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1話「落下する旅人」

落ちている、とアウレーリエ・リュコーリアスが認識したのは、頬を打つ風の冷たさが変わった瞬間だった。


世界と世界のあいだ——あの色のない空白を抜けるたび、身体の感覚が一瞬だけ途切れる。呼吸も、鼓動も、重力すらも存在しない場所を通過して、次に意識が戻ったときには、いつも何かしらの「出迎え」がある。


今回の出迎えは、自由落下だった。


「——わぁっ」


風が耳元で唸っている。目を開くと灰色の空が広がっていた。雲ではない。空そのものが灰色をしている。鉛を溶かして天蓋に塗りつけたような、重たく、均一な色。太陽がどこにあるのかわからないのに、ぼんやりとした明るさだけがあった。


身体がくるりと回転する。下が見えた。


大地も灰色だった。ただし空よりもずっと複雑な灰色で、黒に近い影と白に近い光の帯が入り混じっている。建物の残骸のようなものが見える。崩れた塔、半ば地面に呑まれた壁、規則性のない瓦礫の連なり。どこかの都市が、まるごと灰に埋もれたような光景だった。


高度はおよそ——百メートル、いや、もう少しあるかもしれない。


「落下は久しぶりだなぁ」


声に出して言ったところで、風に千切られて自分の耳にもほとんど届かない。だがアウリィは呟くことをやめなかった。声を出している限り、自分がちゃんとこの世界に在るのだと確認できる。


真紅のマントが風を受けて激しくはためく。裏地の黄色がちらちらと見えるたび、灰色ばかりの視界にそこだけ色彩が弾けた。


アウリィは右手の指先に意識を集中した。精霊術。風の精霊に呼びかけ、落下の衝撃を緩和する——いつもの手順。


けれど、指先に触れてきた気配は、ひどく弱々しかった。


「……うーん」


応えはある。だが精霊たちの声が遠い。この世界の風の精霊は、眠っているのか、あるいはもともと活性が低いのか。異世界を渡るたびに精霊との相性は変わる。歓迎される世界もあれば、そっぽを向かれる世界もある。


今回は後者に近いらしい。


完全な無力ではない。指先にわずかな抵抗感が生まれ、身体の周囲に風の薄い膜が形成されていく。落下速度が少しずつ、少しずつ落ちていく。だが「少しずつ」であって、地面は確実に近づいている。


「もうちょっと、もうちょっとだけお願い——」


囁くように精霊に語りかける。命令ではなく、お願い。精霊術の基本だと、遥か昔に誰かに教わった。誰だったかは、もう思い出せないけれど。


風の膜が厚くなる。速度がさらに落ちた。それでも「安全な着地」にはまだ足りない。


ならば、と。


アウリィは空中で身体をひねり、足を下にした。ブーツの底が視界の下端に来る。赤褐色の革は龍のそれで、並の衝撃では傷一つつかない。あとは膝と足首で衝撃を吸収すればいい。数えきれないほど繰り返してきた所作だ。


地面が迫る。灰色の瓦礫の隙間に、かろうじて平坦な場所が見えた。そこを狙う。


着地。


轟音ではなかった。むしろ鈍い音だった。灰が舞い上がり、足元の石が何枚かひび割れ、衝撃が膝から腰、背骨を伝って頭のてっぺんまで駆け抜けた。痛みは——ある。だが骨が折れるほどではない。


「——っ、と」


両手をついて姿勢を安定させ、ゆっくりと立ち上がる。マントの裾についた灰を払い、軽く身体の各部を確認した。異常なし。靴も問題ない。


「よし。ちょっと雑だったけど、合格」


誰に向けてでもなく、自分に点数をつける。それから周囲を見回した。


灰の世界だった。


足元は細かい灰が積もった石畳で、その石畳自体も半ば崩壊している。左手には壁の一部だったらしい巨大な石板が斜めに突き刺さり、右手には何かの柱が三本、折れた歯のように並んでいた。正面にはゆるやかな下り坂があり、その先に広がるのは、見渡す限りの廃墟だった。


建物だった残骸が、どこまでも続いている。かつて大きな都市があったのだということは想像できる。しかし今は何もかもが崩れ、灰をかぶり、沈黙していた。


風が吹いた。灰を巻き上げて、すぐに止む。音がない。虫の声も、鳥の声も、水の流れる音も。


「……しずかだなぁ」


その静けさは、アウリィの知る「静寂」の中でも、かなり深い部類のものだった。


死んだ世界に来てしまったのだろうか。そういう場所がないわけではない。生命が完全に途絶え、岩と水だけが残された世界を通り過ぎたことも、遥か昔にはあった。あったはずだ。記憶が摩耗していて、風景の断片だけが残っている。


アウリィは髪を耳の後ろにかけ直した。黄金の髪が灰色の世界では異質なほど明るい。三つ編みにしたおさげの先に灰がついていたので、指で弾いて落とした。


「まずは、歩いてみないとわかんないよね」


トランクの持ち手を握り直す。いつも通りの、内部拡張された革のトランク。見た目には小振りだが、中には日用品から旅の道具から、もう何が入っているのか自分でも把握しきれていない量の荷物が詰まっている。重さは魔法で軽減されているから、持ち運びに支障はない。


腰のベルトポーチに手を触れて中身を確認する。日記帳、筆記具、換金用の宝石をいくつか。もう一方のポーチには軟膏や小瓶がいくつか。どちらも無事。


下り坂を降り始めた。ブーツが灰を踏むたびに、くしゅ、くしゅ、と小さな音がする。この世界に来て初めて聞く、自分以外が——いや、自分が生み出す音だった。


歩きながら、精霊に意識を向ける。索敵。生命の気配を探る術だ。


精霊たちの応答はやはり鈍かった。普段なら半径数百メートルの生命反応を感じ取れるところが、今は五十メートルも覚束ない。もやのかかった視界で遠くを見ようとするような、あの感覚だ。


それでも、探れる範囲内には何もなかった。命の温度がない。


「相性悪いなぁ、ここの精霊。怒ってるのかな。それとも疲れてるの?」


返事はない。精霊は言葉を話さない。感覚で伝わってくるのは、倦怠感のようなもの。この世界の精霊たちは、何かにひどく疲弊しているらしい。


廃墟の通りを歩く。かつては大通りだったのだろう幅の広い道が、瓦礫で半ば塞がれている。建物の壁には装飾の跡が残っていた。浮き彫りの文様、幾何学的な模様、文字らしきもの。読めない文字だった。だがその造形は精緻で、この都市を築いた者たちの技術水準がかなり高かったことを示している。


「きれいな模様。……なんだったんだろうね、ここ」


指先で壁の浮き彫りをなぞった。灰の下から現れた石の表面は滑らかで、何千年経っても風化しきれないほどの硬度を持っていた。魔法で強化された建材か、あるいはそれに類する技術。


ふと、壁の一部に亀裂ではない穴が空いているのに気づいた。拳大の、妙に丸い穴。規則的に三つ並んでいる。弾痕——と呼ぶには大きすぎるが、何かが高速で衝突してできた跡のように見えた。


戦争。あるいは、それに類する何か。


この都市が滅びた理由の片鱗が、そこにあった。


アウリィは穴を見つめたまま、数秒だけ立ち止まった。それから視線を外し、歩き出す。過去を掘り返しすぎると、しんどくなる。自分自身の過去もそうだし、世界の過去も同じことだ。


知りたくないわけではない。むしろ知りたい。知ることは好きだ。でも、知ったところで何もできない過去に沈み込むのは、あまり健全な趣味とは言えない。


「日記、書こうかな。あとで忘れちゃうし」


そう呟いて、しかしまだ書くには情報が少ないとも思った。もう少し歩いてからにしよう。


坂の底まで降りると、道が広場のようになっていた。灰に埋もれた噴水の残骸が中央にあり、その周囲に放射状に道が伸びている。どちらに行くか。


精霊に再び意識を向ける。薄い膜のような探知が周囲に広がり——


かすかに、何かを捉えた。


生命反応。ひとつ。かなり弱い。北東の方角、ここからだと噴水の右斜め奥に伸びる道の先。距離はわからない。精霊の反応が鈍すぎて、正確な距離が測れない。


「いた。……生きてる」


思わず声が弾んだ。死んだ世界ではなかった。少なくとも一人は、何かが、誰かが、いる。


足取りが自然と速くなる。瓦礫を跨ぎ、崩れた壁を迂回し、灰の上に自分の足跡だけを刻みながら進む。


---


道は徐々に狭くなっていった。大通りから路地へ、路地からさらに細い通路へ。建物の残骸が左右から迫り、空が細い帯になる。灰色の帯。


生命反応は、少しずつ近づいている。


通路の先に、半壊した建物があった。屋根の半分が崩落し、残った半分が斜めに傾いている。もともとは二階建てだったらしいが、二階部分は完全に瓦礫と化していた。一階の入り口には、布きれが目隠しのように垂らされている。


灰色の世界で、その布きれだけが——いや、灰をかぶって灰色になってはいるのだが、もとは別の色だったことがわかる。端の方にわずかに残った青い染料の色。


誰かが、ここに住んでいる。あるいは、隠れている。


アウリィは布の前で立ち止まった。足音を殺していたわけではない。むしろ普通に歩いてきた。だから中にいる誰かには、接近は気づかれているはずだ。


「こんにちはー」


声をかけた。明るい声。意識してそうしたわけではなく、もともとの地声がそうなのだ。


返事はない。


だが、布の向こう側で、何かが動く気配がした。衣擦れに似た音。そして、金属が触れ合うかすかな音。武器だろうか。


「怪しい者じゃないよ。旅人。ここに来たのは初めてで、道もわからなくて。誰かいるなら話がしたいなぁって」


沈黙。数秒。長い数秒。


それから、低い声が返ってきた。


「……旅人?」


女の声だった。若い——とも言い切れない。かすれていた。水を十分に摂っていないときの、あの乾いた声。


「うん、旅人。ボク、アウリィっていうの。お話できる?」


布がわずかに動いた。隙間から片目だけがこちらを覗く。暗い灰緑色の瞳。警戒の色が濃い。


その目がアウリィを上から下まで見た。黄金の髪、黄色い瞳、赤褐色のベストにマント、トランク。そしてその視線が、一瞬だけ、アウリィの耳に止まった。


長い耳。人間のそれとは明らかに違う、優美に尖った耳。


「……エルフ?」


「うーん、まぁ、近いかな。ハイエルフって言うんだけど、ここにはそういうの、いない?」


沈黙。それから布が少しだけ持ち上がった。


「この世界に、エルフはいない」


断定的な言葉だった。つまり相手は「この世界」という言い方をした。それは興味深い。


「だよねぇ。ボク、別の世界から来たの。信じてもらえないかもしれないけど」


布がさらに持ち上がる。中にいた人物が、半ば姿を見せた。


灰色のフードを目深にかぶった、痩せた女性だった。身長はアウリィよりかなり高い。背が高いというよりは、手足が長い。フードの下から見える顔は、灰と埃で汚れていたが、骨格は端正だった。左手に短剣を握っている。右手は——


右手は、手首から先がなかった。


包帯が巻かれている。最近の傷ではなさそうだ。包帯は古く、灰色に変色している。


「別の世界」


女性はその言葉を繰り返した。否定でも肯定でもない、ただ反芻するような口調。


「信じるも何も、今この廃都に生き物が歩いてくること自体がありえない。あの灰嵐を越えてきたというなら、人間でないのは確かだろう」


「灰嵐?」


「知らないのか。なら本当にこの世界の者ではないのか、あるいは嘘が上手いか」


「嘘は下手だよ、ボク。すぐ顔に出るって言われる」


女性の目がわずかに細くなった。笑ったのか、怪しんだのか、判別がつかない。


「名前を言ったな。アウリィ、と」


「うん。アウレーリエ・リュコーリアス。長いからアウリィって呼んで。あなたは?」


女性は短剣を下ろした。完全に警戒を解いたわけではないだろうが、即座に斬りかかるつもりはなくなったらしい。


「……フィロ」


「フィロ。いい名前だね」


「それだけだ。家名はもうない。家がないのだから」


短く、硬い言い方だった。それ以上踏み込むな、という壁が言葉の端に立っている。アウリィはそれを感じ取って、素直に頷いた。


「フィロだね。よろしく」


フィロは布を持ち上げたまま、少し迷うような仕草を見せた。それから、ぶっきらぼうに言った。


「入れ。外は長くいる場所じゃない。灰が肺を蝕む」


「ありがとう!」


布をくぐって中に入る。室内は薄暗かった。崩れた壁の隙間から差し込む灰色の光が唯一の照明で、奥の方に毛布が一枚と、水の入った容器がいくつか、乾燥した食料のようなものが少量。生活感はあるが、豊かとは言えない。むしろ、ぎりぎりの生存線上にある暮らしだった。


トランクを足元に置き、アウリィは崩れた壁に背を預けて座った。フィロは向かい側の壁際に腰を下ろし、短剣を膝の上に置いたまま、じっとこちらを見ている。


「ねぇ、フィロ。ここ、何があったの?」


単刀直入な問いだった。繊細さに欠けるかもしれないと思いつつ、知りたいことは聞かないと始まらない。


フィロは目を伏せた。


「何があった、か。短く言えば、滅びた。長く言えば——」


言葉が途切れる。灰色の瞳が、壁の向こう側の何かを見ている。


「長く言えば?」


「——長く話すほどの相手か、まだわからない」


「それもそっかぁ」


あっさりと引き下がったのが意外だったのか、フィロが少し目を見開いた。


「怒らないのか」


「え? なんで怒るの?」


「普通は苛立つものだ。知りたいことを拒まれたら」


「んー、まぁ、知りたいけど、無理に聞くことでもないし。フィロが話したくなったら聞くよ。ボク、急いでないから」


嘘ではなかった。急いでいない。いつこの世界を離れることになるかわからないが、世界が自分を「受け入れて」いる間は時間がある。


フィロは黙った。短剣の柄を左手の親指でなぞりながら、何かを考えている様子だった。


沈黙が重くなる前に、アウリィはベルトポーチから革張りの日記帳を取り出した。


「そうだ、記録つけなきゃ。えーっと……」


ページを開く。直前の記述があった。前の世界の最後の日に書いたものだ。


——曇り空の港町、最後のシチューがおいしかった。猫に見送られた。名残惜しいけど、もう行かなきゃ。


読み返して、少しだけ胸がきゅっとなった。港町の猫の顔はもう思い出せない。たった一つ前の世界なのに、もう輪郭がぼやけている。


いつもこうだ。世界を離れると、記憶が砂のように指の隙間からこぼれていく。数千年、数万年と生きてきた代償なのか、それとも世界を渡るという行為自体が記憶を削るのか。アウリィ自身にもわからない。だから日記を書く。文字にしておけば、忘れても読み返せる。


新しいページに書き始めた。


——新しい世界。灰色。空も地面も灰色。大きな都市の廃墟に落ちた(文字通り落ちた)。精霊の反応がすごく鈍い、索敵もぼんやり。住人のフィロに会った。右手がない。怒ってはないけど壁が厚い感じ。


ペンを止めて、ちらりとフィロを見る。フィロはこちらを見ていた。


「日記?」


「うん。旅の記録。忘れちゃうから、書いておくの」


「忘れる?」


「ボク、記憶があんまり良くなくて。特に古い記憶がね。昔のことはほとんど覚えてないんだ」


フィロの眉がわずかに動いた。何かを言いかけて、飲み込んだようだった。


アウリィは日記帳を閉じ、ポーチに戻した。


「ねぇ、一つだけ聞いてもいい? さっき灰嵐って言ってたでしょ。それって何? 外にいるとまずいの?」


これは安全に関わる質問だ。世界のことを詳しく聞くのとは違う。フィロもそう判断したのか、今度は答えた。


「灰嵐は灰嵐だ。灰が風に巻き上げられて壁のようになる。この廃都の周囲を、不定期に取り囲む。嵐の中では視界がなくなるだけでなく、灰が肺を焼く。魔力を帯びた灰だから、普通の防具では防げない。——まぁ、今は止んでいるが、いつ来るかわからない」


「へぇ……魔力を帯びた灰か。だから精霊が元気ないのかなぁ」


「精霊?」


フィロの声に、微かな驚きが混じった。


「精霊を使うのか、お前は」


「使うっていうか、お願いする感じ。精霊術って言って、ボクの世界では——あ、ボクの故郷では、わりと一般的なんだけど。この世界にはない?」


フィロは短剣から手を離し、額に手を当てた。


「……精霊の概念はある。だが術として操る者は、この世界では——少なくとも灰が降り始めてからは、いなくなった。精霊が沈黙した、と古い文献には書いてあった」


「沈黙」


「そうだ。応えなくなった。だから精霊術は失われた技術だ。何百年も前に」


何百年。アウリィはその言葉を噛んだ。この廃墟が何百年もこの状態なのか。それとも灰が降り始めたのが何百年前で、都市が滅びたのはもっと後なのか。


聞きたいことが増える。でもフィロの壁がまだ厚いことも感じている。少しずつでいい。


「精霊が沈黙した、か。でもボクの精霊術は、かろうじて反応があったよ。すっごく弱いけど」


「……本当に、別の世界から来たのだな」


フィロの声のトーンが変わった。硬さが少しだけ薄れて、代わりに戸惑いのような色が混じっている。


「本当だよ。嘘ついても証明する方法がないから困るんだけどね。でもほら」


アウリィは耳を指さした。


「エルフいないんでしょ? この耳は付け物じゃないよ。引っ張ってみる?」


「……遠慮する」


フィロの口の端が、ほんの少しだけ動いた。笑みとは言えない。でも、敵意の後退ではあった。


外から風の音がした。布の目隠しが揺れ、灰色の粒子がわずかに室内に舞い込む。アウリィはマントの端で口元を覆った。マントの加護が灰の魔力を弾く感触がある。ぴりぴりとした、微弱な抵抗。


「灰……確かに、普通じゃない灰だね。変な魔力が混じってる」


「それがわかるのか」


「肌で感じるっていうか……ぴりぴりする。嫌な感じ」


フィロが頷いた。


「灰は魔力の残滓だ。この世界を滅ぼしたものの名残。何百年も降り続けている。地面に積もり、空を覆い、生きているものを少しずつ蝕んでいく」


「この世界を滅ぼしたもの?」


フィロは口を閉じた。また壁だ。今度はアウリィも引き下がった。


代わりに別のことを言った。


「ねぇ、お水もらえたりする? 持ってきてはいるんだけど、ここの水がどんなものか知りたくて」


フィロは水の容器を一つ取り、差し出した。灰色の陶器。蓋を開けると、透明な水が入っていた。匂いはない。


「地下から汲んでいる。廃都の下に古い水路が残っている。灰に汚染されていない深層の水だ」


アウリィは一口含んだ。冷たい。そして——


「おいしい」


目を見開いて、もう一口飲んだ。


「すっごくおいしい。この水、すごくきれい。こんなに灰だらけなのに、地下にこんな水があるんだ」


フィロが少し呆気にとられた顔をした。


「……そんなに喜ぶものか」


「おいしいものを飲んだら嬉しいでしょ? 当たり前のことで喜ばない理由がないよ」


アウリィは水を返しながら、にっと笑った。黄色い瞳が灰色の薄闇の中で琥珀のように光る。フィロはその笑顔を見て、何とも言えない表情をした。困惑と、既視感と、それからもう一つ、名前をつけられない感情が入り混じったような顔。


「お前は——いや」


「ん?」


「……いくつだ」


「え?」


「年齢だ。見た目は子どもだが、そうではないのだろう」


アウリィの笑顔が一瞬だけ固まった。それからすぐに元に戻ったが、目の奥の光がわずかに変わった。


「子どもじゃないよ。これでもけっこう生きてるの」


「けっこう、とは」


「えーっと……」


指を折って数えようとして、やめた。数えられないのだ。正確な年数はとうの昔に曖昧になっている。数万年という単位でしか自分の年齢を把握できない。それを口にしたところで意味があるとも思えなかった。


「たくさん」


「たくさん」


「うん。たくさん。いろんな世界を渡ってきて、たくさんの時間が経った。それだけは確か」


フィロはそれ以上追及しなかった。彼女もまた、踏み込まれたくない領域を持つ者だからかもしれない。他者のそれにも敏感なのだろう。


外の風が止んだ。静寂が戻る。


アウリィはふと、壁に刻まれた模様に気づいた。室内の壁にも、外で見たのと同じ幾何学文様がある。ただし室内のものはより細密で、何かの図表のようにも見えた。円環と直線の組み合わせ。中心に六角形。


「この模様、何を表してるの?」


フィロが壁を見た。


「旧時代の紋章だ。アスガリアという名の——この都市の名だ。かつてはこの大陸で最も栄えた学術都市だった」


「学術都市。道理で精密な造りだ」


「知識と魔法の都。そう呼ばれていたらしい。——らしい、というのは、私が生まれたときにはもう半ば廃墟だったからだ」


フィロの口調が少しだけ柔らかくなっていた。都市の歴史を語るとき、彼女の壁はわずかに低くなるらしい。自分自身のことではないから、語れるのかもしれない。


「フィロはここで生まれたの?」


「この都市ではない。だがこの大陸で。この廃都には三年ほど前に来た。他に行く場所がなくなって」


「三年かぁ。一人で?」


「一人だ」


また壁が上がった。一人である理由、右手をなくした経緯、家名がないと言った背景。そのすべてが壁の向こう側にある。


アウリィはそれを感じながら、あえて軽い調子で言った。


「ボクも一人旅だよ。ずーっと一人。たまに誰かと一緒になることもあるけど、最終的にはいつも一人になる。世界を渡るとき、誰かを連れていけないから」


フィロがこちらを見た。灰緑色の瞳に、何かの影が映っている。


「寂しくはないのか」


「寂しいよ」


即答だった。アウリィ自身が驚くほどの即答。


「寂しい。いつも。でも、だから余計にね、新しい場所で新しい人に会うと嬉しいの。フィロに会えたのも、ボクはすごく嬉しい」


フィロは何も言わなかった。だが視線を逸らさなかった。


しばらくの沈黙のあと、フィロが立ち上がった。


「腹は減っていないか」


「え、あ、うん、ちょっと空いてるかも」


「少しだけなら分けられる。多くはないが」


フィロが奥から取り出してきたのは、乾燥させた何かの根と、硬い穀物を圧縮したような棒状の保存食だった。彼女は短剣を器用に左手で扱い、乾燥根を薄く削って保存食と一緒にアウリィに差し出した。


「ありがとう。——あ、ボクも何か出すよ」


トランクの留め金を外し、蓋を開ける。中は見た目よりも遥かに深く広い。アウリィは腕を肩まで突っ込んで、がさごそと探った。


「えーっと、どこにしまったっけ……あ、これ違う、これも違う……あったあった」


取り出したのは、布に包まれた小さな瓶だった。琥珀色の液体が入っている。


「蜂蜜。……たぶん三つくらい前の世界で手に入れたやつ。傷んでないといいんだけど」


蓋を開けて匂いを嗅ぐ。甘い。大丈夫そうだ。


「これ、保存食につけて食べると少しはおいしくなると思う」


フィロは蜂蜜の瓶をじっと見つめた。琥珀色の液体は、この灰色の世界では信じられないほど鮮やかな色をしていた。


「……蜂蜜」


「食べたことある?」


「子どもの頃に。一度だけ」


「じゃあ久しぶりだね」


アウリィは保存食の端に蜂蜜を少し垂らし、フィロに渡した。フィロは受け取り、一瞬だけ躊躇してから口に入れた。


咀嚼する。硬い保存食が砕ける音。そして蜂蜜の甘さが広がったのだろう、フィロの目が一瞬だけ見開かれた。


「……甘い」


「でしょ」


フィロの顔から、ほんの束の間、警戒が消えた。それはほんの一瞬で、すぐにいつもの硬い表情に戻ったが、アウリィはその一瞬を見逃さなかった。


蜂蜜の味を覚えているくらいには、この人にも穏やかな過去があったのだ。


二人は無言で食事を終えた。灰色の世界の、灰色の部屋で、ささやかな甘さを分け合っただけの時間。だが、その時間が空気をほんの少し変えた。


食事の後、アウリィは再び日記帳を開いた。


——フィロにご飯をもらった。蜂蜜を分けた。おいしいものは、どの世界でもおいしい。フィロは壁が厚いけど、中に優しさがある気がする。学術都市アスガリア。灰嵐、魔力の灰、精霊の沈黙。この世界を滅ぼしたもの。何があったんだろう。


そこまで書いて、ペンを止めた。


外の空気が変わった。


風ではない。気圧でもない。もっと根源的な、大気そのものの密度が変わるような感覚。精霊がかすかにざわめいている。眠っていた精霊が、何かに反応して身を震わせている。


「フィロ」


「わかっている」


フィロはすでに立ち上がっていた。短剣を握り、布の目隠しの隙間から外を窺っている。彼女の体が強張っていた。


「来るぞ」


「何が?」


「灰嵐——いや、違う。これは——」


フィロの声が途切れた。彼女の顔から血の気が引いている。


外から、音が聞こえてきた。


最初はかすかな振動だった。地面が震える。足裏から伝わってくる規則的な振動。何かの足音——ではない。足音よりも重く、低く、大地そのものが脈打っているような響き。


そして、灰色の空に、何かが映った。


布の隙間から見えた空の一角に、黒い影が浮かんでいた。最初は雲かと思った。だがそれは動いていた。ゆっくりと、しかし確実に、こちらに向かって。


影の輪郭がはっきりしてくる。巨大な——何だ、あれは。


鯨のような形をしていた。だが鯨ではない。鯨が空を飛ぶ世界はアウリィも見たことがあるが、あれはそういう生き物ではなかった。表面が灰色に脈動しており、所々にひび割れた光の線が走っている。光は赤黒い。溶岩の光に似ているが、もっと冷たい色だ。


そしてその巨大な影の下方から、灰が降っていた。雪のように。だが雪よりもゆっくりと、粘り気のある軌道で。その灰が大地に触れるたびに、触れた場所が灰色に変わっていく。色を吸い取るように。


「……灰母」


フィロが呟いた。


「灰母?」


「この世界を覆った灰の根源。あの存在が灰を降らせる。数百年前に突然現れて、この世界の色を——生命を食い尽くしていった。倒す方法は誰にもわからなかった。だから人は逃げた。逃げきれなかった者は灰になった」


フィロの声は平坦だった。感情を排した、事実だけの羅列。だがその平坦さの下に、どれほどの感情が押し込められているか、アウリィには想像できた。


「あれが、この世界を滅ぼしたもの」


「そうだ」


灰母の影が近づいてくる。大地の振動が強くなる。建物の壁から砂埃が落ち、天井の残骸が軋んだ。


「ここにいて大丈夫?」


「地下に降りれば、灰母が通過するまで凌げる。灰母は地上の灰を撒くだけで、地下には来ない。——少なくとも、今まではそうだった」


フィロが奥の壁に向かった。瓦礫の一部を動かすと、その下に石の階段が現れた。暗い穴。地下への入り口。


「来い」


「う、うん」


アウリィはトランクを掴んで立ち上がった。しかし入り口の前で、一瞬だけ足を止めた。


振り返って、布の隙間からもう一度、灰母を見た。


巨大な存在が灰色の空をゆっくりと渡っていく。灰が降る。世界が灰に沈んでいく。あの存在が何百年もかけて、この世界のすべてを灰色に変えてきた。


精霊が怯えている。かすかに感じる精霊たちの存在が、震えている。灰母を恐れている。


「……ボクの精霊術が弱いの、あれのせいなんだね」


「そうだ。灰母が精霊を蝕んだ。精霊が沈黙したのは自らの意思ではなく——」


フィロが言葉を切った。アウリィが振り返って、彼女の顔を見ていた。


黄色い瞳に、怒りでも恐怖でもない、静かな光が灯っていた。


「フィロ。この世界のこと、もっと教えてほしい」


「……なぜだ。お前はよそ者だろう。この世界に用があるわけでもなく、いずれ去る者だ」


「うん。いずれ去る。でも今はここにいるよ。ここにいる間は、この世界のことを知りたい」


フィロが何かを言おうとした。だがその前に、地面が大きく揺れた。灰母が近い。


「話は後だ。降りろ」


「はーい」


石の階段を降りていく。フィロが後から続き、入り口を瓦礫で塞いだ。暗闇が満ちた。


アウリィはベルトポーチから小さな石を取り出した。精霊術で淡い光を灯す。弱々しい光だったが、階段を照らすには十分だった。


「……そんなものまで持っているのか」


「何でも入ってるよ、このトランク。散らかりすぎてて探すのが大変なんだけどね」


階段の底に着いた。地下水路だった。天井が低く、足元に細い水流がある。あの透明でおいしい水だ。水路は左右に伸びており、暗闇の中に消えている。


壁に背を預けて座る。灰母の気配が頭上を通過していくのを感じる。精霊が身を縮めている。大地が断続的に震える。


フィロが向かいの壁にもたれた。暗がりの中で、灰緑色の瞳が光石の明かりを反射している。


「何度目だ」


「え?」


「世界を渡るのは、何度目だ」


「……数えてない。数えきれないくらい」


「数えきれないくらいの世界を見てきて、まだ知りたいと思うのか。見飽きないのか」


「飽きないよ。全部違うもの。水一つとってもね、世界ごとに味が違う。ここの水は今まで飲んだ中でもかなりおいしい方だよ。それだけで、ここに来た甲斐があったなぁって思う」


フィロが小さく息を吐いた。呆れなのか感嘆なのか。


「……変わった奴だ」


「よく言われる」


二人の声が地下水路に反響する。頭上の振動が少しずつ遠ざかっていく。灰母が通り過ぎようとしている。


「一つ聞く」


フィロが言った。今度はフィロの方からだった。


「うん」


「お前がこの世界を離れるのは、いつだ」


「わからない。この世界がボクを受け入れてくれている間だけいられるの。それがいつ終わるかは、ボクにもわからない。明日かもしれないし、一月後かもしれない。急に終わるから」


「急に」


「そう。ぶつっと、切れるみたいに。だから——」


だからあんまり長居はしたくない、という言葉を、アウリィは飲み込んだ。


代わりに出てきたのは、別の言葉だった。


「だから、いる間にできることをしたい。何ができるかまだわかんないけど」


フィロは答えなかった。暗闇の中で、水の流れる音だけが続いている。


やがて、地上の振動が完全に消えた。灰母が去ったのだ。


フィロが立ち上がった。


「戻るぞ。——明日、この水路を案内してやる」


「え、いいの?」


「この都市で動くなら、地下を知っておく必要がある。それに——」


フィロが階段の方に歩き出しながら、背中越しに言った。


「お前の言う精霊術とやらに、興味がないわけではない」


アウリィの顔が、暗闇の中で花が咲くように綻んだ。


「やった。じゃあボクも、この世界のこと教えてね」


返事はなかった。だが、階段を上るフィロの足取りが、降りてきたときよりもわずかに軽くなっていることに、アウリィは気づいていた。


地上に出ると、灰がさらに厚く積もっていた。灰母が通過した痕跡だ。だが空は——相変わらず灰色だが、先ほどよりも少しだけ明るい。灰母が去った後の一時的な小康状態なのかもしれない。


建物に戻り、布の目隠しをかけ直す。フィロが水を飲み、アウリィもトランクから自分の水筒を出して飲んだ。


「今日はもう寝ろ。灰母が通った後は比較的安全だ。次が来るまで少し間がある」


「フィロは?」


「私は見張る」


「交代しようよ。ボクも見張れるよ」


「信用していないわけではないが——」


「してないでしょ」


アウリィがにやっと笑う。フィロが一瞬だけ言葉に詰まった。


「……半分は信用している」


「半分で十分。じゃあ後半はボクが見張るね。おやすみって言われたら素直に寝てね」


フィロは何か言おうとして、やめた。代わりに短剣を膝の上に置き、壁にもたれた。


「……好きにしろ」


アウリィは毛布を敷き——フィロの毛布は一枚しかなかったので、自分のマントを毛布代わりにした。真紅のマントは環境の変化から身体を守る加護があるから、寝具としても十分に機能する。


横になって目を閉じる。灰の匂いが鼻をつく。だが不快というほどではない。もっとひどい匂いの世界もあった。


眠りに落ちる直前、日記に書き足すことを頭の中で整理した。


灰母。精霊の沈黙。滅びた学術都市アスガリア。右手のないフィロ。地下の水路。蜂蜜。


新しい世界の一日目。灰色で、静かで、少し悲しい世界。


でも水はおいしかった。


そして、一人じゃなかった。


黄色い瞳が閉じる。黄金の髪が灰色の床に広がる。赤い彼岸花の髪飾りが、薄闇の中でかすかに揺れた。


その髪飾りを、フィロが見ていた。


灰緑色の瞳が、赤い花を見つめている。この灰色の世界で、あの小さな旅人だけが持つ鮮やかな色彩を。


フィロは目を逸らし、入り口の布の向こうの灰色の闇を見た。


「……追想、か」


誰にも聞こえない声で、フィロは呟いた。


それが何を意味する言葉なのか、この世界では誰も知らない。フィロ自身も、なぜその言葉が口をついて出たのかわからなかった。


灰が、静かに降り続けている。

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