第51話 毒
私は、動けなかった。
壁に背を預けたまま、呼吸を整えようとしている間に、男は、もう距離を詰めていた。
次の瞬間。
視界が、反転する。
「……っ」
背中に、強い衝撃。床に押し倒される。
重い。
大剣ではない。人の体重だ。
腕を取られ、捻られる。
関節が、正しい向きから外されていく。
「……っ、く……」
抵抗しようとするが、力が入らない。
男は、ためらいなく、私をうつ伏せにした。
視界が、地面だけになる。
背中に、膝。
肩を押さえられ、完全に動きを封じられる。
「抵抗は、もう意味がない」
すぐ後ろで、男の声がした。
静かで、淡々とした声。
次の瞬間。
首元に、チクリとした感触。
「……?」
一瞬だけ。
本当に、一瞬だけの痛み。
でも、はっきりと分かった。
――注射だ。
男は、私の耳元で言った。
「神経毒だ」
その言葉が、やけに冷静に頭に入ってくる。
「死ぬことはない。だが、自由には動けなくなる」
私は、何か言おうとした。
けれど、舌が、うまく動かない。
視界が、歪む。
床が、波打つように揺れる。
「……く……」
指先が、言うことをきかない。
感覚が、少しずつ遠ざかっていく。
男は、体重を離した。
私は、床に転がされたままになる。
「回復弾は、効かない」
男は言う。
「特別に調合した、魔素循環を乱すタイプだ。治癒を、内側から拒絶する」
……なるほど。
だから、余裕なのか。
私は、必死に呼吸をする。
肺は、まだ動いている。
でも、身体が、重い。
「……殺さないの?」
かろうじて、声を絞り出す。
男は、少しだけ間を置いた。
「依頼内容は、殺害じゃない。君の活動を、終わらせることだ」
男は淡々と言う。
「生死は、条件に含まれていない」
男は、立ち上がる気配を見せた。
「生き残るかどうかは――君の、選択次第だ」
そう言って男は、懐からタバコのような細長い何かを取り出した。
そして、それを口にくわえると――
――ピィィィ……。
澄んだ笛の音が、ダンジョンに響いた。
高く、長い音。
それは、警告でも合図でもない。
ただ、「呼ぶ」ための音だった。
男は、もう私を見ていない。
背を向け、歩き出す。
「じゃあな、探索者」
その声を最後に、足音が、遠ざかっていく。
私は、床に伏せたまま、動けない。
笛の音が、消えた直後。
……気配が、増えた。
遠く。
通路の奥。
壁の向こう。
無数の、足音。
這う音。
擦る音。
鳴き声。
――来る。
笛に、反応した魔物たちが。
大量に。
私は、歪む視界の中で、天井を見つめた。
身体は、重い。指先も、痺れている。
それでも。
意識だけは、はっきりしていた。
……なるほど。
ここからが、本番か。
私は、ゆっくりと息を吸った。
選択は、まだ残っている。
――生きるか。
――死ぬか。
それを決めるのは、誰でもない。
私自身だ。




