4話「砂の下の声1」
三日目の朝、アウリィは甲板の上で目を覚ました。
帆布の屋根越しに見える空は、今日もどこまでも青く、雲ひとつなかった。この世界に来てから雲を見ていない。そもそも雨が降るのかどうかも分からなかった。
身体を起こすと、髪の間からさらさらと砂がこぼれた。寝ている間に風で運ばれてきたのだろう。三つ編みのおさげを解いて砂を払い、もう一度編み直す。指先が慣れた動作を繰り返す間に、意識がゆっくりと覚醒していった。
「……よし」
立ち上がって、甲板を見渡す。船は停泊していた。昨夜の航行で次の交易先に向かう中継地点に着いたらしい。周囲は相変わらずの砂漠だったが、遠くに岩場の影がいくつか見えた。
ヨナスが船首で何かの修理をしている。船底の金属板を留めるボルトが緩んだのだと、昨日の夕食時に聞いた。砂との摩擦で部品は消耗が激しく、定期的な整備が欠かせないらしい。
「おはようございます、ヨナスさん」
「おう。早いな、嬢ちゃん」
「嬢ちゃんは……まあ、いいけど」
本当はよくなかった。でも三日目にもなると、この船の乗員たちがアウリィのことを子ども扱いするのは半ば諦めがついてきた。百四十七センチの外見が悪い。数万年生きていようが、見た目が変わらないのだからどうしようもない。
「ナディは?」
「操舵室で海図と睨めっこだ。朝飯の前からずっと」
「ありがとう」
操舵室に向かう途中で、ベルトポーチから乾燥果実を一つ取り出して口に放り込んだ。オアシスで買った分がまだ残っている。甘酸っぱさが口の中に広がって、それだけで少し気分が上がった。
操舵室の扉を叩く。
「ナディ、入るよ」
返事を待たずに開けた。狭い操舵室の中で、ナディラが折り畳みの机に海図を広げていた。海図といっても水の海ではない。砂漠の地形図だ。砂丘の位置、岩盤の分布、オアシスの場所、そして航路の候補が細かい線で記されている。ナディラの字で書き込まれた注釈が余白を埋めていた。
「勝手に入るな」
「返事がなかったから」
「聞こえなかっただけだ」
ナディラは海図から目を上げなかった。指先が航路の線をなぞっている。眉間に薄い皺が寄っていた。
「どうしたの? 難しい顔してる」
「航路を変えるかどうか考えてる」
「何かあった?」
ナディラは少し迷ったようだった。指先が海図の一点で止まり、爪でとんとんと叩く。
「昨日ハスマで聞いた話だ。南西の航路沿いに、大きな遺跡が新しく隆起したらしい。砂嵐の後に露出したって」
「大きな遺跡……」
「先史金属の素材が取れるなら、寄る価値がある。うちの船底の板も、そろそろ替えが必要だからな」
「でも?」
ナディラの眉間の皺が、わずかに深くなった。
「航路を外れる。距離にして二日分の寄り道だ。水と食料の余裕を考えると、あまり安全な判断じゃない。それに——」
言いかけて、口を噤んだ。
「それに?」
「……砂虫の報告が増えてる。南西方面に群れが移動してるって話がある」
「砂虫」
初日にナディラが名前だけ口にした生き物。遺跡の周辺では岩盤があるから滅多に来ないと言っていた。
「砂虫って、どのくらい危ないの?」
「小さいやつなら船底に穴を開ける程度で済む。大きいやつは——船を丸ごと引きずり込む」
さらりと言ったが、内容は全くさらりとしていなかった。
「船を丸ごと?」
「砂の下にいるからな。下から来られると逃げにくい。速度を上げて振り切るか、浅い砂地を避けて岩盤の上を通るか。どっちにしても、航路が限られる」
アウリィは腕を組んだ。精霊の索敵で砂虫を察知できるかもしれないが、この世界の精霊たちはまだよそよそしい。三日かけて少しずつ距離は縮まっている気はするものの、広範囲の探索を頼める段階ではなかった。
「ナディはどうしたいの」
「あたしは——」
ナディラの目が海図に戻った。爪がもう一度、遺跡の位置を叩く。
「行きたい」
その声には、交易品を値切るときの鋭さとは違う響きがあった。もっと個人的な、もっと切実な何かが、短い二文字の中に潜んでいた。
アウリィはそれを聞き逃さなかった。でも、追及はしなかった。代わりに、笑った。
「じゃあ行こうよ」
「……理由も聞かないのか」
「ナディが行きたいなら、それでいいよ。ボクも遺跡は見たいし。あと、砂虫も見てみたいかも」
「見てみたい、じゃない。殺すか逃げるかだ」
「それはそのとき考えよう」
ナディラはアウリィの顔をしばらく見つめていた。天真爛漫な笑顔の奥にあるものを探るように。それから、ふっと息を吐いた。
「……乗員には、あたしから話す」
「うん」
「水の配分は厳しくなる。あんたの分も減るぞ」
「大丈夫。ボク、意外と丈夫だから」
「意外と、ね」
ナディラは海図を折り畳み始めた。決断は早かった。迷いの時間は操舵室に入ったときにはもう終わっていて、あとは最後のひと押しが必要だっただけなのかもしれない。
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航路変更の話は、朝食の席で行われた。
甲板の帆布の下に木箱を並べて、乗員全員が集まった。アウリィを含めて六人。ヨナス、ナディラ、それから残りの二人——船首で砂の深度を測る係のルードと、帆の操作を担当するサフィ。どちらも三十代くらいの男で、日に焼けた顔に砂避けの布を巻いている。
ナディラは簡潔に状況を説明した。新しく隆起した遺跡のこと、先史金属の素材が手に入る可能性、航路の延長による水と食料の問題、南西方面の砂虫の情報。
「反対はしねえよ」
真っ先に口を開いたのはヨナスだった。
「船底の板がいつまで持つか、俺も気になってた。次の交易で替えの板が手に入る保証はないしな」
「水は大丈夫なのか」
ルードが聞いた。慎重な性格らしく、眉を寄せている。
「きつくなる。一人あたりの割り当てを二割減らす必要がある」
「二割か……」
「遺跡の近くに地下水脈がある可能性もある。先史文明の施設は水源の近くに造られてることが多い」
「可能性だろ。確証は」
「ない」
ナディラはごまかさなかった。それが良いことなのかどうか、アウリィには判断できなかった。ただ、嘘をつかないナディラのことを、少し好ましいと思った。
「俺はいいぜ」
サフィが軽い調子で言った。筋肉質な腕を頭の後ろに組んで、大きく欠伸をしている。
「どうせ次の交易先まで退屈な航路だったしな。遺跡のほうが面白い」
「面白いで決めるな」
ルードが渋い顔をした。が、最終的には折れた。
「……操舵手がそう決めたなら、従う。ただし、砂虫の気配があったらすぐに引き返すこと」
「分かってる」
こうして航路変更が決まった。
朝食が終わると、全員が出航の準備に取りかかった。帆を上げ、錨の杭を引き抜き、船体を南西に向ける。ナディラの指示は的確で、無駄な言葉がなかった。操舵室に入った彼女が舵を握り、帆が風を孕んだ瞬間、船体が低い振動とともに動き始めた。
アウリィは船縁に寄りかかって、流れていく砂漠を眺めた。何度見ても飽きない景色だった。砂丘の稜線が朝日を受けて輝き、風紋がまるで巨大な指紋のように大地に刻まれている。
「アウリィ」
ナディラの声が操舵室から飛んできた。
「暇ならこっちに来い。海図の読み方を教えてやる」
「いいの!?」
弾むような足取りで操舵室に向かった。狭い操舵室の中で、ナディラが舵を握りながら片手で海図を広げる。器用だった。
「ここが現在位置。この線が等砂深線。砂の深さを表してる。深いところは砂虫が出やすい。浅いところは岩盤に乗り上げる危険がある。その間を縫うのが航路だ」
「等砂深線……水の海の海図の等深線みたいなものだね」
「水の海?」
「あ、うん。別の世界の話。地面が水で覆われてる世界があってね、そこでも船に乗ったことがあるんだ。底が深いところと浅いところがあって——」
「世界中が水……?」
ナディラの目が少し大きくなった。この世界で水がどれほど貴重かを思えば、世界が水で覆われているという話は途方もなく聞こえるのだろう。
「嘘だろ」
「本当だよ。空から水が降ってくるの。雨っていうんだけど」
「知ってる。言葉だけは。……実際に見たことはないけど」
やはりこの世界では雨は降らないのだ。あるいは極めて稀なのか。アウリィは日記に書き留めようと心の中でメモした。
「空から水が降ってくるなんて、信じられないな」
「ボクも最初はびっくりしたよ。冷たくて、全身びしょ濡れになって、でもすごく気持ちよかった。……いつの世界だったかは、もう思い出せないんだけど」
言ってから、少しだけ声が小さくなったことに自分で気づいた。慌てて笑顔を繕う。
「あ、それよりこの印は何? 海図の端に丸い記号がいくつかあるけど」
「オアシスの位置だ。確認済みのものは塗りつぶし。未確認の噂だけのものは白抜き」
「白抜きのほうが多いね」
「砂漠は広いからな。全部を確認した船なんていない」
海図を眺めているだけで、この世界の広さと厳しさが伝わってきた。水の点が散在する広大な砂の海。その上を小さな船が渡っていく。確かなものは少なく、不確かなものは多い。それでも人々は船を走らせ続けている。
「ボクもこの海図に何か描き足せたらいいな」
「……まずは砂の上をまともに歩けるようになれ」
「むっ。歩けてるよ」
「初日、五十歩で息が上がってただろ」
「それは……砂が柔らかすぎたから……」
ナディラの口元が微かに歪んだ。三日目にしてようやく分かるようになったが、あれはナディラなりの笑いだった。
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航路を変更して半日が過ぎた頃、アウリィは甲板の端に座り込んで精霊との対話を試みていた。
目を閉じ、意識を薄く広げる。マントの裾が風に揺れ、砂の匂いが鼻をくすぐる。精霊術の基本は、自然に溶け込むことだ。主張しすぎず、けれど存在を消しすぎず、「ここにいるよ」と静かに示す。数万年の修練が身体に刻んだ所作は、呼吸と同じくらい自然だった。
風の精霊が、ほんの少しだけ近づいてきた。
昨日までよりも距離が近い。警戒は残っているけれど、完全に拒んでいるわけではなくなった。好奇心のようなものが、微かに感じられた。
「……こんにちは」
声には出さず、意識で語りかける。
返事はなかった。でも、離れもしなかった。
少し角度を変えて、砂の精霊にも呼びかけてみた。船の下、砂の中にいる存在。こちらはまだ距離があった。風よりも頑固で、よそ者に対する壁が厚い。この世界の砂は、長い時間をかけて精霊と深く結びついているのだろう。新参者を簡単には受け入れない。
それでも、初日の完全な無視に比べれば進歩があった。壁の向こうで、こちらの存在を認識している気配がある。
「急がないよ。ゆっくりでいいから」
そう伝えて、意識を戻した。目を開けると、甲板の向こうからナディラが見ていた。
「何してた」
「精霊に挨拶。少しずつ仲良くなってきたよ」
「見えないものと仲良くなる感覚が分からん」
「見えないけど、いるんだよ。ナディの周りにもいる。砂の精霊が、ナディの足元をうろうろしてる」
「……気味の悪いことを言うな」
「悪い子じゃないよ。なんか、ナディのことが気になるみたい。操舵するとき足でリズムを取る癖があるでしょ。あれが面白いんじゃないかな」
ナディラが怪訝な顔をした。足でリズムを取る癖に自覚がないのだろう。少し考えて、それからわざとらしく足を止めた。
「別にリズムなんか取ってない」
「取ってたよ。たたた、た、たたって」
「……取ってない」
その場で小さな沈黙が落ちて、ヨナスが船首の方から「取ってるぞー」と声を飛ばした。ナディラが振り返ってヨナスを睨み、ヨナスが首をすくめた。アウリィは笑った。




