第九十九話
リュグザが有事の際にと、用意していた予備の馬具は、従来のものより簡易的だ。
それにシガリアの生きている鉱石を埋め込み、強度を補強してから身につける。
特注仕様の馬具は、金銭的に余裕のあるシスボイリー国でも、痛手となるほど高額だ。あまり不用意な力の解放は止めるよう、リュグザに念を押されつつ、全身を刺すような痛みに呻きながら、フィーガスは突風を纏って人型に変わった。
シガリアの様子を確認するため、特別国賓室がある区画に足を踏み入れる。
そこではエイロス国の侍女や、シスボイリー国の衛兵たちが、荷物を運び入れている最中だった。
視線を巡らせれば、廊下の壁際にシガリアが佇んでいる。彼女の側には誰も居なく、皆、どこか恐怖に怯えた表情を見せていた。時折、指示を仰ぐために話しかけるも、早々と頭を下げて彼女の側から離れていく。
彼らが運んでいるのは、ここ数日、アスターの自室にあった荷物だ。
フィーガスは以前、義姉から自慢げに、ライネリカの為に用意したという、新品のドレスを見せられたことがある。しかし今現在それらは、一着も特別国賓室に届けられてはいなかった。
「……レディ」
ライネリカと呼ぶのは躊躇われ、悩みながら声をかける。
シガリアは無表情のまま顔を向け、片手を腹に当てて腰を折った。それはまさしく臣下の礼で、息をついて頭を上げさせる。
「少し話がある。来てくれないか」
「……左様で」
冷え切った言葉尻には、なんの感情も浮かんでいない。
リュグザは事後処理も兼ねて祝賀会場に戻り、フィーガスだけがシガリアの隣に並んで歩き出す。周囲から人の気配が遠のいた後、シガリアが先に口を開いた。
「……わたしに何を求めようと?」
立ち止まれば、彼女も一歩先で振り返る。
「求めるよりまずは確認したい。君には、ライネリカの記憶は残っているのか」
「いいえ」
「……なら、その前提で話そう。君に求めるのは、明後日開催されるガーデンパーティで、ラジレイシア嬢の指示を受けて欲しいことだ」
今の自分たちの状況をかいつまんで伝えれば、彼女は暫し黙した後、そのまま頷いた。
「仰せの通りに」
疑問を持つ暇すら惜しいのか、シガリアは肯定して口を閉ざす。
再度の沈黙が二人を包み、フィーガスは表情を歪め、婚約者と同じ顔の女を見つめた。
シガリアと意思疎通が出来るなど、思ってもいなかった。
いざ目の前にすると、聞きたいことも知りたいことも、声帯を塞いで沈黙してしまう。リュグザの言う通りフィーガス自身も、彼女をシガリアではないと思っているからなのだろうか。
不意に視線を逸らした彼女は、窓から見える庭園の灯りを見つめ、目を細める。
「……フィーガス。あなたもリュクサオルも、変わりましたね」
「…………ああ」
「あなたもいつの間に、姿を変化させる事ができるようになったのでしょう」
「……必要に迫られた、からな」
「そうですか。ですが、子の成長とは、そういうものなのですね。……この狭苦しい魂の器から、本来の姿に戻ったら、共に国へ帰りましょう」
微かに、シガリアの目元が緩んだ。
哀愁すら感じさせる言葉に、フィーガスは目を見開いた後、奥歯を噛み締めて首を振る。
「……っ君とは、帰れない」
「……? なぜ?」
シガリアにとっては予想外の言葉だったのか、彼女は心底不思議そうに目を瞬かせた。
「また、共に空を飛びましょう。あのわたしの出来損ないにはさんざん言われましたが、わたしたちの関係は、本来、そういうものではなかったのですか。どうしたのですか、フィーガス」
「っどうしたは、こちらの台詞だ。なぜ君こそ、そんな事を言う? 君は自分がどうなっているか、分かっているのか?」
分かりたくないのは、お互い様なのかもしれない。
それでもフィーガスは、自分が慈しみたいと願った一人の少女を蔑ろにすることは、もうできなかった。
シガリアの生を望むということは、ライネリカの死を受け入れるということだ。
初めてライネリカに出会った時より、自らの感情は変化しても、ライネリカの死だけは一貫して容認出来ない。
「わたしが、どう……、……いえ、わたしは、ただ」
「君の体がどうなっているか、君自身は、ちゃんと分かっているのではないのか」
糾弾じみた声音で責めるフィーガスに、彼女は大きく目を見開いた。細い片足を一歩、己を守るように身を引いて、シガリアは唇を戦慄かせる。
目線が左右に振れた。動揺を表す仕草は、フィーガスの指摘が正しいことを、物語っているのだろう。後退する彼女を逃さぬよう、一歩踏み出して距離を詰めれば、シガリアは短く声を上げて、更に後ろへ下がった。
「……違う、……違います。わたしは今も、あなた達と、飛べますから」
「君がどのような状態で、生きながらえてきたか。兄様と僕は死に物狂いで調べてきた。今の君は、以前の君ではない。そして君の実態は、主君である僕らの落ち度だ」
シガリアは今までにないほど、泣きそうに表情を崩す。それでもフィーガスから目を逸らさないのは、未だ気高い異国の血が残っていることを、彷彿とさせる。
言葉が鋭利な刃物になるのなら、今、お互いの心を深く傷つけている。
それでもフィーガスは刃物を振り下ろすことを、止めるわけにはいかなかった。
「君を殺すために、僕らはここまで追いかけてきた。……養母様。あの日死んだ僕らは、もう、元に戻ることは出来ないんだ」




