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3話「砂の海に降り立つ者3」

 午後に入って、前方の景色に変化が現れた。


 砂の色が変わった。白っぽかった砂が、次第に暗い黄土色に変わり、やがて地面の一部に緑が見えた。


「オアシスだ」


 ナディラが操舵室から声を投げた。


「あそこが交易先。ハスマの集落」


 近づくにつれて、緑の輪郭がはっきりしてきた。砂漠の中にぽつんと浮かんだ、小さな緑の島。低い草木に囲まれた水辺に、日干し煉瓦の建物がいくつか固まっている。人の姿も見えた。


 そしてオアシスの周囲には、他の砂上船が停泊していた。大小さまざまな船が五、六隻。アウリィたちの船と同じくらいの中型船もあれば、甲板に屋根すらない小さな船もあった。


「あんなに船がある!」


「ハスマはこの辺りの交易拠点だからな。水と食料、それに遺跡から掘り出した素材の取引がある。月に一度、こうやって船が集まる」


 船が減速して、オアシスの外縁に停泊した。錨に相当するらしい金属の杭を砂に打ち込んで、船を固定する。帆が降ろされ、甲板が静かになった。


「降りたら勝手にうろつくなよ。集落にはルールがある」


「分かった。ナディと一緒にいるよ」


「……まあ、その方がいいだろうな。あんたの格好は目立つ」


 確かに、とアウリィは自分の服装を見下ろした。赤褐色のベストに真紅のマント、生成り色のワンピース。砂漠の民の装いとはかけ離れている。


 舷梯子を降りて、砂の上に立った。オアシスに近づくと、空気が変わった。乾いた砂漠の空気の中に、水と植物の湿った匂いが混じっている。アウリィは思わず深く息を吸い込んだ。


「水の匂いがする……! 緑の匂いも!」


「大げさだな」


「だって、この世界に来てからずっと砂の匂いしかしなかったんだよ。緑があるって、それだけですごいことだよ」


 ナディラは何も言わなかったが、歩く速度が少しだけ落ちた。アウリィの歩幅に合わせてくれたのかもしれない。


 集落に入ると、人々の視線がアウリィに集中した。好奇と警戒の入り混じった目。ナディラが片手を上げて周囲に合図すると、視線の圧はいくらか和らいだ。


「あたしの連れだ」


 その一言で、人々は距離を取りながらも通してくれた。ナディラの名前が集落でもある程度知られているのだろう。


 交易の場は、オアシスの水辺に面した広場だった。布を敷いた上に品物が並べられ、船ごとに持ち寄った物資をやり取りしている。食料品、布、工具、そして遺跡から掘り出された素材や部品の断片。


 アウリィの目は忙しく動いた。全てが初めて見るものだった。乾燥させた果実、独特の形をした水差し、砂除けの布に使われている繊維、先史金属を加工した道具。どれもこれも珍しくて、手に取りたくて、持って帰りたくて、うずうずした。


「その目やめろ」


「え?」


「全部欲しそうな目をしてる。あんた買い物に来たんじゃないだろ」


「……いくつか買ってもいい?」


「あんたの金だ。好きにしろ。ただしトラブルは起こすなよ」


 結局、アウリィは小粒の宝石をもう一つ崩して、乾燥果実の小袋と、綺麗な模様の入った砂除けの布と、先史金属の小さな歯車のようなものを手に入れた。どれも実用性というよりは、この世界の記念品として。


 ナディラは自分の交易をてきぱきとこなしていた。船の積荷である別の集落の特産品と、ハスマの水と食料を交換している。値段の交渉は短く鋭い言葉の応酬で、ナディラは一歩も引かなかった。相手の商人も慣れたもので、最終的にお互いが不満そうで、つまりは公正な取引だった。


「ナディ、交易上手だね」


「慣れだ」


 交易が一段落したところで、二人はオアシスの水辺に腰を下ろした。小さな泉に、痩せた木が数本、影を落としている。水面がかすかに揺れて、砂漠の空を歪んだ鏡のように映していた。


 アウリィは買ったばかりの乾燥果実を一つ口に放り込んだ。甘酸っぱい味が口の中に広がって、思わず頬が緩んだ。


「おいしい。ナディも食べる?」


「いらない」


「遠慮しないで」


「してない」


 アウリィはもう一つ果実を取り出して、ナディラの手の甲の上に乗せた。ナディラは少し間を置いてから、それを口に入れた。何も言わなかったが、表情はほんの少しだけ柔らかくなった。


「ねえ、ナディ」


「何だ」


「さっき、船長が不在って言ってたけど……どこにいるの?」


 ナディラの表情が硬くなった。一瞬のことだったが、アウリィはそれを見逃さなかった。


「……遠くに行った。いつ帰るか分からない」


「そう」


 それ以上は聞かなかった。聞けなかったのではなく、聞かないほうがいいと判断した。数万年の旅で学んだことの一つだ。踏み込んでいいものと、待つべきものの見分け方。ナディラの声に滲んだ微かな翳りは、後者だった。


「ボクもね」


 代わりに、自分のことを少し話した。


「大事な人がどこにいるか分からないこと、あるよ。というか……どこにいたかも、もう思い出せないことが多い。昔のことすぎて」


 髪飾りの赤い花に、無意識に指が触れた。


「この花飾りをくれた人の顔も、もうぼんやりとしか分からないんだ。母だってことは覚えてる。大切な物だってことも。でも、どんな声だったか、どんな匂いがしたか、どんなふうに笑ったか——そういうのが、少しずつ消えていく」


 ナディラは黙ってアウリィの横顔を見ていた。


「だから書くの。日記に。忘れても、読み返せば少しは思い出せるから」


「……書いても、思い出せないことは?」


「ある。いっぱいある」


 あっけらかんと言った。けれどその声の底に、普段の天真爛漫さとは違う何かが一瞬だけ覗いた。アウリィ自身がそれに気づいたかどうかは、分からない。


「でも、書かないよりはいいでしょ。何も残さないよりは」


 ナディラは何か言いかけて、やめた。代わりに立ち上がって、砂を払った。


「日が暮れる前に出航する。荷を積むのを手伝え」


「うん!」


 アウリィは軽い身のこなしで跳ね起きた。


 オアシスの水辺に、赤い花の髪飾りが夕日を受けて小さく揺れた。


--------------------------------------------


 夜。砂上船は再び砂漠の上を静かに滑っていた。


 夜間の航行は速度を落として行うらしい。帆を半分だけ張って、ナディラが一人で操舵していた。他の乗員は交代で休んでいる。


 アウリィは操舵室の入口に寄りかかって、ナディラが舵を握る姿を眺めていた。ナディラの目は前方の闇を見据えていて、時折、微かに舵を修正する。砂の状態を船体の振動で読んでいるのだと言った。


「すごいね。砂の違いが振動で分かるんだ」


「船と一緒に育てばな。物心ついたときから甲板の上だった」


「この船で?」


「この船で」


 ナディラの指が、使い込まれた舵輪を撫でた。年季の入った木の手触りを確かめるように。


「あんたは、いつから旅を?」


「……いつだったかなぁ。ずっと昔。最初に旅に出た理由も、もう曖昧で」


「曖昧?」


「うん。何かを探していたような気もするし、ただ歩きたかっただけのような気もする。どっちだったのか、今となっては分からないんだ。日記の最初の頃の巻は……多分トランクの底のほうに埋もれてて、すぐには出てこなくて」


「整理しろ」


「うん。いつかね」


「いつかじゃなくて今やれ」


「……今は無理。見つからないもん」


 ナディラが深いため息をついた。操舵しながら呆れるという器用なことをしている。


「ねえ、ナディ」


「何だ」


「この世界のこと、もっと教えて。砂漠はいつからこうなの? 人はどれくらいいるの? 他にはどんな生き物がいるの?」


「一度に聞くな。全部は答えられない」


「じゃあ、一つだけ」


「一つなら」


 少し考えた。一番知りたいことを選ぶ。


「この世界の人たちは、何を大切にして生きてるの?」


 ナディラの手が、舵輪の上で一瞬止まった。


「……水だ」


 短い答えだった。


「水と、船と、それから——帰る場所」


 その言葉の最後だけ、声が少しだけ小さくなった。


 アウリィはうなずいた。何も返さなかった。ただ、その言葉を日記に書こうと思った。忘れないように。


 操舵室の小さな窓から、砂漠の星空が見えた。前の夜よりも星が多く見える気がした。気のせいかもしれない。けれど、この船の上から見る星は、砂丘の上から一人で見上げた星とは違って見えた。


 それは多分、隣に誰かがいるからだ。


「ナディ」


「……まだ何かあるのか」


「ありがとう。拾ってくれて」


 ナディラは前を向いたまま、ぼそりと言った。


「拾ったんじゃない。商売だ」


「うん。でも、ありがとう」


 二度言われて、ナディラは少し黙った。それから、小さく、本当に小さく言った。


「……どういたしまして」


 砂上船は夜の砂漠を走り続ける。


 赤いマントの旅人を乗せて、まだ見ぬ地平へ向かって。


 アウリィはポーチの中の金属片に指で触れた。今日拾った、この世界の最初の欠片。これから増えていくであろう、数えきれない「初めて」の予感に、胸が静かに温かくなった。


 新しい世界の一日目が終わった。


 日記の白い頁は、まだたくさん残っている。

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