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2話「地下の記憶」

夢を見ていた。


黄色い花が咲いている野原だった。足元に広がる花々は風に揺れて、波のようにうねっている。空は青い。雲が白い。太陽が暖かい。どこまでも続く花畑の中に、アウリィは立っていた。


隣に誰かがいた。


背の高い人だった。手を繋いでいた。その手は大きくて、温かくて、アウリィの小さな手をすっぽりと包んでいた。


見上げようとした。顔を見ようとした。


だが視線を上げるたびに、光が邪魔をした。太陽の光が眩しすぎて、隣にいる人の顔だけが白く塗り潰されている。輪郭はわかる。長い髪を持つ人だった。声も聞こえた気がする。優しい声。何と言っているのかは、もう聞き取れない。


手が離れた。


花畑が灰色に変わっていく。花が一輪ずつ色を失い、枯れ、崩れ、灰になる。空も灰になる。隣にいた人の輪郭も灰に溶けていく。


待って、と手を伸ばした。


指先が触れたのは、冷たい石の壁だった。


「——っ」


目が覚めた。


天井が見えた。灰色の、ひび割れた天井。崩れかけた建物の一階。右手が壁に触れていた。冷たい石。夢の中で伸ばした手が、そのまま壁に当たっていたらしい。


アウリィはゆっくりと手を引き、目をこすった。


夢の内容は、もうほとんど消えかけている。黄色い花。誰かの手。それだけが残っている。いつもの夢だ。同じ夢を何度も見ている——ような気がするが、夢の記憶すらも曖昧で、同じ夢なのか似た夢なのか区別がつかない。


身体を起こすと、マントが肩からずり落ちた。真紅の布地が灰色の床に鮮やかな染みを作る。


入り口の布の傍に、フィロが座っていた。壁にもたれ、短剣を膝に置いたまま。目は——閉じていた。だがアウリィが身じろぎした瞬間に開いた。浅い眠りだったのだろう。あるいは、一度も本当には眠っていなかったのかもしれない。


「……起きたか」


「おはよう。——ボクが交代するって言ったのに」


「必要なかった。灰母が通った後は、しばらく何も来ない」


「でも寝てないでしょ」


「慣れている」


慣れている、という言葉の重さを、アウリィは流さなかった。三年間、この廃都で一人で過ごしてきた人間にとっての「慣れ」が何を意味するか。一人で見張り、一人で食べ、一人で眠り——いや、きっとちゃんと眠れた夜の方が少ないのだろう。


だがそれを口にする代わりに、アウリィはにっと笑った。


「じゃあ今夜は絶対ボクが見張るからね。慣れてても寝た方がいいよ。経験者は語る」


「経験者」


「何万年も生きてるとね、寝不足の蓄積がすごいことになるの」


フィロが怪訝な顔をした。「何万年」という言葉を冗談と受け取ったのか、それとも本気だと悟って戸惑ったのか、判断しかねているらしい。アウリィはどちらとも言わずに立ち上がった。


マントを羽織り直し、ブーツの紐を確認し、髪に手を通す。三つ編みのおさげが寝ている間に少し崩れていたので、解いて結び直した。黄金の髪が指の間をさらさらと流れる。


髪飾りに触れた。赤い彼岸花。花弁の形を象った精巧な細工物で、触れると微かな温もりがある。魔除けのお守り。母にもらった——


母の顔が浮かばない。いつものことだ。


「髪飾り」


フィロの声に、アウリィは手を止めた。


「昨夜、見ていた。珍しい意匠だ。この世界にはない花の形をしている」


「彼岸花っていうの。ボクの故郷に咲いてた花。……たぶん」


「たぶん?」


「故郷の記憶もけっこう曖昧でね。花のことは覚えてるんだけど、どんな場所だったかはもうほとんど——ごめん、朝から湿っぽい話だね。ご飯にしよう」


話を切り替えた。意識的に。フィロはそれ以上聞かなかった。


朝食は簡素だった。フィロの保存食と、アウリィがトランクから引っ張り出した乾燥果物。トランクの中身を漁っている間に、見覚えのない布の包みや、何に使うのかわからない金属の棒や、小さな貝殻の入った袋などが次々と出てきて、アウリィは首を傾げながらそれらを押しのけた。


「……何だその荷物の量は」


「ん? あぁ、いろんな世界で拾ったものとか、もらったものとか。整理しなきゃって思いながら、もう何千年も経っちゃった」


「何千年」


「あはは、大袈裟に聞こえるよね」


大袈裟ではない。文字通りだ。だがそれを証明する方法がないので、アウリィは笑って誤魔化した。


乾燥果物を齧る。甘酸っぱい。どの世界で手に入れたものか、もう覚えていない。果物の種類すら名前が思い出せない。だが味は確かにある。味は記憶よりもずっと正直だ。


「おいしい。フィロも食べる?」


「……もらう」


フィロが左手で乾燥果物を受け取り、口に入れた。咀嚼する。表情が変わらない——ように見えたが、咀嚼の速度がわずかに遅くなった。味わっている。


「甘い。果物を食べたのは、いつ以来か」


「この世界に果物がなるの?」


「かつてはあった。灰が降る前は、この大陸にも森があり、果樹があった。今は灰に覆われて、地上にはほとんど何も育たない」


「ほとんど、ってことは少しは?」


「灰の薄い地域が、大陸の南端にあると聞いたことがある。そこでは細々と農耕が続いているらしい。だが、そこに辿り着くには灰嵐の地帯を越えなくてはならない」


「フィロは行こうとしたことは?」


沈黙。短い、だが重い沈黙。


「ある」


それだけだった。行こうとして、行けなかった。あるいは行かなかった。理由は壁の向こう側に。


アウリィは追及せず、残りの果物をポーチにしまった。


---


食事の後、フィロは約束通り地下水路の案内を始めた。


昨夜降りた石の階段を再び降りる。アウリィが精霊術で灯した光石が、狭い空間を柔らかく照らした。昨日よりもわずかに精霊の応答がよくなっている気がした。灰母が通過した直後は、一時的に精霊への圧迫が弱まるのかもしれない。


「この水路は、アスガリアが栄えていた時代に造られたものだ。都市全体の地下に張り巡らされている。生活用水の供給と、汚水の排出。そして——」


フィロが水路の壁を指さした。壁面に、地上で見たのと同じ幾何学文様が刻まれている。だがこちらの方がより複雑で、文様の線に沿ってかすかな光——いや、光の残滓のようなものが走っている。


「魔力の伝達路も兼ねていた。アスガリアは都市全体が一つの魔法装置だった、と古い文献に書いてある」


「都市まるごと魔法装置? すごい。それはすごいよフィロ」


アウリィの目が輝いた。黄色い瞳に光石の明かりが反射して、琥珀色に見える。


「す——すごいかどうかは知らん。もう機能していないのだから」


「でも痕跡があるってことは、仕組みが残ってるってことでしょ? この文様、魔力回路みたいなものかな。ボクの知ってる魔法体系とは全然違うけど、基本的な考え方は似てる気がする」


アウリィは壁に顔を近づけて文様を観察した。指先でそっと線をなぞると、かすかな振動が指に伝わった。


「フィロ、これまだ微かに動いてるよ。完全には死んでない」


「何?」


フィロが歩み寄ってきた。長い体躯を屈めて壁に手を触れる。左手の指先が文様の上を滑る。


「……わからない。私には感じ取れない」


「精霊を通して感じるの。直接触っただけだと、たぶんわからないくらい微弱。でも確かにある。この回路——水路を通じて、都市の地下全体に残留魔力が循環してる。ものすごくゆっくりだけど」


アウリィは壁から顔を離し、天井を見上げた。低い天井の石組みにも、同じ文様が刻まれている。


「眠ってるんだ。この都市。死んでるんじゃなくて、眠ってる」


フィロが黙った。その沈黙には、昨日までの壁とは違う質があった。壁というよりは、揺らぎ。何かが揺さぶられている。


「……眠っている、か」


「うん。精霊もそう。この世界の精霊は、死んだんじゃなくて、灰母に押さえつけられて眠らされてるだけだと思う。だからボクの精霊術にも一応反応する。完全に死んでたら、反応すらしないもの」


フィロは壁に触れたまま、動かなかった。左手の指が、文様の線を何度も往復している。


「私は」


声が低かった。


「私は、ずっと死んだと思っていた。この都市も、精霊も、この世界も。全部死んだのだと」


「フィロ——」


「死んだものに未練を持つのは愚かだと、自分に言い聞かせてきた。だから——」


言葉が途切れた。フィロが壁から手を離し、背を向けた。


「先に進む。この水路は枝分かれが多い。迷うと厄介だ」


話を切り上げた。だが声が震えていた。ほんのわずかに。


アウリィは何も言わず、黙って後に続いた。


---


地下水路は想像以上に広大だった。


主要な水路は人が二人並んで歩ける幅があり、天井も頭上にそれなりの余裕がある。枝分かれした支線はもっと狭く、身を屈めなければ通れない場所もあった。アウリィの身長では問題のない箇所でも、フィロは何度も頭を低くする必要があった。


「ボク、こういうとき便利な背丈でよかったなぁ」


「小さいからな」


「小さいって言わないで。コンパクトって言って」


「意味が同じだ」


「ニュアンスが違うの!」


フィロの口の端が動いた。昨日よりも明確に。今度こそ笑みと呼べる動きだった。


水路を歩きながら、フィロは要所を説明した。どの分岐がどこに繋がっているか。安全に水を汲める場所。崩落していて通れない区画。そして、いくつかの特別な場所。


「ここだ」


フィロが足を止めたのは、水路の一角が広間のように広がった場所だった。天井が高く、半円形のドーム状になっている。壁面全体に文様が刻まれており、その密度は今まで見てきたどの場所よりも濃い。


そして広間の中央に、石の台座があった。台座の上には——何もない。何かが置かれていた痕跡だけがある。台座の表面に円形の窪みがあり、その周囲に放射状の溝が刻まれている。


「何があったの、ここ」


「都市の中核だ。アスガリアの魔力回路の中心。ここに『核石』と呼ばれる魔法の結晶が据えられていて、都市全体に魔力を供給していた」


「核石は?」


「失われた。灰母が現れた直後に、当時の術者たちが核石を使って灰母に対抗しようとした。結果、核石は砕け、術者たちは灰になり、都市の防御機能は停止した。以降、アスガリアは急速に衰退していった」


フィロの語り口は、歴史を述べる学者のそれに似ていた。感情を挟まず、事実を並べる。だが「術者たちは灰になり」という言葉を口にした瞬間、わずかに間が空いた。


アウリィは台座に歩み寄った。窪みに手を入れてみる。掌にちょうど収まるくらいの大きさ。核石はこの程度の大きさの結晶だったのだろう。


精霊に意識を向ける。この広間では、精霊の応答が他の場所よりも強かった。微弱ではあるが、明確な反応がある。回路の中心にいるから、残留魔力が集中しているのだ。


「ねぇフィロ。核石がなくても、回路自体はまだ生きてるよ。すごく弱いけど。もし——」


「もし?」


「もし核石の代わりになるものがあれば、回路を部分的にでも動かせるかもしれない」


フィロが振り向いた。灰緑色の瞳が、光石の明かりの中で鋭く光った。


「何を考えている」


「まだ何も考えてないよ。ただ可能性の話。この回路が動いたら、何ができるかもまだわからないし——」


「灰母には対抗できない。核石を使った術者たちが、何十人も束になっても歯が立たなかった。お前一人でどうにかなる話ではない」


「うん、それはそうだと思う。灰母を倒すなんてボクには——」


言いかけて、アウリィは言葉を選び直した。


「灰母を倒すことが正しいかどうかも、ボクにはまだわからない。あれが何なのか、なぜ灰を降らせるのか、それすら知らないんだもん。知らないものをどうこうしようとするのは、危ないよ」


フィロの表情が微かに変わった。怒りではなかった。もっと複雑な感情。


「灰母は——灰母はこの世界を滅ぼしたんだ。何百年もかけて、すべてを灰に変えた。それが何であろうと、滅ぼしたことは事実だ」


「うん」


「お前は——倒す必要がないと言うのか」


「そうは言ってない。知らないまま動くのは危ないって言ったの。灰母のことをもっと知ってからじゃないと、何をすべきかもわからないでしょ?」


フィロが口を引き結んだ。反論したいのだろう。だが反論の言葉が見つからない——というより、アウリィの言葉が正しいことを、理性では理解しているのだ。感情が追いつかないだけで。


「ねぇフィロ。この都市に、文献は残ってないの? 学術都市だったんでしょ?」


話題を少しずらした。フィロの感情が煮えすぎないように。


フィロは数秒の間を置いて、息を吐いた。


「……ある。地下の書庫が一部残っている。だが古い言語で書かれたものが多く、私には半分も読めない」


「見せてもらえる?」


「読めるのか」


「わかんない。でも見てみたい」


フィロはアウリィを見た。黄金の髪、黄色い瞳、小柄な身体。見た目は子どもにしか見えない。だがその瞳の奥にある光は、子どものものではなかった。好奇心と呼ぶには深すぎる、もっと切実な何かが灯っている。


「こっちだ」


フィロが歩き出した。


---


書庫は、中核広間から南西に延びる支線の奥にあった。


重い石の扉が半ば開いた状態で固定されており、その隙間から中に入ると、壁面を埋め尽くす棚があった。棚には石板、巻物、製本された書物が雑然と並んでいる。灰は地下まで届いていないため、保存状態は比較的良好だった。それでも何百年もの時間が紙を脆くし、石板の文字を薄れさせている。


アウリィは目を輝かせた。


「すごい。こんなにたくさん」


「読めるものは少ない。この棚の一区画だけが、私に読める言語で書かれている」


フィロが指さしたのは、入り口近くの棚の下段だった。比較的新しい——といっても何百年も前の——書物が数十冊。


「残りは?」


「旧アスガリア語。都市が栄えていた時代の学術言語だ。文法体系が現代語と大きく異なる。解読には専門の知識が必要だが、そういった知識を持つ者はもう——」


「いない?」


「いない」


アウリィは棚の前にしゃがみ込み、一冊の石板を慎重に取り出した。表面に細かい文字が刻まれている。見たことのない文字体系。当然だ。この世界の言葉なのだから。


だが——


「あれ」


アウリィは首を傾げた。文字を指でなぞりながら、目を細める。


「この文字、読めないけど……構造に見覚えがある、ような」


「見覚え?」


「うん。何千——何万年も前に、似たような文字体系を見た気がする。どの世界だったかは思い出せないんだけど……」


記憶の奥を手探りする。砂の底に沈んだ石を探すような感覚。指先に何かが触れる。だが掴もうとすると崩れて消える。


「……だめだ。思い出せない。でもこの文字、表音と表意を組み合わせた複合体系だよね? この丸い記号が音を表して、四角い記号が意味を表す——」


フィロの目が見開かれた。


「そうだ。旧アスガリア語の基本構造はそれだ。だがそれだけでは読めない。音の体系は失われている」


「音がわかれば読めるの?」


「理論上は。だが音を記録した資料が——」


「待って。ボクのトランクに……いや、あるかどうかわかんないけど、似たような文字体系の辞書か何か、どこかの世界で手に入れたような記憶が——」


アウリィは地下水路を駆け戻り、建物に置いてきたトランクを取りに走った。フィロの「一人で動くな」という声を背中に受けながら。


トランクを書庫に持ち込み、蓋を開ける。内部拡張された空間に腕を突っ込んで、がさごそと探り始めた。


「えーっと、本、本、本……これは料理帳、これは地図、これは——何だっけこれ、あ、これ押し花だ、きれい——じゃなくて、本本本……」


「整理しろ」


「わかってるよ! わかってるけどいつもそう言ってるうちに次の世界に行っちゃうの!」


次々と取り出される雑多な品物。色褪せた布、砂時計、木彫りの動物、ガラスの球体、紐で綴じた紙束、錆びた鍵の束——


「あった! ……かもしれない!」


取り出したのは、革の表紙を持つ分厚い冊子だった。表紙は擦り切れてほとんど読めないが、中を開くと二つの言語が対になって書かれている。辞書——というよりは、異なる言語間の対照表のようなものだった。


「これ、どの世界で手に入れたのかまったく覚えてないんだけど……」


対照表の片方の言語を、旧アスガリア語と見比べる。文字の形は異なる。だが構造は——


「似てる。完全に同じじゃないけど、表音記号の体系がすごく似てる。音の対応が推測できるかもしれない」


フィロが隣にしゃがみ込んできた。長い脚を窮屈そうに折りたたんで、対照表と石板を交互に見比べている。


「これは——」


フィロの指が対照表の一点で止まった。


「この記号。旧アスガリア語の『水』を表す表意文字と、形が酷似している」


「本当だ。じゃあ対応する音は——この表だと、この音になるのかな」


二人で頭を突き合わせた。光石の明かりの下、黄金の髪と灰色のフードが寄り添うように並ぶ。アウリィが対照表を読み上げ、フィロが旧アスガリア語の知識と照合する。一文字ずつ、一語ずつ、砂金を篩にかけるような作業。


時間が経つのを忘れた。


「フィロ、これ見て。この文字の組み合わせ、頻出してる。基本的な語彙だと思うんだけど」


「『灰』だ。これは『灰』を意味する表意文字だ。灰にまつわる記述なら、この文献に多くて当然だろう。都市が滅びる過程を記録した日誌のようなものだから」


「日誌! じゃあ時系列で何が起きたか書いてあるの?」


「書いてある——はずだが、今まで読めなかった部分が多すぎて、断片しかわからなかった」


アウリィは石板に顔を近づけた。対照表と照合しながら、一語一語を声に出して読もうとする。発音は完璧にはほど遠いが、音の輪郭がぼんやりと浮かび上がってくる。


「えっと——この行。『空より降る灰は……生命を……何か何か……やがて……』——だめだ、間の単語がわからない」


「『蝕む』だ。この表意文字は『侵食する、蝕む』の意味。その次は……」


二人の声が書庫に反響する。石板の文字が、何百年ぶりに声を与えられて、暗闇の中で息を吹き返していく。


どれくらい時間が経っただろう。アウリィの腹が鳴った。


「あ」


「……もう半日以上経っているぞ」


フィロの声に呆れの色があった。だが同時に、アウリィが初めて聞くような色もあった。充実、とでも呼ぶべきもの。フィロ自身も没頭していたのだ。


「ご飯にしようか。ちょっと休憩」


トランクから食料を出す。今度はアウリィの手持ちから多めに出した。フィロの備蓄が少ないのは目に見えてわかっている。だがあからさまに「あげる」と言えば、フィロの矜持を刺激するだろう。


「ボク、ご飯はいっぱいあるのに一人だと減らないんだよね。食べきれないから手伝って」


嘘ではない。嘘ではないが、方便ではある。フィロが一瞬だけこちらを見て、それから黙って乾燥肉を受け取った。見透かされたかもしれない。だが何も言わなかった。


食べながら、石板の内容を整理した。


「ここまでで読めた部分をまとめると——」


アウリィは日記帳を開き、走り書きしたメモを読み上げた。


「灰母が出現したのは、この文献の年代から推定して六百年前くらい。空に突然現れて、灰を降らせ始めた。灰は魔力を帯びていて、生命体だけでなく魔法的な存在——つまり精霊も蝕んだ。アスガリアの術者たちは核石を使って対抗を試みたけど失敗。以降、灰は止まることなく降り続けている」


「そこまでは、私も断片的に知っていた」


「でもね、この部分」


アウリィが石板の一箇所を指さした。


「ここ、まだ完全には読めてないんだけど——『灰母は空より来たりて、しかして空のものにあらず』って書いてあるように見える」


フィロの動きが止まった。乾燥肉を噛む顎が停止した。


「空のものにあらず?」


「つまり灰母は、空から降りてきたけど、空に属する存在じゃないってこと。どこか別の場所——別の次元か、別の領域から来た、っていう意味じゃないかな」


「別の世界から来た、ということか? お前のように?」


「……かもしれない。わかんないけど」


アウリィは石板を見つめた。灰母が異世界の存在だとしたら。世界を渡る存在が、自分だけではないとしたら。


胸の奥で、何かが小さく痛んだ。理由はわからない。


「もっと読まないと。他の石板も見てみよう。灰母の出自について、もっと詳しく書いてあるものがあるかもしれない」


「ああ」


フィロが頷いた。今度は迷いのない頷きだった。


---


書庫での作業は、その後も続いた。


石板を一枚ずつ取り出し、対照表と照合し、読める部分を書き出す。アウリィの精霊術で強化した明かりの下、二人は肩を並べて古い文字と格闘した。


フィロの知識は断片的だったが、この世界の文化的背景を理解しているという点で、アウリィにない強みがあった。文字の意味がわかっても、文脈を理解するには文化の知識が不可欠だ。二人の知識は、互いに欠けた部分を補い合う形で機能した。


「ここの記述は祈祷の形式だ。アスガリアの術者は、魔法を発動する際に特定の句を唱えていた。この石板は、発動句の一覧かもしれない」


「発動句かぁ。ボクの精霊術とは体系が全然違うけど、魔力を特定の形に整えるっていう基本原理は同じだね。この句のパターン、回路の文様と対応してるのかも」


「回路の文様と?」


「うん。水路の壁に刻まれてた幾何学文様。あれが魔力の流れを制御するためのものなら、発動句はその流れを起動するための鍵みたいなものじゃないかな」


フィロが棚から別の石板を引き出した。回路の文様を記録した設計図のようなものだった。文様のパターンと発動句の形式を重ね合わせると——


「合致する。文様の結節点ごとに、対応する発動句がある」


「やっぱり。この都市の魔法体系、すごく論理的に設計されてる。造った人たち、相当な知性の持ち主だね」


「灰に呑まれなければ、今もこの都市は生きていたかもしれない」


フィロの声に、わずかに苦いものが混じった。


アウリィは手を止めて、フィロを見た。


「フィロ。さっき家がないって言ってたよね。聞いてもいい?」


唐突な質問だった。だが空気は、朝よりも柔らかくなっていた。一緒に作業をした時間が、二人の間の壁を薄くしていた。


フィロは手元の石板をゆっくりと棚に戻した。


「……私は、術者の家系の末裔だ」


「術者。アスガリアの?」


「いや。アスガリアが滅びた後も、各地に散った術者たちの子孫が、灰母に対抗する術を研究し続けていた。私の家はその一つだった。代々、古い魔法の知識を伝え、いつか灰母を打倒するための力を蓄えていた」


「いた——過去形だね」


「私の代で途絶えた」


フィロの声は平坦だった。だが左手が膝の上で拳を握っていた。


「何があったの」


「——十年前に、一族の長老たちが灰母への攻撃を決行した。長年の研究で編み出した術式を使って、灰母の核を撃つ。成功すれば灰母は消滅し、灰は止む。そう信じていた」


「結果は」


「失敗した。術式は灰母に届きすらしなかった。灰母は報復するように灰嵐を放ち、一族の拠点は——一晩で灰に埋もれた。術者も、その家族も、子どもも。逃げ遅れた者は、全員」


「フィロは」


「逃げた。長老たちが術式を発動する前に、異変を察して逃げた。私だけが。右手は——逃げるときに灰嵐に呑まれかけて、失った。灰に蝕まれた部分を、自分で」


フィロの左手が、右の手首の包帯に触れた。


「自分で切り落としたの?」


「そうしなければ全身が灰になっていた」


アウリィは息を吸った。吐いた。


何と言えばいいのかわからなかった。慰めの言葉は空虚だ。わかったふりをするのは不誠実だ。


「……教えてくれて、ありがとう」


それだけを言った。


フィロが顔を上げた。灰緑色の瞳が、アウリィの顔を見ている。


「同情しないのか」


「してるよ。でも同情されても嬉しくないでしょ」


「……ああ、嬉しくない」


「でしょ。だからありがとうって言ったの。話してくれたことに対して」


フィロは視線を落とした。包帯を巻いた右の手首を左手で握り、それから離した。


「お前に話す理由はなかった。だが——」


「だが?」


「わからない。話してもいいと思った。理由は、わからない」


アウリィは微笑んだ。悲しいのか嬉しいのかわからない、複雑な微笑みだった。


「ボクもね、理由がわかんないことばっかりだよ。旅を続ける理由も、最初はちゃんとあったはずなんだけど、もう曖昧になっちゃって。何のために歩いてるのかって聞かれたら、『わかんない』って答えるしかない」


「それでも歩くのか」


「歩くよ。だってここに来なかったらフィロに会えなかったし、この水がおいしいことも知らなかったし、この都市が眠ってるってことも知らなかった。知らなかったことを知るのは、理由がなくても楽しいもん」


フィロは何も言わなかった。だがその沈黙は、壁のある沈黙ではなかった。もっと柔らかい、何かを受け入れようとしている沈黙だった。


「さ、もうちょっと読もうよ。灰母の出自について書いてある石板、まだ見つかるかも」


アウリィが立ち上がり、棚に手を伸ばした。


その瞬間、精霊がざわめいた。


「——っ」


アウリィの動きが止まった。精霊術の索敵が、何かを捉えている。この書庫の——上。地上に近い場所に、生命反応。


一つではない。


複数。五つ、六つ——いや、もっと。十以上の生命反応が、一定の間隔で移動している。


「フィロ、上に何かいる。たくさん」


フィロの顔色が変わった。


「灰喰い(はいぐい)だ」


「灰喰い?」


「灰の中で生まれる獣。灰の魔力を取り込んで変異した生き物だ。普段はこの廃都には来ない。だが灰母が通過した後は、灰が濃くなった場所に群れで現れることがある」


フィロが短剣を握り直した。左手だけで。


「危険なの?」


「単体なら大したことはない。だが群れで来る。そして、生きている魔力を持つ者を嗅ぎつける」


アウリィの精霊術を嗅ぎつけた、ということか。


「ごめん、ボクの精霊術のせいかも」


「今は謝っている場合ではない。地下にいれば安全だが、地上の拠点が荒らされる。食料も水も、あそこに置いてある」


フィロが書庫を出て、水路を足早に進み始めた。アウリィはトランクを掴んで後を追う。


「戦えるの?」


「右手がなくても、左手で短剣は振るえる。数が少なければ」


「数は——」


精霊に再び意識を向ける。反応が揺れている。灰の魔力に干渉されて正確な数が掴めない。だが十五、いや二十近い反応がある。


「多い。二十くらい」


フィロの足が一瞬止まった。すぐに歩き出した。だが歩調が変わっていた。


二十は多い。短剣一本で、片手で相手をするには。


アウリィはフィロの背中を見つめた。灰色のフードの下で、肩が強張っている。三年間、この廃都で一人で生き延びてきた人間の背中。慣れているのだ。危険にも、孤独にも。だが慣れていることと、余裕があることは違う。


「ボクも戦えるよ」


フィロが振り返った。


「お前が?」


「うん。見た目に騙されないでね」


アウリィは右手を軽く振った。何もない空間に手を差し入れる——ように見えた。精霊術による収納空間。手を引き抜くと、その手に銀色の輝きが握られていた。


槍だった。


アウリィの身長よりもはるかに長い、ミスリルの聖槍。穂先は三日月のように湾曲し、柄には精緻な文様が刻まれている。光石の明かりを受けて、銀色の表面が青白く輝いた。


「——」


フィロが息を呑んだ。


「護身術はけっこう得意なの。槍は特に。長い間使ってるからね」


聖槍を軽く回す。狭い水路の中で、穂先が壁に触れることなく、正確に円を描く。数万年の歳月が研ぎ澄ました技量が、そのわずかな動作に現れていた。


フィロはしばらく聖槍を見つめ、それからアウリィの顔を見た。


「……子どもではないな」


「だから最初からそう言ってるでしょ」


むっとした声。だがすぐに、にっと笑った。


「行こう。フィロの家を守らなきゃ」


家、という言葉に、フィロの表情が一瞬だけ揺れた。家。あの崩れかけた建物を、家と呼んだのは——フィロ自身ですら、そう呼んだことがなかった。


「……ああ」


短い返事。だがその声には、アウリィが初めて聞く温度があった。


二人は走り出した。灰色の地下水路を、光石の明かりを頼りに。銀色の聖槍と、使い込まれた短剣を手に。


地上から、低い唸り声が聞こえてきた。


---


石の階段を駆け上がる。瓦礫をどかして地上に出た瞬間、灰色の空気の中に異臭が混じった。獣の匂い。だが動物のそれとは違う、鉱物的な、灰を焦がしたような匂い。


建物の前の通りに、影がいくつも蠢いていた。


灰喰い。それは——犬に似ていた。四つ足で、体は灰色で、表面がまだら模様に光っている。だが顔がなかった。頭部はのっぺりとした灰色の塊で、そこに裂けたような口だけが横に走っている。目も鼻もない。代わりに、体表全体が振動するように脈打っていた。灰の魔力を感知する器官が全身にあるのかもしれない。


大きさは中型犬ほど。だが二十匹近い群れが、通りを埋め尽くしている。そのうちの数匹が、フィロの住処——あの半壊した建物に入り込もうとしていた。


「ボクが前に出る。フィロは建物を守って」


「お前が——」


「任せて」


アウリィは走った。小さな身体が灰色の通りを駆け抜ける。聖槍を低く構え、穂先を後方に流した形。


最初の灰喰いが反応した。顔のない頭部がこちらを向き、裂けた口が開く。灰色の舌——いや、灰の塊のようなものが口腔に蠢いている。


跳びかかってきた。


アウリィの身体が沈んだ。灰喰いの爪が頭上を通過する。その下を潜り抜けながら、聖槍を一閃。穂先が灰喰いの腹を薙いだ。


切断面から灰が噴き出した。血ではなく、灰。灰喰いは二つに分かれて地面に落ち、灰の塊に戻って崩れた。


次。


右から二匹、左から一匹。同時に跳びかかってくる。


アウリィは聖槍の柄の尾端を地面に突いて跳躍した。小さな身体が宙に舞い、三匹の灰喰いが空を切る。着地と同時に槍を回転させ、二連撃。右の二匹が崩れた。残りの一匹には、落下の勢いを乗せた突きを叩き込む。穂先が灰喰いの頭部を貫通し、灰色の粒子が飛散した。


四匹。数秒。


「すごい——」


フィロの呟きが聞こえた。だが感嘆に浸っている暇はない。残りの灰喰いたちが、仲間の消滅に反応して一斉にこちらを向いた。


顔のない頭部が、十六も、こちらに向いている。


「……ちょっと多いかなぁ」


呟きながらも、口元は笑っていた。


群れが動いた。一斉にではなく、波のように。前列が突撃し、後列が回り込む。知性は低いが、群れとしての本能的な連携がある。


アウリィは精霊に呼びかけた。索敵ではなく、支援。風の精霊への依頼。


応答は——来た。弱いが、来た。


「お願い、少しだけ力を貸して」


足元に風が渦巻く。微弱だが、アウリィの動きを後押しするには十分。通常よりも速く踏み込み、通常よりも鋭く切り返す。聖槍が弧を描くたびに灰喰いが崩れ、灰が舞い、そしてまた次が来る。


七匹目を斬ったところで、建物の中から破壊音が聞こえた。


「フィロ!」


振り返る。建物の布の目隠しが引き裂かれ、中に灰喰いが三匹入り込んでいた。フィロが短剣で一匹を斬り伏せたが、残りの二匹がフィロの左右から挟み込もうとしている。


片手。短剣一本。二方向からの同時攻撃に対応するには。


アウリィは聖槍を投げた。


正確に言えば、投擲したのではなく、精霊術で軌道を補正しながら射出した。ミスリルの槍が回転しながら飛び、建物の入り口を通過し、フィロの左側に迫っていた灰喰いを貫いた。


フィロが右側の灰喰いに短剣を突き立てる。二匹が同時に灰になって崩れた。


「大丈夫?」


「——大丈夫だ。それより、武器を手放して平気なのか」


「すぐ戻るから」


アウリィは右手を差し出した。建物の壁に突き刺さった聖槍が震え、引き抜かれ、宙を飛んでアウリィの手に収まった。精霊術による遠隔操作。弱い精霊の力でもこの程度なら可能だ。


残りの灰喰いは八匹。仲間の半数以上が消滅したことで動きが鈍くなっている。群れの勢いが削がれたのだ。


アウリィは通りの中央に立ち、聖槍を構えた。


「帰った方がいいよ。これ以上やると、全部灰になっちゃう」


灰喰いに言葉が通じるはずもない。だがアウリィの立ち姿から放たれる気配——数万年の歳月が鍛え上げた戦士の気配は、知性のない獣にも伝わるものがある。


灰喰いたちがじりじりと後退した。一匹、二匹と通りの奥に消えていく。最後の一匹がこちらを振り返り——顔のない頭部が何かを感じ取るように震え——そして走り去った。


静寂が戻った。


アウリィは聖槍を下ろし、息を吐いた。額に薄く汗が滲んでいる。精霊の力が弱いこの世界では、普段よりも体力を消耗する。自分の身体能力だけで補わなければならない部分が多い。


「終わったぁ」


聖槍を収納空間にしまう。手ぶらに戻ったアウリィは、また小柄で無害そうな少女にしか見えなかった。


フィロが建物から出てきた。短剣の刃についた灰を払い、鞘に収めながら、アウリィの前に立った。


「強いな」


「慣れてるだけだよ。長く生きてると、嫌でも戦いには慣れちゃうの」


「謙遜するな。あれは『慣れ』の域を超えている」


「……そうかな」


フィロの目が真っ直ぐにアウリィを見ていた。灰緑色の瞳に、新しい感情が混じっている。敬意。そして——


「お前が——この世界に来たのは、偶然だと言ったな」


「うん。どの世界に行くかはボクには選べないから」


「偶然か」


フィロは空を見上げた。灰色の空。変わらない空。


「偶然だとしても——来てくれて、よかった」


アウリィは目を丸くした。


それからゆっくりと、花が咲くように笑った。


「ボクも。ここに来てよかった」


灰が降っている。静かに、絶え間なく。灰色の世界で、二つの影が並んで立っていた。


建物の中に戻り、散乱した荷物を片付ける。灰喰いに荒らされたが、食料と水は無事だった。フィロが灰喰いの侵入に素早く対処したおかげだ。


毛布を敷き直し、水を飲み、ようやく一息つく。


アウリィは日記帳を開いた。


——二日目。地下水路を探検した。書庫を見つけた。旧アスガリア語を少しだけ解読できた。灰母は「空のものにあらず」、別の存在かもしれない。フィロの過去を聞いた。術者の家系の最後の一人。右手は灰嵐で。灰喰いと戦った。精霊の力が弱いから、いつもより疲れる。でもフィロが「来てくれてよかった」って言ってくれた。


ペンを止めて、最後の一文をもう一度読み返した。


来てくれてよかった。


何度も聞いてきた言葉だ。いくつもの世界で、いろんな人に。だが聞くたびに、胸の奥が温かくなって、同時に少しだけ痛む。


この世界にもいずれいられなくなる。情が移りすぎてはいけない。長居はしすぎないように。それは自分で決めたルールだ。


でも。


「フィロ」


「何だ」


「明日も書庫に行こう。もっと読みたい石板がある」


「……ああ」


フィロが小さく頷いた。


アウリィは日記帳を閉じ、ポーチにしまった。マントを引き上げて身体を包む。


「今夜はボクが見張るよ。有無を言わさず。フィロは寝て」


「——」


「寝て」


フィロが何か言おうとして、やめた。短剣を膝から下ろし、壁にもたれて目を閉じた。


アウリィは入り口の布の傍に座り、外の気配に意識を向けた。精霊の薄い膜を周囲に張る。弱い探知だが、灰喰いが再び近づけばわかる程度には機能する。


灰色の闇の中で、フィロの寝息が聞こえ始めた。浅い、不規則な呼吸。だがやがて、少しずつ深くなっていった。


三年ぶりに、誰かが傍にいる夜だからかもしれない。


アウリィは膝を抱えて座り、外の闇を見つめた。灰が降り続けている。音もなく、止むこともなく。


「……ボクはいつまでここにいられるのかな」


誰にも聞こえない声で呟いた。


答えはない。いつも、ない。


赤い彼岸花の髪飾りが、灰色の闇の中で、かすかに揺れていた。

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