第88話 予言の余白
教会の中は、静まり返っていた。
夜の六層は、昼間とはまるで別の顔を見せる。
外では光る植物が淡く瞬き、川の音だけが規則正しく響いている。
だが、石造りの教会内部には、その音すらほとんど届かない。
長い廊下には人影がなく、燭台の火がゆらりと揺れているだけだった。
捕らえていた探索者――ヤヤコがいなくなった今、空気は不思議な均衡を保っている。
誰も騒がない。
誰も追わない。
まるで、最初からそうなることが決まっていたかのように。
礼拝堂の奥、赤いローブの少女が一人、長椅子に腰掛けていた。
ハナである。
その背後で、静かに足音が止まる。
「……これで良かったのですか?」
低く、落ち着いた声。
アーロンだった。
「ヤヤコさんの件について、です」
問いかけは穏やかだが、確認の意図は明確だった。
ハナは振り返らない。
ただ、前を向いたまま、淡々と答える。
「全部、予言通りにしただけ」
それは事実だった。
あの万年筆でダンジョンに問いかけたとき、返ってきた「文章」には、逃走経路だけでなく、その後に起こる反応まで記されていた。
――彼女は外に出る。
――教団を否定しきれない。
――だが肯定もしない。
――曖昧なまま語る。
そこまで含めて、示されていた。
「ですが、わざわざ情をかける必要はなかったのでは?」
アーロンの問いは、教団幹部としての視点だ。
「彼女を拘束したままでも、あるいは記憶を曖昧にして解放することもできました」
それでもハナは、首を横に振る。
「それじゃだめ」
小さな声だったが、揺らぎはない。
「どうしても、私たちは『尖った思想の集団』だと思われる。それは避けられない」
教団は閉鎖的だ。
六層に拠点を構え、外に馴染めない者たちを受け入れている。
それだけで、世間は勝手に色を付ける。
「だったらせめて」
ハナはゆっくり立ち上がる。
「出来るだけ悪いイメージが持たれない形で、解放してあげた方がいい」
捕らえ、脅し、黙らせる。
それは最も単純で、最も愚かな選択だ。
逃がす。
しかも、本人の意思で選んだと思わせる形で。
それが最善だった。
アーロンは目を細める。
「つまり……」
「うん」
ハナは振り返り、わずかに笑った。
「ヤヤコさんは、きっと全部を悪くは言わない」
完全な擁護もしないだろう。
しかし、断罪もしない。
その「曖昧さ」こそが、最大の価値だった。
「これでヤヤコさんは、優秀なメッセンジャーになってくれるはずですね」
アーロンが静かに言う。
事実の伝達者。
敵でも味方でもない立場。
教団の存在を、過激でも狂信的でもない形で外に伝える存在。
自覚のないままに。
しばらく沈黙が落ちる。
燭台の火が、ぱちりと小さく弾けた。
「……それに」
ハナがぽつりと付け足す。
「嘘は、ついてない」
ハナがヤヤコに伝えた身の上話も、教団の結成にまつわる話も、すべて本当だ。
だからこそ、意味がある。
予言は、ただ「読む」だけ。
未来を操作したわけではない。
アーロンは、その言葉を静かに受け止める。
「ハナ様は、お優しい」
「違うよ」
即座に否定。
「合理的なだけ」
だが、その声にはわずかな疲労が混じっていた。
アーロンはそこで、ふっと表情を和らげる。
「……ところで」
口調がわずかに変わる。
「今、何時だとお思いですか?」
ハナはきょとんとする。
「え?」
「もう、かなり遅い時間です」
予言を読み、地図を書き、巡回の調整まで済ませた。
すべてが終わったのは、つい先ほどだ。
「夜更かしは感心できません」
アーロンは柔らかく言う。
「お体に障ります」
その声音は、幹部というより、保護者のそれだった。
ハナは少しだけ不満そうに頬を膨らませる。
「子ども扱いしないで」
「事実です」
即答。
「ハナ様は、まだ成長途中なのですから」
ハナは小さくため息をつく。
「……わかった。今日はもう寝る」
「それがよろしい」
アーロンは一礼する。
礼拝堂を出るハナの背中を見送りながら、彼は一瞬だけ思案する。
予言は、確かに当たった。
だが。
予言に書かれていない未来も、必ずある。
ヤヤコは外に出た。
そして物語は、まだ続く。
静まり返った教会に、再び静寂が戻る。
六層の夜は、何事もなかったかのように、淡々と更けていった。




