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5話「砂の下の声2」

 午後も深まり、太陽が傾き始めた頃、空気が変わった。


 最初に気づいたのはアウリィだった。精霊との対話を続けていた感覚が、急にざわついた。風の精霊が落ち着かなくなっている。何かに反応して、小さくさざめいている。


「ナディ」


 操舵室に駆け込んだ。ナディラは舵を握ったまま、前方を見据えている。


「分かってる。風が変わった」


「精霊が騒いでる。何か来るかも」


「砂嵐か?」


「違う……もっと下から。砂の下から何かが——」


 言い終わる前に、船体が揺れた。


 小さな揺れだった。航行中の通常の振動とは明らかに異質な、下から突き上げるような衝撃。甲板の上で木箱がかたかたと鳴った。


「砂虫だ!」


 ナディラが叫んだ。声は鋭かったが、恐慌ではなかった。訓練された反応だった。


「全員配置! サフィ、帆を全開! ルード、砂深を測れ!」


 甲板が慌ただしく動いた。サフィが帆柱に飛びつき、ルードが船首で長い棒を砂に突き刺す。ヨナスは船縁から身を乗り出して、砂面を注視していた。


「砂紋が乱れてる! 左舷後方、距離二百くらい!」


 ヨナスの報告に、アウリィも船縁から覗き込んだ。砂面に、不自然な膨らみが走っていた。何か巨大なものが砂の下を移動している。砂が盛り上がり、沈み、また盛り上がる。波のような動きが、じわじわと船に近づいてくる。


「大きさは?」


 ナディラの問いに、ヨナスが顔をしかめた。


「分からん。でも、小さくはない」


 帆が全開になり、船が加速した。砂を切る金属板の音が甲高くなり、船体が前のめりに傾く。アウリィは船縁をしっかり握りながら、精霊に呼びかけた。


 砂の精霊。まだ壁を感じるけれど、構わずに呼びかけた。


「教えて。あれは何? どのくらい大きいの? 何匹いるの?」


 返答は曖昧だった。イメージの断片が、ちらちらと届く。暗い砂の中をうねる長い影。一匹。大きい。船と同じくらい——いや、もっと大きいかもしれない。


「ナディ! 一匹、でもかなり大きい! 船と同じかそれ以上!」


「最悪だな」


 ナディラは舵を力いっぱい切った。船体が大きく傾き、アウリィは危うく転びかけた。航路が急角度で変わり、砂煙が巻き上がる。


「岩盤を探す。砂虫は岩盤の上には来られない。——アウリィ、あんたの精霊とやらで岩盤の位置が分かるか!」


「やってみる……!」


 精霊に再び呼びかけた。今度は風ではなく、砂に。壁はまだあったが、砂虫の存在が精霊たちを動揺させているのか、普段よりもわずかに隙間があった。


 岩盤。硬い地面。砂の下の、固い層。どこにある?


 精霊が応えた。ぼんやりとした感覚で、方角と距離を伝えてくる。正確ではない。でも、目安にはなった。


「右前方! たぶん五百くらい先に岩盤がある! 浅い場所!」


「たぶん、じゃ困る!」


「ごめん、これが精一杯! でも、精霊が嘘をつくことはないよ!」


 ナディラが一瞬だけ振り返った。アウリィの目を見た。黄色い瞳が真っ直ぐにナディラを見返していた。そこに迷いはなかった。


「——右前方に転舵!」


 船が右に向きを変えた。同時に、後方の砂面がぼこりと大きく盛り上がった。


 見えた。


 砂の中から、一瞬だけ何かの体表が露出した。灰褐色の、鱗とも甲殻ともつかない表皮。節のある巨大な胴体の一部。それだけで幅が三メートルはあった。


「でかい……」


 ヨナスが呻いた。


 砂虫は再び砂の下に潜り、船を追うように地中を移動し始めた。砂面の膨らみが左舷に回り込もうとしている。回り込まれたら進路を塞がれる。


「帆は限界まで張ってる! これ以上は——」


 サフィの報告が途切れた。もう一度、下からの衝撃。今度はさっきよりも強い。船体全体がぐらりと傾いて、甲板の上の荷物が滑った。


「ナディ、速度が落ちてる! 砂が深くなってきてる!」


 ルードが叫んだ。深い砂は船の抵抗を増やす。同時に、砂虫にとっては動きやすい環境になる。


 アウリィは船縁から手を離して、甲板の中央に立った。


 考えた。


 精霊術での直接攻撃は無理だ。この世界の精霊とはまだ信頼関係が浅すぎて、戦闘レベルの術を行使できるほどの連携は取れない。


 槍は——使える。だが、砂の下にいる相手に短槍で何ができるか。地上に出てきたときに一撃を入れることはできるかもしれないが、船と同等以上の大きさの相手を槍一本でどうこうできるとは思えない。


 なら。


「ナディ、砂虫って何かに反応してこっちに来てるの?」


「振動だ! 船の振動に反応して寄ってくる!」


「振動……」


 ぱちり、と何かが繋がった。


「ナディ、ボクが甲板から降りて別の場所で振動を出したら、そっちに引きつけられる?」


「何言って——」


「ナディのリズム、覚えてるよ。たたた、た、たた。足でリズムを取るやつ。あれを砂の上でやったら、船の振動とは違う音源ができるでしょ。砂虫がそっちに気を取られてる間に、船は岩盤まで逃げられる」


「馬鹿か! 砂の上に一人で降りてどうする! 食われるぞ!」


「食われないよ。ボク、走るのは得意だから」


 嘘ではなかった。数万年の旅路で培った身体能力は、見た目からは想像もつかないものだ。砂の上を走るのは確かに苦手だが、短距離なら何とかなる。


「それに、精霊が少しだけ協力してくれそう。砂虫の位置が分かれば、避けながら走れる」


「少しだけ? たぶん? ——あんたの精霊術、確実な部分が一つもないじゃないか!」


「うん。でも他に手がないでしょ」


 ナディラが歯を食いしばった。操舵しながら振り返る余裕はないはずなのに、鏡のように磨かれた操舵室の窓越しに、アウリィの姿を見ていた。


「……っ、帰ってこなかったら許さないぞ」


「帰るよ。絶対」


 言い切って、アウリィは船縁に飛び乗った。


 マントが風に煽られて大きく翻った。赤い布が砂漠の夕暮れに映えて、まるで旗印のように空に広がった。


 意識を集中する。右手の掌の上に、薄い光が点った。収納術式の解除。普段は空間に仕舞い込んでいる武器が、光の粒子を纏って姿を現した。


 百五十センチのミスリルの聖槍。白銀の穂先が夕日を受けて、冷たく輝いた。身長よりわずかに長いその槍を、アウリィは片手で軽々と掴み取った。


「——行ってくる」


 船縁から飛んだ。


 落下の一瞬、風が止まった。夕焼けの空と砂の大地が視界を二分して、その境目に小さな身体が一瞬だけ浮かんだ。


 着地。砂を踏む感触がブーツの底から伝わった。膝のばねで衝撃を吸収し、すぐに走り出す。槍を握ったまま、船から離れる方向へ。左斜め後方——砂虫が船を追っている側とは反対の方向。


 三十歩走ったところで、足を踏み鳴らした。


 たたた、た、たた。


 ナディラのリズム。操舵中に無意識に刻んでいたあの足音を、意識的に再現する。砂の上で、ブーツの底が明確な振動を作り出した。


 もう一度。


 たたた、た、たた。


 砂虫の動きが変わった。精霊が伝えてくる。地中の巨大な影が、船を追うのをやめて、新しい振動源に向かって方向転換しつつある。


「来た……!」


 砂面が膨らんだ。船の左舷にあった膨らみが消えて、今度はアウリィの足元から二十メートルほど後方の砂が不気味に波打ち始めた。


 走った。槍を抱えて、砂を蹴って、精霊が示す方向に従って走った。精霊の情報は断片的で不正確だったが、砂虫がどちらから来ているかくらいは分かった。それだけあれば十分だった。


 背後で砂が爆ぜた。振り返りたい衝動を押さえ込んで、ひたすら走る。


 足が砂に沈む。一歩ごとに体力を削られる。でも、止まるわけにはいかない。


 精霊が叫んだ。言葉ではなく、感覚として。右。


 アウリィは反射的に左に跳んだ。直後、右側の砂が噴き上がって、砂虫の巨大な顎が空を噛んだ。灰褐色の体節が砂の中から弧を描いて持ち上がり、アウリィの頭上を覆うように通過して、反対側の砂に突っ込んでいった。


 一瞬だけ見えた体表は、細かい鱗に覆われていて、砂を弾くように滑らかだった。体節の直径は四メートル近い。船を飲み込む、とナディラが言ったのは誇張ではなかった。


「大きい……!」


 感嘆と恐怖が半々だった。半々のうちの感嘆のほうが先に出てくるあたり、自分の性格を自分でもどうかと思った。


 砂虫が再び砂に潜った。次にどこから来るか。精霊に問いかける。返答は曖昧だったが、前方——つまりアウリィが走っている方向の砂が深いことを示していた。深い砂は砂虫の領域だ。


 足を止めた。進む先が砂虫にとって有利な地形なら、走り続けるのは悪手だ。


 考える時間は、数秒しかなかった。


 槍を砂に突き立てた。ミスリルの穂先が砂を貫いて、その下の硬い層——完全な岩盤ではないが、圧縮された砂岩のような層に届いた。


 その感触を通じて、精霊が反応した。


 砂の下の精霊が、槍を媒介にして、初めてはっきりとした感覚を送ってきた。岩盤の位置。アウリィがいる場所から右斜め前方、百メートルほど先に、砂が浅くなって岩盤が露出している一帯がある。


「ありがとう……!」


 槍を引き抜いて、走った。右斜め前方へ。百メートル。砂の上の百メートルは途方もなく遠い。でも、精霊が道を示してくれた。砂が浅い場所、足が沈みにくい場所を選んで、導かれるように走った。


 背後で砂が蠢く気配。砂虫が追ってきている。でも速度が落ちている。砂が浅くなっているからだ。巨体を動かすには深い砂が必要で、浅い砂地は砂虫にとって走りにくい。


 五十メートル。


 足元の感触が変わった。砂の下に硬いものがある。岩盤が近い。


 三十メートル。


 砂から岩が顔を出し始めた。薄い褐色の岩肌。


 十メートル。


 完全に岩盤の上に出た。ブーツの底が固い地面を踏む。安堵で膝が笑いそうになったが、振り返って確認する余裕はまだなかった。


 振り返った。


 岩盤の手前で、砂が大きくうねっていた。砂虫が地中で旋回している。だが、岩盤の境界線を越えてはこなかった。数回、砂面がもぞもぞと盛り上がっては沈むのを繰り返して、やがて膨らみは遠ざかっていった。


 アウリィは岩盤の上に座り込んだ。膝を抱えて、大きく息を吐いた。


「……はぁー……」


 心臓がまだ速く打っている。額に汗が滲んでいた。マントの加護が環境変化からは守ってくれるが、全力疾走の発汗まではどうしようもない。


 遠くで、砂上船の帆が見えた。船はアウリィの指示通り、岩盤のある方向に向かって航行しているようだった。砂虫が離れたことで加速できたのだろう、帆を全開にして砂を切り裂くように走っている。


 やがて船が岩盤の近くまで来て、速度を落とした。帆が半分に畳まれ、船体が軋みながら岩盤の縁に寄った。


「アウリィ!」


 ナディラの声が甲板から降ってきた。操舵室を飛び出して船縁まで来ている。


「無事か!」


「うん。無事。ちょっと疲れたけど」


 舷梯子が降ろされて、アウリィは槍を担いだまま登った。甲板に着いた瞬間、ナディラが目の前にいた。


 怒っていた。


 目が据わっていた。唇が引き結ばれていた。それなのに、声は震えていた。


「二度とやるな」


「え——」


「勝手に船から飛び降りて、一人で砂の上を走って、あんなでかい砂虫を引きつけるなんて。二度とやるな」


 アウリィは口を開きかけて、閉じた。


 ナディラの表情は怒りだった。でもその奥にあるものが怒りだけではないことは、数万年の旅を経た目には見えていた。


「……ごめん。でも、他に方法が——」


「あったかもしれないだろ! もう少し考える時間があれば!」


「時間がなかったから——」


「だから! ——もういい。無事ならいい」


 ナディラは踵を返した。その背中が小さく震えているのを、アウリィは見た。


 ヨナスが横から近づいてきて、声を潜めて言った。


「怒ってるんじゃねえよ。怖かったんだ。見てることしかできないのが」


「……うん」


「船長もああだったからな」


 その言葉を最後に、ヨナスは持ち場に戻っていった。アウリィはしばらく甲板に立ったまま、操舵室に消えたナディラの背中を見ていた。


 槍を収納術式で仕舞い直して、マントの砂を払った。ポーチから日記帳を取り出すか迷って、やめた。今書いても、うまく言葉にならない気がした。


 代わりに、操舵室の扉の前まで歩いていって、扉越しに声をかけた。


「ナディ」


 返事はなかった。


「帰ってきたよ。言った通り」


 長い沈黙があった。


 やがて、扉の向こうから、くぐもった声が聞こえた。


「……水を飲め。汗をかいた分、脱水になる」


 それだけだった。


 アウリィは少し笑って、うなずいた。聞こえないと分かっていても、うなずいた。


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 夜。


 船は岩盤の上に停泊していた。砂虫の脅威がある以上、しばらくはこの場に留まるのが安全だという判断だった。明日の朝、砂虫が離れたのを確認してから出航する。


 甲板の帆布の下で、アウリィは日記帳を広げていた。ランタンの薄い光の中で、今日の出来事を書き綴る。砂虫のこと。精霊が少しだけ力を貸してくれたこと。ナディラが怒ったこと。


 ペンが止まった。


 『ナディが怒った。怒ったけど、本当は心配してくれたんだと思う。ボクは平気だったけど、ナディにとっては平気じゃなかった。それは——』


 何と書けばいいのか分からなかった。


 嬉しかった、と書くのは違う気がした。申し訳なかった、と書くのも少し違う。誰かに心配されることが久しぶりだった、と書くのが一番正直だったかもしれない。でもそれを文字にするのは、何か大切なものを安っぽくしてしまうようで、ためらわれた。


 結局、途中で書くのをやめて日記帳を閉じた。明日また書けばいい。言葉がもう少し固まってから。


 視線を上げると、操舵室の窓に明かりが見えた。ナディラはまだ起きている。


 アウリィは立ち上がって、操舵室に向かった。今度は扉を叩いた。きちんと。


「……開いてる」


 中に入ると、ナディラは舵輪に背を預けて座り込んでいた。膝を抱えて、海図をぼんやりと見つめている。ランタンの光が、そばかすの散った横顔を柔らかく照らしていた。


「隣、座ってもいい?」


「好きにしろ」


 隣に座った。肩が触れそうな距離。狭い操舵室だから仕方ないのだけれど、ナディラは避けなかった。


 しばらく、二人とも何も言わなかった。船体が夜風に軋む音だけが、静かに響いていた。


「ナディ」


「何だ」


「さっきは、ごめんね」


「……もういいって言っただろ」


「うん。でも言いたかった。ちゃんと」


 ナディラは膝に顔を伏せたまま、小さく息を吐いた。


「あんたは——自分が死なないとでも思ってるのか」


「死なないよ、たぶん。ハイエルフの身体は丈夫だから。でも、痛いのは嫌だし、怖くないわけじゃない。今日だって砂虫が出てきたとき、ちゃんと怖かった」


「怖かったのに飛び降りたのか」


「怖いのと、やるべきことは別でしょ」


 ナディラが顔を上げた。黒い目がランタンの光を映して、琥珀色に光った。


「……あんたみたいなやつ、初めてだ」


「ボクもナディみたいな子、初めてだよ。会って三日目の旅人を怒って心配してくれる人」


「心配なんかしてない」


「してたよ」


「——してない」


「うん、分かった。してなかったことにしておく」


 ナディラが膝を抱える腕に力を込めた。怒りとも照れともつかない仕草で、顔を膝に押しつけた。


 アウリィは笑った。声を出さずに、ただ口元を緩めて。


 操舵室の窓の外で、砂漠の星空が静かに瞬いていた。二日目の夜よりも、星が多く見える気がした。今度は気のせいではなく、岩盤の上は砂塵が少ないから、空気が澄んでいるのだろう。


「ナディ」


「……まだ何かあるのか」


「星が綺麗だよ」


 ナディラが窓の外に目をやった。


「……綺麗、か」


「うん。どの世界でも、星は綺麗だね」


 二人で窓の外の星を見た。


 それだけの時間だった。言葉にしなくても伝わるものがある、とアウリィは思った。昼間の無茶を許してもらえたわけではないだろう。でも、こうして同じ星を見ていることは許されている。


 今は、それで十分だった。

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