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5話「黄色い花は揺れて」

 雲海に沈んでいく。


 二機の翼艇が高度を下げるにつれ、世界が白に呑まれていった。雲の表層を突き抜けた瞬間、視界の一切が消え、湿った空気が風防を叩いた。蒸気機関の唸りだけが、ここがまだ現実であることを証明している。


「視界ゼロ。——ここからは計器頼りだ」


 カイが操縦桿を握り直した。声は平静だったが、革手袋の下の指先に力がこもっているのがわかった。


 助手席でミスリルの槍を抱えたアウリィは、目を閉じた。精霊と繋がる。蒸気と歯車のリズムに意識を乗せて、周囲の状況を探る。


「大丈夫。まだ安全圏だよ。この深さなら気流も安定してる」


「ナディヤ、聞こえるか」


 カイが通信管に向かって呼びかけた。雑音の向こうから、ナディヤの声が返ってくる。


『聞こえてる。あんたたちの高度は雲海表層から三十ストラル下。まだ余裕がある。——合図したら即座に上がれよ』


「了解」


 降下を続けた。白い霧が次第に灰色を帯びていく。雲の密度が増しているのだ。


 翼艇の計器盤で、いくつかの針が微かに揺れ始めた。


「……来たぞ。計器が不安定になってきた」


「うん。感じる。輝石の脈動が強くなってきてる」


 アウリィは精霊の感覚を通して、深層に近づいていることを感じ取っていた。あの圧力——世界の心臓が放つ力の奔流が、下方から押し寄せてくる。前回は感覚だけで触れて、弾き返されかけた。今回は身体ごとここにいる。


 槍を握る手に力を込めた。穂先の宝石が淡く輝く。


「カイ。もう少し下に——あと二十ストラルくらい降りたら、翼艇を止めて」


「止める? 空中でか」


「うん。そこから先は翼艇じゃ無理だと思う。ボクが精霊の力で降りる」


「あんた一人でか」


「ここまで連れてきてくれればいい。あとはボクの仕事だよ」


 カイが何か言いかけて、やめた。操縦桿を少し倒し、降下角度を緩やかにした。


 灰色の霧の中を、翼艇は慎重に沈んでいく。計器の針の揺れが大きくなる。蒸気機関の音に混じって、低い振動が機体全体を揺さぶり始めた。


「これは——」


「心臓の鼓動だよ。近づいてる」


 どくん、どくん、と。腹の底に響く脈動。規則的で、力強くて、途方もなく大きい。


 カイがゴーグルの下で目を見開いた。


「……聞こえる。これが——親父の言ってた」


「うん」


『カイ、アウリィ! 高度が限界に近い。計器の偏差が許容範囲を超えるぞ!』


 ナディヤの声が通信管から飛んできた。


「ここで止めて、カイ」


 カイがレバーを引いた。蒸気翼艇は空中で静止——厳密には微速の降下と上昇を繰り返しながら——霧の中に浮いた。


 アウリィは助手席から立ち上がった。狭い機内で槍を構え直す。風防の向こうは灰色の虚無。上も下もない。方角すらも曖昧な世界。


 でも——感じる。下方に、確かな光が。


「行くよ」


「……気をつけろ」


「うん」


「絶対に戻ってこい」


 アウリィはカイを見た。飛行ゴーグルの奥の目が、真っ直ぐにこちらを見ている。


「——戻ってくるよ。ボク、約束は守るから」


 にっこりと笑って——翼艇の縁から、跳んだ。


---


 落ちていく。


 いや——落ちているのではない。精霊たちに支えられている。蒸気と風の精霊が、アウリィの身体を包み込むように渦を巻いている。降下というよりも、泳いでいる感覚に近い。雲の海を、文字通り泳いでいく。


 真紅のマントが雲の中ではためいた。裏地の黄色が灰色の霧に映えて、まるで花弁が風に舞っているように見えた。


 槍の穂先が白く輝いている。ミスリルの光が灯台のように闇を照らし、精霊たちの道標になっている。


 深くなるにつれ、圧力が増した。


 空気が重い。肺が押しつぶされるような感覚——だがマントの加護が身体を守ってくれている。環境変化への耐性。これがなければ、この深さで意識を保つのは難しかったかもしれない。


 精霊たちが身じろぎした。怖い。でもついていく。アウリィの槍の光が、彼らの盾になっている。


「もう少しだよ。——ありがとう、一緒に来てくれて」


 精霊たちの応答。温かい。心強い。


 そして——


 灰色の霧が、晴れた。


 突然。まるでカーテンが引かれるように、視界が開けた。


「——……」


 息が止まった。


 巨大な空洞だった。雲海の底に穿たれた、途方もなく広い空間。天蓋のように覆いかぶさる雲の天井。そしてその中心に——


 心臓。


 感覚で感じ取ったときの印象より、遥かに大きかった。山ほどの——いや、アステリアの島がまるごと入るほどの巨大な輝石の結晶体。あらゆる色の光が脈動するように明滅し、そこから伸びる光の筋が空洞の壁面を這い、天井を突き抜け、雲海全体に張り巡らされている。世界を支える根幹。生命線。


 そしてその周囲を——空鯨たちが旋回していた。


 歌が聞こえた。


 近くで聞く空鯨の声は、もはや音という概念を超えていた。身体の細胞のひとつひとつに染み渡るような、あるいは記憶の底を撫でるような——言葉を持たない意思の伝達。


 守る。支える。ここにいる。ずっとここにいる。


 空鯨たちの歌が空洞に反響し、心臓の光と共鳴していた。


 アウリィは槍を杖のように突き、漂う足場——輝石の結晶が棚のように突き出した場所——に降り立った。


「きれい……」


 思わず漏れた言葉は、場違いなほど素朴だった。


 でも本当にきれいだった。怖いほどに。圧倒的なほどに。この世界のすべてを育む力が、目の前で脈打っている。


 空鯨の一頭がゆっくりと旋回しながら近づいてきた。巨大な目がアウリィを捉える。瞳の中に、虹色の光が揺れていた。


 威嚇ではなかった。審査——あるいは、対話の始まり。


「……ボクは、ここに閉じ込められた人を連れ戻しに来たんだ」


 声に出して言った。空鯨に言葉が通じるとは思わなかったが——精霊を介して、意思は伝わるはずだ。


 空鯨がゆっくりと身を翻した。その巨体が動くたびに、空気が大きくうねる。マントが激しくはためいた。


 そして空鯨は——道を開けるように、心臓の一角へとアウリィを導いた。


 導かれた先に——それは、あった。


 心臓の表面。巨大な結晶のひとつの面。そこに、人が埋まっていた。


 琥珀色の輝石に半ば包まれるようにして——中年の男性。カイに似た面差し。もう少し顎が角張っていて、額が広い。目は閉じられている。表情は穏やかだった。苦しんでいるようには見えない。まるで——眠っているだけのように。


 その周囲に、翼艇の残骸が散らばっていた。真鍮のパイプ。歪んだ翼のフレーム。計器盤の破片。二年前の嵐の夜に、ここまで辿り着いた証。


「……いた」


 アウリィは深く息を吐いた。精霊たちの感覚を通して、男の生命を確認する。


 心臓が動いている。呼吸もある。脳の活動も——かすかだが、ある。死んでいない。輝石の力に包まれて、老化も劣化も止まったまま、二年間ここで眠り続けている。


 心臓に取り込まれた——のではなく。


 心臓が、守ったのだ。


 嵐の中で雲海に沈んだ人間を。輝石の声を聞ける、稀有な人間を。心臓は殺さなかった。結晶で包み、生命を維持し——待っていた。


 何を?


 誰かが迎えに来ることを——だろうか。


「…………」


 アウリィは槍を心臓の結晶面に向けた。穂先の宝石が、心臓の脈動と共鳴するように輝きを増す。


 精霊たちに呼びかけた。これから行うことを伝えた。


 心臓の脈動と同調する。取り込まれた——いや、保護された意識に呼びかける。その人自身の意思で、輝石の結びつきを解く。


 理屈はわかっている。身体がそのやり方を覚えている。


 ——いつ覚えたのか。どの世界で。誰のために。


 それは思い出せないけれど。


「お願い」


 精霊たちに、そして心臓に。


 槍を結晶面に触れさせた。


 ミスリルと輝石が接触した瞬間——空洞全体が震えた。光が爆発するように膨張し、空鯨たちの声が一斉に高まった。


 怒りではない。呼応。


 心臓がアウリィの精霊術を受け入れている。異物ではなく、対話者として。


 意識を沈めた。深く、深く。心臓の脈動の中に。


 ——そこに、彼がいた。


 カイの父——ルッツ・ヘルダー。


 意識の世界で、彼は座っていた。どこでもない場所。光に満ちた空間。目を開けているが、焦点が合っていない。ぼんやりと、光の中を漂っている。


『……聞こえますか』


 アウリィの声が響いた。意識の中に直接伝わる声。


 ルッツの目が、わずかに動いた。


『あなたを迎えに来た人がいるんです。あなたの息子。カイ・ヘルダー。——上で待ってます』


 ルッツの唇が動いた。音にならない言葉。


「カイ……」


『そう。あなたのことをずっと探してた。二年間。あなたの翼艇に乗って、あなたの空路を飛んで。——ずっと、答えを探してた』


 ルッツの目に、光が戻り始めた。ぼやけていた瞳に、少しずつ焦点が合っていく。


「俺は……心臓が……呼んで……」


『はい。あなたは呼ばれた。心臓があなたを必要としたのかもしれない。でも——あなたを必要としている人が、上にいるんです。帰れますか』


「帰る……?」


 ルッツの声が震えた。


「帰れるのか……? もう——二年も……」


『帰れます。手を伸ばして。ボクが引っ張るから』


 アウリィは手を差し出した。意識の中で、小さな手を。


 ルッツが——ゆっくりと、手を伸ばした。


 指先が触れ合った瞬間、心臓の光が白く弾けた。輝石の結晶が砕けるような音がして——現実の世界で、男を包んでいた琥珀色の結晶に亀裂が走った。


 ぱきり。ぱきり。ぱきり。


 少しずつ。丁寧に。輝石の結びつきが解けていく。心臓はそれを拒まなかった。むしろ——送り出すように、光が穏やかに脈動した。


 最後の結晶が剥がれ落ちたとき、ルッツ・ヘルダーの身体がゆっくりと前に倒れた。


 アウリィは槍を背に回し、両手でその身体を受け止めた。百四十七センチの身体に、大人の男の重みがのしかかる。膝がふらついた。でも——


「っ——重……でも、大丈夫」


 歯を食いしばって踏ん張った。龍の革のブーツが結晶の棚をしっかりと踏みしめる。


 ルッツの呼吸が少しずつ深くなっていく。意識はまだ戻っていないが——身体は戻り始めている。


 空鯨の一頭が近づいてきた。巨大な鰭がアウリィの足元すれすれを通過する。風圧でマントが舞い上がった。


 空鯨の目が、アウリィを見ていた。


 ——ありがとう。


 そう聞こえた気がした。言葉ではなく。感覚として。


「……ボクの方こそ。通してくれて、ありがとう」


 空鯨が低い声を上げた。空洞全体に響く、深い深い歌。


 その歌に乗せられるようにして——精霊たちがアウリィとルッツの身体を包み込んだ。蒸気と風の渦が二人を持ち上げ、雲海の底から上昇を始める。


---


 灰色の霧を突き抜けた。


 最初に見えたのは、カイの翼艇の腹部だった。霧の中で微速旋回を続けながら、待ち続けていたのだ。


「カイ!」


 アウリィの声に、風防から身を乗り出すようにしてカイが見下ろした。


 そしてアウリィの腕の中の——父の姿を見た。


 カイの表情が崩れた。


 ゴーグルの下で見えにくかったが——唇が震えていた。何か言おうとして、声にならなかった。


 精霊の力でルッツを翼艇の貨物スペースに横たえた。アウリィは助手席に這い上がり、槍を膝の上に引き寄せた。全身に疲労が重くのしかかっている。精霊術の反動だ。でも——身体は動く。意識もある。


「……生きてる。眠ってるだけ。しばらくしたら目を覚ますと思う」


 カイは何も言わなかった。ただゴーグルを外して、その下の目で——赤くなった目で——後方のルッツをじっと見つめていた。


「……おい、親父」


 かすれた声。


「帰るぞ」


 通信管にナディヤの声が飛び込んできた。


『カイ! アウリィ! 応答しろ——何があった!? 計器が一瞬全部振り切れたんだぞ——』


「ナディヤ。——見つけた」


『は?』


「親父を見つけた。生きてる」


 通信管の向こうが、しん、と静まった。


 数秒の沈黙の後、ナディヤの声が——かすかに震えながら——返ってきた。


『……馬鹿。——帰ってこい。今すぐ』


「ああ」


 カイがレバーを引いた。蒸気機関が咆哮し、翼艇が上昇を始めた。灰色の霧を突き抜け、白い雲を突き抜け——


 青空が広がった。


 眩しかった。久しぶりに見る空の青が、泣きたくなるほど眩しかった。


 隣でカイが泣いていた。声を上げずに。操縦桿を握ったまま、ただ静かに涙を流していた。


 アウリィはそれを見て——何も言わず、前を向いた。


 風が黄金の髪を撫でていく。赤い彼岸花の髪飾りが、風にゆらゆらと揺れた。


---


 アステリアに帰還したとき、港にはもう人が集まっていた。


 ナディヤが先に着陸して事情を伝えたらしい。マレットばあさんが毛布を用意して待っており、ゲオルグが険しい顔で——けれどその奥に安堵を滲ませて——腕を組んで立っていた。


 ルッツは翼艇から降ろされ、マレットの宿に運ばれた。まだ意識は戻っていないが、呼吸は安定していた。肌の色も少しずつ血色を取り戻しつつある。


 アウリィは港の端に腰を下ろした。


 全身の力が抜けていた。精霊術の反動が、じわじわと筋肉に沁みている。動けないほどではないが——少し、休みたかった。


 槍を収納した。右手の上で銀白色の光が霧散するように消え、ミスリルの重みが手から消えた。


 マントを肩から引き寄せ、身体に巻きつけるようにして座る。加護の温もりがじんわりと疲労を癒してくれる。


「——アウリィ」


 ナディヤが歩いてきた。その手に温かい穀物茶のカップを持っていた。


「飲みな。——ばかみたいに顔色悪いよ」


「ありがとう、ナディヤ」


 カップを受け取って、一口飲んだ。香ばしい苦味が舌に広がる。身体の芯に温かさが戻っていく。


 ナディヤはアウリィの隣に腰を下ろした。しばらく無言で、二人並んで港を見ていた。


「……やったね」


 ナディヤがぽつりと言った。


「うん」


「本当に——連れ帰ってきた。あの馬鹿親父を」


「カイのお父さん、知ってたんだ?」


「そりゃそうだよ。ルッツおじさんには子供の頃から世話になったんだ。あたしに翼艇の操縦を教えてくれたのもおじさんだ」


 ナディヤの声がわずかに詰まった。


「……二年間、半分は諦めてた。でもカイが諦めないから——あたしも諦められなかった。あいつが馬鹿やるたびに止めて、止めて、止めて……でも本当は、あたしも——」


 ナディヤが目を拭った。ごしごしと、乱暴に。


「——ありがとう。アウリィ」


「ボクは——」


「いいから。素直に受け取りな。あんたは凄いことをやったんだよ」


 アウリィは茶を飲んだ。少しだけ——ほんの少しだけ——目頭が熱かった。


---


 夕方。


 ルッツ・ヘルダーが目を覚ました。


 宿の一室。ベッドの上。最初に見たのは天井で、次に見たのは——息子の顔だった。


「…………カイ?」


 かすれた声。二年間使われなかった喉が、ようやく音を紡いだ。


「ああ。——俺だよ、親父」


 カイの声が震えていた。笑おうとして、泣きそうになって、またこらえて——結局、どちらともつかない表情で父親の手を握った。


「でかく……なったな」


「二年も経ちゃ、な」


「二年……そうか……」


 ルッツの目が天井を見つめた。ゆっくりと瞬きをしながら、自分の身体を確認するように手足を動かしている。


「心臓が……呼んで……俺は……」


「全部あとでいい。今は休め」


「……お前に、言わなきゃいけないことが……」


「だから後でいいって。——逃げねえよ。どこにも行かない」


 ルッツの目に涙が溜まった。しわの刻まれた頬を伝って、枕に染み込んでいく。


「すまなかった……カイ」


「馬鹿言うな。——おかえり、親父」


 その言葉を最後に、アウリィは扉を静かに閉めた。


 廊下に出て、壁にもたれた。胸の奥が温かくて、同時に——きゅっと締めつけられるようだった。


 親と子の再会。


 それを見届けられてよかった。本当に。


 でも——


 足元の床が、かすかに揺らいだ。


 今度は気のせいではなかった。


---


 夜。


 宿の部屋で、アウリィはトランクの前に座っていた。


 蓋を開けて、中を覗き込む。数万年分の荷物。思い出の品々。もう由来を忘れた小物たち。乳白色の巻き貝。色褪せた布の切れ端。割れかけた陶器の欠片。名前の消えた手紙。


 どれも、誰かがくれたものだ。どこかの世界で出会った誰かが。


 名前も顔も思い出せない。


 でも——くれたという事実だけが残っている。温かかったという記憶の残滓だけが。


「…………」


 ベルトポーチから日記帳を取り出した。


 書こうとして——ペンが止まった。


 何を書けばいいのだろう。今日起きたこと? 心臓のこと? 空鯨のこと? カイとルッツの再会?


 全部書ける。全部書くべきだ。記録しなければ忘れる。忘れたら——


 忘れたら、どうなる?


 今までだって忘れてきた。数えきれない世界を。数えきれない人を。日記に書いても、時が経てば文字の上を記憶が滑っていく。読み返しても、そこに書かれた感情の温度を再現できなくなる。


 そういうものだと、思ってきた。


 でも。


 今、この瞬間の——胸の奥のこの温かさを。忘れたくない。


 カイの涙。ナディヤの不器用な優しさ。マレットばあさんの穏やかな笑顔。ゲオルグの鋭い灰色の目。石粉パンの不思議な甘み。穀物茶の香ばしさ。蒸気と歯車の音。雲海の夕焼け。空鯨の歌。


 忘れたくない。


 ——でも、いつか忘れる。


 ペンを握り直した。


『カイのお父さんを見つけた。心臓の中で眠っていた。輝石が二年間守ってくれていた。


 連れ帰った。カイが泣いた。ナディヤも泣いた。ボクも少し泣いた。


 いい世界だった。いい人たちだった。


 ——足元が、揺らいでいる。』


 最後の一文を書いて、ペンを置いた。


 窓の外から——空鯨の声が聞こえた。今夜のそれは、いつもとは違った。遠く、穏やかで——まるで子守唄のように優しかった。


---


 翌朝。


 アウリィは朝日よりも早く目覚めた。


 身体の奥底で——知っている感覚が響いていた。足元が柔らかくなるような。世界の境目が薄くなるような。長いこと旅を続けてきた者だけが感じ取れる——世界の手が、ゆっくりと開いていく感覚。


 今日か、明日か。もう時間がない。


 着替えて、トランクの蓋を閉めた。マントを羽織り、ブーツの紐を結び、髪飾りを確認して——宿を出た。


 朝靄の中のアステリア。蒸気式の街灯がまだ点っている。遠くで歯車の音がかちかちと聞こえる。


 工房に向かった。


 扉を叩くと、すぐに開いた。カイは既に起きていた。——いや、眠れなかったのかもしれない。目元に隈がある。けれど表情は、この数日間で初めて——晴れやかだった。


「おはよう、カイ」


「おはよう。——親父、朝方にもう一度目を覚ました。もう少ししたら起き上がれるって」


「よかった」


「……本当に、よかった」


 カイが笑った。ぎこちなくて、不器用で、でも——心からの笑みだった。


 アウリィはその笑顔を、目に焼きつけた。


「カイ。ひとつ、お願いがあるんだけど」


「何だ?」


「今日、もう一度翼艇に乗せてくれないかな。どこでもいい。ちょっとだけ、空を飛びたいんだ」


 カイが首をかしげた。


「別にいいけど——急にどうした?」


「なんとなく。ただ飛びたいの」


「変な奴だな」


「ずっと言ってるでしょ、それ」


---


 二人きりの翼艇。


 蒸気機関が唸り、翼が風を切り、アステリアの島が眼下に遠ざかっていく。


 朝の空は柔らかな青で、雲海の表面が朝陽を受けて銀色に光っていた。遠くの島々がシルエットになって浮かんでいる。島と島を繋ぐ鉄の橋梁が、光の糸のように煌めく。


 アウリィは助手席で、ただ黙って景色を眺めていた。


 風が心地よかった。髪がなびく。三つ編みにしたおさげが肩の上で跳ねる。マントの赤と裏地の黄色が風にはためいて——まるで花が咲いているようだった。


「……なあ、アウリィ」


「ん?」


「昨日のこと——ちゃんと礼を言ってなかった」


「言ったよ。翼艇の中で」


「あれは——なんつーか、まともに言えてなかっただろ。泣いてたし」


「泣いてたね」


「うるさい」


 カイが照れくさそうに前を向いた。操縦桿を握る手は安定している。この空路を何百回と飛んできた手。


「ありがとう。——本当に」


「うん。どういたしまして」


「あんたがいなかったら、親父は今もあの中にいた。俺は何もできないまま——ずっと、あの翼艇を磨いてるだけだった」


「磨いてたんじゃないよ。守ってたんだよ。お父さんとの繋がりを」


 カイが横目でアウリィを見た。


「…………あんた、時々すげえこと言うな」


「そう?」


「子供の見た目で年寄りみたいなこと言う」


「だから子供じゃないって——」


「わかってるよ。もうわかってる」


 カイが笑った。穏やかな笑みだった。


「あんたは子供じゃない。俺よりずっと遠くから来て、俺よりずっと多くのものを見てきた人だ。——何歳かは知らないけど」


 アウリィは黙った。


 胸の奥が——締めつけられた。


「ねえ、カイ」


「ん」


「ボク、もうすぐ行かなきゃいけない」


 カイの手が一瞬、強張った。操縦桿が微かにぶれた。


「……いつだ」


「わからない。でも、もうすぐ。今日か、明日か——身体でわかるの。この世界がボクを送り出す準備を始めてる」


 風の音が耳を満たした。蒸気機関の低い唸り。空の青さ。雲海の白さ。


「——引き止めても無駄なんだな」


「うん。ボクの意思じゃないんだ。世界が決めることだから」


「…………」


 カイが前を向いたまま、ゆっくりと息を吐いた。


「あんたの旅が——どういうものか、俺にはわからない。何千、何万の場所を渡り歩いてきたんだろう。そのたびに人と出会って、別れて。そういう旅なんだろう」


「……うん」


「忘れるのか。俺たちのことも」


 真っ直ぐに聞かれて——アウリィは、嘘をつけなかった。


「……いつかは。たぶん」


 声が震えた。自分で驚いた。数万年の旅で、この震えをどれだけ繰り返してきたか。それなのに——慣れない。慣れたくない。


「でも——」


 ベルトポーチに手を当てた。日記帳の感触を確かめる。


「書くよ。全部。この世界のことも、カイのことも、ナディヤのことも、空鯨のことも。日記に書けば——文字は残るから。ボクの記憶が薄れても、文字は消えないから」


 カイは黙っていた。


 それから——操縦桿を少し引いて、翼艇を緩やかに旋回させた。アステリアの方に機首を向ける。


「……ひとつ頼みがある」


「何?」


「親父に会ってから行ってくれ。あの人も——礼を言いたがると思うから」


「うん。もちろん」


---


 アステリアに着陸して、宿へ向かった。


 ルッツはベッドの上で半身を起こしていた。まだ顔色は万全とは言えないが、目には力が戻っている。カイの面影を年輪のように重ねた、穏やかな顔。


 ナディヤが枕元に座って果物の皮を剥いていた。アウリィの顔を見て、小さく頷いた。


「——あんたが、アウリィ、か」


 ルッツの声はまだかすれていたが、はっきりしていた。


「うん。アウレーリエ・リュコーリアスだよ。アウリィって呼んで」


「カイに聞いた。俺を助けてくれたのは、あんただって」


「ボクは手を伸ばしただけだよ。ルッツさんが自分で掴んだんだ」


 ルッツが目を細めた。


「……嬢ちゃんにしちゃ——」


「嬢ちゃんじゃないです」


「おっと。——すまない。カイにも言われた。子供扱いするなって」


 カイとナディヤが同時に噴き出した。アウリィはむっとしつつも、つられて口元が緩んだ。


「ルッツさん。心臓のこと——もっと聞きたいけど、今は休んで。元気になったらカイに話してあげて」


「ああ。話さなきゃいけないことが、たくさんある」


 ルッツの目がカイに向いた。父から子への、まっすぐなまなざし。


「カイ。翼艇を——俺のストラウスを、守ってくれたんだな」


「……当たり前だろ。親父の機体だ」


「いい腕になった。音を聞けばわかる。あの機体——よく手入れされてた」


 カイが唇を噛んだ。泣くまいとしている顔だった。


 アウリィはそっと部屋を出た。


---


 午後。


 足元の揺らぎが——はっきりと強くなっていた。


 石畳を歩いているはずなのに、地面が柔らかい。世界の輪郭が薄くなっていく。音が遠くなる。色がほんの少し——淡くなる。


 ああ。


 もう——そろそろだ。


 宿に戻り、トランクを持って出た。日記帳をベルトポーチにしまった。ゲオルグからもらった硬貨の残りは、マレットばあさんの宿代として置いてきた。多すぎるくらいだったが、構わない。


 マレットばあさんが見送りに出てきた。


「もう行くのかい」


「うん。急に、ごめんね」


「急じゃないさ。あんたはいつも——どこかに行きそうな目をしてたからね」


 ばあさんが笑った。皺の刻まれた、温かい笑顔。


「元気でね、アウリィ」


「マレットさんも。おいしいごはん、ありがとう」


 工房に寄った。ゲオルグの店にも寄った。


「帰るのか」とゲオルグは言った。


「うん。帰るっていうか……旅に戻るの」


「ふん。——いい石を持ってたよ、あんた。また来な」


「また、は——たぶんないけど。ありがとう、ゲオルグさん」


「…………まあ、達者でな」


 港に向かった。


 カイとナディヤが待っていた。


 カイの翼艇の前。二人並んで立っている。ナディヤの目が赤い。泣いたのを隠しきれていない。カイは——黙って立っていた。


「……行くのか」


「うん」


「どこに」


「わからない。いつもわからないの。でも——どこかに着く。いつもそう」


 アウリィはトランクを足元に置いた。二人の顔を見上げた。


 ナディヤが先に口を開いた。


「石粉パン、奢ってもらってないんだけど」


「あ——ごめん。忘れてた」


「忘れてたじゃないよ。約束したでしょ」


「……次に会えたら、必ず」


「次なんてないんだろ」


 ナディヤの声が震えた。そのままアウリィの前にしゃがみ込んで、ぎゅっと抱きしめた。


「——無茶すんな。どこに行っても」


「ナディヤこそ。カイの手綱、しっかり握っててね」


「言われなくても」


 ナディヤが離れた。目元をごしごし拭いて、鼻をすすって、そっぽを向いた。


 カイが一歩前に出た。


 しばらく無言で向かい合った。


「……ガキだと思ってた」


「まだ言う?」


「最初の話だよ。——でも全然違った。あんたは——」


 カイが言葉を探すように、視線を泳がせた。それからまっすぐにアウリィを見た。


「——すげえ旅人だ」


 飾りのない言葉だった。だからこそ——重かった。


「ありがとう、カイ。翼艇に乗せてくれて。この世界のこと、いっぱい教えてくれて。ボクのこと信じてくれて」


「信じたっていうか——あんたが嘘つきに見えなかっただけだ」


「それって信じてくれたってことだよ」


 カイが口を開きかけて——閉じた。それからポケットに手を突っ込み、何かを取り出した。


 小さな金属の部品。歯車がひとつ。真鍮製の、古びた歯車。


「……親父の翼艇の、いちばん最初の歯車だ。俺がガキの頃、親父が飛び方を教えてくれたときに外した部品。ずっと——お守りみたいに持ってた」


「カイ、これは——」


「やるよ。持ってけ」


 アウリィは目を見開いた。


「駄目だよ。こんな大事なもの——」


「親父が帰ってきたんだ。もうお守りはいらない。——それに、あんたのそのでかいトランクに、ひとつくらい増えたところで変わらないだろ」


 笑っていた。泣きそうなのに、笑っていた。


 アウリィは——両手で歯車を受け取った。小さくて、冷たくて、確かな重みがある。


「……ありがとう」


 声が震えた。目頭が熱い。泣かないようにしようと思ったけれど——駄目だった。


 涙がぽろりと落ちた。頬を伝って、手の中の歯車に。


「あーあ、泣いてる」


「泣いてない」


「泣いてるじゃん」


「泣いてないったら」


 泣いていた。ぼろぼろ泣いていた。百四十七センチの身体で、金色の髪を風になびかせて、赤い花の髪飾りを揺らしながら。


 ナディヤがまた抱きしめてきた。カイがぽんと頭に手を置いた——すぐに「子供扱いじゃないからな」と付け足した。


---


 港を離れ、島の端まで歩いた。


 あの場所。初日にこの世界に降り立った場所。灌木の間を抜けた先の、草の生えた岩場。


 足元の揺らぎが、もう隠しようがないほど強くなっていた。


 世界が——手を開いていく。


 アウリィはトランクの取っ手を握りしめた。ベルトポーチの中に、カイからもらった歯車を入れた。日記帳の隣に。


 振り返った。


 カイとナディヤが、少し離れたところに立っていた。見送りに来てくれたのだ。


 その向こうに——アステリアの町並み。煉瓦と鉄骨の建物。蒸気を吐く煙突。真鍮の看板。港の管制塔。蒸気翼艇が一機、空に飛び立っていくところだった。


 雲海が午後の陽を受けて輝いている。白と金の海。


 美しい世界だった。


「——元気でね」


 アウリィは笑った。泣いた後の、少しぐしゃぐしゃの笑顔で。


「カイ。お父さんと、たくさん話してね」


「ああ」


「ナディヤ。石粉パンは——次の誰かに奢ってあげて」


「……馬鹿。何それ」


「ボクの分だと思って」


 足元の地面が——薄くなった。


 始まる。


 あの感覚。世界が剥がれ落ちていく感覚。足元から、指先から、景色が、音が、匂いが——


「カイ! ナディヤ!」


 最後に、声を張り上げた。


「忘れないよ! 日記に——全部書くから!」


 カイが何か叫んだ。聞こえなかった。でも、口の動きで——たぶん、わかった。


 ——元気でな。


 世界が白に溶けていく。蒸気と歯車の音が遠ざかる。雲海の輝きが薄れていく。空鯨の歌が——最後にひとつ、遠くから響いた。子守唄のように。祝福のように。


 アウリィは目を閉じた。


 トランクの取っ手を握りしめて。


 胸の奥に、温かいものを抱えて。


---


 どこでもない場所を漂っている。


 世界と世界のあいだ。時間も空間も意味をなさない隙間。何度も通ってきた虚無の回廊。


 目を閉じたまま、ベルトポーチの中に手を入れた。歯車に触れた。冷たい金属の感触。確かにここにある。


 日記帳にも触れた。革の表紙。使い込まれた手触り。


 書かなきゃ。次の世界に着いたら、真っ先に。雲海のこと。空鯨のこと。カイのこと。ナディヤのこと。ルッツさんのこと。マレットばあさんのこと。ゲオルグのこと。石粉パンのこと。穀物茶のこと。夕暮れの雲海の色のこと。


 全部。全部書く。


 忘れるかもしれない。いつかは。きっと。


 でも今は——覚えている。鮮やかに。痛いほどに。


 そしてまた——新しい世界が近づいてくる。足元に何かが触れる感触。新しい空気の匂い。知らない音。知らない光。


 アウリィは目を開けた。


 涙の跡が頬に残っていた。風が——今度は温かい風が——それを乾かしていく。


 見知らぬ景色が、目の前に広がっている。


「——わあ」


 声が出た。


 思わず、というより、そうせずにはいられなかった。


 何が見えたのか——それはまだわからない。でも新しい世界だ。新しい色。新しい匂い。新しい音。知らないものだらけの場所。


 アウリィは泣いた後の顔のまま——満面の笑みを浮かべた。


 赤い彼岸花の髪飾りが、風に揺れている。


 旅は、続く。


---


          *


 トランクの奥底に、何十冊もの日記帳が眠っている。


 その中のひとつ。最近使い終わったばかりの一冊。最後のページに、こう書かれている。


『雲海諸島の世界。空に浮かぶ島と、蒸気と歯車の人々。


 カイ・ヘルダー。運び屋。ぶっきらぼうだけど優しい。父親の翼艇を大切にしていた人。ボクを嬢ちゃんと呼んだ。最後まで許さなかった(嘘。許した)。


 ナディヤ・ボルトン。カイの幼馴染。強くて真っ直ぐな人。石粉パンを奢ってもらう約束を果たせなかった。ごめんね。


 ルッツ・ヘルダー。カイの父。二年間、世界の心臓に守られていた人。息子に似た穏やかな目をしていた。


 空鯨。世界の心臓の番人。彼らの歌は、今も耳の奥に残っている。


 追伸。カイにもらった歯車は、ベルトポーチの中。この日記帳の隣に入れた。無くさないように。


 追追伸。ボクはまだ、旅を続ける理由がわからない。でも——旅を続けたいと思う理由なら、たくさんある。こういう人たちに出会えること。こういう世界を見られること。それだけで十分なのかもしれない。


 十分かどうかは——もう少し旅をしてから、決める。』

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