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4話「心臓の歌」

 五日目の昼。


 アウリィはアステリアの南端、断崖の縁に座っていた。


 目を閉じて、精霊と繋がっている。この二日間、暇を見つけてはここで同調の訓練を重ねた。精霊たちとの呼吸を合わせ、感覚の範囲を少しずつ深く、遠くへ伸ばしていく地道な作業。


 歯車の律動に自分の鼓動を重ねる。蒸気の流れに意識を溶かす。輝石の脈動に身を委ねる。


 この世界の精霊たちは、もうアウリィを異物とは見なしていなかった。むしろ積極的に手を伸ばしてきている。小さな歯車が噛み合うように、パイプの継ぎ目がぴたりと合うように——世界の機構の一部として、アウリィの存在を受け入れ始めていた。


 索敵の精度も上がった。今なら島全体の生命反応を把握できる。三百人余りのアステリアの住民、翼艇の出入り、雲海の表層を漂う鳥たち。


 でも——深層はまだ遠い。


 雲海の底へ意識を沈めようとすると、ある深さで精霊たちが躊躇う。怯えているのではない。境界線があるのだ。その向こうは精霊たちの領域とは異なる何かに支配されていて、入るには相応の力が要る。


 普段の世界なら——もっと容易くやれることだ。でもここでは精霊との相性がまだ完全ではない。力技で押し通すには、もうひとつ足りない。


「……足りないなあ」


 独り言を呟いて目を開けた。風が髪を撫でていく。黄金の毛先が視界の端ではためいた。


 足りない、とは何が。


 わかっている。媒介だ。精霊術を大規模に展開するとき、意識の焦点を安定させるための杖——あるいは触媒。


 アウリィは右手を見下ろした。


 何もない手のひら。でもその奥に——普段は収納してある、あの感触がある。ミスリルの冷たい輝き。数えきれない戦場を駆け抜けてきた、聖槍の重み。


 使えば、たぶん深層まで届く。


 でも——この世界でそこまでの力を使うことに、微かな逡巡がある。大きな力を使えば、それだけこの世界への干渉が深くなる。痕跡が残る。自分がここにいたという爪痕が。


 旅人は足跡を残さない方がいい。それがこれまでの——少なくとも、覚えている限りの——自分の方針だった。


「……でも」


 カイの顔が浮かんだ。あの不器用な笑みと、「答えが欲しいんだ」という声。


 ナディヤの厳しくて優しい目。


 宿のマレットばあさんの穏やかな微笑み。ゲオルグの鋭い灰色の瞳。


 この島の蒸気と歯車の音。穀物茶の香ばしさ。石粉パンの不思議な甘み。


 夕暮れの雲海。夜の空鯨の歌。


 ——情が移りすぎている。わかっている。


「ボクは……」


 呟きかけたとき、背後から足音がした。草を踏む軽い足音がふたつ。


「やっぱりここにいた」


 カイの声。振り返ると、カイとナディヤが並んで歩いてくるところだった。ナディヤの表情は相変わらず複雑だったが、ここにいるということは——少なくとも黙認はしてくれているのだろう。


「二人とも、仕事は?」


「午前の便は終わった。午後は空いてる」


「あたしも今日はフリーだよ」


 カイが草の上に腰を下ろし、ナディヤは立ったまま雲海を見渡した。風がナディヤの黒髪を揺らしている。


「進み具合は?」


 カイが聞いた。この数日、アウリィの訓練の経過を何度か報告していた。カイ自身には精霊術——輝脈感応の素養はないが、何ができて何ができないかの理屈は飲み込もうとしてくれている。


「表層と中層は探れるようになった。でも深層はまだ壁がある。精霊たちが入りたがらない領域があるんだ」


「壁?」


「うん。たとえると——水面までは自由に泳げるけど、そこから先は潮の流れが違いすぎて、体ごと持っていかれそうになる感じ。精霊たちも同じことを感じてるみたい」


 ナディヤが口を開いた。


「翼艇で深層に潜ったときと同じ話だね。ある深さから計器が狂う。輝石が異常をきたす。——それと同じことが、精霊にも起きてるってこと?」


「近いと思う。深層には通常の輝石の脈動とは違う——もっと強い力の流れがあるんだ。それに逆らうには、こっちもそれなりの力が要る」


「それなりの力」


 カイとナディヤが同時にアウリィを見た。


 アウリィは少し迷ってから、右手を前に差し出した。掌を上に向ける。


「ボクにはね、ひとつ——手段がある。普段は使わないようにしてるんだけど」


 右手の上の空間が、かすかに歪んだ。


 光ではない。空気の密度が変わるような、ごく微小な変動。アウリィが囁くように短い言葉を紡ぐと——その手の中に、銀白色の光が凝縮した。


 次の瞬間、アウリィの手には一本の槍が握られていた。


 全長は彼女の身長より少し長い。銀白色の穂先は、見たことのない金属で出来ている。滑らかで、冷たく、どこか青みがかった白い光を放っている。柄の部分には精緻な文様が刻まれ、穂先の付け根に小さな宝石がひとつ嵌め込まれていた。


 カイが目を見開いた。ナディヤが一歩退いた。


「——何だそれ」


「ミスリルの槍。ボクの得物で、精霊術の媒介にもなるもの」


「どこから出した?」


「収納してたんだ。専用の……えっと、この世界の言い方だと何だろう。小さな空間に畳み込んでおく技術」


「技術っていうか……手品か何かに見えるんだが」


「手品じゃないよ。ちゃんとした術だよ」


 アウリィは槍を両手で構えた。百四十七センチの身体に不釣り合いな長さの武器だが——持ち方に一切の迷いがなかった。重心の位置を知り尽くした者の、自然な構え。呼吸をするように身体の延長線上にある道具。


 カイがそれを見て、何かを感じ取ったらしい。


「……あんた、その槍をずいぶん長く使ってるな」


「うん。すごく長く」


 どのくらい、とは聞かなかった。聞いても答えが返ってこないと悟っているのだろう。


「この槍を使えば、精霊術の範囲と精度を大幅に上げられる。深層の壁を越えて、心臓の近くまで感覚を伸ばせるかもしれない」


「かもしれない?」


「確実とは言えない。この世界の精霊との同調がまだ百点じゃないし、深層の力がどの程度強いのかも実際に触れてみないとわからないから。——でも、やる価値はあると思う」


 ナディヤが腕を組んだまま、低い声で聞いた。


「危険は?」


「ボクには……たぶん、ない。精霊術の反動で疲労することはあるけど、身体が壊れることはまずない」


「たぶん、って」


「この世界では初めてだから、百パーセントとは言えないだけだよ。でも——ボクはこういうこと、何度もやってきたから」


 嘘ではなかった。何度も。どの世界で、いつだったかは曖昧でも——身体が覚えている。精霊と深く繋がり、世界の根幹に触れる行為を。


「……問題は」


 アウリィは槍を下ろし、静かに言った。


「深層まで探ったとして、見つかるものが必ずしも望ましいものとは限らないこと」


 カイの表情が強張った。


「お父さんの消息がわかるかもしれない。でもそれが——いい知らせだとは、限らない」


 残酷なことを言っている自覚はあった。でも言わなければならなかった。


 カイは数秒間、雲海を見つめていた。白い雲の海が、午後の陽を受けてゆったりとうねっている。


「……わかってる」


 低い声だった。


「二年間、覚悟はしてきた。どんな答えでもいいって——そう言ったのは本心だ。たとえ最悪の答えでも、何もわからないまま過ごすよりはいい」


「カイ……」


 ナディヤが痛ましそうにカイの横顔を見た。


「ナディヤ。——すまん。付き合わせて」


「謝んなよ。あたしが勝手に来たんだ」


 ナディヤはそう言って、雲海に向かって大きく息を吐いた。それから、アウリィの方を向いた。


「やるんだろ」


「うん」


「じゃあ、あたしは見てるよ。何かあったら引きずってでも止めるから——それだけは忘れんな」


 アウリィは笑った。ナディヤの不器用な優しさが、じんと胸に染みた。


---


 夕暮れまで待った。


 精霊の活動が最も活発になるのは、この世界では昼と夜の境目——薄暮の時間帯だった。蒸気と輝石の脈動が切り替わる瞬間。日中の陽の力が衰え、夜の深い静寂が始まる前の、わずかな間隙。


 アステリアの南端。断崖の縁。三人の姿。


 アウリィは槍を地面に突き立て、その柄に両手を重ねた。穂先の宝石が淡く光り始める。ミスリルの銀白色の輝きが、夕陽の琥珀色と混じり合った。


「始めるよ」


 カイとナディヤが頷いた。二人は十歩ほど離れた場所に並んで立ち、じっとアウリィを見守っている。


 目を閉じた。


 呼吸を整える。深く、ゆっくりと。


 精霊たちに呼びかける。いつもの呼びかけではなく——もっと深い、もっと根源的な繋がりを求めて。


 ミスリルの槍が共鳴した。穂先の宝石を核にして、精霊たちの感覚がアウリィの中に流れ込んでくる。歯車の回転。蒸気の流動。輝石の鼓動。すべてが渾然一体となって、意識の中に世界の地図が描かれていく。


 アステリアの全景が見えた。三百人の住民、百二十三棟の建物、七基の蒸気塔、港に停泊する翼艇の数。


 それを越えて——雲海の表層。風の流れ、温度分布、水蒸気の密度。


 さらに深く。


 中層。精霊たちの密度が上がる。彼らの声が耳元で囁くように近くなる。ここまでは前にも来た。


 そしてその先——壁。


 精霊たちが足踏みする境界。


 アウリィは槍を握る手に力を込めた。ミスリルの冷たい感触が掌に食い込む。


「——行くよ」


 壁に意識を押し当てた。


 抵抗があった。嵐の中を歩くような、全身を押し戻そうとする圧力。深層の輝石が放つ力——通常の脈動とは比較にならない、生々しい力の奔流。


 精霊たちが悲鳴に近い感覚を発した。引き返せ。ここから先は自分たちの領域ではない。


「大丈夫。ボクが守るから」


 ミスリルの槍が白く輝いた。穂先から放たれた力が、精霊たちを包み込むように広がる。盾になる。深層の力に対する防壁になる。


 精霊たちが——少しだけ、落ち着いた。


 その隙間を縫うようにして、意識を深層に滑り込ませた。


 ——見えた。


 暗い。途方もなく暗い。雲海の奥底は、光の届かない深淵だった。けれどその中に——脈動する光があった。


 巨大な。


 あまりにも巨大な。


 輝石の塊——いや、それは塊という言葉では表しきれなかった。生きている結晶。呼吸するように明滅する光の核。そこから無数の光の筋が放射状に伸び、雲海全体を支えるように張り巡らされている。


 心臓だ。


 この世界の心臓。


 カイの父が見たであろうものが——今、アウリィの精霊感覚に映し出されていた。


 そしてその周囲を——空鯨たちが泳いでいた。


 十頭以上。大小さまざまな巨体が、心臓の光を浴びながら緩やかに旋回している。歌うような声を上げながら。あの声だ。初日の夜に聞いた、島全体を包む深い声。近くで聞くと、それはもっと——複雑だった。単なる鳴き声ではない。何かを伝えようとしている。何かを語っている。


 意識をさらに集中させた。空鯨たちの声を精霊を通して解読しようとした。


 ——断片的に、意味が浮かび上がってきた。


 守る。


 支える。


 ここにいる。


 ずっとここにいる。


 空鯨たちは心臓を守っている。世界が壊れないように。力が暴走しないように。何千年、何万年と——ずっと。


「……きみたちも、番人なんだね」


 意識の中で呟いた。空鯨たちの存在が、不思議と懐かしかった。世界を守るもの。世界の根幹に寄り添うもの。そういう存在を、他の世界でも見た気がする。形は違えど、役割は似ている。名前も姿も思い出せないけれど——その温かさだけは覚えている。


 そのとき。


 心臓の光の中に——別の何かを感じ取った。


 人の痕跡。


 微かだが、確かに人のものだった。金属の残骸。蒸気機関の一部。そして——


 アウリィの意識が凍りついた。


 人が、いた。


 心臓の光の中に——輝石の結晶に半ば包まれるようにして——人の形が、ひとつ。


 生きている。


 死んではいない。けれど——目覚めてもいない。輝石の力に取り込まれて、眠っている。心臓の一部になりかけている。


「——っ」


 衝撃で意識が揺らいだ。精霊たちとの接続がぶれる。深層の力がその隙を突いて押し寄せてきた。身体の芯を鷲掴みにされるような圧迫感。


 引き戻された。


 一気に。


 意識が身体に帰還し、アウリィは両膝をついた。ミスリルの槍が手から滑り落ちそうになるのを、辛うじて掴み直す。額から汗が流れている。息が荒い。視界が回っている。


「アウリィ!」


 カイが駆け寄ってきた。背後からナディヤの足音も。


「大丈夫か! おい、しっかりしろ——」


「……だいじょう、ぶ」


 息を整える。目を閉じて、世界の揺れが収まるのを待つ。マントの加護がじわりと身体を温めてくれている。精霊たちの感覚が少しずつ通常に戻っていく。


「無理しすぎだろ。顔が真っ白だぞ」


「……やりすぎた、かも。ごめん」


 カイがアウリィの肩を支え、座り直させてくれた。ナディヤが水筒を差し出す。冷たい水を飲んで、ようやく呼吸が落ち着いた。


 夕陽はもう半分以上沈んでいた。空が紫と紺に染まっていく。


「……カイ」


「ん」


「見つけた」


 カイの手が止まった。


「何を」


「心臓を——雲海の底にある、この世界の心臓を見た。空鯨たちがその周りを泳いでいた。カイのお父さんが言ってたとおりだった」


 カイの顔から表情が消えた。呼吸すら止まっているように見えた。


「それと——」


 言うべきか。一瞬、迷った。


 どんな答えでもいい、とカイは言った。でも。


「——人がいた」


「……何?」


「心臓の中に。輝石に包まれるようにして——誰かが眠ってた」


 沈黙が落ちた。


 風の音だけが聞こえた。雲海の端を渡る夜風。蒸気塔がどこかで蒸気を吐く音。


「……それが、親父だっていうのか」


「わからない。顔までは見えなかった。でも——翼艇の残骸らしいものが近くにあった」


 カイの拳が震えていた。膝の上で握りしめた両手が、小刻みに。


 ナディヤがカイの隣に膝をついた。何も言わず、ただそこにいた。


「生きて……る、のか」


「生きてる。死んではいない。でも——普通の意味で生きているとは言えない。輝石の力に取り込まれて、眠ってる。心臓の一部になりかけてる」


「取り込まれて……」


「心臓が——呼んだんだと思う。カイのお父さんは輝脈感応の力があったんでしょう? 心臓の声を聞ける人間は、世界に引き寄せられる。引き寄せられて、近づきすぎると——」


 ——飲み込まれる。世界の根幹に取り込まれる。


 他の世界でも同じようなことがあったのを、アウリィは知っている。おぼろげな記憶の中に——似た光景が、何層にも重なっている。


「助けられるのか」


 カイの声が、低く、はっきりと響いた。


 アウリィはカイの目を見た。震えている。けれど逃げていない。答えを求める目だった。


「……わからない。正直に言う。わからない」


「でも、可能性はあるのか」


「……ある、と思う。心臓に取り込まれた人を引き戻す方法は——理論上は、ある。心臓の脈動と同調して、取り込まれた意識に呼びかける。その人自身が戻りたいと思えば——輝石の結びつきは解ける」


「理論上」


「ボクが実際にやったことがあるわけじゃない。でも——似たようなことを知ってるんだ。別の場所で」


 アウリィは言葉を選びながら話した。記憶は曖昧だ。でも感覚は残っている。世界の根幹に囚われた者を呼び戻す術。それは精霊術の中でも最も深い領域に属するもので——


「やるなら、深層まで直接行く必要がある。精霊の感覚だけじゃ届かない。物理的に近づいて、ボクの精霊術で心臓に働きかけないと」


「直接行くって——雲海の中に潜るってことか」


「うん」


「翼艇じゃ無理だ。計器が狂う。視界もゼロだ」


「翼艇は途中まででいい。ある深さから先は、ボクが精霊の力で道を開く。——槍を使えば、深層の力に対抗できる。さっき証明した」


「さっき倒れかけてたじゃないか」


 ナディヤが鋭く指摘した。


「……それは、感覚だけで深入りしすぎたからだよ。身体ごと行けば、もっと安定する。感覚を飛ばすより、自分の足で立った方がボクは強い」


「無茶を言ってる自覚はあるのか」


「あるよ。でも、これが一番可能性が高い」


 三人の間に沈黙が降りた。


 夜が来ていた。空は深い藍色に沈み、最初の星がひとつ、ふたつと瞬き始めている。雲海が夜の色に変わっていく。


「……明日」


 カイが言った。


「明日、やろう」


「カイ——」


「ナディヤ。頼みがある」


 カイがナディヤの方を向いた。


「翼艇を二機で飛ぶ。俺がアウリィを乗せて降下する。ナディヤは上で待機してくれ。何かあったときの引き上げ役だ」


 ナディヤは何秒か黙っていた。それからゆっくりと息を吐き、首の後ろを掻いた。


「……あたしが反対しても、やるんだろ」


「ああ」


「二人とも死んだら、あたしはどうすりゃいいんだよ」


「死なない。——だから、上で待っててくれ」


 ナディヤがアウリィを見た。アウリィはその視線を受け止めた。


「ボクも、約束する。カイを無事に連れて帰る」


「……あんたが無事かどうかは?」


「ボクは頑丈だから大丈夫」


「答えになってないよ」


 ナディヤが苦く笑い、それから立ち上がった。


「わかった。やるよ。——ただし、あたしが合図したら絶対に引き返すこと。それが条件だ」


「わかった」


 カイとアウリィが同時に答えた。


---


 宿に戻ったのは夜も遅くだった。


 部屋のベッドに腰掛けて、アウリィは自分の手を見つめた。精霊術の反動はもうほとんど収まっている。身体は問題ない。


 問題があるとすれば——心の方だ。


 明日、雲海の深層に潜る。この世界の心臓に触れる。取り込まれた人間を引き戻す。


 やったことがない、とは言った。でも——似た記憶はある。曖昧で、霧のかかったような記憶。世界の根幹に手を伸ばし、そこから何かを引き出した。あるいは引き出そうとして——失敗した。どちらの記憶もある。どちらが先で、どちらが後かもわからない。


 ベルトポーチから日記帳を取り出した。過去の日記はトランクの奥底だが、今使っているこの一冊にも、前の世界の記録が少し残っている。ページをめくった。


 ——直前の世界。砂漠の世界。そこでは風の精霊と強く繋がれた。砂嵐の中を何日も歩いた。出会った遊牧民の家族。子供たちに星の話をした。


 ——その前の世界。森の世界。巨大な樹に住む人々。精霊との相性がとても良かった。木の洞の中で眠った温かい夜。


 ——その前は——


 記憶が薄れていく。日記の文字は残っているけれど、そこに書かれた出来事の実感が——温度が——消えかけている。


 ページを閉じた。


 赤い彼岸花の髪飾りを手に取った。花弁を指先でそっと撫でる。


「……ボクは、何のために旅をしてるんだっけ」


 誰にも聞こえない声で呟いた。


 最初の理由。最初の動機。世界を渡り始めたきっかけ。


 ——思い出せない。


 いつから思い出せなくなったのかも、わからない。百年前? 千年前? 一万年前? 時間の感覚すら摩耗している。


 ただ——旅を続けることだけが、自分を自分たらしめている。新しい世界を見ること。新しい人に出会うこと。知らないものを知ること。それが嬉しくて、楽しくて——だからこうしている。


 でも、その喜びの底に沈んでいるものが何なのか。


 カイは「答えが欲しい」と言った。


 ボクも——答えが欲しい。


 でもボクの場合、問いそのものが霞んでいるのだ。何を問うていたのかさえ。


「……明日のことを考えよう」


 髪飾りを枕元に置いた。日記帳をポーチにしまった。


 明日は大仕事だ。精霊術の全力行使。この世界に来てから最大の——もしかしたら、この世界での最後の大仕事になるかもしれない。


 最後。


 その言葉が頭をよぎったとき、かすかに——本当にかすかに——足元の地面が揺らいだ気がした。


 世界が。


 この世界が、アウリィの存在を——


 確かめるように、床を踏んだ。しっかりとした感触。木の床。釘の頭。まだ大丈夫。まだここにいられる。


 でも。


「……急がなきゃ」


 呟いて、ベッドに横になった。マントを掛け布団のように引き寄せて、目を閉じる。


 遠くで空鯨の声がした。


 今夜のそれは、いつもより近い気がした。


---


 眠りの淵で——夢を見た。


 どこかの世界。花が咲いている。黄色い花。曼珠沙華。地平線まで続く花畑。


 そこに誰かが立っていた。背の高い人。長い耳。自分と同じ——


 顔が見えない。光に溶けて、輪郭だけが残っている。


 その人が何か言っている。口が動いている。でも声が聞こえない。


 手を伸ばした。届かない。花弁が風に散って、視界を覆い尽くして——


 目が覚めた。


 天井。木の天井。宿の部屋。


 頬に、涙の跡があった。


「…………」


 指で拭って、深呼吸した。


 夢の内容はもう朧げだった。花が咲いていた。誰かがいた。それだけ。


 窓の外は、まだ暗い。でも東の空がうっすらと白んできている。朝が来る。


 アウリィはベッドから起き上がり、髪飾りをつけた。赤い花弁が耳元で揺れる。マントを肩にかけ、ベストの紐を締め、ブーツの紐を結んだ。


 トランクの蓋を開けて、中を見た。数千年分の——いや、数万年分の持ち物がぎゅうぎゅうに詰まった、小さな宇宙。


 その中から、何かを取り出そうとして——やめた。


 代わりに蓋を閉じ、トランクをベッドの脇に置いた。


「行ってくるね」


 トランクに向かってそう言った。


 何に対して言ったのか、自分でもわからなかった。


---


 港に着いたとき、カイとナディヤはもう準備を始めていた。


 カイの翼艇——旧型のストラウス機——が、朝露に濡れて鈍く光っている。隣にナディヤの機体——新型のクレール機——が並んでいた。確かにナディヤの方が新しく、外装もきれいだ。でもカイの機体には——使い込まれたものだけが持つ、独特の存在感がある。


「来たか」


 カイが振り返った。いつもの作業着ではなく、飛行用のジャケットに厚手のズボン、革手袋。ゴーグルを額に押し上げた姿は、いつもより——少しだけ、父親に似ているのかもしれない。アウリィにはわからないけれど。


「体調は?」


「万全。よく寝た」


「泣いた跡があるぞ」


「——っ」


 慌てて頬を擦った。もう乾いていたはずなのに。


「夢を見たんだよ。なんでもない」


「ふうん」


 カイはそれ以上追及しなかった。


 ナディヤが自機の最終点検を終えて歩いてきた。


「天気は良好。風は西寄り。雲海の状態も安定してる。——やるなら今日は条件がいい」


「ありがとう、ナディヤ」


「礼はいいよ。——無事に帰ってきたら、石粉パンを奢りな」


「うん。約束する」


 管制塔に離陸申請を出し——行き先は「島間空域の調査飛行」とした——二機の翼艇が並んでエンジンを始動させた。


 蒸気機関の咆哮が朝の港に響く。


 アウリィは助手席に座り、膝の上にミスリルの槍を横たえた。銀白色の穂先が朝の光を受けて青白く光っている。


「カイ」


「ん」


「行こう」


 カイが頷き、レバーを引いた。


 二機の翼艇が、朝焼けの空に飛び立った。

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