第86話 ダンジョンはかく語りき
しばらく、沈黙が続いた。
ハナは期待するように私を見ている。
外の話。そんな大それたもの、私に語れるのか?
でも――。
「……わかった」
私は、ベッドから立ち上がった。
「たいした話じゃないよ?」
「うん」
ハナは、素直に頷く。
私は、ゆっくり話し始めた。
ダンジョンの外の空の色。
季節で変わる匂い。
朝の電車のぎゅうぎゅう具合とか、コンビニの新作スイーツとか、どうでもいい話まで。
配信のことも少しだけ話した。
カメラの向こうにいる視聴者。
顔も知らないのに、コメントで笑い合う時間。
炎上して落ち込んだ夜。
でも、それでもまた配信ボタンを押す瞬間。
「外はね、広いよ」
私は言う。
「自由で、うるさくて、面倒で、でも楽しい」
完璧な世界じゃない。
理不尽もある。
でも、選べる。どこへ行くかも、誰といるかも。
ハナは、ずっと黙って聞いていた。
時々、小さく息を呑む。
時々、目を細める。
角の影が、壁に揺れている。
「……すごいね」
ぽつりと、彼女は言った。
「私、想像しかできなかったから」
その声は、どこか柔らかい。
「ありがとう、ヤヤコさん」
まっすぐな感謝。
私は、少しだけ照れた。
「約束通り」
ハナは立ち上がる。
「お礼に、あなたを逃がしてあげる」
あまりにもあっさり。
「……大丈夫なの?」
私は思わず聞く。
「教祖が勝手に、捕虜を逃がして」
「あとで怒られるかも」
ハナはくすっと笑った。
「たぶん、すごく怒られる」
軽い。
軽いけど、覚悟はある顔だ。
彼女は、右手をゆっくり持ち上げた。
空気が震える。
魔素が、集まる。
濃く、深く。
赤いローブの袖の中で、光が形を作る。
そして、右手に現れたのは――万年筆だった。
黒い軸に、銀の装飾。
繊細で、上品な造り。
戦闘用とは思えない。
……万年筆なんて、固有武器として見たことがない。
「それ、何に使うの?」
「とりあえず、見ていて」
ハナは、空中にペン先を向けた。
さらり、と。何もない空間に、線が引かれる。
魔素が、インクみたいに滲む。
そして、青白い光の文字が描かれる。
見たことのない言語だ。
曲線と角ばった記号が混ざった、不思議な形。
私は目を凝らす。
少なくとも、アルファベットではない。
中国語や韓国語でもない。この地球上の言語とは思えなかった。
読めない。意味もわからない。
謎の言語で、文章と思われる何かが空中に描かれていく。
「……何を書いたの?」
「ヤヤコさんが、どう逃げればいいか聞いたの」
「誰に?」
ハナは、当たり前みたいに答える。
「ダンジョンに」
は?
思考が止まる。ダンジョンに?
質問?
何言ってるの、この子。
すると。
ハナが書いた文字の下に、じわりと別の文字が浮かび上がった。
勝手に。
誰も触れていないのに。
文章のように連なっていく。
……え。
私の背筋がぞくりとする。
ハナは、それをじっと読んでいた。
目が速く動く。
やがて、小さく頷く。
「なるほど」
彼女は懐から紙を取り出した。
広げる。
それは、六層の地図だった。
森や川、そして教団の施設の、詳細な位置関係が描かれている。
「すご……」
ハナは万年筆を地図に走らせる。
インクではなく、魔素の光が線になる。
するすると、一本のルートが描かれていく。
「ヤヤコさんが五層から来た道は、見張りがいるみたいだから」
さらりと言う。
「別の道を案内するね」
ペンが止まる。
彼女は地図を折りたたみ、私に差し出した。
「あと二十分したら、ここを出て」
「二十分?」
「うん。とにかく二十分」
意味は教えてくれない。
でも、その目は真剣だ。
「地図に描いたルート通りに進んで。この部屋の扉を出て、右手の通路を奥まで行くと、教会の裏口があるから、そこから外に出られるよ」
私は地図を見る。
「それと、これ」
さらに、ハナは鍵を差し出した。右手のブレスレットのものだった。
すぐに解錠する。
右手首が軽くなった。これで、魔素が使える。
「ありがと……」
ハナは扉へ向かう。
「じゃあ、ここの鍵は開けておくね」
振り返る。
少しだけ、寂しそうな笑顔。
「……外の話、ありがとう」
そして、静かに出ていった。
扉は閉まる。
でも、施錠の音はしない。
私は、地図を握りしめたまま立ち尽くす。
二十分。
意味はわからない。
でも、ダンジョンに「聞いた」って。
あれ、なんなんだよ。
部屋の中は、静まり返っている。
時間がやけに遅い。
時計の針の音だけが聞こえる。
五分たった。
まだ早い。
じっと座っているだけなのに、心臓が落ち着かない。
逃げる。
本当に?
罠じゃない?
でも、ハナの目は――嘘じゃなかった。
不思議な時間だった。
敵だったはずの教祖と話して。
外の話をして。
ダンジョンに質問して。
地図をもらって。
なんなんだ、今日は……。
やがて。
……二十分。
私は立ち上がった。
扉に手をかける。
ゆっくり押す。
――開いた。




