第二幕
十年前、リルシーナ・アイズルクは魔界に生贄として捧げられた。
誰もが妹のナタリーが選ばれなくてよかったと言ったが、リルシーナがいなくなって悲しんだ者はいなかった。
ナタリーは王太子と婚約し、幸せに暮らしているのに対し、リルシーナは魔界という暗闇に囚われている。
誰よりも愛を欲し、誰よりも愛されなかった少女は孤独に苦しんでいた。
彼女が魔界に行ってから十年が経った。
つまり、新たな犠牲者か捧げられる時が来たのだ。
* * *
新たな生贄として選ばれた私、クラリス・ネヴィル。
「おめでとうございます。あなたの魂は選ばれたのです」
なぜおめでたいのだろう。
人が死ぬというのに。
まるで、私が光の道へ召される祝福を受けたかのように微笑む神官達。
私には分かっていた。
その微笑みの裏には安堵が隠れていることを。
私は貴族ではない。
貴族の孤児院に引き取られた名ばかりの養子。
私を引き取った貴族の娘の影武者。
髪の色が暗すぎると、目の色が不吉だと、何度も囁かれてきた。
影武者をさせられるときは、趣味でもない服を着せられ、目の色や髪の色を無理やり変えられた。
私の存在を知っている人は全くいない。
これが初めて私が人に認知される瞬間か。
「恐れることはありません。前例がありますから。十年前に捧げられた少女、リルシーナ・アイズルクもすべてを受け入れて生贄になった。先代の生贄は宿命を全うされたのです」
その名前に、私はわずかに目を見開いた。
リルシーナ・アイズルク。
確か、王太子妃ナタリー様のお姉様だったような……。
もう興味もないや。
私は馬車に乗せられ、魔界への入口に連れて行かれた。
護送の兵士たちは一言も発しない。
馬車の車輪が土を擦る音だけが、冷たい空気に微かに響いていた。
山に魔界の入口がある理由は、やってきた魔物が人に危害を加えるのを遅れさせるためだという。
「着きましたよ」
神官は私を馬車から下ろし、魔界への入口に立たせた。
この先が地獄なのか。
神官は私に聖剣を渡した。
「最後に家族に伝えたいことがあれば言ってください。伝えておきます」
「孤児の私をここまで育ててくれてありがとう。替え玉でも楽しかった」
「…………伝えておきましょう。さぁ、行きなさい」
私は魔界の入口に飛び込んだ。
◇◆◇
目を覚ますと私は夜のように暗い場所で眠っていた。
ここが魔界……。
私は立ち上がって周りを見渡した。
なにもない場所。
ただ、寂しいという思いが詰まった場所。
私は真後ろにあった魔界への出入り口に触れた。
まるで透明な壁があるかのように、手は行く手を阻まれた。
「……」
どこからか魔物が走ってきた。
魔物は黒い霧のような体を持ち、獣とも虫ともつかない形をしていた。
口のない顔から、ギィと嫌な音が漏れた。
それが私を狙っていると、本能で分かった。
怖い。
「やだ……来ないで……!」
私は聖剣を構えた。
だが、剣は重く、手が震える。
地上では形式として渡されたものだと思っていたが、今はそれが命綱だ。
魔物が跳ねるように飛びかかってきた。
私は強さのあまり目を瞑ってしまった。
「そこまで」
声とともに、空気が裂けた。
直後、何かが魔物を貫いた。
それは、光を帯びたような刃だった。
「せい……けん……?」
魔物は音もなく砕け、灰になって消えていく。
消えた魔物の後ろに少女が立っていた。
私と同じような服を着ている少女は何も考えていないみたいだった。
どうしてここに人間が……?
少女はすぐに立ち去ろうとした。
「ま、待って!」
私が声をかけると少女は立ち止まった。
「あなたは何?どうしてここにいるの?」
「…………私はリルシーナ・アイズルク。そう、もう十年経ったのね」
「何で生きて……」
「私は瘴気を十年浴びても死ななかった人間」
その言葉は静かに重く響いた。
「十年……ずっと、一人で?」
「そりゃそうよ。先代の生贄はみんな死んでるもの」
「……っ」
「この砂。何だと思う?」
「まさか……」
「そう、これは先代の生贄の死体。瘴気は人間の精神を蝕み、自害へと追い込むか、十年以内に体を崩壊させる」
信じられない。
その事実も、それを淡々と話すリルシーナも。
リルシーナは視線をこちらに向けなかった。
ただ、虚空を見つめるように話し続ける。
「私もこうなりたかった」
「……死にたかったってこと?」
「そうね。向こうにいた頃はまだ生きる理由を探してた。けど、愛する人に裏切られたときには、私がすべき選択はなにか分かってしまったの」
彼女の視線が、ようやく私に向けられた。
でもそれは、ずっと遠くを見ているようだった。
光も希望もなく、ただ虚しそうな瞳。
「私は愛される妹のために命を投げるいい姉であればいいと」
そう言ったリルシーナの口元は微笑んでいた。
だが、その微笑みは氷のように冷たく、痛々しかった。
「……そんなの、間違ってる」
私は思わず言葉を発していた。
相手が魔界で十年も生き抜いた存在であろうと、言わずにはいられなかった。
リルシーナは、少しだけ目を細めた。
「どうして?」
「だって、あなたが誰にも愛されなかったとしても……それでも、あなた自身を犠牲にする理由にはならない。そんなの悲しすぎる」
その瞬間、彼女の瞳がほんのわずか揺れた。
「悲しい、ね……そんな感情、私にはもうない」
彼女は私から目を逸らして無気力に言った。
そんな様子を見ていると私まで悲しくなる。
「あなたの名前は?」
「クラリス・ネヴィル。……誰にも知られていない孤児です」
「ふふ、それなら私と似ているわね。誰にも知られず、誰にも止められずに、誰にも愛されずにこの場所へ来た私と似ている」
リルシーナの指が私の頬に触れた。
冷たく、しかしどこか切実で、壊れそうな温度。
この人はどれだけの孤独を抱えていたのだろう。
「ねえ、あなたはどうしたい?」
「……どうって?」
「生きたい?死にたい?それとも、誰かの代わりに生きてみたい?」
「…………私はあなたのために生きてみたい」
その言葉にリルシーナは眉をひそめた。
虚ろだった瞳が、ほんの少しだけ光を取り戻す。
「……どうして、そんなことを言うの?」
「あなたがここで十年も……一人で耐えてきたから。誰にも愛されずに、それでも誰かのために死のうとしたなんて、私には……許せない」
私は、震える手で頬にあるリルシーナの手を握った。
その手は冷たく、触れるだけで胸が締めつけられそうだった。
「一緒に、生きてみませんか?私達、きっと生きていい存在なんです」
「……生きてみたい?本当に?」
リルシーナは小さく呟いた。
その声にはまだ疑いが混じっていた。
信じたことのある人間に裏切られた者だけが持つ、慎重で冷たい距離。
ないように見えて、私達の間には分厚い壁がある。
私は頷いた。
「私は、あなたのために生きてみたいって……そう思ったから」
「どうして私なんかのために?」
「理由なんて、なくてもいいじゃないですか。あなたがここでずっと一人でいたって思ったら……それだけで苦しくなったから」
リルシーナは目を大きく見開いて、唇を噛み締めた。
やがて、私の手を乱暴に振り払った。
「ふざけないで!私に同情なんていらない!欲しくもない!これ以上私を惨めにしないで!」
そういうと、リルシーナは走り出した。
リルシーナが走り去ってから、私は一歩も動けなかった。
冷たい瘴気が肌にまとわりつく。
胸の奥にぽっかりと穴が開いたみたいだった。
怖がらせたのかもしれない。
傷をえぐるようなことを言ってしまったのかもしれない。
それでも、言わずにはいられなかった。
「……バカだな、私……」
ぽつりと声に出したその言葉だけが、この静かな魔界に響いた。
涙が出るほど寒い。
でも泣くことすらできなかった。
歩き出すしかない。
何かに出会えるかもしれないし、このまま瘴気に呑まれて死ぬかもしれない。
それでも、私はリルシーナのことを考えながら歩いた。
◇◆◇
どれくらい歩いたのだろう。
世界の色が霞んで見えた。
もう足が重い。
聖剣も今はただの鉄の塊みたいだった。
視界の端で何かが動いた。
灰のような砂の丘の上に赤い何かがちらりと見えた。
「リルシーナ……?」
かすれた声がこぼれる。
ふらつく足で近づいていくと、それは深紅の花だった。
この魔界に花?
私は信じられずにしゃがみ込んで、手を伸ばす。
「その花に触らないほうがいいよ」
声が背後から降ってきた。
振り返るとそこにリルシーナが立っていた。
眉をひそめて警戒したように私を見ている。
「…………もう追いかけてこないで。あなたに何を言われても私の過去は変わらない。人を信じたくない気持ちは変わらない」
「それでも……あなたの今は変えられるかもしれない」
リルシーナの肩がぴくりと揺れた。
「うるさい。あなたに何が分かるの」
「何も分からない。でも、だからこそ知りたい。……あなたのことをちゃんと知りたい」
「……どうしてそんなに、私に構うの?」
「たぶん、私自身がずっと誰にも構ってもらえなかったからだと思う」
その一言に、リルシーナは目を見開いた。
魔界の空気に満ちていた瘴気がすこしだけ薄くなるような気がした。
リルシーナはしばらく黙っていた。
やがて小さく息を吐き、口を開いた。
「この花は先代の生贄達の砂が育てた花。触ると記憶が流れ込んでくるの」
リルシーナは花に触れた。
そして、涙を一筋流した。
「先代達は私達と同じ思いをしていた。だからこそ共感ができて、悲しくなる」
私も試しに花に触ってみる。
――お父様!見捨てないで!
――やめて!お願い!乱暴しないで!
――開けて!開けて!お母様!!
――お前との婚約を破棄する!
――ごめんなさい、ごめんなさい……。
――もう嘘の愛してるなんて聞きたくない!!
私は気がつくと涙を流していた。
こんなことがあっていいのだろうか。
世の中にはこんなに不幸な子がいるのか。
でも、何でリルシーナの記憶があったのだろうか。
リルシーナの体は砂になっていないのに。
「ねぇ、本当に私と一緒にいてくれるの?」
「はい」
「嘘じゃないのよね?」
「はい」
リルシーナは私の首に聖剣を突きつけた。
そして、辛そうな顔をした。
「嘘だったら私はあなたを殺すかも知れないよ。それでも一緒にいると?」
「私に二言はない」
リルシーナの瞳が揺れる。
ずっと一緒にいるなら敬語は堅苦しいよね。
私の意図を察したのか、リルシーナは微笑んだ。
まるで長い長い冬の終わりに、かすかに差し込んだ春の光を見たように、ゆっくりとリルシーナの瞳に光が宿る。
「……馬鹿ね、あなた」
リルシーナは呟いた。
怒っているのではない。
本当に泣きそうな声で、瞳をうるませて言った。
「本当に……本当に馬鹿。こんな場所で私なんかのために生きようとするなんて……」
リルシーナは聖剣を下ろして、その場に膝をついた。
手で顔を覆って小さく泣き始めた。
「十年……十年間ずっと誰も来なかった。当たり前だけどさ……寂しかった。人間界から声が聞こえることもあった。でも、声をかけることもできなかった。関わって、また失うのが怖かったから」
彼女の声が震える。
「私は誰にも期待しないようにしていたの。誰かを想えば、裏切られるだけだから。優しさは、いつも私を苦しめた」
リルシーナの声に、私はただ静かに耳を傾けていた。
泣いているリルシーナに何と声をかければいいのか分からなかった。
リルシーナの肩を支えるように、私はそっとリルシーナの背中に手を当てた。
その時間は静かに過ぎていった。
「……少し、だけ。信じてみてもいい?」
リルシーナが顔を上げたとき、その瞳はほんのわずかに赤く染まり、涙で濡れていた。
けど、さっきまでの冷たい無表情とは違っていた。
私は静かに頷いた。
「もちろん。いくらでも、何度でも信じてくれていいよ」
その言葉に、リルシーナは視線を逸らした。
けれど、今度は逃げるようなそれではなかった。
ただ、どう言葉にしていいかわからないだけ。
そんな、戸惑いの仕草だった。
リルシーナはゆっくりと立ち上がり、空を見上げた。
そこに空があることを私は初めて知った。
「……この場所には、たぶん出口はない。少なくとも、これまで私が探した限りでは」
リルシーナがこちらを見た。
その瞳には諦めきった闇ではなく、ほんのかすかに灯された光の色があった。
「魔物を狩りつつまた探そう。出口を」
リルシーナは優しい顔をして頷いた。
これがリルシーナ・アイズルクの本当の姿か。
* * *
愛を知らない少女は、愛を教えてくれる存在に会い、愛を求めていた頃のように人を信じるようになった。
しかし、彼女は知らなかった。
新しい生贄が来てから二年経ったときに必ず起こる事象を。
不思議なことに自分の時には起こらなかったから、知らないのも無理ない。
自分を愛してくれる存在に会えたことは幸いだった。
何が起こるかを想定していなかったリルシーナは後に絶望することになる。
* * *
――二年後
本当におかしな子だ。
二年前、この魔界に来た女の子。
私よりも年下なのにこの世界に来て、泣き喚くこともなく私と一緒に生きたいというなんて。
私は何度も泣いて喚いた。
誰にもこの声が届くことがないと知っていたのに。
私はクラリスの寝顔を見つめながら、その頬に触れた。
温かい熱を持って、柔らかく、しっかりとそこに生きている命。
もう一度生きた人間に触れるなんて、思ってもみなかった。
『……本当に、生きていていいって思ってるの?私なんかと一緒に?この子を地獄に引き込むだけじゃないの?』
自問のような、呪いの言葉が頭に響く。
これは二年前からずっと私の頭に響いてくる私の声。
私も思ったよ。
何度も手を振り払った。
それでもクラリスは、何度も同じことを言ってくれた。
――…………私はあなたのために生きてみたい。
――私に二言はありませんよ。
それは、生きてきた中で誰からも与えられなかった温かさ。
「ありがとう、私に愛をくれて」
遠くから魔物の足音が聞こえて、私は聖剣を持って立ち上がった。
「……え?」
魔物の大群が人間界の入口に向かってきていた。
かなり遠くにいるけど、魔界は静かだから足音がよく聞こえる。
なにこれ……。
知らない。
こんなの……。
今までなかった。
どうすればいいか迷っていると、クラリスが目を覚ました。
「リルシーナ……?」
クラリスは目をこすりながら体を起こした。
そして、人間界に向かう魔物を見て息を呑んだ。
「何あれ!戦わないと!」
私は聖剣を持って駆け出そうとするクラリスの手を掴んだ。
クラリスは戸惑ったような顔をした。
「に、逃げよう。あんなの対処できない……」
「リルシーナ……?分かってるの?魔物は向こう側の、人間界に行こうとしてるんだよ?」
「分かってる……でも……」
『助ける価値があるの?私を見捨て、私を求めなかったあいつらを。魔物に食われて死ねばいいじゃない』
頭に呪のように響く私の声。
これは何?
私は頭を抑えた。
『分かってるはず。こんなところでずっとあいつらを守るために魔物と戦ってても、私は愛されない』
「リルシーナ?」
そんなことない。
だって、私はナタリーのために命を投げ出したんだよ?
死を覚悟でここに来たんだよ?
なのに、どうして私は愛されないの?
「リルシーナ!!」
『分かってるはず。あなたはどこに行こうと愛されない。それが普通の生き物。思い出して。誰もあなたを愛したことなどなかったじゃない』
「……っ!!」
頭に響く声はいつも私を否定する。
辛い思い出を掘り起こしてくる。
――あなたが生贄になればいいんだわ!みんなそれを望んでるわ!
昔は優しかったお母様。
礼儀作法には人一倍厳しく、優しかったお母様。
――リルシーナは王太子の婚約者だ。いずれ王太子妃になるのだから、代用品としては使えん。
昔から無愛想で、あまり会話はしなかったお父様。
だけど、少なからず私のことを想ってくれていると思っていた。
でも、結局は私を使い勝手のいいコマとしか見ていなかった。
――お姉様が生贄になればいいのよ!!私はみんなから愛されているの!誰からも愛されないお姉様が生贄になってよ!!
誰からも愛された妹。
可愛らしい容姿に人を引き付ける甘え上手。
私とは真逆の子。
――誰からも愛されない君がこの世にいるより、誰からも愛されるナタリーが残ったほうがいいと思わないか?
唯一の私の心の支えだった殿下。
最初は一方的な好意で婚約したに過ぎなかった。
不器用でも私を愛してくれる彼に、惹かれていたのに、彼はナタリーを選んだ。
結局私は誰からも求められない。
無意味なことはやめよう。
人間界の人を守る義理なんてはない。
私を見殺しにした奴らだ。
守る必要なんてない。
「リルシーナ!!」
クラリスの私の名を呼ぶ声が、空気を震わせた。
「どうしたの!?リルシーナ……ねえ、顔が真っ青だよ?」
私は必死に頭を振った。
胸の奥から何か黒い塊が這い上がってくるような、そんな感覚がした。
『分かってるはず。人を守っても、何も変わらない。結局、誰もあなたを――』
「うるさい……」
いつもはこんなにしつこくないのに。
どうして今日はこんなに聞こえてくるの?
『このままクラリスも裏切るかもよ?あなたを唯一愛した存在さえ、いずれ自分の手で殺してしまうかもしれない』
「うるさいって言ってるでしょ!!」
私は我を忘れて叫んでいた。
砂が舞い上がり、空気が震え、私の叫びに反応するように瘴気が揺らいだ。
クラリスは驚いたように身をすくめた。
「リルシーナ……?」
クラリスの声が遠くから響いてくる。
彼女の表情は心から心配している顔だった。
本気で私のことを案じてくれている。
そんな顔だった。
だけど、その顔すらもう信じられなかった。
「やめて……やめてよ……そんな顔しないでよ……!」
私は後ずさった。
胸が焼けるように痛かった。
頭が割れそうになる。
「リルシーナ!」
クラリス、どうしてそんな顔してるの?
分からないや。
「リルシーナ!!」
みなさんこんにちは春咲菜花です!さて、第二幕が投稿できました!!まさかのリルシーナ生きてました!結構闇落ちしてます!でも二年持ちました!でもまた闇落ち寸前です!さて次回はどうなるのでしょうか!文字数がとんでもなく多いことを私は書きながら気づきました。大丈夫ですかね、この量。大丈夫であることを願います!さて、第三幕はいつ投稿かといいますと、7月22日予定です!皆さんぜひ御覧ください!!




