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1話「砂の海に降り立つ者1」

 目を開けると、空が燃えていた。


 地平の果てまで広がる夕焼けが、見渡す限りの砂の大地を赤銅色に染め上げている。立ち上がろうとして、指先に触れた砂の熱さに小さく声を上げた。


「あっつ……!」


 反射的に手を引っ込めて、掌をぱたぱたと振る。砂粒がきらきらと舞い落ちて、沈みかけた太陽の光を受けて一瞬だけ宝石のように輝いた。


 ――綺麗だ。


 そう思った直後に、もう一度砂の熱さが足元から這い上がってきて、アウレーリエ・リュコーリアスは慌ててブーツの底で砂を踏み直した。龍革の厚い底がなければ、足裏がじんわり焼けていたかもしれない。


「ふう……」


 真紅のマントの裾を払い、ゆっくりと周囲を見渡す。


 砂だった。


 右を見ても、左を見ても、後ろを振り返っても、砂。風紋が幾重にも刻まれた砂丘が、まるで凍った波のようにうねりながら続いている。空気は乾いていて、吸い込むと喉の奥がかすかにざらついた。


「砂漠かぁ」


 呟いて、それから口元がゆるんだ。


 知らない空だった。知らない砂だった。見たことのない色合いの夕暮れが、知らない世界の匂いを運んでくる。胸の奥で、馴染み深い高揚感がぽつりと灯った。火種のように小さく、けれど確かに温かい。


 首元のマントを引き寄せて、砂混じりの風から顔を庇う。マントの加護が肌の表面をそっと包み込んで、乾燥した空気の刺激をやわらげてくれた。


「えーっと」


 ベルトポーチの留め具を外し、中から使い込まれた日記帳を取り出す。革の表紙はすっかり色が褪せていて、何度も開かれた背表紙は柔らかく手に馴染んだ。


 最後に書いた頁を開く。


 走り書きの文字。前の世界で最後に記した言葉たち。読み返そうとして、少しだけ迷ってから、そのまま頁をめくった。今はまだいい。今はこの新しい砂の匂いを覚えていたかった。


 白い頁に、短く書きつける。


 『新しい世界。砂漠。空が赤い。砂がとても熱い。風にも砂が混じっている。精霊の気配は――』


 ペンが止まった。


 意識を薄く広げてみる。精霊術の基本、周囲の精霊たちへの呼びかけ。数万年の歳月が身体に刻んだ習慣は、呼吸と同じくらい自然だった。


 けれど、返ってくるものが薄い。いないわけではなかった。かすかに、本当にかすかに、砂の下のほうから微細な応答がある。風の中にも、ほんの少しだけ。ただ、どちらもこちらの呼びかけに対してひどく警戒しているような、あるいは興味が薄いような、よそよそしい反応だった。


「うーん、相性悪いかも」


 ペンを動かす。


 『精霊の気配はあるけれど遠い。索敵は狭い範囲なら何とか。支援は期待しないほうがいいかも』


 日記帳を閉じてポーチに戻し、改めて立ち上がる。身長百四十七センチの小さな身体は砂丘の上に立っても視界が広がらず、周囲の地形がよく分からなかった。


 足を踏み出す。砂に沈む。


「んっしょ……」


 一歩ごとに足首まで砂に埋もれて、歩くだけでやたらと体力を使った。砂丘の斜面を登りきって頂上に立つと、ようやく少しだけ遠くまで見渡せた。


 そして、見えた。


 砂丘の向こう側、夕日を背にした低地に、何かがあった。光を反射する何か。金属的な鈍い輝き。よく目を凝らすと、砂の中から突き出した構造物の輪郭が見えた。直線と曲線が入り交じった、自然物ではありえない形状。風化しかけた壁面に、文字のような模様のような彫り込みがうっすらと残っている。


「遺跡?」


 興味を引かれて、足が自然とそちらに向いた。


 だが砂丘を半分ほど降りたところで、足を止める。太陽は既に半分以上沈んでいて、空の赤が急速に暗い紫に変わりつつあった。あと少しで夜になる。知らない世界の、知らない砂漠の夜に、何が起こるか分からない。


 それに。


 精霊術で探った限りでは、遺跡の周辺に生き物の気配はなかった。水の気配も。


 水。


 今更のように気づいて、唇を舌で舐めた。乾いている。ポーチの中に水筒はあるが、中身はそう多くない。砂漠で水がなくなれば、ハイエルフだろうと困ることになる。死にはしないにしても、意識が朦朧とする程度には衰弱する。過去に一度か二度、いやもっとあったような気がするが、とにかくあまり愉快な経験ではなかった。


「人、いるのかなぁ……」


 もう一度、慎重に索敵を広げる。精霊たちの反応は鈍いままだったが、無理に力を込めるのではなく、そっと耳を澄ませるように集中した。砂の下の微かな精霊が、気まぐれに何かを伝えてくる。


 振動。


 砂の下を伝わる、規則的な振動。自然のものではない。何か大きなものが、砂の上を移動している。


 方角は――西。太陽が沈む方角。遺跡とは反対側だった。


「よし」


 迷いは短かった。遺跡は逃げないけれど、動くものは逃してしまう。振動の正体が何であれ、この砂漠で自分以外に動いているものがあるなら、会いに行く価値はある。


 砂丘を引き返し、西へ向かって歩き始めた。


 マントが風に煽られて、黄色い裏地がはためく。三つ編みにしたおさげが肩の上で揺れて、砂粒が髪の間にするりと入り込んだ。


「砂、入る……」


 不満げに首を振りながらも、足は止めなかった。


--------------------------------------------


 夜が来た。


 砂漠の夜は冷えると聞いたことがある。どこで聞いたかは思い出せない。随分昔のことだった気がするし、あるいはどこかの本で読んだだけかもしれない。記憶の端が砂のように崩れて、指の間からこぼれ落ちていくのはいつものことだ。


 ただ、マントの加護があるおかげで、気温の低下はそこまで身体に響かなかった。問題は視界のほうだった。月は出ていたが、砂漠特有の細かい粒子が空気中に漂っているのか、地上付近はぼんやりとした薄明かりに包まれていて遠くが見にくい。


 それでも振動は、確実に近づいてきていた。


 いや、正確には自分が近づいていた。精霊を通じて感じ取る振動の発信源は、ほとんど同じ場所に留まっている。停泊している、とでもいうのだろうか。


 小一時間ほど歩いて、それはようやく視界に入った。


「……わぁ」


 声が漏れた。


 砂の上に、船がいた。


 全長はざっと五十メートルほど。平たく幅広な船底に、砂を掻き分けるための金属製の板が何枚も取り付けられている。両舷には折り畳み式の帆柱が立っていて、今は帆を下ろした状態で停泊していた。船体は木材と金属の混成で、あちこちに補修の跡がある。使い込まれた道具が持つ、独特の頼もしさがあった。


 甲板の上にはいくつかの灯りが見えた。ランタンか何か、橙色の光がゆらゆらと揺れている。人影も見えた。三つ、四つ。船の上で何かの作業をしている。


 砂上船。


 ボクの知らない乗り物だ。水の上を走る船は見たことがあるけれど、砂の上を進む船というのは初めてだった。どういう仕組みで動くのだろう。帆があるから風力だろうか。それとも船底の金属板が何か関係しているのだろうか。


 知りたいことが次々と湧いてきて、胸の中の火種がぱちぱちと音を立てた。


 だが、少しだけ冷静さを取り戻す。相手がどういう人たちか分からない。砂漠で旅人を見かけたとき、友好的に迎えてくれる文化なのか、それとも警戒するのが当然の世界なのか。


 とりあえず、武器は出さない。敵意がないことを示す。堂々と歩いていけばいい。


 砂を踏む音を隠さないようにして、船に近づいた。五十メートルほどの距離まで来たところで、甲板の人影が一つ、こちらに気づいた。


「――おい、誰かいるぞ」


 低い声が夜の砂漠に響いた。


 他の人影も動き、船縁からこちらを覗き込む気配がした。ランタンの一つが持ち上げられて、光が砂の上を滑るように伸びてきた。


 アウリィは足を止めずに歩き続けた。マントの赤が橙色の光に照らされて、暗い砂漠の中に鮮やかに浮かび上がった。


「子どもか?」


「まさか。こんなところに一人で?」


 ひそひそと交わされる声が聞こえた。子ども扱いされるのは慣れているけれど、慣れているのと気にならないのは別の話だった。眉がぴくりと動いたのを、自分で感じた。


「こんばんは!」


 努めて明るく声を張った。怪しい者ではない、と言葉で言うよりも、雰囲気で示すほうがずっと効果的だと長い経験から知っていた。


「旅の者なんだけど、水を少し分けてもらえないかな。もちろん、対価は払うよ」


 沈黙があった。甲板の上で数人が顔を見合わせる気配がして、やがて一人が船縁から身を乗り出した。


「……舷梯子を降ろす。そこで待て」


 ぎしぎしと音を立てて、船体の横から折り畳み式の梯子が降りてきた。金属の骨組みに板を渡しただけの簡素な造りだが、しっかりしている。


 梯子を登った。一段ごとに船体が軋む音がして、上に行くほど風が強くなった。マントが大きくはためいて、黄色い裏地が夜空に翻る。


 甲板に足を着いた瞬間、数本のランタンの光に囲まれた。


 四人の人間が、こちらを見ていた。日に焼けた肌、砂除けの布を頭に巻いた風貌。全員が腰に短剣を差していたが、手はかけていない。警戒はしているが、すぐに攻撃するつもりはなさそうだった。


「随分と軽装だな。砂歩きの装備も持ってないのか」


 最初に声をかけてきた男が言った。四十がらみの、顎髭を短く刈り込んだ男だった。腕が太い。船乗りの体格だ、と直感的に思った。


「さっき着いたばかりなんだ。この砂漠のこと、まだ全然知らなくて」


「さっき着いた? どこから来た。近くに別の船がいるのか」


「ううん、船じゃなくて……遠くから来たんだ。すごく遠くから」


 男たちの表情に困惑が混じった。それはそうだろう。砂漠の真ん中で、船も持たず、砂歩きの装備もなく、一人で立っている小柄な旅人。どう考えても不審だ。


「まあ、立ち話もなんだ。――ナディ!」


 男が振り返って船尾のほうに向かって叫んだ。


「客だ。水が欲しいってよ」


 少し間があって、船尾の構造物――操舵室だろうか、高く張り出した部分の扉が開いた。


 出てきた人影は、予想していたよりもずっと小さかった。


 アウリィよりは背が高い。十五、六歳くらいの少女だった。褐色の肌に、短く切り揃えた黒髪。砂除けの布を首元に巻いて、袖をまくった作業着のような服を着ている。目元が鋭い。なのに、鼻の頭にそばかすが散っていて、そのアンバランスさが妙に印象的だった。


 少女は甲板を迷いのない足取りで渡ってきて、アウリィの前に立った。ランタンの光の下で、黄色い瞳と黒い瞳が交差した。


「……エルフ?」


 少女が最初に口にしたのは、そのひと言だった。


 アウリィは少し驚いた。耳を見たのだろう。フードは被っていなかったから、先の尖った耳は見えていたはずだ。だが、この世界にエルフという概念が存在するとは限らないと思っていた。


「うん、ハイエルフ。知ってるの?」


「伽話にだけ」


 少女はそう言って、値踏みするようにアウリィを上から下まで眺めた。髪飾りの赤い花、ベストとブーツの赤褐色、マントの真紅。砂漠の装いとはまるで違う色彩を、怪訝そうに、けれどどこか興味深そうに見ていた。


「あたしはナディラ。この船の操舵手。で、あんたは」


「アウレーリエ・リュコーリアス。長いからアウリィって呼んで」


「アウリィ。——砂漠の真ん中で一人で何してた」


「迷ってた、かな」


「正直だな」


 ナディラの口元がわずかに動いた。笑ったのか、呆れたのか、ランタンの光では判別がつかなかった。


「水はやれる。ただし、うちは交易船だ。慈善じゃない」


「分かってる。これでどう?」


 ベルトポーチから小さな袋を取り出して、中身を掌に乗せた。換金用に持ち歩いている宝石のうち、小粒のものを二つ。磨かれた表面がランタンの光を受けて、青と緑の煌めきを甲板に散らした。


 周囲の男たちの空気が変わったのが分かった。息を呑む音。ナディラだけが表情を変えなかった。


「……水に宝石は高すぎる。足元見られてるとでも思ってるのか」


「ううん。このくらいの宝石なら余裕があるから、気にしないで。それに水だけじゃなくて、もう少しお願いしたいこともあるんだ」


「何だ」


「この世界のこと、教えてほしい」


 ナディラの眉が上がった。この世界、という言い回しに引っかかったのだろう。だが、追及はしなかった。代わりに、手を差し出した。


「宝石は一つでいい。残りは取っておけ」


 アウリィは青い宝石を一つ、ナディラの掌に乗せた。少女の手は小さかったが、指先にはたこがあった。操舵手の手だ。


「ヨナス、水を持ってきて。客室は……空きはないから、甲板の倉庫脇でいいか」


 顎髭の男がうなずいて、船内に消えていった。他の男たちも、それぞれの持ち場に戻り始める。客人として受け入れるという判断が、ナディラの一言で決まったらしい。


「操舵手の権限、強いんだね」


「船長が不在だからな。今はあたしが代理だ」


 それだけ言って、ナディラは踵を返した。ついてこい、という素振りだった。


 アウリィは小さく笑って、その背中を追った。

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