第九十八話
なんの脈絡もない言葉に、二対の瞳がリンドウに向いた。
彼はバラに支えられて立ち上がり、同時に妻の体を片腕に抱きながら、真っ直ぐにこちらを見つめている。
「僕らの知らない所で、勝手に娘を取り上げていく」
不可解な言葉にラジレイシアが眉を寄せるが、バラの嫌悪を顕わにした表情に言葉を飲み込んだ。
「……っ結局、ベルジャミン王家は、僕らの知らない所で、好き勝手に決めて、僕らの娘を奪っていくんだ……! 僕らは何も言わない。僕らは何も見ない。そうしなければ、娘の傍にも居られないことを知っているのに!」
ラジレイシアは思わず、隣にいるキリノスを見た。
彼は絶望したように目を見開いて、再び違うと、吐くように言葉を溢す。
「貴方が護ろうとした決意を、無碍にするつもりはありません。でも、っでも、僕とバラには、あなたを責める資格があるはずだ、ラバル第三王子殿下!」
「違う! 本当に、こんな事になるなんて、思ってもみなかったんだ!」
反射的に叫んだキリノスに、ラジレイシアは一歩、後退した。
「違う、違う、ラジー……俺の傍から離れないで、……ごめん、本当にごめん。……ごめん……」
「…………何に対して、謝って……?」
嫌な予感がするのに、問わずにはいられなかった。憤るリンドウや、無表情に見つめるバラから、キリノスに対する敵意しか見受けられない。
一体何がどうなっているのか、知らねばと思うほど、キリノスから足が遠ざかっていく。
呻くような謝罪を繰り返すキリノスに、片腕を伸ばしかけたラジレイシアを、バラの腕が掴んだ。驚いて振り返れば、いつの間にか近くに来ていたバラが、姉姫を守るように腕を引いて誘導する。
「バラ? ど、どうされましたの、兄上さまに、何が」
困惑を隠せず問うても、侍女長は首を振って黙したままだ。
「っ待ってくれ、バラ! 俺は本当に、ネリカをこんな目に合わせるつもりは……っ!」
巧みにドレスを捌かれて、歩かされるラジレイシアとバラに、キリノスが反応する。しかし目の前に立ち塞がったリンドウの背で、二人の姿は見えなくなった。
ラジレイシアが言葉を返す前に、バラが扉を押し上げて廊下に踏み出す。
「お、お待ちなさい、バラ! リンドウ! 一体何事ですの、どうして、……っ話を」
懸命に引き留めようとしても、リンドウもバラも、ラジレイシアには一瞥もくれない。それが逆に、彼らの逆鱗に触れていることを表していて、ラジレイシアは肩越しに振り返った。
視界から兄の姿を消すように、扉は重い音を立てて閉ざされる。
向こう側では悲痛な叫び声が、聞こえたような──気がした。
▽ ▽ ▽
リュグザの自室で扉の前に立ち、フィーガスはぼんやりと視界を揺らす。
傷は塞がったものの出血量が多く、今も尚、貧血気味で視界が不明瞭になっている。白馬の状態で床に顔を伏せると、着替えを終えたリュグザが静かに近寄った。
「フィーガス、大事ないか」
「……ああ、……兄様も、傷は?」
「俺は『騎士』としての能力があるので、問題ありません。……まぁ、頭の痛い問題ばかり、ですが」
ラジレイシアと別れてから、シガリアの身柄は特別国賓室に押し込めた。
あそこであれば、外部からの接触も少なく、またラジレイシアとも連携をとりやすい。シスボイリー王を、理由をつけて言いくるめるのは苦労したが、ひとまずは余計な反乱はないだろう。
大国王との謁見を終え、そのまま大広間に戻ろうとしたリュグザに、フィーガスは慌てて着替えを推奨し、部屋まで着いてきていた。
衣類を血で汚したまま、素知らぬ顔で戻ろうとするあたり、兄も動揺しているのだろう。すでに塞がっているが、彼の皮膚には裂傷が走っていたのだ。
フィーガスの実兄はそもそも、城ほどもある体躯の持ち主だった。強大な魂に対し、あまりに人間の器は小さすぎる。感情が昂るほど、小さな器はそれを受け止めきれない。
身なりが整ったリュグザは、フィーガスの首に装着された馬具に手を伸ばし、小さく輝く透明な鉱物を取り外した。
「お前も新たな馬具にしましょう。いやはや、予備を作っていて正解でした」
「……」
あえて普段通り振る舞う兄に、フィーガスは沈黙を返す。
シガリアを前に、自身の振る舞いは正しかったのだろうか。
不意に自問するも答えが出ることはなく、細い呼吸音が口の端から漏れた。
「……兄様」
「なんです?」
「…………彼女は、シガリアなのだろうか?」
「いや」
疑問を切って捨てるリュグザに、緩慢な動作で顔を上げた。
「あれは我々の養母ではありません。養母の形をした異形ですよ。我が君の精神を脅かす、醜悪な異形だ」
「ライネリカは……」
「我が君をお救いする手立ては、今の所ありません。ですが、悲観し立ち止まっていては、お救いできる命もないでしょう」
細まる金目が、フィーガスを真っ直ぐに見下ろしている。
そこに浮かぶ激しい感情の渦が、肌を刺すように伝わってくるようだった。
「彼女が何者であっても、その体は我が君のものです」
「…………ああ」
「しっかりしろ、フィーガス。義姉様は、我が君を脅かす全ての事柄に容赦がない。アレはシガリアではないし、躊躇いも大きいだろうが、手を離して悩む時間をくれるほど、義姉様は悠長でも、寛大でもありませんよ」
激昂したアスターの表情が脳裏を掠める。
リュグザの言わんとする忠告を心に留め、フィーガスは痛む体に鞭打ち立ち上がった。




