかる。
「すごい。これがあれば都市の全体構造が把握できる」
「ここを見ろ」
フィロが回路図の一点を指さした。中核広間から北東方向に伸びる線が、途中で枝分かれして大きな空間に繋がっている。その空間には、他にはない特殊な記号が付されていた。
「この記号、何だろう」
「見たことがない。だが他の石板に同じ記号がないか——」
二人で棚を探った。石板を引き出しては記号を照合し、戻し、また別の石板を引き出す。
「あった」
フィロが一枚の石板を持ってきた。その記号を含む文が刻まれている。対照表を使って解読を試みる。
「えっと——『灰降り以前より在りし……聖域……精霊の……座する場』……精霊の座?」
「精霊の座する場。精霊が宿る場所、という意味か?」
アウリィの心臓が跳ねた。
「精霊の聖域。この都市の地下に、精霊が集まる場所があるってこと?」
「あるいは、あった。六百年前には」
「もし——もしまだあるなら。精霊がそこに隠れている可能性がある。灰母に押さえつけられて眠らされてるんじゃなくて、そこに逃げ込んで身を潜めてるとしたら——」
精霊と直接接触できれば、精霊術の出力が飛躍的に上がる。この世界の精霊との相性が悪いのは、精霊が弱っているからであって、精霊自体が拒絶しているわけではない。もし聖域で精霊に会えれば——
「行ってみたい」
「今からか」
「今からがいい。回路図があれば場所はわかるし、道が崩落していなければ——」
「崩落していない保証はないぞ」
「行ってみなきゃわかんないでしょ」
アウリィの目が輝いている。未知のものを前にしたときの、あの光。フィロはその光を見て、少し呆れたように、少し羨ましそうに息を吐いた。
「……付き合うしかないか」
「ありがとう!」
回路図を頼りに、水路を北東へ進む。中核広間を経由し、これまで入ったことのない支線に踏み込む。天井が低くなり、壁の文様が密になる。空気が変わった。灰の匂いが薄れ、代わりに湿った土の匂い——生きている土の匂いが鼻をくすぐる。
「匂いが違う」
フィロも気づいていた。
「灰じゃない。これは——」
「土の匂いだ。この廃都に来て初めて嗅ぐ」
水路の幅が広がった。足元の水流が増え、水の音が大きくなる。壁面の文様の発光が強くなっている。中核広間よりも明るい。光石がなくても歩けるくらいに。
「回路の魔力が濃い。この先に何かある」
通路が曲がり、下り、また曲がり——
そして、開けた。
二人は同時に足を止めた。
洞窟だった。いや、洞窟という言葉では足りない。地下に広がる巨大な空間。天井は見えないほど高く、壁面全体が回路の文様で覆われていて、その文様のすべてが青白い光を放っていた。光が空間全体を満たし、人工の星空のように見えた。
そして空間の中央に、湖があった。
透明な、完璧に透明な水を湛えた地底湖。湖面は鏡のように静かで、天井の文様の光を映して青く輝いている。湖の周囲には——
「草が生えてる」
アウリィの声が震えた。
灰色の世界で初めて見る、緑色だった。湖畔の岩の隙間から、細い草が何本も生えている。青々とした、生きている草。さらに奥には、小さな——本当に小さな——花が咲いていた。白い花。五枚の花弁を持つ、素朴な花。
「嘘でしょ——花が咲いてる。灰の届かない場所に、花が」
アウリィは湖畔に駆け寄った。膝をついて花に顔を近づける。匂いを嗅ぐ。かすかだが、甘い香りがした。生きている花の匂い。
「フィロ、見てこれ、花だよ、花が咲いてるよ」
振り返ると、フィロが立ち尽くしていた。
灰緑色の瞳が、湖と草と花を映していた。唇が微かに震えている。左手が胸の前で握りしめられている。
「フィロ?」
「……緑を見たのは、いつ以来だ」
声がかすれていた。三年間——いやもしかしたらそれよりも長い間、灰色だけの世界を生きてきた人間が、久しぶりに色を見た。その衝撃が、フィロの全身を貫いていた。
フィロがゆっくりと歩み寄ってきた。湖畔にしゃがみ込み、左手で草に触れた。指先で葉を撫でる。壊れやすいものに触れるように、慎重に。
「……本物だ」
「本物だよ。ここは灰が届いてないんだ。この空間全体が、回路の残留魔力で守られてる。精霊の聖域——聖域というだけのことはある」
アウリィは精霊に意識を向けた。
息が止まりそうになった。
精霊の気配が——溢れていた。
地上で感じた微弱な反応とは比べ物にならない。この空間には精霊が満ちていた。水の精霊、土の精霊、かすかに風の精霊。眠っているのではなく、ここで息をひそめている。灰母の影響が及ばないこの聖域で、何百年もの間、じっと耐えていた。
アウリィの精霊術に反応して、精霊たちがざわめいた。異質な存在——この世界のものではない術者が来たことを感じ取っている。警戒。困惑。そして——
好奇心。
「こんにちは」
アウリィは声に出して言った。精霊に言葉は通じない。だが声に込めた感情は伝わる。敵意のなさ。友好。会えて嬉しいという気持ち。
精霊たちの感情が揺れた。警戒が薄れていく。代わりに、別の感情が伝わってきた。
寂しさ。
長い長い孤独の中で、誰にも呼びかけてもらえなかった寂しさ。術者たちは灰になり、人間は逃げ、精霊に語りかける者はいなくなった。六百年間、この聖域で身を寄せ合って、ただ耐えていた。
アウリィの目に涙が滲んだ。
「寂しかったね。ずっと一人で——ごめんね、遅くなって。でもボクは今ここにいるよ」
精霊たちが震えた。湖面がかすかに波立った。風がないのに、草が揺れた。聖域全体が呼吸するように脈動した。
フィロが息を呑む音が聞こえた。
「何が——何が起きている?」
「精霊が応えてくれてる。この聖域に、たくさんいるよ。弱ってるけど、生きてる。ちゃんと生きてる」
アウリィは両手を広げた。掌を上に向けて、精霊たちに差し出すように。
精霊術の基本。命令ではなく、対話。力を奪うのではなく、分かち合う。
掌の上に、光が生まれた。小さな、蛍のような光。青白い光が一つ、二つ——やがて十を超え、アウリィの周囲を漂い始めた。精霊たちが視覚化されている。通常は不可視の存在が、精霊術との共鳴によって淡い光として現れている。
「きれい……」
アウリィ自身が呟いた。何万年も精霊術を使ってきたが、この光景にはまだ心が震える。
光の粒が一つ、フィロの方に漂っていった。フィロは動かなかった。動けなかった。光がフィロの頬のそばで停止し、ほんのわずかな温もりを放った。
「触れてくれてるよ、フィロ。この子、フィロに興味があるみたい」
「私に——精霊は、私にも見えるのか」
「見えてるでしょ?」
「……ああ。見えている」
フィロの声が揺れていた。灰緑色の瞳に光の粒が映り、瞳そのものが発光しているように見えた。
「精霊は死んでいなかった。沈黙してもいなかった。ここで——」
「待ってた。誰かが来るのを、ずっと」
精霊たちの感情が伝わってくる。安堵。希望。そしてまた、寂しさ。
アウリィは精霊に語りかけた。声ではなく、精霊術を通した感情の伝達で。
——この世界のことを教えてほしい。灰母のことを。あなたたちに何が起きたのかを。
精霊たちが揺れた。躊躇するような感覚。恐れ。灰母の名を出した瞬間に、光の粒がいくつか消えかけた。怯えている。
——無理にとは言わない。でも、知りたいの。知らないと、何もできないから。
長い沈黙。精霊たちが互いに——人間の言葉では表現できない方法で——相談しているような感覚があった。
やがて、一つの精霊が前に出てきた。他の精霊よりもわずかに大きな光の粒。水の精霊だとアウリィには感じ取れた。この地底湖の主のような存在。
水の精霊が、感情ではなく、もっと複雑なものを送ってきた。
映像。
アウリィの脳裏に、像が浮かんだ。
美しい都市があった。白い塔が立ち並び、水路が銀の帯のように街を巡り、人々が行き交い、精霊が空気の中で踊っていた。アスガリアの全盛期。学術と魔法の都。精霊と人間が共存し、知識を追い求めていた時代。
像が変わる。
塔の最上部に、一人の術者が立っていた。老いた男。灰色の——いや、銀色の髪を持つ人間。その手に、巨大な結晶が握られていた。核石。核石を使って、何かを試みている。何かを——呼んでいる。
空に穴が開いた。
青い空に、黒い裂け目。裂け目の向こうに、何かがいた。巨大な何か。鯨のような輪郭。灰色に脈動する表面。赤黒い光の線。
灰母。
灰母は——呼ばれたのだ。
アスガリアの術者が、核石の力を使って、別の次元から灰母を召喚した。
「嘘——」
アウリィの声が震えた。
映像が続く。灰母が空に固定された。術者は灰母の力を——その異次元の魔力を利用しようとしていた。無尽蔵のエネルギー源として。都市のさらなる発展のために。
だが灰母は制御できなかった。術者の力を振り払い、結界を破り、灰を降らせ始めた。最初は少量。やがて大量に。空を覆い、大地を埋め、生命を蝕み——
術者たちは核石で対抗した。だが核石は灰母を召喚するために力を使い果たしていて、もう灰母を押し返す力は残っていなかった。核石は砕け、術者たちは灰になり——
映像が途切れた。
水の精霊が震えていた。伝えるだけで精いっぱいだったのだろう。光の粒が明滅し、弱々しく揺れている。
アウリィは膝をついたまま動けなかった。
「……呼んだのか。人間が」
隣でフィロが息を呑む音がした。アウリィは振り返った。フィロの顔が、見たことがないほど蒼白になっていた。
「フィロ——今の、見えた?」
「見えていない。だがお前の顔を見ればわかる。何を見た」
アウリィは唇を舐めた。乾いていた。
伝えるべきか。灰母がこの世界に来た理由。この世界を滅ぼしたのが、外部の脅威ではなく、この世界の人間自身の愚行だったということ。フィロの一族が命を懸けて倒そうとした存在が、そもそも人間が呼び寄せたものだったということ。
フィロの一族の先祖にあたる術者たちが——
「全部話す」
隠す選択肢はなかった。知ったことを隠すのは、嘘をつくのと同じだ。
アウリィは精霊から受け取った映像を、言葉にして伝えた。一つ一つ。アスガリアの全盛期。核石を使った召喚。灰母の正体。制御の失敗。灰の始まり。
フィロは最後まで黙って聞いていた。
話し終えたとき、聖域は静まり返っていた。精霊たちの光も弱まり、湖面の波紋も消え、草も花も動かない。すべてが息を殺して、フィロの反応を待っているかのように。
フィロは立ち上がった。
湖の方を向いたまま、長い間立っていた。背中がこちらを向いている。左手が拳を握り、包帯を巻いた右の手首が微かに震えている。
「私の一族は」
声が低かった。怒りなのか悲しみなのか絶望なのか、判別がつかないほどに押し殺された声。
「私の一族は——先祖の過ちを正すために、何世代も費やして——命を賭けて——」
言葉が途切れた。
「そしてその過ちを犯したのが——同じ術者たちだった、と」
「フィロ」
「笑えるな」
笑っていなかった。声が震えていた。
「私の一族が守ろうとしたもの——この世界が——同じ術者の手で滅ぼされたのだとしたら、私たちの犠牲は——父も母も長老たちも——何のために」
フィロの声が割れた。膝が折れそうになり、壁に手をついた。左手の指が石壁に食い込む。
アウリィは動けなかった。
何と言えばいい。何を言えば、この人の痛みが和らぐ。慰めの言葉? 正論? どちらも違う。どちらも今のフィロには届かない。
だから、アウリィは黙ってフィロの傍に行き、そっと隣に立った。何も言わず、何もせず、ただそこにいた。
時間が流れた。
精霊の光が少しずつ戻ってきた。一つ、二つと光の粒が現れ、二人の周囲を静かに漂った。精霊たちもまた、六百年間の重荷を下ろしたのだろうか。真実を伝えた後の、ぼんやりとした安堵のような感情が伝わってくる。
フィロの呼吸が少しずつ整っていった。
「お前は——知った上で、私にそれを伝えた」
「うん」
「隠すこともできた」
「できたけど、しなかった。隠されたらもっと嫌でしょ」
「……ああ」
フィロが壁から手を離した。振り返って、アウリィを見下ろした。長身のフィロと小柄なアウリィでは、頭一つ半以上の差がある。フィロの視線はいつも見下ろす角度になるが、今のその視線には、見下すものは何もなかった。
「お前は残酷だな」
「……ごめん」
「褒めている」
アウリィが目を瞬かせた。
「優しい嘘より、残酷な本当の方がいい。少なくとも私にとっては。——だから、ありがとう」
フィロの目が赤かった。泣いてはいなかったが、泣く寸前まで行って踏みとどまった目だった。
アウリィは小さく頷いた。
「これで——灰母の正体は少しわかった。別の次元から召喚された存在で、この世界に固定されている。核石の力で呼ばれて、核石が砕けた後も帰れずにいる——のか、帰らないのか」
「帰れないのだとしたら、帰す方法があるかもしれない、ということか」
「倒す必要はないのかも。帰してあげれば、灰は止まるかもしれない」
フィロが息を吸った。ゆっくりと、深く。
「帰す方法。核石は砕けた。召喚に使った術式の記録は——」
「書庫にあるかもしれない。探す価値はある」
フィロの目に、微かだが確かな光が戻った。怒りでも悲しみでもなく、それらを通り抜けた先にある、もっと静かな決意のようなもの。
「探そう」
「うん」
二人は聖域を後にした。精霊たちの光が見送るように揺れた。水の精霊が最後に一つ、感情を送ってきた。
感謝だった。
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書庫に戻り、棚の奥を徹底的に探った。
召喚術式に関する記録。核石の製造方法。次元間の通路を開く理論。アスガリアの術者たちが灰母を召喚するために研究していた資料が、この書庫のどこかに残っている可能性があった。
「この棚の最上段、まだ見てない」
「高すぎる。手が届かない」
アウリィの身長では、最上段の石板には手が届かなかった。フィロでぎりぎり。フィロが左手を伸ばして石板を一枚ずつ取り出し、アウリィに手渡す。
「これは——年代記だ。建都の歴史が書いてある。重要だけど今じゃない」
「次」
「これは天文学の記録。星の観測データ。きれいだけど今じゃない」
「次」
「これは——あ」
アウリィの手が止まった。石板ではなく、金属板だった。薄い銀色の板に、極めて細かい文字と図形が刻まれている。他の資料とは明らかに扱いが異なる。金属に刻むということは、それだけ重要で、長期保存が必要な情報だったということだ。
「これ、読めない文字が多いけど——図形を見て。これ、回路図と同じ体系の図だ。でもスケールが違う。都市の回路じゃなくて——もっと大きい。もっと複雑。中心にあるのが核石で、そこから放射状に広がる線は回路で——でもこの外側にある円環は何だろう。回路図にはなかった要素だ」
フィロが金属板を覗き込んだ。
「この円環——召喚陣ではないか」
「召喚陣?」
「私の一族に伝わっていた知識の中に、次元を超える術式の概念があった。理論だけで実用されたことはないとされていたが——円環状の回路で空間の歪みを作り、別の次元との接点を生成する。この図の外周部は、その理論と構造が一致する」
「フィロ、すごい。それ覚えてるの?」
「幼い頃に叩き込まれた。一族の知識は口伝が基本だった。文字に残すと灰母に察知されると信じられていたから。——今となっては迷信だったのかもしれないが、おかげで頭には残っている」
フィロの口伝の知識と、金属板の図面。そしてアウリィの精霊術の理論。三つを重ね合わせれば——
「帰す方法が、組み立てられるかもしれない」
アウリィの声が震えた。興奮と、そしてかすかな不安。
「でも——核石がない。召喚に使ったのは核石の力だった。帰す術式にも、同等の力が必要なはず」
「核石の代わりになるもの」
「ボクの精霊術では足りない。回路を少し起動させるだけでもぎりぎりなのに、次元を開くような大規模な術式には——」
「精霊の力を借りたらどうだ」
アウリィが顔を上げた。
「聖域の精霊たち。六百年間、あの場所で力を蓄えてきた。彼らの力を精霊術で束ねれば——」
「……理論的には可能かもしれない。でもリスクが大きい。精霊たちに無理をさせることになる。弱っている精霊に大きな術式の負担をかけたら——」
「壊れる?」
「最悪の場合は。精霊が完全に消滅したら、この世界には二度と戻らない」
重い沈黙が落ちた。
精霊を使って灰母を帰す。成功すれば灰は止まり、世界は回復に向かう。だが失敗すれば、精霊を失い、世界は今度こそ本当に死ぬ。
「今日は——ここまでにしよう」
アウリィが言った。
「急いで答えを出す話じゃない。もっと調べて、もっと考えてからにしよう。間違えたら取り返しがつかないから」
フィロが頷いた。
金属板を慎重に元の場所に戻し、二人は書庫を出た。
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地上に戻ると、空が少しだけ変わっていた。
灰色であることに変わりはない。だがその灰色の中に、ほんのわずかな色彩が混じっていた。西の空の低い位置に、薄い橙色の光。太陽——この世界にも太陽はあるのだ——が灰の層の薄い部分から、かろうじて光を漏らしている。
「夕焼け?」
「珍しい。こんなにはっきり色が見えるのは——何年ぶりか」
二人は建物の前に立って、西の空を見ていた。橙色はすぐに灰に呑まれて消えるだろう。だがこの一瞬だけ、灰色の世界に色がある。
アウリィは日記帳を取り出した。
——三日目。精霊の聖域を見つけた。地底湖。花が咲いていた。白い花。精霊たちはそこに隠れて生きていた。六百年間。水の精霊が灰母の真実を教えてくれた。灰母は人間が呼んだ。アスガリアの術者が。フィロにそれを伝えた。フィロは泣かなかった。でも泣きたかったと思う。帰す方法があるかもしれない。でもまだわからない。夕焼けが見えた。ほんの少しだけ。
ペンを止めて、空を見上げた。橙色はもう消えかけている。
「フィロ」
「何だ」
「ボクね、いろんな世界で夕焼け見てきたけど、全部違うんだよ。赤い夕焼け、紫の夕焼け、緑の夕焼けの世界もあった。ここの夕焼けは橙色なんだね」
「灰がなければ、もっとはっきり見えるのだろうな」
「きっとすごくきれいだよ」
フィロは何も言わなかった。ただ西の空を見ていた。
灰に覆われた空の向こうにある、見えない太陽を。
やがて橙色が完全に消え、灰色の闇が戻った。
「ボクが見張るよ。昨日の約束」
「……わかった」
フィロは今度は抵抗しなかった。建物の中に入り、毛布を敷いて横になった。短剣を手の届く場所に置いて、目を閉じる。
アウリィは入り口の布の傍に座った。聖槍を収納空間から呼び出して膝に立てかけ、精霊の膜を張り巡らせる。昨日よりも膜の範囲が広い。聖域で精霊と接触したことで、この世界の精霊との相性がわずかに改善されたらしい。
「もう少し——もう少しだけ、ここにいさせて」
誰に向けた言葉かわからない。この世界に? 自分自身に?
わからないまま、灰色の夜を見つめる。
灰が降っている。止まない灰。六百年間。
でも地下には花が咲いている。精霊が息をしている。水は透明で、おいしい。
まだ死んでいない。この世界は、まだ。
アウリィは髪飾りに触れた。赤い彼岸花。母の——顔の思い出せない母の。
「ボクは何をしてるんだろう」
長居はしすぎないように。情が移りすぎないように。
もう遅いかもしれない。
聖域の白い花の映像が、瞼の裏にちらつく。フィロの震える声が、耳に残っている。精霊たちの寂しさが、胸の奥に沁みている。
情が移っている。確実に。
「……いいか。いいよね。だってここにいるんだもん、今は」
自分を許すように呟いて、灰色の闇を見つめ続けた。
建物の中から、フィロの寝息が聞こえてくる。昨夜よりも深い呼吸。安心して眠っている。
それだけで、ここに来た意味がある気がした。




