2話「砂の海に降り立つ者2」
甲板の一角に、帆布を張った簡易的な屋根があった。その下に木箱がいくつか積まれていて、ナディラはその一つに腰を下ろした。アウリィにも座るよう顎で示す。
「ありがとう」
木箱に座ると、ようやく足の疲れを自覚した。砂の上を歩くのは思った以上に脚に来る。ブーツの中に砂が入っているのも気になったが、今は後回しにした。
ヨナスが持ってきた水差しから、金属のカップに水を注いで渡された。一口含んで、思わず目を閉じた。
「おいしい……」
「たかが水だろ」
「ううん、この世界の水を飲むの、初めてだから」
ナディラはまたあの表情をした。怪訝と興味がない交ぜになった顔。
「さっきから『この世界』って言うな。それ、どういう意味だ」
「言葉の通りだよ。ボクは別の世界から来たんだ。精霊に招かれて」
「……精霊」
ナディラの声のトーンが変わった。低くなった、というよりも、重くなった。
「あんた、精霊が見えるのか」
「見えるというか、感じる。この世界の精霊たちはちょっとよそよそしいけど、確かにいるよ。砂の下と、風の中に」
ナディラは黙った。長い沈黙だった。甲板を叩く風の音と、船体が砂の上で軋むかすかな音だけが、二人の間を流れた。
「先史文明の伽話に出てくるんだ」
ナディラが口を開いたのは、アウリィが二杯目の水を飲み干した頃だった。
「精霊と交信する尖り耳の民。砂になる前の世界にいたっていう、古い種族。まさか本物に会うとは思わなかった」
「砂になる前の世界……」
「興味あるか」
「すごくある」
即答すると、ナディラは鼻を鳴らした。今度ははっきりと、笑っていた。
「そういうことは、遺跡を見てから聞けよ。口で説明するより早い。――明日の航路上に、一つある。砂上に半分隆起してるやつが。交易のついでに寄れなくもない」
「いいの?」
「宝石一つもらってる。水だけじゃ割に合わないからな」
ナディラは立ち上がった。
「明日、日の出と同時に出航する。寝坊するなよ」
「ボク、寝坊はしないよ。多分」
「多分ってなんだ」
「たまに夜更かしして日記書いてると、寝過ごすことがあるから……」
「子どもか」
反射的に眉が跳ねた。
「子どもじゃないよ。ボク、きみよりずっと年上だから」
「年上」
ナディラは上から下までもう一度アウリィを見た。百四十七センチの小柄な身体、幼さの残る顔立ち。疑わしそうな目だった。
「いくつだ」
「……正確には覚えてないけど、たぶん、数万年くらい」
沈黙。
「寝ろ」
ナディラは呆れたように言い捨てて、操舵室のほうへ歩いていった。信じていないのか、考えるのを後回しにしたのか。たぶん後者だ、とアウリィは思った。あの目は、拒絶ではなく保留の目だった。
一人になった帆布の下で、アウリィはポーチから日記帳を取り出した。
ペンを手に取る。何を書こうか少し考えて、一番新鮮な印象から書き始めた。
『砂上船に拾ってもらった。砂の上を走る船。どうやって動くのかまだ分からない。明日出航するらしい。操舵手の女の子がいる。ナディラ。ナディって呼ばれていた。ぶっきらぼうだけど悪い人じゃなさそう。そばかすが可愛い(本人に言ったら怒りそう)。水がおいしかった。遺跡を見せてもらえるかもしれない。この世界の精霊はよそよそしいけど、明日もう一度話しかけてみよう。少しずつ仲良くなれるといいな』
書き終えて、ペンを置いた。日記帳を閉じて胸に抱える。
見上げると、帆布の隙間から星が見えた。
知らない星座だった。配置も明るさも、前の世界とは全然違う。どの世界でも空は違って、けれどどの世界でも空は綺麗で、それがアウリィにとっての数少ない確かなことの一つだった。
「……きれい」
呟いて、目を閉じた。
砂の匂いのする風に包まれて、意識がゆるやかに沈んでいく。遠くで、砂上船の船体が夜風に軋む音がした。揺り籠みたいだ、と思った。
眠りに落ちる直前、ふと考えた。
いくつもの世界を渡ってきた。いくつもの空を見てきた。そのたびに日記を書いて、記録して、覚えていようとした。なのに、古い記憶はどうしても端から砂のようにこぼれていく。今日飲んだ水の味も、ナディラの呆れた顔も、この星空も、いつかは輪郭を失って曖昧な靄の中に沈んでしまうのだろうか。
それは嫌だな、と思った。
だから書くのだ。忘れてしまっても、開けば思い出せるように。何千冊目かの日記帳を、トランクの中のどこかに積み上げていくのだ。
……トランク、そろそろ本当に散らかりすぎて何がどこにあるか分からないんだけど。いい加減整理しないと。
しないだろうな、とも思いながら。
アウレーリエ・リュコーリアスは、新しい世界の最初の夜に、穏やかに眠りに落ちた。
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目が覚めたのは、夜明け前だった。
空の東側がうっすらと白み始めていて、星がひとつ、またひとつと消えていく。砂漠の朝は早い。そして砂上船の朝はもっと早かった。
甲板の上は既に活気に満ちていた。帆を上げる作業が始まっていて、ヨナスともう一人の男が帆柱にロープを通している。もう一人は船首で砂の状態を確認しているらしく、長い棒を砂に差し込んでは引き抜く動作を繰り返していた。
「起きたか」
ナディラの声がした。振り向くと、操舵室の窓から身を乗り出してこちらを見ていた。
「おはよう、ナディ」
「……その呼び方、もう決めたのか」
「だめ?」
「好きにしろ」
嫌ではなさそうだった。少なくとも、追い払われなかった。
朝の支度をしている間に、アウリィは船の構造をじっくり観察した。船底の金属板は、よく見ると微妙な角度がつけられていて、風を受けた帆の力を効率的に推進力に変えるための工夫が施されているようだった。砂との摩擦を減らすために、板の表面に何らかの加工がしてある。手で触ると、ひんやりとして滑らかだった。
「何触ってる」
ナディラが甲板に降りてきていた。
「この金属板、すごいね。摩擦がほとんどない。何で出来てるの?」
「先史金属。遺跡から掘り出した素材を鍛え直したやつだ。今の技術じゃ一から造れない。砂上船の肝はそこにある」
「じゃあ、遺跡は単なる古い建物じゃなくて、今の生活にも関わってるんだ」
「砂の下に眠ってるものがなけりゃ、あたしたちは船を走らせることもできない」
ナディラの声には、苦いような、誇るような、複雑な響きがあった。
「出航するぞ。どこかに掴まってろ」
号令がかかった。帆が風を孕んで大きく膨らみ、船体が低い唸りを上げた。金属板が砂を噛み、甲板が傾いて、アウリィは思わず船縁にしがみついた。
そして船が動き出した。
最初はゆっくりと、次第に速度を増して、砂の海を滑り始める。船首が砂を切り裂き、細かい砂煙が両舷に巻き上がった。朝日が砂煙を黄金色に染めて、一瞬、世界全体が光の粒子に包まれたように見えた。
「すごい……!」
風を受けて翻るマントの裾を押さえながら、アウリィは船首に駆け寄った。眼前に広がるのは果てしない砂の大海原。砂丘が波のように流れていき、風紋が光の中で踊っている。こんな景色は見たことがなかった。水の上を走る船とは全く違う、乾いた波しぶきのない航海。それなのに、この疾走感と解放感はまぎれもなく「航海」だった。
「船首にいると砂を食うぞ」
ナディラが操舵室から声を飛ばした。
「平気! マントがあるから!」
その言葉の直後に、砂の粒が口の中に飛び込んだ。じゃりっとした感触に顔をしかめて、慌ててマントで口元を覆った。操舵室の窓の向こうで、ナディラが肩を揺らしているのが見えた。笑っている。
悔しかったけれど、同時にこれが楽しかった。新しい世界の、新しい乗り物の、新しい風。砂の味すら新鮮で、それが妙に嬉しくて、マントの下でこっそり笑い返した。
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船が砂漠を走り始めて数時間が経った頃、前方の景色が変わった。
砂丘の連なりが途切れて、地面が露出している場所があった。岩盤だ。薄い褐色の岩が砂の下から顔を出していて、その表面に直線的な溝が走っている。人工的な、あるいはかつて人工的だったもの。
そしてその中央に、遺跡が立っていた。
砂上船から見下ろす形になったその構造物は、半分以上が砂に埋もれた状態で、それでも露出している部分だけで高さが十メートル近くあった。灰色がかった金属と、劣化した石材の混合体。壁面には幾何学的な紋様が規則正しく刻まれていて、風化に抗うように微かな輝きを残していた。
「あれが先史文明の遺跡?」
「そうだ。比較的小さい部類だな。大きいのは都市一つ分くらいある」
ナディラが操舵室から出てきて、アウリィの隣に立った。
「都市一つ分……」
「見たことはないけどな。伽話で聞くだけだ。——降りるか?」
「いいの!?」
「交易先に着くまで少し時間がある。半刻くらいなら寄れる」
アウリィの表情がぱっと明るくなった。
船がゆっくりと減速して、遺跡の近くに停泊した。舷梯子を降りて、久しぶりに足が固い地面を踏んだ。岩盤の感触がブーツの底を通じて伝わってきて、砂の上とは全然違う安定感に少しほっとした。
ナディラも降りてきた。腰の短剣に手を添えて、周囲を見回している。
「砂虫が出ることがある。気をつけろ」
「砂虫?」
「砂の下にいる。遺跡の周りは岩盤だから滅多に来ないが、油断はできない」
アウリィはうなずきながら、精霊に呼びかけてみた。昨夜よりも少しだけ反応が良い気がした。朝日を浴びて活性化しているのかもしれない。砂の精霊が、警戒しながらもこちらの探索を許容してくれている感覚があった。
「周辺に大きな生き物はいないよ。小さいのがいくつかいるけど、岩盤から離れたところ」
「……本当に精霊と話せるんだな」
「話すというか、お互いにぼんやり察し合う感じ。もっと仲良くなれたら、はっきり意思疎通できるんだけど」
ナディラは何か考え込むように目を伏せて、それから遺跡に向かって歩き出した。
壁面に近づくと、紋様の精緻さに息を呑んだ。直線と円弧を組み合わせた幾何学模様の中に、ところどころ文字らしきものが混じっている。読めない。この世界の現行の文字とも違うのだろう、ナディラも読めないようだった。
「壁の下部に入り口がある。前に一度、中に入ったことがある」
「中にも入れるの?」
「浅い部分だけだ。深くなると構造が崩れていて危ない」
アウリィは壁面に手を触れた。ひんやりとした金属の感触。そして——
微かに、ほんの微かに、金属の奥から何かが震えるのを感じた。精霊とは違う。もっと古い、眠っているような振動。残響のような何か。
「……ここ、まだ生きてる」
呟きがこぼれた。
「何?」
「この遺跡、完全に死んでない。何かが、すごく微弱だけど、まだ動いてる。機構なのか、エネルギー源なのか、分からないけど……」
ナディラが鋭い目でアウリィを見た。
「それを感じ取れるのか、あんたは」
「うん。でも、これ以上はよく分からない。この世界の精霊ともっと打ち解けないと、深いところまでは読めなくて」
壁面から手を離して、アウリィは地面に落ちていた金属の欠片を拾い上げた。掌に乗るくらいの小さな破片。表面に紋様の断片が残っていて、光の角度によって色が微妙に変わる。
「これ、もらってもいい?」
「……そんなもの、どうする」
「記念に。この世界で最初に見つけたものだから」
ナディラは呆れたような顔をしたが、止めはしなかった。アウリィは嬉しそうに金属片をベルトポーチに押し込んだ。ポーチの中がまた一つ膨らんだ。
「あんた、どこ行ってもそうやって物を拾うのか」
「拾うね。捨てられないタイプ」
「……面倒な性格だな」
「よく言われる」
言いながら、アウリィは笑った。面倒だと分かっている。分かっていて、やめられない。物に触れると、その場所の記憶が指先に残る気がするのだ。日記だけでは足りない。言葉にできないものを、物が代わりに覚えていてくれる。少なくとも、そう信じたかった。
半刻はあっという間に過ぎた。
ナディラに促されて船に戻り、砂上船は再び航海を始めた。




